そもそも、生理面は自律して機能している。
 それは、直に経験し続けている自分自身の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 備わっている知能で、感じ意識し識別し思考し、経験し学習し理解できるようになり、相応の振る舞いをし、相応の結果になる。
 そこまでは誰でも共通だが、経験や学習や理解の内容しだいで人生の理由は変わる。
 知らないことは想像もし、それゆえに勘違いもし思い込みもし、他に目を奪われもするし心まで奪われもし、肝心な自分を見失いさえする。
 以上のうちの、誰でも直に経験し続けていて共通することや普遍的なことが、当ブログのテーマです。
はじめに 更新2013/01/21
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「悟り」とは 2016/12/27
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「悟り」とは・追記


「具体的なことは知らなかった。しかも、確かめずに、想像を頼っていた。つまり、具体的な判断ができないからこそ想像したに過ぎず、具体的な根拠も理由も無い想像に過ぎない。だからこそ、的外れな勘違いもしやすく、思い込みやすく、先入観として抱いてしまいやすい。」この部分がとても解り易かったです。


 それは、makoさんは、すでに悟っている証です。
 ご自身が経験していることを基に理解(悟り)を深め続ければ、やがては独自に悟りであることを納得することもできるでしょう。
 また、理解したことは記憶内にも知識として形成されるので、何時でも自覚できるようになり、理解を深めるほど説明も容易になり、理解した証にもなるはずです。

 もともと、日常会話でも、知らない部分があるだけでも滞り、その部分の確認ができると続けて展開できます。
 また、根拠も理由も無いとか辻褄が合わないと納得できませんが、根拠も理由もあって辻褄が合っていると納得でき、むしろ否定し難くなります。
 そういう識別力や理解力や予想力などの情報処理能力を日常で発揮していたからこそ、根拠も理由も無いことに気づくこともできたのでしょう。

 能力を発揮していたとなると、なぜもっと早く気づけなかったのか、どうして未理解だったのか、そんなことが惜しまれ悔やまれるでしょう。
 その理由も、記憶に残っているはずだし分かるようにもなるはずです。
 
 
 本来は

 生存上の基礎や基本的なことは、誕生後に経験し学習したことを以っては変えようが無いし、普遍的で、誰でも共通です。

 言葉を憶える以前から、誰もが生存上必要なことは直に経験し、相応の学習をして二足歩行ができるようになり、その後に言葉を憶えます。
 つまり、すでに物事は存在していて、経験も学習もし、相応の印象も記憶に残っている。でも、物事に相応する言葉を知っていることしか、言葉では伝えられない。だから、盛んに言葉を憶えようとします。

 二足歩行や会話などの基本的なことは熟練することも、相応の能力が備わっていることも、実際に発揮されることによって実証されます。
 ですが、すでに存在していることにしても実証されていることにしても、確認や検証をしないうちは具体的なことは未理解だし、確認し事実関係や理由や因果関係などを整理し検証した場合は具体的なことを理解できます。

 経験でき、相応の情報が記憶に残り、その記憶に残ったことを基に識別や思考や予想なども可能になり、相応の行動も可能で、相応の結果になります。
 そうなんだということも、相応の行程を経た場合は理解でき、理解すると相応の知識が記憶に残り、その知識を基にした識別や思考や予想なども可能になり、相応の行動も可能になり、相応の結果にすることも可能になります。

 ただし、必ずしも理解するとは限らないことになります。
 むしろ、実際に分かり合えることは限られていて、誰にも共通なことでも、誰もが理解しているとは限らないです。
 当然に、相応の知識は無いので、相応の識別や思考や予想もできないし、そういう行動もできないし、そういう結果にもできない。
 
 
 現に

 会話では、相手が話したことを、自分の記憶にあることを基に識別し理解し予想し、相応のことを文章化して応答しています。だからこそ、過去のことでも話せます。つまり、頭の中で行われる識別や解析や予想などの情報処理も熟練したからこそ、会話も二足歩行も熟練したことになります。
 しかも、その識別や解析や予想などは、まさに本人が考えたことそのものです。それが、正しいか否かは、実際にできるか、実際にそういう結果になるか、などで否応なく確認されます。
 そうであることも、当然に理解可能です。ですが、誰もが理解するとは限りません。

「想像に過ぎないだろ」とか「嘘だ」とか「わざとやっただろ」などと言うようになると、その意味に相当することも概要は分かっていることになります。
 つまり、その事実関係を確認し整理するだけで、大変な欠陥があることも理解でき、相応の知識も得られる状態にはあることになります。が、その事実関係を確認するとは限らず、誰もが理解するとも限りません。

 日常会話でも、知らない部分があるだけで滞ります。その部分の確認ができると、続けて展開できます。
 会話上でも、根拠も理由も無いとか辻褄が合わないと納得できませんが、根拠も理由もあって辻褄が合っていると納得でき、むしろ否定し難くなります。
 よって、その理由なども、確認し整理すれば具体的に理解できます。

 自分の思考が中枢になっている因果関係なども、事実関係や理由などを確認し整理すれば具体的に理解でき、相応の知識が記憶に残り、相応のことは自分で把握でき自分で管理できるようになります。よって、それが精神的な自立なんだと自覚できます。
 また、経験し学習し熟練し理解し精神的に自立するまでの具体的な知識を得ると、それを基に、そういうことを知らずに経験し学習する子供の保護養育ができ、相応の準備も整ったことになります。
 そうであることも、いつでも単独で確認でき、お金も学歴も資格も無くても理解できるわけですが、理解するとは限らない。(この普遍的で共通する本来のことを理解することが、私見「悟り」の本体です)
 
 
 未理解な理由は

 そもそも、経験し学習し理解することだけに、その内容には個人差が生じます。
 学習して実用できるようになると用が足りるので、それができるようになった理由をわざわざ理解する必要は感じなかったりします。
 しかも、盛んに学習し理由や因果関係も理解できるようになる時期に、学校に行き、他者が用意したことを半ば強いられ宿題までやらされます。つまり、本来は、生存上、必要なことは直に経験し、必然的に相応の学習をするのに、それとは関係のないことを憶えさせられ競争までさせられます。
 当然に、反抗的な要素も加わります。
 好きなものを食べ、嫌いなものは食べない。見たいものには集中するが、見たくないものからは視線を外す。聞きたいことは聞くが、聞きたくないことには集中できない。思い出したいことは思い出し、思い出したくないことは思い出すまいとする。考えたいことは考え、考えたくないことは考えない。憶えたいことは情報収集も練習もするが、無関心なものもある。
 当然に、自分の気持ちや考えていることは知られたくなかったりもします。となると、自分が考えていることである想像や情報処理に関することを理解しそびれたとしても不思議ではなくなります。
 テレビで放送されることも、個人的には事実か否かを確かめようがない。つまり、ニュースや報道番組なんだからという間接的な信頼性を基に、本当なのだと思う。
 ドラマや映画は、大金を投じて、NGを繰り返し、編集し、CGなども駆使して、いかにも本当らしく創ったものです。そういうことが分かっていても、見るとなるとストーリーなどを肯定しながら見るしかない。つまり、事実確認をしないで、想像し思い込む練習をしているようなものです。
 就職すると、経営上層部の考えに基づいたことをやるしかない。組織化は理想的なことだと考えられますが、精神的に自立していない場合は翻弄されているような状態になりかねません。
 経験や学習の内容に左右されるだけに好みや価値観は千差万別なり、友達は限られ、親友は更に限られます。それでも、人間関係を避けては生きられないので、妥協や折り合いは半ば必須です。つまり、肝心な自分の考えを曲げたり自分の脳力を抑圧したりしがちです。
 結局、小学生の頃には、想像の欠陥も具体的に理解することもできたはずなのに、理解しそびれると、いつのまにか想像を頼りがちになり、慣れてしまう。
 それどころか、他人がどう思うかまで想像し、相応のことをするようになる。
「皆、そうしている」と言い、事実を後付するようなことをしてまでも、そうだと思い込もうとする。
 しかも、そういうことに満足してしまったりもします。
 となると、本来の自分をすっかり見失い、想像どころか、現実離れした仮想や幻想を基に彷徨っているようなものです。
 一般動物たちにも個々に知能が備わっていて、言葉を話さないだけに、個々が独自に判断して行動していることになります。その頂点に位置するのが人であり高度な理解力があるわけですが、肝心な自分のことを未理解だと誰にも共通することも未理解なので、主体性や独自性は皆無に近い状態になると考えられます。
 特に、自分が考えて行っている情報処理に関することは、何よりも詳しくても不思議ではない。むしろ、それを未理解だと、とんでもないことになりかねない。が、そういう状態に至っている。しかも、気づけず、むしろ平気だったりします。(そういう状態が、私見「悟り」の前提になります)
 
 
 が、気づいた。

 ということは、本来の識別力や理解力や予想力などの情報処理能力が健在だったか復活したことを物語っています。曲げて抑圧気味で未使用に近かった脳力の最も優れた面を、発揮しはじめたともいえます。つまり、理解しそびれたがゆえに見失いかけていた自分に、気づいたことになります。
 でも、そういうことも、気づいた当初は未理解です。想像や思い込みに関する具体的な知識も無かったために迷っていたわけですから。
 つまり、高度な脳力を発揮できるようになったにもかかわらず、想像に関することも未理解だったとなると、肝心な自分に関する知識は、小学生レベルだったことに気づくはずです。「想像に過ぎないだろ」などと言うようになった頃には、想像に関する具体的なことを半ば分かっていたはずですから。いわゆる、アダルトチルドレンを体験するはずです。でも、純真に近い心を取り戻したことを意味します。しかも、識別力や理解力など自体はすでに成熟していて発揮できているからこそです。ですが、そうであることを未理解だった(相応の知識が無かった)ことに気づいたのだと言えます。

 もし気づくのが遅れた場合は
 つまり、想像を頼ることに熟練してしまっていて、そうであることも未理解な場合は、そうであることを把握できないし自覚できないし自制できないわけですから、それではとんでもないことになるんだということを体験することになります。
 そうなってからでも、その事実関係を捉えることができるなら、本来の自分を取り戻すことも可能だといえます。
 この場合も、アダルトチルドレン状態まで戻ることになります。

 更に気づくのが遅れて、情報処理能力が老化し始めている場合は、手遅れかもしれません。

 事実関係を認めること自体が到底できないほど間違った状態に至っている場合も、十分にありえることになります。

 いわば、せっかく備わっている知能の使い方を未理解なうちに、間違った使い方を学習してしまったと考えることもできます。
 もちろん、ほとんどの過ちは、具体的なことを知らないがゆえに、想像し勘違いしたことによる過失に該当します。もともとは悪意に因ることではない。
 となると、話しは最初に戻りますが、本来、理解すべき知識を得ることは、半ば必然的になります。
 すでに発揮できている能力に関することを今更のように理解することになるわけですが、自分が考えて行っている情報処理が中枢になっていることは理解も容易なはずです。すでに二足歩行や日常会話は熟練し能力を発揮できているが、その具体的なことを理解できていなかった(相応の知識が無かった)だけですから。
 遅れ馳せながら、小学生の頃から思春期までには理解できたであろうことを、今更のように理解することになります。
 でも、すでに発揮できている能力に関することを理解できれば、安易に自分の考えを曲げたり抑圧することは自制するようになり、未理解で未発揮だった最も優れた面が発揮されてゆきます。
 結局、大人の理解を得られなかった子供の頃の自分の気持ちを、大人になった自分が理解して救うような工程を経て、精神面の把握や管理が可能になるだけに、これが精神的な自立なのだと自覚できます。
 しかも、きわめて個人的なことを理解するわけですが、生存上の基礎的なことや基本的なことこそ普遍的で共通です。経験や学習などの精神面に関することを理解するほど、子育てにも有効だと自覚できるはずです。
 もちろん、普遍的なことに基づいた考え方や判断が可能になるだけに、根拠も理由も無いことには惑わされにくくなります。
 
 
 要するに、すでに存在することを具体的に理解していないばっかりに、想像をし的外れな勘違いをし思い込んでしまう。
 そういうことも、具体的に理解するだけで、識別できるようになり、相応のことも可能になる。
 言葉で言うと、「知らないのと知っている場合との違い」、「できないのと随意にできる場合との違い」、それだけのことです。
 ですが、実生活上では大差があります。まして、自分の精神面に関することだとなると…… これは経験者のみぞ知るでいいのかな……
 
 
 残念ながら
 せっかく理解しても、気づく前の自分がそうだったように、根拠も理由も無い想像をし勘違いし思い込み先入観(固定観念)を抱いてしまっている他者には通用しません。当然ですよね。
 でも、他人に分かってもらえなくても、自分で分かっているし、自分の考えに基づいたことができるようになります。
 むしろ、好みや価値観は千差万別になるのは、経験や学習上のことに更に想像が加わるからであり、当然なのだと思えるようになり、苦にならなくなります。

 むしろ、私も、こうして書くことで、更に整理がすすみ理解を深めることもできました。
 makoさん、ありがとう。
 
 
 私も、他のことでは迷いが多く、拙文も読み返すたびに書き直さざるをえない始末です。でも、こうして、文章を書く勉強するしかない。そんなわけで、当初の記事をあちこち書き直しました。
 元の文と追記が、本末転倒状態だった。そんなことに気づくのも、すっかり遅れてしまいました。
 ご容赦ください。
 
 
カテゴリ : 把握できていること&用語集

「悟り」とは


 
 すっかり怠け癖がついてしまった私に、格好の刺激。
 makoさん、ありがとう。
 
 
 私は、初めて気づいた時は、なにがなんだか全く分かりませんでした。
「悟り」という言葉は思いつきもしませんでした。
 むしろ、せっかく気づいたことを確認もせず、すっかり習慣化していた想像ばかりし、「異常かもしれない」と新たな勘違いをしはじめました。

 具体的なことを知らないことは、根拠や理由を基にした具体的な否定や肯定(判断)はできない。が、そういうことも、当時は未理解で、すでに確かめなくなっていた。
 具体的な根拠も理由も無く納得もできず、具体的な判断ができないがゆえの想像に過ぎないのだが、その想像を頼りがちで、まさに迷っていた。
 にもかかわらず、想像とはいえ自分が考えたことや判断したことだけに、疑問も抱かず確かめもしなかった。

 具体的なことは知らなかったからこそ、根拠も理由も無い想像をし、「異常かもしれない」と思いはじめた。
 それは想像に過ぎなかったのだが、そのことには気づけなかった。
 想像とはいえ、自分の思考上の結論のようなものだっただけに、その想像上の「異常かもしれない」というイメージも否定も肯定もできない。
 しかも、想像に過ぎないことを自覚できないだけに、「異常かもしれない」と思うと危機感が伴う。
 想像に過ぎなかったのだが、「異常かもしれない」というイメージが、本当のように思えてきた。
 結局、想像に過ぎないことに気づけず、見えない壁に直面しているような葛藤の日々を3年も余儀なくされた。

 3年も葛藤を余儀なくされて、やっと、「考えていることが間違っている」ことに気づき、「自分が考えていることに無理や矛盾があるんだ」ということに気づいた。
 最初に気づいたときとは違い、3年もの葛藤の日々を経験していただけに、それを打破したい打開したいという思いが顕著になった。

 そして、自分が考えていたことをやっと確認しはじめた。
 自分が考えていることは、事実確認をしたわけではないし、単なる想像に過ぎない。
 そんなことが分かっただけで、葛藤が解消した。
 想像に過ぎないんだから、当然に、的外れの確率は高く、的中している保証など無い。むしろ、想像上のことだから、事実ではないし、勘違いや思い込みの類でしかない。
 そこまで明らかになっただけに、その想像や勘違いに因る3年もの葛藤に半ば唖然とした。

 まさに、自分が考えていることを、把握できなかったからだった。
 が、自分が考えていることも、現に把握でき改善もできた。これも、確認したから把握でき理解できたわけであり、以前は単に確認しなかったから未理解だっただけだ。
 思えば、想像や勘違いなどに関することも自分のことに関しても、学校で教えてもらった覚えも無いし、自分でも確かめたことも無かったし理解しようともしなかったし考えたことすら無かった。だから、知らないのが当たり前なのだ。
 結局、肝心な自分のことをいかに知らなかったかが明らかになり、その肝心な自分のことを知らないことこそが真因だったことも分かった。
 未知だった自分のことを知ろうとしたのは、必然的でもあった。
 
 
 そんなことが具体的に分かり始めた当時は、やっと分かる程度で、忘れたり思い出せなかったりしました。
 つまり、以前の、事実確認をせず根拠も理由も乏しい想像をつい頼る癖や、他の思い込みや先入観などもすっかり定着していて、それが優先されてしまう。それを覆すような根拠も理由もあることをやっと理解し始めたから、だったようです。
 なにかを思い浮かべてみるまでもなく日常でも分かることだったのだが、この頃に今更のように記憶にあることをさまざま思い浮かべてみて、記憶がこんなに曖昧なものだったのかと始めて自覚しました。

 それを補うように、記憶よりも確かなメモをし始めた。ところが、自分にとっては未知だったことを次々に知ることもあって、該当する言葉も知らない。知っている言葉は限られていて、言葉で言い表せることも実に限られているんだということも初めて知った。
 自分が分かればいいのだから、記号を創ろうか! そう思った。変えようがない過去のことと、進行中の現在のことと、予想するしかない未来のこと。空間的な、上下、前後、左右。人工的なことと、それ以前の自然なこと。判断上の、認否、可否、是非。主語、てにをは、述語。などを、記号化し始めた。
 が、漢字は、一文字だけでも相応の意味も分かる。知っている漢字を勝手につなげても、相応の意味も分かる。造語とはいえ、その文字で、自分が必要なことを思い出したり意識したり自覚したりすることができれば、個人的には用が足りる。そのほうが手っ取り早い。
 それの造語を多用したことで心の整理も理解も進んでいった。
 理解しそびれていた自分のことを今更のように知るだけに、その都度、いかに無知だったかを思い知らされ、知能の優れた面が未使用に近かったのだと実感した。
(なお、この詳細は、この冬に書き上げる予定です)
 
 
 そういう経緯があったからでしょう……
 今でも個人的な意味やイメージで言葉を使っていることに気づいたりします。それでも、個人的な専門用語のようなものなので、個人的なことを理解する場合には通用します。
 でも、憶えている本人と名前が違っているようなものです。言葉と意味のどちらかが他人と違う場合は、その言葉は他人との間では通用しません。
 伝えたいとか分かってもらいたい場合でも、まず使っている言葉と意味が共通する同士間に限られます。
 そんなわけで、使おうとしている言葉の意味をふと確認すると、今でも自分でも意味の曖昧な言葉を使っていたり意味を具体的に説明できなかったりすることもあります。
 そんなとき、以前はPC内の電子辞典で確認していましたが、近年はほとんどWeb検索をします。

 ブログの記事は、公開されます。
 今回も、まず「悟り」で検索してみました。その結果……
 感づくこと・気がつくこと・知らなかったことを知ること・物事の真の意味を知ること・理解すること、などとあります。
 宗教上での悟りとは、心の迷いが解けて、真理を会得すること。迷妄を去った、真理やその取得。等々。
 以前にも確認したり検索したりしているし、そういう類のことだと私も思っています。また、相応の言葉を、上にもコピペしました。
 でも、検索の結果の意味では、単純なイメージしかできません……
 日常会話でも、部分的に知らないだけでも滞り、その部分を確認することによって展開します。
 肝心な具体的なことが欠けているので、具体的な意味の確認や納得はできないし、まさに悟ることはできませんよね……
 日常会話でも、根拠や理由が欠けていたり辻褄が合わないと納得できないが、根拠や理由があって辻褄が合っていると納得できます。

 感づくこと・気がつくこと・知らなかったことを知ること・物事の真の意味を知ること・理解すること、その程度のことなのだとしたら、それらの言葉で間に合います。
 なのに、「悟り」という言葉を使えば、むしろ混乱を招きかねません。
「悟り」という言葉には、それらとは違う、固有の意味があるはずです。
 伝えるための媒体としては言葉を使うわけですが、相手に伝えたいことや相手に意識してもらいたことは意味に相当する物事のほうです。
 もちろん、悟ってもらえてこそ、悟りの説明としても成立します。
 
 
 とは言ったものの、私見の「悟り」も、一喝で悟ってもらえるような簡単なことではないです。
 いろんなことを理解し納得したことによって、これは「悟り」なんだと思った。そのとき初めて「悟り」と言う言葉が思い浮かんだ、それまでの内容ですから……
 
 
◆あえて簡単に言うと、私見の「悟り」は次のようなことです。

「根拠も理由も納得も無い世界に迷い込んだ人が、そであることに気づき、根拠も理由もあり納得できる本来の世界に移行すること」
 また、次のような言い方もできます。
「自分で考えていることが、確かめた事実なのか・想像に過ぎないのか・勝手な思い込みなのか、そういうことを判断できない状態に陥っている人が、そういう状態に陥っていることに気づき、自分が考えていることを理解して日常で自覚できるようになること」
 これでも簡単すぎて、具体的な意味は不明ですよね。

 少し解説すると次のようになります。
 子供の頃は、悟りの連続なのだと考えられます。
 ところが、記憶に情報が増えるにつれて、それを基にした連想をとりあえずするようになる。これで、錯覚が増える。
 
 結局、その安易な想像を優先するようになる。
 具体的な判断ができないのに、事実確認をせずに、想像を頼りすぎると、根拠も理由も無い世界に迷い込む。具体的な肯定や否定がができないからこそ勘違いし的外れにも気づかずに思い込み根拠も理由も納得も無いのに先入観として定着してしまう。そういう性質上、そういう状態に陥っているんだということにも気づき難くなってゆく。つまり、実際には具体性に欠け納得できず迷っている。しかも、根拠や理由があって納得できる世界を未理解だと、平気でいられます。
 そういう状態こそが、実際には迷いであり、悟りの前提になります。

 でも、本人が具体的なことは未理解でも、誰もが二足歩行や日常会話は熟練します。それは、識別力や思考力や予想力などの情報処理能力が熟練したからでもあり、日常的にも発揮しています。
 つまり、日常会話は、相手が話すことを、自分の記憶にあることを基に情報処理をし文章化して応答するわけであり、相応の識別力や思考力や理解力や予想力を発揮できることになります。
 部分的に知らないことがあるだけでも会話が滞り、その部分を確認してまた展開させます。根拠や理由があって辻褄が合っていると納得できるが、根拠や理由がなかったり辻褄が合っていないと納得はできない。

 よって、具体的な判断ができないがゆえの想像や勘違いや思い込みに過ぎなかったことに、気づきます。
 能力は備わっているだけに、今更のように、事実関係を確認し、具体的な判断ができないがゆえの想像や勘違いや思い込みに過ぎなかったことを具体的に理解し納得できると、根拠も理由も無い想像による勘違いや思い込みが基になっていた葛藤や迷いは解消します。それは、根拠も理由もあると納得もできることを一時体験したことでもあり、根拠や理由があって納得でき迷いが無い世界への移行が容易になります。いわば、意識改革や軌道修正上が、容易になります。

 あとは、確認や検証し、事実関係や理由などを整理し納得できたことは、次々と理解されてゆきます。
 そして、根拠や理由を基に本来はこうだということを理解できます。ここが、私見「悟り」の本体になります。
 そもそも、生存上の基礎や基本的なことや事実などは普遍的な存在です。もともと理解できてこそ当然だったことを理解し、本来の精神状態に戻るだけです。よって、「悟り」であることも納得できます。
 以上の、気づいてから納得するまでの一連のことが、私見の「悟り」です。

 なお、私見では、「自分の情報処理に関することを未理解だったり間違っていたことに気づき、確認し理解し解決すること」に限り「悟り」と言っています。
 
 
◆それは、気づくことで始まります。

 それまで気づけなかったことである「具体的な判断ができないがゆえの想像や勘違いや思い込みに過ぎなかったこと」に気づくことで始まるだけに、気づくことが極めて重要です。
 言葉の意味に相当する物事こそが重要で、その物事が、これを読む側の記憶にあることが重要になるわけですが……
 その気づく部分だけを捉えた場合は、一瞬の出来事だとも言えます。

 たとえば、具体的なことが分からず、納得できず、半信半疑で、躊躇していた。が、「自分の好みや価値判断はどうあれ、相手は好意で良かれと思ってしてくれているんだ」と思っただけで、気持ちが一変した。あのときにも似ています。
 でも、具体的なことは分かっていなかったし、想像だっただけに、それも勘違いに過ぎなかった……

 山中で、「迷った」と思った。一転してパニックに陥りそうになった。あの時とも似ている。
 消防団員だったので、山岳遭難では大勢の人にヘリコプターも加わった捜索を2度経験し、それを思い出した。
 大変なことになる想像をし始めると焦り、肝心な目の前の現実が見えなくなる。が、想像だけに、なにも解決もしない。冷静さが戻った。すると、見覚えのある木の存在などに気づき始めた。
 結局、想像や勘違いや思い込みの類に気を取られたために、目の前のものは見えなくなり、想像や思い込みを基にパニックに陥りそうになったことになる。そんなこと気づいてホッとし、自分で笑っちゃった。そのときとも似ています。

 あることに気を取られるほど、他のことは意識できなくなる。以前は、テレビの気象情報は欠かせなかったが、待ち切れずに他の事を考え始めると、気づいたときには目の前のテレビの気象情報は終わっていたりする。
 もともと生存維持のための知能らしく、生存を脅かしかねない不安・自分では治せない病気になる心配・精神的に異常に陥るかもしれない苦・まったく対処不能な危険、そういうことには気を奪われやすい。相応の、胃に大きな穴が開いたであろうと思うしかないような経験もしている。
 その想像に感情が煽られ、不安が心配に変わり、心配が苦に変わり、苦からパニックに陥る。つまり、想像や勘違いに過ぎなくても、肝心な目の前の現実を意識すらできなくなり、まさに現実離れした想像の世界に迷い込んでしまう。そんな経験もしている。

 つまり、最初は、事実を確認したわけではなく、むしろ具体的な判断ができないからこそ、想像したに過ぎない。そんな想像の内容しだいで、精神状態が一変したりする。
 その、精神状態が一変することだけは、私見の「悟り」に関することに気づいたとき(悟った最初)と同じなのだと思う。
 もちろん、私見の「悟り」に関することに気づいた時、私は「悟り」と言う言葉は思いつきもしませんでした。
 似たようなことは、日常でも経験しているからですよね。しかも、「気づいた」とか「分かった」とか「理解した」と言い、「悟った」とは冗談でしか言いません。
 
 
 文章も説明も長ったらしくなりがちなのは、私は迷いが多いからでしょう。その迷いを、一つ、ここで処理します。
 私見の「悟り」は、私事ですから、もちろん宗教的なことではなく、一般的なことです。
 日常でも、事実を知り、勘違いしていたことに気づき、心の迷いが解けることもあります。
 会話上でも、不明な部分を確認するうちに、具体的なことを理解でき、それまでの勘違いや思い込みや先入観などが払拭され、心の迷いが解消することもあります。
 気まずいことで知られないほうがいいと思っていたことが、意外なことで発覚したが、むしろ分かり合えたりもします。
 私見「悟り」も、そういう類のことであることには違いないです。
 
 
◆気づいたら、確認し、具体的なことを理解することが重要です。

 気づくことの重要さが分かると、迷いの要でもあり迷いそのものでもある、具体的な根拠も理由も無くても可能な「想像」に関することを理解したほうが、私見「悟り」も理解しやすいでしょう。

 具体的なことを知らないことは、判断の基準になる知識が無いことであり、具体的な否定も肯定も(判断)できない。
 それでも想像は容易だが、根拠も理由も乏しい想像に過ぎないので失敗したり損をしたり大変なことにもなりかねない。
 なので、必要なら、確認します。確認すれば、具体的なことを知り理解し納得することもでき、適切な判断も可能になります。

 つまり、確認せずに、頭の中だけでできる想像を頼った場合は、具体的な判断ができないからこそ想像したに過ぎない。それは、根拠や理由が無いに等しいだけに、的中の確率も低い。だからこそ、的外れな勘違いをしやすい。事実確認をしないから覆されることもないので、むしろ思い込みやすく、先入観(固定観念)として定着したりもする。
 そういうことも、確認すればこそ具体的に理解することができます。

 そういうことを理解できれば、根拠も理由も無い想像上のことでしかないことが明らかになり、その想像ゆえの葛藤や迷いが解消します。それが、理解できた証にもなります。
 また、理解したことは記憶にも知識として残るので、随時自覚でき、相応のことも可能になります。
 よって、根拠も理由もあることは納得できる、ということを体験したことになり、確かめることを重視するようになり、根拠も理由もある世界への移行が容易になるはずです。
 
 
 霜が降り、紅葉が始まると、キノコが次々に生える。
 農繁期中だったのだが、今年も行ってみた。
 現地は、辺りの草が踏みつけられていた。が、まだ生えていない。

 かつては、まだ生えていないだろうと想像しただけで、出かけなかった。
 ところが、もう生えているだろうと想像して出かけると、採られてしまった後で、辺り一面に草が踏みつけられていた。状況から察すると、まだ生えていないだろうと想像して来なかった頃に、もう生えていたことになる。
 つまり、当時は、行く前の想像の内容しだいで、行動するか否かが決まっていた。が、それは、あくまでも想像に基づいたことでしかない。実際に生えているか否かは、現地に行って確認してこそ分かる。
 そんなことが分かって、そろそろ生える頃だと思うと、確かめに行くようになった。そうしたことで、ベテランたちは、もともと早めに確認に来ていたことも分かった。
 生え始めてから1週間もすると傷み始めるキノコの場合は、1週間以内に繰り返し来れば採り逃すことは無い。その周期を適期以内にすれば、適期に採れる。ただし、誰かに先を越されるか否かは別問題だ。そんなことも分かった。
 成果があると、納得も格別だ。しかも、その成果を基に、霜が降り、紅葉が始まると、このキノコが生えることも分かったのだった。

 今年は記録的な雨続きの農繁期だったが、数日後、また行ってみた。先日よりも辺り一面に草が踏みつけられているが、キノコを採った痕跡も無い。どうやら、夏の好天続きの所為で生えないのかもしれない、と想像して今年は諦めた。
 少なくとも事実確認をした場合は、納得して諦めることもできる。
 が、遅れて生えるかもしれない。そんな想像をすると、その確認をするまで迷うことになる。
 まして、まったく事実確認をしていないで、想像だけで諦めると、迷いが延々と続く。
 しかも、そういうことにも慣れてしまう。当然に、迷いもしなくなる。かつては、そうだった。

 つまり、精神面が一変するほどではなくても、情報を得ることによって、想像などの情報処理も変わり行動や結果も変わる。
 類例ですが、これらも、相応のことを悟ったことによって、変化したのだと考えています。ただし、想像という情報処理だけにピントを合わせた類例です。
 
 
 宝くじやギャンブル的なことも、当たるか当たらないかは不確かです。が、当たれば得をする。単純に当たることを想像して期待までした頃は、宝くじも買った。
 が、当たらない。損をする。しかも、一向に当たらない。
 ギャンブル好きな人で、損ばかりだと格好悪いので言及されることを嫌い、当たれば損した分を取り戻せるし自慢できるし得だなどと話す人は、依存症気味な感じさえします。
 宝くじも、当たるかもしれないと期待までしたが、それは想像上のことに過ぎず、想像に過ぎないんだから当たるとは限らない。宝くじも実際の当選確率的も、当たりは極めて稀で、当たらないほうこそが当たり前だ。
 そんなことを考えるようになったら、買うのを迷いはじめた。
 お金を出したのに、その収支報告も無いし、あったとしても確かめようが無い。想像だけに、天下りの懐にも入るのかもしれない、とさえ思う。当選した人は、公共事業には寄付するとは思えない。つまり、当たらなかった人たちが、その当選金だけではなく運営費や公共事業に使う分までも出していることになる。一方が損して、その分を他方で得したのなら、強盗や泥棒と大差ない。好みや価値判断は個人毎に違うし、興味が無い人も相当いるはずだ。
 そう思うようになったら、買う気は無くなった。

 つまり、五感で確かめた事実を基にしたわけではなく、自分の頭の中だけでおこなった情報処理しだいでも、気づいたり、具体的なことを理解したりし、相応に精神状態も変化して、買ったり買うのを迷ったり買わなくなったりし行動までも変化した。
 その変化も、いわば悟りに因るのだと、私は思っています。ただし、これも想像という情報処理だけにピントを合わせた類例です。
 
 
 具体的な判断ができないから想像するのとは違い、気づいたことが事実の場合は、内容しだいでは大変なショックだったり、失神したりも……
 
 
 長文になるほど、自分でも迷いそうです。
 慣れれてしまうと、気づけなくなり、平気にもなりがちです。
 ここで、もう一つ、私の迷いを処理します。
 言うまでも無いことですが、以下に述べる私見「悟り」に関しては、あくまでも私の個人的な経験を基に私が個人的に理解した私見に過ぎません。
 つまり、公認されたことであろうはずがないです。
 そうであることを、ここに明記しておきます。
 
 
◆確認すると、具体的なことを理解でき、納得もできます。

 具体的なことは知らなかった。しかも、確かめずに、想像を頼ていた。それは、具体的な判断ができないこそ想像したに過ぎず、具体的な根拠も理由も無い想像に過ぎないからこそ、的外れな勘違いもしやすく思い込みやすく先入観として抱いてしまいやすい。

 これが当初の文でしたが、更に詳しく書いてみました。
 
 
 例えば、実物も、その名前も、知っている場合……
 その実物が目の前にい無い状態でも、その名前を言われただけで、その名前に該当する記憶内の印象を思い出したり意識することがで、よって話題にすることもできます。

 五感では捉えることができない事実関係や因果関係や理由なども、理解していて、その名称(名詞)も知っている場合は、その名称(名詞)を言われただけで理解していることも思い出したり話題にすることできます。
 が、未理解なことや相応の名称(名詞)を知らない場合は、具体的な否定や肯定などの判断もできません。

 でも、想像なら、し放題です。事実確認も要らないし、具体的な根拠も理由も無くてもできるし、それでも決断もでき、それに基づいた行動もできます。
 目標や目的を基に、行動することに似ています。
 が、あくまでも似ているだけです。
 想像の場合は、事実確認もせず、具体的な否定や肯定などの判断ができないからこそ、想像をしたに過ぎない。つまり、確認した事実ではなく、むしろ根拠や理由が不十分であり、的外れの確率が高い。
 そんな情報を基に、行動まですると、失敗したり損をしたりします。

 そういうものだということも、その経験を基に因果関係や理由などを確認し整理すれば具体的に理解できます。
 理解したことは記憶にも残ります。なので、事実確認をしていない・よって根拠も理由も無い想像に過ぎない・だから的外れなことが多い・確認が大事だ、といったことを何時でも自覚できるようになります。
 つまり、実物も、その名前も、知っている場合、その実物が目の前にい無い状態で、その名前を言われても、その名前に該当する記憶にある印象を意識することができるのと同じです。

 自覚できればこそ、相応の思考や自制も可能になり、確認を重視するようにもなるし、確認するようにもなります(想像に関することは、個人的なことだけに「意識」ではなく「自覚」と言う言葉に変えました)。
 つまり、実物が目の前に無くても、記憶にあることなら意識でき、話題にできるのと同じです。

 そうであることも、確認すればこそ具体的に理解することもできます。が、確認しないと未理解です。
 
 
 まして、見知られれば困るなどと想像し、否認すれば、事実として認めまいとしているわけであり、確認とは逆なので、当然に具体的なことは理解できません。
 勘違いや思い込みに過ぎなくても、プライドなどが優先すると不都合なことは認め難い。認め難い要素が加わるほど、理解し難くなり、覆し難くなってゆくことになります。
 未理解なことは、自覚も困難なので、想像を自制することもできないし、確認を重視し難いし、確認するようにもならない。
 結局、想像を頼り、的外れかどうかも確かめない。そうであることをも自覚できなければ、的外れだったとしても気づき難い。

 想像に過ぎなくても、自分が考えて判断までした。となると、その自分の考えや判断には、疑問を抱かないし確認もしない。
 むしろ、自分で考えて判断したことだけに、正しいような気にさえなる。つまり、想像上の的外れなことでも、的を得ているような錯覚や勘違いをしがちです。
 それを覆す要素が無ければ、的外れに気づかないどころか事実だと思い込みやすい。思い込むほど、疑問を抱かなくなり、確かめもしなくなる。
 
 
 かつての私は、自分が考えて情報処理をしていることに関することも知らなかったし、それを基にした因果関係なども具体的なことはほとんど知らなかった。そういう状態にあることをすら、自覚できなかった。
 つまり、確かめずに、頭の中だけでの想像の世界に迷い込んでいることも自覚できず、理由も根拠も無い勘違いや思い込みの世界をさ迷っていることも、自覚できなくなっていた。
 むしろ、根拠も理由も無い想像上で、必要なことは十分に知っているような気さえしていた。精神的にもすっかり大人になったのだとさえ思い込んでいた。

 想像に過ぎなくても、生存が脅かされそうな内容だと、気を奪われやすく、想像だけの世界に陥りがちです。つまり、想像で、自ら不安や心配や苦などの感情を煽ってしまい、肝心な目の前の現実を意識できなくなります。よって、まさに現実離れした想像で、パニックに陥ります。
 
 
 が、想像に過ぎないのに、不本意な状態に陥る。だから、気づく。
 想像上の的外れな勘違いや根拠も理由も無い思い込みだけに、事実は違うからだったりもする。
 識別力や理解力や予想力などの情報処理能力自体は、日常的に磨かれるからでもある。
 結局、事実確認をしたわけでもなく、想像に過ぎなかったことや、根拠も理由も無い想像ゆえの的外れな勘違いや思い込みだったことに気づき、実は肝心なことを知らなかったことが明らかになる。
 つまり、悟る。これが、私見「悟り」の初めです。

 ですが、せっかく気づいたのに、すでに27歳だった私は、つい想像を頼り、異常ではないかと新たな勘違いをした。
 否認ぎみだったことは否めず、むしろ強情を張りがちでもあった。
 つまり、せっかく悟ったのだが、当時は、そうだとは知らなかった。むしろ、確認しないで想像を頼ることが、すっかり習慣になっていた。しかも、他の勘違いや思い込みや先入観もあった。だからこそ、つい想像を頼り、新たな勘違いをした。
 それでは、せっかく悟っても、悟ったんだということを具体的に理解するには至らない。
 それどころか、せっかく悟ったのに、確認せずに、想像を頼り勘違いし背き続けたからこそ葛藤を余儀なくされた。それでも、新たな勘違いをしていることに気づけなかった。
 むしろ、死んだほうがましだと思った。せっかく悟ったのに、台無しにしてしまうところだった。
 こんな悟れないことは、述べるだけでも、悟りから逸脱してしまう……

 3年も葛藤を余儀なくされ、やっと「自分の考えは間違っている。自分の考えには無理や矛盾がある」ということに気づいた(3年もの勘違いを経て改めて悟った)。
 葛藤を余儀なくされて、考えに無理や矛盾があることに気づいただけに、確認が始まった。そして、自分が経験していた想像や勘違いや思い込みの、事実関係を整理した。「事実か否かを確かめたわけではない。つまり、想像に過ぎない」などと、前述したことの基本的なことを理解でき、葛藤が解消した。そもそも、根拠も理由も無い想像ゆえの勘違いや思い込みに過ぎなかったことが明らかになっただけに、半ば唖然とした。

 その事実関係から、3年前に、せっかく気づいたのに、新たな勘違いをしたばっかりに、その無理矛盾ゆえに葛藤を余儀なくされていたことも分かった。
 もちろん、本来は、3年前に気づいた段階で、確かめて理解することが可能だったことも分かった。そもそも、根拠も理由も無い想像ゆえの勘違いや思い込みに過ぎなかったのだから、そうであることを理解するだけで、新たな勘違いをすることも避けられた。
 つまり、そもそも気づけた(最初に悟った)ことが重要だったことや、それによって確認が可能になり、具体的な理解も可能になるんだということを理解できた(少し具体的に悟った)。
 でも、この段階でも、脳裏には、まだ「悟り」と言う言葉は登場しませんでした。

 理解したことは記憶に残り、相当することは何時でも自覚できるようになる。よって、確認しないで安易に想像することを、自制できる。
 想像優先を自制できるようになると、根拠も理由も無い勘違いや思い込みや先入観や、それを基にした無理や矛盾だらけの考えも衰えてゆく。
 確認を優先するようになると、具体的な根拠や理由があって納得した具体的なことを理解することが増える。詳しくもなるし、根拠も理由も無い迷いは薄れてゆく。おのずから、そういう傾向が強くなる。
 結果的に、事実確認をしない根拠も理由も無い想像をして迷い込んだ勘違いや思い込みや先入観の世界から、確認し根拠も理由もあり納得できる世界へと、意識改革も軌道修正もされた。

 もともと、会話中でも、不明な部分があると、それを確認しないと進展できなかったりする。根拠や理由が無かったり辻褄が合っていないと納得できないし、根拠も理由もあって辻褄も合っていると否定し難いし納得する。そんなことも分かり、的外れな勘違いや根拠や理由が無い思い込みに気づいたのも、不思議ではなくなる。
 識別力や思考力や理解力や予想力なども、日常的に発揮され磨かれ続けていると言っても過言ではない。だからこそ、根拠も理由も無い思い込みに気づくこともできたのだった。
 つまり、もともとそうだったにもかかわらず、確かめずに、想像を頼ったために、未確認だった。だから、そうだったことも自覚できなかっただけだ。そんなことも、経験したことを確認するだけで明らかになり、具体的に理解することもでき、自覚できるようにもなった。

(もともとそうしていたことが次々に気づき明らかになってゆくのですが、あくまでも本人が経験した事実を基に本人が理解して本人が納得することだけに、省略します。なお、共通することに関しては、別文を予定しております)

 具体的なことはあまりにも知らなかったからこそ、必要なことは十分に知っているような気がしていただけだった。
 現に、自分が考えていることに関することをさえ、未理解だった。
 自分自身が生きていることを成り立たせている内臓は見たことも無いし、生命生理に関しても未理解だ。
 個人的に未知なことは、まさに宇宙規模で存在する。
 知らなかったことを知り、未理解だったことを具体的に理解してゆくと、未知の世界こそが想像も及ばないほど広大であることも分かる。
 が、わずか数キログラムの頭脳だけに、そもそも憶えられることは限られている。
 当然に、理解し尽くせない(悟り尽くせない)。
 それ以上の悟りは無い。ということで、あえて「悟り」と言うようになったのか……
 そう思ったとき、私も初めて「悟り」と言う言葉を思いつきました。
 そもそも、誕生後に経験し学習し理解したことを以っては、健康管理もままならず、老化は止められず、誰もが死を余儀なくされる。
 でも、宗教とはほとんど縁が無かった私は、宗教の匂いがする「悟り」と言う言葉には馴染めなかったことも事実でした。

 ということで、気づいたことから始まり、理解を深め、一連のことが悟りだったんだということを理解して納得する。そこまでの一連のことを以って、私見「悟り」は完結です。
 
 
 ですが、知らなかったことを憶えることができ、未理解だったことを理解できます。その対照となる未知なことは、肝心な自身のこともそうであり、まさに宇宙規模で存在することになります。だから、理解し尽くせないわけですが、むしろ理解は際限なく広げ深め続けることが可能だという意味でもあります。
 でも、経験や学習の限界も明らかです。となると、むしろ、安らかに死に臨めるような生き方も模索する道もあり、すでにあることを基にすれば理解できる可能性もあります。

 悟るどころか、迷い始めた方には、ごめんなさい。
 
 

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里山の晩秋

 
「そろそろ気持ちも切り替えなきゃ」と思っていたら、昨日、vanilla さんから格好のコメントをいただき、早速、決心しました。
 しかも、今日は、小用があり、朝から雨、というわけで悪戦苦闘し……

 MyHPに【Photo Gallery 里山の晩秋】を公開しました。

 最新記事の上の看板内の次のリンク先にあります。
 My HP 天国への道程/Photo Gallery kisuke(喜助)公開中


 背景画自動切換え(5秒間隔)で表示中です。
 里山の晩秋の画像の大きさは、1440x810です。
 大画面でご覧のかた、ごめんなさい。

 また、多彩なヤマアジサイと同様に、数年前に撮った画像です。
 外側から眺めた風景としてではなく、紅葉した山の懐の中を散策した際に見えた光景です。

 今回もファイルサイズをかなり縮小したのですが、残念ながら切替は目障りです。
 スライドショーにしたいと思っているのですが、難しい。しかも、時間が無い……
 個人的なことばっかりな上に、素人です。あしからず。
 
 
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今日も頑張らなきゃ!

 

◆当ブログへの10月のアクセス数

 ユニークアクセス合計 1,077   トータルアクセス合計 1,541

 たくさんのご来訪、ありがとうございます。
 おかげさまで、閉鎖せずに、どうにか継続できそうです。



 それにしても、早いですね。暑い夏が長く続いたので、終わった途端に忙しくなり、月日を気にする間もなく遂に11月に突入です。
 
 
 当地は、現在、紅葉の真っ盛りです。
 今年は、気温の下がり具合が良かったからか、見事な紅葉です。
 例年の紅葉のピーク時には、山頂が枯れ木になるんですが、そういうことも無く、全面的に錦です。
 でも、山村だけに、わざわざ画像を公開するほどの景色ではないです。

 もちろん、農繁期もピークです。
 以前に撮った紅葉の写真もたくさんあるのですが、それを公開する時間も残念ながら無いです。
「秋の日は釣瓶落とし」ですから。
 近年は初雪も遅く、今年も雪の気配はまだ無いんですが、今年の秋は秋晴れは少なくて雨が多い。

 でも、今朝は、まだ降っていない。
 農繁期も、もう少しだ。
 さて、今日も頑張らなきゃ!
 
 
応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は千差万別ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
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よろしくお願いします。

こちらからのお礼の応援アクセスは、
冬期間は随時&随意に致します。
プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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