生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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詩を作るより田を作れ



 詩を作るより田を作れ
 この一節は記憶にある。が、この作者は知らない。

 本日は、その田植えの手伝いでした。午前中で終了。

 当地では、田植えが真っ盛りです。本日がピークのようです。
 山間地なので、自家用の飯米がメインです。
 
 
田植え

 
 我が家でも20アールほどの水田があるのですが、事情により、昨年から休耕田です。
 それでも、雪が融けて無くなり、生きるために必要な野良仕事に追われるようになると、ブログの更新でさえ二の次になりがちです。
 
 

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考えを優る



 実行できない
  この考えに無理がある
   否…… 考えを優る理性が機能している

 想像や考えにこそ無理や矛盾がある
  違和感があり葛藤し緊張さえ余儀なくされる
   もちろん…… 想像や考えを優る理性が機能しているからだ

 生理的な嘔吐や下痢に似ている
  想像し考えていることを拒否し有害だと示唆してくれている
   精神的なそれこそが理性なのだ

 考えを優る理性が確かに心に存在している
  理に適っていて納得できる真実は別に在ることを教えていたのか
   そうであることを知らなかったから むしろ背こうとしていた

 ん!? ということは 悪魔の誘惑に負けそうだったのか!
  躊躇し抵抗があるのに 魔がさし 強がろうとしていた
   嫌われ軽蔑され非難されることだから躊躇し抵抗があったのだ
 
 
ガマズミ

 
 
ガマズミ

 画像は、斑入りのガマズミです。
 5年ほど前、秋にキノコを探しに行った山の、獣道に生えていたものです。一番大きい葉でも5センチくらいでしたが、斑入りであることははっきりしていました。踏みつけられて曲がった幹は、爪楊枝の太さほどしかありませんでしたが、我が家の庭で樹高1メートルほどまでに育ちました。
 
 

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めまぐるしく考えてしまうあなたへ


 かつて、めまぐるしく考えてしまうようになり、精神的に疲れ、考えてしまうことが煩わしくなった。そして、これをどうにかならないものだろうかと思い始めた。
 考えることを止めることって、できるのだろうか……。
 単純な発想だった。が、疑問も抱かなかった。道具も要らないし、準備すら必要ない。ただちに、考えることを止められるのかを試み始めた。客観的には把握できていなかったが、考えることは、自分の意思に因ることだったからかもしれない。

 自分にとっては未知だったことだけに、初日は、進展しているのか否かも不明だった。
 翌日も、試みた。が、何の手がかりも得られなかった。
 翌々日も、試み模索を始めた。
 すると、出来た。
 感動し、涙が溢れた。
 一切考えなくても、自分は存在している。これこそが、自分自身そのものなのだ。
 めまぐるしく考えることに捕らわれ、むしろ煩わされていたことは、すべて無駄だった。
 想像や考えには無理や矛盾さえあることを十分に分かったからこそ、人生の遅れを取り戻すかのようにめまぐるしく考えてしまうようになっていた。が、そんなことから開放された。
 こんなことも可能で、自分のことなのに、知らず出来なかったことが、できた。こんなことを知らず出来なかったのも、無理や矛盾さえある想像や考えに捕らわれていたからに他ならなかった。

 いつでも出来るようになろう、コツや方法を憶えようと、直ぐにまたやった。
 感動はしなくなった。初めて出来た際に感動したのは、想像していることや考えていることに無理や矛盾があることを思い知らされ、救いを求めるような状況で臨み、初めて出来たからかもしれない。しかも、自分にとっては自分に関することで未知だったことが意外にも早く、偶然に出来たようなものだった。
 しかも、何も考えない状態になれるが、そのコツや方法が分からない。コツや方法が具体的に分からないのに、出来る。これが、不思議だった。
 でも、もともとは出来なかった二足歩行や日常会話も熟練までしたのだが、そうであることも当時は未理解だった。
 現に、相手が話すことを、自分の記憶にあることを基に識別し思考し理解して、相応の応答や行動をしている。なのに、そうであることをさえ分かっていなかった。
 つまり、二足歩行も日常会話も、できるようにさえなれば実用になる。なぜ出来るようになったのかとか、経緯や事実関係や理由を理解する必要は特に無い。
 何も考えないことにしても、同じことだった。

 考えることを止めることは、随時やるようになった。
 繰り返しやるほどに、何も考えない状態になることの効果は分かるようになった。
 その効果は……、これは、興味がある人は実際に体験してほしい。

 というわけで、方法やコツも教えたいところですが……。
 そもそも、何も考えない状態になることです。つまり、決して努力をすることではなく、むしろ考えることをさえも一切止めることです。
 通常は、何かを随意に出来るようになろうとする際には、方法を憶えようとかコツを掴もうとします。が、これは何も考えない状態になることだけに、コツを憶えようとか方法を理解しようとか、そういう考えも一切止めることです。
 そういうことだけに、通常、何かが出来るようになる際に教えるコツや方法は、無いです。そういうことであることを理解できれば、それが言わばコツになります。
 実は、このことを幾度も文章化しようとし、その都度、コツや方法を知ろうとばかりしたために、実際にはコツや方法を知ろうとすることも一切止めることなのだ、ということにはなかなか気づけませんでした。
 もちろん、何も考えない状態になることは、説明することも止めることです。実際に、何も考えない状態になれれば、説明も必要ない。
 そんなわけで、何も考えなくなることなので、説明することも無くなるのだということには、かなり後になってから気づきました。
 そのくらい、ただただ一切何も考えない状態になることです。

 もともと、頭の中だけで行われる想像や考えは、し放題です。そういう性質上、想像や考える内容には無理や矛盾も生じます。無理や矛盾があるから、悪循環にも陥り、そういう想像や考えには捕らわれがちにもなります。
 そんな想像や考えも、一切止めることになります。つまり、つい思考してしまうことからは、一旦開放されます。
 しかも、思考を一切止めると、自分自身そのものを体験する状態になります。この、生理的には自律して機能している自分自身そのものを体験することによる、相応の効果もあるのかもしれません。
 この考えることを一切止めることができると、知識や意思や考えに拠らずに自律して機能している生理面や、記憶にあることを基に想像したり考えたりしていることや、それに基づいて行っていることやその結果などが、分かりやすくなります。
 ただし、記憶に残っている思い込みや先入観などの無理や矛盾は、後で整理しなければなりません。ですが、それも、以前よりは容易にできるようになります。


 参考になることと言えば……
 これらのことも、随時、何も考えない状態になるようになって、かなり年月が経ってから気づき分かったことですが……

 日常的には、識別し考えることに集中しがちです。
 食べたいものを食べ、食べたくないものは食べない。聞きたい音は楽しみもするが、聞きたくない音は避ける。思い出したいことは思い出すが、思い出したくないことは思い出すまいとする。考えたいことは考えるが、考えたくないことは考えない。憶えたいことは調べもし練習もするが、憶えたくないことは避ける。当然に、知り出来るようになることは偏ります。学習して出来るようになったことが、生存上は的外れなことばかりだったとしても不思議ではないことになります。
 つまり、日常的に何を意識したり何を考えたりしているわけであり、それらは意思で制御していることになります。

 また、知られたくないことは、隠す。事実よりも良く見えるように細工したり工作したりもします。事実とは違うことを事実だと思わせようともします。テレビドラマや映画も、大金を投じて、NGを繰り返して、CGを駆使して、編集して、いかにも本当であるかのように作ります。
 それを、真に受けて見ていたり、相応のことが記憶に残ったり、また見たりします。
 これらは、他者が意識したり考えることをまでも、操作しているようなものです。

 そういうことを、現に行っている。ですから、それらを一切止めるだけなので、もともと難しいことではなかったのです。
 むしろ、尤もらしく見せかけることや、いかにも本当らしく工作することや、いわば騙し欺く類のことを知らずにしていた場合でも、それを止めることになります。
 知らずに、嫌われ軽蔑されかねないようなことをしていた場合も、それを止めることにもなります。
 考えることをさえ止めることであり、意図的なことは一切何もしないことなので、実際にできるようになると、単純極まりないほど簡単なことであることが分かります。
 つまり、生存上、的外れな考えをしていた場合も、考えに無理や矛盾があった場合も、それを止めることになるので、生理的には自律して機能していることによって生存している自身そのものを自覚する状態になります。


 もちろん、学歴が無くても出来るし、お金も不要であり、寝転んだ状態でも出来ます。
 むしろ、身体のどこかに力が入るようだと、相応の考えが伴いがちです。それ気になるようなら、身体の力を一切抜く必要があります。その最も簡単な方法が寝転ぶことです。
 もちろん、座っても出来ます。どこかに多少は力が入っていても、気にならなくなれば、むしろ全く個人的なことだけに場所を選ばずできるようになれます。

 呼吸も気になるかも知れません。
 でも、呼吸が気になるようになったということは、相応に進歩していることを物語っています。
 その際には、言うまでもないことですが、気にならなくなるように、ゆっくり呼吸することにトライするとよいです。
 腹式呼吸などに拘るよりは、鼻から吸って口から吐く際に、空気の流れを自覚できないくらいゆっくり呼吸するようにする。そうすると、おのずから呼吸は整い気にならなくなります。

 気になることが無くなったら、あとは考えることを一切止めて、何も考えない。それだけです。

 興味がある方は、是非、トライしてみてください。
 言わば、思考が一瞬でも完全に停止すると、思考がリセットされたような状態になると考えられ、無理や矛盾があるがゆえに拘り捕らわれていた場合は、それらから開放されます。
 よって、発想の切り替えが容易になります。知識の吸収力も、当然に増します。
 それが、何も考えない状態になることができた証拠であり、何も考えない状態になることができた人への、いわば神様からのご褒美だと言えます。
 
 
カテゴリ : 把握できていること&用語集

番外

 
 いつもご来訪くださいまして、ありがとうございます。

 唐突ですが、当方の記事の所為と思われる、迷惑コメントがあったようです。
 大変、恐縮しております。

 ということでしたが、私の勘違いだったようで、恐縮するばかりです。
「申し訳ありませんでした。ごめんなさい」


 ですが……
 当方、自分の歪んだ心を修正すべく、戒め的なことも行っております。いわば、個人的な内部告発的な記事も投稿しています。

 その理由は……
 かつて、私は、見えない壁に直面しているような日々を数年間も経験しました。

 結局、死んだ方がましだとまで思い詰め、決行しようとしました。が、決行できなかった。その事実関係から、むしろ、自分が考えていることや行おうとしていることには実行できないような無理も矛盾もあるんだ、ということにやっと気づきました。

 結局、無理も矛盾もあることが明らかになったそんな考えに基づいて行動するわけにはいかなくなり、自室にこもりました。そして、不都合なことを隠し偽り尤もらしく見せかけることを考えることに捕らわれていることに気づき、気が晴れました。
 つまり、落ち込むようなことばかり考えることに捕らわれていた。が、気づいた時点で、それまで捕らわれていた考えから一時的に開放された。そのことからは、否認し強情を張りがちなことが要因だ、というこということも分かりました。

 また、不都合だと思うことを隠し偽り尤もらしく見せかけることは、誰も見抜けないだろうと侮ることでもあり、捏造の類でもあり、私利私欲を貪る目的ではないものの騙し欺く類でもある。つまり、疑われ嫌われ非難されるようなことを考え自ら行うことになるわけだから、抵抗があって出来なくて当然だ。正当防衛までは許されるが、されれば嫌なことを仕返すだけに、それでさえ望ましいことではない。そんなことに気づけなかったのは、無理なことを考えることに捕らわれると、ほかのことを考える余裕がなかったからでもある。
 むしろ、捕らわれていた考えをやめただけで、そんなことに気づいた。しかも、自認したことは、批判視できるようにもなった。つまり、不都合なことを隠し偽り否認するような考えに捕らわれることを、自認したことによって、自覚できるようになり、一時的にでも自制できるようになった。

 そういうことか可能になったことによって、確かめたわけではない想像や妄想に過ぎなかったことも分かった。しかも、先入観や思い込みや、隠し偽らざるをえないことも記憶にあったことも分かった。

 もちろん、知らなかったからであり、悪意に因るものであろうはずがなく、意図的なことですらない。不都合なことを隠し偽り上辺を尤もらしく見せかけたとしても、私利私欲のためや詐欺目的でそうしたのでなければ、許容範囲内だ。そんなことも分かり、更に気が楽になった。

 そして、気づいた。
 考えたり想像したりした内容しだいで、葛藤が生じたり、首が痙攣してパニックに陥りそうになる。
 思えば、日常的にも、考えたり想像しただけでも、焦ったり不安になったり期待したり相応の感情が生じる。
 では、葛藤が生じたときやパニックに陥りそうになったときには、どんなことを考えて行おうとしていたのか、それを省みるようになった。
 その結果も、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張りがちで上辺だけ尤もらしく見せかけようとしたときだ、ということが分かった。
 つまり、隠し偽ることを考えることに捕らわれると、改善するどころか事実関係は把握し難くなり、更に隠し偽ることを考えざるをえなくなり悪循環に陥る。だから、葛藤が生じたり、パニックに陥りそうにまでなる。むしろ、隠し偽るようなことを考えるのを止めると、そんなことが分かる。分かると、その隠し偽るようなことを考えていることを自覚できるようになり、よって自制できるようになり、ほかのことを考える余裕もできる。

 また、想像したり考えるだけなら、無理や矛盾があることもし放題だ。が、無理や矛盾があるからこそ、実行できないことだったり、一向に解決や改善ができないことだったりもする。
 つまり、自分の考えや行動を抑制するほどものが存在している。それこそが、理性と言われるものにほかならない。

 そして、もともと経験でき学習でき理解でき熟練できことや、識別力や思考力や理解力は日常的に発揮していたことに気づきます。
 つまり、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張りがちだったことによって、日常的に発揮していた識別力や思考力や理解力を台無しにし、もともと経験でき学習でき理解でき熟練できることまでも台無しにしていたことが分かりました。
 この、私が心の矛盾を解消していった当時のことも、詳しい記事にして、投稿する予定です。
 なお、夏場は、編集に時間を要します。あしからず。


 そんなわけで、自分の歪んだ心を修正すべく、恥曝しというよりも戒め的な内容も記事にして投稿しております。
 ここは、マイ・ブログですから。


 当然のことですが、かつての私のように、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装し、それを大事にしている人にとっては、それを批判視し戒めている今の私の記事の内容は受け入れ難いはずです。
 当然に、そういう人は、来なくなるはずですが、もし来ているのでしたら、当ブログには来ないよう、お願いします。
 もちろん、他のブログへの勝手な迷惑行為は、止めてください。



 なお、これを機会に、投稿はしばらく控えます。
 もともと、自慢にならないどころか、恥曝しですから。
 善人になる資格は、とっくに失っています。ご迷惑をおかけした方々の心情を察すると、悪人になるわけにもいきません。
 というより、実は、時期的にも、生きるための野良仕事を優先しなければなりません。


追記
 沢山のコメントならびに応援、ありがとうございます。

 迷惑コメントは、当方の勘違いでもあったようで、恐縮するばかりです。
 ですが、これを機会に、趣向を変えます。
 これからは、生きていること自体の絶妙さを優先します。
 興味のある方のご愛顧に期待しております。

 ただし、趣向は変えても、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装していることは、もちろん明らかになります。
 むしろ、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装することによって、生きていること自体の絶妙さは抑圧され虐げられていることが明らかになります。

 ですが、知らず間違っているだけで、決して悪意に因るものではないのなら、修正も困難ではないです。
 けれども、詐欺や私利私欲を貪ることを目的で、不都合なことを隠し偽り否認し強情を張り上辺だけを尤もらしく偽装している方は、受け入れ難いはずです。
 受け入れ難い方は、当ブログには来ないよう、お願いします。

 
 
カテゴリ : 真似句&詩擬

愚かな世間体



 世間体が気になる
 噂されることが怖い
 だから他人を気にする

 劣ることを恐れ
 孤立することを恐れ
 差別や疎外されることを恐れている

 だから 雷同して噂に加担し
 迎合するかのように世間体を繕って助長し
 実にくだらないことを基準に自己満足していた

 雷同し迎合し群がって騙し欺き合っていたようなものだ
 くだらない基準を捏造して差別までしようとした
 でも公然とはできないから噂の域を出ない

 そうしたことが自分の記憶にある
 だからこそ世間体が気になる
 群がって騙し欺き合い基準を捏造したほど愚かだかだったからこそ
 自分も噂されることを恐れている
 抜け出そうと思えば裏切ることになる
 だからこそ他人を気にしてしまう

 実にくだらない悪魔の掟で自縄自縛していたのだ
 そもそも自分こそ独り歩きができていなかったからだ
 もともと悪魔の掟だ 破ったところで罪になろうはずがない

 そんなくだらないものを超越しているのに
 産まれて生きていること自体が
 
クサボケ

 
 

テーマ : 詩・ことば
ジャンル : 小説・文学

カテゴリ : 把握できていること&用語集

完璧でも善人でもありえない



 そもそも、経験や学習上のことは、誕生当時は、未経験だし未学習だ。

 経験でき、学習でき、理解できるようにもなった。が、その性質上、個人的には、仕事として通用するほど詳しく知っていることは限られる。気づけない間違いもあるはずだ。何かを思い浮かべるだけで分かるが、記憶自体が曖昧なもので、その曖昧なことが圧倒的に多い。
 でも、それらは、悪意に因るものではないし、意図的なことですらない。知らなかったことを憶え、間違っていることは修正することによって詳しくなり、試行錯誤を重ねてこそ上手にもなる。

 大人になっても、個人的には、詳しいことは限られ、曖昧なことが圧倒的に多く、知らないことこそ宇宙規模で存在する。
 そもそも、自身がこういう形体になった理由を知らない。自身の内臓なのに、見たことも無い。各臓器は、自律して機能しているだけに、具体的なことは殆ど知らない。病気になってもなす術を知らず、老化は誰も止められないし、誰もが死を余儀なくされる。
 つまり、生きていること自体は、自律していて絶妙にできているし、知能まで備わっている。が、経験し学習し理解した内容は、生存上は的外れなことばかりだったとしても不思議ではない。


 でも、されれば嫌なことは、相手も望まないだろうし、好まれるはずがない。やれば、口論になり、更に暴力的にもなる。だから、行うとなると抵抗があり躊躇し慎むようになる。
 つまり、良くないことも悪いことも、具体的なことは知らない子供のうちに経験してこそ知り(記憶に残り)、それを基に、自分の考えや行動を管理できるようになる。

 口論を通じてでも、事実関係や理由などを具体的に理解し、説明でき説得できるようになればベストだ。が、喧嘩は両成敗で、相応のことは躾や教育には無いどころか、むしろ余計なことを強いられた。
 つまり、完璧であろうとすると、無理をしなければならない。というより、無理をしたところで、生存上は完璧ではありえない。ということは、もともとは歴然としていたのだのだが、そういうことが観えなかったのは自分勝手な妄想に陥りがちだったからだ。

 完璧とまではいかなくても、本来は、理解と協力なしには子供は産まれないし育ちもしない。15年前後もの保護養育が必要なことも事実だ。その間に経験し学習し理解したことを以って、精神的には自立することになるのだが……。
 それでも、家族も、企業も、個人的にはできないことを実現している。合理的なことをしたり、分業化し専業化して間接的にであっても力を合わせたことによって、それは実現している。
 その組織化も、不完全で、私利私欲もあって問題も多く、搾取階級の温床になったりもする。
 それでも、尊べることを具体的に理解し合えている人が多いほど、理想に近づくのだと考えられる。
 
キクザキイチリンソウ

 要は、自分が知っているか否かだが、このこと自体が完璧でありえないことを物語っている。
 経験し学習し理解できるようになり、相応のことを随意にできるようになる。その内容は、個人的にも年々変化する。
 個人毎に生存環境が異なり、経験に違いがあるだけに、好みや価値観なども個人毎に異なる。
 食べたいものだけを食べ、見たいものだけを見て、考えたいことだけを考え、憶えたいことだけは練習する。
 当然に、考えたくないことは考えないし、憶えたくないことは練習しない。
 結局、自分さえ良ければいいとか、お互いに良ければいい、そういう傾向が強くなる。
 相手を侵害すると、反撃されて当然だし、悪いことだと分かる。でも、お互い様だと相殺すると、悪いことは分かっていることをやってしまう。言うまでもないが、相殺されることを行っているのであり、良いことをしているわけではない。
 行為には責任が伴う。でも、巧みに騙し欺いてでも私利私欲を貪ったほうが勝ちだ。証拠を残さなければ、法律が無罪にしてくれる。不都合な場合は否認し通し、不利だと思ったら強情を張り通せばいい。
 優劣や勝敗に拘って競い争うのには、疑問を感じる。
 思考や行動から秩序が失くなると、人という動物は地球上で最悪の獣でしかなくなる。

 でも、知らないと、事前に慎むことはできない。
 後悔しているのに、相殺し、肯定してしまったりする。
 不都合なことや不利なことは否認し、つい強情まで張る。
 じゃあ公然と行うのかと思えば、できもしない。
 むしろ、そういう経験を経て、トラウマになったり、二度とできなくなったり、具体的に知るほど慎まざるをえなくなる。
 それでも慎めるようになれたのなら、それが最善なのだ。

 言うまでもないが、善人を装っている奴ほど背後が怪しい。
 
 
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俺は……



 誰よりも酷いことを自分で自分に対してしようとした

 しかも 誰かの所為だったかのように偽装までしようとした

 自分勝手に巧く欺いたつもりでも 事実こそ雄弁なのだとも知らず


 あれは 二度とやってはいけない 意気地なしだと嘲笑われようとも

 あれだけは 秘密にしておこう 自分を嘘つきだと罵ろう

 俺は…… その程度の生き物でしかないのだ
 
 
キクザキイチリンソウ

 
雪解けの花 ひたすら天心を仰ぐ 山の中

 
 

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深みの花



 幼い頃はスキンシップだけでもいい
 それゆえに人見知りし好き嫌いも生じる
 損得が分かるようになると秩序も必要になる
 嘘が分かるようになると信用や信頼が重要になる
 口論するようになると納得や理由や根拠が必要になる
 行為に伴う責任を云々するようになると行動管理は必須だ
 そうであることを具体的には未理解でも説明などできなくても

 なのに 上辺だけ繕い 尤もらしく偽装し 騙し欺く類を……
 自ら わざわざ こんな馬鹿な大人になったのか……

 でも悪意ではなかった
 こんな結果になるのも知らなかった
 過ちの類だ 過ちなら誰にでもある 責め咎める対象でもない
 むしろ こういう経験を経てこそ 馬鹿なことを慎めるようにもなれる

 でも…… そんなことも知らなかった だから勝手に僻み強情を張った
 あ! だから深みに陥ったのか!
 
 
キクザキイチリンソウ

 
 

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やる気



やる気が…… 無い……
待てよ…… 違う……
やる気が無いのは 行動とも一致する だから俺の本心なのだ!
ということは 本心に反することを無理にやろうとしていたのか?

他人の目や 他人の気持ちを 勝手に気にしている……
悪く見られたくない…… むしろ良く見られたい……
でも…… 上辺を繕うことや見栄には抵抗がある
それは騙し欺く類で 嫌われることだからだ
実績になることでもないし信頼されることでもない
そんなことに気を奪われていたなんて馬鹿げている

じゃあ 俺の本心は 何を望んでいるんだ?
知識や技術を習得して信頼されるような確かな実績を出すことか?
そうでもない……
いずれにしても 肝心なものを見失っているんだ!
だから 見た目や他人を気にしてしまうのか!

とにかく 他人を気にする思いを断たなきゃ
上辺を気にし過ぎる気持ちは捨てた方がいい

無理してまで上辺を繕う必要など無い
そうしたからといって破綻する つまり尤もらしく見せ掛けているだけだ
それしなくても上手くやる人もいる つまり必要ないのに見栄を張ってる
そんなことも考えなかった だから上辺だけに惑わされていたのだ
上辺だけの騙し合いからは抜け出さなきゃ

上辺を気にし過ぎる 上辺だけに惑わされる そんな気持ちは捨てなきゃ
別に他人に対して悪いことをするわけじゃないんだから
なによりも 萎えてしまった自分の心を復活させなきゃ
 
かたくり

 

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カテゴリ : 把握できていること&用語集

・想像とは・思い込みとは・妄想とは


 心を整理する際に、意味を明確にしてきた言葉です。
 当ブログ内では一貫するように心がけている言葉でもあります。
 あくまでも個人的なことです。その点は、ご了解ください。
 把握できていることの概要もご参照ください。



 経験し観察し確かめ試すほど、事実に基づいたことが詳しく記憶に残ります。その記憶に残っていることだけを基に、目の前にいない人のことでも話せ、昨日のことでも何年も前のことでも話するようになります。

 でも、確かめられるないこともあり、試せないこともあり、とりあえず記憶にあることを基に類推したりします。
 事実か否かを確かめたわけではなく、記憶にあることを基に類推することが主である想像の性質上、的外れだったり、勘違いだったりもします。

 正直な話、私は、小学校を卒業する頃にはほとんど勉強しなくなっていました。中学校卒業し、肉体労働をして生活していました。
 が、いつのまにかすっかり大人になったのだと勘違いしていました。そんな自分に気づいたときは、すでに27歳だっただけに、絶望的ショックでした。
 勘違いや思い込みばかりだっただけに、妄想の世界をさ迷いました。
 でも、自分の想像や考えていることに伴って感情や葛藤が生じることに気づいた。しかも、自分が想像し考えていることだけに事実関係も把握でき、把握できたことは自覚もできるだけに解消できる。そのことに、やっと気づいたときは30歳になっていました。
 結局、遅れ馳せながら自分の記憶にあることを整理しはじめました。そして、自分が考えていることに関することは何よりも詳しくなれる条件が整っていることとも判かった。もともとそうであることをさえ、自分は知らなかったからこそ妄想の世界をさ迷ったんだということも判明しました。
 その後、では本来はどうなのか、ということを知ることになります。

 
 
 本来は

 基本的な識別や思考や理解や予想などの情報処理に関しては、別に記事を準備中ですが……。
 経験したことは、相応の印象が記憶に残り、相応の識別や思考や理解や予想なども可能になり、相応の言動や行動も可能になり、相応の結果になります。
 観察したり確かめたり試したりするほど、勘違いしていたことも修正され、確かで詳しい印象が記憶に残り、的確な判断や行動が可能になり、予想通りの結果にすることも可能になります。
 日常的にも、相手が話すことや自分が見聞きしていることを、自分の記憶にあることを基に識別したり思考したり理解したり予想したりして(情報処理をして)、相応の動作や言動や行動をし、相応の結果になります。
 走り回れるようになったり、日常会話ができるようになったことは、高度な理解力もあり客観視もできる能力が備わっていて、実際に熟練し発揮されていることを物語っています。
 でも、そうであることを未理解だったり、未理解ゆえにむしろ勘違いしたり、的外れなことを思い込んでいたりもし、せっかく備わっている知能を誤用さえしていたりします。


 
 
・想像とは

 未熟な頃は直接経験していることが重要ですが、成長とともに行動範囲も広がり、判断すべき対象も直接は確かめられないことも多くなります。
 尋ねることが可能な相手が限られ、尋ねることができる内容が限られ、事実か否かを直ぐには確かめられないことも多く、試せないことだってあります。
 でも、記憶に溜まる情報量は、年々、多くなります。
 その記憶にあることだけを基に、会話するようになります。
 とりあえず記憶にあることを基に類推や推理や想像や予想などをするようにもなります。


 行ったことが無い目的地への道順を教えてもらう場合
 経験があり記憶にもある範囲内は、その記憶を基に確認できる。その先の知らない部分に関しては、言葉で教えてもらっても、直ちに確かめられない。そこで、知っているところまでの記憶を基に、知らない部分は想像したり略図を描いたりして、それを頼りに行くことになる。
 その想像した部分は、実際に行くことによって、確認もされることになります。
 初めて行く場合はスムーズに行けなかったりし、想像していたことはそういうものだということも自覚します。
 でも、自分が行動し経験して実際に確認した物事の印象が記憶に残ります。
 その実際に経験し確認して記憶に残った情報を基に、事後報告もできます。もちろん、次回は、実際に経験し確認して記憶に残った情報を基に、行けるようになります。
 記憶は曖昧なものですが、想像したことと、実際に感覚的に確認して記憶に残ったことでは、格段の違いがあります。


 想像の類は、確かめたことではないので、的外れだったり、勘違いの元だったりします。
 事実か否かを確かめるまえの、想像の類なので、宝くじのようなものなのです。
 でも、否定的なことは結果も見ないことが多いだけに、的中していたと思い込んでいたりします。
 的を得ていることも、たしかにあります。でも、それゆえに想像を頼りがちになります。

 ギャンブルなども、勝ったときだけは自慢し、損した時には秘密にし、自分でも忘れるのか、止められなかったり依存症気味だったりさえします。

 確かめずに、勝手に想像して安いと思い、衝動買いをしたら、失敗だったりもします。

 簡単に使えそうだと思って買った家電製品も、簡単に使えなかったりもします。
「説明書だけでも売れる時代なんだ」という理由にも、納得できます。

 つまり、事実か否かを確かめたわけではなく、記憶にあることを基に想像した類のことに過ぎないから、実際には勘違いだったとか思い込んでいただけだったとか的外れだったことが明らかになったりします。
 そういう経験上、想像の類にはそう性質や特徴があることを、自覚したり理解したりもします。
 むしろ、失敗した場合は、繰り返すまいという思うし、事実を認めて、更に確かめて理由を具体的に知るほど、繰り返さずに済むようになります。つまり、想像を頼ることは慎むようになり、できるだけ確かめた事実を頼るようにもなります。
 自分が考えていることであり、事実か否かを確かめたわけではなく、記憶に溜まったことを基に類推したり想像したり予想したに過ぎず、的外れなことは少なくない、といった想像の類の特徴や事実関係を本人が自覚できる場合を当ブログでは「想像」と言っています。

 性質や特長の違いを基に細かく区別すると、類推・推理・憶測・想像・予想などと分類できますが、その総称としても「想像」という言葉を使います。


 
 
・思い込みとは

 結局、事実か否かなどを一々確かめたり試したりはしないで、記憶にあることを基にした想像だけで、判断したり決断したりもし、片付けてしまうこともあります。
 想像でも思い込みでも、的を得ていることもあります。
 でも、「思い込み」云々と問題になるのは、的外れだった場合です。それだけ、的外れなことが多く、的外れだった場合は大変なことになったりもします。


 大事なものを失くした。
 失くしたわけですから、具体的なことは分かっていないことが多い。
 分かってみると、勘違いだったり、的外れな想像に過ぎなかったりもします。

 でも、大事なものを失くしたとなると、心配になったり苦になったりします。
 それゆえに、大事なものを失くしてしまったんだと判断し、そうだと思い込むほど、そうではないかもしれないとは考えられなくなるだけに、心配や苦は顕著になります。

 注射の話をしただけで子供が泣きだし、他の話をすると泣き止む、それも同じことです。
 想像に過ぎなくても、相応の感情が伴い、その感情は事実だけに、想像に過ぎないことが実際に起きているような状態になります。

 気に入らなかったことは、後で思い出しただけでも腹が立ちます。
 でも、嬉しかったことを思い浮かべたり、もっと好転するようなことを考えたりすると、期待したりもします。

 つまり、記憶にあることを基に想像し、それに伴って生じた感情に過ぎません。
 でも、元は想像ですが、それに伴って生じる感情は事実です。それゆえに、元は想像であることを忘れがちになり、そうだと思い込むほど、そうではないかもしれないとは考えられなくなり、思い込みが増すのだと考えられます。
 つまり、元は想像に過ぎなくても、感情は事実だけに、想像に過ぎないことを忘れがちになり、事実であるかのように思い込み始める。しかも、そうであることを自覚できなくなった状態を、当ブログでは「思い込み」と言います。

 もちろん、本人の意思で行われている情報処理に関することだけに、事実関係を自覚するだけで、解消します。
 元になっているのは想像に過ぎないわけですから、違うことを考えただけでも解消します。
 本人が考えて行っていることだけに、具体的に理解することもでき、そうした場合は未然に防げるようにもなります。


 ちなみに……
 テレビドラマは、大金を投じ、大掛かりなセットも用意したりして、NGを繰り返し、更に編集して、いかにも本当らしく作ったものです。
 映画は、CGまで駆使して、実際にはありえないことまでも、本当であるかのように作ったものです。
 そういうことを分かった上で観ていても、観るとなると肯定的に捉えることになります。しかも、ストーリーや推理が重要だとなると、要点を肯定して記憶にとどめながら観てこそ観るに値します。
 しかも、テレビドラマや映画の内容を、事実確認することは一般的にはしません。
 そういう性質上、かなり真に受けてしまったとしても、不思議ではありません。
 そういうことを知らずに観ていると、想像や思い込みや妄想のほうを鍛えているようなものだとも考えられます。
 これは、私の勘違いだったほうが、むしろ幸いなのですが……。

 特に支障が気にならず判明しない思い込みは、そのイメージが記憶上で固定化し、先入観として心理や思考に支障を及ぼし、行動や結果を左右していたりもします。


 
 
・妄想とは

 想像は、自分で考えていることであり、経験もあり、事実関係や特徴も自覚できれば、深く迷い込むこともない。
 思い込みも、想像と同様で、自分で考えていることだけに、冷静に考えれば分かることであり、自覚できれば深みに陥ることもない。

 でも、想像に過ぎなくても、それに伴って生じる感情は事実です。それゆえに、元は想像に過ぎないんだということを忘れると、事実だと思い込みかねない。
 つまり、自分が考えていることが、想像に過ぎないことを自覚できなくなり、思い込みであることも自覚できなくなると、ほとんど根拠も理由も無い無理で矛盾することも考え、そうであることにも気づき難くなり、想像上のことを事実だと思い込んだ振る舞いまでするようになります。
 その、自分で考えていることが、想像に過ぎないことや想像上の思い込みに過ぎないんだということを自覚できない状態で想像が展開され続けることを、当ブログでは「妄想」と言います。

 もちろん、想像も思い込みも妄想も、意図的にそうしようとして行っていることではないです。
 むしろ、自分で考えていることそのものに関することなので、日常会話が出来る程度の識別力や思考力理解力を冷静に発揮できれば、事実関係や特徴は自覚できるようになり、解消します。
 つまり、特徴や性質などを具体的に知ると、知ったことは自覚できるので、想像上のことを本当だと思い込むことは減少する。そういう経験を経て更に詳しくなり、仮に陥ったとしても簡単に自覚できるようになり、更には陥らずに済むようになります。


 ちなみに、寝返りもできなかったのに、二本足で全速で走れるようになった。また、言葉は話せなかったのに、片言を憶え、相手が話すことを自分の記憶にあることを基に識別し思考し理解し予想しして日常会話をするようになった。これだけでも、とても高度な能力が備わっていて、実際に発揮できていることが実証されています。
 なのに、想像が逞し過ぎると、的外れなことを思い込み、妄想にまで陥ってしまうことも事実です。


 あくまでも、例えばですが……。
 精神的に不安定になった人が、自分には具体的な診断をする知識が無い。そこで、想像上、詳しく知っているであろうと思える精神科医を尋ねた。
 その精神科医から、何らかの病気ですと言われた。
 となると、当然に、動揺するはずです。

 本人は、具体的は診断をする知識が無いから、詳しく知っているであろうと想像して精神科医を尋ねた。ということは、精神科医は詳しく知っていると、すでに思い込んでいたり、先入観を抱いている可能性があります。
 その精神科医に、何らかの病気ですと言われたということは、精神面が正常ではないと言われたのと同じです。
 しかも、自分で判断できない患者は、その精神科医の言葉を自分で確かめることもできないし否定することもできません。むしろ、自分が頼った精神科医の言葉だと、真に受けて思い込むでしょう。
 もちろん、患者自身は、自分で事実か否かを確かめたわけではなく、あくまでも想像の域を出ていません。が、そういうことを自覚できなくなる可能性のほうが大きい。
 つまり、患者は、あくまでも想像上で、精神面が正常ではないと思い込んだり、異常なんだと思い込んだりする。
 そうなると、思考は妄想状態になります。

 興味がある方は、こちらもどうぞ。続編;病院からの帰り

 もちろん、脳力が基本的には機能しているからこそ、生じます。
 要は、自分が考えて行っている情報処理に関することを知らないと、基本的には機能していることも自覚できない。
 この道でいいのか分からない状態と似ています。
 なので、自分が考えて行っていることをさえ、むしろ勘違いしたり思い込んでしまったりするということです。
 分からないので、こっちの道を行ってみようかと思うのに似ています。
 もちろん、具体的な知識は無いが、脳力自体は基本的に機能しているからこそです。そういう経験を経て、具体的な知識を得るのが普通です。
 
 

 
カテゴリ : 把握できていること&用語集

先入観とは


 心を整理する際に、意味を明確にしてきた言葉です。
 当ブログ内では一貫するように心がけている言葉でもあります。
 あくまでも個人的なことです。その点は、ご了解ください。
 把握できていることの概要もご参照ください。



 そもそも、簡単には確かめようが無いこともある。
 遠目に見たことを基に、自分で想像し、繰り返すうちに「そうだ」と思い込み、それを基に判断するようにまでなっていたりする。
 つまり、具体的な根拠や理由は無いし、納得しているわけでもない。
「もう子供じゃないんだから。もう二十歳を過ぎたんだから。もう大人なんだから」…とか。
「男だろ」「俺は男だから」……など。
「女でしょ」「わたしは女だから」……等々。
「誰でも、そうしている」……etc。
 そうではないかもしれない、という疑問も抱かなくなる。
 確かめた事実ではなく、自分が想像したに過ぎないことなんだから、的外れなことだってある。などとも考えない。
 本当にそうなのかは、確かめもしない。
「決してそうではない。そういうことはありえない」などと言おうものなら、憤慨さえする。
 でも、具体的な事実が明らかになると、想像上のことをそうだと思い込んでしまっていたに過ぎなかったことも明らかになるだけに、自信を失くしたり落ち込んでしまったりもします。
 もちろん、根拠や理由があって辻褄が合っていると、相応の結果にもなるし、納得もする。想像上で思い込み続けるよりは、早めに気づいた方が良いはずなのに……。

 本当かどうかを確かめたわけではないし、具体的な根拠や理由があるわけでもなく、納得もしていない。が、そんなことは忘れてしまい、そうだと思い込んでしまっていて、そのイメージをを基に判断までするようになっていた場合の、そのイメージや観方のことを当ブログでは「先入観」と言います。


「思い込み」と「先入観」は切り離せない関係にあります。

 確かめたわけではない、つまり類推や想像に過ぎないイメージが、繰り返すうちに固定していった(思い込んだ)ことを重視なり強調する際には、当ブログでは「思い込み」と言う言葉を使います。

 その思い込みが固定するほど、判断の基準として用いられるようにまでなりますが、その場合は「先入観」と言います。

 ちなみに「トラウマ」も、記憶が重要な点では共通ですが……
「トラウマ」は、精神的にショックだったことが、記憶にも残った。しかも、大事なことを知らなかったことに気づいたから精神的にショックだったわけであり、繰り返してはいけない重要なことでもあるだけに、つい思い浮かぶ。が、ショックだっただけに、考えまい思い出すまいとする。結局、具体的はこと把握できないので、つい思い浮かぶ。となると、記憶に残っていることが、心理的に悪影響を及ぼしているような状態になり、行動にまで支障が生じる。
 実際には、繰り返してはいけない重要なことであり、具体的に把握するほど繰り返さずに済みます。なのに、それを考えまい思い出すまいとするから、一向に改善されず、むしろ悪化したりする。


 思い込みであれ、先入観であれ、的を得ていれば問題にもなりません。
 的外れだった場合に、「勝手な思い込みに過ぎなかった」とか、「先入観が邪魔をして」云々などと問題になる。もちろん、事実とは違っていたり、好ましくなかったりするからです。
 つまり、日常的に識別したり思考したり理解したり予想したりして、相応の言動や行動を行い、相応の結果になる。そのどこかに無理や矛盾があったことになり、それが検証されることになります。

 通常、経験に相応した印象が記憶に残ります。
 そういう性質上、観察したり確かめたり試したりするほど詳しいことが分かり、その事実に基づいた詳しい印象が記憶に残ります。
 その記憶に残っていることだけを基に、目の前にいない人のことでも思い出したり、昨日のことでも何年も前のことでも話したりするようにもなります。
 基本的には、経験相応のことが記憶に残り、相応の識別や思考や理解や予想が可能になり、相応の動作や言動や行動をし、相応の結果になります。なので、そういう事実関係や因果関係や法則に基づいた考え方をするようになります。

 でも、記憶に情報が多くなるほど、とりあえず記憶にあることを基に類推や推理や想像や予想などもするようになります。

 事実か否かを確かめられないことも多く、そんな場合は、記憶にあることを基に類推し想像し予想することが当たり前になります。

 記憶に情報が多くなるほど、それを基にした類推や想像や予想なども容易になり、的中するようにもなります。

 結局、事実か否かなどを一々観察したり確かめたり試したりはしないで、記憶にあることを基に類推や推理や想像や予想などをし、判断や決断までもするようになります。

 しかも、記憶にあることを基にした類推や推理や想像や予想に過ぎないことを自覚できなくなり、それを基にした判断や決断であることにも疑問を抱かなくなる。

 当然に、的外れだったりする。と、慌てる。

 結局、確かめた事実ではなく、想像に過ぎなかったからこそ的外れだったことが明らかになったりします。

 今は、「先入観」と言う3文字だけで、その意味に関することが思い浮かび、相応の識別や、自分の経験談を基に説明することもできます。
 でも、「先入観があったからだ」と気づいたときには、「先入観」と言う言葉は知っていましたが、具体的な意味は知りませんでした。
 むしろ、自分が経験していることが、その意味に相当することであることに気づき、「これのことを先入観というのだ」と思い、事実関係を整理して確認したことによって具体的に意味を知り始めました。

 また、気づけること自体が、すでに考えただけで分かるような状態であったりするからだと考えられます。
 知能が備わっていて、経験し、学習し、理解できるようになり、相応の行動をするようになり、日常的に識別力や思考力や理解力などは磨かれているからこそ、理解しそびれていたことに気づくこともできる。
 客観視も可能な高度な能力が、もともと備わっているからであることは、言うまでもありません。
 先入観とはどういうことかを具体的に理解するほど、自分が先入観を抱いていないかとか、先入観に振り回されていないか、などといったことを検証することも容易になります。

 むしろ、確かめないだけで、備わっている脳力の高度な面が発揮されない。記憶にあることを基にした類推や想像を安易に頼ると、事実とは違うことを事実だと勘違いしやすく、確かめることを怠るほど思い込みやすい。つまり、知能を誤用しているようなものであり、知能の弱点に陥る。
 想像上の勘違いや思い込みも固定化してゆくだけに、気づくのが遅れると絶望や後悔が大変なショックだったりします。事後に、知能の高度な面が発揮されることになるからに他なりません。

 本来、失敗した際に事実関係や理由などを理解していれば、同じ失敗は繰り返さずに済むし、知能も発揮されます。良かれ悪しかれ、多くの事実や理由を基に確信は増してゆくし、それは成功に通じます。
 
 
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kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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