生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
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カテゴリ : 把握できていること&用語集

主観的な考え方の特徴は


 かつて、違和感も無く暮らしていた。

 けれども、当時は、主観的だとか客観的だとかは考えたことも無かった。

 知らなかったことも、経験相応のことは記憶に残り、記憶相応の識別や思考が可能になり、相応の行動が可能になり、相応の結果になる。
 観察し確かめ試したことほど、詳しく憶え、相応の識別や判断が可能になるからこそ、相応の結果にすることもできるようになる。
 そうであることも十分に経験済みだったのだが、経験済みであることすら未理解だった。

 思考力も理解力も発揮していた。だからこそ、事実関係を整理して理解することもできたし、日常生活ができたし、勤務することもできた。
 けれども、日常的に行っていたことも、記憶に残っていることも、自分の考えに関しても、客観的に確認したことは無かった。

 当然に、自分に関する具体的なことは、ほとんど未理解だった。そうであることをすら実際には未理解だった。
 主観的な考えばかりだと、そういうものなんだということも、当然に知らなかった。
 それらが主観的な考えの特徴なんだということも、知っているはずが無かった。


 古い木造アパートの一室で、私は油絵に臨んでいた。
 目には見えないものも実際に存在する。という考えで、キャンバスの平面上に立体的な空間を表現できないものかと試行錯誤していた。

 午後、あの日も、いつものように、外で近所の子供たちが遊びはじめた。
 その子供たちの言葉を基に、私は自分のことを省みていた。

 たしかに、誰でも誕生当時は何も知らず何もできない。
 その後に、憶え、練習相応のことはできるようになった。
 社会人になってからも、有益なことができるようになったからこそ、給料はもらえたし、以前は尊重され信頼され優遇された。
 子供たちが言っていたこととはいえ、人生を左右することだった。
 しかも、俺は、こんな重要なことを今まで知らなかった……

 知らなかったどころではない。
 俺は、必要なことは十分に知っているような気がしていた。
 重要なことを知らなかったのに、一人前の大人になったような気さえしていた。
 自分が考えて判断したことは、間違いはないような気がしていたし正しいような気もしていた。
 何の根拠も無いのに……

 俺は、自分のことを、勘違いし思い込んでいただけだったのだ。
 つまり、自分のことは、ほとんど知らなかったのだ。
 このことを、独り善がりって言うんだろう。

 自分の中の、自分というイメージが音も無く崩壊して闇の底に消えてゆくのが見えたような気がした。
 精神面は一変した。
 焦り、精神整理が必要になった。
 ところが、自分の記憶には、自分に関する知識は無い。
 記憶の中を探せば探すほど、自分に関する知識が無いことばかりが明らかになってゆく。

 すでに社会人だ。27歳になった。それは確かだ……
 が、中学に進学した時点で、勉強を嫌っていた。それも事実だ。
 中卒で社会人になったが、肉体労働ばかりだった。
 女性関係も、大人振ったに過ぎなかった。
 このアパート暮らしにしても……
 もともと事実は歴然としていたのだ……
 気づいてみると、事実は如実に物語っていたのだった。
 大事なことをほとんど知らないから、肝心な自分のことを勘違いし思い込んでいたに過ぎなかったのだ。

 後悔を通り越していた。
 自分の心に、自分に関する知識が無い空虚感。初めて体験する言いようのない孤独。そればかりが気になるようになった。


 つまり、かつては、主観的な考え方ばかりしていた。
 当然に、客観視してこそ分かるようなことは何も知らなかった。

 あの日、客観視したからこそ、思い込みや独り善がりに過ぎなかったことに気づき、肝心な自分のことは何も知らなかったことに気づいた。
 客観視してこそ明らかになることがあることに気づいたとも言える。
 主観的な考えだったことに気づいたとも言えるし、主観的な考えの特徴や欠陥に気付いたとも言える。
 客観視したからこそ、客観視の有効性も体験し、自分の内面を客観視せざるをえない世界に一転した。
 が、そんなふうに客観的に捉えることも、当時はまだできなかった。


 実際には、知能は正常に機能していて、思考力や理解力もあって発揮できていたからこそ、勘違いや思い込みに気づくことができたことになる。
 自分のことをほとんど知らないことに気づくことができたのも、思考力や理解力を発揮できたからこそであり、知能が正常に機能していたからこそでもあった。
 重要な勘違いや思い込みに気づいただけに動揺どころか当惑したわけだが、それも、相応の感情が健全に機能していたからこそだった。
 五感では捉えることができない内面的なものこそが重要であることは、日常的に直に経験していることであり、いつでも理解できる条件が整っていて、何よりも詳しくても不思議ではないことでもあった。
 なのに、そうだったことにも、当時は気づけなかった。


 未知の世界を彷徨った。

 慣れている主観的な考え方を頼りがちだった。
 具体的なことを知らないほど上辺で判断し想像で補いがちだからこそ、勘違いしやすく誤解もしやすい。
 自分のことをほとんど知らないのだが、思考力は発揮できるがゆえに、新たな勘違いをし始めた。
 そんなことにも、もちろん気づけなかった。

 自分のことをほとんど知らないが、思考力は発揮できるし感情も機能しているがゆえの動揺や葛藤も生じる。
 ところが、その事実関係を自分で把握できなかったがゆえに、解決も解消も改善もできなかった。

 自分のことを知らないことが、どういうことか、そのことを思い知らされるだけだった。
 そうなんだということをすら捉えることができないほど、当時は自分のことを知らなかった。

 五感では捉えることができないことこそが重要であることにも、気づけなかった。
 五感で捉えることができることだけで判断しようとするがゆえに勘違いもし思い込むことにも、気づけなかった。


 上辺を繕っているに過ぎない。
 綺麗事を言っているに過ぎない。
 そのことに、やっと気づいた。

 他と接することには自信が無くなり、友との関係まで断った。
 見えない壁に直面しているような窮地に陥った。月日だけが過ぎ去っていった。
 自室から出ることが大儀になった。
 生活は夜型に変わった。
 3年も経った。

 自分の考えに無理や矛盾があるから葛藤が生じる。
 そのことに、ついに気づいた。

 新たな知識や考え方は、早々には得られない。だから、古い考えを頼ってしまうのだ。
 そうだったことにも、気づいた。
 冷静さが明らかに戻った。

 自室で、ふと、自分が考えていたことを確かめ整理し始めた。
 3年も余儀なくされた不本意さゆえに、ようやく自分の考えを客観視し始めたのだった。

 自分は考えていただけで、事実確認をしていない。だから、考えていたというより、想像していたに過ぎなかったのだ。
 しかも、想像していたに過ぎなかったことに、気づけなかった。だから、自分の想像上のことに過ぎないのに、事実であるかのような気がしていた。
 つまり、想像に過ぎないんだということに気づけなかったばっかりに、想像と事実の区別がつかなかったので、むしろ想像上のことを事実であるかのように勘違いして思い込んでいたに過ぎなかったのだった。


 にわかに、気が晴れた。
 それは、自分が考えていたことを解明でき、自分が考えていたことの無理も矛盾も解明できた証だった。
 主観的な考えの特徴や欠陥を裏付けることを具体的に解明できたとも言える。

 自分が考えていた内容を検証でき、自分の考えの無理や矛盾を解明でき、その改善や解消もできた。
 つまり、想像に関することは、自分で検証でき改善などできるようになり、にわかに自己管理が可能であることを体験した。

 それだけのことを体験しただけに、客観視の世界に本格的に移行していった。そういう捉え方はまだできなかったが……


 二度と戻るまい陥るまいと思い、詳しく知ろうとし、あの日に初めて気づいたことも繰り返し整理して理解した。
「あの日も客観視できたからこそ気づくことができたのだ」
 このとき、初めて私の人生上に客観視という言葉が登場する。
 体験の一部を指す言葉であり、体験を基に具体的な意味づけをされた言葉でもあった。

 実際には、あの日までは知らなかった自分のことを、あの日に新たに知ったのだ。だから、精神的な進歩や成長に他ならなかったのだ。
 日常的に思考力や理解力も発揮できていたからこそ、気づくこともできたのだ。
 新たな勘違いをしたことに3年間も気づけなかったが、あの日、気づけたことは、俺にとっては、本当は小躍りして喜ぶようなことだったのだ。
 五感では捉えることができない内面的なことこそが重要だったのだ。
 そんなことが次々に分かるようになるほど気も晴れてゆき、山の向こうに夕陽が沈んでゆくのを、自室の窓から見ていた。
 それは夏至の頃のことだったと、今も変わらない位置に沈む夕陽が教えてくれる。

 俺は、自分が無知なんだということを理解できないほど無知だったのだ。愚かだということも知らなかったからこそ愚かなこともしたのだ。
 それは、事実だった。事実を認めた。自認した。
 もちろん、このままでいいはずがない。
 そう思ったこともあって、次々に自分のことを知ることになる。
 そのことから、良かれ悪しかれ事実を認めることが重要だったことを知り、無知を認めたことで許容量が増え、愚かさを認めたことで吸収力が増したのだと考えた。

 俺の本当の人生は、あの日から始まったのだ。
 気づくことができた俺は、恵まれていた。
 などと思うようになる。


 かつては気づくこともできないほど主観的だった。

 そうだったことに気づいて、新たな勘違いをしたことにも気づけずに3年間困窮しただけに、自分の考え方が主観的であることが顕著になり、主観的な考え方の特徴や欠陥を思い知らされたことになる。

 自分が考えていたことを客観視せざるをえなくなったことで、主観的な考えの特徴や欠陥に裏付けることを具体的に解明し、主観的な考えの無理や矛盾からは解放されていった。

 客観視するようになったことによって、ほとんど知らなかった自分のことを知ったからでもあった。
 更に本来の自分のことも次々に知ったからこそだった。
 相応の精神管理が可能になったからでもあった。
 だからこそ、捉え方や考えも変わったのだった。


 この先は、客観的なことばかりになるので、ここで終わるが……

 個人的なことは解決したこともあって、他者の振る舞いからも次々と知ることになる。
 自分と同様に、自分でも精神異常だとか病気だと思い込んでいたり、精神異常だとか病気だと見做されている人がいるとしたら、それは勘違いや思い込みに過ぎず、とても残念で惜しい。
 それも、いつか払拭したい。
 そう思い続けてきたから、詳しくもなったのだが……
 具体的なことを知らないほど、事実確認を疎かにしがちなので、上辺で判断しがちで想像で補いがちだから、勘違いしやすく思い込みやすく誤解もしやすい。それが、目には見えない壁であることも分かった。
 実行できないことも、考えることは可能だ。間違っていることや無理なことや矛盾することも、考えることは可能だからでもある。
 騙し欺くために嘘を言うことも可能であり、収拾できないことも口先だけでは言えるからでもある。
 尤もらしく見せかけもするし、本当であるかのように工作もするし、優れたことであるかのように捏造までする。
 それらによって形成されている目に見えない壁は、計り知れないほど厚い。

 もちろん、そんな壁は、個人的には無用なはずなのだが……

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客観的な考え方の特徴は


 前記事「主観的とは 客観的とは」で、客観的な考え方の特徴も分かったので簡単にふれたが……
 自分の記憶に有ることや考えを客観視したり客観的に検証したことによって、日常的に客観視客観的な考え方をしていたことも明らかになった。

 つまり、日常的に行っていて記憶にも残っていたことでも、客観的に検証したことも無く事実関係を整理したことも無かったことは、具体的なことは未理解だった。

 その未理解な状態の記憶に有ることや考えを、客観的に検証し文章化するほどに整理されて事実関係などが明らかになったから、相応のことは具体的に理解できた。
 理解できたことは識別や自覚などが可能になったので、更に詳しく整理することも可能になり、相応の説明も可能になっていった。


 そもそも、日常でも「知らない」とも言うし「知っている」とも言う。

 これは、知らないことなのか、知っていることなのか、そういう確認も行っていることを物語っている。
 相応の情報が自分の記憶に有るか否かを確認していることになる。

 この段階で内面を客観視していたことになる。
 もちろん、日常的に客観視していたことになる。

 つまり、客観的に確認したことも無く事実関係を未整理だったことは、具体的なことは未理解だった。
 こうして、客観的に内面的な事実関係を整理したからこそ、事実関係などが具体的に明らかになった。

 それが、考えに関することを客観視したり客観的に検証することの特徴だったのだ。


 記憶は、過去に接したことが、脳内に残ったものだ。
 現実は過ぎ去ってゆくので、記憶に残ったことは接触時の残像のようなものだ。
 知人の顔などを思い浮かべてみるだけで分かるが、記憶は実に曖昧だったりする。だからこそ、絵に描けない。
 わずか数キログラムの脳内に残るだけに、特徴の断片のようなものでしかない。
 気になって集中したことや観察したことや確かめたことや試したことほど詳しく記憶に残るが、その逆のことほど記憶に残らない。
 ちなみに、曖昧で描けなかったことも、繰り返し描くことによって、それだけ観察することになり、細部のことにも気づいて詳しく記憶に残るので、相応に描けるようにもなる。
 でも、記憶に残っていることは過去に経験した際のことなので、今も同じだとは限らない。
 他界した人のことも記憶に残っている。
 省み難いことだって記憶には残っている。

 つまり、過ぎ去った現実から切り取られたように脳内に残ったものが記憶であり、記憶自体が客観的な存在だったのだ。

 もともとそうだったわけだが、未整理だったうちは具体的には未理解だった。
 こうして客観的に事実関係を整理したことによって具体的に分かった。


「初めて見る物だ」と判断したり、「初めて会う人だ」と判断したりする場合は、相応の情報が記憶に無い場合か、または記憶に有るのだが思い出せない場合だ。
 つまり、対象の個体特有の具体的なことを識別できない場合だ。

 以前に会ったことがある人だが、名前などの個人特有のことは知らない。
 名前も知っているし家も知っているし家族も知っている人だ。
 後姿だけで分かる人もいる。
 声が聞えてきただけでも分かる人もいる。
 性格や考え方の傾向まで察することができる人もいる。
 それらの識別は、過去に接触があったことや、過去に接触があった際のことが記憶に残っていることの程度次第に因る。
 具体的な情報が記憶に有る物事ほど、具体的な識別ができるわけだから、記憶に残っていることを思い出して参考にしているからこそできる。

「できない」とも言うし、「少しはできる」とも言うし、「自信がある」とも言う。
「それは無理だろ」などと可能性の判断までする。
「それはやっちゃダメだ」などと是非の判断までもする。
 損得が伴うことなどは、結果まで予想する。
 それらも、記憶に残っていることを参考にして考えることができるからこそ言える。

 が、可否の判断や是非の判断や予想などは、的中するとは限らない。

 つまり、客観的な存在である記憶を参考にして考えること自体も、もともと客観的なことだといえる。


 目には見えない記憶を参考にして行われる思考上では、目には見えない関係や理由や法則や文法や約束やルールなどを理解することもできる。
 記憶内の関係する記憶を整理することができるからだ。
 その整理された記憶で構成された一連のことも記憶に残る。
 だから、思考上で、目的や目標を想定して計画を立てることも可能で、それを基に行動することもでき、相応の結果にすることもできる。

 となると、思考上で可能なことは、客観的云々どころか、現実から独立しているくらいだったのだ。


 結果や行動を左右しているのは、内面の気持ちや考えであり、その重要性も記憶に有る。
 その気持ちや考えが、信頼できるか尊重できるかは生存を左右するほど重要なことだったりする。
 それも、裏付けになる過去の事実に左右されることであり、過去の接触の程度や記憶に内容に左右される。
 他者の実際の振る舞いを基に、その内面の気持ちや考えを察しもする。それにしても、相応の情報が記憶にあればこそだ。
 情報不足でも、妥協も可能だし、独断も可能だ。が、裏付けになる根拠や理由が無い場合は、「買被り」や「打算」だったりもする。
 結局、信頼や尊重には反することだったりさえする。

 思考は、客観的どころか、むしろ現実離れするくらいの性質があることになる。

 事実確認をしないで、頭の中だけでできる想像は、し放題だ。
 事実確認の重要性を見失うと、想像に過ぎないんだ、ということを自覚できなくなることもある。
 想像に過ぎないことなのに、現実や事実であるかのように勘違いしたり思い込んだりさえもする。
 妄想と化すると暴走さえする。

 つまり、記憶を参考に考える(想像なども含む)こと自体が、もともと客観的なことだからこそ、現実や事実と切り離されてしまうこともあるのだ。


 しかも、客観視とはどういうことで、客観的とはどういうことなのかも、もともとは未理解なので、未理解なうちは具体的に識別できないので自覚もできない。

 自分が考えていることや、その考えを基に行っていることや、その結果など、識別や思考が中心になっていることも、具体的に理解していないと、それらに関係することも識別できないために自覚できず自分で管理することもできない。

 自分自身のことや、日常的に使っている知能のことや、知能上で自分が識別し考えていることや、その考えを基に行っていることや、その結果など、具体的に理解していないまま、考えや想像が独り歩きをすると、心身が分離した状態にさえなる。
 勘違いや思い込みや妥協や打算や買被りなどを基に行動してしまうこともある。

 考えていることにリスクが伴う場合は、自覚できるからこそ緊張したり興奮したりもするが、そうであるにもかかわらず強行もする。

 考えや想像が独り歩きしているような結果だからこそ、実際には的外れだったり、損をしたり、事故になったり、勘違いや思い込みゆえに自身を殺すことさえする。

 それでも、未整理だと、自覚もできないので、改善できず、繰り返す。


 が、人は、反省もする。

 本人が未理解だろうが具体的に理解していようが、もともと、記憶を参考にして考え、その考えを基に行動し、相応の結果になる。
 躊躇する場合は、情報が不足しているか、考えに無理があるからだ。
 結果が不本意な場合は、考えに問題があったことを物語っている。
 しかも、識別や思考は、意識上で記憶を参考にして行っていることだけに、それらを客観的に検証することも可能で、むしろ日常的にも行っていることだからこそ、必要に応じて考えを検証する。

 というより、客観視客観的と言われることの特徴を、日常的に実用したり活用しているといっても過言ではない。
 そもそも、具体的なことは未理解な段階でも、客観的に捉え考えること自体は可能だ。だからこそ、類推や予想までも行うわけであり、誰もが実用し活用するようにもなる。
 それは、知能の高度な面を発揮することだと考えられ、備わっているその能力を誰もが実用し活用するようになるのだと考えられる。

 客観視すれば事実関係を整理することもでき、勘違いや思い込みなどの修正や改善もでき、整理したことは具体的に理解することもでき、更に詳しくもなれる。
 そうするほど、誤りやミスも減少する。

 この場合の事実関係の整理は、理解する対象に関係する記憶を整理することでもある。
 理解できた段階で、整理され関係することで構成された一連のことが記憶に残る。
 記憶に残ったことは、識別でき自覚が可能になるので、更に詳しくもなれるし、説明できるようになるし、着実に好結果を出せるようにもなる。


 自分自身のことや、日常的に使っている知能のことや、知能上で自分が考えていることや、その考えを基に行っていることや、その結果など、具体的に理解した場合は、それらに基づいた自己管理が可能になるので、心身一体の状態になる。

 経験し学習し、理解できるようになる頃には、その準備も整っていることになる。


 これらは、目には見えない内面的なことだが、内面的なことでも客観視でき客観的に整理して考えることができるからこそ、具体的に理解することもできる。

 明らかになってゆくこと自体から、客観視といわれる捉え方や客観的な考え方には、もともと自分の考えをも広く深く具体的に理解することができる性質があることも理解できる。

 これらが、客観視客観的な考え方の特徴だといえる。

 だからこそ、主観的と言われる考え方と、客観的と言われる考え方とでは、明らかに違うことを区別する必要があり、相応の言葉が必要になり、現存しているのだとも考えられる。

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主観的とは 客観的とは



 歪んでいた心を整理し修正し続けてきました。
 そのメモをする際に、言葉の意味を明確にすることも有効だと気づき、活用してきました。
 その内の、主観客観について書いてみました。

初回投稿:2012/04/27
なお、投稿後の考えを基に再編集しました。 2015/06/01
投稿日も更新に合わせて変更してみました。
旧題「自分に関する主観的と客観的の違い」を「主観的とは 客観的とは」 に改題 2015/06/19



 
 
 ちなみに、とか直感的と言う場合は、具体的な根拠や理由が無い場合の考えや判断のことを言う。

 具体的な理由や根拠が無い好みや意見は、主観的なことである。

 その主観的な好みや意見の理由や根拠をはっきりさせようと確認や検証をする場合は、その主観的な好みや意見を客観視して客観的に考察することになる。

 その客観的な考察の結果、明らかになった根拠や理由や考えや意見も客観的な情報と言える。

 要は、主観的だと理由や根拠も具体性も無いので説得力が無いし、理解しようが無く納得もし難い。
 人は、根拠や理由があって辻褄が合っていると理解でき納得もするからだ。つまり、根拠も理由も無く辻褄も合っていないと理解できないし納得もできないからだ。
 なので、考えや意見を本人が客観視できているか否かを問題にもするのだと考えられる。

・・・☆・☆・・・


 知らなかったことを憶え、相応の振る舞いをしている場合も、主観的だ。
 言葉を話せるのに、どうして話せるようになったのだろうと考えもしないし未理解な場合なども主観的に話していることになる。

 客観視するからこそ、次のようなことが分かる。
 知らなかったことを憶えたから、こういうことができるようになったのだ。とか、初めは発音が下手で片言だったが、練習をしてコツを掴み修正や微調整した分だけ上達したのだ。等々。
 それを理由にした見方は客観視であり、それを理由にした考えや意見は客観的な考えや意見だということになる。

 客観視するからこそ、更に具体的なことを理解することもできる。
 各感覚器官や意識や記憶力で構成されている知能が備わっていて、経験相応の印象が記憶に残り、その記憶を参考にした識別や思考や予想などが可能になり、相応の振る舞いができ、相応の結果になる。
 よって、観察したり確かめたり試したりすほど、上達し、どんどん高度なことが可能になる。

 つまり、こういうことは、主観的だと理解できない。

・・・☆・☆・・・


 勘違いや思い込みなどは、主観的なほど気づき難く、客観視することによって修正が可能になる。
 よって、会話によって、勘違いや思い込みに気づいたり修正できたりもする。
 つまり、物事を言葉に置き換えること自体が本来は客観的なとこであり、それを聞いて理解することは、自分の記憶にあることや意見や考えを客観視して整理して理解することだからでもある。

・・・☆・☆・・・



 省みることが、代表的な客観視であり、客観的なことと言える。

 曖昧だったことや勘違いや間違いなどを修正するから、正しいことや確かなことや詳しいことも憶える(記憶に残る)。
 詳しく憶えるには時間も必要で、上達するには多くの試行錯誤も必要になる。
 当然に、自身が形成されたころのことは知らないし、自身の体内ですら見たことが無いし、知らないことこそが計り知れないほど多く存在する。
 何かを思い浮かべてみるだけで分かるが、記憶自体が曖昧で、知っていても曖昧なことが圧倒的に多い。
 個人的には詳しいことや巧みにできることは限られている。
 知人だって限られているし、知らない人の方が圧倒的に多い。
 具体的なことを知らないことだからこそ想像もするし、錯覚や勘違いや思い込みもある。
 個人毎には、育つ環境が異なり、経験する内容が異なり、学習する内容が異なり、好みや価値観が異なり、詳しく理解できていることや上手にできることは個人毎に千差万別になる。
 などと省みる。その際の捉え方は、まさに客観的といえる。

 知能の性質上、前述したことは誰でも経験することになるが、省みて記憶に残っていることなどを整理することによって、具体的に理解することもできる。
 つまり、客観視したり客観的に整理することによって、前述したことなども具体的に理解することができる。
 理解したことは、相応の知識として記憶に残るが、その知識も客観的な存在だということになる。
 その客観的な知識や考え(知的面の性質上、間違いや勘違いや思い込みなどもあるものだ)を基に、自分の考えや判断が間違っていないか正しいかとか、想像に過ぎないのではないかとか、勘違いや思い込みではないか、などと確かめることは、まさに客観的な検証だということになる。
 また、他人の考えを基に、それに適っているか否かを確認することも、客観的な検証だということになる。

 知的面が、以上のような性質であることは、会話ができるようになる頃には誰でも経験している。つまり、誰でも客観視するようになるし、客観的に考えるようになる。
 にもかかわらず、自分の考えや判断に、まったく疑問を抱かない(客観的な要素が無い)場合の、その考えや判断は主観的。
 主観的な場合は、前述したようなことを理解することも無い。



 例えば、自分以外の物を見ているとき。
 自分以外の物を見ているわけだから、客観視している。自分以外の物を客観的に見ている。
 と言える……

 言えるが、不明確だ。具体的でない。
 客観視とか客観的とは、イメージとしては第三者的な立場から見ることを意味する言葉だとは思うが……

 一般的にはどういう意味で使われているのか、Web検索をすると……
「対象の主張には左右されないこと」ともある。
 概ね次のようなことを指すようだ。
「独立した立場で独自に対象や事実関係や因果関係や理由などを広く深く捉えたりすること」
 ということは、勘違いや思い込みや先入観などの排除が望ましいことになる。
 もちろん、事実確認をせず根拠も理由も無い勝手な想像や独断は厳禁だ。
 言うまでもないが、偏見などに執着することや、自分に都合の良く有利になるように歪めることは、論外だ。

 そうだったとなると……
 冒頭で述べたことは、そもそも言葉の意味が不明だった。
 自分の見方が主観的なのか客観的なのかを考慮すらしなかった。
 あれは、自分が思いつきで述べたに過ぎなかった。根拠や理由のない想像や勝手な独断の類だった。
 つまり、冒頭で述べたことは、むしろ主観的な類だったことになる。


 あれでは具体性が欠け不明確だったから、疑問を抱いた。
 あの時点で、自分の見方や考えを、第三者的な立場で捉えはじめたといえる。
 つまり、自分の見方や考えを、客観的に捉えはじめたことになる。


 日常でも、具体的な根拠や理由があって辻褄が合っていると、納得する。
 根拠や理由が不十分だったり辻褄も合っていない場合などは、納得はできない。
 独断したり、妥協したりもするが、あれは納得していないからこそ無理に行うことであり、伴うリスクが大きいことまで気になる。
 リスクは、避けようとする。むしろ、有益な結果にしようと思う。だからこそ、最低限のことは知ろうとするし、より具体的なことを確かめようとさえする。
 良かれ悪しかれ、納得するためには、相応の具体的な事実や理由や根拠や辻褄が合っていることなどが必要だからだ。

 だから、客観的云々に関しても、一般的にはどういう意味で使われているのかを、Web検索した。
 つまり、自分の見方や考えに疑問を抱き、想像や独断的なことは止め、自分の見方や考えに執着するのも止めて、一般的な使われ方を検索した。
 あの段階で、自分の見方や考えを客観的に捉えた上で、更に客観的なものを求めたことになる。


 Web検索で得た情報は、自分の考えではない、第三者の考えだ。

 個人毎に知能が備わっているだけに、見方や考え方は個人毎に異なる。
 個人毎に育つ環境が異なるだけに、好みや価値観は個人毎に千差万別になる。
 だからこそ、理解し合える相手は限られ、親子でさえ理解し合えなかったり、友達は限られ、親友は更に限られ、信頼し合い尊重し合える恋人は当然に限られ、最愛の相手とは出逢うことすら難しい。
 それだけ、信頼し合え尊重し合えることを重視するようになり、最愛の相手となると厳選するようになる。
 でも、見方や考え方が違うからこそ、妥協もし、上辺だけの体裁繕いや、雷同した真似事もし、御機嫌取りだけの騙し合い、上辺を競う見栄、開き直った売買さえもするほど内容も千差万別になる。
 もちろん、信頼し合うことや尊重し合うことには背くことだったりする。
 結局、責任を転嫁し合い、破綻し、裁判沙汰にもなるし、犯罪に発展したりさえする。

 そんな多種多様な他者の考えの代表ともいえる、Web検索で得た情報は、自分にとってはまさに客観的な存在だ。


 そんな客観的な情報を基に、それに適っているか否か、自分の考えを検証している。
 これは、「独立した立場で独自に対象や事実関係や因果関係や理由などを広く深く捉えたりすること」に該当する。
 これなら、
客観視であり客観的な捉え方だといえる。


 となると、主観的客観的かは、見方に関することではなく、考え方に関することだったことになる。

 考え方こそ、自分に都合の良く自分に有利に事実を歪めることや偏見なども可能だからだ。
 事実確認をしない根拠も理由も無い勝手な想像や独断も可能だ。
 意図的ではない勘違いや思い込みや先入観などにも左右される。

 でも、考えは、確認や検証も可能だし、修正することも可能だ。

 つまり、自分の考えに疑問を抱き自分の考えを検証する客観的な考え方も可能であり、自分の考えに疑問も抱かず確認もしない主観的な考え方も可能だからだ。


 考え方に関することだとなると、日常でも……

 考えの内容次第で、躊躇したり積極的になったりして行動が左右される。
 詳しく正しく知っていることは限られているし、詳しく正しく知っていると思っていたことでさえ実際には間違っていたり、実際には随意にできなかったり失敗したり損をしたりもするし痛い思いをしたりさえする。
 その結果も、その結果を左右している行動も、本人の考えや判断が左右している。
 だから、自分の考えや判断に疑問を抱くし、それでこそ自然だし、日常的に客観視客観的な考え方もしていることになる。

 考えは、一旦止めることも可能だ。

 他者の考えを取り入れることも容易で、むしろ教えてもらうことも日常的に行っている。学校もあり、教習所もあり、訓練所もあり、研修所などもある。

 つまり、日常でも、自分の考えを客観視したり、他者の考えを基に自分の考えを検証したりしているわけであり、自分の考えを第三者的な立場で客観的に捉えることも行っている。

 でも、自分の考えに疑問も抱かず確認もしない主観的な考えも可能なので、いずれの考え方なのかが問題になったりもし、区別も必要になる。


 主観的なのか客観的なのかは、考え方に関することだとして、簡単に特徴で区別すると次のようになる。

 自分の考えを客観的に捉えたことによって、自分の考えを整理でき、事実関係を検証することも修正も可能になり、ここまで明らかになったわけだから、それが客観的な考え方の特徴だと言える。

 冒頭では、自分の考えを客観的に捉えなかったし検証もしなかった。だから、それこそが主観的なのだとさえ分からなかった。
 つまり、主観的と言われることは非客観的とも言えることだけに、独自には明らかにできない。客観的な捉え方をすることによって明らかになる。
 それが主観的な考え方の特徴だと言える。

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「悟り」とは・追記


「具体的なことは知らなかった。しかも、確かめずに、想像を頼っていた。つまり、具体的な判断ができないからこそ想像したに過ぎず、具体的な根拠も理由も無い想像に過ぎない。だからこそ、的外れな勘違いもしやすく、思い込みやすく、先入観として抱いてしまいやすい。」この部分がとても解り易かったです。


 それは、makoさんは、すでに悟っている証です。
 ご自身が経験していることを基に理解(悟り)を深め続ければ、やがては独自に悟りであることを納得することもできるでしょう。
 また、理解したことは記憶内にも知識として形成されるので、何時でも自覚できるようになり、理解を深めるほど説明も容易になり、理解した証にもなるはずです。

 もともと、日常会話でも、知らない部分があるだけでも滞り、その部分の確認ができると続けて展開できます。
 また、根拠も理由も無いとか辻褄が合わないと納得できませんが、根拠も理由もあって辻褄が合っていると納得でき、むしろ否定し難くなります。
 そういう識別力や理解力や予想力などの情報処理能力を日常で発揮していたからこそ、根拠も理由も無いことに気づくこともできたのでしょう。

 能力を発揮していたとなると、なぜもっと早く気づけなかったのか、どうして未理解だったのか、そんなことが惜しまれ悔やまれるでしょう。
 その理由も、記憶に残っているはずだし分かるようにもなるはずです。
 
 
 本来は

 生存上の基礎や基本的なことは、誕生後に経験し学習したことを以っては変えようが無いし、普遍的で、誰でも共通です。

 言葉を憶える以前から、誰もが生存上必要なことは直に経験し、相応の学習をして二足歩行ができるようになり、その後に言葉を憶えます。
 つまり、すでに物事は存在していて、経験も学習もし、相応の印象も記憶に残っている。でも、物事に相応する言葉を知っていることしか、言葉では伝えられない。だから、盛んに言葉を憶えようとします。

 二足歩行や会話などの基本的なことは熟練することも、相応の能力が備わっていることも、実際に発揮されることによって実証されます。
 ですが、すでに存在していることにしても実証されていることにしても、確認や検証をしないうちは具体的なことは未理解だし、確認し事実関係や理由や因果関係などを整理し検証した場合は具体的なことを理解できます。

 経験でき、相応の情報が記憶に残り、その記憶に残ったことを基に識別や思考や予想なども可能になり、相応の行動も可能で、相応の結果になります。
 そうなんだということも、相応の行程を経た場合は理解でき、理解すると相応の知識が記憶に残り、その知識を基にした識別や思考や予想なども可能になり、相応の行動も可能になり、相応の結果にすることも可能になります。

 ただし、必ずしも理解するとは限らないことになります。
 むしろ、実際に分かり合えることは限られていて、誰にも共通なことでも、誰もが理解しているとは限らないです。
 当然に、相応の知識は無いので、相応の識別や思考や予想もできないし、そういう行動もできないし、そういう結果にもできない。
 
 
 現に

 会話では、相手が話したことを、自分の記憶にあることを基に識別し理解し予想し、相応のことを文章化して応答しています。だからこそ、過去のことでも話せます。つまり、頭の中で行われる識別や解析や予想などの情報処理も熟練したからこそ、会話も二足歩行も熟練したことになります。
 しかも、その識別や解析や予想などは、まさに本人が考えたことそのものです。それが、正しいか否かは、実際にできるか、実際にそういう結果になるか、などで否応なく確認されます。
 そうであることも、当然に理解可能です。ですが、誰もが理解するとは限りません。

「想像に過ぎないだろ」とか「嘘だ」とか「わざとやっただろ」などと言うようになると、その意味に相当することも概要は分かっていることになります。
 つまり、その事実関係を確認し整理するだけで、大変な欠陥があることも理解でき、相応の知識も得られる状態にはあることになります。が、その事実関係を確認するとは限らず、誰もが理解するとも限りません。

 日常会話でも、知らない部分があるだけで滞ります。その部分の確認ができると、続けて展開できます。
 会話上でも、根拠も理由も無いとか辻褄が合わないと納得できませんが、根拠も理由もあって辻褄が合っていると納得でき、むしろ否定し難くなります。
 よって、その理由なども、確認し整理すれば具体的に理解できます。

 自分の思考が中枢になっている因果関係なども、事実関係や理由などを確認し整理すれば具体的に理解でき、相応の知識が記憶に残り、相応のことは自分で把握でき自分で管理できるようになります。よって、それが精神的な自立なんだと自覚できます。
 また、経験し学習し熟練し理解し精神的に自立するまでの具体的な知識を得ると、それを基に、そういうことを知らずに経験し学習する子供の保護養育ができ、相応の準備も整ったことになります。
 そうであることも、いつでも単独で確認でき、お金も学歴も資格も無くても理解できるわけですが、理解するとは限らない。(この普遍的で共通する本来のことを理解することが、私見「悟り」の本体です)
 
 
 未理解な理由は

 そもそも、経験し学習し理解することだけに、その内容には個人差が生じます。
 学習して実用できるようになると用が足りるので、それができるようになった理由をわざわざ理解する必要は感じなかったりします。
 しかも、盛んに学習し理由や因果関係も理解できるようになる時期に、学校に行き、他者が用意したことを半ば強いられ宿題までやらされます。つまり、本来は、生存上、必要なことは直に経験し、必然的に相応の学習をするのに、それとは関係のないことを憶えさせられ競争までさせられます。
 当然に、反抗的な要素も加わります。
 好きなものを食べ、嫌いなものは食べない。見たいものには集中するが、見たくないものからは視線を外す。聞きたいことは聞くが、聞きたくないことには集中できない。思い出したいことは思い出し、思い出したくないことは思い出すまいとする。考えたいことは考え、考えたくないことは考えない。憶えたいことは情報収集も練習もするが、無関心なものもある。
 当然に、自分の気持ちや考えていることは知られたくなかったりもします。となると、自分が考えていることである想像や情報処理に関することを理解しそびれたとしても不思議ではなくなります。
 テレビで放送されることも、個人的には事実か否かを確かめようがない。つまり、ニュースや報道番組なんだからという間接的な信頼性を基に、本当なのだと思う。
 ドラマや映画は、大金を投じて、NGを繰り返し、編集し、CGなども駆使して、いかにも本当らしく創ったものです。そういうことが分かっていても、見るとなるとストーリーなどを肯定しながら見るしかない。つまり、事実確認をしないで、想像し思い込む練習をしているようなものです。
 就職すると、経営上層部の考えに基づいたことをやるしかない。組織化は理想的なことだと考えられますが、精神的に自立していない場合は翻弄されているような状態になりかねません。
 経験や学習の内容に左右されるだけに好みや価値観は千差万別なり、友達は限られ、親友は更に限られます。それでも、人間関係を避けては生きられないので、妥協や折り合いは半ば必須です。つまり、肝心な自分の考えを曲げたり自分の脳力を抑圧したりしがちです。
 結局、小学生の頃には、想像の欠陥も具体的に理解することもできたはずなのに、理解しそびれると、いつのまにか想像を頼りがちになり、慣れてしまう。
 それどころか、他人がどう思うかまで想像し、相応のことをするようになる。
「皆、そうしている」と言い、事実を後付するようなことをしてまでも、そうだと思い込もうとする。
 しかも、そういうことに満足してしまったりもします。
 となると、本来の自分をすっかり見失い、想像どころか、現実離れした仮想や幻想を基に彷徨っているようなものです。
 一般動物たちにも個々に知能が備わっていて、言葉を話さないだけに、個々が独自に判断して行動していることになります。その頂点に位置するのが人であり高度な理解力があるわけですが、肝心な自分のことを未理解だと誰にも共通することも未理解なので、主体性や独自性は皆無に近い状態になると考えられます。
 特に、自分が考えて行っている情報処理に関することは、何よりも詳しくても不思議ではない。むしろ、それを未理解だと、とんでもないことになりかねない。が、そういう状態に至っている。しかも、気づけず、むしろ平気だったりします。(そういう状態が、私見「悟り」の前提になります)
 
 
 が、気づいた。

 ということは、本来の識別力や理解力や予想力などの情報処理能力が健在だったか復活したことを物語っています。曲げて抑圧気味で未使用に近かった脳力の最も優れた面を、発揮しはじめたともいえます。つまり、理解しそびれたがゆえに見失いかけていた自分に、気づいたことになります。
 でも、そういうことも、気づいた当初は未理解です。想像や思い込みに関する具体的な知識も無かったために迷っていたわけですから。
 つまり、高度な脳力を発揮できるようになったにもかかわらず、想像に関することも未理解だったとなると、肝心な自分に関する知識は、小学生レベルだったことに気づくはずです。「想像に過ぎないだろ」などと言うようになった頃には、想像に関する具体的なことを半ば分かっていたはずですから。いわゆる、アダルトチルドレンを体験するはずです。でも、純真に近い心を取り戻したことを意味します。しかも、識別力や理解力など自体はすでに成熟していて発揮できているからこそです。ですが、そうであることを未理解だった(相応の知識が無かった)ことに気づいたのだと言えます。

 もし気づくのが遅れた場合は
 つまり、想像を頼ることに熟練してしまっていて、そうであることも未理解な場合は、そうであることを把握できないし自覚できないし自制できないわけですから、それではとんでもないことになるんだということを体験することになります。
 そうなってからでも、その事実関係を捉えることができるなら、本来の自分を取り戻すことも可能だといえます。
 この場合も、アダルトチルドレン状態まで戻ることになります。

 更に気づくのが遅れて、情報処理能力が老化し始めている場合は、手遅れかもしれません。

 事実関係を認めること自体が到底できないほど間違った状態に至っている場合も、十分にありえることになります。

 いわば、せっかく備わっている知能の使い方を未理解なうちに、間違った使い方を学習してしまったと考えることもできます。
 もちろん、ほとんどの過ちは、具体的なことを知らないがゆえに、想像し勘違いしたことによる過失に該当します。もともとは悪意に因ることではない。
 となると、話しは最初に戻りますが、本来、理解すべき知識を得ることは、半ば必然的になります。
 すでに発揮できている能力に関することを今更のように理解することになるわけですが、自分が考えて行っている情報処理が中枢になっていることは理解も容易なはずです。すでに二足歩行や日常会話は熟練し能力を発揮できているが、その具体的なことを理解できていなかった(相応の知識が無かった)だけですから。
 遅れ馳せながら、小学生の頃から思春期までには理解できたであろうことを、今更のように理解することになります。
 でも、すでに発揮できている能力に関することを理解できれば、安易に自分の考えを曲げたり抑圧することは自制するようになり、未理解で未発揮だった最も優れた面が発揮されてゆきます。
 結局、大人の理解を得られなかった子供の頃の自分の気持ちを、大人になった自分が理解して救うような工程を経て、精神面の把握や管理が可能になるだけに、これが精神的な自立なのだと自覚できます。
 しかも、きわめて個人的なことを理解するわけですが、生存上の基礎的なことや基本的なことこそ普遍的で共通です。経験や学習などの精神面に関することを理解するほど、子育てにも有効だと自覚できるはずです。
 もちろん、普遍的なことに基づいた考え方や判断が可能になるだけに、根拠も理由も無いことには惑わされにくくなります。
 
 
 要するに、すでに存在することを具体的に理解していないばっかりに、想像をし的外れな勘違いをし思い込んでしまう。
 そういうことも、具体的に理解するだけで、識別できるようになり、相応のことも可能になる。
 言葉で言うと、「知らないのと知っている場合との違い」、「できないのと随意にできる場合との違い」、それだけのことです。
 ですが、実生活上では大差があります。まして、自分の精神面に関することだとなると…… これは経験者のみぞ知るでいいのかな……
 
 
 残念ながら
 せっかく理解しても、気づく前の自分がそうだったように、根拠も理由も無い想像をし勘違いし思い込み先入観(固定観念)を抱いてしまっている他者には通用しません。当然ですよね。
 でも、他人に分かってもらえなくても、自分で分かっているし、自分の考えに基づいたことができるようになります。
 むしろ、好みや価値観は千差万別になるのは、経験や学習上のことに更に想像が加わるからであり、当然なのだと思えるようになり、苦にならなくなります。

 むしろ、私も、こうして書くことで、更に整理がすすみ理解を深めることもできました。
 makoさん、ありがとう。
 
 
 私も、他のことでは迷いが多く、拙文も読み返すたびに書き直さざるをえない始末です。でも、こうして、文章を書く勉強するしかない。そんなわけで、当初の記事をあちこち書き直しました。
 元の文と追記が、本末転倒状態だった。そんなことに気づくのも、すっかり遅れてしまいました。
 ご容赦ください。
 
 
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「悟り」とは


 
 すっかり怠け癖がついてしまった私に、格好の刺激。
 makoさん、ありがとう。
 
 
 私は、初めて気づいた時は、なにがなんだか全く分かりませんでした。
「悟り」という言葉は思いつきもしませんでした。
 むしろ、せっかく気づいたことを確認もせず、すっかり習慣化していた想像ばかりし、「異常かもしれない」と新たな勘違いをしはじめました。

 具体的なことを知らないことは、根拠や理由を基にした具体的な否定や肯定(判断)はできない。が、そういうことも、当時は未理解で、すでに確かめなくなっていた。
 具体的な根拠も理由も無く納得もできず、具体的な判断ができないがゆえの想像に過ぎないのだが、その想像を頼りがちで、まさに迷っていた。
 にもかかわらず、想像とはいえ自分が考えたことや判断したことだけに、疑問も抱かず確かめもしなかった。

 具体的なことは知らなかったからこそ、根拠も理由も無い想像をし、「異常かもしれない」と思いはじめた。
 それは想像に過ぎなかったのだが、そのことには気づけなかった。
 想像とはいえ、自分の思考上の結論のようなものだっただけに、その想像上の「異常かもしれない」というイメージも否定も肯定もできない。
 しかも、想像に過ぎないことを自覚できないだけに、「異常かもしれない」と思うと危機感が伴う。
 想像に過ぎなかったのだが、「異常かもしれない」というイメージが、本当のように思えてきた。
 結局、想像に過ぎないことに気づけず、見えない壁に直面しているような葛藤の日々を3年も余儀なくされた。

 3年も葛藤を余儀なくされて、やっと、「考えていることが間違っている」ことに気づき、「自分が考えていることに無理や矛盾があるんだ」ということに気づいた。
 最初に気づいたときとは違い、3年もの葛藤の日々を経験していただけに、それを打破したい打開したいという思いが顕著になった。

 そして、自分が考えていたことをやっと確認しはじめた。
 自分が考えていることは、事実確認をしたわけではないし、単なる想像に過ぎない。
 そんなことが分かっただけで、葛藤が解消した。
 想像に過ぎないんだから、当然に、的外れの確率は高く、的中している保証など無い。むしろ、想像上のことだから、事実ではないし、勘違いや思い込みの類でしかない。
 そこまで明らかになっただけに、その想像や勘違いに因る3年もの葛藤に半ば唖然とした。

 まさに、自分が考えていることを、把握できなかったからだった。
 が、自分が考えていることも、現に把握でき改善もできた。これも、確認したから把握でき理解できたわけであり、以前は単に確認しなかったから未理解だっただけだ。
 思えば、想像や勘違いなどに関することも自分のことに関しても、学校で教えてもらった覚えも無いし、自分でも確かめたことも無かったし理解しようともしなかったし考えたことすら無かった。だから、知らないのが当たり前なのだ。
 結局、肝心な自分のことをいかに知らなかったかが明らかになり、その肝心な自分のことを知らないことこそが真因だったことも分かった。
 未知だった自分のことを知ろうとしたのは、必然的でもあった。
 
 
 そんなことが具体的に分かり始めた当時は、やっと分かる程度で、忘れたり思い出せなかったりしました。
 つまり、以前の、事実確認をせず根拠も理由も乏しい想像をつい頼る癖や、他の思い込みや先入観などもすっかり定着していて、それが優先されてしまう。それを覆すような根拠も理由もあることをやっと理解し始めたから、だったようです。
 なにかを思い浮かべてみるまでもなく日常でも分かることだったのだが、この頃に今更のように記憶にあることをさまざま思い浮かべてみて、記憶がこんなに曖昧なものだったのかと始めて自覚しました。

 それを補うように、記憶よりも確かなメモをし始めた。ところが、自分にとっては未知だったことを次々に知ることもあって、該当する言葉も知らない。知っている言葉は限られていて、言葉で言い表せることも実に限られているんだということも初めて知った。
 自分が分かればいいのだから、記号を創ろうか! そう思った。変えようがない過去のことと、進行中の現在のことと、予想するしかない未来のこと。空間的な、上下、前後、左右。人工的なことと、それ以前の自然なこと。判断上の、認否、可否、是非。主語、てにをは、述語。などを、記号化し始めた。
 が、漢字は、一文字だけでも相応の意味も分かる。知っている漢字を勝手につなげても、相応の意味も分かる。造語とはいえ、その文字で、自分が必要なことを思い出したり意識したり自覚したりすることができれば、個人的には用が足りる。そのほうが手っ取り早い。
 それの造語を多用したことで心の整理も理解も進んでいった。
 理解しそびれていた自分のことを今更のように知るだけに、その都度、いかに無知だったかを思い知らされ、知能の優れた面が未使用に近かったのだと実感した。
(なお、この詳細は、この冬に書き上げる予定です)
 
 
 そういう経緯があったからでしょう……
 今でも個人的な意味やイメージで言葉を使っていることに気づいたりします。それでも、個人的な専門用語のようなものなので、個人的なことを理解する場合には通用します。
 でも、憶えている本人と名前が違っているようなものです。言葉と意味のどちらかが他人と違う場合は、その言葉は他人との間では通用しません。
 伝えたいとか分かってもらいたい場合でも、まず使っている言葉と意味が共通する同士間に限られます。
 そんなわけで、使おうとしている言葉の意味をふと確認すると、今でも自分でも意味の曖昧な言葉を使っていたり意味を具体的に説明できなかったりすることもあります。
 そんなとき、以前はPC内の電子辞典で確認していましたが、近年はほとんどWeb検索をします。

 ブログの記事は、公開されます。
 今回も、まず「悟り」で検索してみました。その結果……
 感づくこと・気がつくこと・知らなかったことを知ること・物事の真の意味を知ること・理解すること、などとあります。
 宗教上での悟りとは、心の迷いが解けて、真理を会得すること。迷妄を去った、真理やその取得。等々。
 以前にも確認したり検索したりしているし、そういう類のことだと私も思っています。また、相応の言葉を、上にもコピペしました。
 でも、検索の結果の意味では、単純なイメージしかできません……
 日常会話でも、部分的に知らないだけでも滞り、その部分を確認することによって展開します。
 肝心な具体的なことが欠けているので、具体的な意味の確認や納得はできないし、まさに悟ることはできませんよね……
 日常会話でも、根拠や理由が欠けていたり辻褄が合わないと納得できないが、根拠や理由があって辻褄が合っていると納得できます。

 感づくこと・気がつくこと・知らなかったことを知ること・物事の真の意味を知ること・理解すること、その程度のことなのだとしたら、それらの言葉で間に合います。
 なのに、「悟り」という言葉を使えば、むしろ混乱を招きかねません。
「悟り」という言葉には、それらとは違う、固有の意味があるはずです。
 伝えるための媒体としては言葉を使うわけですが、相手に伝えたいことや相手に意識してもらいたことは意味に相当する物事のほうです。
 もちろん、悟ってもらえてこそ、悟りの説明としても成立します。
 
 
 とは言ったものの、私見の「悟り」も、一喝で悟ってもらえるような簡単なことではないです。
 いろんなことを理解し納得したことによって、これは「悟り」なんだと思った。そのとき初めて「悟り」と言う言葉が思い浮かんだ、それまでの内容ですから……
 
 
◆あえて簡単に言うと、私見の「悟り」は次のようなことです。

「根拠も理由も納得も無い世界に迷い込んだ人が、そであることに気づき、根拠も理由もあり納得できる本来の世界に移行すること」
 また、次のような言い方もできます。
「自分で考えていることが、確かめた事実なのか・想像に過ぎないのか・勝手な思い込みなのか、そういうことを判断できない状態に陥っている人が、そういう状態に陥っていることに気づき、自分が考えていることを理解して日常で自覚できるようになること」
 これでも簡単すぎて、具体的な意味は不明ですよね。

 少し解説すると次のようになります。
 子供の頃は、悟りの連続なのだと考えられます。
 ところが、記憶に情報が増えるにつれて、それを基にした連想をとりあえずするようになる。これで、錯覚が増える。
 
 結局、その安易な想像を優先するようになる。
 具体的な判断ができないのに、事実確認をせずに、想像を頼りすぎると、根拠も理由も無い世界に迷い込む。具体的な肯定や否定がができないからこそ勘違いし的外れにも気づかずに思い込み根拠も理由も納得も無いのに先入観として定着してしまう。そういう性質上、そういう状態に陥っているんだということにも気づき難くなってゆく。つまり、実際には具体性に欠け納得できず迷っている。しかも、根拠や理由があって納得できる世界を未理解だと、平気でいられます。
 そういう状態こそが、実際には迷いであり、悟りの前提になります。

 でも、本人が具体的なことは未理解でも、誰もが二足歩行や日常会話は熟練します。それは、識別力や思考力や予想力などの情報処理能力が熟練したからでもあり、日常的にも発揮しています。
 つまり、日常会話は、相手が話すことを、自分の記憶にあることを基に情報処理をし文章化して応答するわけであり、相応の識別力や思考力や理解力や予想力を発揮できることになります。
 部分的に知らないことがあるだけでも会話が滞り、その部分を確認してまた展開させます。根拠や理由があって辻褄が合っていると納得できるが、根拠や理由がなかったり辻褄が合っていないと納得はできない。

 よって、具体的な判断ができないがゆえの想像や勘違いや思い込みに過ぎなかったことに、気づきます。
 能力は備わっているだけに、今更のように、事実関係を確認し、具体的な判断ができないがゆえの想像や勘違いや思い込みに過ぎなかったことを具体的に理解し納得できると、根拠も理由も無い想像による勘違いや思い込みが基になっていた葛藤や迷いは解消します。それは、根拠も理由もあると納得もできることを一時体験したことでもあり、根拠や理由があって納得でき迷いが無い世界への移行が容易になります。いわば、意識改革や軌道修正上が、容易になります。

 あとは、確認や検証し、事実関係や理由などを整理し納得できたことは、次々と理解されてゆきます。
 そして、根拠や理由を基に本来はこうだということを理解できます。ここが、私見「悟り」の本体になります。
 そもそも、生存上の基礎や基本的なことや事実などは普遍的な存在です。もともと理解できてこそ当然だったことを理解し、本来の精神状態に戻るだけです。よって、「悟り」であることも納得できます。
 以上の、気づいてから納得するまでの一連のことが、私見の「悟り」です。

 なお、私見では、「自分の情報処理に関することを未理解だったり間違っていたことに気づき、確認し理解し解決すること」に限り「悟り」と言っています。
 
 
◆それは、気づくことで始まります。

 それまで気づけなかったことである「具体的な判断ができないがゆえの想像や勘違いや思い込みに過ぎなかったこと」に気づくことで始まるだけに、気づくことが極めて重要です。
 言葉の意味に相当する物事こそが重要で、その物事が、これを読む側の記憶にあることが重要になるわけですが……
 その気づく部分だけを捉えた場合は、一瞬の出来事だとも言えます。

 たとえば、具体的なことが分からず、納得できず、半信半疑で、躊躇していた。が、「自分の好みや価値判断はどうあれ、相手は好意で良かれと思ってしてくれているんだ」と思っただけで、気持ちが一変した。あのときにも似ています。
 でも、具体的なことは分かっていなかったし、想像だっただけに、それも勘違いに過ぎなかった……

 山中で、「迷った」と思った。一転してパニックに陥りそうになった。あの時とも似ている。
 消防団員だったので、山岳遭難では大勢の人にヘリコプターも加わった捜索を2度経験し、それを思い出した。
 大変なことになる想像をし始めると焦り、肝心な目の前の現実が見えなくなる。が、想像だけに、なにも解決もしない。冷静さが戻った。すると、見覚えのある木の存在などに気づき始めた。
 結局、想像や勘違いや思い込みの類に気を取られたために、目の前のものは見えなくなり、想像や思い込みを基にパニックに陥りそうになったことになる。そんなこと気づいてホッとし、自分で笑っちゃった。そのときとも似ています。

 あることに気を取られるほど、他のことは意識できなくなる。以前は、テレビの気象情報は欠かせなかったが、待ち切れずに他の事を考え始めると、気づいたときには目の前のテレビの気象情報は終わっていたりする。
 もともと生存維持のための知能らしく、生存を脅かしかねない不安・自分では治せない病気になる心配・精神的に異常に陥るかもしれない苦・まったく対処不能な危険、そういうことには気を奪われやすい。相応の、胃に大きな穴が開いたであろうと思うしかないような経験もしている。
 その想像に感情が煽られ、不安が心配に変わり、心配が苦に変わり、苦からパニックに陥る。つまり、想像や勘違いに過ぎなくても、肝心な目の前の現実を意識すらできなくなり、まさに現実離れした想像の世界に迷い込んでしまう。そんな経験もしている。

 つまり、最初は、事実を確認したわけではなく、むしろ具体的な判断ができないからこそ、想像したに過ぎない。そんな想像の内容しだいで、精神状態が一変したりする。
 その、精神状態が一変することだけは、私見の「悟り」に関することに気づいたとき(悟った最初)と同じなのだと思う。
 もちろん、私見の「悟り」に関することに気づいた時、私は「悟り」と言う言葉は思いつきもしませんでした。
 似たようなことは、日常でも経験しているからですよね。しかも、「気づいた」とか「分かった」とか「理解した」と言い、「悟った」とは冗談でしか言いません。
 
 
 文章も説明も長ったらしくなりがちなのは、私は迷いが多いからでしょう。その迷いを、一つ、ここで処理します。
 私見の「悟り」は、私事ですから、もちろん宗教的なことではなく、一般的なことです。
 日常でも、事実を知り、勘違いしていたことに気づき、心の迷いが解けることもあります。
 会話上でも、不明な部分を確認するうちに、具体的なことを理解でき、それまでの勘違いや思い込みや先入観などが払拭され、心の迷いが解消することもあります。
 気まずいことで知られないほうがいいと思っていたことが、意外なことで発覚したが、むしろ分かり合えたりもします。
 私見「悟り」も、そういう類のことであることには違いないです。
 
 
◆気づいたら、確認し、具体的なことを理解することが重要です。

 気づくことの重要さが分かると、迷いの要でもあり迷いそのものでもある、具体的な根拠も理由も無くても可能な「想像」に関することを理解したほうが、私見「悟り」も理解しやすいでしょう。

 具体的なことを知らないことは、判断の基準になる知識が無いことであり、具体的な否定も肯定も(判断)できない。
 それでも想像は容易だが、根拠も理由も乏しい想像に過ぎないので失敗したり損をしたり大変なことにもなりかねない。
 なので、必要なら、確認します。確認すれば、具体的なことを知り理解し納得することもでき、適切な判断も可能になります。

 つまり、確認せずに、頭の中だけでできる想像を頼った場合は、具体的な判断ができないからこそ想像したに過ぎない。それは、根拠や理由が無いに等しいだけに、的中の確率も低い。だからこそ、的外れな勘違いをしやすい。事実確認をしないから覆されることもないので、むしろ思い込みやすく、先入観(固定観念)として定着したりもする。
 そういうことも、確認すればこそ具体的に理解することができます。

 そういうことを理解できれば、根拠も理由も無い想像上のことでしかないことが明らかになり、その想像ゆえの葛藤や迷いが解消します。それが、理解できた証にもなります。
 また、理解したことは記憶にも知識として残るので、随時自覚でき、相応のことも可能になります。
 よって、根拠も理由もあることは納得できる、ということを体験したことになり、確かめることを重視するようになり、根拠も理由もある世界への移行が容易になるはずです。
 
 
 霜が降り、紅葉が始まると、キノコが次々に生える。
 農繁期中だったのだが、今年も行ってみた。
 現地は、辺りの草が踏みつけられていた。が、まだ生えていない。

 かつては、まだ生えていないだろうと想像しただけで、出かけなかった。
 ところが、もう生えているだろうと想像して出かけると、採られてしまった後で、辺り一面に草が踏みつけられていた。状況から察すると、まだ生えていないだろうと想像して来なかった頃に、もう生えていたことになる。
 つまり、当時は、行く前の想像の内容しだいで、行動するか否かが決まっていた。が、それは、あくまでも想像に基づいたことでしかない。実際に生えているか否かは、現地に行って確認してこそ分かる。
 そんなことが分かって、そろそろ生える頃だと思うと、確かめに行くようになった。そうしたことで、ベテランたちは、もともと早めに確認に来ていたことも分かった。
 生え始めてから1週間もすると傷み始めるキノコの場合は、1週間以内に繰り返し来れば採り逃すことは無い。その周期を適期以内にすれば、適期に採れる。ただし、誰かに先を越されるか否かは別問題だ。そんなことも分かった。
 成果があると、納得も格別だ。しかも、その成果を基に、霜が降り、紅葉が始まると、このキノコが生えることも分かったのだった。

 今年は記録的な雨続きの農繁期だったが、数日後、また行ってみた。先日よりも辺り一面に草が踏みつけられているが、キノコを採った痕跡も無い。どうやら、夏の好天続きの所為で生えないのかもしれない、と想像して今年は諦めた。
 少なくとも事実確認をした場合は、納得して諦めることもできる。
 が、遅れて生えるかもしれない。そんな想像をすると、その確認をするまで迷うことになる。
 まして、まったく事実確認をしていないで、想像だけで諦めると、迷いが延々と続く。
 しかも、そういうことにも慣れてしまう。当然に、迷いもしなくなる。かつては、そうだった。

 つまり、精神面が一変するほどではなくても、情報を得ることによって、想像などの情報処理も変わり行動や結果も変わる。
 類例ですが、これらも、相応のことを悟ったことによって、変化したのだと考えています。ただし、想像という情報処理だけにピントを合わせた類例です。
 
 
 宝くじやギャンブル的なことも、当たるか当たらないかは不確かです。が、当たれば得をする。単純に当たることを想像して期待までした頃は、宝くじも買った。
 が、当たらない。損をする。しかも、一向に当たらない。
 ギャンブル好きな人で、損ばかりだと格好悪いので言及されることを嫌い、当たれば損した分を取り戻せるし自慢できるし得だなどと話す人は、依存症気味な感じさえします。
 宝くじも、当たるかもしれないと期待までしたが、それは想像上のことに過ぎず、想像に過ぎないんだから当たるとは限らない。宝くじも実際の当選確率的も、当たりは極めて稀で、当たらないほうこそが当たり前だ。
 そんなことを考えるようになったら、買うのを迷いはじめた。
 お金を出したのに、その収支報告も無いし、あったとしても確かめようが無い。想像だけに、天下りの懐にも入るのかもしれない、とさえ思う。当選した人は、公共事業には寄付するとは思えない。つまり、当たらなかった人たちが、その当選金だけではなく運営費や公共事業に使う分までも出していることになる。一方が損して、その分を他方で得したのなら、強盗や泥棒と大差ない。好みや価値判断は個人毎に違うし、興味が無い人も相当いるはずだ。
 そう思うようになったら、買う気は無くなった。

 つまり、五感で確かめた事実を基にしたわけではなく、自分の頭の中だけでおこなった情報処理しだいでも、気づいたり、具体的なことを理解したりし、相応に精神状態も変化して、買ったり買うのを迷ったり買わなくなったりし行動までも変化した。
 その変化も、いわば悟りに因るのだと、私は思っています。ただし、これも想像という情報処理だけにピントを合わせた類例です。
 
 
 具体的な判断ができないから想像するのとは違い、気づいたことが事実の場合は、内容しだいでは大変なショックだったり、失神したりも……
 
 
 長文になるほど、自分でも迷いそうです。
 慣れれてしまうと、気づけなくなり、平気にもなりがちです。
 ここで、もう一つ、私の迷いを処理します。
 言うまでも無いことですが、以下に述べる私見「悟り」に関しては、あくまでも私の個人的な経験を基に私が個人的に理解した私見に過ぎません。
 つまり、公認されたことであろうはずがないです。
 そうであることを、ここに明記しておきます。
 
 
◆確認すると、具体的なことを理解でき、納得もできます。

 具体的なことは知らなかった。しかも、確かめずに、想像を頼ていた。それは、具体的な判断ができないこそ想像したに過ぎず、具体的な根拠も理由も無い想像に過ぎないからこそ、的外れな勘違いもしやすく思い込みやすく先入観として抱いてしまいやすい。

 これが当初の文でしたが、更に詳しく書いてみました。
 
 
 例えば、実物も、その名前も、知っている場合……
 その実物が目の前にい無い状態でも、その名前を言われただけで、その名前に該当する記憶内の印象を思い出したり意識することがで、よって話題にすることもできます。

 五感では捉えることができない事実関係や因果関係や理由なども、理解していて、その名称(名詞)も知っている場合は、その名称(名詞)を言われただけで理解していることも思い出したり話題にすることできます。
 が、未理解なことや相応の名称(名詞)を知らない場合は、具体的な否定や肯定などの判断もできません。

 でも、想像なら、し放題です。事実確認も要らないし、具体的な根拠も理由も無くてもできるし、それでも決断もでき、それに基づいた行動もできます。
 目標や目的を基に、行動することに似ています。
 が、あくまでも似ているだけです。
 想像の場合は、事実確認もせず、具体的な否定や肯定などの判断ができないからこそ、想像をしたに過ぎない。つまり、確認した事実ではなく、むしろ根拠や理由が不十分であり、的外れの確率が高い。
 そんな情報を基に、行動まですると、失敗したり損をしたりします。

 そういうものだということも、その経験を基に因果関係や理由などを確認し整理すれば具体的に理解できます。
 理解したことは記憶にも残ります。なので、事実確認をしていない・よって根拠も理由も無い想像に過ぎない・だから的外れなことが多い・確認が大事だ、といったことを何時でも自覚できるようになります。
 つまり、実物も、その名前も、知っている場合、その実物が目の前にい無い状態で、その名前を言われても、その名前に該当する記憶にある印象を意識することができるのと同じです。

 自覚できればこそ、相応の思考や自制も可能になり、確認を重視するようにもなるし、確認するようにもなります(想像に関することは、個人的なことだけに「意識」ではなく「自覚」と言う言葉に変えました)。
 つまり、実物が目の前に無くても、記憶にあることなら意識でき、話題にできるのと同じです。

 そうであることも、確認すればこそ具体的に理解することもできます。が、確認しないと未理解です。
 
 
 まして、見知られれば困るなどと想像し、否認すれば、事実として認めまいとしているわけであり、確認とは逆なので、当然に具体的なことは理解できません。
 勘違いや思い込みに過ぎなくても、プライドなどが優先すると不都合なことは認め難い。認め難い要素が加わるほど、理解し難くなり、覆し難くなってゆくことになります。
 未理解なことは、自覚も困難なので、想像を自制することもできないし、確認を重視し難いし、確認するようにもならない。
 結局、想像を頼り、的外れかどうかも確かめない。そうであることをも自覚できなければ、的外れだったとしても気づき難い。

 想像に過ぎなくても、自分が考えて判断までした。となると、その自分の考えや判断には、疑問を抱かないし確認もしない。
 むしろ、自分で考えて判断したことだけに、正しいような気にさえなる。つまり、想像上の的外れなことでも、的を得ているような錯覚や勘違いをしがちです。
 それを覆す要素が無ければ、的外れに気づかないどころか事実だと思い込みやすい。思い込むほど、疑問を抱かなくなり、確かめもしなくなる。
 
 
 かつての私は、自分が考えて情報処理をしていることに関することも知らなかったし、それを基にした因果関係なども具体的なことはほとんど知らなかった。そういう状態にあることをすら、自覚できなかった。
 つまり、確かめずに、頭の中だけでの想像の世界に迷い込んでいることも自覚できず、理由も根拠も無い勘違いや思い込みの世界をさ迷っていることも、自覚できなくなっていた。
 むしろ、根拠も理由も無い想像上で、必要なことは十分に知っているような気さえしていた。精神的にもすっかり大人になったのだとさえ思い込んでいた。

 想像に過ぎなくても、生存が脅かされそうな内容だと、気を奪われやすく、想像だけの世界に陥りがちです。つまり、想像で、自ら不安や心配や苦などの感情を煽ってしまい、肝心な目の前の現実を意識できなくなります。よって、まさに現実離れした想像で、パニックに陥ります。
 
 
 が、想像に過ぎないのに、不本意な状態に陥る。だから、気づく。
 想像上の的外れな勘違いや根拠も理由も無い思い込みだけに、事実は違うからだったりもする。
 識別力や理解力や予想力などの情報処理能力自体は、日常的に磨かれるからでもある。
 結局、事実確認をしたわけでもなく、想像に過ぎなかったことや、根拠も理由も無い想像ゆえの的外れな勘違いや思い込みだったことに気づき、実は肝心なことを知らなかったことが明らかになる。
 つまり、悟る。これが、私見「悟り」の初めです。

 ですが、せっかく気づいたのに、すでに27歳だった私は、つい想像を頼り、異常ではないかと新たな勘違いをした。
 否認ぎみだったことは否めず、むしろ強情を張りがちでもあった。
 つまり、せっかく悟ったのだが、当時は、そうだとは知らなかった。むしろ、確認しないで想像を頼ることが、すっかり習慣になっていた。しかも、他の勘違いや思い込みや先入観もあった。だからこそ、つい想像を頼り、新たな勘違いをした。
 それでは、せっかく悟っても、悟ったんだということを具体的に理解するには至らない。
 それどころか、せっかく悟ったのに、確認せずに、想像を頼り勘違いし背き続けたからこそ葛藤を余儀なくされた。それでも、新たな勘違いをしていることに気づけなかった。
 むしろ、死んだほうがましだと思った。せっかく悟ったのに、台無しにしてしまうところだった。
 こんな悟れないことは、述べるだけでも、悟りから逸脱してしまう……

 3年も葛藤を余儀なくされ、やっと「自分の考えは間違っている。自分の考えには無理や矛盾がある」ということに気づいた(3年もの勘違いを経て改めて悟った)。
 葛藤を余儀なくされて、考えに無理や矛盾があることに気づいただけに、確認が始まった。そして、自分が経験していた想像や勘違いや思い込みの、事実関係を整理した。「事実か否かを確かめたわけではない。つまり、想像に過ぎない」などと、前述したことの基本的なことを理解でき、葛藤が解消した。そもそも、根拠も理由も無い想像ゆえの勘違いや思い込みに過ぎなかったことが明らかになっただけに、半ば唖然とした。

 その事実関係から、3年前に、せっかく気づいたのに、新たな勘違いをしたばっかりに、その無理矛盾ゆえに葛藤を余儀なくされていたことも分かった。
 もちろん、本来は、3年前に気づいた段階で、確かめて理解することが可能だったことも分かった。そもそも、根拠も理由も無い想像ゆえの勘違いや思い込みに過ぎなかったのだから、そうであることを理解するだけで、新たな勘違いをすることも避けられた。
 つまり、そもそも気づけた(最初に悟った)ことが重要だったことや、それによって確認が可能になり、具体的な理解も可能になるんだということを理解できた(少し具体的に悟った)。
 でも、この段階でも、脳裏には、まだ「悟り」と言う言葉は登場しませんでした。

 理解したことは記憶に残り、相当することは何時でも自覚できるようになる。よって、確認しないで安易に想像することを、自制できる。
 想像優先を自制できるようになると、根拠も理由も無い勘違いや思い込みや先入観や、それを基にした無理や矛盾だらけの考えも衰えてゆく。
 確認を優先するようになると、具体的な根拠や理由があって納得した具体的なことを理解することが増える。詳しくもなるし、根拠も理由も無い迷いは薄れてゆく。おのずから、そういう傾向が強くなる。
 結果的に、事実確認をしない根拠も理由も無い想像をして迷い込んだ勘違いや思い込みや先入観の世界から、確認し根拠も理由もあり納得できる世界へと、意識改革も軌道修正もされた。

 もともと、会話中でも、不明な部分があると、それを確認しないと進展できなかったりする。根拠や理由が無かったり辻褄が合っていないと納得できないし、根拠も理由もあって辻褄も合っていると否定し難いし納得する。そんなことも分かり、的外れな勘違いや根拠や理由が無い思い込みに気づいたのも、不思議ではなくなる。
 識別力や思考力や理解力や予想力なども、日常的に発揮され磨かれ続けていると言っても過言ではない。だからこそ、根拠も理由も無い思い込みに気づくこともできたのだった。
 つまり、もともとそうだったにもかかわらず、確かめずに、想像を頼ったために、未確認だった。だから、そうだったことも自覚できなかっただけだ。そんなことも、経験したことを確認するだけで明らかになり、具体的に理解することもでき、自覚できるようにもなった。

(もともとそうしていたことが次々に気づき明らかになってゆくのですが、あくまでも本人が経験した事実を基に本人が理解して本人が納得することだけに、省略します。なお、共通することに関しては、別文を予定しております)

 具体的なことはあまりにも知らなかったからこそ、必要なことは十分に知っているような気がしていただけだった。
 現に、自分が考えていることに関することをさえ、未理解だった。
 自分自身が生きていることを成り立たせている内臓は見たことも無いし、生命生理に関しても未理解だ。
 個人的に未知なことは、まさに宇宙規模で存在する。
 知らなかったことを知り、未理解だったことを具体的に理解してゆくと、未知の世界こそが想像も及ばないほど広大であることも分かる。
 が、わずか数キログラムの頭脳だけに、そもそも憶えられることは限られている。
 当然に、理解し尽くせない(悟り尽くせない)。
 それ以上の悟りは無い。ということで、あえて「悟り」と言うようになったのか……
 そう思ったとき、私も初めて「悟り」と言う言葉を思いつきました。
 そもそも、誕生後に経験し学習し理解したことを以っては、健康管理もままならず、老化は止められず、誰もが死を余儀なくされる。
 でも、宗教とはほとんど縁が無かった私は、宗教の匂いがする「悟り」と言う言葉には馴染めなかったことも事実でした。

 ということで、気づいたことから始まり、理解を深め、一連のことが悟りだったんだということを理解して納得する。そこまでの一連のことを以って、私見「悟り」は完結です。
 
 
 ですが、知らなかったことを憶えることができ、未理解だったことを理解できます。その対照となる未知なことは、肝心な自身のこともそうであり、まさに宇宙規模で存在することになります。だから、理解し尽くせないわけですが、むしろ理解は際限なく広げ深め続けることが可能だという意味でもあります。
 でも、経験や学習の限界も明らかです。となると、むしろ、安らかに死に臨めるような生き方も模索する道もあり、すでにあることを基にすれば理解できる可能性もあります。

 悟るどころか、迷い始めた方には、ごめんなさい。
 
 

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めまぐるしく考えてしまうあなたへ


 かつて、めまぐるしく考えてしまうようになり、精神的に疲れ、考えてしまうことが煩わしくなった。そして、これをどうにかならないものだろうかと思い始めた。
 考えることを止めることって、できるのだろうか……。
 単純な発想だった。が、疑問も抱かなかった。道具も要らないし、準備すら必要ない。ただちに、考えることを止められるのかを試み始めた。客観的には把握できていなかったが、考えることは、自分の意思に因ることだったからかもしれない。

 自分にとっては未知だったことだけに、初日は、進展しているのか否かも不明だった。
 翌日も、試みた。が、何の手がかりも得られなかった。
 翌々日も、試み模索を始めた。
 すると、出来た。
 感動し、涙が溢れた。
 一切考えなくても、自分は存在している。これこそが、自分自身そのものなのだ。
 めまぐるしく考えることに捕らわれ、むしろ煩わされていたことは、すべて無駄だった。
 想像や考えには無理や矛盾さえあることを十分に分かったからこそ、人生の遅れを取り戻すかのようにめまぐるしく考えてしまうようになっていた。が、そんなことから開放された。
 こんなことも可能で、自分のことなのに、知らず出来なかったことが、できた。こんなことを知らず出来なかったのも、無理や矛盾さえある想像や考えに捕らわれていたからに他ならなかった。

 いつでも出来るようになろう、コツや方法を憶えようと、直ぐにまたやった。
 感動はしなくなった。初めて出来た際に感動したのは、想像していることや考えていることに無理や矛盾があることを思い知らされ、救いを求めるような状況で臨み、初めて出来たからかもしれない。しかも、自分にとっては自分に関することで未知だったことが意外にも早く、偶然に出来たようなものだった。
 しかも、何も考えない状態になれるが、そのコツや方法が分からない。コツや方法が具体的に分からないのに、出来る。これが、不思議だった。
 でも、もともとは出来なかった二足歩行や日常会話も熟練までしたのだが、そうであることも当時は未理解だった。
 現に、相手が話すことを、自分の記憶にあることを基に識別し思考し理解して、相応の応答や行動をしている。なのに、そうであることをさえ分かっていなかった。
 つまり、二足歩行も日常会話も、できるようにさえなれば実用になる。なぜ出来るようになったのかとか、経緯や事実関係や理由を理解する必要は特に無い。
 何も考えないことにしても、同じことだった。

 考えることを止めることは、随時やるようになった。
 繰り返しやるほどに、何も考えない状態になることの効果は分かるようになった。
 その効果は……、これは、興味がある人は実際に体験してほしい。

 というわけで、方法やコツも教えたいところですが……。
 そもそも、何も考えない状態になることです。つまり、決して努力をすることではなく、むしろ考えることをさえも一切止めることです。
 通常は、何かを随意に出来るようになろうとする際には、方法を憶えようとかコツを掴もうとします。が、これは何も考えない状態になることだけに、コツを憶えようとか方法を理解しようとか、そういう考えも一切止めることです。
 そういうことだけに、通常、何かが出来るようになる際に教えるコツや方法は、無いです。そういうことであることを理解できれば、それが言わばコツになります。
 実は、このことを幾度も文章化しようとし、その都度、コツや方法を知ろうとばかりしたために、実際にはコツや方法を知ろうとすることも一切止めることなのだ、ということにはなかなか気づけませんでした。
 もちろん、何も考えない状態になることは、説明することも止めることです。実際に、何も考えない状態になれれば、説明も必要ない。
 そんなわけで、何も考えなくなることなので、説明することも無くなるのだということには、かなり後になってから気づきました。
 そのくらい、ただただ一切何も考えない状態になることです。

 もともと、頭の中だけで行われる想像や考えは、し放題です。そういう性質上、想像や考える内容には無理や矛盾も生じます。無理や矛盾があるから、悪循環にも陥り、そういう想像や考えには捕らわれがちにもなります。
 そんな想像や考えも、一切止めることになります。つまり、つい思考してしまうことからは、一旦開放されます。
 しかも、思考を一切止めると、自分自身そのものを体験する状態になります。この、生理的には自律して機能している自分自身そのものを体験することによる、相応の効果もあるのかもしれません。
 この考えることを一切止めることができると、知識や意思や考えに拠らずに自律して機能している生理面や、記憶にあることを基に想像したり考えたりしていることや、それに基づいて行っていることやその結果などが、分かりやすくなります。
 ただし、記憶に残っている思い込みや先入観などの無理や矛盾は、後で整理しなければなりません。ですが、それも、以前よりは容易にできるようになります。


 参考になることと言えば……
 これらのことも、随時、何も考えない状態になるようになって、かなり年月が経ってから気づき分かったことですが……

 日常的には、識別し考えることに集中しがちです。
 食べたいものを食べ、食べたくないものは食べない。聞きたい音は楽しみもするが、聞きたくない音は避ける。思い出したいことは思い出すが、思い出したくないことは思い出すまいとする。考えたいことは考えるが、考えたくないことは考えない。憶えたいことは調べもし練習もするが、憶えたくないことは避ける。当然に、知り出来るようになることは偏ります。学習して出来るようになったことが、生存上は的外れなことばかりだったとしても不思議ではないことになります。
 つまり、日常的に何を意識したり何を考えたりしているわけであり、それらは意思で制御していることになります。

 また、知られたくないことは、隠す。事実よりも良く見えるように細工したり工作したりもします。事実とは違うことを事実だと思わせようともします。テレビドラマや映画も、大金を投じて、NGを繰り返して、CGを駆使して、編集して、いかにも本当であるかのように作ります。
 それを、真に受けて見ていたり、相応のことが記憶に残ったり、また見たりします。
 これらは、他者が意識したり考えることをまでも、操作しているようなものです。

 そういうことを、現に行っている。ですから、それらを一切止めるだけなので、もともと難しいことではなかったのです。
 むしろ、尤もらしく見せかけることや、いかにも本当らしく工作することや、いわば騙し欺く類のことを知らずにしていた場合でも、それを止めることになります。
 知らずに、嫌われ軽蔑されかねないようなことをしていた場合も、それを止めることにもなります。
 考えることをさえ止めることであり、意図的なことは一切何もしないことなので、実際にできるようになると、単純極まりないほど簡単なことであることが分かります。
 つまり、生存上、的外れな考えをしていた場合も、考えに無理や矛盾があった場合も、それを止めることになるので、生理的には自律して機能していることによって生存している自身そのものを自覚する状態になります。


 もちろん、学歴が無くても出来るし、お金も不要であり、寝転んだ状態でも出来ます。
 むしろ、身体のどこかに力が入るようだと、相応の考えが伴いがちです。それ気になるようなら、身体の力を一切抜く必要があります。その最も簡単な方法が寝転ぶことです。
 もちろん、座っても出来ます。どこかに多少は力が入っていても、気にならなくなれば、むしろ全く個人的なことだけに場所を選ばずできるようになれます。

 呼吸も気になるかも知れません。
 でも、呼吸が気になるようになったということは、相応に進歩していることを物語っています。
 その際には、言うまでもないことですが、気にならなくなるように、ゆっくり呼吸することにトライするとよいです。
 腹式呼吸などに拘るよりは、鼻から吸って口から吐く際に、空気の流れを自覚できないくらいゆっくり呼吸するようにする。そうすると、おのずから呼吸は整い気にならなくなります。

 気になることが無くなったら、あとは考えることを一切止めて、何も考えない。それだけです。

 興味がある方は、是非、トライしてみてください。
 言わば、思考が一瞬でも完全に停止すると、思考がリセットされたような状態になると考えられ、無理や矛盾があるがゆえに拘り捕らわれていた場合は、それらから開放されます。
 よって、発想の切り替えが容易になります。知識の吸収力も、当然に増します。
 それが、何も考えない状態になることができた証拠であり、何も考えない状態になることができた人への、いわば神様からのご褒美だと言えます。
 
 
カテゴリ : 把握できていること&用語集

番外

 
 いつもご来訪くださいまして、ありがとうございます。

 唐突ですが、当方の記事の所為と思われる、迷惑コメントがあったようです。
 大変、恐縮しております。

 ということでしたが、私の勘違いだったようで、恐縮するばかりです。
「申し訳ありませんでした。ごめんなさい」


 ですが……
 当方、自分の歪んだ心を修正すべく、戒め的なことも行っております。いわば、個人的な内部告発的な記事も投稿しています。

 その理由は……
 かつて、私は、見えない壁に直面しているような日々を数年間も経験しました。

 結局、死んだ方がましだとまで思い詰め、決行しようとしました。が、決行できなかった。その事実関係から、むしろ、自分が考えていることや行おうとしていることには実行できないような無理も矛盾もあるんだ、ということにやっと気づきました。

 結局、無理も矛盾もあることが明らかになったそんな考えに基づいて行動するわけにはいかなくなり、自室にこもりました。そして、不都合なことを隠し偽り尤もらしく見せかけることを考えることに捕らわれていることに気づき、気が晴れました。
 つまり、落ち込むようなことばかり考えることに捕らわれていた。が、気づいた時点で、それまで捕らわれていた考えから一時的に開放された。そのことからは、否認し強情を張りがちなことが要因だ、というこということも分かりました。

 また、不都合だと思うことを隠し偽り尤もらしく見せかけることは、誰も見抜けないだろうと侮ることでもあり、捏造の類でもあり、私利私欲を貪る目的ではないものの騙し欺く類でもある。つまり、疑われ嫌われ非難されるようなことを考え自ら行うことになるわけだから、抵抗があって出来なくて当然だ。正当防衛までは許されるが、されれば嫌なことを仕返すだけに、それでさえ望ましいことではない。そんなことに気づけなかったのは、無理なことを考えることに捕らわれると、ほかのことを考える余裕がなかったからでもある。
 むしろ、捕らわれていた考えをやめただけで、そんなことに気づいた。しかも、自認したことは、批判視できるようにもなった。つまり、不都合なことを隠し偽り否認するような考えに捕らわれることを、自認したことによって、自覚できるようになり、一時的にでも自制できるようになった。

 そういうことか可能になったことによって、確かめたわけではない想像や妄想に過ぎなかったことも分かった。しかも、先入観や思い込みや、隠し偽らざるをえないことも記憶にあったことも分かった。

 もちろん、知らなかったからであり、悪意に因るものであろうはずがなく、意図的なことですらない。不都合なことを隠し偽り上辺を尤もらしく見せかけたとしても、私利私欲のためや詐欺目的でそうしたのでなければ、許容範囲内だ。そんなことも分かり、更に気が楽になった。

 そして、気づいた。
 考えたり想像したりした内容しだいで、葛藤が生じたり、首が痙攣してパニックに陥りそうになる。
 思えば、日常的にも、考えたり想像しただけでも、焦ったり不安になったり期待したり相応の感情が生じる。
 では、葛藤が生じたときやパニックに陥りそうになったときには、どんなことを考えて行おうとしていたのか、それを省みるようになった。
 その結果も、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張りがちで上辺だけ尤もらしく見せかけようとしたときだ、ということが分かった。
 つまり、隠し偽ることを考えることに捕らわれると、改善するどころか事実関係は把握し難くなり、更に隠し偽ることを考えざるをえなくなり悪循環に陥る。だから、葛藤が生じたり、パニックに陥りそうにまでなる。むしろ、隠し偽るようなことを考えるのを止めると、そんなことが分かる。分かると、その隠し偽るようなことを考えていることを自覚できるようになり、よって自制できるようになり、ほかのことを考える余裕もできる。

 また、想像したり考えるだけなら、無理や矛盾があることもし放題だ。が、無理や矛盾があるからこそ、実行できないことだったり、一向に解決や改善ができないことだったりもする。
 つまり、自分の考えや行動を抑制するほどものが存在している。それこそが、理性と言われるものにほかならない。

 そして、もともと経験でき学習でき理解でき熟練できことや、識別力や思考力や理解力は日常的に発揮していたことに気づきます。
 つまり、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張りがちだったことによって、日常的に発揮していた識別力や思考力や理解力を台無しにし、もともと経験でき学習でき理解でき熟練できることまでも台無しにしていたことが分かりました。
 この、私が心の矛盾を解消していった当時のことも、詳しい記事にして、投稿する予定です。
 なお、夏場は、編集に時間を要します。あしからず。


 そんなわけで、自分の歪んだ心を修正すべく、恥曝しというよりも戒め的な内容も記事にして投稿しております。
 ここは、マイ・ブログですから。


 当然のことですが、かつての私のように、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装し、それを大事にしている人にとっては、それを批判視し戒めている今の私の記事の内容は受け入れ難いはずです。
 当然に、そういう人は、来なくなるはずですが、もし来ているのでしたら、当ブログには来ないよう、お願いします。
 もちろん、他のブログへの勝手な迷惑行為は、止めてください。



 なお、これを機会に、投稿はしばらく控えます。
 もともと、自慢にならないどころか、恥曝しですから。
 善人になる資格は、とっくに失っています。ご迷惑をおかけした方々の心情を察すると、悪人になるわけにもいきません。
 というより、実は、時期的にも、生きるための野良仕事を優先しなければなりません。


追記
 沢山のコメントならびに応援、ありがとうございます。

 迷惑コメントは、当方の勘違いでもあったようで、恐縮するばかりです。
 ですが、これを機会に、趣向を変えます。
 これからは、生きていること自体の絶妙さを優先します。
 興味のある方のご愛顧に期待しております。

 ただし、趣向は変えても、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装していることは、もちろん明らかになります。
 むしろ、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装することによって、生きていること自体の絶妙さは抑圧され虐げられていることが明らかになります。

 ですが、知らず間違っているだけで、決して悪意に因るものではないのなら、修正も困難ではないです。
 けれども、詐欺や私利私欲を貪ることを目的で、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装している方は、受け入れ難いはずです。
 受け入れ難い方は、当ブログには来ないよう、お願いします。

 
 
カテゴリ : 把握できていること&用語集

完璧でも善人でもありえない



 そもそも、経験や学習上のことは、誕生当時は、未経験だし未学習だ。

 経験でき、学習でき、理解できるようにもなった。が、その性質上、個人的には、仕事として通用するほど詳しく知っていることは限られる。気づけない間違いもあるはずだ。何かを思い浮かべるだけで分かるが、記憶自体が曖昧なもので、その曖昧なことが圧倒的に多い。
 でも、それらは、悪意に因るものではないし、意図的なことですらない。知らなかったことを憶え、間違っていることは修正することによって詳しくなり、試行錯誤を重ねてこそ上手にもなる。

 大人になっても、個人的には、詳しいことは限られ、曖昧なことが圧倒的に多く、知らないことこそ宇宙規模で存在する。
 そもそも、自身がこういう形体になった理由を知らない。自身の内臓なのに、見たことも無い。各臓器は、自律して機能しているだけに、具体的なことは殆ど知らない。病気になってもなす術を知らず、老化は誰も止められないし、誰もが死を余儀なくされる。
 つまり、生きていること自体は、自律していて絶妙にできているし、知能まで備わっている。が、経験し学習し理解した内容は、生存上は的外れなことばかりだったとしても不思議ではない。


 でも、されれば嫌なことは、相手も望まないだろうし、好まれるはずがない。やれば、口論になり、更に暴力的にもなる。だから、行うとなると抵抗があり躊躇し慎むようになる。
 つまり、良くないことも悪いことも、具体的なことは知らない子供のうちに経験してこそ知り(記憶に残り)、それを基に、自分の考えや行動を管理できるようになる。

 口論を通じてでも、事実関係や理由などを具体的に理解し、説明でき説得できるようになればベストだ。が、喧嘩は両成敗で、相応のことは躾や教育には無いどころか、むしろ余計なことを強いられた。
 つまり、完璧であろうとすると、無理をしなければならない。というより、無理をしたところで、生存上は完璧ではありえない。ということは、もともとは歴然としていたのだのだが、そういうことが観えなかったのは自分勝手な妄想に陥りがちだったからだ。

 完璧とまではいかなくても、本来は、理解と協力なしには子供は産まれないし育ちもしない。15年前後もの保護養育が必要なことも事実だ。その間に経験し学習し理解したことを以って、精神的には自立することになるのだが……。
 それでも、家族も、企業も、個人的にはできないことを実現している。合理的なことをしたり、分業化し専業化して間接的にであっても力を合わせたことによって、それは実現している。
 その組織化も、不完全で、私利私欲もあって問題も多く、搾取階級の温床になったりもする。
 それでも、尊べることを具体的に理解し合えている人が多いほど、理想に近づくのだと考えられる。
 
キクザキイチリンソウ

 要は、自分が知っているか否かだが、このこと自体が完璧でありえないことを物語っている。
 経験し学習し理解できるようになり、相応のことを随意にできるようになる。その内容は、個人的にも年々変化する。
 個人毎に生存環境が異なり、経験に違いがあるだけに、好みや価値観なども個人毎に異なる。
 食べたいものだけを食べ、見たいものだけを見て、考えたいことだけを考え、憶えたいことだけは練習する。
 当然に、考えたくないことは考えないし、憶えたくないことは練習しない。
 結局、自分さえ良ければいいとか、お互いに良ければいい、そういう傾向が強くなる。
 相手を侵害すると、反撃されて当然だし、悪いことだと分かる。でも、お互い様だと相殺すると、悪いことは分かっていることをやってしまう。言うまでもないが、相殺されることを行っているのであり、良いことをしているわけではない。
 行為には責任が伴う。でも、巧みに騙し欺いてでも私利私欲を貪ったほうが勝ちだ。証拠を残さなければ、法律が無罪にしてくれる。不都合な場合は否認し通し、不利だと思ったら強情を張り通せばいい。
 優劣や勝敗に拘って競い争うのには、疑問を感じる。
 思考や行動から秩序が失くなると、人という動物は地球上で最悪の獣でしかなくなる。

 でも、知らないと、事前に慎むことはできない。
 後悔しているのに、相殺し、肯定してしまったりする。
 不都合なことや不利なことは否認し、つい強情まで張る。
 じゃあ公然と行うのかと思えば、できもしない。
 むしろ、そういう経験を経て、トラウマになったり、二度とできなくなったり、具体的に知るほど慎まざるをえなくなる。
 それでも慎めるようになれたのなら、それが最善なのだ。

 言うまでもないが、善人を装っている奴ほど背後が怪しい。
 
 
カテゴリ : 把握できていること&用語集

・想像とは・思い込みとは・妄想とは


 心を整理する際に、意味を明確にしてきた言葉です。
 当ブログ内では一貫するように心がけている言葉でもあります。
 あくまでも個人的なことです。その点は、ご了解ください。
 把握できていることの概要もご参照ください。



 経験し観察し確かめ試すほど、事実に基づいたことが詳しく記憶に残ります。その記憶に残っていることだけを基に、目の前にいない人のことでも話せ、昨日のことでも何年も前のことでも話するようになります。

 でも、確かめられるないこともあり、試せないこともあり、とりあえず記憶にあることを基に類推したりします。
 事実か否かを確かめたわけではなく、記憶にあることを基に類推することが主である想像の性質上、的外れだったり、勘違いだったりもします。

 正直な話、私は、小学校を卒業する頃にはほとんど勉強しなくなっていました。中学校卒業し、肉体労働をして生活していました。
 が、いつのまにかすっかり大人になったのだと勘違いしていました。そんな自分に気づいたときは、すでに27歳だっただけに、絶望的ショックでした。
 勘違いや思い込みばかりだっただけに、妄想の世界をさ迷いました。
 でも、自分の想像や考えていることに伴って感情や葛藤が生じることに気づいた。しかも、自分が想像し考えていることだけに事実関係も把握でき、把握できたことは自覚もできるだけに解消できる。そのことに、やっと気づいたときは30歳になっていました。
 結局、遅れ馳せながら自分の記憶にあることを整理しはじめました。そして、自分が考えていることに関することは何よりも詳しくなれる条件が整っていることとも判かった。もともとそうであることをさえ、自分は知らなかったからこそ妄想の世界をさ迷ったんだということも判明しました。
 その後、では本来はどうなのか、ということを知ることになります。

 
 
 本来は

 基本的な識別や思考や理解や予想などの情報処理に関しては、別に記事を準備中ですが……。
 経験したことは、相応の印象が記憶に残り、相応の識別や思考や理解や予想なども可能になり、相応の言動や行動も可能になり、相応の結果になります。
 観察したり確かめたり試したりするほど、勘違いしていたことも修正され、確かで詳しい印象が記憶に残り、的確な判断や行動が可能になり、予想通りの結果にすることも可能になります。
 日常的にも、相手が話すことや自分が見聞きしていることを、自分の記憶にあることを基に識別したり思考したり理解したり予想したりして(情報処理をして)、相応の動作や言動や行動をし、相応の結果になります。
 走り回れるようになったり、日常会話ができるようになったことは、高度な理解力もあり客観視もできる能力が備わっていて、実際に熟練し発揮されていることを物語っています。
 でも、そうであることを未理解だったり、未理解ゆえにむしろ勘違いしたり、的外れなことを思い込んでいたりもし、せっかく備わっている知能を誤用さえしていたりします。


 
 
・想像とは

 未熟な頃は直接経験していることが重要ですが、成長とともに行動範囲も広がり、判断すべき対象も直接は確かめられないことも多くなります。
 尋ねることが可能な相手が限られ、尋ねることができる内容が限られ、事実か否かを直ぐには確かめられないことも多く、試せないことだってあります。
 でも、記憶に溜まる情報量は、年々、多くなります。
 その記憶にあることだけを基に、会話するようになります。
 とりあえず記憶にあることを基に類推や推理や想像や予想などをするようにもなります。


 行ったことが無い目的地への道順を教えてもらう場合
 経験があり記憶にもある範囲内は、その記憶を基に確認できる。その先の知らない部分に関しては、言葉で教えてもらっても、直ちに確かめられない。そこで、知っているところまでの記憶を基に、知らない部分は想像したり略図を描いたりして、それを頼りに行くことになる。
 その想像した部分は、実際に行くことによって、確認もされることになります。
 初めて行く場合はスムーズに行けなかったりし、想像していたことはそういうものだということも自覚します。
 でも、自分が行動し経験して実際に確認した物事の印象が記憶に残ります。
 その実際に経験し確認して記憶に残った情報を基に、事後報告もできます。もちろん、次回は、実際に経験し確認して記憶に残った情報を基に、行けるようになります。
 記憶は曖昧なものですが、想像したことと、実際に感覚的に確認して記憶に残ったことでは、格段の違いがあります。


 想像の類は、確かめたことではないので、的外れだったり、勘違いの元だったりします。
 事実か否かを確かめるまえの、想像の類なので、宝くじのようなものなのです。
 でも、否定的なことは結果も見ないことが多いだけに、的中していたと思い込んでいたりします。
 的を得ていることも、たしかにあります。でも、それゆえに想像を頼りがちになります。

 ギャンブルなども、勝ったときだけは自慢し、損した時には秘密にし、自分でも忘れるのか、止められなかったり依存症気味だったりさえします。

 確かめずに、勝手に想像して安いと思い、衝動買いをしたら、失敗だったりもします。

 簡単に使えそうだと思って買った家電製品も、簡単に使えなかったりもします。
「説明書だけでも売れる時代なんだ」という理由にも、納得できます。

 つまり、事実か否かを確かめたわけではなく、記憶にあることを基に想像した類のことに過ぎないから、実際には勘違いだったとか思い込んでいただけだったとか的外れだったことが明らかになったりします。
 そういう経験上、想像の類にはそう性質や特徴があることを、自覚したり理解したりもします。
 むしろ、失敗した場合は、繰り返すまいという思うし、事実を認めて、更に確かめて理由を具体的に知るほど、繰り返さずに済むようになります。つまり、想像を頼ることは慎むようになり、できるだけ確かめた事実を頼るようにもなります。
 自分が考えていることであり、事実か否かを確かめたわけではなく、記憶に溜まったことを基に類推したり想像したり予想したに過ぎず、的外れなことは少なくない、といった想像の類の特徴や事実関係を本人が自覚できる場合を当ブログでは「想像」と言っています。

 性質や特長の違いを基に細かく区別すると、類推・推理・憶測・想像・予想などと分類できますが、その総称としても「想像」という言葉を使います。


 
 
・思い込みとは

 結局、事実か否かなどを一々確かめたり試したりはしないで、記憶にあることを基にした想像だけで、判断したり決断したりもし、片付けてしまうこともあります。
 想像でも思い込みでも、的を得ていることもあります。
 でも、「思い込み」云々と問題になるのは、的外れだった場合です。それだけ、的外れなことが多く、的外れだった場合は大変なことになったりもします。


 大事なものを失くした。
 失くしたわけですから、具体的なことは分かっていないことが多い。
 分かってみると、勘違いだったり、的外れな想像に過ぎなかったりもします。

 でも、大事なものを失くしたとなると、心配になったり苦になったりします。
 それゆえに、大事なものを失くしてしまったんだと判断し、そうだと思い込むほど、そうではないかもしれないとは考えられなくなるだけに、心配や苦は顕著になります。

 注射の話をしただけで子供が泣きだし、他の話をすると泣き止む、それも同じことです。
 想像に過ぎなくても、相応の感情が伴い、その感情は事実だけに、想像に過ぎないことが実際に起きているような状態になります。

 気に入らなかったことは、後で思い出しただけでも腹が立ちます。
 でも、嬉しかったことを思い浮かべたり、もっと好転するようなことを考えたりすると、期待したりもします。

 つまり、記憶にあることを基に想像し、それに伴って生じた感情に過ぎません。
 でも、元は想像ですが、それに伴って生じる感情は事実です。それゆえに、元は想像であることを忘れがちになり、そうだと思い込むほど、そうではないかもしれないとは考えられなくなり、思い込みが増すのだと考えられます。
 つまり、元は想像に過ぎなくても、感情は事実だけに、想像に過ぎないことを忘れがちになり、事実であるかのように思い込み始める。しかも、そうであることを自覚できなくなった状態を、当ブログでは「思い込み」と言います。

 もちろん、本人の意思で行われている情報処理に関することだけに、事実関係を自覚するだけで、解消します。
 元になっているのは想像に過ぎないわけですから、違うことを考えただけでも解消します。
 本人が考えて行っていることだけに、具体的に理解することもでき、そうした場合は未然に防げるようにもなります。


 ちなみに……
 テレビドラマは、大金を投じ、大掛かりなセットも用意したりして、NGを繰り返し、更に編集して、いかにも本当らしく作ったものです。
 映画は、CGまで駆使して、実際にはありえないことまでも、本当であるかのように作ったものです。
 そういうことを分かった上で観ていても、観るとなると肯定的に捉えることになります。しかも、ストーリーや推理が重要だとなると、要点を肯定して記憶にとどめながら観てこそ観るに値します。
 しかも、テレビドラマや映画の内容を、事実確認することは一般的にはしません。
 そういう性質上、かなり真に受けてしまったとしても、不思議ではありません。
 そういうことを知らずに観ていると、想像や思い込みや妄想のほうを鍛えているようなものだとも考えられます。
 これは、私の勘違いだったほうが、むしろ幸いなのですが……。

 特に支障が気にならず判明しない思い込みは、そのイメージが記憶上で固定化し、先入観として心理や思考に支障を及ぼし、行動や結果を左右していたりもします。


 
 
・妄想とは

 想像は、自分で考えていることであり、経験もあり、事実関係や特徴も自覚できれば、深く迷い込むこともない。
 思い込みも、想像と同様で、自分で考えていることだけに、冷静に考えれば分かることであり、自覚できれば深みに陥ることもない。

 でも、想像に過ぎなくても、それに伴って生じる感情は事実です。それゆえに、元は想像に過ぎないんだということを忘れると、事実だと思い込みかねない。
 つまり、自分が考えていることが、想像に過ぎないことを自覚できなくなり、思い込みであることも自覚できなくなると、ほとんど根拠も理由も無い無理で矛盾することも考え、そうであることにも気づき難くなり、想像上のことを事実だと思い込んだ振る舞いまでするようになります。
 その、自分で考えていることが、想像に過ぎないことや想像上の思い込みに過ぎないんだということを自覚できない状態で想像が展開され続けることを、当ブログでは「妄想」と言います。

 もちろん、想像も思い込みも妄想も、意図的にそうしようとして行っていることではないです。
 むしろ、自分で考えていることそのものに関することなので、日常会話が出来る程度の識別力や思考力理解力を冷静に発揮できれば、事実関係や特徴は自覚できるようになり、解消します。
 つまり、特徴や性質などを具体的に知ると、知ったことは自覚できるので、想像上のことを本当だと思い込むことは減少する。そういう経験を経て更に詳しくなり、仮に陥ったとしても簡単に自覚できるようになり、更には陥らずに済むようになります。


 ちなみに、寝返りもできなかったのに、二本足で全速で走れるようになった。また、言葉は話せなかったのに、片言を憶え、相手が話すことを自分の記憶にあることを基に識別し思考し理解し予想しして日常会話をするようになった。これだけでも、とても高度な能力が備わっていて、実際に発揮できていることが実証されています。
 なのに、想像が逞し過ぎると、的外れなことを思い込み、妄想にまで陥ってしまうことも事実です。


 あくまでも、例えばですが……。
 精神的に不安定になった人が、自分には具体的な診断をする知識が無い。そこで、想像上、詳しく知っているであろうと思える精神科医を尋ねた。
 その精神科医から、何らかの病気ですと言われた。
 となると、当然に、動揺するはずです。

 本人は、具体的は診断をする知識が無いから、詳しく知っているであろうと想像して精神科医を尋ねた。ということは、精神科医は詳しく知っていると、すでに思い込んでいたり、先入観を抱いている可能性があります。
 その精神科医に、何らかの病気ですと言われたということは、精神面が正常ではないと言われたのと同じです。
 しかも、自分で判断できない患者は、その精神科医の言葉を自分で確かめることもできないし否定することもできません。むしろ、自分が頼った精神科医の言葉だと、真に受けて思い込むでしょう。
 もちろん、患者自身は、自分で事実か否かを確かめたわけではなく、あくまでも想像の域を出ていません。が、そういうことを自覚できなくなる可能性のほうが大きい。
 つまり、患者は、あくまでも想像上で、精神面が正常ではないと思い込んだり、異常なんだと思い込んだりする。
 そうなると、思考は妄想状態になります。

 興味がある方は、こちらもどうぞ。続編;病院からの帰り

 もちろん、脳力が基本的には機能しているからこそ、生じます。
 要は、自分が考えて行っている情報処理に関することを知らないと、基本的には機能していることも自覚できない。
 この道でいいのか分からない状態と似ています。
 なので、自分が考えて行っていることをさえ、むしろ勘違いしたり思い込んでしまったりするということです。
 分からないので、こっちの道を行ってみようかと思うのに似ています。
 もちろん、具体的な知識は無いが、脳力自体は基本的に機能しているからこそです。そういう経験を経て、具体的な知識を得るのが普通です。
 
 

 
カテゴリ : 把握できていること&用語集

先入観とは


 心を整理する際に、意味を明確にしてきた言葉です。
 当ブログ内では一貫するように心がけている言葉でもあります。
 あくまでも個人的なことです。その点は、ご了解ください。
 把握できていることの概要もご参照ください。



 そもそも、簡単には確かめようが無いこともある。
 遠目に見たことを基に、自分で想像し、繰り返すうちに「そうだ」と思い込み、それを基に判断するようにまでなっていたりする。
 つまり、具体的な根拠や理由は無いし、納得しているわけでもない。
「もう子供じゃないんだから。もう二十歳を過ぎたんだから。もう大人なんだから」…とか。
「男だろ」「俺は男だから」……など。
「女でしょ」「わたしは女だから」……等々。
「誰でも、そうしている」……etc。
 そうではないかもしれない、という疑問も抱かなくなる。
 確かめた事実ではなく、自分が想像したに過ぎないことなんだから、的外れなことだってある。などとも考えない。
 本当にそうなのかは、確かめもしない。
「決してそうではない。そういうことはありえない」などと言おうものなら、憤慨さえする。
 でも、具体的な事実が明らかになると、想像上のことをそうだと思い込んでしまっていたに過ぎなかったことも明らかになるだけに、自信を失くしたり落ち込んでしまったりもします。
 もちろん、根拠や理由があって辻褄が合っていると、相応の結果にもなるし、納得もする。想像上で思い込み続けるよりは、早めに気づいた方が良いはずなのに……。

 本当かどうかを確かめたわけではないし、具体的な根拠や理由があるわけでもなく、納得もしていない。が、そんなことは忘れてしまい、そうだと思い込んでしまっていて、そのイメージをを基に判断までするようになっていた場合の、そのイメージや観方のことを当ブログでは「先入観」と言います。


「思い込み」と「先入観」は切り離せない関係にあります。

 確かめたわけではない、つまり類推や想像に過ぎないイメージが、繰り返すうちに固定していった(思い込んだ)ことを重視なり強調する際には、当ブログでは「思い込み」と言う言葉を使います。

 その思い込みが固定するほど、判断の基準として用いられるようにまでなりますが、その場合は「先入観」と言います。

 ちなみに「トラウマ」も、記憶が重要な点では共通ですが……
「トラウマ」は、精神的にショックだったことが、記憶にも残った。しかも、大事なことを知らなかったことに気づいたから精神的にショックだったわけであり、繰り返してはいけない重要なことでもあるだけに、つい思い浮かぶ。が、ショックだっただけに、考えまい思い出すまいとする。結局、具体的はこと把握できないので、つい思い浮かぶ。となると、記憶に残っていることが、心理的に悪影響を及ぼしているような状態になり、行動にまで支障が生じる。
 実際には、繰り返してはいけない重要なことであり、具体的に把握するほど繰り返さずに済みます。なのに、それを考えまい思い出すまいとするから、一向に改善されず、むしろ悪化したりする。


 思い込みであれ、先入観であれ、的を得ていれば問題にもなりません。
 的外れだった場合に、「勝手な思い込みに過ぎなかった」とか、「先入観が邪魔をして」云々などと問題になる。もちろん、事実とは違っていたり、好ましくなかったりするからです。
 つまり、日常的に識別したり思考したり理解したり予想したりして、相応の言動や行動を行い、相応の結果になる。そのどこかに無理や矛盾があったことになり、それが検証されることになります。

 通常、経験に相応した印象が記憶に残ります。
 そういう性質上、観察したり確かめたり試したりするほど詳しいことが分かり、その事実に基づいた詳しい印象が記憶に残ります。
 その記憶に残っていることだけを基に、目の前にいない人のことでも思い出したり、昨日のことでも何年も前のことでも話したりするようにもなります。
 基本的には、経験相応のことが記憶に残り、相応の識別や思考や理解や予想が可能になり、相応の動作や言動や行動をし、相応の結果になります。なので、そういう事実関係や因果関係や法則に基づいた考え方をするようになります。

 でも、記憶に情報が多くなるほど、とりあえず記憶にあることを基に類推や推理や想像や予想などもするようになります。

 事実か否かを確かめられないことも多く、そんな場合は、記憶にあることを基に類推し想像し予想することが当たり前になります。

 記憶に情報が多くなるほど、それを基にした類推や想像や予想なども容易になり、的中するようにもなります。

 結局、事実か否かなどを一々観察したり確かめたり試したりはしないで、記憶にあることを基に類推や推理や想像や予想などをし、判断や決断までもするようになります。

 しかも、記憶にあることを基にした類推や推理や想像や予想に過ぎないことを自覚できなくなり、それを基にした判断や決断であることにも疑問を抱かなくなる。

 当然に、的外れだったりする。と、慌てる。

 結局、確かめた事実ではなく、想像に過ぎなかったからこそ的外れだったことが明らかになったりします。

 今は、「先入観」と言う3文字だけで、その意味に関することが思い浮かび、相応の識別や、自分の経験談を基に説明することもできます。
 でも、「先入観があったからだ」と気づいたときには、「先入観」と言う言葉は知っていましたが、具体的な意味は知りませんでした。
 むしろ、自分が経験していることが、その意味に相当することであることに気づき、「これのことを先入観というのだ」と思い、事実関係を整理して確認したことによって具体的に意味を知り始めました。

 また、気づけること自体が、すでに考えただけで分かるような状態であったりするからだと考えられます。
 知能が備わっていて、経験し、学習し、理解できるようになり、相応の行動をするようになり、日常的に識別力や思考力や理解力などは磨かれているからこそ、理解しそびれていたことに気づくこともできる。
 客観視も可能な高度な能力が、もともと備わっているからであることは、言うまでもありません。
 先入観とはどういうことかを具体的に理解するほど、自分が先入観を抱いていないかとか、先入観に振り回されていないか、などといったことを検証することも容易になります。

 むしろ、確かめないだけで、備わっている脳力の高度な面が発揮されない。記憶にあることを基にした類推や想像を安易に頼ると、事実とは違うことを事実だと勘違いしやすく、確かめることを怠るほど思い込みやすい。つまり、知能を誤用しているようなものであり、知能の弱点に陥る。
 想像上の勘違いや思い込みも固定化してゆくだけに、気づくのが遅れると絶望や後悔が大変なショックだったりします。事後に、知能の高度な面が発揮されることになるからに他なりません。

 本来、失敗した際に事実関係や理由などを理解していれば、同じ失敗は繰り返さずに済むし、知能も発揮されます。良かれ悪しかれ、多くの事実や理由を基に確信は増してゆくし、それは成功に通じます。
 
 
応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
相互応援アクセスだけでも歓迎します。
こちらからのお礼の応援アクセスは、
夏期間は随時&随意に致します。
よろしくお願いします。
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プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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