そもそも、生理面は自律して機能している。
 それは、直に経験し続けている自分自身の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 備わっている知能で、感じ意識し識別し思考し、経験し学習し理解できるようになり、相応の振る舞いをし、相応の結果になる。
 そこまでは誰でも共通だが、経験や学習や理解の内容しだいで人生の理由は変わる。
 知らないことは想像もし、それゆえに勘違いもし思い込みもし、他に目を奪われもするし心まで奪われもし、肝心な自分を見失いさえする。
 以上のうちの、誰でも直に経験し続けていて共通することや普遍的なことが、当ブログのテーマです。
はじめに 更新2013/01/21
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
Copyright (C) 2012 心を開く 心眼を開く All Rights Reserved.
カテゴリ : 草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅳ. 保険証を失くした


 
「ああ……」
 階下で、ボソボソ言い始めた母。
 もしかしたら……。
 私は耳を澄ました。


 母は、しばらくやっていなかった。

 野良仕事を始め、現実的なことに追われるようになり、現実離れした妄想には陥らなくなったのだろう、と考えていた。

 やった場合も、毎回、一時的で終わり、平常に戻る。
 母は、自分で「ボケた」と想像し、それを基に心配し、心配するあまり思い込み、落ち込んでいるに過ぎない。
 幾度も繰り返しただけに、馬鹿げたことであることを自覚できるようになって、やらなくなったのかもしれない、と期待もしていた。


「あぁ…ボケてしまったぁ」
 そう聞こえた。
 母の嘆きは、居間のほうからだった。

 解決したわけではなかった。
 母は、自分で「ボケた」と想像し、それを基に心配し、思い込み落ち込んでいるに過ぎないことを、まだ理解できていなかった。

 母は、勝手に「ボケた」と思い込み落ち込んでいる。
 その要である内面的なことを無視して、外見だけを基に判断し、真に受けて、俺までがボケ扱いしようものなら、母をますます「ボケた」と思い込ませ落ち込ませることになる。
 そうなれば、困るのは俺なのだ。
 自ら災いを招く軽薄で愚かなことは、何もしないことよりも劣る。
 余計なことを抱え込むことだけでも、阻止したい。

 むしろ、放っておいても、母は平常に戻る……。
 そうした方が、母には分かりやすいかもしれない。
 想像が基になっているに過ぎず、実際に何かが起きているわけではないんだから。


 というより、俺が言ったことも、相変わらず、母は聞いていなかったことになる。

 それとも……、俺が憶えたことは、間違っているのか……。
 そんなはずはない。
 重要な部分は、自分の経験を基に理解した。理解できたからこそ、改善もできた。かつては想像もできなかった今の自分が在るのが、何よりの証だ。


 母こそ、憶えようとしない。
 そもそも基本的な学習能力は発揮していない。
 これだ。何も憶えようとしないことこそが、問題だったのだ。
 必要なことを憶えようとし、必要なことを憶えさえすれば、解決することなんだから。
 むしろ、そうすれば、何もかも解決する。

 ボケたか否かは、もう二の次でいい。
 想像云々も、後回しでかまわない。
 改善や反省云々でもない。
 でも、一向に憶えようとしない母に、どうやって憶えようという気にさせればいいんだ。


 母は、なぜ憶えようとしないのだ……。
 母の知能を構成している各器官は平常どおりに機能している。
 会話でき、約束事も可能なわけだから、思考力も理解力も発揮している。
 自分で想像して心配し思い込んでいるに過ぎない馬鹿げたことなのだと理解するだけで、むしろ繰り返し難くさえなるはずだ……。

 母にも、学習能力はある。
 若い頃に和裁を習得した母は、俺たち三人を育てた頃、内職で花嫁衣装や寝具などを手縫いで仕立てたものだった。


 むしろ、誰でも、誕生当初は寝返りもできない。
 誕生後に、環境上の刺激とともに、自身の各感覚器官や意識や記憶力や感情などの個別の特徴や知能の構成要素は、直に経験し続け、相応のことが記憶に残る。
 その記憶を参考に、識別や思考や理解や予想などもするようになる。
 だからこそ、それらを可能にしている知能の構成器官(各感覚器官や意識や記憶力など)に異常があれば、気づく。つまり、知能の構成器官に関しては、平常どおりに機能しているか否かを日常的にチェックしているような状態になる。
 その上で、記憶を参考に識別や思考や理解や予想などを行う。つまり、知能の構成器官を随意に活用するようになる。
 気になることを意識する。不確かなことは確かめようとする。そうしたことに関する記憶も確かになり、それだけ確かな識別や思考も可能になり、適切な振る舞いが可能になる。
 繰り返し接したり観察したり確かめたり試したりしたことほど、そのことに関する記憶は詳しくもなる。
 記憶に詳しいことがあることほど、それを参考にして行われる各部の識別や思考や予想も可否や是非の判断なども的確に行えるようになり、相応の結果にもなる。
 その、知能の構成器官を活用して内面で行う情報処理(識別や思考や予想など)が熟練するからこそ、動作や会話などの基本的なことは、記憶を参考に条件反射的な速さで行えるまでに熟練する。

 それらを以て、誰もが生活するようになる。

 動作や会話などの基本的なことは小学生の頃に熟練するわけだから、十年前後も要する。
 大人になってからでも、努力と時間さえ惜しまなければ、詳しくもなれるし上達もするし熟練することもできる。
 そんなことに期待し、楽しんで臨み、達成して喜ぶ。
 そんな面が、母には無い。

 世代を超えて進化し、文明や文化も世代を超えて進歩したのに。


 母は、一切、憶えようとしなくなった。なぜだ……。いつからなのだろう……。
 憶えようとしなくなった理由が分かれば、その解決も可能になるのだが……。
 電話の子機への切り替えも、憶えようとしない。
 備わっている知能を、母は活用していない。

 やってみようとすらしないで、「憶えられない」と即答する。
 見ただけで分かることも、見もしないで勝手なことを言う。
 考えただけで分かるようなことも、考えず、自分の愚かさを棚に上げてまで勝手なことを言う。
 火事を出しても不思議ではないほど、いい加減だ。
 だからこそ、本来の能力を発揮させるために、俺はあえてやらせてきた。
 それゆえか、一時期よりは、改善された感じがする。
 が、油断はできない。なにをするにも、ブツブツ言いながら仕方なく嫌々やるんだから。
 上辺だけや見せかけだけの、いい加減なことばかりしているのに、自分だけ大変な目に合っているような態度をする。
 炊事まで、俺にやらせる。俺は料理は趣味ではないが、学習に関しては詳しくなれるし、憶えるだけ得をする。が、母は、ますます堕落する。
 備わっている知能を、母は誤用している。
 安易にボケ扱いすることは、母にますます「ボケた」と思い込ませ落ち込ませることであることは間違いない。


 母は、必要以上に世間体を気にする。見た目だけ優先し、見た目だけを繕う。
 見た目を繕えなくなると、拗ね、泣き、強情まで張る。
 繕えなくなると、自棄的に嘆きヒステリックにさえなる。
 そんなことに、学習しなくなった要因が潜んでいるのか……。
 改善しようとしない。反省すらしない。「そうかもしれない」と言うことさえ、めったに無い。
 自分の都合しだいで、憶えていない、知らない、と即答する。
 他を疑っているような振る舞いばかりで、他を信用しているようなことが無い。
 騙し欺くことに固執しているようなものだ。
 つまり、見抜けないだろうと侮っている。
 備わっている知能を、悪用さえしている。

 思い当たる過去の母にさえ、腹が立つ。
 未解決なままだからだが、母には逆らい難いことも事実だ。
 説得する実力が無いからでもあるが、直に糾弾するには抵抗があり、葛藤が生じる。
 自分に生じる葛藤だけに、その要因を、自分の記憶の中から探す。微かに感情は甦る。それが、年々、曖昧になる。その解明は、もう絶望的だ。
 でも、それゆえに葛藤は緩和され、以前よりも言えるようになった。「馬鹿たれ」、「くそ婆」、「おまえは鬼か」、などと……。
 親子だからこそ言えるわけだが、そんな言葉を使ったところで、母は悟れない。

 むしろ、俺も着実に老化し、残り時間は無くなる一方だ。

 母は、膝がどうとか、腰がどうのと言い、月に一回は整形外科にも通院している。
 運動不足ぎみで、骨粗しょう症も始まっているという。
 好き勝手にさせておくと、本当にボケかねない。
 そうなれば、俺が困ることは歴然としている。
 そんなことは、母は考えもしないんだから。


 階下の母は、静かになった。
 物音一つしない。
 気配さえ感じない。
 その静けさが、私に腰を上げさせた。

 居間のテレビの直ぐ前に、母は座っていた。
 総入歯を外した萎んだ皺だらけの口は空いている。
 意識は内向しているのか、目は泳いでいる。
 肩からは力が抜けている。
 本当にボケたのか……。
 諦観、悲哀、初めて経験するような感情がよぎった。

 でも、内面的なことだ。見た目で判断できることではない……。
「どうした?」
「……」
「ん?」
「ボケてしまった……」
 母は俯き背を丸め小さくなった。
 絶望というより、パニック気味に見えた。
 そこまで思い込むなんて……、馬鹿か……。
 でも、会話は成り立っている。
 感情も思考力も、機能している。だからこそ、不安にもなるし、パニックに陥りもする。
 想像が基で、むしろ知能を構成する各器官自体は正常に機能していることが実証されている。
 感情も思考力も機能しなければ、不安にもならないし、パニックにも陥らない。そうなればこそ、ボケている可能性がある。
 今回も、ボケたと想像して思い込んでいるに過ぎない。

 母の前に、私は胡坐をかいた。
「ボケてはいない。落ち着け」
 とは言ったが、母は、平常どおりであることをすら識別できないし自覚できない。だからこそ、むしろボケたと想像し、想像に過ぎないことも自覚できないから、本当にボケたと思い込んでいる。
 今の母に、想像に過ぎないことを自覚させることは至難だ。

「ところで、ボケたと思う、理由は?」
「なんにも分からなくなった……あぁぁ」
「そんな演技は、要らない。大げさな演技をするほど、おまえは思い込むんだから、それは止めろ」
「……」
「むしろ、それだけ分別できるんだから、ボケているわけでもない」
「……」
「俗に言う、頭の中が真っ白にって何も考えられなくなったことは、俺も何回かある。でも、そういう状態になっていること自体は、俺は分かっていた。おまえも、なんにも分からなくなったこと自体は、分かっているわけだろ」
「……」
「なんにも分からなくなったのに、そうであることを客観的に捉えることができているわけだから、ボケていない証拠だ。むしろ、知能の高度な面を発揮できている証拠だ」
「……」
「会話だってできている。会話は、犬や猫などはできない。とても高度なことだ」
「……」
「俺が話した内容を、おまえは記憶にあることを参考にして解析している。必要なことが記憶に無い場合は、憶えていないとか知らないと言うし、必要なら尋ねたり確認したりもする。つまり、価値判断もしていることになる」
「……」
「俺が言ったことが、本当にそうか否かなども考えて、理に適っているかも判断し、応える必要が無いと思えば答えないし、応えるべきだとも判断した場合には返答する。返答する気持ちや考えなども、整理して文章化できないと応答はできないのだ」
「……」
「実際には、もっと複雑なことを頭の中で瞬時に行えるようになったからこそ、会話できる」
「……」
「相応のことが、現にできている。だから、ボケているはずがない」
「……」
 母の手が、何かを探すような小動きをした。
 思い込みからは解放されたのか……。
「誰でも、会話は、赤ん坊の頃に片言で話し始めて上達する。俺たちは、そうして育ったはずだ。そうであることは、おまえの方が詳しくても不思議ではない」
「……」
 けれども、自分の意思で頭の中でやることも、上達し熟練すれば用が足りすので、それを客観的に把握する必要は無くなり、熟練すると速過ぎて把握し難くもなる……。
「前よりも悪くなってるし……」
「……そんなことはない。それだけ分別できる。会話だってできる。どれも、ボケていない証拠だ」
「……」
「感情だって機能している。分別力も感情も機能しているからこそ、心配になるし苦にもなるわけだろ。それだって、ボケていない証拠だ。ただ、老化は、仕方がない」
「……」
「いつも言うが、まず、ボケたと思うのを止めろ」
「……」
 母は、背筋を少し伸ばした。
「『なんにも分からなくなる』って? どういうこと?」
「保険証……。どこにやったのか、なんにも憶えてない……」
「そういうことだったのか。見ているものを分別するよりも、『憶えていない』とか『知らない』とか『忘れた』とかを分別できることの方が高度なことだ。記憶にあるか否かを判断できているわけだし、自分の精神面を客観視ができているということでもある」
「……」
「保険証?」
「どこにやったのか、なんにも憶えていない……」
 保険証と言えば……。
 個人別に名刺サイズになり、郵送されてくるようになった。そうとも知らず、母はゴミとして燃やしたらしく……。
「再発行してもらってから、一ヶ月も経っていないだろ?」
「だからぁ……。はぁぁ…」
「それは、止せっ。大げさな演技をするほど悪い方に向く。むしろ冷静になれ」
「……」
「見つからなければ、また再発行してもらうしかないだろ」
「……」
「見た目だけを繕って生きてきたに過ぎないのに、何様かのつもりになっていたからだ」
 今こそ母の強情さを打開する好機であるかのような気がした。
「……」
「現に分別力があるのに、その分別力で勝手に『ボケた』と想像し、決めつけて、思い込んでいる。そんなのは馬鹿げている。俺までイライラする」
「……」
 本音だったが、母に逆効果なことは、結局、私が困ることになる。
 母は、見た目を優先する。言い訳し、強情まで張る。それが駄目だとなると、自棄的になる。
 改善どころか反省することすら無かった。
 だから、「馬鹿タレ」と言うしかなくなる。
 でも、母が、自棄的になり、会話もしなくなり、分別すらしなくなり、すでに老化している能力を使わなくなると、本当にボケてしまいかねない。
 ボケれば、母自身は苦さえ無くなるのだろうが、そんな馬鹿な母に、俺の人生が奪われてしまうなんて……。
「ボケてはいない。だから落ち着け。とにかく、一旦、冷静になれ」
 自分にも言い聞かせた。
 俺が困らないためには、相応のことを俺がするしかないのだ。

「ところで、ちゃんと探したのか?」
「思い当たるところは、全部探した」
「最後に使った病院は?」
「再発行してもらってからは、使っていないから」
「記憶を辿っていけば思い出せたりするものだが……」
「……」
「知能も備わって産まれて八十年以上も生きているのに、勝手に決めつけたり勝手に思い込んだり、いい加減さが習慣になってしまっているからだぞ……」
 母が不機嫌な表情になった。
 つい思い知らせたくなるが、この歳になって自ら負担を増やすようなことをするのも愚かなことだ。
「ボケているわけではない。しっかりしろ」
「そう言うけど、なんにも思い出せない」
 母は、テレビ台の中を探し始めた。
「俺も、記憶力は衰えている。視力や聴力が衰えると、記憶に残ることも減少する。でも、それは単なる老化だ。ボケではない。むしろ、分別力はある。なのに、その分別力でボケたと想像して思い込むのだけは止めろ」
 母は、自分の寝室に行った。
「どこにも無い」
 そう言い、母はテレビの前に戻った。
「メガネも、意外なところに置き忘れてたりするだろ」
「保険証だから、とんでもないところには置かない」
「実際に無い所は、何回探しても見つからない。だから、まだ探していないところを探すしかない」
 そう言えば、タケノコ(ネマガリタケ)を採りに行ったとき……。リュックは置いた場所にあったのに、よく見もしないで無いと思ったばっかりに、そこ以外の実際には無い場所ばかりを探した。
 いい加減なことばかりしている母にも、その可能性はある。
「いつもしまうところは、どこだ?」
「肩にかけるこのバッグ。いつものように入れていたはずなんだけど、見ても無かった」
「ちゃんと見たのか」
「何回も見た」
「じゃ、そのバッグの中のものを全部、ここに出してみろ」
「この中は入っていないって」
「いいから、逆さまにして中のものを全部ここに出してみろ。内ポケットの中のものも、全部だ」
 母は、ショルダーバッグを逆さにして中身を出した。
「それ、保険証だろ?」
「あ、あった」
「憶えていたところに実際に有ったじゃないか。記憶も確かだ。ボケてなんかいないだろ」
「よかった~、有って」
「目も見える。見るだけで分かることだろ」
「ああ~、よかった~」
「いいかげんに見ただけだったからだぞ」
「こんなに早く、また再発行してもらいに行くのかと思って、気が重かったんだ」
「そんなことまで分別していたのか」
「……」
「頼むから、ろくに確かめもしないで、勝手にボケた思い込むのも、止めろ」
 バッグから出した診察券などに紛れて、同じようなものが……。
「これも保険証だ。ほら」
「あ、ほんとだ」
「このあいだも、よく見もしないで、再発行してもらったということか、まったく……」
「やっぱりボケてきている。ひどくなっている」
「いい加減なだけだ。よく見もしない。確かめもしない。ろくに考えもしない。勝手に妄想し思い込むようなことばかりしてきたからだ。ボケじゃない」
「おまえがそう言うんなら、そうなんだろ」
「他人事みたいな言い方をするな。そうやって、不都合なことは認めまいとする。誤魔化す。反省しない。改善しない」
「我が儘だから」
「むしろ、狡いんだろ。大変な目に合うぞ」
「返した方がいいかな、一つは」
「え……。返すより、予備にすればいい」
「また失くすといけないから、そうする」
「あと、いくらも生きられないんだぞ。しっかりしろよ」
「……」
「このあいだの、何かに気を取られると他のことを忘れることも分かりやすかったが、今回は更に分かりやすいだろ」
「……」
 むしろ、今回は、勘違いや思い込みを理解するには格好の経験だ。
 こういう経験に基づいたことなら、母でも理解しやすいはずだ。
 以前よりは、俺が言ったことを聞き入れている感じがする。
 そう思ったが、その場では、自分も整理できなかった。


 自室で、整理してみた。

 実際には、いつも通りにショルダーバッグの中に保険証が有った。
 なのに、ショルダーバッグの中をよく確かめもせずに、無いと想像し、思い込んだ。
 だから、実際には保険証が有るショルダーバッグの中だけは探さなくなった。
 当然に、ショルダーバッグ以外の実際には無いところばかり探した。いくら探しても見つかるはずがなかった。だから、焦ったのだ。
 そして、今度は、ボケたのかもしれないと想像し、思い込んだ。
 つまり、精神面は平常どおりに機能していた。
 なのに、精神面は平常どおりに機能していことを確かめもしないで、ボケたかもしれないと想像した。結果的には、平常どおりではないと想像した。
 当然に、精神面が平常どおりに機能しているか否かは更に確かめなくなった。
 結局、ボケたか否かをはっきりしたいが、ボケたか否かを判断する知識は無いので、具体的な否定も肯定もできない。
 あるはずがないところばかりを探していたようなものだった。的外れなことにばかり知能を駆使したために全く空転していた。
 そうであることを自分で把握できなかっただけに、結局、何が何だか分からなくなり、ボケてしまったのだと思い込んだのだろう。

 タケノコ採りの時は……。
 現地に着き、タケノコ採りをする場所も決まった。
 昼食などが入っているリュックサックは、分かりやすそうなブナの大木の根元に置いた。
 その周りで、小袋を袈裟懸けにしてタケノコ採りをはじめ、小袋が一杯になり、リュックを置いたはずのブナの大木の根元に行った。が、リュックが無い。
 慌てて、それらしい他のブナの大木の根元を次々に探したが、どこにも無い。
 結局、諦めて下山することに決め、念のため、最初に置いたと思っていたブナの大木の根元に寄ってみた。そこに、リュックが有った。
 つまり、置いた場所を憶えていたし、そこに実際に有った。
 ところが、見る角度が違い、シダなどの葉に隠れて見えなかった。それだけで、無いと思ったので、それ以上は確かめもせず、無いと思い込んでしまった。
 だから、そこ以外の実際には無い所ばかりを探した。

 そのことを思い出したから、バックの中身を全部出させた。
 その結果、ほとんど同じだった。

 テレビで、タイムカプセルを探した番組でも、そうだった。
 実際にタイムカプセルを埋めた場所を最初に掘り当てた。が、何とかという理由で、これは違うと言って、埋め戻してしまった。
 当然に、そこ以外を探したわけだが、あるはずがない。
 結局、最初の場所を掘り直し、そこだったことが判った。
 その結果、一部始終も解明された。

 テレビの気象情報を見る時も、基本的には同じだ。
 何かに気を取られると、他のことは疎かになるのも、基本的には同じことなのだ。

 俺の気象情報も、想像に過ぎないので、外ればかりなのも同じようなことだ。

 つまり、精神面は平常どおりに機能している。だが、そうであることは確認もしない。
 それ以外の、知りもしないことに気を取られたり、有りもしない所ばかり探すことに夢中になる。
 そうであることは分かっていないので、パニック気味になる。

 いずれにしても、知能自体は平常通りに機能していることが実証されている。
 むしろ、思考力が機能しているだけに、老化を、ボケと勘違いしている可能性もある。

 もちろん、悪化すれば俺が困る。
 母にも、思考力も理解力もあるのだ。
 経験に基づいたことほど、理解しやすい。
 母のおかげで、俺だけが詳しくなっても……。
 今のうちに理解してもらおうと思い、母に話した。

 思えば、こんなに話すようになったのは、母が「ボケた」と言うようになってからだ。
 母が率直には聞き入れないからでもあるが、深刻な内容だったからでもある。
 話す内容よりも、話すこと自体に意義があるのか。
 そもそも、難しいことを母に理解させることが、無理だったことは間違いない。





テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

カテゴリ : 草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅲ. おまえはボケてはいない

 

 知能も備わって産まれる。
 知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになる。
 片言で模倣し始めた言葉も、繰り返すほど上達する。
 目には見えない気持ち考えなどを伝え合うことができ、協力してもらえ、自分の能力を超えた生活が可能になるだけに、知らなかった言葉を次々に憶える。
 より的確に伝えるために、目には見えない文法もいつのまにか憶え、目には見えないことをより具体的に説明できるようになる。
 繰り返したことや実用していることほど確かに憶え、観察し確かめ試したことほど詳しくなり上達し、動作や会話などの基本的なことは条件反射的に行えるほど熟練する。
 記憶にある過去のことや気持ちや考え、個々の言葉の意味、物の性質、関係や理由、法則なども、目には見えない。そんなことも文章化して説明し合えるようになり、記憶にあることだけを参考にして理解し合えるようになる。

 だからこそ、約束やルールに基づいたことも可能になった。

 だからこそ、会話で、知らない部分があったり辻褄が合っていないと、理解できないし納得もできない。
 だからこそ、必要なことは知ろうとするし尋ね確かめもする。
 根拠や理由があって辻褄が合っているほど、具体的に理解でき、納得することもできる。
 具体的なことを知るほど、そのことに関しては可否や是非の判断も適切にでき、具体的な理由を基に肯定することもできるし否定することもできるし、具体的に説明することなどもできる。

 むしろ、身勝手だったり、必要なことを教えてくれなかったり辻褄が合わないと、懐疑や不信感を抱いたりする。
 納得できなくても、妥協や打算は可能だが、リスクが高い。その結果、損をしたり事故になったり争いになったりさえする。
 そういう経験上でも、必要なことは事前に知ろうとするし確かめもする。

 そうであることを、日常が物語っている。

 しかも、母は八十年以上も生きてきた。

 なのに、「ボケた」と嘆き、落ち込んでしまうなんて……。


 でも、母は、本当にボケているわけではない……。

 知能の構成機関は、老化はあるが、すべて機能している。
 日常会話もでき、相応の識別力や思考力や理解力も発揮できている。
 だからこそ、約束事も可能だし、目的地に行って帰ってくることもできる。
 むしろ、不利なことは誤魔化そうとさえする。事実とは違うことを、事実だと見せかけて、そうだと思わせようとする。

「何をしていたのかわからなくなった」と言って落ち込んでしまった状態でも、自分が困った状態に陥っていることを客観的に捉えることもできる。
 だからこそ、心配し、苦にもなり、パニック気味にさえなり、落ち込むのだ。
 それも、知能の構成機関自体は、むしろ正常に機能している証だ。


 考えることができるからこそ、ボケたのかもしれないと想像することもできる。

 ただし、具体的なことを知らないことだからこそ想像する。
 具体的なことを知らず、根拠も理由も無いのに、事実確認もしないで、頭の中だけで想像するわけだから、し放題だ。
 そんな性質上、圧倒的に外れが多い。
 そんなことを基に行動するには、リスクが高い。だからこそ、通常は、躊躇したり、確かめたりする。
 隠し偽ることや嘘を吐くことや騙すことなども、想像上は容易だ。
 が、相手を見抜けないだろうと侮ることであり、自ら信用を損ねることを行うことでもあるから、実際にはし難い。

 そんな経験も、事実関係を整理することで理解できるのだが、母は事実関係を整理したことがないのだろう。
 自分が想像しているに過ぎないんだということも、母は未理解だからこそ、識別できない。
 その像像を基に心配し思い込み落ち込んでいるに過ぎないことも、母は未理解だから識別できないのだ。
 だからこそ、根拠も理由も無い想像を基に、心配して、根拠も理由も無い想像の深みとも言える妄想に陥ってしまうのだろう。
 その状態を基に、ボケてしまったと思い込み、パニック気味になり、何も考えられなくなり、落ち込んでしまうのだ……。

 でも、このあいだ、「何をしていたのかわからなくなった」と言っていた。
 日常でも、何かを強く意識するほど、それ以外のことは意識されなくなる。

 そこで、いわば母とは逆に、知能の構成要素などは平常どおりに機能していることや知能の高度な面まで発揮できていることを、俺は指摘する。
 知能の構成している各感覚器官や意識や記憶力や思考などは、日常生活に活用しているだけに、異常があればすぐに気付く。つまり、正常に機能しているか否かを日常的にチェックしているような状態にある。
 そういう性質上、識別や自覚も容易で、事実だけに、母も識別し自覚するのだろう。
 その際に、根拠も理由も無い想像や妄想ばかり意識していた状態から、意識する対象が感覚的にも捉えることができる現実的な事実に切り替わる。
 つまり、根拠や理由も無い想像は止めることになり、その想像を基にした心配や思い込みは成立すらしなくなる。
 結局、平常に戻る。
 毎回、一時的なことで終わる。
 母は、ボケているわけではない。


 結果的にだが、機能面は正常に機能していることが実証されている。
 ただ、知識が足りない。しかも、肝心な自分の行動上の中枢である精神面や思考に関する知識が足りないのだ。
 日常的に、意識し識別し思考し理解して活用し発揮している知能に関することなのに……。


 知能は備わっている。
 が、知能上に、経験し学習し理解し習得する性質上、どんな重要なことを知らなくても不思議ではなく、どんな大事なことをできなくても不思議なことではない。
 生存上、的外れなことばかり習得し、そんなことに満足している、としても不思議ではない。
 生後に習得したことを以ては、生活もままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化は止められないし、死は受け入れるしかない。
 知能上に習得した内容しだいで、尊びもするし、自殺もするし、殺人もし、戦争までする。

 でも、知らないから、できなくて、困る。
 そもそも、知ることによって、不具合の解決や改善もできる。
 知ることによって、到達することや、達成することや、成就などもできる。


 たしかにそうだが、母が、想像や思い込みに関することを理解することは、難しいことを母自身が物語っているようなものだ。

 想像や思い込みは、頭の中で行うことであり、五感では捉えることができないことだからでもある。
 会話上でも、記憶にあることを参考に、思考上で整理して、理解する。それ自体に関することを理解することだけに、難しい。
 それを、説明して理解させることは、それ以上に難しい。

 でも、不可能なことではない。
 会話自体が、相手が話したことを、自分の記憶にあることを参考に識別や解析や整理をして理解し、相応の記憶や気持ちや考えなどを文章化して応答している。
 俺が言葉で指摘したことを、母は、記憶を参考に識別でき日常必要なことは理解できる。
 だからこそ、意識する対象を俺が指摘した事実に切り替え、平常どおりに機能していることを自覚する。
 会話でき、理解する能力は、母にもあるわけだから。

 想像や思い込みに関することを理解しないと、解決したとにはならない。


 知能の構成要素などが平常どおりに機能していることを母が自分で識別し自覚できるようになるだけでも……。

 ただ、俺の説得力不足や理解不足を棚に上げて、安易に片づけてしまうのでは、それは俺自身の問題になる。
 理解を深め説得力を増すと、まず俺自身が納得できる。そうなると、俺は陥らずに済むようにもなれる。


 母が「ボケ」たと言っているわけではない時でも、その把握だけでもしようと、私は模索するようになっていた。






 日常でも、想像の内容しだいで、楽しみにしたり喜んだりもするし、危機感を感じたり、単なる想像だけなのに恐怖感をさえ感じる。

 些細なことでも、褒められると嬉しい。ダメだしされると落胆気味にもなる。が、それを修正して認められると気分は良い。

 自分のブログも、アクセスが少ないと、内容的なことまで気になり、落胆気味にもなり、記事の内容にも影響する。
 アクセス数が増えただけで、少なくとも気分は良くなる。
 その性質を活用して、ブログ開設当時は意図的にアクセスアップ作戦を展開したりした。
 ところが、それでいいような気がして、肝心な精進が疎かになり、自分でも勘違い気味になることも分かっている。

 日常のささやかなことでも、好結果に結果に期待すると、相応の行動を始める。
 その段階で、やる気にまでなる。

 山菜やキノコの季節になると、出かけずにはいられなくなる。
 想像や類推や推理などで始まるわけだが、そのとおりか否かを確かめようとしたり、確かめずにはいられなくなったりもする。


 想像を基に心配し苦になり落ち込むのと、逆バージョンは、想像を基に期待し喜んでしまうことになるが……
 宝くじは、当たる可能性はあるが自分の努力で実現できることでもない、全部買い占めて全部当選したとしても赤字になる、当たる確率は極めて低い、などと考えると期待できないので買わない。
 当選すれば大金が手に入る、当選は奇跡的な幸運だからこそ、などと好結果を想像し期待すると、宝くじを買う。
 でも、結果を未確認できない段階では、あくまでも想像を基に、買わないか買うかまで決めている。いずれにしても、想像を基に、行動までしていることになる。
 当選番号が確定した結果、自分が購入した券が外れだという事実が明らかになると、もともと想像を基にした期待はだけに、それは成立しなくなり崩壊する。期待が大きかったほど、大きく落胆する。
 期待し過ぎて平常心を見失っていると、平常心に戻ること自体が容易ではないことだってありえる。


 母も、想像し、心配し、思い込み、落ち込む。
 だから、その落ち込みからは、独自には抜け出せない。
 それどころか、平常に戻っても、また繰り返す。

 やはり、想像や思い込みに過ぎないことをすら識別できず自覚もできないからにほかならない。
 未理解なことは、具体的な識別はできない。
 内面や関係や理由や法則などは、五感で捉えることはできない。
 でも、言葉を介して理解し合うこともできる。つまり、記憶にあることを思考上で整理することによって、五感で捉えることができない内面や関係や理由や法則などを理解することもできる。
 理解できたことも記憶に残るので、それを参考にした識別や思考なども可能になるし、更に理解を深めることも可能になる。
 が、そういうことも、母は未理解なのだ。
 想像や勘違いや思い込みなどの特徴や性質に関する具体的なことを、母は未理解だからこそ、識別できず自覚できず思い込み落ち込んでしまう……。

 もちろん、自分が想像したことを基に自分で困っている馬鹿げたことなんだということを理解できれば、当然に繰り返さなくなる。
 それで、この件は落着なのだが……。


 感じ意識し識別し思考し理解し想像し予想までして活用している知能に関することを、母は未理解だからこそ、せっかく備わっている知能を貴んでもいない。
 未理解だったとしても、不思議なことではない。
 むしろ、的外れなことばかり学習したとしても、不思議でもない。
 でも、子供の心が育つ際に、最も影響がある母親だった……。

 いまだに、俺が言ったことも、母はいい加減に聞いている……。


 そもそも、母は、人の目を気にし、上辺だけを繕う。それを、俺にまで強いる。
 根拠や理由を無視し、上辺だけでは、リスクが高いどころか、騙し欺く類でしかない。つまり、母は、備わっている知能を、誤解し、誤用している。俺は、拒否し、批判する。
 それでも、母は、根拠や理由を無視し、上辺を繕えないと、いじけ、拗ね、泣き、自棄的になって困らせ、ヒステリックになって脅してでも、我儘を通そうとする。まさに、上辺だけに拘る。
 老化の所為だろう、かつてよりは改善された感じはするが、俺が言うことは、もともと聞く気は無いのだ。

 母は、自分で言い出したのに、返事も待たずに何かをやり始めたりさえする。勝手に違う話をしたりもする。聞く耳を持たないことを見せつけている、と思うしなないような振る舞いをすることも珍しくない。
 だからこそ、俺に頼み事をするときも率直には言えず、いつも回りくどい言い方をする。

 母は、自分で改善しようという気も無い……。反省する気すら無いのだ……。
 自分が困ることでさえ、止めず、繰り返す……。
 せっかく備わっている学習能力を誤用し悪用さえしている。
 大げさな嘆きが、自棄的にも感じ、開き直っているのかとさえ感じるのも、当然だったのだ。

 日常的にも、想像の内容しだいで心配になり苦になる。そんなことも、母は分かっていない……。
 だから、逆に、想像しだいでは楽しくなり期待するものだ、などとは思いもしない……。
 ボケてはいないんだとか、平常どおりなんだとか、むしろ備わっている知能の能力はどれだけのものなのだろうなどと思いを巡らせれば、日常的に発揮できている能力や、誰もが直に経験し続けていることなので、相応の事実に辿り着くはずだし、無知でもなくなり、自信まで得られるのだが……。
 そういう世界からは、逸脱した世界に母はいる。

 改善されないまま、本当にボケてしまうと、母は悩みも苦も無くなり、どうでもよくなるのだろう……。
 むしろ、「ざまあみろ」と言わんばかりに振る舞いそうで、そう思うだけで腹が立つ。
 そうなると、俺の人生は、完全に台無しになる。
 くそ婆に、踏まれ続けたようなものだったのに、この歳になって蹴られるようなものだ……。

 そうなることことだけは、阻止しなければならない……。


 が、俺も、危機的な想像をしているに過ぎないのか。
 それは違う。問題が、解決できていない。
 しかも、行動上の中枢に関することことであり、老化しているだけに、早目に解決策を見出す必要がある。
 母は、何とかする気が無い。
 なら、俺が何とかするしかない。困るのは俺なんだから。俺が困ることは、俺がなんとかしないと……。


 俺も想像しているに過ぎないのかと思うと、そんな気がしないでもないが……。

 ボケた(痴呆症や認知症など)とは、どういことなのか。その具体的なことは、俺は知らない。これは事実だ。
 自分で「ボケた」と言って落ち込んでしまう母は、知っているはずがない。

 実際にボケたとしても、知識に基づいて具体的にボケていると判断をすることは、俺にはできないし、母もできない。
 実際にボケていなくても、知識に基づいて具体的にボケていないと判断することも、俺にはできないし、母もできない。

 そういう事実上、「ボケた」と言う母は、ボケたのかもしれないと想像しているに過ぎない。
 想像に過ぎないのだが、心配になり、本当にボケたのかどうかは判断できないので思考は空転し、他のことは考えられなくなるので、ボケたと思い込んで落ち込んでしまうのだろう。

 でも、困った状態に陥っていることを、自分で客観的に捉えることができているからこそ、嘆きもする。
 そんな高度なことまでできるくらいだから、ボケているはずがない。

 そこで、俺が、精神面の平常どおりに機能している点を指摘する。
 その言葉で指した物事を、母は識別しているからこそ、相応の物事を自覚するのだろうし、その際に、事実が伴わない想像や思い込みは止めことになるからだろう、平常に戻る。
 平常に戻らなかったことは一度も無かったし、いつも一時的なことでしかない。


 いくら考えても、母の場合は、想像や思い込みに因るものであることは、ほぼ間違いない。

 母は、ボケてはいない。

 母は、自分でが考えていることである想像や思い込みに関することをすら理解できていないから、自己管理ができないだけだ。


 おまえの上辺の見せかけや振る舞いには、俺は惑わされない。
 俺にとって余計なことは、あくまでも俺の考えで阻止する。


 日常会話でも、条件が満たされていて、辻褄も合っていると、納得できるし、理解することもできるし、相応の展開もする。

 知らない部分があるだけで、会話も滞る。辻褄が合っていない場合は、そのままでは納得できないし、理解もできない。
 だからこそ、必要なら、尋ねもするし確認もし、事実関係を把握した上で、判断しようとする。

 把握不十分で納得できなくても、妥協や打算などもするが、その性質上、好結果になる確率は低く、むしろ争いになったりする。

 そんな場合でも、問題点を確かめもするし、繰り返さなくもなる。


 むしろ、具体的なことを知っていることに関しては、具体的に肯定や否定もできるし、適切な可否や是非などの判断もできるから、相応の結果にもなる。

 具体的なことを知らない物事に関しては、具体的な否定もできないし具体的な肯定もできない。
 その際に、事実確認をせずに、とりあえず頭の中だけで思いを巡らせて想像し、仮りのイメージを想定する。
 つまり、具体的なことを知らないからこそ、想像する。しかも、事実確認もしない、根拠も理由も伴わない、そんな想像だけに、し放題だ。
 そんな想像上の仮りのイメージだけに、事実と一致している確立はゼロに近い。

 そんな想像の性質や特徴などに関しても、具体的なことを未理解だと、具体的な識別や自覚もできないし、具体的な否定や肯定もできない。
 自分が想像しているに過ぎないことを自覚できず、想像上の仮りのイメージに過ぎないことも自覚できないと、想像上の仮りのイメージが事実と一致しているか否かも確かめない。
 想像上の仮りのイメージに過ぎないことでも、内容しだいでは心配になる。
 心配するくらいだと、想像上の仮りのイメージを半ば事実だと思い込みかけていることになる。
 心配して思い込むほど、他のことは考えられなくなるし、想像上の仮りのイメージに過ぎないんだということを自覚し難くなる。
 結局、自分の想像や思い込みによって、自分で困ってしまう。
 実際に何かが起きているわけではないからこそ、現実離れした想像上の世界に迷い込んでしまう。

 通常は、確かめようとするし、反省だってするし、繰り返すまいと思えば理由を知ろうともする。
 事実関係を把握できれば、繰り返さなくもなる。


 知能が備わっていて、経験でき、学習でき、日常会話ができるようになり、納得できなかったり納得したりするようになり、理に適っていると理解できる。
 識別や思考や理解や予想や約束などもでき、備わっている知能を活用できている。
 客観視もできている。
 そんなことを、客観的に理解できていないだけだ。

 ただ、人工物ではない知能も普遍的なものであり、その能力の基本的なことまでは、誰でも共通だ。

 その知能上の、考え方や考える内容などは、個人毎に異なる。
 まして、経験内容、学習内容、理解した内容など、いわゆる習得した内容は、個人毎に千差万別になる。
 つまり、そんな自分のことに関することを知らなかったり未理解だったりしても、不思議なことではない。

 しかも、不都合なことは知られまいとするし、プライバシーは保護されている。企業秘密も容認され、黙秘権もある。
 当然に、都合よく有利になるように偽りもするし、生存上はどうでもいいようなことなのに尤もらしく見せかけもするし、優れたことであるかのように見せかけようと競い争いさえする。
 私利私欲のためであるほど、偏見が強く、独断的で、差別的になる。
 独裁的なほど、隠ぺいや口封じもするし、自殺もあり、殺人もあり、戦争までする。
 いわば、悪魔の罠に嵌ったようなことや、邪道を極めるようなこともするようになる。
 つまり、経験や学習の内容しだいでは、普遍的なことや共通なことでも拒否さえするし、わざわざ理解を困難にもするし、改善を不可能にしてしまうことさえする。
 せっかく備わっている知能を、誤用もし悪用さえするようにもなる。
 そんなものは、必要ですらない。
 立ち入る必要も無いだろう。
 習得したことを以ては、肝心な日常生活もままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化は止められないし、死は受け入れるしかないんだから。

 重要なことは、頭の中にある。


 こうでもない、ああだこうだ、などと私が模索するのをよそに、母からは「ボケた」と言って落ち込む気配すら感じなくなっていった。


 雪解けが進むと、植物の芽出しや花や新緑に期待する。

 やがて、野良仕事を始めた。
 野山に育つ草木に誘われるように、種を蒔き、苗を植え、その結実や収穫に期待する。
 すっかり、現実的なことが優先の日々になった。


 が、解決はしていない。
 もちろん、おまえはボケてはいない。
 目には見えないことだが、むしろ目が見えなくても、理解がすることが可能なことでもある。
 それだけの能力が、おまえに備わっていることも、すでに実証されている。
 そうであることを、おまえが具体的に理解し納得することで、この問題は解決したことになる。


テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は千差万別ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
FC2アクセスランキングのみ参加中です。
拍手ボタン等は非表示中です。
よろしくお願いします。

こちらからのお礼の応援アクセスは、
冬期間は随時&随意に致します。
プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

最新記事
カテゴリ
最新コメント
リンク
アクセスランキング
応援アクセス、ありがとうございます。
クリックは不要です。

[ジャンルランキング]
心と身体
386位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
メンタルヘルス
65位
アクセスランキングを見る>>
カレンダー
05 | 2016/06 | 07
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
検索フォーム
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
QRコード
QR