生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
Copyright (C) 2012 心を開く 心眼を開く All Rights Reserved.
カテゴリ : ◆無知の悟 「俺は、病気じゃない、異常でもない」

5-未理解なまま、知能を誤用し悪用していた。





 肝心な自分のことを、ほとんど知らなかった。
 が、自分のことは、直に経験し続けている。知ることも難しいことではなかった。
 しかも、知る度に、気が楽になった。
 なので、知ったことを、繰り返し再確認するようになった。

 生理面は、自律して機能している。
 だから、通常は未理解でもかまわない。
 でも、そうなんだということも、自分は知らなかった。
 知ったからこそ、確認できるようになった。

 知能(精神機構)自体も、平常どおりに機能している。
 だから、俺は異常ではないし病気でもない。
 むしろ、日常的に、知能上で意識や識別や思考を行っている。
 なので、平常どおりでない場合は、むしろ直ちに気づく。
 平常どおりに機能しているか否かを確認するにしても、道具も必要ないし準備すら要らない。目覚めている時なら何時でもでき何処にいても、各感覚器官や意識や記憶や識別や思考など、それぞれを意識し自覚するだけで平常どおりか否かは確認できる。
 でも、そんなことも、三十歳になるまで自分は知らなかった。
 知らなかった頃は確認はできなかったし、知ったからこそ確認できるようになった。

 知能は平常どおりに機能している。が、知能上の思いや考えは、実行できないことだったり、勘違いや思い込みもあるので、無理も矛盾もありえる。
 もちろん、勘違いや思い込みや無理や矛盾があったとしても、不思議なことではないことになる。
 まさに自分がそうだったのに、そうだったことも知らなかった。
 だから、異常かもしれないとさえ思った。

 そんな思いや考えが、行動や結果を左右する。
 自分の思いや考えしだいで、死んでしまいもする。痛い思いもする。損もする。自分が困ることをさえ行ったりする。
 そうだったことも、自分は知らなかった。もちろん、そんな自分の思いや考えに関することを、自分で把握もできていなかった。
 把握できていなかったからこそ、管理もできす、死のうとした。
 そうだったことに、気づいただけで恐怖を感じた。
 そうだったことに、気づいたり、知ったりしたことによって、思いや考えや行動まで一転した。

 つまり、自分の考えに無理や矛盾があるからこそ、葛藤が生じる。
 現にそうだったのに、そうであることも知らなかった。三年余りも解明できず解決できず、見えない壁に直面しているような状態になり困窮したのも、まさに自分の思いや考えに無理や矛盾があるからにほかならない。

 やはり、自分のことなのに、知らな過ぎるのだ。

 繰り返し確認するようになったこれらは、自分が経験した事実であり、経験上の事実に基づいたことでもあった。
 日常的にも、良かれ悪しかれ事実が明らかになると、相応の識別や判断が可能になるので、相応の迷いは無くなり、想像や妄想も必要なくなる。


 とにかく、自分のことを知ろうとすべきだったのだ。

 そんなことを思いながら、自分の思いや考え自体を捉えようとするようになった。
 いわゆる、内向するようになった。もちろん、当時の自分は「内向」という言葉も知らなかった。
 言葉を知らなくても、猫や犬なども生活しているし、植物だって生きている。
 物事は存在するが、言葉で説明できることとなると、現在でも限られてしまう。


 自分のことを知る必要があった点でも、人間関係を断ったことや、自室にこもったことは、理に適っている。
 理解し合えず、しかも脅かされかねないのなら、親と言えども協力するのは抵抗がある。
 かまっている場合ですらないから、関わることを避けるためにも、自室にこもった……。

 実際には、いろんな理由があって自室にこもったわけだが、それらの理由も当時は把握しきれないこともあって自室にこもった。


 でも、とじこもっていると、後ろめたい。
 自室に独りでいるのに、他人を気にしている。
 この歳になって、肝心な自分のことをほとんど知らないから……。
 思いや考えに無理も矛盾もある。しかも、把握もできていない。
 異常かもしれないと思っていた。異常者扱いされることを恐れてさえいた。
 それらは、知られれば不利なことや不都合なことだとも思った。
 そういうことは、知られたくなかった。
 そんなこともあって、自室にこもった。
 だから、後ろめたかったのか……。

 思っていることや考えていることよりも、実際に行っていることのほうが雄弁だ……。
 知られたくない不利なことや不都合なことがあるからこそ、それを知られまいともするわけだし、だからこそとじこもりもする。
 とじこもれば、知られたくない不利なことや不都合なことがあることを、行動で物語ってしまうことになる。
 具体的なことまでは知らなくても、思いや考えと振る舞いの関係は直結している。
 だからこそ、事実を基に、相応の思いや考えであることを、人は読んでしまう。
 すね、いじけ、強情まで張るのは、相応のことを認めたくないとか、反省し難いとか、謝りたくないからだ。
 実際に行ったことや事実を基に、口先だけの言い訳なのか嘘なのかなども判断される。
 知識や技術を習得して、根拠や理由に基づいたことを行って成果を上げた頃は、言葉で説明する必要すら無かった。

 とじこもれば、知られたくない不利なことや不都合なことがあることを、自分で行動で説明しているようなものだ。
 そうだったから、自室にこもることに後ろめたさを感じたのだ。

 でも、自室にこもったからこそ、気になったわけだし、こんなことが解った。
 他に気づき知り解ったことも、人間関係を断ったからであり、自室にこもったからだ。
 自分が解明し解決すべきことに臨むためにも、自分を知るためにも、人間関係を断って自室にこもったことは理に適っている。

 けれども、こもったことで、他人を気にした。
 不利なことや不都合なことがあって、それを知られまいとして、とじこもっている、と他人に思われる。と、自分で思い、気にするから、後ろめたい。
 後ろめたいからこそ、ますます気にする。
 他人を気にすることに囚われるほど、自分が解明し解決すべきことに臨むことは疎かになる。
 他人を気にすることに囚われるほど、肝心な自分のことを知ろうとすることも疎かになる。
 そういうことだったのか。自分を知ることとは、矛盾することに思いや考えが囚われていたのだ。
 やった。
 他人を気にしている場合じゃない。

 日常的にも、当時は特に、他人を気にしていた。
 そうだったことが、自室にこもったことによって、更に明らかになり、捉えやすくなった。
 よって、自分を知る際には障害だった思いや考えを解明することもできた。


 自室にこもったことを気にすると、他人がどう思うかなどまで気になり、それに囚われてしまうわけだが……。
 思えば、他人を気にしていただけではなかった。
 なんとか上辺だけでも尤もらしく見えるようにしようとし、そんなことばかり考えていた。
 上辺だけでも尤もらしく見せかけるわけだから、不都合だとか不利だと思うことは、当然に隠す。
 むしろ、不都合だとか不利だと思うことを隠し偽るために、上辺だけでも尤もらしく見せかける。
 精神異常者扱いされるよりは、早目に病気扱いされた方が楽だとさえ思った。
 つまり、自分が解明し解決すべきことを、隠し偽ることに囚われていたことになる。
 隠すだけではなく、尤もらしく偽るわけだから、それが露呈することも恐れ、隠し偽ることが増え、それに囚われてしまう。
 だから、死んだほうが増しだとさえ思ったのか……。
 しかも、誰かの所為で死んだかのように装うとも思った。
 なんと、解明し解決すべきことを、むしろ困難にすることや闇に葬ってしまうような思いや考えに囚われていたのだ……。
 心の中の、高さ十メートルもあろうかと思う辺りから明かりが射し込んだのが見えた気がした。


 自分の思いや考えの無理や矛盾を解明する際には、最も矛盾している思いや考えに囚われていたことを解明できた。

 しかも、自分の思いや考えの無理や矛盾が解明できただけで、明らかに気が楽になった。それが、不思議だった。
 つまり、当時は、自分で体験したことをまだ理解できていなかった。
 日常でも、良かれ悪しかれ解明できたことは、相応の具体的な識別や判断が可能になり、相応の迷いは無くなり、想像や妄想も必要なくなるし、むしろ相応の対処や対応が可能になる。
 そういうことは未理解ても、自分を知る際には矛盾した思いや考えであることが解れば、それを止めることもできる。

 それは、自分の思いや考えの無理や矛盾だけに、自分で解明でき解決できた証でもあった。
 もちろん、自分を知ることに集中できるようになっていった。


 当時は、三年余りもの困窮から、その理由を解明しはじめて脱出しつつあっただけに、「英知」という言葉を思いつき、その使い慣れない言葉を使って「英知の扉が開いた」という捉え方をした。

 でも、三年余りもの困窮したのは、自分に関することをあまりにも知らなかったからであり、知能を誤用し悪用さえしていたことすら知らなかったからだった。
 死ねなかったのも、無理で矛盾することだからだった。
 一転して、生きるしかなくなったが、それがむじろ普通だった。
 つまり、知能を誤用し悪用さえし、深く落ち込みがちで鬱状態が多かった。
 それが、知能をまともに発揮するようになったことによって解脱しはじめ、気が楽になった際には躁状態になった。

 三年余りの困窮が前提になるだけに、喜ぶべきことでもあった。
 でも、大事なことが解明される都度、直に経験し続けているはずの肝心な自分のことをあまりにも知らなかったことが問題だったことも、分かりやすくなっていった。
 実際には、やっと平常心を取り戻しつつあったことになる。

 とはいえ、三年余りの困窮が前提になるだけに、十分に期待できる方に向かい始めたことは間違いなかった。
 知ったことや、気が楽になった理由などを、いままでとは比較にならないくらい再確認を繰り返すようになった。
 そういうことを繰り返し再確認することで、知能の本来の能力も発揮されていったことになる。
 自分の内面を見詰め、知る、その練習も本格化していた。


 当時、自分で経験していながら、未理解だったことも、記憶に残っている経験を基に後に理解することになるのだが……。

 日常的に、思いや考えに基づいて、相応の振る舞いや行動をし、相応の結果になる。
 しかも、識別や思考や予想などの情報処理は、条件反射的な速さでできるようになる。
 そういう性質上、それらを客観的に把握することは、二の次になりがちでもある。

 けれども、自分の思いや考えに疑問を感じたりすると、その思いや考えに相応する振る舞いや行動を止めて、思いや考えを確認したり無理や矛盾を探したりたり、解明し解決したりする。
 つまり、振る舞いや行動を止めたり禁止した状態になると、その基である思いや考えが処理されないだけに、活発になる。
 いわば、振る舞いや行動で処理されないがゆえに、相応の思いや考えだけが右往左往する状態になり、その思いや考えを捉えやすくなり、よって解明しやすくなる。

 当時、自室にこもったことによって、そういう状態が創りだされていたことになる。
 理解はできていなかったが、そういうことを感じてはいたからこそ、自室にこもることは理に適っているとも思った。

 このことにも、やがて気づき、意図的に活用するようになる。
 つまり、意図的に行動は止めると、その行動の基になっている思いや考えを把握しやすくなり、解決や理解も可能になる。

 
カテゴリ : ◆無知の悟 「俺は、病気じゃない、異常でもない」

4-困窮し、やっと自分のことを理解しはじめた。





 帰省後。
 根拠や理由があることを行って、損や無駄を減らし、成果を上げることが大事なのだ、と思っていた。
 でも、自分も上辺を繕っているに過ぎない状態だったことに気づいた。が、それも進展だった。
 問題は、異常かもしれないと思っていたことだが、覆すだけの知識が無かった。もちろん、具体的に納得していたわけでもなかった。しかも、受け入れ難いことだった。そうだったからこそ、葛藤し続けていたことになる。
 まして、世に出回っている多数の本に書かれていることは、自分には覆せるはずがない。拒否し過ぎると、むしろ異常者扱いされかねない。そうなることを恐れていた。
 もちろん、当時は、ここまで具体的には把握できなかった。だからこそ、解決できず、むしろ深みに陥ってゆき、三年も経った。
 結局、こんな生き方をして死ぬくらいなら、さっさと死んだ方が増しだと思った。しかも、これは理に適っていると思え、覆せなくなり、思い詰め、実行しようとした。
 が、実行はできなかった。
 つまり、思いや考えに反し、実行することはできなかった。
 その事実関係から、思いや考えには無理も矛盾もあるんだということを知った。
 それでも、生理面は機能しているわけだから、生理面は自律して機能していることも具体的に知った。
 もちろん、死ぬ準備ができていなかったことも、分かった。

 自分に関することで、直に経験し続けていたことなのに、知らなかったことを、ついに知り始めた。


 当時は、主観的だとか客観的だとかは考えたことすら無かった。
 自分のことを客観的に把握することは不慣れだったわけだから、ほとんど主観的だったことになる。
 ところが、考えどおりに、実行することはできなかった。
 そこで、そんな自分のことを、客観視した。
 そして、精神面と、生理面は、きわめて異質であること気づいた。

 精神面は、経験や学習や理解などを以って構成されるだけに、間違いも勘違いも思い込みもあり、考えには無理も矛盾もありえる。
 よって、疑問視や確認をする。だからこそ、間違いや勘違いなどは修正されて、詳しくもなるので、間違いや勘違いは減少し、それだけ成果をあげられるようになる。
 もともと、精神面は、疑問視や確認が必須だった。と言っても過言ではないことになる。

 生理面は、精神面に無理や矛盾があっても機能しているし、むしろ本人が生理面をまったく未理解でも機能している。だから、自律して機能していると言われる。
 自律して機能しているからこそ、通常は未理解でもかまわない。
 むしろ、自分がまだ知ることができない次元で身体が形成されて誕生するわけだし、自身を解剖するわけにもいかず、生理面を理解することは本質的に容易ではない。それでも、通常はかまわない。猫や犬もそうだし、動物に限らず植物までも、そうなんだから。つまり、生理面は、人の理解力を超越していて、絶妙に構成されている秩序に基づいているからこそ自律して機能していることになる。

 つまり、精神面と生理面が、きわめて異質であることに関しては、もともと歴然としていることであり、誰でも直に経験し続けていることでもあるので、むしろ詳しく理解できていても不思議なことではない。
 でも、自分は、当時、気づき知った。具体的に知ろうもとしたが、当時は、ここまで具体的には把握できなかった。

 でも、言葉を使わない猫や犬や人の赤ん坊でも、その振る舞いから察すると、感知している事実や記憶に残っているイメージを参考に識別や思考もしていることになる。
 困窮していた自分にとっては、意識し解明や解決すべきことは精神面であることが明らかになったことになる。
 そうであることは、具体的に理解するまでもなく、意図的に的を絞ったわけでもなかったが、自分の精神面の把握に的は絞られた。


 気づけなかった頃のことや、気づいたことによって気が楽になった事実上、更に具体的なことを知ろうとした。

 自分の考えに無理も矛盾もあったことは明確になり、そんな自分の考えに恐怖を感じた。
 そんな自分の考えに基づいて、行動までしようとした。強行したら、何もかも終りだった。自分の考えや行動を自分で把握できていなかったことも明らかになった。それゆえの恐怖でもあった。

 そんな自分の知識や考えは、もちろん頼りにならなくなったことになる。
 しかも、頼りになる新たな知識や考えは早々に得られるものではないんだから。
 一般的にも、確かで詳しい知識や巧みなことほど、多くの情報を必要とし、それを習得するためには多くの時間を要するわけだから。

 その日の夜。
 眠ってしまうことにさえ恐怖を感じるようになっていた。
 眠る方法までも模索しなければならなくなった。
 精神面の不具合の解明や解決は切実になった。

 死んだ方が増しだと思い詰めたその日のうちに、気持ちや考えが一転し、生きるしかなくなっていた。


 朝。
 目覚めたら、意外だったほど、気は楽になっていた。
 前夜、眠りそうになると、そのまま死んでしまいそうな恐怖感に襲われ、なかなか寝付けなかったのに……。
 その翌朝とは思えないほど、必死さや真剣さは無かった。むしろ、冷静だった。


 意識や識別や思考や判断などの基本的な能力は、目覚めているときにしか発揮できないし、本人の意思に因る。
 気になることを意識し、識別し、考え、知ろうと確かめもするし、もっと具体的なことを理解しようともする。
 逆に、想い出すまいともするし、考えまいともし、見聞きすらしないようにもする。
 生存上でも保身は必須で、わざわざ労働をして得た私物も守ろうとするし、不利だとか不都合だと思うことは隠し偽りもするし、企業秘密や黙秘権は公認されている。
 言い訳もし、嘘も吐くし、暴力的でも正当防衛までは容認される。
 人にもよるが、自分に都合良く行動させるために、御機嫌取りもし脅しもし、騙し欺きもするし、詐欺もある。
 しかも、口封じさえし、自殺もあり、殺人もあり、国際平和を左右する地位にある一国の首相なのに戦争し見知らぬ同士が殺し合う。
 つまり、思いや考えには、間違いもあるし勘違いや思い込みもあり、無理もあり矛盾もありえるし、知能を誤用もするし悪用さえするようにもなる。

 現にそうであることを、具体的に知っているほど、それらに関して具体的に判断することもできるので、むしろ間違うことや勘違いすることは少なくなる。
 でも、そんなことも、当時は知らなかった。

 誰でも、知能が備わっているだけに、経験でき、学習し、上達もし、会話で理解し合えるようになる。
 根拠や理由が乏しかったり、無理や矛盾があると、理解できないし納得もできない。だから、必要なら確かめもする。その結果、根拠も理由もあって理に適っていると、理解でき納得もする。
 学習力も思考力も理解力もあるからこそ、約束やルールや秩序に基づいたこともでき、信頼し合い尊重し合いさえする。
 よって、日常的に経験していることであっても、考えたり確かめたり試したりしたことほど、具体的なことを知ることになり詳しくもなる。
 具体的な判断ができるようになるほど、間違うことや勘違いすることは少なくなる。
 そんなことも、経験済みだったわけだが、当時は未理解だった。

 つまり、日常的に経験していることであっても、考えもせず確認もしないことは、知らないままだったりする。
 知らないことほど具体的な判断はできないので、間違うし勘違いもするし思い込みさえする。
 そんなことも、当時は知らなかったことになる。

 そんなことを知らなかったからこそ、精神面が異常かもしれないと勘違いしつつあったわけであり、異常者扱いされかねないと思い込みそうにさえなっていた。
 しかも、覆すだけの知識も無かった。つまり、具体的に納得したことでもなかった。そうだったこともあり、受け入れ難いことでもあっただけに葛藤していたことになる。
 そこに、自分が困窮した理由があったわけであり、解明できれば解決できたわけだが、そこまで具体的に把握することも当時はできなかったからこそ困窮したことになる。

 ところが、そんな状態で、思い考えには無理も矛盾もありえるんだということは分かった。
 思い考えには無理も矛盾もありえるのが普通であるなら、むしろ多少のことでは異常とは言えないことになる。

 つまり、思い考えには無理も矛盾もありえるんだと分かった時点で、異常かもしれないという勘違いや思い込みは崩壊しはじめたと考えられる。
 もちろん、思いや考えには無理も矛盾もありえるんだということが明確になっただけ、勘違いや思い込みの崩壊も顕著だったと考えられる。

 少なくとも、いろんなことに気づき知った。経験済みなことなのに知らないこともあるんだということも明らかになった。思いや考えには無理も矛盾もありえることも知り、勘違いや思い込みは崩壊し始めた。自分が解明し解決すべき的も絞られていった。
 それゆえの冷静さだったと考えられる。


 死んだほうが増しだと思い詰めた翌日の朝とは思えないくらい、冷静だった。

 想い出した。
 眠りそうになると、そのまま死んでしまいそうな恐怖感に襲われて目が冴えてしまい、なかなか眠れなかったので、眠る方法を模索したが簡単に分かるはずがなかった。
 結局、「もう、本当に死んでもかまわない」と覚悟を決めた。
 そしたら、いつの間にか眠ったのだった。
 その因果関係も、当時は把握できていなかった。
 ただ、そんな夜の、翌朝とは思えないほど冷静だった。

 誤解されるようなことを自ら行うことだけは、慎んだほうがいい。
 そのためなら、自室にとじこもったってかまわない。
 無理も矛盾もある自分の考えや行動を、自分で把握できていないわけだから。
 もちろん、自分に言い聞かせていた。
 自室にとじこもることは、自分の場合は決して間違った行動ではない。むしろ、間違ったことをしないために必要なことなんだ。この判断は間違っていない。
 そんなことを思い、自室に閉じこもっていることに引け目を感じなくなったわけだから、更に冷静になった。


「俺は、病気じゃない、異常でもない」


 
 そして、ふと気づいた。
 目は、見えている。
 耳も、聞こえている。
 意識だって、ある。
「俺は、病気じゃない、異常でもない」
 しかも、普段でも分かることだったので、今更のように、単に自覚することを以って確認した。
 目は見えている。部屋の中も見えている。窓の外も、遠くの峰々も、空も、見えている。
 耳も聞こえている。遠くの、微かなざわめきも、小鳥の声も、聞こえている。
 鼻も機能している。何かの匂いがしているが微妙で、何の匂いなのかを特定できないだけだ。
 舌も機能している。唾液の味なのか、いつもと変わらない味だが、たしかに味がしている。
 皮膚感覚も機能している。座っているので尻は押されていることが分かるし、随所で衣服が触れているのが分かるし、温度さえ感じている。
 もちろん、意識もある。物事を識別することもでき、現に考えることもできるし判断もできている。
 知能や、その基本的な機能は、平常どおりに機能していた。
「間違いない。俺は、病気じゃない、異常でもない」
 知能や基本的な機能が平常どおりに機能していたことに、気づき、確認し、知っただけに、明らかに気が楽になった。

 平常どおりに機能しているか否かだけに、それは普段でも分かることだった。
 確認するにしても、道具も要らず準備すら必要無いことだった。
 でも、その時までは考えたことも無かったことだった。だから、知らなかっただけだった。

 平常どおりに機能していることを知らなかったからこそ、むしろ精神面が異常かもしれないと勘違いし、異常者扱いされかねないと恐れ、思い込みそうにさえなっていた。
 しかも、具体的に納得したことではなかったし、受け入れ難いことでもあったからこそ葛藤していた。

 ところが、精神面は平常どおりに機能していることに、気づき、確認もできた。
 よって、異常かもしれないという勘違いや異常者扱いされかねないという思い込みは、かなり崩壊したことになる。
 思いや考えには無理や矛盾もありえることなどを知った段階でも、異常かもしれないという勘違いや思い込みは、かなり崩壊していたと考えると、この段階でほぼ崩壊したと考えられる。


 もともと、精神面に関することは、誰でも最も直に経験し続けていることである。
 相応のことが記憶にも残っている。
 だからこそ、普段とは違うだけでも気づく。どこかが痛かったり、見えなくなったり、聞こえなくなったり、異常があれば直ちに気づく。むしろ、不具合程度のことがあっても、気になる。
 言い換えると、普段は、不具合が無いだけで、平常どおりに機能していると判断され、異常だなどとは思いもしない。
 そうであることを知っていれば、そのことに関しては勘違いもしない。

 もちろん、日常的に経験していることでも、考えたり確かめたり試したりするほど、知ることにもなり詳しくもなる。
 つまり、日常的に経験していることであっても、考えもせず確認もしないことは、知らないままだったりする。
 こんなことも、当時は知らなかった。

 肝心な事実を知らないことだからこそ、そのことに関しては勘違いもする。
 肝心な事実を知らないからこそ、勘違いを覆すこともできない。
 覆せないことだからこそ、場合によっては思い込みもする。
 でも、具体的に納得したことでないと、受け入れ難い。
 そういうことも、考えたことすら無かっただけに、当時は知らなかった。

 つまり、異常かもしれないとか異常者扱いされかねないという概念は、肝心な事実が伴わない勘違いや思い込みだった。
 もちろん、そうであることも当時は知らなかった。

 ところが、精神面が平常どおりに機能していることに、たまたま気づき、単に自覚することで確認もできた。

 やはり、異常かもしれないとか異常者扱いされかねないという勘違いや思い込みは、肝心な事実が伴わないだけに、この段階でほとんど崩壊したと考えられる。


 ところが、問題は、「自分のことをあまりにも知らないことなのだ」ということが一段と明らかになった。

 三年前のあの日、自分のことを勘違いしていたことに気づき、落ち込み、平常心を取り戻すことができなくなったことで、肝心な自分のことをほとんど知らなかったことは決定的になり、孤独に陥った。
 つまり、自分に関する、どんなことを知らないのかは、知らないことだけに捉えようも無かった。
「自分のことを知らないということは、どういうことなのか」を、具体的には捉えることはできていなかった。
 が、経験済みなのに、知らなかったことを、次々に知ったことによって、「自分のことを知らないということは、どういうことなのか」を捉えやすくなった。

 もちろん、もっと具体的に把握し、解明しようとし、不具合があるなら修正しようともするようになった。
 その結果、後に解明したことを以てしか、この当時のことは書けないと言っても過言ではないので、こんな書き方をしているわけだが……。

 
応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
相互応援アクセスだけでも歓迎します。
こちらからのお礼の応援アクセスは、
夏期間は随時&随意に致します。
よろしくお願いします。
拍手ボタン等は非表示中です。
プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

最新記事
カテゴリ
最新コメント
リンク
アクセスランキング
応援アクセス、ありがとうございます。
クリックは不要です。

[ジャンルランキング]
心と身体
124位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
メンタルヘルス
17位
アクセスランキングを見る>>
カレンダー
02 | 2017/03 | 04
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
検索フォーム
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
QRコード
QR