そもそも、生理面は自律して機能している。
 それは、直に経験し続けている自分自身の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 備わっている知能で、感じ意識し識別し思考し、経験し学習し理解できるようになり、相応の振る舞いをし、相応の結果になる。
 そこまでは誰でも共通だが、経験や学習や理解の内容しだいで人生の理由は変わる。
 知らないことは想像もし、それゆえに勘違いもし思い込みもし、他に目を奪われもするし心まで奪われもし、肝心な自分を見失いさえする。
 以上のうちの、誰でも直に経験し続けていて共通することや普遍的なことが、当ブログのテーマです。
はじめに 更新2013/01/21
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冬モードへの意識の切り替え

 
 悪天候続きだったからだろうか……。

 例年になく野良仕事が忙しかったことは事実だ。

 写真は目に見えることなのに、目に見える成果が今年は無かったからか……。

 いずれにしても、すでに2回も除雪機を使い、すっかり冬景色になってしまった。
 それどころか、最低気温がマイナス11度近くまで下がっていた。

 とっくに、冬モードへの意識の切り替えをしていなければならないのに、一向に始める気にならない。


 というより、考えが行き詰まり、その考えに無理や矛盾があることに気づくとき……。
 気づくことに期待して、息を殺すほど心を落ち着かせる。
 あのときの状態に似ている。
 そうするようになったのは、同じことを繰り返し経験したからにほかならないのだが……。
 もちろん、すっかり勘違いし深く思い込んでいることほど、そうであることに気づくのは難しい。

 否……、単なる怠けか!

 ま……、老化が進行していることも否めない。


 でも、こうして書き始めると、また、その気になる。
 いつも、そうだった。
 肝心な自分のことを勘違いし思い込んでいたに過ぎなかったことに気づき、肝心な自分のことはほとんど知らなかったことが判明した。
 的外れだとも知らずに満足さえしていたわけだから、そんな自分に絶望し、深く落ち込んだ。
 でも、生きるしかなかった。書くことで気持ちを整理することが必須になった。
 それでも、今だに、余計なことを気にすると焦る。
 妥協すると、もちろん的外れな方へ行ってしまう。

 いわば、思考パターンが本来の健康的な状態であることが大事であり、それを自分で維持管理できることが重要だった。
 意識の切り替えに好都合だと思って再開した写真では、写真自体は一向に進展しなかったが、意外にも心の浄化は進んでいた。
 あれも、精神面では、妥協しなかったし焦らなかったからだともいえる。
 写真を撮りに行っていたわけだが、精神面では余計な考えを排除して可能性に期待した。その練習を、行くたびに行っていたようなものだった。
 気象現象に関する具体的な知識が無いだけに、余計なことを考える。その余計な考えが排除されるほど、ただただ可能性に期待する。
 そんな精神状態になれるからこそ、写真は一向に進展しないのに、車の燃料費を気にしながら、暗いうちに起きて、撮影ポイントに足を運んでいたようなものだった。

 あ、あれを、まだ引きずっているのか……。
 今年の撮影は、紅葉で終わりにしたのに。

 それとも、写真が一向に進展しなかったことへの未練もあるのか?


 夏、写真に関しては一向に進展しなかっただけに、ヒントを得ようと思い、写真ブログを次々に覗くようになった。
 その先々で、圧倒された。
 こんな写真も撮れるのか。
 どうやってこういう写真は撮るのだろう。
 この人はプロのカメラマンなのか。
 などと思わされもした。
 つい、どんなレンズを使っているのだろうとも思い、使っているカメラは……、などとも思った。

 自分は、中古のデジイチが安かったことで、かつて諦めた写真を、今年たまたま再開した。
 入手したカメラは、使いこなせるはずもなく、人生最後の一眼レフだとも思い、使い倒す気でいたのだが……。
 10年ほど前に D200 で撮った画像も気になりはじめた。それが入っているハードディスクを引っ張り出して見てみた。
 D200 で撮った画像と、使用中のカメラの画像とは、透明感が違う。明らかに D200 の方が自分の好みだ。
 使い慣れてはきたが、使用中のカメラを自分はまだ使いこなせていない。
 否、未熟だからこそ、続けるためには機材との相性も重要なのだ。
 しかも、D200 は、10年ほど経った今では2万円も出せば買える。
 意外な成果があった以上、写真は止めるわけにはいかない。
 むしろ、来年こそ、撮れるものなら、心を浄化した理由までも写っているような画像を撮りたい。
 稀な気象現象という点でも、下手でも、フルサイズのカメラで撮っておきたい。

 そうこうしているうちに、秋の農繁期に入った。
 そして、悪天候の所為か、赤が冴えないまま今年の紅葉は終わり、今年の撮影も終わった。
 写真が一向に進展しなかったことも事実だ。


 ならばと、今年購入した中古のカメラ3台+レンズ5本をすべてヤフオクに出品した。
 なんと、総額では、入手時の総額に近い値で売れた。
 思えば、かつてD200を手放した時も購入価格とほぼ同額で売れた。
 どういうこと?。

 早速、Nikon D750 を入手することに決定。
 D750用のレンズは、主に朝焼けや夕焼けを撮る都合上、できるだけ明るいレンズを欲しかった。
 でも、今年使ったカメラは、いずれも同じメーカー製で、手振れ補正機能がボディ内蔵だった。手振れ補正は有効だった。
 かつて使ったD200は、レンズ側に手振れ補正機能が必要だった。が、ほとんど単焦点レンズばかり使用していたので三脚は必須だった。
 もちろん、絵に描いたような貧乏暮らしの予算上、フルサイズ用のレンズとなると、複数は無理だ。
 というわけで、レンズは、AF-S NIKKOR 16-35mm f4G ED VR 手振れ補正機能付きに狙いを定めた。

 なんと、その狙ったレンズ AF-S NIKKOR 16-35mm f4G ED VR が、フィルター付き、ほぼ新品、保証期間中で保証書付き、なのに他よりも安価、即決、出品されたのは前夜だった。
 即、落札。

 数日後、Nikon D750、開封済み未使用品(レンズキットからレンズを抜き、キャッシュバックキャンペーンに応募済みのもの)を、落札。
 D750 は、今年使ったカメラをヤフオクに出品して得た総額よりも、800円高かった。

 到着した D750 のリコール問題の確認をした結果、いずれにも該当しなかった。



20161123 D750到着当日の動作確認画像より


 予算的には、レンズの分は新たな出費になった。
 その分は、サブ機にしようと思っていたパソコンなどを、ヤフオクに出品して補うことにした。
 数年前から始めた、パソコンの修理再生の勉強上、再生したパソコンを66台ヤフオクに出品したが、黒字にすること自体が容易ではなかったので止めることにした。
 そして、再生67台目は、自分用のサブ機として残しておこうと思っていた。
 が、それは余分なものであり、むしろカメラの方を優先した。

 カメラは、完全に入れ替わった。
 もちろん、この先の冬場は、使わない。
 来年こそはと思う期待が、そうさせた。
 ということは、今年の撮影は終わったのに、カメラは来年用のものを用意したから、まだ気持ちを切り替えられないのか。

 その心は、自分の目にも見えないし、写真にも撮れない。


 これまでもそうだったが、こうして書くと、意識の切り替えができない理由であろうと思われることが次々と判り、具体的な真因は捉えられなくても、意識の切り替えは進む。


 雪に埋もれる冬場に自分が臨むことも、目に見える被写体を撮る写真とは違う……。
 むしろ、目には見えないが紛れもなく存在するものを、文章化することで、目に見えるがごとく明らかにすることに臨む。

 目には見えないが、紛れもなく存在するものには、意味や理由や法則などもある。
 それらは、紛れもなく存在するが、五感を駆使しても捉えることはできない。
 でも、記憶に残っていることを、事実関係に基づいて整理すると、捉えることができる。
 つまり、記憶に残っていることを、事実関係に基づいて整理できる思考力や理解力を発揮することによって捉えることができる。
 その記憶に残っていることや思考力や理解力も、内面的なものなので目には見えないが、紛れもなく存在する。
 だからこそ、それに基づいた相応の振る舞いもし、相応の結果にもなるし、それゆえに結果に一喜一憂もする。

 複数の写真ブログを覗いても、それぞれに個性がある。
 つまり、写真には、その撮影者の考えや気持ちや心も写っていることになる。
 もちろん、撮影者は、そうであるか否かに一喜一憂する。
 ただ、それを、他者が具体的に捉えるのは難しいだけだ。

 言葉で具体的に話すことが無い犬や猫も、いろんなものを見分け聞き分け嗅ぎ分けて相応の行動をしている。
 現在地からは見えない所を目指しもするし、スキップに似た駆け方もするし、近道もするし、帰っても来る。
 犬は尻尾を振るし、猫は尻尾をピーンと立てる。
 さまざまな反応や振る舞いを見せるが、それらは、相応の気持ちや考えがあることや、相応の学習をしていることを、如実に物語っている。
 もちろん、人も、まだ言葉を話せない頃は同様だ。
 ただ、それらの内面的なことは、目には見えない。
 でも、目に見える事実を整理したり、記憶なしには識別できないし相応の感情や気持ちも生じないし相応の行動もしないなどと整理すると、目には見えないことも思考上には浮かび上がってくる。
 自分の精神面も、基本的には同じ構造であることを理解できていると、目には見えないことの方が重要で尊いものとして観てくる。
 かつて、考えに無理や矛盾があって苦悩した場合でさえ、本来は高度な知能を誤用していた状態にあったからであり、知能の尊さを理解できていないからでもあった。

 その見ている側の、中枢である内面的な心を、あたかも目に見えるくらいに明らかにしたいものだと思う。
 可能なら、考えの無理や矛盾までもが一目瞭然になるくらいまで明らかにし、解決を容易にしたいものだと思う。
 少なくとも無知と愚かさを思い知らされた自分の心をそういう風に捉えられるようになりたいわけだが、これこそが、自分の人生上のメインテーマでもある。


 そもそも、本当に大事なものは、目には見えない。
 本当に大事なものこそ、お金では買えない。

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人生観

 

進化


 現代人が誕生する以前に、現在のような形態になった。現代人は関与できない次元のことである。
 つまり、進化自体は、人為的なことではないので、自律していることになる。

 ちなみに、生後に習得したことを以って治療できることは限られているからこそ、名医と言えども死ぬ。
 名医と言えども、犬や猫の治療にすら限度がある。
 人に限らず犬や猫なども、生きていること自体こそが、人が生後に知り得ることを超越した存在であることは歴然としている。
 むしろ、人が生後に知り得ることには、錯覚もあり、的外れな勘違いもあり、根拠も理由も無くて否定できないがゆえに思い込んだりさえするわけだから。

誕生


 本人の意思はまだ無い。
 つまり、進化上形成された生殖機構に基づいて、自律して分化し身体が形成されて、やがて誕生する。
 内臓などの生理面も自律して機能していて、本人の意思や考えに因るものではない。
 だからこそ、微生物や植物や野生動物や犬や猫なども、生存し続けられるし、生殖や世代交代もするし、子育てをする動物も少なくない。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も備わっている。もちろん、人以外の動物にも備わっている。

 ちなみに、備わっている知能は、どこかの天才と言われる人が創ってくれたものではないし彼らが発明したものでもない。
 むしろ、天才と言えども、備わっている知能を使って、環境を破壊するものを発明したり、人類を破滅させかねないものも開発する。
 つまり、生後に習得した内容しだいでは、対生存上で知能を誤用し悪用さえする。
 言うまでもないが、微生物や植物や野生動物でさえ、人が生後に知り得ることを超越している存在なのだ。

成長


 成長自体も自律していて、本人の意思や考えに因るものではない。

 知能も備わっていることによって、そうであることを直に経験できる。気になることほど、しっかりと意識する。経験相応の印象が記憶に残り、記憶に残っていることを参考に識別が可能になる。
 繰り返し経験したことほど、本人の記憶は確かになり詳しくもなり、本人はより的確な識別が可能になる。
 そんな性質上、よく知ろうと観察したり確かめたりしたことほど、勘違いや間違いの修正もできるので更に記憶は確かになり詳しくもなり、より的確な識別や判断や予想なども可能になる。
 よって、繰り返し試したことほど、上達する。つまり、複雑な思考や予想なども可能になる。相応の振る舞いなども可能になり、相応の結果になるようにもなる。
 言い換えると、経験不足で未学習で随意にできなくて不自由だったことが、経験し学習し上達して随意にできるようになる。しかも、大人に助けてもらうことも憶えるので、自分の実力を超えた協力を得られる。だからこそ、好奇心も旺盛になり、盛んに学習するようにもなる。
 それは、意思の成長でもあり、自信の成長でもある。


 ちなみに、小鳥は、木々の枝にぶつからずに、枝の間を通り抜けるし、高い木の小枝に上手に止まれるようにもなる。
 猫も、小急ぎに出かけもするし、近道もするし、現在地からは見えない所に向かいもするし、ちゃんと帰ってくる。
 また、人が戸を開け閉めするのを見て、猫も戸を開けることにトライし、一旦できると、次からは簡単に開けて出かけるようになる。
 でも、猫は戸を閉めることは憶えないので、猫が戸を開けられないようにすると、猫は「ここを開けられなくなった」とか「ここから外に出たい」とか「ここを開けて欲しい」と言わんばかりの態度を見せ、言葉では言えないので「ニャー」とだけ言う。
 そんな猫の気持ちや考えを、人の方で察して戸を開けてあげると、猫も、開かない戸をガリガリやらなくなるし、戸の前に座って戸を開けて欲しいと言わんばかりに「ニャー」と言うようになる。
 つまり、猫も、人と意思疎通をするほどの学習している。
 人も言葉を話せない子供の頃にも気持ちや考えはあるわけだし、猫にも気持ちや考えはある。が、その気持ちや考えを、言葉で具体的に伝えることはできない。つまり、人の赤ん坊も泣くしかないように、猫も「ニャー」と言うことしかできない。それを、人の側でどれだけ察してあげるかや応えてあげるかに、猫の学習内容が左右されることになる。
 言うまでもないが、言葉で具体的に言えない気持ちや考えを、人が察してあげなかったり応えてあげないと、相応の意思疎通に関することは学習しないことになる。

 もちろん、人の場合は、備わっている知能の性質や能力上、経験でき学習でき習熟や熟練でき理解できるようになり、相応の振る舞いが可能になり、相応の結果が伴う。
 ただし、そうしなかったことは、本人はできるようにすらならないし、簡単に上達するわけでもない。
 つまり、普遍的な存在である知能の性質上、その基本的な機能や能力や、それを基に可能なことには、相応の条件や因果律や法則がある。
 そんな性質上、誰でも、生きているほど多く経験することになる。
 そんな、目では見ることができない理由や因果律や法則や、知能自体の基本的なことは、普遍的なことで変えることはできないどころか、それに基づいたことしか成立しないだけに、誰でも否応なく経験するし、相応のことが記憶にも残る。
 記憶を参考にして、個々の識別や事実関係に基づいた整理が可能な思考上では、事実関係に基づいた一連のことは具体的に理解することも可能になる。理解した内容も記憶に残るだけに、いわば何時でも何処にいても更に熟成させることも応用や活用も可能になる。
 日常会話でも、条件が満たされていないと納得できないし、条件が満たされていることは理解でき納得できるようになるわけだから。
 それは、精神面の基本的な成熟だとも言えるし、本人の意思の確立だとも言える。

 もちろん、直に経験し続ける自身の、経験上のことは、事実関係に基づいた整理をするだけで具体的に理解できる、その準備も整いはじめていることになる。
 また、意識し、記憶を参考に識別や思考や予想もし、それに基づいた振る舞いをし、相応の結果が伴うわけだから、それらの因果関係や法則に関しても具体的に理解できる準備も整いはじめていることになる。

成熟


 生理面の成熟は自律していて、意思で制御できることではない。

 直に経験し続けている自身の経験上のことや、自分が意識し識別し思考し予想して相応の振る舞いをし相応の結果にしている精神面を要とする一連のことは、事実に基づいて整理するだけで具体的に理解できる。それらに関して理解した場合は、相応の自己管理が可能になる。
 想像や勘違いや思い込みや独断や偏見なども、その弱点や特徴などを、経験を基に具体的に理解すれば、その知識を基にして、想像や勘違いや思い込みではないかを自分で検証できるようになる。
 つまり、精神面の自己管理が可能になるわけだから、精神的にも自立する。


 もちろん、生理的には自律して成熟するが、精神的な成熟は経験や学習や理解などの内容に左右される。そんな性質上、躾や教育や環境上の悪影響も絶大だ。
 そもそも、備わっている知能(各感覚器官や意識や記憶力など)に関することは、内面的なことだけに、誰でも個人的に直に経験する。
 その各感覚器官や意識や記憶力などの性質や機能や能力と言われるものを、本人が内面的に活用するようになる。つまり、記憶を参考にした識別や思考や予想などを学習する。
 よって、観察し確かめ試すようにもなり、詳しくもなり上達もし、言葉に関することも理解できるようになり、相応の振る舞いもできるようになり、相応の結果になる。
 それらの、知能の本質に基づいた一連のことを以て、意思が確立し自信も確立しつつ心が形成される。
 そうして形成される心だけに、本来は絶妙にできている。しかも、そうであることを、誰もが直に経験し続け、学習経験もし、上達できることも経験し、会話などでは記憶を参考に条件反射的な速さで情報処理ができるほど熟練することも経験し、それだけの思考力や理解力を発揮するようになる。
 でも、未熟なほど、誘惑には弱い。まして心の形成過程で、保護されなかったり、幼いうちに大人から余計なことを強いられると、当然に心の形成は歪む。
 本来は、誰でも、記憶を整理するだけで理解できるようになるのに、それを他者が阻害し、しかも都合のよいことを学習させることは洗脳でしかない。
 それでも、大人になるほど、経験や記憶は増え、日常的に思考力や理解力は磨かれるので、心の形成や心が歪んだ理由などを理解できる準備は着実に整ってゆく。
 よって、心の歪みや自己管理ができていないことに、気づいたりもする。
 気づけるくらいだから、記憶にあることを整理するだけで理解でき、もちろん自分で修正することも可能だし、必要で可能なのに未理解だったことを今更のように理解することもできる。
 よって、まさに自己管理が可能になるわけであり、遅れはしても精神的に自立できる。

生殖


 有性生殖では、全く個人的には子供は産めない。
 憎み合い軽蔑し合う異性同士だと、接近することすら難しい。
 パートナーがいても、産めるとは限らない。

 誰もが直に経験し続けていることである、精神面・生きていることの絶妙さ・産まれる機会に恵まれた貴重さなどを理解できていれば、生後に学習し理解したことを以て日常生活や健康管理も可能になる。そういうことを、具体的に理解し合えるほど信頼し合え尊重し合える。そういう異性同士だと自ずと行う。
 誰もが直に経験し続けていることを、具体的に理解しているほど高度な自己管理が可能になる。
 もちろん、子供の成長を、健康的に保護養育することもできる。
 しかも、自分の経験を基に理解した生存に関する基礎や基本的なことは、誰もが直に経験し続ける共通なことだけに、子供の成長を目の当たりにすることによって再確認でき、それだけ詳しくなれる。
 当然に、誰もが直に経験し続ける共通なことや普遍的なことを、親子間で理解し合え信頼し合え尊重し合える。

 つまり、本来は、進化上備わっている生理面の最高の能力と精神面の最高の能力が発揮されることだと考えられる。

老化


 生後に学習し理解したことを以ては、通常は老化は阻止できない。
 むしろ、個体が長生きし過ぎると、世代交代や進化には支障が及ぶ。
 まして、権力的で独裁的で暴力的な個体は、子孫の精神にも悪影響を及ぼし、進化にも悪影響を及ぼしかねない。

 そもそも、生きていることはどういうことかを直に経験し続け、相応の知能も備わっていて思考力や理解力を発揮するようになる。
 言うまでもないが、経験上知り得る「生きていることがどういうことか」に関しては、精通していたとしても不思議ではない。

死亡


 生後に学習し理解したことを以ての治療には限界があり、名医と言えども死ぬ。
 もちろん、誰も死を拒否できない。
 つまり、逆らうほど苦悩が増すだけだ。
 権力的で独裁的で暴力的な個体も死亡するわけだが、老化による死には、誰も責任を負う必要が無い。
 死も、進化上では必要なこととしてあるのだと考えられる。

 むしろ、生きていることはどういうことかを直に経験し続け、相応の知能も備わっていて思考力や理解力を発揮するようになり、百年前後も生きる。
 よって、経験上知り得る「生きていることがどういうことか」に関しては、精通していても不思議ではない。
 つまり、本来は、他界に臨む心の準備まで整っていてこそ自然なのだと考えられる。


 人生を全体的に捉えることができるようになると、相応の勘違いや思い込みも明らかになり、修正もできる。
 更に、必要で可能なのに未理解だったことも浮上するが……。


 進化上形成されたことや、生きていること自体は、相応の秩序に基づいて自律して機能しているわけだから絶妙にできていることになる。
 進化上形成されたと考えられる、各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能まで備わっているわけだから。

 知能が備わっていることによって、誰でも、自身のことは直に経験し続ける。
 誰でも、知らなかったことを、憶える。
 誰でも、随意にはできなかったことを、随意にできるようになる。
 誰でも、上達もでき、記憶にあることを参考にした識別や思考や予想や相応の動作などは条件反射的な速さでできるほど熟練する。このことは会話ができるようになることによって実証される。
 大人になってからでも、知らなかったことを憶える場合や、できなかったことを随意にできるようになろうとすると場合、その基本的なことは備わっている知能に基づいたことだけに、赤ん坊の頃から同じなんだということを理解できる。

 もちろん、経験できることは限られ、学習できることも限られ、上達できることにも限度があり、健康管理もままならなかったり老化は止められず死を余儀なくされる。
 ところが、生存上の基礎や基本は普遍的なことなので、誰でも直に経験し続けていることでもあり、独自に理解できる条件が整ってゆくことでもあり、何時でも理解でき何処にいても理解できる準備が整うことは間違いない。
 また、生存上の基礎や基本は普遍的なことであり、誰にとっても共通なことなので、本来は理解し合うことも容易なことである。
 普遍的なことや、それに基づいた法則や理由など、人為的なこと以前のことを理解し合えると、信頼し合えるし、生きている絶妙さ自体を尊重し合うことも可能だ。
 友達、親友、恋人、夫婦、親子、いずれも、理解し合え信頼し合え尊重し合えることによって絆が強くなる関係でもある。むしろ、理解し合えるか信頼し合えるか尊重し合えるかに左右される関係だ。逆に、競い争うことで崩壊する関係なのだから。
 言うまでもなく、競い争うよりも、誰でも直に経験し続けている生存上の基礎や基本や法則などの普遍的なことを理解し合うことの方が、本来は簡単で、しかも有意義だということになる。


 ところが、個人毎に、育つ環境は異なり、経験する内容は異なり、学習する内容は異なり、好みや価値観は千差万別になり、理解する内容も異なる。
 もちろん、個人毎に、見たいものだけ見る。聞きたいことだけ聞く。考えたいことだけ考え、憶えたいことだけ憶えるようになる。

 つまり、誰もが直に経験し続けていることである普遍的なことや基本的なことは誰でも共通なのに、誰もが理解するとは限らない。
 もちろん、誰もが直に経験し続けていることであり、自身に関することであり、経験上知り得ることをさえも、理解するとは限らない。

 しかも、錯覚もあり、間違いもあるし、想像もするし、勘違いもし、思い込みさえする。
 その性質上でも、そういう精神面の弱点や欠点に関しても、誰でも理解するとは限らない。


 よって、精神的には本来の自立に達しない。
 普遍的なことや基本的なことや法則などを、理解し合うこともできない。
 友達、親友、恋人、夫婦、親子なのに、誰もが直に経験し続けているはずの普遍的なことや法則などの共通することを、理解し合えない。
 つまり、納得の上で信頼し合うことや尊重し合うことはできない。

 それどころか、私利私欲に走り、懐疑や不信感を煽る。
 当然に、知られれば不都合だと思うことや不利だと思うことを隠し偽りもし、言い訳もする。
 つまり、上辺だけ尤もらしく見せかける。
 もちろん、不都合なことや不利なことは否認し強情を張りもし、嘘も吐く。


 相手は見抜けないだろうと侮って騙し欺くわけなので、見抜かれれば困ると思うし、葛藤が伴うのだが、反省はせず、むしろ本当らしく工作したりもする。
 もちろん、その事実関係や弊害の理解は容易だ。
 でも、否認し、理解しないし、反省しないし改善しない。
 隠し偽り強情を張ることは、理解や改善を困難にすることにほかならない。
 結局、悪循環の深みに陥ってゆく傾向がある

 上辺や見せかけのことで騙し欺く類だけに、優れたことであるかのように見せかけるために競いもし、自分の方が優れていることを誇示するために争いもする。
 つまり、誰でも直に経験し続けている普遍的なことや共通することや絶妙にできている尊いことを無視して、私利私欲のために、名誉、権力、独裁、暴力、軍事力、などに物を言わせようとする。
 挙句の果てには、他者の所為にし、他者の口封じさえし、暴力的に片づける。


 恋人や夫婦でも破局もあるわけだから、上辺だけ尤もらし見せかけているだけだったり騙し合いだったとしても不思議ではない。しかも、友達、親友、恋人、夫婦、などは別れることで片づけもする。
 が、最低限平和であってほしい家庭内で幼い子供が犠牲になる。
 つまり、誰でも直に経験し続けていることである、絶妙にできていて尊いことを無視し、生後に習得した勘違いや思い込みなどを優先するからこそ、秩序に基づいて自律して機能している絶妙な物事を破壊してしまう。
 子供が減少していることも事実だ。

 誰もが直に経験し続けていることである生きていること自体の絶妙さに比べると、生後に経験し学習し理解する内容は、比較にならないほど劣ることは歴然としている。
 名医と言えども、生後に学習し理解したことを以ての治療には限界があり、死ぬわけだから。
 個人的には、生後に習得したことを以ては、生活がままならなかったり、健康管理もままならなかったりする。
 経験や学習や理解の性質上、誰もが直に経験し続けている生存に関することを理解しそびれもし、知能を誤用するようにもなるし悪用するようにさえなる。
 つまり、人間関係上でこそ、懐疑や不信感を抱き、私利私欲に走って知能を誤用し、独断や独裁に執着して知能を悪用するようにもなる。
 それも、誰にも知能は備わっていて、誰もが直に経験し続けていることである、普遍的で共通することを理解しているか否かだけの違いだったりする。

 仮に、相手を殺して、自分が殺されることを免れたとしても、老化は止められず死を余儀なくされる。
 その死は、誰も責任を取る必要が無い。



 そんなことを嫌い、そんなことから離れ、やがて、いろんなことを基に人生を捉えるようになった。
 が、こうして、人生を全体的に捉えられるようになったことによって、それを基に、いろんなことを捉えられるようになった。
 趣味の写真「普遍に臨む」をやったことによって、心の浄化は進んだことは間違いない。
 今となっては取り返しがつかないことをやってしまった理由も明らかになるわけだが……。
 それゆえに必要だった精神面の把握であり、写真よりも、こっちの方が大事だった。
 だからこそ、もっと具体的に把握しようともしてしまう……。

 そもそも、意識の切り替えの一手段として始めたことだった。
 自分の考えに、振る舞いや結果が左右される。
 だから、それまでの考えから離れ、それまでとは違うことを意識したり、それまでとは逆のことをさえ意識したり考えたりして、考えを変える。
 つまり、基本的には、知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになることなのだが、その内容しだいでは知能を誤用するようにもなるし悪用するようにもなる。
 だから、その基本的なことを再体験すべく、写真をはじめた。

 朝夕の撮影時には、広大な空間の中に自分を置く。
 自分が望む気象現象が展開することを期待して待つ。
 気象現象だけに、作為的なことはまったく通用しない。
 素人の自分の知識や考えも、ほとんど役に立たなかった。
 ただただ、広大な空間の中で、望む気象現象になることに期待して待った。

 その日毎に設けた画像フォルダを単純に数えたところ、7月下旬から10月末までに、撮影に出向いた回数は朝夕80回ほどだった。
 実際には撮影に出向いていたわけなので、心の浄化は意外だったわけだが……。

 思えば、勘違いや思い込みや独断独裁や私利私欲もある人間関係から一時的とはいえ離れていることには気づいていた。
 広大な空間に魅了されていたが、自分の心の浄化が進んでいることも感じてはいた。

 が、その場にいるのは、写真は学習や上達が目的でのことだった。
 でも、撮影に臨むにあたっては、余計な考えを捨てる必要があった。
 つまり、心に関しては白紙に戻すようなことをした。写真とは逆の、非学習的なことをしていたことになる。

 むしろ、心の浄化を感じていたからこそ、暗いうちから足を運んでいた。
 撮影時に、とても贅沢な時間を過ごせていると思ったりもした。だからこそ、夕焼けにならないのに、いつも惜しむように暗くなるまで現場にいた。
 写真の方は、期待を超えた夕焼けを撮り逃し、期待したような朝焼けや夕焼けは一向に撮れず、進展しなかったわけだから。



 それにしても、こんなに天候が悪い秋は、初めてだ。
 11月1日、里にも初雪が降った。
 11月2日、朝から久しぶりの青空だった。なので、少し早いと思いながらも、午前中に紅葉の撮影に行ってきた。




20161102 紅葉-a


 樹高の高い楢などの葉が落ちると、樹高が低いモミジが黄色から鮮やかな赤色になる。
 つまり、樹高の高い落葉樹の葉や葉が無くなり、林の中の樹高が低い樹からも緑色が無くなり、裸樹や黄色や赤色になる。
 そんな状態が自分にとっては理想的なのだが、昨日は、まだ緑色が残っていて、赤色が不十分なモミジばかりだった。
 でも、今日11月3日、発達した低気圧が通過。霰というより、雹のようなものが降った。樹高の高い樹に守られていた樹高の低い樹は、傷つきやすい。
 もう、今年の紅葉を撮影するチャンスも無いのかもしれない。




20161102 紅葉-b



 11月中旬には、秋の農繁期は終わる。
 今年の後片付けや、来年の準備もしておきたいので、野良仕事自体には終わりは無いのだが……。
 農民は、疲れ切っている。やがて、雪が降る。なので、野良仕事は、一旦終える。

 なので、野良仕事をしながらも、意識する対象をこんどは今冬に臨むことに切り替えてゆく。

 
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アルバム作成

 
 写真の方は一向に進展しないが、意外にも心の浄化は進んでいた。
 心の浄化もまだまだではあるが、朝焼けと夕焼けも、これまでの天気図と衛星画像と撮影画像を基に推理したところ、日増しに期待できない気象状態になってきているような気がする。

 すっかり寒くなっただけに、朝は寝床の温もりの方が好いわけだが、熟睡も重要なことだ。
 高い山にはすでに雪が降り、これから農繁期のピークなので、野良仕事を放ったらかしにして、外れが圧倒的だった夕焼けの撮影ポイントに出向くわけにはいかない。

 残念ながら、今年の結果は目標にはほど遠いが、来年の進展の踏み台にはなる。
 というわけで、アルバムにしてみた。





20161019-夕


 もちろん、期待できる条件の際には出向く。
 農繁期の終了後に、アルバムに少しは追加する。




20161019-夕



 近日中の天気の好い日には、仕事をさぼってでも、紅葉は撮る。

 そして、山の雪景色(雪と裸樹と青空)を撮って、今年の写真は終わりだな……。


 その後は、今年も冬モードに切り替える。

 今冬は、仮題◆無知の悟「俺は、病気じゃない、異常でもない」の草稿を書き終える。
 これによって、更に心の浄化は進むはずだ。
 草稿とはいえ、一旦、書き終えた方が、因果律などがより明確になるので、完成度を上げる作業がしやすくなることも分かってきた。


 ま……、もうしばらくは、生存維持のための野良仕事が優先だ。

 
カテゴリ : 趣味の写真「普遍に臨む」

今月は雨が多過ぎる

 
 4日。
「今夕こそは」と思い期待したのだが、久しぶりに見事な快晴になり、夕焼けは無し。



20161004-夕



 5日。
 台風18号通過後に期待した。
 あの、撮影ポイントからの撮影を逃した、めったに見ることができないほど見事な夕焼けは、台風16号がらみだったから。
 ところが、期待は外れた。

 ときどき不完全な朝焼けや夕焼けにはなる。それは撮れている。
 が、期待しているような気象条件にはなかなかなってくれない。
 撮り逃した、あの夕焼けが、いかに貴重だったかを思い知らされるばかりだ。

 10月に入ってから、雨が多過ぎる。
 天候の急変が多く、それゆえの雨だ。
 平野の上空に雲が湧き出して、レースのカーテンのように雨が降りはじめたりする。
 高気圧に覆われているはずなのに、午後には雲に覆われてしまうことも多くなった。

 気象予報では、午後から翌日にかけて高気圧に覆われて晴れる予想だった日。
 野良仕事を早めに切り上げて、スタンバイ完了。
 ところが、これからという頃に雲が空を覆い始め、日没近くから本格的な雨になった。

 11日。
 早朝、家を出ると、薄雲の間から星が幾つも見えていた。
 ところが、山頂に着いたときには、頭上は雨雲に覆われていた。
 今回の撮影目的上、雨は撮りたくないし、避けたい。
 山頂は、かなり寒くもなった。
 早々に下山。
 里から見上げると、雲の上では朝焼けしているらしい。


 12日。
 日没は早くなり、野良仕事を早めに切り上げて出向かないと、撮影ポイントでの撮影には間に合わなくなってきた。
 ところが、頭上の少ない雲から俄かに雨のカーテンが。



20161012-夕



 夕焼けも無し。日本海の上に雲があるんだろう。



20161012-夕


 帰宅後、衛星画像を見ると、日本海の西側半分は雲が無い。ということは、夕焼けになるはずなのに……。
 天気図や衛星画像からは、気象状態は、なかなか読めない。
 期待できるような気象状態にも、一向になってくれない。

 具体的なことを知っていることほど、部分的な可否や是非の判断もできるし、具体的に肯定することも否定することもできる。
 知らないことは、具体的な識別や判断はできない。そこで、つい想像する。つまり、知らないのに、事実確認をしないで、想像する。
 そんな想像だけに、外れの方が多い。失敗の重要の要因だ。
 自分で出向いて、事実はどうなのかを確かめるしかない。

 確認した事実に基づいた推理や予想は必要だ。
 日差しが弱くなるなどの季節的な理由で、朝焼けや夕焼けは難しくなっているのだろうか。
 朝焼けや夕焼けよりは、快晴の方が多くなった気がする。
 快晴の早朝も、コントラストが明確な風景写真が撮れることが分かった。
 紅葉も、変化が目に見えほど進むようになった。
 予定外だが、撮影の練習にはなる。

 じらされ過ぎると、目移りもする。
 こんなに期待して臨んでいる俺を、おまえは嫌っているのならしかたないが……。
 迷惑なのなら、俺は片思いを貫く……。
 目的外のことで、紛らわせたり間に合わせたりしたのでは、肝心な目的を達成できないわけだから。
 農繁期が終わる直後までは、撮影ポイントには行くことも可能なはずだが……。
 10日ほど前、岩木山も八甲田山も初冠雪(平年より早め)だった。
 早目にタイヤ交換をしておくつもりだが、雪が積もってしまうと、撮影ポイントには行けなくなる。

 でも、雪は解ける。
 俺も、まだ死にそうもない。


 ま……、急ぐことでもない。
 競っているわけじゃないんだから。
 そもそも、野良仕事に支障が無い早朝と夕方の自由時間の有効活用なのだ。
 しかも、めったに見ることができないほど見事な夕焼けを撮り逃したし、格好の気象条件にはなかなかならないし、情報収集も遅れがちで、撮影技術的にも失敗が多い。
 競争は論外だ。

 誰かを負かすことでもなく、誰かに勝つことでもない。
 そもそも、自分の人生上の基本テーマは、すでに備わっている知能が本来はどういう能力なのかに関して理解を深めることだ。
 経験でき学習でき上達でき熟練でき理解できるようになることが、知能の基本的な能力だからでもある。
 知能の基本的な能力がそうであることは、誰もが日常会話がそこまで達することによって実証されている。
 もちろん、その程度が限界だとは考え難い。


 かつては、知らなかったことを憶えたんだということをすら未理解だった。つまり、理解力をすら十分に発揮していなかった。
 むしろ、物事を確かめず、安易な想像をしがちで、それゆえに勘違いし苦悩した。
 そんな事実関係が解ったことで解決したわけだが、自分が意識し記憶を参考にして識別し考えて行っている内容に無理も矛盾もあった。つまり、そうであることをすら把握できなかったがゆえに解決できなかった。それゆえの、勘違いや苦悩だった。
 当時も、会話上で納得できなかったり納得したりし、理解力を日常的に発揮していた。そうだったにもかかわらず、そうであることをも未理解だった。
 つまり、肝心な自分の精神面(情報処理)に関することをほとんど未理解だった。だからこそ、想像し勘違いし思い込み、それゆえに困窮し苦悩した。

 その困窮や苦悩の要因だったのが、自分の想像や勘違いや思い込みや考えの無理や矛盾だっただけに、把握でき、具体的に理解するほど、苦悩は解消されていった。
 解決したことによって、やっと、そうだったことを納得できた。

 つまり、自分が意識し記憶にあることを参考に識別し思考しているわけであり、その無理や矛盾ゆえに自分が困った。
 だから、それらに関しては容易に理解できる条件も整っていたことになる。
 にもかかわらず、未理解だったことが要因だったのだ。
 知能を十分に発揮できていなかったどころか、誤用や悪用さえしつつあったからこその苦悩だった。

 知能上の、想像や勘違いや思い込みや考えの無理や矛盾などが整理され理解できたことによって解決できた。
 つまり、知らなかったことを、知った。
 その経験上、どうして知らなかったことを憶えられたのかも解りやすくなった。
 よって、学習の法則や因果律や基本的なことも解るようになった。
 更に、備わっている知能自体に関する各器官の機能や特長や関係や構成も解るようになった。
 つまり、やっと健康的に知能を発揮できるようにりはじめた。
 もちろん、経験でき学習でき上達でき熟練でき理解できるようになる程度で限界だとは考え難い。


 必然的に、想像や勘違いや思い込みや考えの無理や矛盾の浄化や、知能に関することを経験を基に理解することが、自分の人生上の基本テーマになった。
 想像や勘違いや思い込みが減少し、考えから無理や矛盾が減少すると、知能を健康的に発揮できるようになる。
 よって、生きていることはどういうことかをも把握しやすくなる。
 単に生きていたに過ぎなかった自分が、自分が生きていることを人生として捉えはじめたのは、あの後からだった。


 その理解済みなことを、体験的に再確認できることだとも考えたので、写真を始めた。
 競争とは無縁どころか、理解力をすら十分に発揮できていない自分の無知や愚かさを、生きているうちに可能な限り救済したい。
 写真も、その一環にほかならない。

 極めて個人的なことに臨んでいる点でも、撮影現場でも、人間関係は無いと言っても過言ではない世界に臨んでいる。
 誰かと競い争うこととは、むしろ、全く逆のことに臨んでいる。
 普遍的なことや基本的なことは共通で、そういうことを理解することに臨んでいるだけに、他に目を奪われ心を奪われ誰かと競うようになると見失うことでもある。

 自分の勘違いや思い込みや考えの無理や矛盾を整理し把握するためには、より明確な事実や根拠や理由が必要になる。
 よって、想像や勘違いや思い込みがあり好みや価値観が個人毎に千差万別になる人間関係よりは、それ以前から存在している普遍的なことの方が重要になる。
 普遍的なことは、多くの生物にも共通する。
 普遍的なことの基本面も、誰にでも共通だ。
 想像や勘違いや思い込みや考え以前から存在する普遍的なことこそが、想像や勘違いや思い込みによる苦悩を解決してくれ救ってくれる。
 勘違いや思い込みもあり考えには無理や矛盾さえある人という生き物の好みや価値観や考えなどよりは、普遍的なことや共通なことのほうが重要で尊いことは言うまでもない。


 こうして記事にして気づいたのだが、意外にも、自分の人生上の基本テーマの方は把握が容易になっている。
 写真の方は一向に進展しないので、全く予想外だったが、自分の人生上の基本テーマの方では明らかに浄化が進んでいたのだ。


 思えば……、
 現地では、相応の経験をしていた。

 自分を客観的に捉える時間を確保できるからこそ、撮影ポイントに出向いていたのだ。
 寝床が暖かくて好く眠れるようになったのだが、眠くても起きるようになり、夜道を上って山頂を目指す。
 眼下の夜景も見はするが、果てしない天空の下で独りで期待し、望む気象現象になることを待つ。
 野良仕事を早めに切り上げては、果てしない天空の下に自分を解放しつつ、事実の展開に臨む。
 果てしない天空の下では、工作的な考えは通用しない。少なくとも人為的ではない、普遍的なことを、臨み待つ。
 良かれ悪しかれ普遍的な事実を少しでも知ろう理解しようとする。
 当然に、自分の邪念は全く不要になる。
 むしろ、夜景も、私利私欲や無理や矛盾が絶えない人間関係も、下界の出来事でしかないようにさえ思える。
 もちろん、学歴も要らず、資格も要らず、もともと誰にでも許されていることに臨んでいる。

 当初は、「今日は駄目だろう」と想像で片づけることは禁止だったからでもあったが、燃料費も馬鹿にならないという思いを無視するかのように、朝は暗いうちに出向くようになった。
「出向いて事実を確かめるしかない」とも思っていたが、思えば、現地では広大な空間の中に身を置くことになる。
 もちろん、普遍的なことに臨むだけに、関与は不能だし、有効な知識も無いし、知ろうとし待つしかないわけだから、邪心は無用になる。
 だから、精神面が浄化されるのだろう。
 そういう効果に感づきはじめたから、出向かずにはいられなくったのだ。
 もちろん、期待通りにならない日ばかりだったのに、悔やんだことは無かったし本気で残念だと思ったことも無かった。
 当初の目的であり、基本である学習に関する理解を深めるためには、最低限の写真技術的なものを習得したいのだが、そのことをすら忘れがちだった。

 
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失敗は成功の基

当記事は6画像につき、重いかも……。


 めったに見ることができないほど見事な夕焼けを、撮り逃した。それがトラウマになったかのように、車の燃料消費も増えた。
 が、理解済みだったトラウマに関しても、再確認できた。
 撮影に関しても、それだけ多く事実確認ができた。
 いずれも、反面教師的で、「こういう場合は好結果にならないんだ」という情報ばかりだが……。

 失敗の理由を具体的に把握するほど、同じ失敗は繰り返さずに済む。
 失敗が減少するだけ、好結果が着実に増えてゆく。
「失敗は成功の基」とも言われる。

 反面教師的な情報収集ばかりだが、決して無駄ではない。





撮影も今一だが、久々の朝焼けだった。20161002-朝





この雲には、あの時の夕焼けを期待してしまう。20161002-昼





格好の雲だが、夕焼けの気配も無く暮れた。20161002-夕



 トラウマも、安易に毛嫌いすべきではない。
 期待が萎えそうにもなりかけたが、失敗を恐れるあまり何もしないと、期待する楽しさも無いし、進歩も喜びも無い。

 本来は、知らなかったことを憶えることができ、詳しくもなれるし、詳しくなったことほど細部の識別や判断や予想なども可能になる。
 よって、できなかったことも、随意にできるようになり、上達もし、誰でも記憶にあることを参考に情報処理ができるようになるだけに条件反射的な速さでできるようになり、基本動作や会話は熟練する。
 だからこそ、日常でも、不具合があると、その理由を知ろうとし、解決しようとする。
 事実関係を具体的に理解するほど、その具体的な理由が分かっているので、支障はなくなる。

 逆に、失敗を隠し偽ったりすることは、知能の誤用であり、知能の悪用に通じる。
 そんな事実関係でさえ、具体的に理解するほど、隠し偽り難くなるわけだから。
 当然に、もっと詳しく知ろうとするようになる。


 思えば……
 小学生の時、川で遊んで、溺れた。
 知られると叱られるので、親には知られまいとした。
 自分でも思い出すまい考えまいとし、いつしか溺れたことは忘れた。
 社会人になってから、海の水に異様な恐怖感を感じた。が、理由を知ろうともしなかった。
 会社で海水浴に行った際も、海水浴場に有ったプールの水にさえ異様な恐怖感を感じた。具体的なことは不明なので、不思議だった。

 その後、知られれば不都合だと思うことを隠し偽ることの悪影響を知った。よって、想い出すまい考えまいとしていることが記憶にありはすまいかと探した。
 その際に、単純に、自分は水恐怖症だったと気づいた。意外にも、小学生の時に溺れたこともありありと想い出し、溺れたことを知られまいとしたことも想い出した。
 そのまま自分でも思い出すまい考えまいとし、忘れたのだと考えられた。が、実際には記憶に残っていたわけだから、想い出さなくなっただけだったことになる。
 つまり、水が目の前に迫ると、溺れたときの恐怖感だけは生存に関わることだけに想起されてしまったのだ、と考えられた。
 そんなことが分かったことによって、そうであることを、実際に水を見るなどして確認することができるようになり、水恐怖症が改善されていった。
 その改善されたことを以て、水恐怖症だったんだと確信し、その理由にも納得した。

 ○○恐怖症も、トラウマも、同じようなことだと考えられた。
 つまり、嫌なことも、記憶に残る。その記憶に残ったことは、心理や気持ちや考えを左右し、行動や結果も左右する。
 が、想い出すまい、考えまいとすると、そのことは想い出さなくなる(いわゆる忘れる)。が、記憶には残っているし、生存に関わる恐怖感などは心理や気持ちを左右し、行動を左右する。
 そうだったからこそ、その事実関係が分かったことに因って、解決した。


 ちなみに、記憶にあることを思い出して考えて事実に基づいた整理をして理解することと、思い出すまい考えまいとすることとは、情報処理としては逆のことだ。
 まして、知られまいとし隠し偽ることは、まさに理解を困難にすることでしかない。

 もちろん、把握や理解や改善は、隠し偽ろうとするのではなく、考えまいとか思い出すまいとすることでもない。
 むしろ、思い出して考え、事実関係に基づいて整理をするから、具体的に解明でき、理解することにもなり解決もできる。
 精神面は、考えの無理や矛盾を解明できただけで解決することも少なくない。

 頑なに隠し偽り否認していた場合、誰かを相手にするから、否認したり隠し偽ろうともする。それ自体が、無理なことであり、理解や解決とは矛盾することだから、葛藤も生じる。
 むしろ、一旦、人間関係を断ち、謝罪や償いなども一旦おいといて、単に個人的に自分の記憶にあることを想い出して考えるだけなら比較的容易にでき、解決もできる。
 他者と関わること無く、薬も要らず、すでに記憶にあることを省みることだけに実際には痛みすら伴わないからこそできることもある。
 すでに記憶にあることを整理することであり、極めて個人的なことに臨むわけだから、本来は実に容易なのだ。
 具体的な改心には時間と努力を要するが、改心しない状態では、口先だけの謝罪や見せかけの償いにしかならない。それでは、踏んだ上に蹴っているようなものでもある。
 むしろ、謝罪や償いよりも、同じことを繰り返さない改心こそが重要なのだ。





雲は多いが、朝焼けが始まった。20161003-a





太平洋側の雲の間から日が射しているのだ……。20161003-b





惜しいが、これはこれで味がある朝焼けだ。20161003-c



 有意義な手掛かりも得ようと、Web検索してみた際。
 赤い色は屈折しにくいので、日の出の前や日の入りの後でも太陽の赤い光は上空には射し込むのだという。
 つまり、朝焼けの場合は東側(太平洋側)の上空が晴れていることが絶対条件で、夕焼けの場合は西側(日本海側)の上空が晴れていることが絶対条件だったのだ。
 次に、太陽に向かった際の自分に近い上空に、赤い色を反映する雲が有る必要がある。その雲は、できるだけ上空にあり薄雲であることが理想的だということになる。
 その条件が揃うと、日の出の前や日の入りの後に太陽からの赤い光が上空に射し込み、雲を下側から照らす。

 そうであることは、反面教師的な情報も逆説的に裏付けている。
 撮り逃した「めったに見ることができないほど見事な夕焼け」の場合もそうだった。
 気象衛星(高頻度)画像では、日本海の中間あたりまで雲で覆われていた。が、その西側には雲は見られなかったので晴れていたのだ。
 当地の上空も、白く雲で覆われていた。が、かなり上空の薄雲だったと考えられる。

 これからは、車の燃料費も減るはずだ。
 むしろ、慢心することや怠け癖が付くことに注意しなきゃ。

 
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呪文……

 
 なかなか、どうして……。
「こんなことじゃ駄目なんだ」と思わされることばかりだ。
 が、それだけ、無駄足は減少しつつある。

 気温が下がり、自分が期待している気象現象になる傾向も増した。
 もちろん、温もりが心地良くなり、よく眠れるようにもなったわけだが、にもかかわらず朝4時起床は当たり前になってきた。

 そろそろ、有効な情報収集をしたいものだ。
 が、自分が期待している気象状態には、なかなかなってくれない。

 だったら!
 朝焼け・日の出・サンライズだけではなく、
 夕焼け・日の入り・サンセットも撮ろう。
 これも、仕事が終わってからできるんだから。しかも、学歴も要らないし、資格も必要無いし、誰にでも許されていることでもある。
 というわけで、かつて写真をやった際に知った場所を、とりあえず夕景の撮影ポイントに決めた。
 ところが、すでに秋分の日の近くなので、日の出は真東近くから昇り、日の入りは真西近くに沈む。よって、この撮影ポイントでは、日の入りの位置が、すでに南に寄り過ぎていた。
 でも、今のところは、これ以上の撮影ポイントを知らない。

 むしろ、夕焼けも、そうそうあるものではない。
 今年は、特に少ないような気がする。

 だったら、とりあえず夜景でも撮ろう。
 夜景は、人為に因る光景だが、それゆえに毎夕でも撮れる。
 毎夕でも撮れるということは、暗い光景を撮る練習をするには、むしろ都合がよい。



20160919-夜景(拡大表示)

20160919-夜景



 翌夕(2016/09/20)。
 衛星画像上では、関西上空に台風16号がある。その雲が関東や東北まで覆っていて、夕焼けに重要な西の空も日本海の中央あたりまで広がっていた。
 窓の外の実際の空も、全体的に薄雲に覆われていた。
 今日は夕焼けは無理だろう。

 ところが、夕景も撮ろうと決めた翌日だけに、空が気になる。
 撮影ポイントまで行くには時間を要することもあって、行くのなら早めに決める必要があり、つい窓の外を見てしまう。
 そうこうしているうちに、日没前に撮影ポイントまで行く時間は無くなった。
 というわけで、安い箱の酒を呑み、テレビの大相撲を観はじめた。

 余計なことは考えずに、その日の相撲にいかに集中するかが大事なんですよ。
 つまり、一日一日が大事なんです。毎日が大事なんです。
 そうし続けた結果が、結果なんですから。

 確かに、相撲の解説者が言うとおりだ。
 自分の場合も、同じなのだ。
 気になり、窓の外を見た。
 空が赤く染まっていた。
 慌てて外に出た。
 なんと、空全体が赤く染まっていた。
「素晴らしい。めったに見ることができない見事な夕焼けだ。」
 車に積んであるカメラを取り出して、その場で撮るしかなかった。
 シャッターを押したときは、すでに夕焼けはピークを少し過ぎていたが、貴重な情報だけは収集できた。



20160920-夕焼け(拡大表示)

20160920-夕焼け



 知識不足に因り、撮影ポイントに行かなかったのが残念だ。
 否、しっかり反省すべきだ。
 知識が無い(必要な情報が無い)ことなのに、確かめることを怠り、勝手な想像を頼ったから駄目だったのだ。
 もちろん、必要な情報が無いことだからこそ、想像する。その性質上、外れている確率が高い。まさに、そのとおりだった。
 しかも、否定的で非行動的な想像だった。そんなものを頼ったから、めったに見ることができない好機を失ったのだ。

 日の出の撮影が、ほとんど無駄足のようなものだったから……。
 それは、言い訳でしかない。
 一見、無駄足のようでも、相応の情報を得ているからこそ無駄足は着実に減少しているんだから。
 経験上でも、行動的に確かめた事実こそが、良かれ悪しかれ、好結果に通じる確かな情報になる。
 行動して確かめないと、成果には通じない。


 こんなときは、いつも、呪文を紐解くかのように思いを巡らすことがある。


 生理面は、自律して機能している。
 もちろん、どこかの名医が創ったものではない。名医といえども随意にできることには限界があり、老化は止められず、死を余儀なくされるわけだから。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も備わっていて、生理的には機能している。
 もちろん、どこかの天才が創ったものではない。天才と言えども随意にできることには限界があり、老化は止められず、死を余儀なくされるわけだから。

 むしろ、誕生当初は、知らないことや随意にはできないことばかりなので、それでは困ることを体験し続ける。
 気になることを意識する。意識したことは、相応の情報が記憶に残る。記憶にあることは、識別でき、以前はどうだったかを参考にすることも可能になる。
 生存上、やらざるを得ないからだと考えられるが、困った状態をなんとかしようと模索しはじめる。
 幼いとはいえ、試行や確認や取捨選択を繰り返すわけだから、思考や予想もするようになる。
 その内面で行う記憶を参考にした識別や思考や予想などの情報処理自体は、本人が経験し模索して学習するしかない。つまり、大人でも教えようが無いことを、赤ん坊の頃に独自に学習することになる。
 もちろん、本人がそうしたことに関しては、知らなかったことを憶えることができ、できなかったことも随意にできるようになれる。

 つまり、識別や思考ができるようになる以前に知能が備わっているからこそ、識別や思考ができるようになる。
 識別や思考ができるようになったことを基準に考えると、それ以前に超能力が備わっているからこそ、知らなかったことを憶えることができ、できなかったことも随意にできるようになれ、識別や思考もできるようになることになる。

 観察し確かめ試したことほど、相応の記憶も確かになり詳しくもなり、相応に上達もし、巧みにできるようにもなる。
 随意に動かせなかった手足なども、器用に動かせるようになってゆき、不自由で困る状態から、随意に抜け出せるようになる。
 そういう学習体験を基に、好奇心旺盛になる。
 片言で話し始め、上達もし、言葉も憶える。つまり、言葉で指した物事を意識し合うことが可能になる。
 自分はできないことを、大人にしてもらうことも容易にできるようになる。

 自発的な学習が本格的になり、語彙が増え文法を憶えるほど、高度な説明が可能になる。
 だからこそ、相手が話すことを、自分の記憶にあることを参考に識別し思考や予想もし、相応の気持ちや考えなどを文章化して応答できるようになる。
 もちろん、直に見知ることはできない気持ちや考えや記憶に残っていることなどを、会話を介して理解し合うことが可能になる。

 それは、記憶を参考にした識別や思考や予想などに基づいたことであり、その内面的に行う情報処理が条件反射的な速さで行えるほど熟練したからに他ならない。
 その要の内面的に行う情報処理も、それ自体は本人が識別や思考や予想をし確かめ取捨選択を重ねて習得するしかない。本人ができるようになるためには、本人が模索するしかないことであり、そうしはじめる幼い頃には誰も教えることができない。
 もちろん、幼い頃に独自に模索して習得したことになる。

 要は、知らなかったことを憶えることができ、詳しくもなれる。できなかったことも随意にできるようになれ、上達もでき、条件反射的な速さでできるほど熟練もできる。
 それは、独自に不具合の修正や改善や微調整などを行ったからこそでもあり、自浄能力も発揮できたからに他ならない。
 よって、やがて他界に臨む心の準備も、不可能なことではない。
 むしろ、知能の本質上、期待して臨めるほどの他界への確かなルートも見出せる能力なのかもしれない。
 もちろん、知能は備わっているだけに、その本質に関しては、誰もが直に経験し続けている。

 思えば、日の出の時刻の写真にトライしようとしたのは、日の出は誕生にも似ていて、若さを連想させるものでもあり、若さを取り戻せそうな気もし、自身の老化に負けまいとしたからだった。
 なのに、日の入りの時刻の写真も撮ろうと思ったわけだが、老化や死は随意に避けることはできないことであり、それに似た自然現象に接することで、他界に臨む心の準備もできそうな気がしたからだったような気がする。

 
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霧は……

 
 せっかく見つけた新たな撮影ポイントだったのに、ここまで、霧は登ってきたりする。
「山頂へ行け」と追い立てるように……。

 霧の上空では、久々に朝焼けしている。



下界では(拡大表示)



 急いで、山頂(標高700余m)へ向かった。
 距離、15㎞弱。ほとんど上り坂だ。
 推定所要時間は、30分。



山頂より-a(拡大表示)



 雲海の下と上とでは、まさに別世界だったのだ。

 もしかして、上空が晴れていると、下界で霧が発生するのか……。
 思えば、下界では、晴れていて期待した朝に限って、日の出が近くなると霧が発生した。
 下界では朝霧が発生したり、濃霧にまでなっていた日に限って、上空はこんなに晴れていたということか。
 あっちゃー。

 でも、意識する対象を切り替え、行動して確かめたから、心のモヤモヤも晴れた。



山頂より-b(拡大表示)



 かつて、自分のことをすっかり一人前になったと勘違いして思い込んでいたに過ぎなかったことに気づき、実際には肝心な自分のことをほとんど知らなかったことが分かった。
 そんな自分に絶望したに等しかったあの日、泣き寝入りした際に見た夢までが精神状態を物語っていた。
 夢の中で目覚めたら、ぼんやりと明るいだけで濃霧の中にいるようだった。そして、まだ幼い自分だけが残され、他の誰もがどこかへ行ってしまったんだということに気づいた。
 あまりにも孤独で、実際に目が覚めた。

 その後、深く落ち込んでゆき、その理由の把握もできず改善もできないまま三年も経った。
 当時の精神状態は、見えない壁に直面しているようだと思った。

 三年後に、三年間も解明できず解決できなかった理由も明らかになり、解決できた。
 つまり、不本意だらけで自分の精神面に関することだったのに把握すらできず、自分の考えの無理や矛盾なのに解消できなかったがゆえに三年も経ったのだった。

 その後、写真を撮り始めた頃、霧が晴れて隠れていた木々が現れたのを見て、実態を把握し始めた頃は、この状態に似ていたと思った。
 自分が知らないだけで、実際には何もかもが存在していたのだから。


 そんな経験が脳裏に浮かんでは消えしたのも、今日こそはと期待して臨んだのに、霧が発生して濃霧に包まれてしまうからだった。

 また、あの三年間は、直そうとか、改善しようとか、解決しようとかはしていなかった。
 見知られれば精神異常者扱いされる(不利で都合だ)と思い、それゆえに隠そうとし、尤もらしく見せようとか、偽ろうとさえしていた。
 が、騙し欺く類のことだけに抵抗があり、結局、人と会わずに済む夜型の生活に変わり、自室から出ることさえ大儀になった。
 精神異常者扱いされるよりは、病気扱いされた方がいい。などと、自分が、わざわざ勘違いするようなことを考え、無理に思い込もうとさえしていた。
 つまり、受け入れ難いことなのに、受け入れざるをえないだろうとまで思っていた。
 もちろん、そんな実態をすら把握しようとしていなかった。直そうとか、改善しようとか、解決しようともしていなかった。
 だからこそ、三年間も解決も改善もできなかったのだ。やっと、そうだったことに気づいた。
 省みると、把握を困難にするようなことに囚われ、解決を困難にするようなことをさえしようとしていたことも判った。
 実態に対して、考えていた内容に無理があり矛盾さえしていた。
 そんなことさえ把握できなかったからこその三年間だったことを、ようやく把握し始めた。

 上辺を繕う必要すら無い。
 まして、競い争うことに囚われている人たちとは、理解し合えない。
 他人を、気にしている場合じゃない。
 自分が、彼らに対しては悪いことをしたわけでもないんだから。
 むしろ、尤もらしく見せかけ優れたことであるかのように見せかけているに過ぎないことを見抜けず、そんなことに惑わされ目を奪われ心まで奪われたからこそ、肝心な自分のことをほとんど知らないまま見失い、自分のことを勘違いし思い込んだことになるんだから。

 人と会うのを避けたのも事実を出るのが大儀になったのも、理に適っていた。それゆえに、自分を省みれるようになったわけだから。
 あえて、他人を気にしなくても済む努力をしたことによって、更に自分のことを省みやすくなった。
 考えて、自分の記憶にあることを整理するだけで、自分のことを具体的に理解できることも分かった。
 自分のことを具体的に理解するほど、心の中の霧は晴れていった。


 そんな経験もあったからこそ、せっかく見つけた新たな撮影ポイントにも拘らず諦めて、意識を山頂に切り替えた。
 それを、行動して確かめた。だからこそ相応のことが判り、心のモヤモヤも晴れた。
 いわば、知らなかったことを憶えることが、基本だから。


 展望台の北側の支障木も、許可無しでも問題にならないであろう範囲は処理した。
 山頂は、あきらかに紅葉が始まっている。
 下界は、稲が黄金色になり始めている。
 りんご「つがる」も、すっかり赤くなった。

 空気が澄み渡るこれからこそが、たぶん、朝焼けや日の出の撮影には格好の季節でもあるのだ。

 自分は、まだヘマばっかりで右往左往しているのに……。
 情報収集の段階なので、距離3㎞余の撮影ポイントだったこともあって、毎朝のように行っていたが……。
 山頂まで登るとなると、燃料代も馬鹿にならない。
 精神面の理解に的を絞った生活をしてきただけに、絵に描いたような貧乏暮らしなのだ。
 確かな気象情報を早く得ないと……。

 人為的なことに満ちた下界を離れて、山頂から仰ぐ世界は、普遍的な存在ばかりであり、まさに天国に近い。
 普遍的なことに関する相応の情報も得るには格好の環境でもある。

 思えば、子供の頃に遠足で登った時に、聞いた。
 昔、この山で、仏教のある宗派が修業を行っていたのだと。

 
カテゴリ : 趣味の写真「普遍に臨む」

新たな撮影ポイント

 
 
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 さすがに、快晴は……、味気ない……。
 こんなにクリアな心も、ありえない。
 むしろ、心も、蔭りや曇りがあってこそ存在感が増す。
 知らなかったことを憶える性質上、間違ったことも憶えたりするわけだから。
 それゆえに、修正や微調整などをする。だから、詳しくもなるし上達もする。
 過ちを未経験だから、過ちも犯してしまう。過ちを経験してこそ、それを慎めるようにもなれる。
 違和感を感じたり不本意だったりもする。だから、本来はどうなのかも解明できる。
 影があるから、その実体も明らかになり、光の存在も明らかになるように。

 でも……。
 クリアな世界も、いい。
 自分の心には払拭し切れない蔭りや曇りがすでにあるから……。



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 新たな撮影ポイントは、朝霧(雲海)の上あたりだった。

 この後、下山したら、下界は濃霧だった。



 日の出の前は、眠い。
 でも、眠っていては見れない。そんな世界(気象現象)がある。
 むしろ、早起きするだけで見れる。早起きは三文の得どころじゃあない。
 日の出と共に起床したであろう太古の人たちにとっては、こんな世界(気象現象)は日常の一環だったのではないのだろうか。
 かつてもそうだったが、日の出前に目覚めるようになり、寝ている場合じゃないと思うようになってきた。

「今日は駄目だろう」は、ご法度だ。
 気象現象だけに、行ってみないと分からない。
 出向いてこそ、相応の情報も得られる。
 むしろ、曇天の朝も、雨天の朝も、確かめてみたい気がする。

 まだ暗いうちに、衛星画像で雲の様子を確認する。
 東の空に雲が少なければ、今日こそはと期待して出かける。
 まだ暗い撮影ポイントで、スタンバイする。
 が、日の出の頃になると朝霧が発生し、何も見えなくなってしまう。
 それが繰り返され、気にし始めた。

 思えば、かつては、標高700m余りの山頂から撮影していた。
 その山頂から見ると、下界で発生する朝霧は雲海になる。
 つまり、朝霧(雲海)の上は晴れている。

 ということは、現在の撮影ポイントは、朝霧が発生する標高だから霧に包まれてしまうのだ。
 現在の撮影ポイントを、Webで確認したところ、標高175m余りだった。

 撮影ポイントが、現在地よりも標高が高い所、つまり朝霧(雲海)よりも高い位置ならいいのだ。

 でも、山頂は、先日、登ってみたら、幹の直径が10㎝を超える栗の木や杉が……。
 山頂は、本来は展望台だ。
 かつては、役所でも支障木の処理などの手入れをしていた。
 鋏で処理できる小木ばかりだったので、自分も勝手に処理していた。
 が、自分は写真を諦め、小木の手入れもしなくなって久しい。
 役所でも、支障木の処理をしなかった。
 道路も、穴だらけになっていて、補修されていない。
 本来は展望台なので、眺望を案内する案内板もあり、テーブル型の立派なものだった。その案内板も撤去されていて、コンクリートの基礎だけが残っていた。
 自分の生活上、チェーンソーは必需品なので、支障木を倒すことは容易だ。
 が、杉もある。そこは、展望台の敷地外だ。なので、許可が必要だ。
 役所でも処理しなかったことを考えると、許可は取れないかもしれない。
 それは、確認したわけではなく、想像に過ぎないのだが、そんなことにかまっているよりも、走り回って、新たに撮影ポイントを見つけた。ところが、そこは朝霧に包まれる標高だった。
 格好だと思う日に限って、朝霧に包まれ、濃霧になり、何も見えなくなってしまう。
 なんとかしないと……。
 朝霧(雲海)よりも標高が高い撮影ポイントを見つけたいものだ。
 台風10号が通過した先月末日にも、撮影ポイントで、そんなことを思っていた。

 というわけで、探し、新たな撮影ポイントを発見。
 帰宅後、Webで確認したところ、標高237m余りだった。
 いままでの撮影ポイントよりは、標高が50m余り高い。
 翌日、その土地の所有者の許可も得た。


 
カテゴリ : 趣味の写真「普遍に臨む」

愚痴?否否!模索

 
 台風一過の今朝に期待したのだが……。
 残念だが、まだ成果は無い。


日の出-1(拡大表示)



朝焼け-1(拡大表示)



 かつて……、
 ケータイにカメラ機能が付いた頃だった。
 それで撮った小さな画像を掲載していたブログがあった。
 その画質は、いわばノイズだらけで、サイズも小さかったし、写っていたビルは傾いていた。
 それが、都会に疲れた人が撮ったようなイメージで、心に響いた。

 それが記憶に残っていた。思い出しもしたのだが……。
 クリアな画像にも興味があり、発売まもない頃に Nikon D200 を購入した。
 記憶に残っている、ケータイで撮った画像を思い出すからだったのか、D200 の画像はクリア過ぎて味気なかった。
 なかなか心に響く画像も得られなかった。
 ああでもない。こうでもない。などと考えばかりが先行し、模索するするしかなかった。
 いわゆる、レンズ沼にも嵌った。

 撮るテーマを絞ろう。
 自分の人生上のテーマは、精神面に関することを可能な限り具体的に理解することだ。
 それは、今でも変わらない。精神面を把握できなかったばっかりに、三年間も不本意な生活を余儀なくされたからに他ならない。
 もちろん、その精神面に基づいて振る舞い生活をしている。
 精神面は、紛れもなく存在する。
 でも、その表情は撮れるが、その基である肝心な精神面は内面的な存在であり直に見ることすらできない。
 内面的な存在だけに、写真にも写せない。
 だからこそ、嘘を考えることもでき、嘘を吐くこともでき、理解を困難にさえする。
 それゆえに、省み難くもなり、自縄自縛にも陥る。
 結局、自縄自縛から抜け出すために、記憶に残っていることや考えなどを、より具体的に捉えることが必要になる。
 もちろん、言葉にして話せることだけに、把握も理解も可能だ。それは、学歴も要らないことだし、資格も不要だし、資金すら必要無い。むしろ、記憶や考えを整理するだけでできることだけに、何時でも可能なことであり、何処にいても可能なことでもある。

 つまり、知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになる。それが、基本だからだ。
 相応の喜怒哀楽も表情になる。
 相応の考え方をするようにもなる。
 観察したり確かめたり試したりすほど、詳しく憶えることもでき、上達もする。
 相応の振る舞いもするようになり、相応の結果も伴う。
 その、結果的なことや成果なら、目にも見える。
 しかも、そんな結果や成果だけに、相応の学習や努力も、おのずと表現されているようなものだ。
 要は、その結果や成果のために、何を学習するかだ……。

 空間とか空中とかスペースと言われるものも、紛れもなく存在する。
 それは、日常的には特に意識しないが、行動上では意識しないわけにはいかないことでもある。
 周囲の条件しだいでは、目に見えているかのように感じることもある。
 そんな空間とか空中とかスペースと言われるものを、撮れないものだろうか。
 そう思い、その模索をしはじめた。
 もちろん、それは透けている存在なので、ピントを合わせられない。仮に、空間とか空中とかスペースと言われるものに、マニュアルでピントを合わせたとしても、実際に写るものにはピントが合っていないだけに、ただのピンぼけ写真になる。
 手がかりは一向につかめず、空ばかり撮っていたようなものだった。

 そこで、朝焼けや日の出の写真にテーマを移行した。
 劇的な変化を見せる時間帯だけに、初心者にも向いていると聞いたこともあった。
 仕事にも支障が無い早朝にできることでもあった。
 パソコンで衛星画像を確認して、東の空に雲が無ければ、暗いうちに撮影ポイントに出かける。
 ところが、望む劇的な変化には、なかなかなってくれない。

 身体は一つしかない。

 憶えはじめたに過ぎなかった写真は諦めた。
 未練も捨てるために、機材もほとんど処分した。

 つまり、言葉に依る表現を選択した。
 気持ちや考えなどの精神面は、画像には写せないが、もともと日常的に話していることであり、文章化もしているわけであり、具体的に説明することも可能だ。
 言葉で説明できることにも限度はあるが、言葉があったからこそ、かつて自分の考えの無理や矛盾を解明でき、三年間の葛藤も解消できた。そこまでは日本語は熟している。
 書きたいことも、記憶の中にだけでも未整理なまま沢山あった。
 もちろん、文章も、独学で練習中だった。
 もちろん、内容は、思春期には理解可能なことばかりだ、なので、あえて難しい言葉は憶えないことにしたのだった。

 そんなこともあったからだろう、長文傾向が強くなった。
 短文の練習をしなければ……、そう思いながらも……。


 そうだったからなのか……、
 写真は諦めて久しかったのだが、写真ブログを覗きはじめた。
 掲載画像に、一見しただけで心が動かされた。見た瞬間、画像相応のイメージを感じる。なぜだろう……。
 この画像から感じることは、言葉で言い表すならどういうこと……。が、具体的なことは、言葉では説明できない。
 否、もともと言葉でも言い表せることには限度がある。
 信号や、記号や、図形だってある。
 画像でしか表現できないことだってある。いわば、視覚的に感じる雰囲気やイメージなども紛れもなく存在するからだ。
 それは、かつての自分は、気づかなかったことでもあった。
 今更のように、ブログの写真に魅了された。

 天候は、なかなか好転しなかったのだが……。
 中古のカメラをヤフオクで探し始めていた。

 心は見えないが、心の基本は学習だ。
 知らなかったことを憶え、できなかったことを随意にできるようになることだ。
 観察し確かめ試したことほど詳しくもなるし、上達もする。
 その理由をより具体的に理解することが、自分の人生上のメインテーマだ。
 しかも、未熟なことにトライするときほど、学習の成果は顕著で目にも見える。
 ただし、写真は、あくまでも余暇限定とする。
 というわけで、中古のカメラを入手した。

 新たな撮影ポイントも見つけた。
 天候も好転し、いよいよだと思ったら、見事な快晴。
 今日こそはと思ったら、日の出近くに朝霧が発生。
 しかも濃霧になり、カメラまでが……。
 今朝も、台風一過に期待したのだが、残念。

 始めたばかりなのだ。
 まだまだ、これからなのだ。
 台風一過の今日、更に新たな撮影スポットも見つけた。
 自分が未知な世界にこそ埋もれている可能性を、埋もれたままにしておくわけにはいかない。
 今日からは好天が続く。
 秋の空に期待しよう。

 
カテゴリ : 趣味の写真「普遍に臨む」

意識の切り替え中

 
 沢山の応援アクセス、ありがとうございます。
 きわめて個人的な内容の当ブログだけに、恐縮しております。

 応援アクセスに励まされて、草稿「おまえはボケてはいない」の書き出しを終えることができました。
 もちろん、自分には勘違いや思い込みもある。勘違いし思い込む理由や性質も分かっている今では、それをあえて利用したりもします。
 なので、当草稿からは、一旦、離れます。
 いずれ、再編集や推敲を重ね、分かりやすく整理し、完成度を上げます。


 意識の切り替えが必要だと思い始めた頃、天候はまだ好転しなかったのだが、ヤフオクの中古のデジタル一眼を覗いてみた。
 かつて、写真は早々に諦めたのだが……、私の人生は学習が基本でもある。
 八年前後前に発売された中古だと、思っていた以上に安い。それでも、使いこなせないほど高性能だ。
 意識の切り替えには好都合だということで、買った。
 届いたデジタル一眼レフを久しぶりに手にし、雲間から青空が見えた日、野良仕事もサボった。
 しかも、衝動的に出向き、家から25キロほど先を目指した。


現地-2016(拡大表示)

 現地は、標高700m余のブナ林。
 かつては、下見にまで来た場所だった。

山アジサイ-2016(拡大表示)

 なんと、ちょうど開花中。
「お久しぶりです。すっかりご無沙汰して恐縮です」
 っていう感じでした。

山アジサイ-2016(拡大表示)



 意識の切り替えのために、次の構想も開始しました。
 カテゴリー◆無知の悟「俺は、病気じゃない、異常でもない」
 この内容は……

 かつて、自分が精神的に深く落ち込み(当時の名称では精神分裂病)見えない壁に直面しているような状態を3年間も余儀なくされた。
 が、それは、好ましいことではなく、望んでいることでもない。
 しかも、知能を構成している各感覚器官や意識や記憶力や思考力などが平常通りに機能していることに気づき、「俺は、病気じゃない、異常でもない」かもしれないと思った。
 つまり、それまでは、「俺は、病気かもしれない、精神面が異常かもしれない」と思っていた。が、逆に、そうではないかもしれないというイメージを意識し始めた。
 もちろん、知能を構成している各感覚器官や意識や記憶力や思考力などが平常通りに機能していることを今更のように確認し、「俺は、病気じゃない、異常でもない」んだと実感した。

 そのことを基に、それまでの3年間のことを考えると、「俺は、病気かもしれない、精神面が異常かもしれない」と思っていたのは、それを否定したり覆すだけの具体的なことを知らなかったがゆえだったということも判った。
 もちろん、逆に「俺は、病気じゃない、異常でもない」かもしれないと思ったことの方が的を得ていたことになる。

 それらを更に整理して具体的に解明してゆき、「俺は、病気じゃない、異常でもない」んだと納得し確信した。
 それどころか、未理解だった肝心な自分に関することを、いよいよ具体的に理解しはじめただけに自信を得ていった。

 結局、超個人的な世界に入っていったわけだが……、
経験や学習上は個人毎に千差万別になる面が整理されたことで、
「経験や学習以前に存在し自律して機能している生存上の基礎や基本的なことこそ普遍的で共通なのだ」ということまで理解を深めます。

 その根拠や理由で構成された内容になります。
 今度の冬に、書き出す予定で準備を進めています。


 夏場は、野良仕事優先&老化には厳しい暑さが続いております。
 でも、投稿のノルマは毎月2回、これは守ります。
 応援アクセス、よろしくお願いします。

 
応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は千差万別ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
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拍手ボタン等は非表示中です。
よろしくお願いします。

こちらからのお礼の応援アクセスは、
冬期間は随時&随意に致します。
プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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