生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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短文練習

 
 短文。
 練習しなきゃ……。

 でも、これで終わりじゃぁ、短か過ぎ……。
 理由や意味こそが大事だったりするわけだから。

 理由と言えば……。
 夏場は、生存維持のための野良仕事優先だからでもある。
 夏場に野良仕事を優先するから、雪に埋もれる冬場を有効に使うこともできる。
 こんな理由でも、有ると、すいぶん違う。

 日常会話上でも、根拠や理由が乏しかったり因果関係に無理や矛盾があると、理解できないし納得もできない。
 だからこそ、不明な部分などは、尋ねたり確かめたりもするし、調べたりさえするわけだから。


 そもそも、日常でも、繰り返し接することほど、確かな事実を憶えるし詳しくも憶えられるだけに、相応に確かな識別や判断も可能になるし、より適切な対応や対処も可能になるので、失敗や損は減少し、着実に好結果をだせるようになるからにほかならない。
 だからこそ、必要なら、観察もするし確かめもするし繰り返し試したり練習さえする。そうするほど、より確かで詳しい情報を得ることができる。
 より具体的な事実や根拠や理由があるほど、より具体的な識別や思考が可能になり、事実関係や因果関係が理に適っているほど具体的に理解できるし納得もできる。
 より確かで詳細な知識を得るほど、細部の可否や是非の判断なども可能になり、より適切な対応や対処が可能になるので、失敗や損は減少するし、むしろ不具合の修正も可能なので、より確実に好結果にすることが可能になる。

 つまり、人為的に好結果にするには、相応の基本的な情報処理方法が存在する。それは、備わっている知能の本質や能力に基づいた法則と言っても過言ではない。


 道順を教えてもらった場合、その内容は、無事に目的地に到達できるか否かを左右する。
 教えてもらった道順に問題があった場合は、目的地に到達できないどころか、道に迷ってしまう。
 そんな場合でも、好結果に通ずる基本的な情報処理方法が確立されていれば、現地で不明な情報を尋ねたり確認したりしてでも目的地に到達できる。

 繰り返し行くほど、簡単に行けるようになるし、道順を教えることもできるようになるし、より詳しく教えられるようになる。

 雄猫も、しだいに遠くまで行くようになり、現在地からは全く見えない所へも出かけるようになるが、ちゃんと帰ってくる。

 確かなことを憶えることができ詳しく憶えることもできるだけに、上達もするし、熟練もする。

 自動車の運転などは、運転技術だけではなく交通ルールも知っている必要があるだけに、未熟なほど事故も起こしがちなので、安全運転上は最低限の知識や技術を習得する必要がある。
 だからこそ、教習所や学校なども設けられ、そこに通ってまで習得するわけだし、試験や免許まである。
 上達もするし熟練もするからにほかならない。


 ちなみに、詐欺などの場合は……。
 事実ではないことを、いかに尤もらしく本当らしく優れたことであるかのように見せかけることができるか否か次第で、巧く騙し欺けるか否かが決まるはずだが……。
 基本的な情報処理が存在するからにほかならない。それが前提になるからこそ、事実ではないことをいかに尤もらしく本当らしく優れたことであるかのように見せかけることが必要になる。
 もちろん、好結果に通ずる基本的な情報処理方法が確立されている場合は、騙されることは少ないことになる。


 でも、かつての自分は、好結果に通ずる基本的な情報処理方法が存在することをすら知らなかった。
 確かめることを疎かにし、想像を頼ることに少なくとも慣れ過ぎていわけだが、そうであること気づくこともできず違和感を感じることもなかった。
 確かめることを疎かにして、安易に想像を頼る情報処理も、慣れるし上達するし熟練する。そんなことも、かつては知る由がなかった。
 確かめることを疎かにして、安易に想像を頼るがゆえに、根拠も理由も無いがゆえの勘違いや思い込みもしがちだった。もちろん、そういう性質であることも知らなかった。
 むしろ、そういうことを知らなかったからこそ、葛藤を余儀なくされ、解決できなかったどころか困窮した。
 いわば、好結果に通ずる基本的な情報処理方法が未確立だったがゆえに、人生の道に迷った。

 その事実関係を確認しはじめ、再確認を繰り返すようになったことによって、生理面や知能などの普遍的なことに気づき知り、思いや考えの無理や矛盾を具体的に解明できたことで、解決した。
 具体的に解明できたことによって解決しただけに、同じことには二度と陥ることは無い、仮に陥ったとしても容易に抜け出せる、そう確信するまでに至った。
 そのあたりまでは、前回まで投稿した、カテゴリ : ◆無知の悟 「俺は、病気じゃない、異常でもない」の内容でもある。

 その経験上から、その後に、基本的な情報処理方法の健全性が重要なんだと思うようになった。
 つまり、困窮の理由を解明して決をしただけに、基本的な情報処理方法もほぼ確立されていたと考えられる。
 ただし、基本的な情報処理方法に関することを、まだ具体的に理解することだけはできていない状態だったことになる。


 その後に、基本的な情報処理方法に関することは具体的に理解するわけだが……。

 分かってみると、基本的な情報処理は、日常的にもやっていることだった。なのに、そうであることを未理解だったことになる。
 しかも、小学生の頃には、誰でも、記憶にあることや気持ちや考えなどの内面を文章化して話せるようになり、理解したり納得したりもし、根拠や理由に基づいた考え方や判断をするようになるわけであり、基本的な情報処理方法は小学生の頃には完成していたことになる。
 もちろん、具体的に理解できる準備まで整っていたことになる。なのに、理解はできていなかったことになる。

 やがて、未理解だったからこそ葛藤し、未理解だったからこそ解決できず、むしろ困窮した。が、当時は、そうであることをすら把握できなかった。
 その解明をすべく、確認しはじめ、再確認を繰り返したことで、普遍的な存在である生理面や知能に気づき知り、思いや考えや記憶などの無理や矛盾を解明できた。

 それらのことを基に、次のことが分かった。
 つまり、日常的に行っていたことであっても、未理解なことばかりだった。
 確認して、事実関係に基づいた整理をしたことは、相応に具体的に理解することもでき、相応のことが記憶にも残る。だから、随時確認できるようになり、再確認も容易になる。再確認を繰り返すほど詳しくもなり、更に理解を深めることも容易になった。
 そういう性質上、日常的に直に経験し続けている自身のことであっても、未確認だったり未整理なことは未理解な状態にある。
 まさに、自分のことだけに、確かめたことも考えたことも無かったことは、未理解だった。
 誰でも、生後に理解できるようになる。
 ここまで理解できたことによって、自分のことを具体的に理解できているか否かを左右する理由が分かった。
 これで、自分の基本的な情報処理方法が確立された。
 つまり、相応の精神面の自己管理が可能になった。


 個人的にも、具体的に文章化するほど、記憶にあることも整理され、理解でき納得もでき、更に具体的に理解を深めることに通ずる。

 まして、誰かに理解して欲しいとなると、少なくとも誤解されることを避けたいと思う。
 それだけ、長文になる。


 そもそも、書く意味も理由も無い場合は書こうとも思わないわけだから……。


 それどころか、何も考えない状態にもなれる。
 一時的にではあるが、いわば精神面がリセットされた状態になる。
 これも、何かを理解したり納得することと大差ないくらい大事なことだと考えられるのだが……。

 何かをすることというよりは、何も考えない状態になるだけに、文章にするようなこと自体も無くなる。
 記事にする意味や理由が無いわけではないのだが、これは、文書化することが難しい。

 何も考えない状態に至るまでの準備や行程などは書ける。
 例えば、日常的には集中的な識別や思考の練習をしているようなものだ。それを、一切止めることに相当する。
 そもそも、何も考えない状態になることだけに、考え方次第では極めて容易なことだ。
 が、未経験な場合は、練習が必要だ……。
 また、未経験だと、想像上で、難しいことだと思ったりする。それこそ勘違いや思い込みや先入観などの類でしかないので、そういうものを覆すことでもある。
 いわば、何も考えない状態とはどういうことかを、単に体験するだけだ。
 なので、体験後でも、文書化することは難しい。
 が、自律と学習の区別も容易になるので、意義もあるのだが……。


 もう、止め。
 夏場だけでも、短文の練習をしよう。

 もともと、夏場は、生存維持のための野良仕事優先なんだから。
 大地に足を踏ん張った生き方の方が精神的にも安定している。

 しかも、昨年、趣味の写真を再開した。
 野良仕事優先上、撮影は、撮影条件に恵まれた朝夕だけだが、昨年は安易な想像や独断を頼ったばっかりに、めったに見ることができない素晴らしい夕焼けの撮影を逃してしまった。
 あ、新緑、もう一回は、今のうちに撮っておきたいよな……。



2017-新緑


 
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応援アクセスありがとうございます

 
 2016年は、たくさんの応援アクセスをいただきまして、ありがとうございました。
 ニャンちゃん・ワンちゃん・写真・文章・etc。
 純真さや若さや元気や、たくさんの好刺激をいただきました。

 好刺激をくださった皆様の、新年のご健勝と進展と発展と繁栄をご祈念申し上げます。


 FC2ブログの性質上、応援アクセスのみでも大歓迎です。
 こちらからも、可能な限り、お礼の応援のアクセスをさせていただきます。ただし、kisuke(喜助)の一存とし、アクセス解析にカウントされたアクセスを優先します。

 kisuke(喜助)も、老化に負けずに、むしろ新たな芽をだすことや育つことを目指します。


 当ブログの趣旨上、例年通り年賀は失礼し、予定しているテーマへの取り組みを開始します。


 ちなみに……
 備わっている知能の構成要素や学習能力や相応の行動が可能になることなどの基本的なことも、人も猫や犬たちも共通だと考えられます。

 人も、誕生当初の子供に、言葉で話して教えることはできません。
 つまり、子ども自身が、気づき、知り、関係などを把握し、相応のことができるようになり、本人の練習に相応した分は上達するのだと考えられます。
 もちろん、大人が教えようが無いことも憶え、大人が憶えて欲しくないと思うことも憶えます。
 そうであることは、大人になってから自分の精神面に関して考えてみると実によく分かります。

 猫や犬たちも、誕生当時はできなかったことが、やがてできるようになるわけですから、基本的には同じだと考えられます。
 猫や犬たちも、環境上のことも自身のことも経験し、感情や気持ちや考えもあるからこそ、相応の学習もするだろうし、相応の行動をするようにもなる。
 猫同士も識別しているし、人を識別しているし、家族が乗っているバイクの音なども識別しているし、いろんなことを識別するようになるわけだから、少なくとも記憶を参考にしていることになる。
 もちろん、相応の感情や気持ちもあるからこそ、相応の振る舞いをする。
 食事のたびに食器を叩いて音を出し、毎回、繰り返すと、その音だけで寄ってくるようになる。
 食事のたびに毎回「ごはんだよ」と言うと、「ごはんだよ」というと反応するようになる。
 ただ、猫や犬たちは生理的な相違があり、言葉を話せるようにはならない。
 でも、猫が「ニャー」と言うたびに、人が返事をすることはできる。それを繰り返していると、猫は人に何かをしてほしいときに人に対して「ニャー」と言うようになる。
 そうしているうちに、猫も返事をするようになる。
 つまり、人が呼び掛けたんだということを、猫は分かったと言う代わりに「ニャー」と返事するようになる。
 つまり、尻尾をピーンと立てたり、喉をゴロゴロ鳴らしたり、そっと寄りかかったり、身体のどかかで触っていたりもするわけだから、言葉は話せないが感情や気持ちを表しているし伝えようとさえしているし、人が何かをしてくれるのを待っていたりもする。
 言葉を話せないから、そこまでしている。なのに、そうであることを人が見抜けないと、人の側が猫や犬の気持ちを受け取れていないことになる。
 振る舞いから、その感情や気持ちや考えを、人の側で察することができるようになるほど、言葉は話せないからこそ猫や犬たちなりの意思疎通をしていることを捉えることも可能になる。
 よって、人が的確に応えてあげられるようにもなる。
 そうなると、猫や犬側からの意思疎通が目に見えるほど育ちます。
 言葉で教えることはできなくても、猫や犬がどういうことをしたら、人がどういう反応(振る舞い)をするか、そういうことは憶えさせることができるからです。

 さまざまな癒しがありますが、目にも見えない気持ちが、言葉無しでも通じることは、むしろ救いです。

 人の社会では、生存上重要ではないことを尤もらしく見せかけて目を奪い、競い争って優れているかのように見せかけてまで心を奪い、洗脳まがいのことをして翻弄し、私利私欲を貪る。
 そんなことが、すっかり蔓延している現代だからでしょうか。


 もちろん、経験や学習や理解などの性質上、個人が憶える内容は年々変化し、上達や精通することは限られます。
 そんな性質上、好みや価値観も、個人毎に千差万別になります。
 ニュースでは、戦争は無くならないし、殺人や犯罪も無くならず、勝者は褒賞されるだけに争い競うことも無くならない。
 でも、競い争うことを嫌うことも許されている。
 大自然に親しむことも可能だ。
 動物と仲良くすることも許されている。
 動物とでさえ信頼し合い尊重し合うことを追及することも誰にでも解放されています。
 要は、自分の気持ちや考え方しだいなのです。

 もちろん、「生きていることはどういうことか」となると、全生物に共通することが多く、生存を左右するほど重要なことでもあります。
 そんなことに通ずる、本質的なことの探求に、新年は臨みます。

 写真も、目には見えないものを写すことにトライします。

 新年も、ご愛顧くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 
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「悟り」とは 2016/12/27


 惑い、迷いもし、考えに無理や矛盾をさえ感じ、己の未熟さを知る。
 そんなときは、他者との関わりを離れ、自分の心を文章化することで整理する。
 今回は「悟り」をテーマにして行ってみた。いまだに、納得するには至っていないことだからでもある。でも、やる都度、理解が深まるからでもある。その遥か彼方に、大願はある。
 ところが、24日、親戚から訃報が届いた。25日火葬、26日通夜、27日埋葬。
 ブログ更新の予定内に、当記事を書上げることは無理になった。
 でも、「悟り」ということでは、もともと完成は無理だ。
 というわけで、当記事は未完のまま投稿し、後日、理解が深まる都度に書き込んで完成度を上げてゆく記事とする。


目 次 (◆大見出しはファイル内の本文へのリンクです)


「悟り」って、どういうことだろう?
「悟り」をWeb検索をすると、次のようなこともヒットする。
 感じること・気づくこと・知ること・理解すること・納得すること、等々。
 でも、これらも、説明は不十分だ。
 この程度では、「悟り」とはどういうことかを具体的に理解することはできない。よって、納得もできない。もちろん、「悟り」とはどういうことかを悟った状態には至れない。
 相応の思考力や理解力や判断力を日常的に発揮して、相応の行動や生活をしているわけだから。
 つまり、相応の知能が備わっているからこそ、「感じ」「気づき」「知り」「理解し」「納得する」。



 知能の構成要素や基本的な能力は、共通だ。
 感じなかったり気づかないこととは無関係に近い状態にある。
 本人が、「感じ」たり「気づく」ことから、その対象との関係や展開が始まる。
 気づいただけでは、曖昧なこともあり、適切な判断はできなかったりする。
 不明な部分は知ろうとし確かめもし調べるなどして、「知る」
 あるていど「知る」からこそ、必要性や価値も明らかになる。
 価値判断しだいでは、更に具体的に「理解する」努力もする。
 根拠や理由などを具体的に「理解できた」からこそ、「納得する」
 基本的には、知能が備わっていて、本人は直に経験し続け、記憶を参考にした識別や思考などの情報処理を学習し、観察し確かめ試したことは上達し、日常的に繰り返し実用する基本的なことは条件反射的な速さでできるほど熟練する。
 よって、「感じる」こと、「気づく」こと、「知る」こと、「理解する」こと、「納得する」こと、いずれも「悟り」なのだと考えられる。

 ただし、「感じる」、「気づく」、「知る」、「理解する」、「納得する」、これらは、情報処理の各行程や展開でしかない。
 この情報処理上で、どういうことを理解し納得し「悟る」か、それは別問題だということになる。


 知能も、目には見えない。
 でも、各感覚器官や意識や記憶力などで構成されていることは、誰でも直に経験し続ける。
 気になることを意識する。相応の印象が記憶に残る。
 記憶に残っていることは、何時でも思い出すことができ考えることもできる。
 つまり、知らなかったことを憶え、随意にはできなかったことを随意にできるようになる。
 相手が話すことを、自分の記憶にあることを参考に識別し思考し理解して、それに対する自分の気持ちや考えなどを文章化して応答できるようになる。
 よって、自分の実力を超えた協力をしてもらえるので、上達し、記憶を参考にするだけに条件反射的な速さでできるほど熟練する。
 これらは、自分で記憶を参考に考え、整理をして理解し、相応の気持ちや考えを文章化して話せることだから、具体的に理解することも可能だ。
 しかも、経験や記憶を基に理解できることなので、何時でも理解でき、何処でも理解できることでもあり、学歴や資格や資金などは必要ないことであり、精通できるほどの条件が整っている。
 むしろ、本人が理解することが重要なことだけに、売っていないし、お金では買えないことでもある。
 言い換えると、誰でも精通できるだけの条件が整っていることことでもある。

 もちろん、普遍的なことに基づいた法則的なことであり、誰にも共通することだけに、理解し合うことも可能だ。
 約束やルールなども目には見えないが、理解し合えるからこそ守ることもできる。それが、信用や信頼や恋愛感情や尊敬や尊重を左右さえする。


 自分が記憶を参考に識別や思考や予想や価値判断などを行っているとはいえ、頭の中で行っていることだけに、目には見えない。
 つまり、記憶を整理して理解する必要があり、理解するほどに明らかになることである。
 よって、そうしなかった場合は、理解しそびれることもあり、未理解な場合は重視するとも限らない。


 もちろん、詐欺も無くならない。
 むしろ、情報処理能力の理解や重視を阻止するかのように、それ以外のことを尤もらしく見せかけ、優れたことであるかのように競い争って見せもし、褒めたり脅したりさえする。

 結局、誰にも共通で重要なことを理解できず、理解し合うこともできない。
 となると、見た目を基に判断しがちになり、見映えや、見た目の優劣を気にする。つまり、想像しているに過ぎないのに、そうだと勘違いし、やがて思い込みもする。
 しかも、上辺だけでは、騙し欺く類でしかない。
 知られれば困り、認め難いからこそ、不都合なことは隠し偽り、尤もらしく見せかける悪循環に陥り、優れたことであるかのように競い争ってまでみせ、褒め脅し、自分がされて嫌だったことを仕返す。
 ついには、暴力的に相手の口封じをして片付ける。
 つまり、事実関係を理解することや改善することを困難にすることに固執する。
 そんな悪循環の世界に迷い込んでしまったりもする。


 でも、目には見えない意味や理由や法則などにも、「気づき」、「知り」、「理解し」、「納得する」などの基本的なことは日常的に行って行動し生活している。
 約束やルールなども目には見えないが、理解し合えるからこそ守ることもできる。それが、信用や信頼や恋愛感情や尊敬や尊重を左右さえする。

 つまり、感じ気づき知り理解し納得できる情報処理自体が、健康的に機能していることが重要なのだ。
 そのためには、情報処理自体に関することを理解し納得するていどは知能を発揮していることが重要なのだということになる。


 それを重視するようになったからこそ、その浄化もし続け、むしろ目を奪い心を奪うようなことには、かなり惑わされなくなった。


 情報処理自体の浄化や、いわば情報処理自体の健康管理ができるほど、目には見えないものごとが観えてくる。

 もちろん、まだまだ未熟なのだということも観えてくる。
 いわば、他界へのルートとか、他界への扉に相当するものも、まだ観えていないわけだから。





背景画像より





◆知能が備わっているからこそ



「悟り」って、どういうことだろう?

「悟り」をWeb検索をすると……。
 感じること・気づくこと・知ること・理解すること・納得すること、等々たくさんヒットする。
 自分の考えを自分で整理する都合上、自分も「そういうことだろう」と思うことを選んだ。
 言うまでもなく、違う方へ迷い込んでしまいそうな記事は避けた。

 でも、これらも、説明は不十分だ。
 この程度では、「悟り」とはどういうことかを具体的に理解することはできない。よって、納得もできない。
 もちろん、「悟り」とはどういうことかを悟った状態には至れない。

 相応の思考力や理解力や判断力を日常的に発揮して、相応の行動や生活をしているわけだから。
 つまり、相応の知能が備わっているからこそ、「感じ」「気づき」「知り」「理解し」「納得する」。


 猫も、現在地からは見えない目的地に向かうが、小急ぎに行きもし駆けても行くし近道もするし帰っても来る。
 つまり、相応の感情や気持ちや考えがあるからおそであり、記憶を参考に識別や分別をしているからこそできることでもある。

 山間地にある当畑までは、車では3キロ以上(直線距離でも1キロ以上)あり、その間に川があり高速道路もある。
 その畑に毎日のように通うので、幾度も、夏の間はその畑で猫を飼い、冬になる前に車に乗せて家に連れて帰る。
 ところが、翌春、その畑まで自分で行った雄猫がいて、人よりも先に家に帰っていた。
 その後にも、同じ行動をした雄猫が2匹いた。

 猫は、言葉で尋ねることはできないので、独自に識別し判断して行動する。
 人も独自に行動するが、現地で尋ねたりするだけ、容易に到達できる。
 しかも、繰り返し行くほど、記憶は確かになり、それを参考にした識別も的確になり、容易に到達できるようになる。よって、現地に行かなくても、記憶にある道順を言葉で教えることも可能になる。
 更に、距離的な最短ルートを探したり、時間的な最短ルートを見出すことなども可能になる。
 つまり、最低限の具体的なことを知ることによって、可否や是非などの判断も的確にできるようになる。

 道を教えてもらった場合も、その際に記憶に残った最低限の目印や辻褄が、実際に行った道に合っていると目的地に到達できる。
 教えてもらい記憶に残った内容に、目印が不十分だったり、曲がる所が間違っていたりした場合は、それだけでは目的地に到達できないし、むしろ道に迷う。
 言うまでもないが、途中で諦めた場合は、それらも無い。
 その基本的なことは、何をやった場合でも同じだ。

 だからこそ、「悟り」とはどういうことかにしても、具体的に理解し納得し悟りたいからこそ、調べもする。

 できれば、具体的に理解でき納得できる(具体的に悟れる)内容であることが望ましい。
 そうであってこそ、「悟り」の説明としても成立し、「悟り」の説明にふさわしい。

 もちろん、「悟り」とは、簡単なことではないのだ……。
 言葉で尋ねることが無い猫を見習うなら、「悟り」たい人が自分で模索して悟ってこそ「悟り」なのだ、とも言える。




◆知らなかったことを憶えることができる


知能の構成要素や基本的な能力は、共通だ。



 備わっている各感覚器官や意識や記憶力などの知能の構成要素は、犬や猫なども共通だ。
 構成要素上で成立する識別能力や学習能力なども、基本的には共通だ。
 そんな知能が備わっているからこそ、「感じ」「気づき」「知り」、人の場合は言葉を介して「理解し」「納得する」ようになる。

 もちろん、経験や学習の性質上、習熟(上達)には段階がある。
 その段階の中でも、「感じ」「気づき」「知り」「理解し」「納得する」。

 また、経験や学習の性質上、知る内容には個人差がある。
 例えば、自分が誕生時には知らなかったことを、その後に経験して憶える。
 なのに、そうであること自体を、かつては未理解だったどころか、忘れてしまっていた。

 学習し、実用し、微修正や微調整を繰り返したからこそ上達したことでもある、意識し識別し思考し理解する情報処理や、それを基にした動作や会話などは、行動上の基本的なことでもある。
 しかも、記憶を参考にするようになると(探したり確かめたりする必要が無くなるだけに)条件反射的な速さで情報処理ができるほど熟練する。
 かつても、すでにそうだったのに、理解はできていなかった。

 よって、そんなことに、「気づき」「知る」こともある。
 自分にとっては、理解が必須だった。
 よって、更に具体的なことを「理解し」「納得した」ときは30歳を過ぎてからだった。

感じなかったり気づかないこととは無関係に近い状態にある。



 基本的には

 経験相応の印象が記憶に残る。

 初めて会った人なのか、以前に会ったことがある人なのかは、以前に会った時のことが記憶に残っていて思い出せるかで決まる。
 つまり、記憶に残っていても、思い出せない場合は、会ったことが無いと判断する。が、後で記憶にあることを思い出したりする。

 自分の記憶に残っているだけに、思い出したり考えたりすることもできる。
 あの時はこうだったのだから……、今度はこういうこともできるのではないか、などという予想もできるようになる。

 相手が話すことを、自分の記憶にあることを参考に識別し、事実関係に適った整理をし、不明な部分は尋ねるなどしてでも、理解でき納得できるようにもなる。
 もちろん、相応の自分の気持ちや考えなどを文章化して応答でき、具体的に説明できるようにもなる。

 つまり、目には見えない言葉を使って、目には見えない記憶に残っていることや気持ちや考えや意味や理由などを伝え合い理解し合えるようになる。
 その思考上で理解し記憶に残っている、道順や目的地・約束やルール・計画や目的・などに基づいた行動や活動や努力もでき、好結果にすることもできる。
 よって、信頼もし合い協力もし合い尊重もし合う。

 それらの基本的なことも日常的に繰り返されるが、頭の中で行っていることなので、本人でさえ目で見ることはできない。
 つまり、記憶に残っていることを参考にした思考上で整理をすることによって理解できる。
 よって、気づかず知らず未理解な場合もあり、そんな場合は、知り理解し納得することとは無関係に近い状態にある。

 お互いに知らない(記憶に無い)人のことは、通常は話題にすることも無い。
 名前も顔も知らない人のことは、名前も顔も識別できないわけだから、そもそも話題にすることができない。
 そんなことも、無関係に近い状態といえる。

本人が、「感じ」たり「気づく」ことから、その対象との関係や展開が始まる。



「感じなかった」とか「感じた」などと言う場合は、五感(触覚=皮膚感覚・味覚・嗅覚・聴覚・視覚)のいずれかで刺激を感じたか否かを重視しているのだと考えられる。
「気づかなかった」とか「今、気づいた」などと言う場合は、刺激を感じたか否かではなく、あることを意識できたか否かを重視しているのだと考えられる。

 誰かに刺激されて感じたにしても、他から指摘されて気づいたにしても、本人が「感じていなかったことを初めて感じ」たり「気付いていなかったことに初めて気づく」ことになる。
 よって、情報処理上では、「感じる」とか「気づく」ことは初期(始まり)の段階に該当する。
 そんな性質上、新鮮なことでもあり、感動したり、驚いたり、大変なことだったりもする。

 かつて、肝心な自分のことを、勘違いし思い込んでいたことに気づいた。よって、肝心な自分のことをほとんど未理解だったことにも気づき、孤独の世界に落ち込んだ。
 それゆえに、実は新たな勘違いをしはじめたのだが、そうであることにも気づけず、死んだほうがましだと思い詰めた。
 でも、実行できず、よって考えには無理や矛盾もあることに気づき、更に想像や勘違いや思い込みに過ぎなかったことを具体的に理解できたことで、その日のうちに気持ちや考えも一転し、「死にたくない。生きていたい」と思ったどころか、生きることを大切にすることに必死になった。
 そして、「自分のことを勘違いしていたことに気づいたあの日から自分の本当の人生が始まったのだ」とさえ考えるようになった。

 つまり、「感じ」たり「気づいた」場合は、該当する情報が、記憶に無いか曖昧だったりし、適切な識別はできなかったり、思考や判断も限られる場合が多い。
 それゆえに、慌てたり、とんでもない勘違いをしたり、そっちの方に向かったりもする。

気づいただけでは、曖昧なこともあり、適切な判断はできなかったりする。



 基本的に、経験相応の印象が記憶に残る。
「知らない」とか「知っている」とか「憶えている」とか「憶えていない」などとも言うわけだから、記憶にあるか否かを確認していることになる。
 しかも、記憶にあることを参考にして識別や思考や判断なども行っている。
 例えば、初めて会った人だ、時々会う近所の人だ、登校するたびに会う同級生だ、そこそこのことを知っている親友だとか、よく知っている家族などを判断できるのは、自分と接した際のことが記憶に残っているからだ。
 つまり、その接したことや記憶が、どれだけ有るかとか、どれだけ具体的で詳しいかとか、などの違いに因る。
 日常的に、好いことであれ悪しきことであれ、記憶に具体的な情報が多いほど、それを基に具体的な識別や思考や判断ができる。

不明な部分は知ろうとし確かめもし調べるなどして、「知る」。



 具体的なことを知るほど、的確な判断が可能になる。
 ただし、簡単には確かめられないことこそが宇宙規模で存在する。
 家族といえども、本当の気持ちや考えは確かめられなかったりする。
 家族や親子や兄弟姉妹だからこそ、大事なことを理解し合えているか否かだけではなく、大事なことを理解し合える関係か否かも分かりやすい。
 具体的なことを知るほど的確な判断が可能になる性質上、教えてくれなかったり、明らかに隠されると、疑問や不信感さえ抱く。

 日常会話でも、不明な部分があっても、大事だと思わないことは、想像で片づけもし、確かめもしない。

 でも、相手が知らない(記憶に無い)人のことを話題にしても、盛り上がらないが、名前や顔などを知ると、名前でも顔でも識別できるようになる。
 会話でも、知らない部分があると展開が滞るが、必要に応じて知らない部分を尋ねたり確かめたりし、知ると、会話も展開する。

あるていど「知る」からこそ、必要性や価値も明らかになる。



 衝動買いは、無駄だったり損だったりする。
 日常でも、必要に応じて観察し確かめもし、試食したり試着したりもする。
 観察し確かめるほど、良かれ悪しかれ確かで詳しいことを知ることになる。
 確かなことや詳しいことを知るほど、そのことに関しては具体的な思考や判断ができるようになり、可否や是非の判断も的確にできるようになる。
 よって、試すほど上達する。
 もちろん、悪しき結果になることは避けることができるようになり、着実に好結果にすることが可能になる。

 知りたいと思うほど、尋ねもする。好結果を期待できることや、大事だと思うことほど、確かめもする。
 だからこそ、親友ができたり、恋をしたりする。

価値判断しだいでは、更に具体的に「理解する」努力もする。



 未熟だと損をしたり事故を起こしたりもするが、上達したり熟練してこそ有意義になる。
 そのために、研修所だとか教習所だとか学校などが設けられている場合さえある。必要なことを教え、勘違いや思い込みや間違いの指摘や修正も指導し、正しく習得しているかを試験したりもする。

 確かで詳しい具体的なことが記憶にある場合は、細部に及ぶ具体的な識別や思考が可能なので、相応の可否や是非などの判断も可能で、相応の行動もでき、相応の結果にもなる。
 場合によっては、証書を作成したり、自署したり、押印したりさえする。

根拠や理由などを具体的に「理解できた」からこそ、「納得する」。


「理解でき」「納得でき」たからこそ、「あのとき気づいて好かった」とか「具体的に理解する努力をして好かった」などと省みもする。
 一貫したことを、良かった、と判断できる。

 つまり、「感じる」ことも、「気づく」ことも、少し「知る」ことも、具体的に「理解する」ことも、「納得する」ことも、密接な関係にある。
 段階的な違いでしかなく、最終的に納得するには、いずれも欠かせない重要な行程である。

 基本的には、知能が備わっていて、本人は直に経験し続け、記憶を参考にした識別や思考などの情報処理を学習し、観察し確かめ試したことは上達し、日常的に繰り返し実用する基本的なことは条件反射的な速さでできるほど熟練する。

 よって、「感じる」ことも「気づく」ことも「知る」ことも「理解する」ことも「納得する」ことも、「悟り」だと言っても過言ではないと考えられる。

 ただし、「感じる」、「気づく」、「知る」、「理解する」、「納得する」、これらは、情報処理の各行程や展開でしかない。
 この情報処理上で、どういうことを理解し納得し「悟る」か、それは別問題だということになる。
 当記事では、この情報処理上で「悟り」とはどういうことかを理解し納得することを目指している。
 でも、ここまで分かると、「悟り」とは情報処理自体に関することなのだも考えられる。




◆見えないことでも理解することはできる



 理解が深まり次第、挿入します。




◆むしろ目に見えないことこそが重要だ



 理解が深まり次第、挿入します。




◆重要な物事は物体ですらないのだ



 理解が深まり次第、挿入します。


 
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反省

 
 あれは、良くない。
 夢の中でだったが、あまりにも強情な相手を、踏んづけていた。暴力で片づけようとしていた……
 自分が批判視していた行為を、自分で行っていた……

 強情を説得する術が、自分に無いからだ。
 その、自分が説得できないことを、棚に上げていた。
 強情を説得する術なんか無いんだと決めつけ、諦めていたからだ。

 思考力や理解力を尊重して、説得できるようになる必要がある。
 説得が可能なんだと自分で納得できるようにならないと、個人的な平安も確立されない。
 あんな夢を見るようでは、安らかに他界に臨むこともできない……

 大威張りで他界に臨むことなど不可能なんだから……
 自分が知らない。自分が間違っているかもしれない。そう思ってこそ、相応のことを知ることもできるし正すこともできる。
 独断も慎もう。諦めちゃダメだ。反省……

 上辺だけ繕って騙し欺く類も、自縄自縛でしかない……
 上辺の見せかけに、目を奪われるな。
 他に、心を奪われちゃダメだ。
 安らかな他界へのルートは、きっと、自分で理解し納得した心の中にこそ確立される……

 
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残念

 
 カウンター内で受け付けをしてくれた女性。明らかに不機嫌な表情をしている。

 家で……、この職場で……、何かあった……
 彼女の頭の中に解決していない問題がある……
 つまり、彼女が個人的には解決できないこと……
 彼女は受け入れ難いことでもあるのだ……

 俺は、立ち入る立場にはない。
 彼女は、望んでいない。
 彼女が困っているのを、見たにもかかわらず、見なかった振りしているんじゃない。


 一般的に……

 自分と自分以外とも、大別できる。
 自分は一個人であり、自分以外は圧倒的多数でもある。
 経験や学習上で形成されると考えられ、その性質上、好みや価値観は個人毎に千差万別になる。
 よって、個人が、圧倒的多数と上手く関係することは、そもそも不可能だ。

 近くの町まで行っただけで、自分にとっては未知な人が圧倒的だ。
 つまり、自分以外の人の内の圧倒的多数が、自分にとっては未知な人なのだ。

 当集落内の人は、殆どが知人のつもりでいた。
 ところが、一昨年、初めて選挙の立会人を経験し、80%越えの記録的な高投票率だったのだが……
 その投票所に来た人の三分の一近くが、自分は知らない人だった。こっちの方が驚きだった。

 知人の中でも、友達は更に限られる。
 理解し合える親友となると、更に限られる。
 かつて、親友とも縁を断たせてもらったことで、自分を取り戻すことができただけに、遅れ馳せながら自分を育て直すことに的を絞られてしまったが……
 信頼し合える恋人となると、更に限られることになる。
 尊重し合える夫婦になると、お互いに相手は唯一になる。
 つまり、上手くつきあえる相手でさえ、限られている。親密になれる相手は、更に限らることになる。

 最低限、平和であってほしいのが家庭だ。
 が、当集落でも離婚が増えた。
 テレビのニュースも、子供が犠牲者だったりする。
 ということは、家庭内でさえ、無理なことをしていたり、恥ずべきことをしていたり、罪なことまでしていたりすることになる。
 つまり、親密な関係にあると思えた人同士でさえ、実は、上手くやれていなかった、ということになる。
 子供が、当集落でも、年々減少しているのも事実だ。

 ニュースから察して、そうだったのなら、どういう理由で一緒に暮らしていたのだろうと疑問にさえ思ったりする。

 情報端末は目覚ましい発展を遂げたが、信頼し合い尊重し合うために使われていることは少ないということなのだろう……

 普及した電話は、表情や状況を知られずに情報を伝達できるだけに、詐欺に好都合な情報伝達ツールであることも否めない。

 テレビは一方的に情報を発信し、それを、視聴料を払い、個人的に買った私物で見るわけだが……
 公的電波は私用を規制しているはずなのに、画面の向こうの人たちが私物化しているとも感じる。


 社会的にも……

 生存上、本来は必要ないことだからこそ、尤もらしく見せかける。
 勘違いや思い込みもあって千差万別になる類のことだからこそ、優れたことであるかのように持て囃し競い争う。
 詐欺まがいのことをして私利私欲を貪っている、と見做すことさえできる。

 子供を惑わして、その親に金銭を出させることを、商売にする。
 生存上は、邪道でしかない。
 どうだと詐欺ではないんだ、とさえ思う。

 自殺や殺人も無くならず、戦争さえ無くならない。
 それどころか、軍事費に莫大な資金が費やされていると言われる。つまり、止めるのではなく、むしろ挑発している。警戒や軍備を煽っている。

 そんな社会の個人は、日常生活さえままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化には為す術が無く、やがて死ぬことは数十年も前から分かっているし知能も備わっているのに死に臨む心の準備は論外だったりする。

 かつての自分も、唯一の個人単位でさえ、平和ではなかった。


 自分だけが無知で愚かなのだと思い、深く落ち込みさえした。
 でも、そうでもなかったことになる。が、いまだからこそ、そう思えるわけだが……
 当時は、すっかり一人前になったと、自分のことを勘違いしていた。つまり、肝心な自分のことをほとんど未理解だった。だから、どんな勘違いをしていたとしても不思議ではなかった。
 そうであることをさえ、当時は知らなかったんだから。

 出稼ぎや日雇いだったが、見習いで初めて就職し、やがて仕事では優遇さえされるようになった。
 が、個人が、精通できることは限られ、巧みにできるようになることも限られていた。
 しかも、人生上では的外れなことだったりもする。

 そうだったことをすら知らなかったからでもあったのだろう、見た目も気にしていた。
 勝手に外見を比較して判断し、勝手に劣等感を抱き、勝手に上辺だけ繕い大人振りもした。
 でも、上辺だけでは、言い訳や騙し欺く類でしかなかった。
 それは、関係し合うこと自体に反していた。
 そんなことすら分かっていなかった。
 まさに上辺だけの騙し合いだった。
 親密になる最低限の条件も知らなかった。
 そんな大事なことを知らないんだということ自体を知らなかった。
 だからこそ、上辺だけ大人振り、肝心なことは知ろうとすらしなくなったのだった。
 なのに、すっかり一人前になったと勘違いし、いつのまにか思い込んでいたのだった。

 見た目や上辺だけに惑わされ、何者かに翻弄されて、まさに自分を見失っていた。そうだったことをさえ知らなかったんだから……

 内情を知らない他人事には、一般的にも立ち入らない。
 立ち入ることは、軽薄なことでしかないからだ。


 もちろん、悪い結果になると予想できることは避けたい。好結果にしたい。
 だからこそ、言わずにいられないことだってある。

 でも、自分でさえ、不都合なことを隠し偽り、上辺だけを繕っていた。当時は、他人に言及される以前から、それを拒否していたようなものだった。

 生存上は的外れなことを、優れたことであるかのように祭り上げて騙し欺いているようなものなのに、すっかり慢心している場合もある。
 だからこそ、言及されることを拒否し、覆されまいとする。
 むしろ、口封じし、暴力的に片づけようとさえする。

 結局、一蹴されもする。受け入れられるとは限らない。むしろ、意に反した結果になる。

 汚い言葉を吐きたくもなる。暴力的に思い知らせたい気がしないでもない。
 が、両成敗される類は、やるに値しない。

 自分の思い通りにならないことは気に入らない奴は、俺だって気に入らない。
 自分が批判視していることを、自分でもやるのには抵抗がある。

 不都合なことを暴力的に片づけてまでも優位に立とうとする傲慢さには、呆れるしかない。

 悪い人になりたくないからじゃない。
 上辺だけ良い人でいたいからなんかでもない。
 誰にも理性があり、無謀には限度があると思うからだ。
 好みや価値観は、個人毎に千差万別だと言っても過言ではない。
 自慢げに振る舞うことをさえ嫌う人だっている。
 競争自体を嫌う人だっている。
 戦争は嫌いだ。


 要は……
 誰でも、記憶にある情報だけを基に会話できるほどの、思考力や理解力を発揮するようになる。
 本人の情報処理上で、納得したり、
納得できなかったりする。
 それゆえだと考えられる。
 もちろん、暴力的に無理矢理片付けようとすると、当然に惨状と化すことは予想できる。
 両成敗されるようなことは、避けようともする。


 結局、納得できないことが多い。
 解決できない、矛盾があったり、無理があったり、条件が満たされていなかったりするからだ。

 だからこそ、妥協や打算や駆け引きや取り引きもするわけだが……
 言い訳もするし、不都合なことは隠し偽り上辺だけを尤もらしく見せかけもするし、足元を見たこともするし、詐欺まがいのこともする。
 納得できないどころか、疑問や不信感がが伴う場合だってある。

 もちろん、相応の思考力や理解力を発揮しているからであり、本人は問題点も分かっている。
 が、解決できない。
 暴力的に無理矢理片付けられるに至ることは避けたい。
 まして、暴力的に片づけることを批判視している自分が、暴力的に片づけるのも矛盾する。


 けれども……
 無理や矛盾などの改善を要する問題が、相手にある場合もあるが、自分にある場合だってある。

 問題が自分にある場合、相手の所為にしているかぎり一向に改善されないし解決しない。

 経験し学習し理解する性質上、個人的には、詳しいことは限られ、曖昧なことが圧倒的に多く、知らないことこそ計り知れない。
 詳しく知らないことだからこそ想像もするし、それゆえに勘違いも多く、思い込むこともある。
 勘違いや思い込みの性質上、そうであることには気づかないのが普通だ。
 そういう経験上、自分の考えに疑問を抱いたり検証したりする方が自然だ。

 問題は自分にあるのに、相手の所為にしていたとなると、大変なことになる。
 問題は自分にあるのかもしれない……、そう思って省みてこそ、自分に問題があったことに気づくこともできる。
 反省し、問題点を捉えようとした場合に限り、自分の問題点は見出せる。
 自分の問題なら改善も容易だ。
 勘違いしている内なら、改善は容易い。


 いうまでもないが、反省している振りだけしている場合は、一向に、問題点を捉えるには至らず、改善するにも至らない。
 上辺だけや見せかけは、他者を意識し他者に対したことであり、しかも言い訳の類でしかない。

 本来は、誰でも、学習でき、上達もできるし、基本動作や日常会話などは熟練して条件反射的な速さで行うようになる。

 不都合なことや不利なことは認めまいとすることも、言い訳も、隠し偽ることも、他人の所為にしがちなことも、巧みさが必要なことだ。
 しかも、繰り返したことほど、上達し、条件反射的にやってしまうほど熟練もする。
 熟練するほど、問題点として捉えることが難しくなる。つまり、改善することも難しくなる。

 そんなことも、自分を省みてこそ分かる。
 そんなことが分かってこそ、他者の考えや問題点を変えようと思うこと自体が、いかに無謀なことかも分かる。
 他者の考えや問題点を変えようと思うこと自体が、他の所為にしがちだからだということも分かる。だから、執着し、反省もし難い。
 相手を逆上させてしまうことも、問題解決を困難にしてしまうことにほかならない。


 いずれにしても、思考力や理解力があるからこそ、納得できなかったり納得したりする。
 記憶に相応のことがあるからこそ、こだわりもする。
 つまり、本人は、解答が分かっている。

 仮に、相手を見下し侮り騙してしまった場合も、記憶に残っているし、自分の内面は分かっているからこそ、省み難くなる。
 自縄自縛のようなことをしてしまった己の愚かさも、認め難い。
 だからこそ、否認し、言い訳をし、強情を張り、逆上し、強引に相手の所為にし、暴力的に片付けようとする。
 でも、自分の内面を如実に説明しているようなものだ。なのに、自分で認めたくない。だから改善できない。

 それでも、他者の考えを変えることは至難だが、自分の考えや問題点を改善することの方が容易だ。

 そもそも、誰もが、乳幼児期に試行錯誤や取捨選択を繰り返したからこそ学習しはじめたわけだし、修正や微調整をしたからこそ上達もしたわけだし、日常的に常用するようになったことは熟練し、相応の能力は発揮し実証済みでもある。

 反省し改善した場合は、それが身につく。相応のことは事前に慎めるようになる。
 自信がつく。自分の得になる。
 信頼関係も回復できる。
 自分の世界に目を向けた場合にこそ、可能性も計り知れない。
 個人単位の平和を確立できてこそ、最期の真の安らぎも確立されるのかもしれない。


 生存上、必要でもないことを、尤もらしく見せかけて惑わし、優れているかのように競い争って心まで奪い、私利私欲を貪る。
 それとは非な世界も存在するんだから。


 誰もが自発的に自分の考えや問題点を改善するようになると、人間関係上の問題は一掃されることになる。
 つまり、他人の所為にする人はいなくなるわけだし、思考力や理解力を尊重し優先するようになる。
 いうまでもなく、暴力で抗議する人もいなくなるわけだし、暴力で対抗する必要も無くなり、軍事力で強引に相手を片付けようとする人がいなくなるわけだから。
 まさに上辺だけ優れているかのように見せかけて脅して私利私欲を貪る悪魔の、下僕たちはいなくなる。

 もちろん、友達間でも通用するはずだ。親友間でも通用し、恋人間でも家族間でも通用するはずだ。


 いうまでもないが、暴力や軍事力で強引に相手を片付けようとする人がいる限り、それに備え対抗し抗議する必要も生じる。
 そういうことに思考力や理解力が使われると、一向に平和にはなれないことになる。


 若かった頃は、こういうことを知らなかった。
 知らなかったばっかりに、愚かなことをしてしまった。
 それは、取り返しがつかない。
 とても残念だ。


 あの彼女、御機嫌を取り戻しただろうか。

 あ、これも、余計なことか……
 
 
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迷走

 
 まだ、勘違いや思い込みがあるのだ……

 なかなか、予定に基づいた起動ができなかった。


 今冬は、記録的な少雪で、先日の大荒れの予報も外れた。
 除雪作業は3回だけ、しかも軽く行ったのみ……
 だから、つい怠けていたのか……

 予定に基づいた起動は、しそうな気配すら無かった。


 自分にとっては、いままでよりも難しいことに臨もうとしていることは間違いない。
 自分にとっては未知だったことに臨もうとしているわけだから。
 気持ちの整理も準備も簡単ではないことなのかもしれない……
 否、それは言い訳に過ぎない。大儀だから、怠けていただけだ。
 いずれにしても、予定したことに臨む気持ちの整理や気持ちの準備が不十分なのだ……


 20日から21日にかけての夜は、今冬初の本格的な降雪で、30㎝ほど降った。
 早朝から、除雪。
 久しぶりに、汗をかいた。
 予定したことに臨む気持ちの整理や準備もしようと思い、書きかけだった、この文章化を再開した。
 が、進展なし……


 25日朝、雪が10センチ余降った。
 除雪しても、汗をかくほどでもなかったが……
 除雪で行動的なことをしたからだったのだろうか、気持ちの整理や準備も少しは積極的に行うようになった。

 昼近く、今冬初の本格的な降雪になり、視界までが白一色になった。


 思えば……
 自分が未知なことを知ろうとする際は、いつも、一般的には瞑想と言われてれるようなことを行う。

 かつて、必然的に自分が未知なことを知ろうとして、一般的には瞑想と言われてれるようなことを行うようになった。
 その結果、想像に過ぎなかったことに気づき、よって想像であるがゆえの無理や矛盾も解消し、3年間の葛藤からも解放された。
 そんなことがあっただけに、以来、自分が未知なことを知ろうとする際には、ほとんど無意識にだが、それを行うようになった……

 もちろん、見かけ上、似している例として使っているだけで、瞑想とはどういうことなのか具体的なことは自分は知らない。
 瞑想に似たことだと思いながらも、自分が行っていることを、何と言うのかも自分は知らない。
 そもそも個人的なことであり、自分の内面を省みることでもある。その方法を説明する必要が無かったし、文章化する必要も無かった。
 つまり、具体的なことを把握していたわけでもなく、ほとんど無意識に、いわば経験上そうするようになっていった。


 でも、そうするようになったからだろう、事実確認もせず根拠や理由を必要としない頭の中だけで行う想像や、それゆえの勘違いや、思い込みや、先入観など、更に具体的な性質や特徴が分かった。

 また、通常、勘違いや思い込みであれ記憶を参考にして識別や思考や予想もしていて、それに基づいて行動したりしなかったり行動したりし、相応の結果が伴うので、その結果に一喜一憂していた。そんな事実関係も分かった。

 しかも、これらのことは、自分が記憶を参考にして識別や思考や予想をしていたことに関することだけに、単に考えただけで理解できた。
 つまり、本来は、本人は詳しく理解できていても不思議ではないことだった。

 なのに、以前は未理解だった。
 想像や勘違いや思い込みに関することを未理解だったから、自分が想像し勘違いし思い込んでいることにすら気づくことができなかったわけであり、想像の無理や矛盾にも気づけなかったからこそ3年間も葛藤を余儀なくされた。
 もちろん、事実未確認の想像に過ぎなかったことに気づき、勘違いや思い込みに過ぎなかったことも分かったことで、考えの無理や矛盾も解消したわけであり、葛藤も解消した。

 つまり、自分がいかに無知で愚かだったかを、3年間も思い知らされていた。
 しかも、本人が知らなければ困る最たることが存在することを、3年間も思い知らされていた。
 なのに、認め難かった。だからこそ、把握できなかったわけだし、改善もできなかった。
 思えば、把握しようとか改善しようとは、していなかった。それだけでも、すでに無理や矛盾があった。
 むしろ、見かけだけでも尤もらしく見せようとしていた。それは、隠し偽ることでしかない。把握や改善とは、まったく矛盾する。
 上辺だけでは、騙し欺く類でもある。だからこそ、行動することはできなかった。
 無理や矛盾だらけだったがゆえの、葛藤だったのだ。
 現に、自分が考えていることが、事実確認をしない想像に過ぎなかったことに気づいただけで、無理や矛盾は解消し、葛藤も解消したわけだから。

 そんなことも分かり、いかに無知で愚かだったかも自認した。
 ところが、まさに肩の荷まで下りた。


 しかも、次々に、自分に関する未知だったことを知ることなる。

 想像や勘違いや思い込みから離れて、事実を率直に捉えるようになり、確かめるようにもなったからだ。
 無知で愚かでいいはずがないことは3年間も思い知らされ、自認したこともあって、無知で愚かでいいはずがなくなったからでもある。
 知らなければ困る最たることが存在することを3年間も思い知らされたわけだが、その要因は、肝心な自分に関することを未理解だったことだった。特に、自分の考えに関することでもある想像や勘違いに関することをすら未理解だったことにあった。その想像や勘違いに関することを知っただけでも、それらが解消したわけだから。
 自分にとって重要なことは、自分に関することを理解することに他ならない。特に、自分の考えに関することを理解することが最重要課題なのだ。
 他人がどうしているかなど、気にしている場合じゃない。

 また、記憶内は邪魔なだけの想像や勘違いや思い込みや先入観だらけだったことが分かったから、肝心なことに関しては無知だったことを自認したわけだが……
 記憶内には具体的で有意義な知識は無いことを認めたことになる。
 よって、空虚になったが、記憶領域は白紙状態に戻ったようなものだった。
 だからこそ、未知だったことを、受け入れやすくなった。
 しかも、葛藤を余儀なくされるほど無知で愚かではいいはずがなかった。
 だから、未知だった自分に関することを、次々に知ることになったのだ。


 間違いや勘違いや思い込みは、意図的なことではなく、悪意によるものでもない。
 責め咎めるべきことでもなく、むしろ正す必要があることであり、指導すべきことでもあるのだ。

 そんなことも分かり、未知だった自分の内面的なことを更に知ろうとし、一般的には瞑想と言われてれるようなことも殆ど無意識に行うようになっていった。


 記憶を参考に識別や想像や思考や予想などを行って、相応の行動をし、相応の結果になる。
 その内面は、本人だけが直に知りえることでもある。
 その内面は、常時、本人は理解可能な状態にあることでもあり、本人は何処にいても理解できる状態にあることでもある。
 思春期までには完成し、基本的なことは繰り返し実用され、成人する頃には十分に経験済みで相応の情報が十分に記憶に残っていることでもある。
 だからこそ、単に考えただけで理解できた。
 まさに、以前は、単に考えなかったから、未理解だったのだ。

 しかも、自分が記憶を参考に識別し思考していることに関することを理解することである。
 当然に、学歴も要らない、資格も要らない、資金も要らない。むしろ、路上生活をしながらでも理解が可能なことでもある。
 苦行や荒行も必要ない。解剖や実験すら必要ない。
 つまり、誰でも理解が可能なことでもある。


 かつては、就職して給料を得て、それで暮らしていた。が、他者が所有しているお金を、給料(報酬)として得るために、自分は時間的に拘束されるわけだから自由を売っていたとも言えるし労働を売っていたとも言える。
 が、そうして得られることでは無い。
 むしろ、そういうことをするほど、理解が難しくなることであることは間違いない。
 そもそも、自分のことを理解することであり、お金で買えるものではないのだから。

 生存上必要なことは、誰もが直に経験し続け、相応の学習もし、上達もするし、人の場合は理解できるようにもなる。そうであることは、誰にも共通する。
 つまり、生存上、的外れなことだからこそ、尤もらしく見せかける必要があり、必死で優れたことであるかのように見せかける工作をする必要があり、持て囃し褒賞して祭り上げ捏造してまで、私利私欲を貪っている。
 そうだとも知らず、その見せかけの見映えに、目を奪われ、惑わされ、そういうことばかり考えるようになった時点で心までも奪われたことになる。
 だからこそ、自分のことをさえ勘違いし思い込むようになった。
 つまり、誰もが直に経験し続けている肝心な自分のことは未理解なのだということをすら見失い、そうであることに気づくことすらできなくなった。
 それどころか、不都合なことや不利なことは認めまいとし、無知で愚かだとは認め難く、強がってでも隠し偽ろうとし、上辺だけでも尤もらしく見せかけようとまでした。
 当然に、省み難いことも記憶に溜まってゆき、肝心な自分の内面は理解困難になっていったのだ。
 当時は、そんな自分のことは、ほとんど知らなかった。

 そうだったことに、気づくことができた。
 動揺したのは、当然だった。新たな勘違いをするほどだった。
 生きるためには、少なくとも葛藤からは解放される必要があった。
 そして、必然的に、やり始めたことが、一般的には瞑想と言われているようなことだった。


 こうして考えてみると、想像や勘違いや思い込みに気づき、無知で愚かだったことを自認し、好転していったことと、一般的には瞑想といわれるようなことを行うようになったこととは、密接な関係があったことになる。
 そうしたからこそ、未知だった自分のことを次々に知っていったわけだから、欠かせない重要なことでもあったといえる。

 もちろん、見かけ上、似している例として使っているだけで、自分が行っていることをさえ、何と言うのか、自分は知らない。
 個人的なことであり、自分の内面を省みることでもあり、その方法を説明する必要が無かったし、文章化する必要も無かったのだが……

 いわば……
 想像や勘違いや思い込みなどが多い通常の考えは止める。そして、誰もが直に経験し続けている本質的なことや普遍的なことを理解する。
 慣れるまでは、余計な想像や考えは止める(つまり邪念を捨てる)努力をすることになる。
 つまり、事前に、想像や勘違いや思い込みなどに関することを理解し、その類のことがいかに多いかを知ったあたりから一気にやりやすくなった。

 言い換えると、想像上、心が空(から)で、記憶領域は白紙のような状態であるかのようにイメージし、いわば心を空虚にする。
 つまり、新たな情報が入りやすくなる(と思える)ような状態になるようにする。

 その上で、自分に関することで、自分が未知なことで、本質や普遍的なことはどういうことだろう、などと思いを巡らす。
 つまり、自分が未知だったことを、知ろうとする。


 ちなみに、想像や勘違いや思い込みが多かった頃ほど、雲を掴むようなことでしかなかった。
 テレビドラマは、「これはフィクションです」と言われるくらいで、想像を煽ることによって成り立っているとも言える。それおを、繰り返し見るほど、想像を頼りがちにもなる。事実確認をしない(根拠や理由を大事にしない)想像を頼りがちになると、勘違いしやすく思い込みやすくもなる。
 結局、それとは反対のことが必要になる。つまり、想像は止める必要が生じ、勘違いや思い込みや先入観なども払拭することが必要になり、生きていること自体など「本来はどうなのか」とか、「現にこうだ」とか、「普遍的で誰にも共通すること」などを、検証して整理して生存上の根拠や理由を具体的に理解する。その準備をすることでもある。
 勘違いや思い込みを払拭できて、根拠も理由も無い妄想的な想像を止めることができ、そのコツを掴むと、知能を制御する手がかりを掴んだに近い。


 蛇足だが、自分を良く見せようとか、優れていると誇示しようとか、勝っていることを誇示しようとする、それらこそが、この目的上では邪念にほかならない。
 それは、生存上的外れなことに目を奪われ、心まで奪われていることにも気づけなくなったりするわけだし、想像や勘違いに囚われているがゆえだったりする。
 つまり、自分の考えに関することでもある想像や勘違いに関することを未理解であるがゆえでもある。

 その逆で、想像や勘違いや思い込みがいかに多いかを知り、生存上的外れなことに目を奪われ心まで奪われることもあることを知り、それらを離脱することの難しさ(内面を空虚に白紙に似た状態にする難しさ)を経験すること以て、重要なことを知らずできなかったかを知る。
 そうすることによって、相応の未知だった生存上の重要なことを知りやすく受け入れやすくなる。
 そんな知的環境を整えることでもある。

 その結果、普遍的で共通なことを次々に知るようになれば、それこそが目的であり、できた証でもある。

 また、誰もが直に経験し続けていることであり、誰にも共通する普遍的なことを理解することを仮に正道とした場合は、荒行や苦行や資格や学歴や名誉や地位などは、他人の目を奪い、惑わせ心まで奪い、私利私欲を貪る世界に君臨することでもあり、邪道に相当する。
 つまり、本来は誰もが直に経験し続けていることであり誰でも理解できることを見失わせ、誰にでも共通する普遍的なことを理解し難くし、省み難くさえするわけだから、邪道に相当する。

 未理解なほど深みに陥る心理の悪循環も存在する。いわば、悪魔の掟のようなものでもある。
 それも、理解できれば、抜け出すすこともでき、反故にすることだってできる。


 こうして書いてみると、元日以降も日常的にやっていた……
 進展も皆無だったわけではない。
 だから、怠けていたわけでもなかった。

 残念ながら、邪道へと迷走しかけていた……
 勘違いや思い込みは払拭し切れていないことは間違いなく、もともと偉そうなことを言えた柄でもない……
 自らを正すとなると、自分の不都合な面を自分で暴くようなことでもある……
 普遍的なことを明らかにしてゆく場合も、おのずと、自分の不都合な面を自分で暴くことになる……
 どうせそうなんだから、と……

 まだまだ、邪念が多過ぎる。
 反省……
 瞑想擬きを行って、軌道修正しよう……
 心を開いて、少しでも自らを正すことに臨もう。

 生きているうちに見出すなり到達するなりしなければ成就しないこともある。

 未知な世界に臨むにしても、期待の方が優るくらいが望ましい。そのためには、相応の裏付けがあることが望ましい。

 思えば、「本来はどうなのか」、この基準ともいえることが繰り返し登場するようになった。
 カテゴリー「◆本来は」も、設けて久しい。
 これまでは、勘違いや思い込みを明らかにすることを以て、普遍的で共通することを理解し、勘違いや思い込みの修正もしてきた。が、そろそろ、反対に、普遍的なことを整理することを優先し、それ以て勘違いや思い込みを修正した方がいいのかもしれない。

 
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賀正

 
 昨年は、たくさんご来訪くださいまして、ありがとうございました。
 新年は、みなさまが益々ご多幸でありますように、ご祈念申し上げます。

 未熟者の当ブログだけに、老化にも負けずに、少しでも成長できるよう、可能なら新たな芽も出るように、心を開いて新年も頑張る所存でございます。


 自律して機能している生理面(生きていること自体)は、どこかの名医が創ったものではない。
 備わっている知能や学習能力なども、どこかの天才が創ったものでもない。
 これらは、むしろ人為的に変えることができない。それどころか、生後に理解し尽くすことすら難しい。つまり、理解力を超越している。
 そもそも自律して形成され、現に自律して機能しているわけだから、普遍的な存在である。
 この身体は、どんな名医の知識よりも優っている。
 この知能は、どんな天才の知識よりも優れている。
 そうであることは、誰もが直に経験し続けている。
 そうであることは、誰にも共通する。

 しかも、大人でも教えようが無いことを乳児期に独自に学習し始め、大人が教えないことも自から憶え、大人が憶えて欲しくないと思うことも自分で憶える。
 基本動作や会話や相応の情報処理(識別や思考や予想など)は、誰でも上達するし、誰もが熟練する。

 そういうことこそが、尊い。
 そう考えるに至っており、その世界を更に具体的に明らかにすることに臨む所存でございます。


 ただ……
 そう思うのは、自分が勘違いや思い込みがどんなものかを思い知らされたからこそである。しかも、その勘違いや思い込みがいまだにあるからにほかならない。
 その払拭をどれだけ自分でできるかに左右されることに臨むことになる。
 結局、自分の勘違いや思い込みの払拭に臨むことにほかならないのかもしれない。
 でも、自分の勘違いや思い込みや先入観などを払拭するほど、もともと人為的には変えようが無い普遍的なことが明らかになり、理解も容易になる。
 よって、期待して、正すことに臨みたい。


 そもそも、生後に経験し学習し理解する内容は、年々、個人的にも変化する。よって、個人毎には千差万別になる。
 いまだに、肝心な自身の内臓は見たことすらない。自分の想像や勘違いや思い込みに関することでさえ、具体的なことを理解でき自覚が可能になったのは30歳を過ぎてからだった。

 それ以前は、想像や勘違いや思い込みに関して未理解だったからこそ、自分が想像しているに過ぎないことに気づけず、自分が勘違いし思い込んでいることにも気づくことができなかった。

 社会でも、個人毎に異なって当然なことを以て差別的なことをしたり、自分勝手な基準で差別的なことをしたり、そんなことを競い争いもし、その競い争うことを公然と持て囃しもし、痴話喧嘩、自殺、殺人、戦争も絶えない。

 そんな、尊い普遍的なものと、戒めるべき強情さや慢心とが、逆転していることにも気づかず、かつては惑わされ真に受けていた。
 惑わされて翻弄されていたからこそ、直に経験し続けている肝心な自分を未理解なまま見失っていることにすら気づけなかった。

 もちろん、そんなことは、誰もが望んでいるはずがない。
 尊重し合うことに反し、信頼し合うことに反し、理解し合うことに反し、普遍的なことに反し、共通することに反するんだから。

 そんなことに気づけたのも、自室に引きこもるようになったからこそだった。
 だからこそ、テレビを見ることをすら止め、人間関係もあえて断ち、自室に引きこもることに甘んじた。
 よって、一層、他に惑わされずに済むようになった。だからこそ、自分を理解でき、自分を取り戻すこともできた。

 幼い頃には、保護養育が必須だったからこそ、皆とも仲良くしたかったことも思い出した。あれこそが真意だった。
 幼い頃には、知的に未熟だっただったからこそ、生後に理解できることよりも生きていること自体の方が優っていることを直に体感していたからでもあったのだ。

 よって、今年あたりからは、誰かを負かすことや、誰かに勝つことなどとは、絶縁したいくらいだ。


 が、そういう一面が自分にもあってこそ、具体的なことを理解することもできる。具体的に理解するからこそ、自覚が容易になる。自覚が容易になるからこそ、自制も可能になる。

 つまり、逆に、不都合なこととして隠し偽ったり否認してしまうと、その具体的なことは理解できない。未理解なことは、自覚できない。よって、自制もできず、むしろ理解や改善を困難にさえしてしまう。
 不都合なことは隠し偽り、尤もらしく見せかけ、優れたことであるかのように見せかけ、そんなことを競い争ってまで、私利私欲を貪り、独裁を目指し、独り善がり慢心する。

 もちろん、事実を明らかにすることは、事実を隠し偽り否認する者に対しては暴くことにしかならず、逆効果にさえなってしまう。

 そういうことは、今年からは、せめて論外にしたい。
 が、自ら理解や改善に臨む場合は悟ることに通じる。

 そもそも、知能も備わっているだけに、生きていることがどういうことなのかは、生涯、誰もが直に経験し続ける。
 成人する頃には、十分に経験済みのことでもある。相応の情報が十分に記憶に残っていることでもある。
 そんなことに関して理解を深めることに、今年からは的を絞って臨みたい。


 近年、自分が書いた文章を、幾度となく書き直すことを以て、文章化の勉強をしているわけだが、もともとは、こうすることを以て心の整理もしつつ理解も深め、とても有効だと知り活用してきた。
 今回も、こうして書き直しながら、1週間ほど、じっくりと心の準備をしてきた。
 文章化は、ささやかなことで、個人的なことだが、自分の考えや勘違いや知識の修正にも有効だ。
 むしろ、これからは、五感では捉えることができないことに臨むわけであり、その手助けになるものとしては、今のところは文章化しか知らない。
 よって、こういう積み重ねこそ、自分は大事にすべきなのだ。


 いつも残念に思うことは、普遍的で共通することは、誰もが直に経験し続けていることでもあり、お金に換算できないことでもあり、時間制限も無いことだけに、つい後回しにしがちだったことだ。
 油断すると、堕落する傾向がある。
 つまり、自分の怠惰や卑劣さなどの悪癖も、改善しきれていない。
 この点は、要注意&自己管理とし、こういう意味で成長させたいところでもある。


 どんな名医も、自身の老化に勝てず、どんな天才も、やがて死を余儀なくされる。
 つまり、知能も備わっていて、生涯、生きていることはどういうことかを直に経験し続けて、最期に至る。
 しかも、数十年も生きたのに、肝心な自分のことを未理解だとなると、死を受け入れ難く、死ぬのが辛い。
 そもそも、学習し理解することであり、好みや価値観にも左右されるだけに、備わっている知能を誤用もするし悪用さえする。それがどんなことかを、最期に思い知らされることになる。
 言い換えると、知能は、本来はどういうことに使うべきだったのかを最期に問われることになる。

 これから臨むことは、お金にはならないが、精神的な充実は間違いなく得られる。それは、これまでの経験で裏付けられてもいる。
 もちろん、最期は、「この身体ももう要らない」と納得できる裏付けを得た境地に達していることが望ましい。
 いわば、その境地に達することが、即他界することだとしても、「この身体ももう要らない」と納得できる裏付けを得ているのであれば、むしろ望ましい。


 結局、年々、きわめて個人的な世界に入ってゆくことだけは間違いなが……
 個人的な世界とはいえ、普遍的な面は誰にでも共通なので、誰にでも共通することを理解することにもなる。

 よって、可能な限り記事にしたいと考えております。

 昨年と変わらぬご愛顧を、今年もよろしくお願いします。

 
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未熟

 
 余裕があるんだろうな……
 美味しい料理、旅行、異国。

 でも、そんなにいいのかなあ……
 俺だけが、いまだに未熟なのか……

 否、否、テレビ画面の向こうの世界だ。
 具体的なことを確かめられないことばかりだ。
 具体的な否定もできない、具体的な肯定もできない。
 具体的なことは未知だからこそ、興味ばっかりが煽られる。
 しかも、見た目だけを参考に想像しているに過ぎない。

 だからこそ、テレビ画面の向こうでは、いかにも尤もらしく見せ、いかにも素晴らしいかのように見せているのだろう……
 デメリットの類は、ほとんど出さない。

 それを見て、自分が勝手に想像をしているに過ぎず、自分で勝手に興味を煽っているに過ぎない。

 想像に過ぎなくても、心も動く。


 財布を失くしたと思った時も、まだ想像に過ぎない段階だったので、事実は未確認だったのに、心は焦り慌てた。
 が、思い当たるところを確かめただけで、見つかった。それこそが、事実だった。事実によって、想像や心配は一掃された。


 ブナ林の中でタケノコ採りをしながら尾根に向かって登ってゆくと、平地状になっていて尾根が3方向に分かれる。そういう場所なので、迷わないように気を付けていた。が、いつのまにか下りに向かっていたことに気づいた。
「迷ったかもしれない」
 そう思ったあの時も、まだ想像に過ぎない段階なのに、焦り、パニック気味になった。
 消防団員として山岳遭難の捜索に幾度か出動した時のこと思い出し、自分で心配を煽るような想像ばかりし始めたからだった。

 でも、同じ山の違う場所で、リュックの置き場所が分からなくなったと思い込んだ時は、単なる確認不足と先走った想像に過ぎなかった。そのことを思い出したので、冷静になろうとした。
 それでも、迷ったら大変なことになる。そのことの方が気になるだけに、自から心配を煽るようなことばかり想像しがちだった。

 ところが、それに基づいた行動はできなかった。想像に過ぎなかったからこそだったのだろう。まだ、想像通りの状態になっているわけでもない。それこそが事実だったからでもあったのだろう。
 動き回らなかったこともあって、しだいに冷静になり、想像を止め、辺りを見回した。
 鉈で切り落とした小枝の切り口がある。見覚えがある、誰かが付けた目印だ。
 ならばと、少し戻ってみた。それだけで、迷っているわけではないことが分かり、想像や心配は解消した。

 想像に過ぎなくても、心も動く。
 それどころか、事実確認をせずに、むしろ自分で心配を煽るような想像ばかりしていたに過ぎず、自分で心を迷わせていた。
 もし、迷ったと思い込んで相応の行動をしてしまったら、実際に迷ったであろうことは間違いないし、想像が事実になってしまう。


 かつて、自分のことを「すっかり一人前だ」と思っていた。
 それが、根拠も理由も無い単なる勘違いや思い込みに過ぎなかったことに気づいた。
 つまり、実際には、肝心な自分のことをほとんど知らなかったことが判明した。
 あの時は、経験したことが無かった深い孤独に陥った。

 でも、どういうことを知ればいいのか、どういうことを知らないのか、それさえ知らず、孤独の世界を彷徨った。

 深く落ち込んでしまった精神状態を一向に改善できなかっただけに、「精神的に異常なのではないか」と思うようになった。
 でも、精神的に異常か否かを具体的に肯定したり否定したりするだけの知識も、自分には無かった。つまり、「精神的に異常なのではないか」と思ったのは、想像に過ぎなかった。
 ところが、想像に関する具体的な知識も、当時の自分には無かった。だから、「精神的に異常なのではないか」と思ったのは、想像に過ぎないんだということを、自覚できなかった。
 つまり、想像に過ぎなかったのに、それを解消できなかった。

 一向に解消できなかったからこそ、むしろ「精神的に異常なのかもしれない」と思い込みはじめた。
 つまり、自分で心配を煽るような想像ばかりしていたのに、そうであることも把握できなかった。

 解決できない上に不本意なことは、考えたくもなくなった。
 こんなことを、「他人に知られたら困る」、「他人には知られないようにしよう」、などという思も増した。
 よって、「精神的に異常かもしれない」という思い込みに関しても、それは想像に過ぎないんだということに関しても、自覚し難くなったことになる。

 もちろん、「精神的に異常なのではないか」という思いは、解消されず、むしろ記憶の底に封じ込め続けた。
 つまり、不本意な思いを抱え込んでしまい、それを解決することとは逆のことばかりしていたことになる。そうであることも、もちろん把握できなかった。
 だからこそ、そうし続けた3年間、葛藤を余儀なくされた。

 後に、無知で愚かだったことを自認することになるが、まさにそのものだった。
 まさに、自分のことを殆ど知らず、それがどんなことなのかを、思い知らされていたのだった。

 病院に行けば間違いなく精神面が異常だと医者は言う。
 それも想像に過ぎなかった。だから、実際に病院に行こうものなら、想像ではなく事実になったかもしれない。
 精神異常者として生きた方が楽かもしれない。否、精神異常者よりは、精神面の病気だと思われた方が楽だ。
 が、想像に過ぎなかったからこそ、相応の行動はできなかった。
 五感は普段と変わらず機能している。普段通り意識もある。いつものように考えることもできる。
「俺は、異常ではない。病気なんかじゃない。自分のことを知らないだけなんだ」

 3年も経って、やっと気づく。
「上辺だけでも、良く見られようとしていた」
 悪く見られまいとしていた。
 そのために不都合なことや不利なことは見知られまいとしていた。
 それは、自分のことをほとんど知らないことや、自分が異常かもしれないことを、隠し偽ることでしかない。つまり、解決することではなかった。自分を知ることでもなかったのだ。
 ついに自分の考えを把握できた。それだけで、明らかに心が晴れた。
 しかも、上辺だけでは、侮り騙し欺く類だ。だから、行動できなかったのだ。
 3年前に、やっと気づいたが、考えただけで分かることだった。が、それを台無しにしてしまうようなことばかりしていた。だから葛藤を余儀なくされたのだ。
 自分のことをいかに知らなかったかを思い知らされ、その自分の知らなかった面を知り初め、そのコツとも言える省みることも覚え、不本意な葛藤も激減した。
 二度と陥るまいとも思い、繰り返し、記憶に残っていることを整理して確かめた。

「そもそも、事実か否かを確かめたわけではない。頭の中だけで想像していたに過ぎなかった」
 具体的なことを知らず具体的な肯定も否定もできないからこそ、想像をする。それだけでも、具体性に欠けていて信頼性は乏しい。
 しかも、頭の中だけでできる想像は、事実確認をせず根拠や理由を無視したことなので、し放題だ。当然に、的外れの方が多い。
 現に、想像した内容には無理や矛盾さえあり、それを前提にして考えてしまう考えにも無理や矛盾があった。
 でも、具体的に否定できなかったがゆえに、更に心配を煽る想像をし勘違いし思い込んでしまった。
 が、受け入れることは不本意だった。俺は、異常ではない、病気でもない、自分のことを知らないだけだ、とも思えたからであり、相応の裏付けになる事実もあったからだった。そんな事実と想像の矛盾により、葛藤を余儀なくされた。
 想像に過ぎず具体性に欠けていたからこそ、精神科医を頼る行動もできなかった。

「俺は、異常ではないんだ、病気でもない」
 想像にばかり囚われていた。が、考えに関することであり、記憶にも残っていることだけに、考えただけで分かることだった。
 まさに、自分のことをいかに未理解だったかを思い知らされていた。自分の考えに関することをさえ未理解なことが、どんなことなのかを、3年間も思い知らされていた。
 まさに、無知で愚かだったのだ。

 無知で愚かでいいはずがなく、知らなければ困る最たることが存在することも、十分に思い知らされた。
 しかも、記憶に残っていることに左右されていることが多いだけに、考えるだけで解明できることが多いことも判った。
 具体的に把握しようと思い、目まぐるしく考えるようになった。
 そもそも、勘違いや思い込みは、そうであることに気づけないことによって成り立つ。
 そんな勘違いや思い込みに気づけたわけだから、知能自体は正常だったことが実証されたようなものだった。
 日常的にも、納得できなかったり納得したりし、理解力を発揮していた。だからこそ、根拠も理由も無い勘違いや思い込みに、気づくこともできたのだ。
 そんなことも知らずに、勝手な想像をして自分で困ったわけだが、解決や理解とは矛盾することだったからでもあったのだ。

 3年前まで「一人前だ」と思っていたのも、まさに勘違いや思い込みに過ぎなかった。そうであることに気づけなかったからこそ、平気だった。が、あの頃の方が異常的だったことになる。
 そうだったことに、気づいたわけだから愕然としたが、あれは正常なら当然だったわけであり、正常に戻れた証だったことになる。
 外見的なことだけを基に想像することを頼り過ぎていたばっかりに、異常を正常と判断し、正常を異常と判断していたのだ。

 いかに無知で愚かだったかを具体的に理解するようなものだったが、気づくことができたからこそ、遅れ馳せながら、自分に関して未理解だったことを着実に理解してゆくことになった。


 言い換えると、想像を頼り過ぎるようになったからであり、そのデメリットを思い知らされたとも言える。

 自分の考えに関することを未理解だった頃は、見た目だけや第一印象だけで判断しがちで、そうであることを自覚し難かった。だから、相応の振る舞いまでしていた。
 が、自分が想像しているに過ぎないのに、そうであることを自覚し難くなっていたわけだから、まさに自分の心を見失っていたことになる。
 見失っていることに気づきもしなかったからこそ、平気だった。

 ところが、自分の心を見失っていたことに気づいた。だから、心はパニックになった。それくらい重要なことだからだった。相応の孤独を味わったのも当然だった。が、そうであることも把握できなかった。

 早々に事実関係を具体的に把握できるわけではなく、早々に自覚できるようになれるわけでもない。
 むしろ、すっかり慣れていたこともあって想像ばかり頼りがちだったからこそ、「精神的に異常なのではないか」と想像をし、想像に過ぎないことを自覚できなかったからこそ勘違いして思い込み、そうであることを自覚できず解決できなかったからこそ3年間も不本意な葛藤を余儀なくされた。
 まさに、想像のデメリットを体験していたようなものだった。

 基本動作や日常会話や相応の情報処理が祝連するように、想像を頼ることも熟練する。
 熟練したことほど、修正が困難になる。

 そんなことも解っただけに、映画やドラマは見なくなり、やがてテレビ自体から遠退いた。


 確認もせず根拠も理由も無い想像は抑制するようになり、とりあえず否定的な考えや肯定的な考えで検証したり、根拠や理由を確かめることを促進するようになった。
 よって、根拠も理由も無い思い込みや先入観や固定概念も、事実か否かを確かめて解消するようになり、自分の未理解だった面に関しても次々に理解することになった。


 だから、想像の類は自制が可能になったつもりでいたが……
 以後、同様のことは無くなった。いつのまにか、そんなことからは遠退くようになった。
 だから、見映えに惑わされそうになっていたのか……
 想像に過ぎなくても、心も動く。
 自分の想像を自分で煽って、期待したりさえする。それ自体が、すでに翻弄されるようなものなのだ。

 見映えに惑わされちゃ駄目だ。
 優れていると思わせようとし、そのために競い争い、私利私欲を貪っている。
 ああいう世界は、俺の望みを叶えてくれるものではない。
 いかにも尤もらしく見せかけ、素晴らしいかのように見せ、優れているかのように見せかけて、想像を煽り、誘惑し、翻弄する。まさに、想像のデメリットを悪用して私利私欲を貪っている。

 が、彼らは、俺を侵害しているわけではない。
 俺にも、自殺や殺人を阻止する力など無い。
 俺が惑わされなければ、それで済むのだ。
 惑わされず、行動をすら一切止めて、ただ省み、考えただけで明らかになったことが圧倒的に多い。
 残されている課題も、そうしてしか解明できないはずだ。
 それは、余計なことに惑わされれば見失う世界でもある。
 その先にこそ、俺が目指す世界がある。


 えっ! クリスマス?
 それ、俺の人生には、もともと組み込まれていないです。
 時には祈りたくさえなる自分にとっては、浮かれるようなことは要注意でもある。

 見映えの良さに、惑わされ目を奪われ心を奪われて翻弄されてさえ、愚かだとは思われまいとし、不利なことや不都合なことは隠し偽り偽装し、素晴らしいことであるかのように振舞いがちだった。
 嘘の類は、更に隠し偽り偽装することを余儀なくされる悪循環に陥る。そうであることをさえ、隠し偽り偽装しがちだった。

 あっ、自分の狡さの解明が、まだ不十分だからだったのか……

 
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疎遠

 
 どうしたことだろう……
 創作も予定していたのに……

 野良仕事に限ったことではないが、行動的なことは、目の前の事実に基づいたことを行う。
 形態だったり、音だったり、匂いだったり、味だったり、感触だったりするが、それらを逐次、識別し思考し予想し、相応の振る舞いをし、相応の結果も伴う。
 だからこそ、山菜採りに行ったり、キノコ採りに行ったりもする。

 パソコンの修理・再生も、同じことだ。
 安価で部品取にもなる壊れたパソコンを主に入手して、不具合個所を見出し、直して再生する。
 素人の自分には無理なこともあるのだが……

 山菜やキノコを探し出して獲得するのに似ていて、そこが魅力でもある。
 かつて、3年間も葛藤を余儀なくされ、そんな自分の考えの無理や矛盾に気づき、考えや記憶を整理したことで解消した。あのことにも、似ているからだと思う。

 それらと比べると、文章だけの世界は、「口先だけなら何とでも言える」のと区別し難い世界でもある。
 内容が個人的なことだとなると、尚更だ。
 記事を書くことから、離れがちになるのは当然なのかもしれない。

 そんな自分の個人的な考えが影響しているだけなのだろうか……
 やってみたいと思うようになり、アイデアや構想も用意するようになった創作に、臨めない。
 もちろん、実力が無いことも要因だ。

 でも、まずやってみて、不具合を修正し、その結果を確認するなど、そういうことを繰り返したことこそ、実力も得られる。


 自分のパソコンのハプニングに備えて、可能な限りのことは憶えておこうと思って、パソコンの修理・再生を始めたが……
 入手したものには、修理が不要だったものもあり、リカバリやUpdateするだけで再生できたものもあった。
 壊れている個所が、液晶画面だったりすると、目に見える。
 ところが、パソコンの不具合の理由は、電気的なことが主で、壊れている部分が見えない場合が多い。そんな不具合個所は、五感を駆使しても直に捉えることはできない。
 でも、相応の症状は生じる。
 その症状を手がかりに、電気的にはこういう順序で起動するように作られていると言われるわけだからという電気的構造的なことに関する知識を基に推察や推理して、不具合の箇所を推定して、直す。
 的外れだった場合は、やり直すし、直るまで繰り返す。
 その結果が良くても悪くても、見ることはできない電気的構造的で基本的なことに関する知識は確かになってゆく。
 電気的構造的なことに関する知識が確かになるほど、不具合個所の推察や推理は容易になる。

 しかも、心の整理に似て、五感で直には捉えることはできないことことが対象であることに、魅了された。
 魅了されたことで収入が得られるのなら、魅了されたことにどっぷり浸かれる。
 ここまで憶えたんだから、黒字にできてこそ実力を実証でき納得できる、とさえ思った。
 結局、再生して売った数は50台を超えた。

 が、次々に高性能化されて発売される新製品には圧倒される。リカバリしUpdateした再生品を売っても赤字が増える。
 趣味だ教材費だと考えるには限度があり、縮小が必須だ。
 が、時代遅れなので諦めたこともあり、2011年以降発売のパソコンに絞ったが、まだ直せないこともあり、まだ知らないこともある。
 新製品には追いつけるはずはないが、修理・再生は簡単には止められない。

 知らなかったことを憶えることができ、できなかったことも随意にできるようになれる。
 日常的に実用する基本動作や会話などは上達したわけだし、そのための内面的な情報処理が熟練したからにほかならない。


 そもそも、中学に進学した頃は勉強しなくなっていた。
 中卒後は、活字には縁が無い肉体労働をしていた。
 が、心の整理が必須になった。
 要だったのは、「知らなかったことを憶えることができ、できなかったことも練習相応の随意にできるようになる」という事実だった。
 会話できるだけの理解力もあり、日常的に、辻褄が合わないと納得できなかったり、辻褄が合っていると納得していたからでもあった。

 やっと判ったことも、忘れがちだったので、メモをし始めた。
 想像 勘違い 思い込み そんな程度のメモで、当時は文章にはならなかった。

 やがて、精神面を文章化することによって、精神面も整理されて理解も深まることに気づいた。
 そこで、文章を書く練習も兼ねて、文章化することを以て心の整理をするようになった。

 そこに、ワープロ専用機が手の届く価格で発売され始めた。
 これが、単なるメモを、文章らしくすることを加速させてくれた。
 キーボードが、人間工学に基づいたもので、左手側が母音で、右手側が子音で、キーの配列がアルファベット順に並んでいたので、寝床に入ってからでも記憶を頼りに入力の練習ができたので、短日間でブラインドタッチも可能になった。

 当時は、フロッピーディスクに保存されたが、書きかけの文章を後で書き上げることはしたことがなかった。
 毎回、新規に書き始めるのが常だった。
 文章を書く練習も兼ねていたからだった。
 が、書き上げられなかったのは理解が不十分で具体性に欠けていて行き詰まったからであり、それは勘違いや思い込みが多々あることを物語っていたからでもあった。

 つまり、メモを始めた3年ほど前に、自分のことを勘違いし思い込んでいたに過ぎなかったことに気づき、肝心な自分の心に関することはほとんど未知だったことを知ったからだった。
 しかも、葛藤を余儀なくされ、自分の考えの無理や矛盾を把握できないからだと気づき、自分の考えに関することを具体的に把握し心が晴れたが、それまで3年も要した。
 まさに、自分の考えに関することをすら把握できなかったがゆえに葛藤を強いられ、そうであることを3年間も思い知らされていたんだということも、やっと理解できた。
 何かを知る度に、いかに無知で愚かだったかを思い知らされた。
 もちろん、自分のことを知ることで救われる。自分のことを具体的に理解するほど救われる。
 そんなことをやっと理解し始めた頃だったからでもあった。

 メモは、文章になった。
 心に関することを文章化することは、心に関することを再検証することでもあることに気づき、理解を深める手段として欠かせないものになった。
 理解できたことは、識別でき自覚できるようになり、応用も活用も可能になった。
 理解が、更に理解を深める手助けをしてくれた。


 そういう背景があるからこそ、今、こんなことを書きながら、書く妨げになっていることを見出して解消しようとし、突破口を見出そうとしていることにもなのだが……

 待てよ?!
 書き始めると、滞りながらも、書き進む。
 通常、疎遠になったことほど、親密さを回復するのが難しくなる。
 単に、それだけのことなのか?

 かつて、考えただけで分かったことがあった。
 不思議だったので、考えてみたら、相応のことが記憶にあったからだった。
 つまり、それまでは、考えなかったから、記憶にあることにさえ気づかなかったのだった。
 更に考えたら、的外れなことに目を奪われ心を奪われがちだったからこそ、肝心なことは考えもしなかったことが分かった。
 しかも、記憶にあっても、不都合なこととして認めまいとすれば、その事実関係を把握できないわけだから改善もできない。ということも分かった。

 そんなことを今更のように思い出すくらいだから、その世界に迷い込みそうになっているのだろうか?
 臨むに値しなことに、臨もうとしているということなのか……

 誰にでも共通することなら、口先だけの類にはならない。

 書き慣れるためにも、古い記事の再編集でもやるか!
 年月を経て、考え方や見方は変化したわけだから。

 
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野良仕事をしながら思ったことだが……


 知人の考えは十人十色だ。ブログが千差万別であるのと同様だ。
 理解し合えないことが多々ある。親子でさえ理解し合えることは限られ、家庭内が惨状と化すことだってあるわけだから、当然なのかもしれない。

 でも、支障が無いことが殆どだ。
 妥協だってする。
 逆説的であっても、良い刺激になったりもする。
 むしろ、仕事では協力もする。
 仕事と言っても、報酬目的の仕事ではなく、親戚の農家同士の助け合いだが……

 農協に出荷する仕事には、相応の規定がある。
 その規定に基づいたことを行うから、協力も成立する。
 規定は、その仕事をする人にとっては共通することだからだ。

 幾度か世話になった大工が、生前に言った愚痴を思い出した。
「俺は、兄貴の農作業に手伝うことができる。でも、兄貴は、俺の大工仕事を手伝うことはできないんだから」
「なるほど」
 と、あの時、納得した。

 でも、農作業も、規定の内容を分かっていない場合は、協力できることは限られるのだ。
 いずれにしても、内容や決まりを具体的に知っているほど、具体的な協力もできる。

 つまり、共通なことを具体的に理解していることほど、積極的な協力も可能なのだ。

 共通なこと、と言えば……

生存上の基礎や基本的なことも共通だ


 生理面は、本人が未理解でも、つまり自律して機能している。
 もちろん、生後に習得したことを以ては(人為的には)変えようが無いのだから、普遍的であり誰にも共通する。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も、誰にでも備わっている。
 そうであることも、普遍的なことであり、誰にも共通する。

 しかも、誰もが直に経験し続けることでもある。
 という点でも、共通している。

 知能が備わっていることによって、知らなかったことを憶えることができ、相応のこともできるようになる。
 つまり、知能が備わっていることによって、経験相応の印象が記憶に残り、そんな記憶を参考に識別や思考や予想などが可能になる。だから、相応の振る舞いも可能になり、それらに結果が左右される。
 この点も、誰でも共通する。

 そもそも、誕生当初は、寝返りもできない。
 が、寝返りができるようになり、這って移動できるようになり、掴まって立ち、二足で歩き、二足で全速で走るようになる。
 ちなみに、無重力状態の宇宙滞在で、骨や筋肉に負荷をかけない日が続くほど骨や筋肉は衰弱することも判り、地球上でも実験されて実証され、いまでは無重力状態の宇宙でも運動が必須になったと言われる。
 それ以前に、基本動作を学習することが重要だということになる。

 不器用だった手も、器用に使えるようになる。先に器用に使えるようになった方の手を優先的に使うから、右利きになったり左利きになったりする。
 大人になってからでも、利き手ではない不器用な方の手を器用に使う練習をしてみるだけで分かることもある。

 知らなかったことを憶えることができる知能の性質上、繰り返したことほど、記憶に残る印象は確かになり詳しくもなり、その記憶を参考に識別や思考や予想が可能になるだけに確かで詳しい情報処理が可能になり、それだけ積極的で具体的で振る舞いが可能になり、より着実に結果をだせるようになる。
 そういう、知能の性質や、学習経験をしていることに、気づくからこそ、観察したり確かめたり試したり練習したりする。
 つまり、経験上知った知能の性質を、随意に活用するようになる。
 そうしたことほど、確かに詳しく憶え、上手にできるようになり、いわゆる習熟し上達する。
 つまり、独自に、内面的な情報処理上で、不具合を修正し、より信頼できる確かな詳しいことを憶え浄化するからこそ、巧みなことも随意にできるようになる。
 だからこそ、基本動作が上達する。
 よって、この点も誰でも共通する。

 知らなかった言葉も、片言で話し始める。
 大人になってから、未知だった外国語を新たに習得するときも、同様のことをする。口・唇・舌・声帯・呼吸などを調整することを新規に学習すると言っても過言ではない。

 文法も憶えるから、説明できるようになる。
 つまり、記憶にあることや気持ちや考えを、言葉で整理しつつ文法に基づいた文章化ができるようになる。だから、言葉で説明できるようになる。
 よって、相手が話したことも、自分の記憶にあることを参考に整理しつつ解析でき、理解できるようになる。
 だからこそ、不明な部分があると、納得できなかったり、妥協したりもする。が、不明な部分は尋ねて確認したりしてでも理解し納得したりもする。

 基本動作や会話ができるようになるのは、相応の情報処理を内面でできるようになった証でもある。
 基本動作や会話や、そのために内面で行う情報処理は、誰でも日常的に発揮するようになる。

 経験相応の印象が記憶に残り、相応の識別や思考や予想などの情報処理が可能になるから危惧したり期待したりし、よって避けたり躊躇したり積極的になったり相応の振る舞いが可能になるし、相応の結果にもなる。
 上達するるためには、相応のこコツなどを習得する必要があり、そのためには相応の練習や観察や確認などが必要だ。
 そう因果関係や法則も普遍的であり、自身の行動面を左右するわけだから、その法則や因果関係も理解できるようになる。

 実際には過ぎ去ってしまったことの残像とも言える記憶を参考にし整理することによって理解できるだけに、五感では捉えることができない関係や法則なども理解できるようになる。
 約束がどういうことことも理解できるようになり、計画的なことも可能になり、ルールなども理解でき、その理解し記憶に残っていることを基に相応の振る舞いもできるようになる。
 理解したことも記憶に残るだけに、活用も可能になる。

 学習し繰り返し実用される日常生活上の基本的な動作や会話は、記憶にあることだけを基に識別や思考(理解)や予想までできるようになからこそ可能になる振る舞いにほかならず、まさに熟練する。
 基本的な動作や会話や相応の情報処理が熟練することも、誰にも共通する事実だ。
 しかも、基本動作や会話や相応の情報処理は、日常的に発揮するようになる。そうであることを、誰もが直に経験する。

 見方を変えると、生存上、知らなければ困ることがあることを経験し、相応のことを憶え、できなければ困ることも随意にできるようになる。それだけ、困ることは減少する。
 その行動上の中枢が、自分の記憶にあることを参考にして行う識別や思考や予想などの情報処理であり、振る舞いや結果を左右することでもある。だからこそ、その結果に一喜一憂する。
 リスクが伴うからこそ、不明なことは、確かめようとし知ろうともするし、研修や教習や学校にまで通いもする。
 その内面で記憶を参考に行われる識別や思考や予想などの情報処理が要であり、その思考力や理解力も上達し熟練する。
 その基本的なことほど、日常的に繰り返される。
 よって、その情報処理(行動上の中枢)に関係する法則や因果関係は、年々、本人は詳しく理解できる条件が整ってゆくことになる。

 学習上では、個人的に経験していることや学習して随意にできるようになるなことそのものが重要なのだが、人間関係に関することも学習する。
 されて嫌なことは、自分がすれば、相手は嫌がられるだろうという判断は容易だ。
 個人的にも、より信頼できる確かな詳しいことを知ろうとするように、友達や親友も信頼できるか否かが重要になる。
 信頼できず尊重できないのであれば恋人としては成立しないし、子供を産み育てるパートナーは厳選せざるをえない。

重要なことは


 知的面は、小学生の頃までに学習して実用するようになる。
 それを基に、大人の営みがある。これらの知的性質や運動機能も、更に応用や活用して鍛え強化することも可能だ。
 が、あくまでも、赤ん坊の頃から小学生の頃までに、大人の営みの知的面の基礎や基本を学習する。
 もちろん、不具合や勘違いなども独自に修正し自浄能力も発揮するからこそ、上達し、熟練する。
 これが、重要でないはずがない。

 まだ言葉を知らない赤ん坊の頃に、頭の中で、記憶を参考に識別や思考や予想などの情報処理を行えるようになれないと、相応の振る舞いもできるようにはなれない。
 その頃の、中枢である内面的な情報処理に関することは、大人でも教えようが無い。
 つまり、大人でも教えようが無いことを、赤ん坊の頃に独自に学習する。
 もちろん、大人が教えないことも、子供は憶える。大人が憶えて欲しくないと思うことも、子供は憶える。
 大人になってから、未理解だったり、勘違いしていたり、的外れなことを思い込んでいるよりは、幼い頃の自浄能力も発揮する学習能力自体の方が優っている。

 備わっている知能も、どこかの天才が創ってくれたのではない。むしろ、天才には創れないほど高度な知能が誰にでも備わっている。

 自律して機能している生理面も、どこかの名医が創ってくれたのではない。むしろ、名医でも治療し尽せないほど巧妙にできている。
 絶妙にできていることは、健康な時にこそ誰もが直に経験し続けている。
 つまり、生後に学習し理解し習得することよりも、自律している生理面自体の方優っている。
 そうであることを未理解なまま大人になったりするわけだから。

 また、誰もがそうである、ということも重要なことである。つまり、人為的には変えようが無く、普遍的だからこそ共通するわけだから。

 むしろ、外見上、尤もらしく、いかにも本当らしく、優れたことであるかのように工作し、競い争ってまで、人の目を奪い心まで奪うことこそが、本来は普遍的で共通で歴然としていて重要で尊いことを見失わせてしまう。
 経験し学習する性質上、影響を受けやすいからこそ、知能を誤用するようにもなるし悪用さえするようになる。

共通なことを未理解だから解決が困難な状態にも陥る


 経験し、学習し、理解できるようになる性質上、経験する内容は個人毎に異なり、好みや価値観の相違も生じるので学習する内容も個人毎に異なり、理解する内容も個人毎に異なる。

 経験し学習する性質上、影響を受けやすいからこそ、直に経験し続けていることといえども、具体的に理解するとは限らない。
 経験し、学習し、理解できるようになったのに、そうであること自体をも、その法則的なことも、未理解だったりする。
 経験し、学習し、理解できるようになること自体は共通でも、それを理解し合えるとも限らない。
 常用し、上達し、熟練し、日常的に発揮している思考力や理解力に関しても、理解し合えるとは限らない。
 つまり、普遍的で共通で誰もが直に経験し続けている生存上の基礎や基本に関することなのに、理解し合えるとは限らない。

 肝心なことを未理解なのに、確かめもせずに、勝手な想像をする。それゆえに、勘違いし、確かめないからこそ勘違いだとも気づけず、むしろ思い込む。
 内面こそが行動上の中枢なのに、外見で判断する。
 つまり、記憶にあることだけを基に情報処理が可能になるだけに、事実確認を要しない安易な想像を頼りがちになる。
 しかも、日常的に繰り返すことは熟練する性質もあるだけに、思い込みも強固になる。
 外見上、尤もらしく、いかにも本当らしく、優れたことであるかのように工作し、競い争ってまで、人の目を奪い心まで奪い、私利私欲を貪る。
 見栄だのプライドだのが絡むと、更に強固になる。
 言い訳もする。嘘も吐く。
 つまり、事実や真実を歪めもする。
 不都合だと思うことを隠し偽ることも、慣れる、上達もし、巧みにもなる。
 強情を張る。逆上さえする。口封じまでする。逃げ隠れする。
 つまり、知能を誤用もし悪用さえするようにもなる。

 生存上の基礎や基本に関することは共通なことなのに、親子で理解し合えなくても不思議ではない。
 生存上の基礎や基本に関することは普遍的で共通で重要なことなのに、学校では9年間も全く違うことを憶えさせようとする。
「大人は間違っている。大人は子供を洗脳しようとしている」
 そう叫んでも、餓鬼扱いされる。
 最低限平和であってほしい家庭内が惨状と化す。
 偏見は、打開が困難で、厄介だからだ。

 あ! そんなことは言っちゃダメ。
「無免許運転は、事故を起こすのは当たり前だ」的な言及をするから、相手を身構えさせてしまう。
 つまり、軽薄な言及は逆効果になる。
 そんな自分の軽薄さこそが、厄介だ。ということになる。


 だから……
 こんなことに、取り組もうか。
 この冬場には……

 
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そろそろ

 
 思考モードを切り替えなきゃ。

 何かをやりだし、継続するほど、思考モードを切り替えるのが難しくなった。

 陽は短くなり、すっかり寒くなった。その所為でもあるのかなあ。

 が、言い訳は止そう。

 とにかく、思考モードを切り替える努力をしよう。

 それだけを考えて、余計なことを考えなければ、それだけで切り替わってゆくわけだから。

 そのために気を紛らすのなら、それはOKだ。

 もちろん、肝心なことを忘れちゃ駄目。

 あ! そうだ。基本心だ。思考自体の基本的な構造も変わらないんだった。

 
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紅葉が真っ盛り

 画像圧縮ソフトが無いので、重いです。あしからず。

紅葉真っ盛り

 かつて撮影した古い画像ばかりで、恐縮です。
 
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好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
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kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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