そもそも、生理面は自律して機能している。
 それは、直に経験し続けている自分自身の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 備わっている知能で、感じ意識し識別し思考し、経験し学習し理解できるようになり、相応の振る舞いをし、相応の結果になる。
 そこまでは誰でも共通だが、経験や学習や理解の内容しだいで人生の理由は変わる。
 知らないことは想像もし、それゆえに勘違いもし思い込みもし、他に目を奪われもするし心まで奪われもし、肝心な自分を見失いさえする。
 以上のうちの、誰でも直に経験し続けていて共通することや普遍的なことが、当ブログのテーマです。
はじめに 更新2013/01/21
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残念

 
 カウンター内で受け付けをしてくれた女性。明らかに不機嫌な表情をしている。

 家で……、この職場で……、何かあった……
 彼女の頭の中に解決していない問題がある……
 つまり、彼女が個人的には解決できないこと……
 彼女は受け入れ難いことでもあるのだ……

 俺は、立ち入る立場にはない。
 彼女は、望んでいない。
 彼女が困っているのを、見たにもかかわらず、見なかった振りしているんじゃない。


 一般的に……

 自分と自分以外とも、大別できる。
 自分は一個人であり、自分以外は圧倒的多数でもある。
 経験や学習上で形成されると考えられ、その性質上、好みや価値観は個人毎に千差万別になる。
 よって、個人が、圧倒的多数と上手く関係することは、そもそも不可能だ。

 近くの町まで行っただけで、自分にとっては未知な人が圧倒的だ。
 つまり、自分以外の人の内の圧倒的多数が、自分にとっては未知な人なのだ。

 当集落内の人は、殆どが知人のつもりでいた。
 ところが、一昨年、初めて選挙の立会人を経験し、80%越えの記録的な高投票率だったのだが……
 その投票所に来た人の三分の一近くが、自分は知らない人だった。こっちの方が驚きだった。

 知人の中でも、友達は更に限られる。
 理解し合える親友となると、更に限られる。
 かつて、親友とも縁を断たせてもらったことで、自分を取り戻すことができただけに、遅れ馳せながら自分を育て直すことに的を絞られてしまったが……
 信頼し合える恋人となると、更に限られることになる。
 尊重し合える夫婦になると、お互いに相手は唯一になる。
 つまり、上手くつきあえる相手でさえ、限られている。親密になれる相手は、更に限らることになる。

 最低限、平和であってほしいのが家庭だ。
 が、当集落でも離婚が増えた。
 テレビのニュースも、子供が犠牲者だったりする。
 ということは、家庭内でさえ、無理なことをしていたり、恥ずべきことをしていたり、罪なことまでしていたりすることになる。
 つまり、親密な関係にあると思えた人同士でさえ、実は、上手くやれていなかった、ということになる。
 子供が、当集落でも、年々減少しているのも事実だ。

 ニュースから察して、そうだったのなら、どういう理由で一緒に暮らしていたのだろうと疑問にさえ思ったりする。

 情報端末は目覚ましい発展を遂げたが、信頼し合い尊重し合うために使われていることは少ないということなのだろう……

 普及した電話は、表情や状況を知られずに情報を伝達できるだけに、詐欺に好都合な情報伝達ツールであることも否めない。

 テレビは一方的に情報を発信し、それを、視聴料を払い、個人的に買った私物で見るわけだが……
 公的電波は私用を規制しているはずなのに、画面の向こうの人たちが私物化しているとも感じる。


 社会的にも……

 生存上、本来は必要ないことだからこそ、尤もらしく見せかける。
 勘違いや思い込みもあって千差万別になる類のことだからこそ、優れたことであるかのように持て囃し競い争う。
 詐欺まがいのことをして私利私欲を貪っている、と見做すことさえできる。

 子供を惑わして、その親に金銭を出させることを、商売にする。
 生存上は、邪道でしかない。
 どうだと詐欺ではないんだ、とさえ思う。

 自殺や殺人も無くならず、戦争さえ無くならない。
 それどころか、軍事費に莫大な資金が費やされていると言われる。つまり、止めるのではなく、むしろ挑発している。警戒や軍備を煽っている。

 そんな社会の個人は、日常生活さえままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化には為す術が無く、やがて死ぬことは数十年も前から分かっているし知能も備わっているのに死に臨む心の準備は論外だったりする。

 かつての自分も、唯一の個人単位でさえ、平和ではなかった。


 自分だけが無知で愚かなのだと思い、深く落ち込みさえした。
 でも、そうでもなかったことになる。が、いまだからこそ、そう思えるわけだが……
 当時は、すっかり一人前になったと、自分のことを勘違いしていた。つまり、肝心な自分のことをほとんど未理解だった。だから、どんな勘違いをしていたとしても不思議ではなかった。
 そうであることをさえ、当時は知らなかったんだから。

 出稼ぎや日雇いだったが、見習いで初めて就職し、やがて仕事では優遇さえされるようになった。
 が、個人が、精通できることは限られ、巧みにできるようになることも限られていた。
 しかも、人生上では的外れなことだったりもする。

 そうだったことをすら知らなかったからでもあったのだろう、見た目も気にしていた。
 勝手に外見を比較して判断し、勝手に劣等感を抱き、勝手に上辺だけ繕い大人振りもした。
 でも、上辺だけでは、言い訳や騙し欺く類でしかなかった。
 それは、関係し合うこと自体に反していた。
 そんなことすら分かっていなかった。
 まさに上辺だけの騙し合いだった。
 親密になる最低限の条件も知らなかった。
 そんな大事なことを知らないんだということ自体を知らなかった。
 だからこそ、上辺だけ大人振り、肝心なことは知ろうとすらしなくなったのだった。
 なのに、すっかり一人前になったと勘違いし、いつのまにか思い込んでいたのだった。

 見た目や上辺だけに惑わされ、何者かに翻弄されて、まさに自分を見失っていた。そうだったことをさえ知らなかったんだから……

 内情を知らない他人事には、一般的にも立ち入らない。
 立ち入ることは、軽薄なことでしかないからだ。


 もちろん、悪い結果になると予想できることは避けたい。好結果にしたい。
 だからこそ、言わずにいられないことだってある。

 でも、自分でさえ、不都合なことを隠し偽り、上辺だけを繕っていた。当時は、他人に言及される以前から、それを拒否していたようなものだった。

 生存上は的外れなことを、優れたことであるかのように祭り上げて騙し欺いているようなものなのに、すっかり慢心している場合もある。
 だからこそ、言及されることを拒否し、覆されまいとする。
 むしろ、口封じし、暴力的に片づけようとさえする。

 結局、一蹴されもする。受け入れられるとは限らない。むしろ、意に反した結果になる。

 汚い言葉を吐きたくもなる。暴力的に思い知らせたい気がしないでもない。
 が、両成敗される類は、やるに値しない。

 自分の思い通りにならないことは気に入らない奴は、俺だって気に入らない。
 自分が批判視していることを、自分でもやるのには抵抗がある。

 不都合なことを暴力的に片づけてまでも優位に立とうとする傲慢さには、呆れるしかない。

 悪い人になりたくないからじゃない。
 上辺だけ良い人でいたいからなんかでもない。
 誰にも理性があり、無謀には限度があると思うからだ。
 好みや価値観は、個人毎に千差万別だと言っても過言ではない。
 自慢げに振る舞うことをさえ嫌う人だっている。
 競争自体を嫌う人だっている。
 戦争は嫌いだ。


 要は……
 誰でも、記憶にある情報だけを基に会話できるほどの、思考力や理解力を発揮するようになる。
 本人の情報処理上で、納得したり、
納得できなかったりする。
 それゆえだと考えられる。
 もちろん、暴力的に無理矢理片付けようとすると、当然に惨状と化すことは予想できる。
 両成敗されるようなことは、避けようともする。


 結局、納得できないことが多い。
 解決できない、矛盾があったり、無理があったり、条件が満たされていなかったりするからだ。

 だからこそ、妥協や打算や駆け引きや取り引きもするわけだが……
 言い訳もするし、不都合なことは隠し偽り上辺だけを尤もらしく見せかけもするし、足元を見たこともするし、詐欺まがいのこともする。
 納得できないどころか、疑問や不信感がが伴う場合だってある。

 もちろん、相応の思考力や理解力を発揮しているからであり、本人は問題点も分かっている。
 が、解決できない。
 暴力的に無理矢理片付けられるに至ることは避けたい。
 まして、暴力的に片づけることを批判視している自分が、暴力的に片づけるのも矛盾する。


 けれども……
 無理や矛盾などの改善を要する問題が、相手にある場合もあるが、自分にある場合だってある。

 問題が自分にある場合、相手の所為にしているかぎり一向に改善されないし解決しない。

 経験し学習し理解する性質上、個人的には、詳しいことは限られ、曖昧なことが圧倒的に多く、知らないことこそ計り知れない。
 詳しく知らないことだからこそ想像もするし、それゆえに勘違いも多く、思い込むこともある。
 勘違いや思い込みの性質上、そうであることには気づかないのが普通だ。
 そういう経験上、自分の考えに疑問を抱いたり検証したりする方が自然だ。

 問題は自分にあるのに、相手の所為にしていたとなると、大変なことになる。
 問題は自分にあるのかもしれない……、そう思って省みてこそ、自分に問題があったことに気づくこともできる。
 反省し、問題点を捉えようとした場合に限り、自分の問題点は見出せる。
 自分の問題なら改善も容易だ。
 勘違いしている内なら、改善は容易い。


 いうまでもないが、反省している振りだけしている場合は、一向に、問題点を捉えるには至らず、改善するにも至らない。
 上辺だけや見せかけは、他者を意識し他者に対したことであり、しかも言い訳の類でしかない。

 本来は、誰でも、学習でき、上達もできるし、基本動作や日常会話などは熟練して条件反射的な速さで行うようになる。

 不都合なことや不利なことは認めまいとすることも、言い訳も、隠し偽ることも、他人の所為にしがちなことも、巧みさが必要なことだ。
 しかも、繰り返したことほど、上達し、条件反射的にやってしまうほど熟練もする。
 熟練するほど、問題点として捉えることが難しくなる。つまり、改善することも難しくなる。

 そんなことも、自分を省みてこそ分かる。
 そんなことが分かってこそ、他者の考えや問題点を変えようと思うこと自体が、いかに無謀なことかも分かる。
 他者の考えや問題点を変えようと思うこと自体が、他の所為にしがちだからだということも分かる。だから、執着し、反省もし難い。
 相手を逆上させてしまうことも、問題解決を困難にしてしまうことにほかならない。


 いずれにしても、思考力や理解力があるからこそ、納得できなかったり納得したりする。
 記憶に相応のことがあるからこそ、こだわりもする。
 つまり、本人は、解答が分かっている。

 仮に、相手を見下し侮り騙してしまった場合も、記憶に残っているし、自分の内面は分かっているからこそ、省み難くなる。
 自縄自縛のようなことをしてしまった己の愚かさも、認め難い。
 だからこそ、否認し、言い訳をし、強情を張り、逆上し、強引に相手の所為にし、暴力的に片付けようとする。
 でも、自分の内面を如実に説明しているようなものだ。なのに、自分で認めたくない。だから改善できない。

 それでも、他者の考えを変えることは至難だが、自分の考えや問題点を改善することの方が容易だ。

 そもそも、誰もが、乳幼児期に試行錯誤や取捨選択を繰り返したからこそ学習しはじめたわけだし、修正や微調整をしたからこそ上達もしたわけだし、日常的に常用するようになったことは熟練し、相応の能力は発揮し実証済みでもある。

 反省し改善した場合は、それが身につく。相応のことは事前に慎めるようになる。
 自信がつく。自分の得になる。
 信頼関係も回復できる。
 自分の世界に目を向けた場合にこそ、可能性も計り知れない。
 個人単位の平和を確立できてこそ、最期の真の安らぎも確立されるのかもしれない。


 生存上、必要でもないことを、尤もらしく見せかけて惑わし、優れているかのように競い争って心まで奪い、私利私欲を貪る。
 それとは非な世界も存在するんだから。


 誰もが自発的に自分の考えや問題点を改善するようになると、人間関係上の問題は一掃されることになる。
 つまり、他人の所為にする人はいなくなるわけだし、思考力や理解力を尊重し優先するようになる。
 いうまでもなく、暴力で抗議する人もいなくなるわけだし、暴力で対抗する必要も無くなり、軍事力で強引に相手を片付けようとする人がいなくなるわけだから。
 まさに上辺だけ優れているかのように見せかけて脅して私利私欲を貪る悪魔の、下僕たちはいなくなる。

 もちろん、友達間でも通用するはずだ。親友間でも通用し、恋人間でも家族間でも通用するはずだ。


 いうまでもないが、暴力や軍事力で強引に相手を片付けようとする人がいる限り、それに備え対抗し抗議する必要も生じる。
 そういうことに思考力や理解力が使われると、一向に平和にはなれないことになる。


 若かった頃は、こういうことを知らなかった。
 知らなかったばっかりに、愚かなことをしてしまった。
 それは、取り返しがつかない。
 とても残念だ。


 あの彼女、御機嫌を取り戻しただろうか。

 あ、これも、余計なことか……
 
 
カテゴリ : ◆本来は

◆学習上は脆弱・生理面は絶妙


学習上では、学習に関することをすら未理解だった。



 かつては、自分のことをさえ勘違いし思い込んでいた。
 つまり、肝心な自分自身のことを殆ど知らなかった。
 そんな実態に、気づくことすらできなかった。
 だからこそ、違和感も感じないまま生活できたのだった。

 そんな実態に、たまたま気づいた。27歳にもなってからのことだった。動揺を通り越し、深く落ち込んでしまった。当然だった。相応の内容だったわけだから。
 でも、当時は、気づいた程度だった。つまり、具体的なことまでは分かっていなかった。そうであることをすら、把握できなかったのだから。
 イメージ的には、以前の勘違いや思い込みは、頼れなくなった。が、頼りになる具体的で新たな知識や考えは、早々には得られるはずもなかった。そんな状態にあったわけだが、当時は、これだけ具体的には把握できていなかった。

 つい、想像を頼った。
 事実確認や根拠や理由を必要としない、頭の中だけで行う想像に過ぎなかった。それゆえに、新たな勘違いをした。が、そうであることも、当時は把握できなかった。
 つまり、想像ゆえの勘違いや思い込みや、それゆえに無理や矛盾があることも、把握できなかった。
 だからこそ、改善できず、葛藤を余儀なくされていた。

 生きるためには、葛藤だけは解消したかった。
 煩わされる、人間関係を、次々に断った。
 独りになり、考え込みがちになった。
 生活は、夜型に変わっていった。
 自室から出たくなくなった。
 が、ついに、気づいた。
 事実確認をしたわけではない。つまり、自分が頭の中で考えていたに過ぎない。だから、想像に過ぎなかったのだ。
 つまり、想像に過ぎないことに気づけなかったがゆえに、想像上のことを本当のことであるかのように勘違いし思い込みかけていたのだ。
 しかも、思い込み難かった。根拠も理由も無く、納得できるはずもなく、むしろ無理な内容だったからだ。それゆえの葛藤でもあったのだ。
 にわかに葛藤の要因が解明された。無理も矛盾もあった想像や勘違いや思い込みも解消した。葛藤も解消していた。
 人間関係を断ったのが良かった。
 自室にこもったのが良かった。

 以前は、他人を気にし心まで奪われ、自分を未理解なまま見失っていた。
 自室にこもることも、人目を気にするからこそ辛かった。むしろ後ろめたさをさえ感じながらだったが、人間関係を断った。
 よって、自分を省みることができた。
 つまり、見失い未理解なままだった自分のことを、具体的に理解し始めていた。

 その、実際には数分間で解明できたことに、気づけるようになるまでに3年も費やした。しかも、葛藤を余儀なくされながらだった。30歳になっていた。
 いかに無知で愚かだったかを、受け入れざるえをえなかった。

 30歳を過ぎてから、理解しそびれていた自分のことを具体的に理解することになったが、いかに無知で愚かだったかを理解することに他ならなかった。
 自分のことを勘違いし思い込んでいたことに気づいた当時も、納得できなかったり納得したりしていたわけだから、相応の思考力や理解力を日常的に発揮していたことんいなる。むしろ、そうだったからこそ、勘違いや思い込みに気づくことができたのだ。そんなことも、ようやく分かった。
 むしろ、思考力や理解力は、小学生の頃には発揮できるようになっていた。なのに、そうであることを30歳を過ぎるまで未理解だった。つまり、精神的な成長は、小学生の未熟な状態で止まっていた。

 学習に関することをさえ具体的に理解するとは限らず、学習上のことは、きわめて脆弱であることを思い知らされた。


生理面の絶妙さは歴然としていた。なのに、未理解だった。



 学習上の内容の脆弱さが具体的に分かるほど、生理面の絶妙さを思い知らされた。
 肝心な自分自身のことを未理解だろうが勘違いしていようが、生きていられる。
 だからこそ、赤ん坊も生きていられる。野生動物も生きていられる。植物だって生きていられ、微生物も生きている。
 つまり、頭では、自分のことすら未理解だったり自分のことをさえ勘違いしていたりした。が、生理面(生きていること自体)は、実に良くできていることを如実に物語っている。
 しかも、生理面が実に良くできていることは、誰もが直に経験し続けている。
 そうであることも、歴然としていた。
 なのに、そういうことを、ほとんど未理解だった。


 誰にでも、骨や筋肉などで構成されている運動機能も、もともと備わっている。
 これらは、どこかの名医が創ってくれたものではない。
 そうであることを、誰もが、生涯、直に経験し続ける。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も、もともと備わっている。
 これらも、どこかの天才が創ってくれたものでもない。
 そうであることも、誰もが、生涯、直に経験し続ける。

 日常的に、本人の経験に相応する印象が本人の記憶に残り、相応の情報処理(識別や思考など)が可能になり、相応の振る舞いも可能になるし、いわゆる学習も成立する。

 学習の要である識別・思考・予想、試行・確認、取捨選択など、いわゆる情報処理は、まだ言葉を知らない乳幼児期に学習し始めることでもあり、内面的なことでもあり、誰も教えようが無い。
 しかも、本人ができるようにならないと困ることであり、本人が試行錯誤を繰り返して習得するしかないことでもあり、本人が試行錯誤を繰り返すからこそ習得することでもある。
 つまり、生命生理が自律して機能しているだけではなく、学習に関しても、大人でも教えようが無いことを、乳幼児期に独自に学習し始めるようにできていることを物語っている。
 もちろん、どこかの誰かが創ってくれたシステムではない。

 朝、目覚め、何処かが普段と違っているだけで、異常に気づく。言い換えると、異常が無いことをチェックするようになる。そうなるようにできていることを物語っている。

 言葉を介して意思疎通もできるようになった。つまり、幼児期には、言葉が指す物事を、記憶に残っている印象を参考にして意識できるようになり、相応の考えや予想もできるようになり、相応の振る舞いもでき、相応の結果にすることもできるようになる。

 文法を憶えるからこそ、説明も上手になる。

 確かなことを詳しく憶えるほど、確かで具体的な可否や是非などの判断も可能になり、相応の振る舞いや結果にも通じる。

 記憶を頼るだけに、それを意識した約束も可能になり、目的や目標を想定した努力も可能になり、計画的なことも可能になる。

 言葉を介して、五感では捉えることができない記憶内の情報を整理し、根拠や理由があって因果関係などが理に適っていないと納得できないし、理に適っていると納得し、いわゆる理解することもできるようになる。

 いずれも、要である情報処理の上達に因る。それは、本人の試行錯誤次第で磨かれる。
 だからこそ、大人が教えないことだって、憶える。
 大人が憶えて欲しくないことも、憶えた。
 大人が、上辺だけ尤もらしいことを言い、御機嫌取りをしたり脅したりして騙すようなことまでして、自分勝手なことを強いようとしていることを見抜く。だからこそ、反抗するようにもなった。

 知能は、学習システムでもあり、生存維持管理システムでもあることになるのだが、生理的な各感覚器官や意識や記憶力が絶妙にできていることによって成り立っていることになる。


 でも、状況に、相応したことを独自に学習していたことになる。
 理解が容易な時期に、躾や教育で余計なことを強いられ続けると、肝心なことである経験し学習し理解できるようになったことを理解しそびれる。

 まして、他者によって学習し上達したとなると、それだけ、学習の独自性が歪んでしまう。
 本来は、各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能が備わっていることによって、その性質でもあり機能でもあり能力でもある法則に基づいて独自に学習(習得)して、思考力や理解力を小学生の頃には発揮するようになる。
 なのに、そうだったことは未理解だった。

 それこそが、自分の人生上では、知らなければ困る最たることだった。
 理解できるようになったのに、その基本であり学習に関することや要でもある情報処理に関することを未理解だったからこそ、想像しているに過ぎないことにも気づけず勘違いしやすく思い込みやすく、気づくことも難しかった。
 まさに、それゆえに、3年間も葛藤を余儀なくされた。

 むしろ、葛藤ゆえに、その事実関係の解明も余儀なくされた。
 解明したことによって分かったことは、小学生の頃には理解できるようになったことを、未理解だったことが要因だったことを具体的に理解したようなものだった。
 もちろん、相応のことを理解できたからこそ、解決できた。

 小学生の頃には理解できるようになったことを、具体的に理解できたときは30歳を過ぎていた。よって、精神年齢は小学生レベルだと自認した。
 すると、小学生の頃に戻ったかのような気がするようになった。精神年齢は、まさに小学生レベルだったのだと実感した。
 しかも、学習上は重要だった時期まで退行したからか、知らなかったことをどうして憶えられるのか、できなかったことをどうして随意にできるようになれたのか、どうして学習(習得)が実現するのかに関することも、具体的に理解できるようになった。
 ついに、精神構造自体に関しても理解することになった。いわば、乳幼児レベルまで退行していたようなものだったからだった。

 いずれも、30歳を過ぎてからのことだった。
 生理面の絶妙さ、学習上の脆弱さ、その差も本来は歴然としていたのに……。


学習内容次第で、知能を誤用もするし悪用さえする。



 どのアイコンをクリックすれば、どういう画面になる。逆に、どの画面にするためには、どこをクリックすればいい。などと憶えるほど、パソコンも活用できるようになってゆく。
 そういう内面的な情報処理を子供が独自に学習することによって、傍目にも盛んに学習するようになる。
 それをいいことに、躾や教育を行う。

 子供の頃に限らず、状況や人為的な事態なども、経験し、相応の対処方法などを学習(習得)する。
 日常会話ができるということは、相応の思考力や理解力を発揮できている。よって、良かれ悪しかれ、条件が満たされていないと納得できなかったり、条件が満たされていると納得し、理解することにもなる。
 辻褄が合わなかったり、納得できなかったりすると、疑問や不信感さえ抱く。
 まして、無理強いしようとし、そのためにあの手この手を駆使されると、反感を抱き、反抗さえする。

 躾や教育の悪影響は甚大だ。


 特に、子供が独自に内面的な情報処理を学習することによって心が形成される時期は、そのためにこそ保護養育が必要な時期である。
 余計なことをしなくても、保護者の影響を受けやすい時期のことでもある。
 そういう重要なことを無視し、つまり大人側から勝手なことを強いることは、意図的に大人の都合よく子供の心を歪めようとすることにほかならない。

 基本的には、独自に試行や取捨選択を繰り返し、いわば自浄能力を発揮するから、上達と同じ行程上で学習(習得)することになる。
 でも、経験し、相応の学習(習得)をするわけだから、その内容は、個人毎に異なる。
 もちろん、躾や教育の悪影響は甚大だ。

 個人的には、学習内容は限られるし、好みや価値観にも左右されるので、習得する内容は偏りさえする。
 実際には、片言で話し始め、上達し、流暢な会話ができるようになる。ということは、相手が話した内容を高速で理解できるようになり、それに対する自分の気持ちや考え高速で整理し文章化できるようになったことを物語っている。つまり、そんな自分の意思で行っている情報処理に関しても理解できるようになったことを物語っている。
 なのに、未理解なままだったりする。理解力を発揮するようになったのに、理解とはどういうことかも未理解だったりする。
 具体的な否定や肯定ができないことだからこそ、想像をする。その性質上、勘違いもし、思い込みもする。
 先入観もあり、それを基にした想像もする。
 想像とは、勘違いとは、思い込みとは、心理の悪循環とは、そんなことも未理解だったりする。

 いつのまにか習得し行うようになり、繰り返すほど上達し、熟練してしまったことでも、その内容しだいでは、認め難かったり、偽装や隠ぺいもする。
 反省や修正や改善をしないで、隠し偽らずにいられないほど後ろめたいのに正当化もする。
 自殺や殺人や戦争など、生存上でさえ無理なことや矛盾したことをさえ行うようにもなる。
 つまり、経験次第で、自分で困るような的外れなことをさえ学習し、知能を誤用もするし悪用さえするようにもなるし、自ら災いを招きもする。


 自分は、自分の考え次第だったはずの学習んい関することを未理解だったからこそ、自分が想像しているに過ぎないことにも気づけなかったし、勘違いしていることや思い込みつつあったことにも気づけず、その無理や矛盾にも気づけず、それゆえに葛藤を余儀なくされていることにすら気づけなかった。
 それは、不都合なことは認め難くなっていたからでもあった。
 つまり、記憶に残っていることに左右されていた。そういうことだったからこそ、考えただけで分かり、解決できた。

 もちろん、日常会話ができる程度の思考力や理解力があれば、気づくこともでき、事実を認めることもでき、よって具体的に理解することもでき、解決することもできる。
 言い換えると、記憶にあることに左右されているのに、単に思い出すまいとしたり、そのことは考えまいとしたり、余計なことに気を取られていたりした。だから、気づけなかった。
 自分の考えに関することを未理解だったからこそ、知能を誤用していることにも気づけないし、悪用さえしていることも理解できなくなるし、そうであることに気づけなくさえなる。
 そんなことが分かったことによって、未理解だからこそ陥る心理の悪循環に関することも分かったわけだが……


 学習上のことはきわめで脆弱だが、それでも生きていられる。
 それは、生理面は自律して機能しているからにほかならない。

 スポーツでも、ルールに基づいたことを行うから競技として成立し、ルールを無視すると乱闘になる。
 秩序が無ければ成立しない。成立したかに見えても、秩序が不完全なだけでも崩壊する。成立するに足る秩序があってこそ成立する。

 しかも、生命生理は、人工的なルールに基づいたものではない。
 むしろ、理解するだけでも容易ではないわけだから、きわめて高度な秩序に基づいていることはあきらかだ。
 つまり、絶妙な秩序に基づいて機能しているからこそ、自律していることになる。
 生きていること自体は、まさに絶妙にできているからこそ成り立っている。
 しかも、歴然としている。隠し偽りようもない。

 そんな歴然としていることをすら、30歳を過ぎるまで未理解だった。そんな学習上のことこそが、生後に経験し学習し理解することだけに、躾や教育の影響は甚大で、その内容は、限られ偏りもし、錯覚や勘違いや思い込みもあり、まさに知能を誤用して自分で困り、悪用さえして自ら災いを招くようにさえなる。
 自分の子供に洗脳まがいの躾や教育を行っていたりする。
 子供の数は激減しているわけだから、子供を産み育てるような環境ではなくなりつつある。
 環境破壊まで懸念され、多くの種を絶滅させ、絶滅危惧種も無くならない。
 自殺や殺人どころか戦争も絶えない。
 経験や学習の内容次第で、知的内容は左右される。その内容次第で、生存上、無理なことや矛盾することさえ行う。
 学習上の脆弱さも、もともと歴然としていたことになる。そうであることさえも理解できなかったのだから。だからこそ、自分のことをさえ勘違いし、むしろ慢心さえしていた。

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プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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