生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
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カテゴリ : ◆自分を理解する。

猫だって学習する 2.猫だって学習する


 たくさんの応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 記事の後部に、趣味の写真「普遍に臨む」:朝焼け(日の出)・夕焼け(日の入り)の画像も掲載しました。


 
 猫も、憶える。
 だからこそ、現在地からは見えない所から来るし、現在地から見えない所へ帰ってもゆく。

 自分も、キノコ採りに行くと、初めは探す。
 キノコが生える山や場所を見つけると、記憶にも残る。
 分かりづらい場所だったりすると、自分が分かりやすい印をつけたりする。そうしたことも、記憶に残る。
 その場を去る時も、帰宅後も、記憶にあることは思い出す。翌年も、キノコが生える秋になると、以前に記憶に残ったキノコが生える山や場所を想い出し、そこを目指して出かける。

 猫も知らなかったことを憶えるし、相応のこともしている。間違いない。

 警戒する必要が無いことを憶えれば、猫も警戒しなくなる。
 俺を警戒する必要は無いことを猫たちに憶えてもらおう。

 盆栽の水やりを憶えるために昼休みに帰宅するのだが……。
 猫たちと出会ってまもなかった頃は、猫たちとは会えない日ばかりが多かった。

 しかも、盆栽は、行動しない植物だけに、反応も遅い。それゆえに、植物の生命生理を捉えるのは難しく、症状が表れたときには手遅れだったりもする。
 その点、猫は行動するだけに、警戒心も率直に表れる。もちろん、言葉は話せないだけに、言い訳や嘘は言えない。つまり、猫の気持ちや考えの方が捉えやすい。よって、対応もしやすい。
 というわけで、猫も学習をしているんだということを、もっと具体的に捉えようと思うようになった。


 植物も、生命生理は自律して機能している。
 つまり、そんなことを理解できる知能は、植物には備わっていないと考えられ、学習しているとも考えられないし、植物は生きるための行動もしない。それでも生きているのは、生命生理が自律して機能しているからにほかならない。
 それどころか、人が雑草と言う植物でさえ、成長もするし、花も咲かせ、結実し、世代交代もし、種族の存続までしている。
 むしろ、人の理解力こそ拙い。
 栽培してみると痛感するが、植物の健康を維持する場合は、その植物の自律している生理面を、どれだけ管理人が理解できているかに左右される。
 知識が無いがゆえに、死なせまいとし、安易に水や肥料をやり過ぎて、結局、殺すようなことをしていたりした。

 猫も、生命生理は自律して機能している。
 つまり、そんなことを理解できる知能は猫には備わっていないと考えられるが、生命生理は自律して機能しているから生きている。
 世代交代もするし、種族の存続までしている。つまり、太古から繰り返されて継続されてきたことを、継続させていることになる。
 生命生理自体が、絶妙な秩序に基づいて自律して機能しているからにほかならない。

 猫には、知能も備わっている。
 自分の知能も、自分は創作不可能どころか、考案すらできないほど巧妙にできている。
 むしろ、人は、知能上で、尤もらしく見せかけもするし、本当らしく工作もするし、優れたことであるかのように捏造さえする。
 そうだとも知らず、的外れな勘違いをしたり、とんでもないことを思い込んだり、そうであるにもかかわらず慢心したり有頂天になったりさえする。
 それでも、知能の構成要素である視覚や聴覚や嗅覚や味覚や触覚などの各感覚器官や意識や記憶力なども、生理的には自律していることによって機能している。
 つまり、すでにそうであることを、備わっている知能上で理解することはできなくても、知能はすでに備わっているわけだし、知能自体は生理的には自律して機能している。
 そうであることは、猫だって同じなのだ。

 知能自体は生理的に機能しているだけに、そうであることは直に経験でき、環境上のことも経験できる。
 経験相応の印象が記憶に残る。良いことであれ悪いことであれ、繰り返し経験することほど確かに記憶に残るし詳しく記憶に残る。
 記憶に残っていることを参考にした識別や思考や判断などの情報処理が可能になる。
 子猫たちは母猫にはついて歩くが、俺のことは警戒していたわけだから、見分けていたわけだし、自分を守っていたことになる。
 しかも、猫は行動する。つまり、記憶に残っていることを参考にした識別や思考や判断などの情報処理ができていることを証明しているようなものだ。


 人は、知能上で、学習し、上達もし、会話できるようになる。つまり、会話を通じて、目には見えない理由などを理解することもできるようになり、理解し合えるようにもなる。
 が、自分がすでにそうしていることをすら、数年前までは自分は未理解だった。つまり、日常的に思考力や理解力を発揮していたのに、そうであることをさえ具体的なことは未理解だった。
 日常的に識別し思考していて行動上の中枢でもある知能が平常どおりに機能していることをすら、数年前まで自分は知らなかった。
 直に経験し続けていたはずの生理面が自律して機能していることも、数年前に初めて少し具体的に知った。
 知能も備わっていて、学習もし、思考力や理解力を発揮できるようになり、それらのことを具体的に理解できる準備が整ったのに、そういうことをほとんど未理解だったわけだから、直に経験し続けている肝心な自分のことをほとんど未理解だった。
 つまり、思考力や理解力を発揮していることと、どういうことを理解しているか否かは、別問題なんだということも未理解だった。
 もちろん、思考力や理解力を発揮していることと、そうであることを具体的に理解できているか否かは、別段階なのだ。

 会話を以て理解し合えることは事実なのに、普遍的なことに基づいた基本的なことで共通で重要なことを未理解だと、その共通で重要なことを親子でさえ理解し合えなかったりする。
 理解し合えないと、会話には限界を感じる。
 反省しないどころか、認めまいとし、すね、いじけ、そして泣き、ヒステリックになり、自棄的になり、ついに逆上さえするとなると、自分の言及の仕方に疑問を感じ、下手な言及は逆効果にしかならないのだと痛感する。

 が、猫とは、人が使っている言葉で会話することはできない。言葉で説明して、猫と理解し合うことはできない。
 ということは、会話以前の段階のことが、猫たちと仲良くするためには大事なのだ……。


 猫たちと会えたときは、警戒する必要が無いことを憶えてもらおうと、食べ物をあげて、距離を縮める努力をした。

 猫にも知能も備わっているからこそ、知らなかったことを憶える。
 憶えたことは、見分けてもいる。聞き分けてもいるし、嗅ぎ分けてもいる。つまり、憶えたことに相応することも行っていることになる。
 もちろん、知らなかったことを憶えることができ、相応のこともできるようになる。
 これは、間違いないはずだ。
 すでにそうであることを、自分も今更のように具体的に理解しているわけだから、何かを具体的に理解できているか否かは別問題だ。
 自分が経験し続けていることであっても、確かめて、事実関係を整理したことだけは、具体的に理解したり納得したりすることになるわけだから。

 むしろ、言葉を話せない人の子供も猫や犬なども、言葉では語り尽くせないほどの情報処理は行っているのかもしれない。
 空を飛んでいる小鳥たちでさえ、木々の間を巧みに通り抜けて、上手に枝に止まる。

 まだ言葉を話せない人の子供も、人見知りをするようになる。
 つまり、人を見分けるようになる。
 まだ言葉は知らなくても、知っている人なのか、知らない人なのか、それは見分けるようになるからだ。
 言葉は知らない幼い頃でも、いつも会っている人のことは記憶に残っているだろうし、会ったことが無い人のことは記憶にも無い。
 むしろ、いつも会っている人のことは、いろんなことが記憶にも残っている。初めて会う人は、どんな人なのかが記憶に無い。
 相応のことが記憶にある人だから、抱っこして欲しいとも思うだろうし、手を伸ばしもする。が、どんな人かを知らない人である場合は、それゆえに不安になり、泣いてしまったりもするのだろう。
 知能は備わっていて機能もしているが、その機能上で可能になった内容がまだその程度だということになる。

 学習し、上達して、大人になっても、言葉で話せることは限られている。
 むしろ、記憶に残っているイメージの方が、多いし、行動上は重要なのだ。
 記録や伝達や会話などの都合で、図案化や記号化や標識化もするし言葉にし文章化もする。
 しかも、視点を変えた捉え方もするし、敬語を使ったり、特有の文体を使ったりもする。
 それは、言葉で話せることは、限られるからだ。本人が習得している語彙に限られるし、本人が習得している文法に左右されるし、立体的な構成は難しいわけだから。しかも、言葉にする段階で、間違いもするし、言い訳も言えるし、口先だけの嘘も言える。
 やはり、言葉にして話したり理解したりする以前の段階の、実際に感覚で感知している物事や、それが記憶に残った情報など、間違いや嘘が無い方が、重要だし、分かりやすいのだ。

 自分は、ああだこうだと考えて理解しようとするわけが、理解できているか否かは、猫たちの場合はやはり別問題なのだ。
 自分も、直に経験し続けている自分自身のことなのに、殆ど未理解だった。未理解なことは、識別できないし自覚もできなかった。
 自分の思いや考えの無理や矛盾ゆえに困窮したのに、そんな無理や矛盾をすら把握できなかった。だからこそ解決できず、むしろ困窮したわけだから。
 でも、困窮ゆえに、その真因である自分の思いや考えの無理や矛盾を解明でき解決できたわけだし、やっと経験上の自分のことを理解しはじめた。すでに三十歳だった。
 だから、つい把握しようとし解明しようともし理解しようともしてしまうわけだが……。
 それ以前の段階の方が、シンプルで、しかも言葉に依る嘘は無く、分かりやすいということになるか。


 自分の思いや考えの無理や矛盾を解明でき困窮を解決でき、経験上の自分のことを理解しはじめた、その二年後のことだった。
 自分の心の整理も不十分で、自分の精神面に関する理解も不十分だった。
 だからこそ、たまたま出会った猫たちが、警戒心丸出しだったので、その精神面の方が把握しやすく理解しやすいと思えたのだった。


 猫たちは、昼休み頃には食べ物を貰えることを憶えたからか、しだいに会えるようになった。

 母猫について来る子猫は2匹か3匹なのだが、子猫は全部で5匹いることが分かり、1匹だけ真っ白い子猫がいることも分かった。

 警戒心よりも食べ物が優先なのか、食べ物には直ぐに寄ってくるようになり、子猫たちは所有権を主張するような唸り声をだしながら貪るようになった。
 猫にも、気持ちもあるし、考えてもいるのだ。

 盆栽の水管理を憶えるよりは、猫とではあるが仲良くなることの方が楽しみになった。

 陽は短くなる一方で、農繁期もピークになったが、猫たちと仲良くなれることへの期待は着実に育っていった。


 農繁期も一段落し、薪ストーブを使い始めた。
 母猫についてくる子猫は二匹になった。
 弱肉強食の世界の淘汰や試練なのだろうか……。

 すぐ近くで暮らしているのだろうかと思うほど、猫たちは頻繁に来るようになった。
 猫たちに食べ物をあげる場所を、しだいに勝手口近くに移動し、やがて勝手口の中で食べてもらい、ついに薪ストーブがある居間で食べてもらった、
 これも学習だ。猫だって学習する。
 警戒心が薄れたのも、警戒する必要が無いことを学習したからだ。
 猫にも、気持ちもあるし、考えてもいる。だから、相応の学習もするのだ。


 ところが、居間の戸を閉めると、猫たちは腰を低くして出口を探し右往左往しはじめ、パニックに陥りそうな様相を呈する。
 外で自由に行動できることで安心も確保しつつ生きてきたであろう猫たちは、逃げ場が無い狭い家の中に閉じ込められるようなことは恐怖なのだろう。
 そこで、何時でも猫が出られるように、戸は十分に開けておくことにした。
 食べ終えると、早々に外に出て行ってしまう。
 でも、かなり学習した。間違いない。

 家に入ると、薪ストーブの傍は暖かい。
 満腹になると、家の中で毛づくろいをするようになり、やがて寝転がって毛づくろいをし、ついに眠るようになった。
 猫にとっては、暖房が魅力なのだろう。
 ストーブの傍で眠るようになった猫たちを見ると、あの警戒心は何処へいったのかと思う。
 寝顔は、警戒心は不要になった証だが、学習した証でもある。
 むしろ、猫も気持ちや考えに基づいて相応の行動しているのだ。つまり、相応の学習をしているのだ。


 子猫は、二匹ともメスだった。
 真っ白い子猫の方を「チビ」と名付けた。
 白い部分が無い茶黒系のトラ柄の子猫を「クロ」名付けた。
 母猫を、「おっかさん」とか「おっかあ」と呼ぶことにした。


 暖房をしているだけに、猫のために開けていた戸を徐々に狭くし、ついに戸を閉めた。
 やはり、猫たちは不安げに腰を低くして出口を探して右往左往しはじめる。
 野良だっただけに、狭い家の中は落ち着かないのだろう。
「大丈夫だよ。いつでも開けてあげるから。ほら」
 屋外に出る勝手口の戸は、猫が出入りするくらい常に開けてある。
 でも、外まではいかなくなり、すぐに居間に戻るようになった。
 外は日増しに寒くなる。やはり家の中の暖房が魅力なのだ。
 それを繰り返すうちに、戸を閉めた状態にも慣れていった。
 学習していることは間違いない。
 繰り返すことで、猫も詳しくなるのだ。
 警戒する必要が無いことに関しても、詳しくなったのだろう。
 それなりのことを考えもしているし、相応の学習もするし、相応の行動をしていることになる。


 日増しに寒くなるので、外に通じる勝手口の戸も閉めておけるようにしようと思い、勝手口内のコンクリートを少し壊して床下に通じる猫専用の出入り口を設けてあげた。
 古い家なので、床下からは屋外に出られる。
 そこから出て行っては帰って来ることを繰り返した猫たちは、確かめているようにも見え、自由に逃げられる状態であることを確認して安心しているようでもあり、楽しんでいるようにさえ見えた。
 居間から出ると、小急ぎに猫専用の出入り口から出かけてゆく。
 でも、外が寒くなるほど、家の中の暖房が魅力なのだろう、帰ってくる。


 居間と勝手口を隔てる引き戸を閉めても、猫たちは平気になった。
 猫たちが出かけたそうなことをすると、その都度、戸を開け閉めしてあげた。
 が、その閉めてある戸を、チビがガリガリと引っ掻き、自分で開けようとするようになった。
 そこから人も猫たちも出入りしているし、その戸を人が開け閉めしているのを見ているし、開け閉めできるものであることをチビが憶えたからこそ、チビは自分で開けて出かけようとしたことは間違いない。
 が、チビは自分では戸を開けることができない。

 ところが、数回目には、戸が少し空き、その隙間にチビは手を入れて、ついに自分で戸を開けた。

 開けることができ、その感触を憶えたからだろう、大胆に後ろ足だけで立ち、両手の爪を戸にかけて、額を柱に押し付けて、見事に開けるようになった。

 繰り返すうちに、チビは自由に戸を開けて出かけるようになった。
 チビが戸を開けるのを待っていたかのように、クロも出かけ、おっかあも出かける。

 猫も、学習するし、上達もする。間違いない。

 そんなことは、教えようも無く、教えたわけでもない。
 つまり、猫は、自分が必要なことは独自に学習するんだ。
 むしろ、人が教えようがないことを、猫は独自に学習する。これは、重要なことだ。


 ところが、チビは開けた戸を閉めることはない。
 チビが戸を閉めることも学習したら、そりゃあすごいことだ……。
 でも、チビは、戸を閉める必要はないのだ。だから、戸を閉めることは憶える必要も無いのだ。
 戸が閉まっていることが必要なのは、人の方なんだから、だから、人が閉めればいい。


 チビは、帰って来ると、閉まっている居間の戸をガリガリひっかき、外からも開けようとする。
 が、外からだと、出る時とは反対の方向に開けることになるからなのか、一向に開けることができない。
「チビか?」
「ニャー」
 その返事を聞いて、戸を開けてあげる。
「おかえり。帰ってきたら、開けてちょうだいって『ニャー』て言うんだよ。分かった?」
「……」
「返事の『ニャー』は?」
「……」

 チビは、外からは自分では開けることができないことを憶えたのだろう。しだいにガリガリやらなくなった。
 その代わりに、「ニャー」と言うようになった。
「ニャー」
 そう言えば、必ず自分が返事をする。
「はい」
 と言って戸を開けてあげる。
「おかえり。帰ってきたら、開けてちょうだい『ニャー』って言うんだよ。黙っていちゃ、チビが帰ったのに人は気づかないんだから」

 帰って来ても、戸をガリガリやらずに、「ニャー」と言うようになっていった。
「ニャー」と言えば、人が開けてくれることも憶えたのだ。
 ならばと、帰ってきた気配があっても、チビが「ニャー」と言うまで待つことにした。
「ニャー」
「はい。おかえり」

 いつのまにか、猫の学習に対する自分の期待も確かになり、言葉も通じているかのように接するようになっていった。


 本能的にできることと、学習したことによってできるようになったことの違いは……。
 知能自体は、備わって産まれるものだけに、進化上形成されたもので、人工的な物ではないこともあって、構成要素も誰でも共通だ。
 知能の能力である、経験でき、学習でき、上達することなど、基本的なことも誰でも共通だ。
 本能的にできるようになることなら、種族では誰でもできるようになるわけであり、種族では共通する。
 でも、知らなかったことを憶えることは、その性質上、誰もが憶えるとは限らない。
 しかも、試行錯誤して学習し、繰り返し練習して上達したことだからこそ、上手に(随意に)できるようになる。もちろん、その上達には、個人的な努力や時間を要する。
 そんな学習の性質上、学習し習得した内容は個人毎に異なる。

 やっぱり、チビは学習している。間違いない。
 クロは、自分では開けようとしないが、チビが開けようとすると見ているし、チビが開けると立って出かける。これも、クロの学習なのかもしれない。


 言葉を知らないチビに、言葉で説明して教えることは不可能だ。
 むしろ、チビは自分が必要なことは独自に学習する。
 しかも、必要無いことは学習しない。
 この方が、重要なのか……。

 人も、まだ言葉を知らない人の赤ん坊には、言葉で説明して教えることはできない。
 でも、知能は備わっているだけに、経験でき、知らなかったことを憶え、できなかったこともできるようになり、上達もする。
 つまり、大人でも教えようが無いことを、赤ん坊の頃に独自に学習しはじめることになる。
 だから、教えないことも憶えるし、大人が憶えて欲しくないと思うことだって憶えるし、大人の口先だけや上辺だけを見抜き拒否もし批判視するようにさえなる。

 大人になってからでも、模索し、試行錯誤して、学習し、繰り返し練習して上達する。そのために必要な、識別や思考や取捨選択などの情報処理は内面で行うことだし、努力は自分でするしかない。
 つまり、自分で必要な情報処理や努力を行ったことは相応に学習するし上達もする。
 自分がそうして学習し上達したことだからこそ、随意にできるようになる。
 良いことであれ悪いことであれ、確かなことを知るほど確かな識別や判断が可能になる。つまり、悪しき結果に通じることは慎めるようになるし警戒するようにもなるので減少し、好結果を期待できることは積極的にもなるから、着実に好結果にすることができるようになる。
 だからこそ、観察するし確かめもするし繰り返し試しもする。よって、詳しくもなり、上達もする。
 五感では捉えることができない関係や性質や条件や理由なども、イメージとして把握できるようになり、具体的に理解できるようにもなり、文章化して説明できるようにもなる。
 わざとやったのか否かも重視するようになり、嘘か否かも重視するようになり、想像や邪推に過ぎないことも分別できるようになる。
 つまり、根拠や理由があって理に適っているかを検証できるようになり、根拠や理由があって理に適っていれば理解でき納得できる。
 もちろん、根拠や理由が乏しいと理解できないし納得できない。冗談だったりもし、納得できなくても妥協もするが、騙されれば損なので必要に応じて不明な部分は確かめる。
 だからこそ、取扱説明書が用意されていたり、教習所や学校まで設けられていたりもし、高度な学習も可能だ。

 そういう、自分で経験し学習し理解できるようになったことが基本であり行動上の中枢でもあり重要なことでもあり、具体的に理解できる準備も整ってゆくことであり、もちろん独自に理解することも可能だったことになる。


 でも、子供だった自分にとって必要だったことは、仲良くし合うことであり、助け合うことであり、そうであることを理解してもらうことだった。

 が、個人毎に、経験内容は異なり、学習内容は異なり、理解できている内容も異なる。
 知能の能力に基づいた基本的なことで、重要かつ誰にも共通なことであっても、理解するとは限らない。
 親子でさえ理解し合えることは限られる。
 大人は自分の思い通りに子供を行動させるために、褒め脅し、競わせ争わせた。
 子供には間違っているだけなのに罰点をつけ正させるが、その先生の間違いを小学生だった自分が指摘したら、先生は逆上した。
 中学校でもそうだった。
 理解し合い助け合い仲良くすることは抑圧され、競い争うことが優先されると、最低限平和であってほしい家庭内で親子でさえ争う。

 共通なことでもなく重要なことではないないことだからこそ、わざわざ尤もらしく見せかける。
 後ろめたいからこそ、本当らしく工作し、必死にさえなる。
 結局、競い争い、暴力的に優劣を決め、優れたことであるかのように捏造する。

 そんなことも見抜きつつ、自分も見た目や上辺を気にするようになった。
 つまり、目には見えないことだが、直に経験し続けている普遍的なことや、誰にでも共通する基本的なことや、具体的に理解する準備が整った重要なことを、独自に理解することも可能だったにもかかわらず、自分は理解しそびれ、自分を見失い、そうであることに気づけなくなったことになる。
 だからこそ、自分は目に見えるものに目を奪われ、自分でも上辺だけ大人振るようになった。

 にもかかわらず、そんなことに気づけなかった頃は、すっかり一人前になったような気さえしていた。
 実際には、知能を誤用し、悪用さえするようになっていたのに、そうであることに気づくことさえできなくなっていた。
 自分が疑問視し批判視さえしていたことに、心まで奪われ、人生まで見失い、そうであることに気づくことさえできなくなっていた。


 目には見えない気持ちや考えを、猫と伝え合えたり分かり合うことができたらすごいけどな……。
 学習できるのは、記憶や識別や思考などの中枢によるものだし、それらは内面的なことなので目には見えない。
 でも、猫にも、気持ちもあり、考えもあり、相応の情報処理などをしているからこそ相応の学習もしている……。
 が、気持ちや考えは目には見えないだけに、言葉を話せないと、伝え合うことはできないし分かりあうこともできない……。

 むしろ、言葉を話せなくても、気持ちは通じるのか……。

 やはり、間違いもあり嘘も言える会話以前の、事実を識別し確かめるしかない段階こそが重要なのか……。

 猫は、自分が必要なことは独自に学習するが、必要無いことは学習しない。

 自分は、言葉を憶えたばっかりに、言葉で唆され煽てられ脅され競わされ争わされた。
 それを、拒否し批判視した。
 が、拒否や批判視に気を取られ、直に経験し続けている肝心なことを理解しそびれたばっかりに、見た目を気にするようになり、上辺だけ大人振るようになり、そんな上辺だけを繕う世界に迷い込んだ。
 つまり、自分は、直に経験し続けていることなのに、生きていることがどういうことかをすら理解しそびれ、肝心なことを理解しそびれ、余計なことを学習したばっかりに、自由や労働を売って拘束され、いわば服従して、その報酬で生活していた状態だった。
 その不満を癒すために、その報酬を全て費やする必要があったのにもかかわらずだ。

 人は野良と言うが、猫は大自然の中で自立して子育てまでしている。太古から世代交代を繰り返して継続されてきた壮大なスケールの進化の一世代を全うし継続させる。

 肝心なことを理解しそびれた自分は、テレビの恋だの愛だの恋愛だのにも、心を奪われた。
 好結果に通じる具体的な根拠や理由は欠けていただけに、自分も上辺だけ真似て尤もらしく見せかけるしかなかった。つまり、騙していたに過ぎなかった。
 本来は理解し合い信頼し合い尊重し合うべきことなのだと気づいた時には、すでに失格していた。


 ちなみに、自分で戸を開けることを学習するよりも、自分で開けることができない戸を人に開けてもらう方法を学習することの方が、高度な学習だと考えられる。
 それに近いことを、チビややり始めていたことになる。
 そうであることを、自分は予感しはじめていた。
 でも、そうであることを、この頃の自分がまだ具体的には理解できていなかった。
 そんな意思疎通に関することも、猫との関係を通じて、具体的に理解する世界へと自分は誘われてゆくことになる。



 

 以下は、現在の趣味の写真「普遍に臨む」です。



 夏至の前後の日の出・朝焼けの撮影は三時起きで、梅雨時なのに雨が少ないだけに、ず~っと寝不足です。
 しかも、朝は、好いのが撮れていない。
 今年は、未熟なのに安易に想像を頼ったばっかりに、まだ撮れていないほど見事な朝焼けを撮り逃がしている。

 でも、夕焼けは、今年最高のが撮れた。
 もちろん、これは理想ではないことを、昨年、撮り逃がして知っている。



20170725-夕焼け


 夕陽が眩し過ぎるくらいの気象条件で、夕焼けも鮮やかになるのだろうか。



20170725-夕陽


 
カテゴリ : ◆自分を理解する。

猫だって学習する 1.猫との出会い


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 気になった方をふと見た。
 そこにいたのは、真っ白い猫だった。
「おいで」
 言葉は通じない……。
『知らないおじさんについて行っちゃダメだよ』って言われた、っていうことも無いよな。
 そもそも、初対面だ……。
 家の裏の方から来たであろう猫は、立ち止まったまま、こっちを向こうともしない。
 俺のことは、知らない。だから警戒しているのだ。
 自分が、ゆっくり半歩進んで立ち止まり、また、ゆっくり半歩進んで立ち止まりしながら近づいた。
 白い猫の後方で一斉に逃げて隠れたのは子猫だった。
 真っ白な猫はめずらしかったので、それにばかり気を取られていたのだが、後方は家の陰になっていて見えなかった。
 子連れだということは、野良だ……。
 近づくのは止めて、しゃがんで黙って見ていた。
 すると、現れては引っ込み右往左往しながら子猫が現れた。また一匹。また一匹。
 母猫は真っ白だが、三匹の子猫たちは、白い部分が無い子が二匹、お腹だけが白い子が一匹だった。
 みんな痩せていて、毛並みが乱れていた。

 でも、逃げ隠れして警戒心丸出しの野良猫たちの気持ちの方が、自分には分かりやすい気がした。
 自分は、人間関係を断ち、自室にこもったからこそ、自分の思いや考えの無理や矛盾は解明できた。
 人は、尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作もし、優れたことであるかのように捏造さえする。
 世間体だ体裁だ礼儀だエチケットだなどと言うが、付和雷同だったり、上辺を繕っているだけだったり、強がりだったりさえする。
 建前や本音もある。本人が居ない所では陰口や噂話をする。外面と気持ちとは裏腹だったり、外面は騙し欺く類だったりさえする。
 そうとも知らず、目を奪われると自分を見失う。心まで奪われると人生を見失う。
 猫が言い訳や嘘を言わないのは言葉を使わないからだが、警戒心丸出しなのは、言い訳は言えず嘘をつけない証でもある。
 だから、分かりやすい。

 子育てまでしているんだから、野良とはいうが自立している。
 知らぬ間に失格していた俺よりも増しなのだ。
 見かける野生動物も自立しているわけだが、当地は積雪一.五メートル前後だけに、そんな中では自分は数日しか生きられないだろう。

 警戒心丸出しで正直な猫たちと、仲良くなるためにはどうすればいいんだ……。
 否、仲良くしていただくには、どうすればいいのだろう……。

 俺を警戒している。が、親を信頼しているから一緒に来ている。つまり、見分けている。少なくとも、知らない相手か、知っている相手か、それを見分けていることになる。
 猫を好きな人もいるが、猫を嫌いな人だっている。
 ということは、俺は警戒する必要は無い相手であることを憶えてもらう必要がある。
 仲良くしたいという気持ちを、分かってもらう必要がある。
 それを望む俺の努力次第なのだ。

 とりあえず、食べ物だ。
「ちょっと待ってろよ。まだ行くなよ。すぐ来るからな」
 そう言いながら家に入り、急いで猫が食べそうなものを探した。
 戸棚に、出汁用の鰯の煮干しがあった。それを5~6匹持って外に出た。
 猫たちは、その場にいた。
 猫たちが逃げない距離を保って、しゃがんで、出汁用の小魚を差し出した。
「ほら、魚。好きだろ。お腹、空いているんだろ。おいで。遠慮しなくてもいいよ」
 が、猫たちは警戒している。
 ゆっくり一歩だけ、自分の方で近づいた。
 が、猫は後ずさる。
 それは困る。なので、その場に小魚を置いて、一個だけ母猫の近くに放り投げて、その場から自分が去った。
 更に、去った。
 もっと、去った。
 やがて、白い母猫は匂いを嗅ぎながら近づいて、それを食べた。
 やった。まさに一歩前進だ。
 子猫たちは、隠れては現れ右往左往するばかりで、母猫だけで食べてしまった。
「また、おいで。明日も、おいで」
 約束は……、無理だよな……。

 短い夏は過ぎ去り、陽は短くなり、秋の農繁期に向けて気持ちが忙しくなる、そんな頃だった。
 猫たちがまた来てくれることに期待して、畑に行くしかなかった。


 警戒心丸出しの猫たちと、仲良くなる。仲良くなれるかどうかは、まだ分からない。相当の時間を要することは間違いない。
 相応のことを憶えてもらう必要があるわけだが、言葉は通じないわけだし。

 自分は、新たな勘違いをしていることに気づけず、むしろ困窮した。
 自身の生命生理は自律して機能していることに、やっと気き、経験上のことを確認しただけでも、空腹や喉の渇きや尿意や便意を我慢するにしても限度があることや、呼吸を止めることにも限度があることから、自律して機能しているんだということを初めて具体的に知った。
 もちろん、不適切な飲食をした場合は嘔吐や下痢もするし、怪我をしても止血して治癒するし、簡単には死なない機構まで備わっている。
 次に、知能肢体は平常どおりに機能していることに、気づき、自覚するだけで確認できることだっただけに各感覚器官や意識や記憶や思考や判断力などが平常どおりに機能しているか否かを確認した。むしろ、それらに異常が生じた場合は直ちに気づく性質上、普段は異常だとは思いもしないことにも分かった。そんなことも初めて具体的に知った。
 でも、その知能上では、実行できないことでも考えることはでき、言い訳もし、嘘も言う。そんな性質上、思いや考えには無理も矛盾もありえることも、初めて具体的に知った。
 よって、事実確認をしていない想像に過ぎず、つまり根拠や理由を必要としなかったがゆえに勘違いし思い込んだことを解明できた。
 更に、想像の基になっていた、子供の頃に抱いた固定概念や先入観も解明でき、覆すこともできた。
 しかも、子供の頃に目には見えないことを理解できるようになり、根拠や理由を重視するようになり、不明な場合は「なぜ? どうして?」と確かめるようになったことが分かった。ところが、大人の理解は得られず、むしろ反抗扱いされ、自分でも自分の気持ちや考えを理解しそびれた。だからこそ、やがて上辺だけ大人振るようになった。なのに、すっかり一人前になったと勘違いし思い込んでいたのだ。
 気づいたことによって確認し、三年間の困窮から這い上がるべく確認したことによって次々に知り、二度と陥るまいと繰り返し確認したことで解明でき解決したが、そんなことにでさえ三年も要した。
 しかも、すでに三十歳になっていた。

 生理面は、自律して機能している。
 知能自体は、平常どおりに機能している。
 知能上の思いや考えには無理も矛盾もありえる。
 思いや考えの無理も矛盾も解明し解決が進んだだけに、同じことに仮に陥ったとしても直ぐに這い上がれることも分かった。
 つまり、そんなことを知らなかったばっかりに困窮し、やっと解明できただけに、精神面の弱点も思い知らされた。が、気づき確認し解明できたことで、何時でも自分で確認できるようになっただけに、二度と陥ることは無いと確信した。

 けれども、本来の自分のことに関しては、未理解だ。
 小学生の頃には、根拠や理由を重視し、思考力も理解力も十分に発揮できるようになった。
 なのに、そうであることをすら理解しそびれ、肝心な自分のことは殆ど未理解なままになった。
 それこそが、困窮した真因でもった。
 すでに三十歳になっていたが、本来の自分としては精神年齢は小学生程度だったからだった。


 残念ながら、自分でもやっと解明できたことだけに、両親が自分で解明できないことを、説得することもできるはずがない。
 でも、自分で分かっていないのなら、間違いの類でもあり、悪意とは限らない。
 むしろ、自分も、自分の思いや考えの重大な無理や矛盾を解明し解決できただけで、精神管理も十分とは言えない。
 安易に、知られれば不都合なことだと思い込んで隠し偽ることは慎みたい。
 まして、尤もらしく見せかけたり、本当らしく工作したり、優れたことであるかのように捏造し、そんなことに満足し慢心し有頂天になることは厳禁だ。


 生理面は、自律して機能している。
 知能自体は、平常どおりに機能している。
 知能上の思いや考えには無理も矛盾もありえる。
 自分を見失いもするし、人生を見失いもし、そうであることに気づき難くもなる。
 でも、知能自体は平常どおりに機能している。だからこそ、解明も解決もできる。
 生理面は自律して機能している、ということは絶妙な秩序に基づいて成り立っていることになる。

 よって、まず自分の知能上の情報処理の健全性を重視するようになった。
 また、本来は自分はどういう存在なのかを念頭に置くようになり、その要でもある学習とはどういうことなのかに関心が向いた。

 その学習を理解すべく、油絵に臨むことにした。
 目には見えないことも存在する。それらを表現したくて、もともと油絵をやっていただけに、真剣になれた。

 盆栽にも興味を抱いた。
 口も利かないし行動もしない植物も、生きている。目には見えないが、生理的には自律して機能している。
 それらを最低限は理解しないと、鉢に植えて維持することはできない。つまり、植物の整理とはいえ、自分の理解力を超越していて、絶妙な秩序に基づいているからこそ生きている状態が成り立っている。
 やってみると、人の都合で鉢に植えた植物だけに、その健康管理は人が行うわけだが、それ自体が容易ではなかった。
 植物の生理を未理解なまま、死なせまいとするあまり、つまり勝手に水や肥料をやり過ぎ、根腐れになり枯れ死してしまう。死なせまいとしているのだが、無知ゆえに、勝手なことをし、わざわざ殺しているようなことをさえしていたりする。
 植物の場合は、悪い症状が表れたときでさえ、知識不足ゆえだと手遅れに等しい。
 が、生命生理が自律していることや、生きていることなどは、共通することでもあり、油絵よりも緊張感があって魅力を感じた。
 以前は、弁当持参で畑に行き、畑で弁当を食べて、昼寝するのだが、自分は盆栽の土の乾き具合や水管理を憶えるために、昼休みに帰宅するようになった。

 あの日も、そうだった。
 そして、そろそろ畑に向かおうとした時だった、
 気になった方をふと見たら、そこにいたのが真っ白い猫だった。


 猫たちとなら仲良くなれそうな気がし、久しぶりに嬉しさを味わいながら畑に向かった。
 畑に向かいながら、猫のことばかり考えていた。
 猫たちの警戒心と、自分が自室にこもったからこそ自分の思いや考えの無理や矛盾を解明できたことと、重なるような気もしていた。

 生理面は、自律して形成され、誕生後も自律して機能している。
 植物だって、猫だって、その生命生理は自律して機能している。
 それは、自分のことをさえ勘違いし思い込みもする俺の理解力を超えている。

 猫にも、各感覚器官や意識や記憶力なども備わっているわけだから、知能も備わっている。
 つまり、経験でき、学習もする。音がする方に向けて耳を動かすのは、音を聞き分けようとしているからだ。匂いを嗅ぎながら歩くのも、何かを嗅ぎ分けようとしているからだ。
 それも、たぶん俺の耳や鼻を超えている。

 さっきの猫たちは、初めて会った俺を警戒していたし、親を信頼しているから一緒に来ていたわけだから、そういうことも見分けていることになる。
 猫も、知らないことは不安なのだ。
 自分だって、知らなかったがゆえに想像し勘違いし思い込んだ。
 でも、良かれ悪しかれ具体的なことを知るほど、的確な判断ができるようになる。
 猫だって、そうなのだ。

 以前、毛の色がパンダのように白と黒がはっきりした猫と、柴犬型の真っ白い犬も飼っていたことがあった。
 あの猫は、冬は犬小屋で犬と一緒に寝ていた。
 あれも、学習だったのだ。


 こうして、猫を相手に、やがて自分が意思疎通に関する学習をすることになる。
 子供の頃には、大人の理解を得られなかったこともあって十分に学習できなかったことを、猫を相手に学習することになる。
 もちろん、もともと社会的適応上でも必要なことだけに、遅れ馳せながら半ば必然的に学習することになる。
 が、猫を相手に、自分がそういうことを学習するであろうとは当時は思いもしなかった。

 野良だから、自立している。
 野生動物の、大自然の中で自立している。
 そんなことを思い、自分も山野に出向くことも多くなり、春には山菜を採るようになり、秋の山でキノコ採りもするようにもなる。



 

 以下は、現在の趣味の写真「普遍に臨む」です。

 もちろん、素人の趣味の撮影です。
 サイズが小さいと、見るに堪えないです。
 というわけで、前回から、画像サイズは1622×1080にしました。
 記事内の画像をクリック(モニタサイズによっては表示された画像を更にクリック)していただくと1622×1080の画像が表示されます。
 なお、当ブログが重くならないよう考慮し、パソコン画面上で画質は落ちが気にならない程度までファイルサイズを圧縮してあります。

 もし気に入った方は、個人使用は自由です。
 好みのサイズの画像上で右クリックし、保存して、ご使用ください。


 実は、今日は駄目だろうという勝手な想像を頼ったばっかりに、めったに見れない格好の朝焼けをすでに撮り逃がしています。
 その後、格好の朝焼けや夕焼けには、まだ恵まれていません。

 ところが、夏至の頃は、名峰:八甲田山から日が昇り、名峰:岩木山に日が沈む。そんな位置関係に郷里があったことを知り、その撮影をしながら、朝焼けや夕焼けを待っています。



20170708-夕焼け 名峰:岩木山


 梅雨を実感したのは、7月末から8月にかけての5日程度だった。
 が、この短い雨天の間に、名峰:岩木山山頂への日の入りを撮るチャンスは逸していた。



20170708-日の入り 名峰:岩木山


 日の出、日の入りは、太陽が明るすぎ、自分は上手に撮れないので二の次しがちだったが……。
 夕陽は、熟した柿のような色になったり、朱泥のような色になったりして、直視も容易にり、撮ってもみる。
 それでも太陽は明るすぎて、撮影画像は暗くなる。
 ただし、靄や霞しだいでは、稀に念願の太陽の色をなんとか撮れたりする。



20170629-夕陽 名峰:岩木山


 入梅は夏至の頃だったが、好天が続いた。



20170629-朝 名峰:八甲田山



 撮影時、念頭に置くことは、空間(空中や中空などと言われる)を撮ること。
 空間は、普段は気にしないが、目の前に開けていて、間違いなく存在する。が、空間には、ピントを合わせることはできないし、それ自体を撮影することはできない。
 ならば、初心者でも撮影を楽しめる朝焼けや夕焼けを撮ることで、その画像に空間も撮り込みたい。
 しかも、朝焼けは、仕事の前に(夏至の頃は3時半頃から)撮れる。夕焼けは、仕事の後で(夏至の頃は19時頃から)撮れる。

 というわけで、野生動物の気配を感じる大自然の宙空の中に自身を置いて撮影に臨む。
 これ自体に、実は魅了されている。

 勝手な想像や邪念を捨てて、天気図と衛星画像で確認し、可能性があれば撮影ポイントに向かう。
 朝夕の特徴なのか、雲は、俄かに発生することもあるが、見ているうちに晴れてゆくこともある。
 また、今年は、意外なほど多くの野生動物を見かけている。撮影後、下山した際、右に折り返すカーブを過ぎたら車の直前を同方向に熊が走った。
 人間関係を離れ、野生動物の気配しか感じない大自然の宙空の中に自身を置いて、望む気象状態になることに期待して待ち続ける。
 一時的とはいえ、勘違いや思い込みもあり無理も矛盾もある思いや考えを捨てると、自分の思いや考えを超越している大自然を体験している状態になる。だから、これに魅了されているのだと考えられる。
 この、勝手な想像や邪念を止めて、大自然が望む気象状態になることに期待して待ち続けることが、心の整理の妙薬に匹敵するような気もしている。
 しかも、その場では思わない。
 その場を、離れてから思う。
 もちろん、望む気象状態にならない時にこそそうだ。だから、懲りずに出かける。

 つまり、望む気象状態になると、その撮影に夢中になる。よって、欲も邪念も発揮してしまうからなのだろう……。
 ま……、そんな時は、そこそこの写真は撮れているわけだが……。

 
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好みや価値観は百人百様ですが、
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kisuke(喜助)

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 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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