生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
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カテゴリ : ◆無知の悟 「俺は、病気じゃない、異常でもない」

1-かつては、自分を勘違いし思い込んでいた。





 中学校に通い始めた頃には、勉強はほとんどしなくなっていた。
 中卒後は、日雇いの肉体労働をした。
 数年後、冬場の出稼ぎ先だった都会で、春になっても自分だけ帰省せず、建設機械のオペレーター見習いとして初めて就職し、まもなく21歳になった。
 翌年、勤務先を2度か変え、その会社に4年近く定着した。
 が、転職を試みはじめ、当時はタクシードライバーに落ち着きつつあった。

 その間に、都会での女性関係も複数経験した。
 田舎育ちの都会暮らしでもあり、尤もらしく見せかけるだけで、大人振っただけの関係ばかりだった。

 当時は、古い木造アパートの一階の南東の角部屋で、独りで暮らしていた。齢は、26歳になっていた。

 なのに、すっかり一人前になったような気がしていた。


 もちろん、各感覚器官や意識や記憶力にも、異常は無かった。

 学習能力も発揮していた。
 日常的にも、必要なことは次々に記憶に残るからこそ、相応の行動ができたことになる。

 特に、見習いで就職したときは、自分は触ったことも無かった機械の、操作を憶えて、技術を習得して、上達することが必須だった。

 中学校では、学校で教えることはほとんど勉強せず、授業中は勝手に2サイクルエンジンと4サイクルエンジンの原理や構造を理解しようとしたりしていた。
 そんなこともあって、初めて触れるディーゼルエンジンにも関心があった。

 まず、機械の各部の名称を、先輩が教えてくれた。
 故障した場合の連絡や、部品調達を速やかに行うために、できるだけ憶えた方がよいということだった。
「フューエルフィルタはどれだ?」
「え?」
 言われた名称が、記憶に無いか、記憶に有っても思い出せない場合は、言われた部分が目には見えていたとしても識別できない。
 知らない人の名前を言われたときは、その人が目の前にいても特定できないのと同じことだ。

 目に見える各部は、見て憶える。その部分の名称は目には見えないが、耳で聞いて憶える。
「ここは?」と先輩が確認しても、自分の記憶に残っている(憶えた)ことは「噴射ポンプ」などと答えることができた。
 誰かの名前を言われて、その人の名前も顔も憶えている場合は、その人が目の前にいれば見分けられるのと同じことだ。

 日常的にも、部分であっても1個体であっても、形が有ったり色や音や匂いや味なども有ったりし、それぞれが特徴だったりもし、そんなことも記憶に残っている。
 なので、機械が無い所にいても、機械の後ろに燃料タンクが有って、その下にガラスの云々、などと教えてくれることもあった。
 現物が目の前に無くても、記憶にあることだけでも、相応の会話ができる。記憶にさえあれば、その人が目の前にいなくても話題にすることができるのと同じことだ。

 先輩が話した要点を捉え、その要点を基に考えて、相応の応答をしていた。
 識別力や思考力や理解力にも、異常は無かった。
 機械の各部の機能や、それゆえの注意点なども教えてくれた。
「ディーゼルエンジンなので、この噴射ポンプで圧縮した燃料をシリンダー内に噴射する。うっかり燃料を切らすと、この噴射ポンプに空気が入ってしまう。そうると、エンジンはかかったとしても、力は出ない。なので、燃料を入れるだけではなく、噴射ポンプの空気も抜く必要がある。それも仕事に内なので、燃料の補給をする際に実際にやってみせるから」
 各部には、目には見えない内面的な機能や性質があり、それらを組み合わせることによって機械は成り立っている。
 人にも、さまざまな臓器や器官があり、各感覚器官や意識や記憶力などもあり、顔や手足などが有るのと同じことだ。

 機械の構造や原理が分かると、相応の維持管理も可能になる。
 不具合が発生しても、その不具合個所や不具合の理由や不具合の原因などが分かるので、相応の対処もできるし、そうならないように事前に対策をすることも可能になる。
 もちろん、整備に関する知識や技術を習得すると、整備だって可能になる。

 機械自体の走行関係と、その操作レバーや操作ペダル。
 作業機と、その操作レバー。
 どの部分を、どう操作すると、どの部分がどう動くように作られているか。
 自分が思う結果にするためには、どこを、どう操作するか。
 技術的なことになってくると、言葉で説明することが難しくなってくる。
 というわけで、「まず、自分で見て考えて判断して憶えろ」と言われたり「自分で経験して身体で憶えるしかないんだ」とも言われ「『技は盗め』って言うだろ」などとも言われた。

 そんな折、オペレーター不足だということで独りで現場に行かされたが、機械をどうにか動かせる程度だったので、仕事をしたとは認めてもらえなかったどころか、苦情を言われた。
 技術を習得して、上達することが必須だった。

 自分で操作して、感覚的に経験し、目的に適う操作を試み、その結果を見て是非や可否の判断をしては、更に試行や取捨選択などを繰り返した。
 入社時には触ったことも無かった機械だったが、いつのまにか機械に慣れ、少しずつ思い通り操作できるようになっていった。
 機械のことが分かるほど、相応の操作が可能になり、仕事として活用できるようになる。
 観察し、確かめ、試すことを繰り返し、取捨選択を重ねるほど、コツを憶えることができる。
 もともと触ったことが無かった機械の操作を憶えるだけに、憶えたことも上達していることも自分で分かる。
 自信も育ち、学習能力の可能性に期待し、研究心も集中力も増していった。
 修正や微調整なども行えるようになり、随意な操作ができるようになっていった。

 それらのことは、先輩が言ったように言葉では説明し難い。
 技術そのものは、感覚的な識別と、相応の操作なので、むしろ言葉は知らなくてもできるようになれることだった。
 仕事自体も、誰かに説明することとは関係無いこと専念することだった。
 自然を相手に、機械の動きを感覚的に識別し、相応の操作をし、いわば個人的なことで没頭することだった。
 感覚的に感じることが頼りだけに、より微妙な違いも記憶に残り、その記憶を参考にした識別もできるようになり、より俊敏に微妙な操作もできるようになっていった。

「もう、一人前だな」
 そう言われるようになった。
 でも、触ったことも無かった機械を、操作できるようになれて、上達中でもあっただけに、まだ未熟な気がしていた。
 研究心や観察力や集中力も増し、直前での危機回避もできるようになり、より高精度な仕上げをより短時間でできるようになっていった。
 機械ではできないだろうと思われていたことにもトライし、成果を上げるようになった。

 現在までの人生の中でも、自分が習得した技術としては最も高度なものだった。


 もちろん、学習に関することを具体的に理解する場合にも、格好の学習経験だったことになる。
 どうして、知らなかったことを憶えることができたのか。
 できなかったことが、どうして随意にできるようになれたのか。
 どうして、上達できたのか。
 信頼されるようになれたのは、なぜだったのか。
 そういうことは、記憶に残っていることを、関係や理由に基づいて整理をするだけで具体的に理解できたはずだった。
 そんなことを具体的に理解する場合も、リアルな実体験を基にするほど容易でもあり、格好の学習経験をしていたことになる。
 経験した事実や根拠や理由を基に、学習に関することや精神面に関することを具体的に理解すれば、それを基にした識別や思考や予想なども可能になる。
 つまり、理解に基づいた精神面の維持管理も可能になり、理解したことを応用し活用することも可能になる。

 機械も、構造や原理などを知れば、相応の維持管理も可能になる。
 構造や原理などを知っていればこそ、不具合が発生しても、その不具合個所や不具合の理由や不具合の原因などが分かるので、相応の対処もできるし、そうならないように事前に対策をすることも可能になるわけだから。
 もちろん、整備に関する知識や技術を得ればこそ、整備も可能になる。


 現在でも、当時のことは記憶に残っている。
 あの数年後には、学習に関することも理解できた。
 よって、学習の基になる知能の構成要素や各器官の機能などに関することも理解できた。
 知能は人工的には創れないものが備わっているわけであり、それゆえの学習の法則的なことや基本的なことはシンプルなのだということも分かり、理解を深めるほど明確にもなっていった。

 いずれも記憶に残っているからこそ、その学習に関することを基に、当時のことを整理したり理解したりすることは、現在でもできる。
 だから、こうして書くこともできる。


 時間的に経過し変化してゆくことから、その時々の残像のようなものだけが記憶に溜まってゆく。
 そんな性質上、記憶に残っていることは時間的に前後して混在していたり曖昧だったりして、未整理な状態にある。
 その記憶に残っていることを、なんらかの関係に基づいた整理することで、関係や理由などで構成された一連のことを理解する。

 なので、意外なことが今更のように明らかになったりもする。


 でも、記憶も鮮度が落ちてゆくので、当時のような機械操作は、とっくにできなくなっている。
 記憶の鮮度が落ちている今となっては、理解できることも書けることも概要に過ぎない。

 やはり、リアルな実体験を基にしてこそ、理解も容易であり、より具体的に理解できたことは間違いない。
 理解できればこそ、その理解したことを基にした識別や思考も可能になり、他のことへの応用も活用もできたのに……。


 でも、あの頃は、見習いで就職したこともあって、仕事ができるようになることが最優先だった。
 あの頃の新鮮で繊細な記憶は、あくまでも仕事のためのものだった。
 仕事のために、知らなかったことを次々に憶え、上達もし、それを基に仕事をしていただけに、むしろ学習に関することは理解する必要が無かった。
 自分で知らなかったことを次々に憶えて相応に上達したにもかかわらず、その因果関係や理由や法則などについては未理解なままになった。
 学習し技術も知識も習得したからこそ相応の成果を上げられるようになったのに、その因果関係や理由も未理解なままになった。
 未理解なことは、応用や活用はできない。


 都会での初めての異性関係も、仕事のための技術を習得したあの年で、精神面も生き生きとしていた時期だった。
 でも、異性関係では、上辺だけ尤もらしく見せかけ、大人振っただけだった。
 信頼し合う関係になれなかったどころか、破綻した。
 異性関係には、仕事での学習経験は全く反映されなかった。


 春の農繁期には帰省しなかったので、会社に事情を話して休みをもらい、秋の農繁期には帰省した。
 農繁期の後に、自動車の普通免許を取得したが、仕事上の学習経験と比べてしまうこともあって、何の苦も無かった。
 ついでに、大型特殊免許も取得した。


 その後、上京し、ほどなく勤務先を変え、更に変え、転職も二転し、タクシードライバーに落ち着きつつあった。


 なのに、すっかり一人前になったような気がしていた。
 もちろん、勘違いだった。


 本来は、知能が備わっていることによって、経験でき、学習でき、小学生の頃には理解力を十分に発揮できるようになる。
 その後、そうであることを具体的に理解すれば、学習能力の活用や精神管理も可能になったはずだった。

 でも、社会人になり、仕事で学習経験をしたにもかかわらず、理解力は発揮できなかった。
 精神的には、未熟だった。
 とても一人前とは言えない状態だった。


 もちろん、当時は、こうして書こうとは思いもしなかった。むしろ、書けなかったから、書こうとも思わなかった。
 手紙も満足に書けなかったんだから。

 でも、見習いで就職した際、知らなかったから困り、できなかったから困り、それゆえに知ろうとし憶えようとしたわけだから、未熟であることが研究心や集中力の源だった。
 つまり、未熟さを自覚できたからこそ、知能も発揮できた。
 そんなことも、未理解だったことになる。

 だからこそ、いつのまにか、すっかり一人前になったと勘違いし思い込んでいた。
 根拠も理由も無い的外れなことに満足してしまったのも、あまりにも未熟だったからにほかならない。

 勘違いや思い込みとはいえ、すっかり一人前になったとなると、学習努力も理解努力も必要無くなる。
 実際には未熟なのに、備わっている能力も発揮しなくなったから、そんな実態を把握することもできなくなったのだ。

 一人前になったどころか、当時すでに、実際には未熟な世界を彷徨いはじめていたようなものだったのだ。

 勘違いや思い込みは、どういうことなのかも、考えたことも無かった。
 自分の考えや判断が間違っているかもしれないなどとは、思ったことすら無かった。
 精神面の弱点などは、知る由もなかった。


 日常的に理解力を発揮していながら、肝心な自分のことに関しては、ほとんど理解力を発揮しなかったのだ。
 備わっている知能の最も優れた面を、ほとんど発揮していなかったことになる。
 やはり、肝心な自分のことは、ほとんど未理解だったのだ。

 
カテゴリ : ◆無知の悟 「俺は、病気じゃない、異常でもない」

0-序 今は……





 惑い迷うとき、そういうことからは離れ、独りで気持ちや考えの整理をする。
 自分の人生を左右することだから。
 他人がどうだとかではなく、あくまでも自分はどう感じているのか、自分はどう思うのか、自分はどうすべきなのかなどを重視する。

 生きていることは、どういうことなのか。それは、直に経験し続けていることでもある。学習能力もあり思考力も理解力もある。しかも、百年前後も生きる。そんなことを具体的に理解することも、超個人的なことだ。
 でも、生きていることがどういうことかは、誰にでも共通する。人工的には創れない普遍的な面は、猫や犬たちと共通することも少なくない。そういうことを理解することにもなる。

 なので、解明できそうなのに、できない場合なども、同じようなことをするようになったのだが……。


 2016年。久しぶりに写真を再開した。
 写真では進展も無く成果も無かったが、意外にも至福の時間を堪能できた。
 あの、具体的な理由を知りたい。
 あれは、具体的にはどういうことだったのだ……。

 一向に進展も無く成果も無い写真撮影に臨むだけに、「今日は駄目だろう」などという余計な考えは排除した。
 きっとあると期待して臨み続けた。
 峰が幾重も見える広大な空間の中で、独りで、自分の撮りたい自然現象になることに期待して過ごした。

 結局、余計な考えを排除しただけだった。
 それ以外は、何もしなかったに等しい。
 結果的にも、写真に関しては進展も無く成果も無かった。
 余計な考えを排除する練習だけをしていたようなものだった。

 なのに、なぜ、至上の贅沢な時間を過ごせているような精神状態になれたのだろう……。

 むしろ、至福の時間だけは堪能できたから、続けていたような気さえする。
 なのに、あの具体的な理由を、なぜ解明できないのだ……。


 具体的な理由を見い出せなかったり納得できない場合は、勘違いをしているからだったり、的外れなことを考えているからだったりする。
 精神的には、錯覚もあり、勘違いもあり、思い込みだってあるわけだから。
 実行できないことや嘘だって、考えるだけなら容易だ。なので、考えには無理も矛盾もありえる。
 目を奪われ、心まで奪われ、いわば洗脳されたとも知らずに翻弄されもするし、そうだとも知らずに有頂天にさえなる。

 否。そういう方に向かうことは、的外れか……。


 日常的には、何かに気を取られたりし、集中的な識別や思考や判断などをしがちだ。
 記憶に残っている情報にも、気持ちや考えは左右され、真剣になったり、集中できなかったりもする。

 その、気持ちを左右したり考えの基になる記憶は、随意に消すことはできないし塗り替えることもできない。
 勘違いや思い込みも記憶されていることなので、もちろん随意に消したり塗り替えたりすることはできない。

 だからこそ、思い出すまいとしたり、考えまいとしたりもする。わざと他のことを考えたり、気を逸らしたりもするわけであり、考えることは随意に行っている。
 随意に行っていることだから、目が覚めている状態で、考えることを止めてしまうこともできる。
 ただし、日常的には、気になることを意識しがちで、集中的な識別や思考が必要になりがちなので、集中の練習をしているようなものだ。
 それとは逆のこととも言える、目が覚めている状態で考えを止めることは、やったことすら無かったりする。
 やったことが無い場合は、少しは練習しないと、できるようになれない。
 でも、何も考えない状態になるだけだ。道具も要らず準備すら要らず学歴や資格や資金も要らない。
 単に考えを止める、その練習をするだけで、できるようになれる。
 もちろん、誰でもできるようになれる。

 何も考えない状態になれると、その時だけだが、記憶にあることや勘違いや思い込みなどとは無関係な状態になれる。
 つまり、消すことはできない記憶があっても、解明できず解決できない勘違いや思い込みがあっても、具体的な理由を解明できないことなどが頭の中にあっても、それらとは無関係な精神状態になることができる。

 それでも、呼吸器系だとか消化器系だとか循環器系だなどと言われる生理面は、自律して機能している。
 つまり、記憶にあることや考えとはほぼ無関係に、もともと絶妙な構造や秩序に基づいて生理面は成り立っている。
 そうであることによって、生きていること自体が成り立っている。
 そうだからこそ、未学習の赤ん坊でも生きていられ、いろんな動物も植物も生きていられる。
 生後に習得する知識や考えとは比較にならないほど、生理面が優れていることは歴然としている。
 むしろ、記憶にあることや考えに対しては、生理面は絶対的な存在だ。

 そんな生理面だけを体験している状態になったからだったのか……。

 が……、「これだ」と納得できる理由ではない。

 至福の時間を堪能していただけに、あのときは、こんなことは考る必要がなかった。
 あのときの記憶を想い出しながら、その理由を探しているからなのだろうか……、納得できる理由は、いっこうに解明できない。




当時の撮影画像より


 もしかしたら、あの広大な空間の中にいたこと自体に、理由があったのか……。

 大自然の広大な空間の中にいただけに、いわば他界へのルートとか他界への扉とでも言えるようなものを見つけられはしないだろうかとも、幾度も思った。
 それは、自分の人生の、まさに最期の課題だ。
 それを見出せていれば、期待して積極的に他界に臨むことが可能になる。
 それを見い出せることは、相応に心の浄化が進んだ証だとも考えられ、備わっている知能を健康的に発揮できた証だとも考えられる。
 人生の内容が、最期のための心の準備に通じていてこそ、生きたに値するものだったとも考えられる。

 心の準備もできないまま死ぬ、その辛さをかつて経験した。
 その日のうちに気持ちが一転し、眠るとそのまま死んでしまいそうな気がして目が冴えてしまい、しばらくは眠れなかった。
 生きるしかなかったが、その最期の心の準備をするためでもあった。
 猫が死んでも、その時の気持ちを教えてほしいと思った。
 せめて、楽しかったのか幸せだったかだけでも教えてほしかった。
 猫が他界へ向かうたびに、言葉では何も話し合えなかったことを惜しんだ。

 その、最期の課題も、いまだに解決はできていない。




当時の撮影画像より



 でも、
 幸福も……。
 愛も……。

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kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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