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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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カテゴリ : ◆無学な田舎爺の心理学

だんだん明確に…… その3



 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。
 誠に恐縮です。勝手に「応援アクセスなのだ」と自分に言い聞かせて、唯一の励みにしております。錯覚や勘違いや思い込みや独り善がりや自画自賛や自己暗示なども、有効活用できるようになることを目指しております。
 無学で無知で知的に未熟な田舎爺だけに、まだまだ頑張ります。
「応援アクセス」をよろしくお願い申し上げます。
 
 
 近況(個人的な回想時用のメモでもあります)
 
 11月04日 久しぶりの断食。
 11月05日 朝の最低気温0℃。確認したが初氷は無し。降霜は明らかに有り。
 11月11日 昨夜は雨だったが、朝、明るくなってから、標高七百メートルの山の上半分で幾度か風雪。日中、家の辺りでも初雪。
 11月12日 標高七百メートルの山頂辺りの広葉樹はすでに裸で、見えているが山肌が明らかに白い。この程度だと初冠雪とは言わないのだろうか。
 11月22日 除雪機購入。十五年以上も使った二代目の除雪機は、昨年いろいろ不具合があった。故障してから買いに行っても、現代は在庫が無かったりする。よって、丁度好いのが有ったので、購入した。
 11月25日 昨夜は荒れ模様で、今朝は積雪5センチほどで一面真っ白。しかも、雪は降り続いている。


 
 
 
 日照時間が、すっかり短くなった。
 月日が過ぎ去る感じも、年々、速くなっている。
 加速的に速くなりつつ向かっているのは、もちろん最期……。
 残り時間は少なくなる一方、爺になる一方、ということなんだよなあ……。

 でも、若い頃は、自分のことなのに、勘違いし思い込んでいた。
 自分のことなのに勘違いし思い込んでいたことに気がついたことで、肝心な自分のことを知らなかったからだったことが判明し、平常心も保てなくなった。自分の記憶や気持ちや考えの無理や矛盾ゆえだということにも気づけず、よって解決できず、知的未熟さを思い知らされていたわけだが、そういうことなんだということにも気づけなかったほど知的には未熟だった。
 記憶や気持ちや考えの無理や矛盾に拠る葛藤であることに気づけず、解決できなかったどころか激化したので、人間関係を次々に断って、自室にこもり、生活は夜型になり、自分で「精神異常かもしれない」と思い、他人に「精神異常者扱いされる」ことを恐れていた。
 が、自室にこもっていて、しかも夜なのに、他人をばかり気にしていた。そんな自分の気持ちや考えに気がつき、そんな自分の気持ちや考えには気づけなかったほど自分の気持ちや考えが疎かになっていたことに気がついた。人間関係を断って自室にこもったからこそ気づけた、とも思った。
 その後に、肝心な自分のこと以外の、目に見えることに目を奪われたり人為的な優劣に心を奪われたりしていたことにも気がつき、そういう選択をしていた肝心な自分の気持ちや考えの把握は疎かになっていたことにも気がつき、むしろ直に経験し続けていた肝心な自分自身の人生が疎かになっていたことなども具体的に分かった。
 他人の所為にしてしまうと、自分の気持ちや考えに問題がある場合でも解決する必要が無くなる。
 邪な考えに囚われていると、肝心なことが疎かになる。
 独りでなら、省みることも可能だ。他人に知られたくないことも自分で認め難いことでも、本当にそうなのかを確認することもできる。むしろ、具体的に理解するほど気持ちや考えの切り替えが容易になるし、認め難いことを繰り返さないために活かせるようにもなる。つまり、本来やるべきことを優先できるようになり、知的にも成長できる。
 そんなことに気づいたのは、三十歳になってからだった。
 直に経験していたはずの自分に関することを、三十歳になってから今更のように理解するという、すっかり遅れ馳せになった人生だった。
 たまたま通った子連れの野良猫と、仲良くなり、翌春、満一歳で子猫を産み、その子育てを目の当たりにすることができたことで、「生きているということはどういうことなのか」を本格的に考えるようになった。猫は、言葉などによる意思疎通ができないので言い訳や嘘を言えない、だからこそ分かりやすかった。
 当時は、目には見えないが存在し重要なことを理解することに集中し冷静になること優先になり、衣食住も二の次になっていった。良さそうなCDを購入し、パソコンのHDDに保存し、それを古いオーディオで再生してBGMにしていた。が、直に経験し続けていたことである「生きているということはどういうことなのか」を理解することが最優先になり、それ以外の人工的な音などは冷静さや集中の妨げでしかなくなり、テレビもほとんど見なくなった。

 今でも、思いついたことや気になることは、確認し考え、根拠も理由も無いことや無理や矛盾は処理し、誰にでも共通する事実なのか事実関係や因果関係に適っているかなどを整理してみる。
 よって、記憶に残っていることの確認を繰り返すことになり、そのことに関して整理を繰り返していることにもなり、その部分的なことが具体的になる。しかも、関連している他の部分も明らかになったり、全体的に辻褄も合うようになったりもする。
 知能上の記憶や気持ちや考えの無理や矛盾が処理されると、そのベースである人工的には創れない知能の機能や基本的な能力に関しても「そうだったのか」と納得したりすることもあり、詳しくもなる。
 そもそも、人工的には創れない知能も備わっているだけに、自分自身のことだけは直に経験し続けている。ということなど、本来は経験済みで記憶にも溜まっていて、思い出して確認し整理するだけでも分かることは少なくない。
 もちろん、いまだに知的には未熟なのだということも分かる……。
 
 
 突然、成体で出現するわけではなく、受精卵が分化して身体は形成され、その過程は進化の過程を辿っているとも言われる。
 ということは、太古から世代交代を重ね、子孫を未来に存続させ続け、進化を未来に継続させ続けることができた、その子孫が現存しているのだと考えられる。

 呼吸ができないと、窒息死する。飲食しないと、餓死する。心臓が止まると、一般的には「死んだ」と言う。
 よって、この身体は、生き続けるために必要な肺や胃腸や心臓などの臓器で構成されていると考えられる。
 もちろん、この身体は人工的には創れない。むしろ、知的に可能になることは限られ、医学知識や治療にも限界があるし、誤診もあり、医療ミスもある。だから、人は病院で死ぬ。

 自身の内臓などは、俺は見たことも無いし、俺が随意な操作や制御を行っているわけでもない。俺が眠っているときでも機能しているわけだから、俺の知識や気持ちや考えにも関係なく機能していることになり、生き続けるための臓器などは自律して生き続けるために機能していることになる。
 人工的には創れないどころか、自律して機能しているということは、高度で超絶妙な秩序に基づいて各臓器や機構などとの均衡や安定が保たれているのだと考えられ、俺の理解力を超越している。
 もちろん、俺の身体だけではない。生き物の身体は、みんなそうだ。随意な操作や制御は要らないし、相応の知識も無くても、自律して機能するから生きていられる。
 むしろ、俺の知識では健康管理もままならないどころか、健康を害することを嗜好していたり、そうであることに気づけなかったりさえしたわけだから。

 不適切な飲食物だと知らずに飲食しても、自律して嘔吐したり下痢をしたりする。
 不注意で怪我をしても、止血し瘡蓋ができて治癒するなど、簡単には死なない機構まで備わっていて、しかも自律して機能する。
 人に限ったことでもなく、野良の雄猫は筋肉が見えるほどの大怪我をしても、病院に行かなくても治る。
 猫は、消化不良の草と共に回虫を吐き出すが、消化できない草を食べると自律して嘔吐する機能を、回虫を吐き出すために活用としているとも考えられる。

 運動機構や精神機構も備わっている動物は、より高度な生存の維持管理が可能だ。
 まず威嚇をして、争いになることを避ける生き物は少なくない。
 子猫は、言葉による意思疎通はできないが、独自に不安や危険を感じるからであろう、子猫自身が悪いことをしたわけでもないのに独自に逃げ隠れし、つまり独自に安心や安全を確保して、独自に生存の維持管理をしていることになる。
 猫も、記憶や分別なども発揮しているからこそ、当初は警戒しても、異種動物である俺とも仲良くもなり、遊びも好み、俺の目の前でも出産し子育てもした。子育て中の動物は危険だと言われるほど子供の生存の維持管理もし、猫も子猫を隠して護り子育てをすることで知られているわけだから、俺との信頼関係が確かになり猫が安全だと判断できたから俺の目の前でも出産し子育てもしたのだと考えられる。つまり、知的に、高度な安心や安全を確保していたことになり、高度な生存の維持管理を望み目指していたのだとも考えられる。
 このことからは、運動機構や精神機構は、生存の維持管理のために備わっていると考えられる。また、生き続けるための各臓器などの進化と共に、怪我をした際の治癒力など簡単には死なない機構も進化し、運動機構や精神機構も高度な生存の維持管理のための機構や機能として進化したのだと考えられる。
 蛇足だが、人の場合は、誕生当初は自分の手足も思うようには動かせず、十五年前後も保護養育を要する。なのに、その知能上に知り得たことや気持ちや考えしだいで、私利私欲や殺し合いや大量殺人兵器の開発などを行うようにもなり独裁志向で、進化上での本来の機能だと考えられる運動機構や精神機構を生存の維持管理とは真逆のことに駆使するようにもなる。

 生殖機構も備わっていて、受精卵は自律して分化して身体は形成され、生理面は、誕生後も自律して機能し、自律して成長し、自律して成熟し、生理面の子供を産める準備も自律して整う。
 俺の身体もそうだったのに、そうであることを俺が知ったのは三十歳以降で、それまでは気づけもしなかった。まさに生理面は自律しているからであり、自律していること自体に関しては知識は関係ないからでもある。
 人以外の動物も、そうだ。
 植物も、自律して成長し、自律して開花し、自律して結実して、自律して世代交代をする。
 よって、子孫は未来に存続されて一世代を超越して生き続け、一世代を超越して進化も未来に継続される。
 相応の機構や機能は、誰でも共通で、人工的には創れないし、一世代を超越して成り立っているなど、すべての生き物が物語っているようなものであり、いかに優れているかも完成度の高さも地球上に溢れていて歴然としている。

 が、三十歳以前の俺は、直に経験し続けていた自分自身に関することをすらほとんど知らなかった。知能上には、直に経験し続けていることでも知りそびれ、肝心なことを知らなかった俺は、的外れなことを重視していることにも気づけなかった。自分自身以外のことに目を奪われ心まで奪われていることに、気づけなかったからに他ならなかった。
 人の場合、言葉などで気持ちや考えを伝え合ることが可能なこともあって、知能上に知り得たことや気持ちや好みや考えや価値観などは百人百様になり、私利私欲や狡い考えや知られたくなことなどがあるほど非共通になる。だから、理解し合う条件は整っていて、誰でも共通で歴然としていることでさえも、否定したりし、理解し合えなかったりする。記憶や気持ちや考えは切り替えも可能で、会話も可能なのに、会話にすらならなかったりする。
 
 
 人の場合も、本来は……。
 人工的には創れない内臓などは自律して機能していて、制御や操作は要らないので知識も無くても機能する。
 進化上形成されたのであろう運動機構や精神機構は、人にも備わっている。でも、誕生当初は手足も随意には動かせない。よって、空腹でも喉が渇いても自分では対処できず、保護者が対処することで生存は維持管理される。環境への適応上必要なこととも対環境的ともいえる排泄や寒さ暑さや安心や安全などの、生存の維持管理に欠かせない生理現象への対処も保護者がやってくれることで生存は維持管理される。
 けれども、自身のことだけは直に経験し続ける。よって、動くようには出来ていることは分かるのだが、思い通りには動かせない。そこで、独自に模索し試行錯誤して学習をしただけは随意に動かせるようになってゆき、不具合や違和感を随意に修正したことに関しては器用に動かせるようにもなる。
 大人になっても、備わっている機構や機能や能力などの基本的なことは人工的には創れないし変えられないので、むしろ活用して、観察し確かめ試すなどしたことほど微妙な違いも分かるようになり、相応の俊敏な対応もできるようになると巧みな動作も随意に可能になる。

 保護者が対処してくれていた、環境への適応上必要なこととも対環境的ともいえる空腹や喉の渇きや排泄や寒さ暑さや安心や安全などの生存の維持管理に欠かせない生理現象への対処も、随意な動作が可能になることによって独自に対処できるようになってゆき、独自に生存を維持管理できるようになってゆく。

 もちろん、自身に備わっている機構や機能や能力を、本人だけは直に経験し続けることになる。自身に備わっている機構や機能や能力に本人が気がつき、本人が模索し試行錯誤して学習しただけは随意に動かしたり活用したりできるようになる。
 その要であり内面的なことであり目には見えないことである、記憶を参考にした識別や思考なども、本人が模索し試行錯誤して学習しただけは随意に活用できるようになり、目に見える動作などの学習とは密接な関係にあることになる。
 つまり、大人でも間接的なことしか教えようが無いが、本人は直に経験し、大人でも教えようが無い内面的な識別や思考や判断なども、本人が動的な模索や試行錯誤と共に学習し、相応のことは随意にできるようになる。そういうことを、言葉を話せない幼い頃から独自に行ったことだけは随意にできるようになってゆく。
 むしろ、備わっている機構や機能や能力や基本的なことは大人になっても変わらないだけに、幼い子供の内面を察することも可能だ。

 誰でも誕生当初は言葉も話せないし泣くだけだが、発声はできるので言葉にならない発声をしはじめ、身近な誰かの言葉を模倣して口や唇や舌や声帯や呼吸などを随意に調整して片言を発し、口や唇や舌や声帯や呼吸などを随意に微調整をして言葉を上手に話せるようになる。
 人工的には創れない機構や機能や能力などの基本的なことは大人になっても変わらないので、大人になってから外国語を憶える場合と同じだ。

 誰でも言葉を話せるようになり、よって目には見えない気持ちや考えを言葉を介して伝え合えるようになる。
 具体的な意思疎通は、知っている言葉に限られるので、盛んに言葉を憶えようとするようになり、具体的な意思疎通ができるようになってゆく。
 目には見えない事実関係や因果関係に基づいても考えるようになるので、目には見えない理由を知ろうと「なぜ」とか「どうして」などと盛んに問うようになる。
 よって、目には見えない意味や理由やルールなども理解できるようになり、子供の頃にはゲームやスポーツなどのルールも理解し、理解したことに基づいたプレイも出来るようになる。
 もちろん、個人毎に直に経験し続けていることや、誰でも模索し試行錯誤して学習して随意にできるようになったことや、誰でも共通で歴然としていることなどは、自ずから理解し合う準備が整う。

 人の場合も、運動機構や精神機構は、生存の維持管理のために備わっていると考えられるし、進化した機構や機能だとも考えられるし、誰でも共通で歴然としていることを具体的に理解し合うことも可能であり、とても高度な生存の維持管理が可能な条件は揃っていることになる。

 個人毎に直に経験し続けていることであり誰でも共通で歴然としていることなどを理解したり理解し合えた場合は、人工的には創れない生きていること自体の完成度の高さを尊ぶことになり尊び合うことになる。
 むしろ、知能上に知り得たことは、限られ、間違いもあり、言い訳や嘘も可能で、騙し欺くなど狡い考えなども可能なので、要注意だ。
 
 
 幼いとはいえ直に経験し知り本人が模索し試行錯誤して学習したことは随意にできるようになったり理解できたりするわけであり、大人が余計なことをすると、本来は条件が整っていることを学習しそびれたりし、自ずから条件が整うことを理解しそびれたりもし、よって的外れなことや余計なことを学習をしていることに気づけなかったりさえする。
 知らなかったことも憶え、できなかったことも随意にできるようになるからこそ、人の場合は躾や養育も行われたのだろうけど、俺の場合……。
 誰でも直に経験し続けることである人工的には創れない面がいかに完成度が高く優れているかは、誰でも共通で、むしろ生物に共通で、地球上に溢れていて歴然としている。なのだだが、そういうことは考慮していない躾や教育だった。
 誰でも幼い頃に言葉を話せるようになり、目には見えない気持ちや考えを言葉を介して具体的に伝え合えるようになり、目には見えない意味や理由やルールなども理解できるようになり、それに基づいたことも出来るようになる。なのに、そうであることを理解し合うことも無かったし話し合うことすら無かった、そんな躾や教育だった。

 悪意ではなく、あくまでも子供のためだと思ってのことだったのかもしれない。が、理解し合うことには反し、一方的に煽てたり脅したりして子供だった俺を言いなりにならせようとした。そうであることが、子供ながらも分かるようになった、そんな躾だった。
 保護養育が必要な子供だけに、子供同士も仲良くしたい。なのに、子供に、一方的に強い、子供が間違うと、罰点をつける。更に、一方的に強いたことを基に、点数をつけ、子供同士に順位をつけ、人為的に差別的なことをして保護養育を要する子供同士を競わせ、保護養育を要する子供なのに対抗意識や競争心や敵対心を煽って子供同士を争わせて、高成績だと表彰する、そんな教育だった。
 校舎内では帽子を脱げと言っていた先生が、校舎内で帽子を被っていた。なので、小学生の俺が指摘したら、先生は逆上して、俺は走って校門外まで逃げた。
 中学校では勉強をほとんどしなかった俺が、先生手作りのテストの問題に無理があることを指摘した際にも、先生は逆上して黒板拭きを手に睨み据えて俺に迫った。
 戦国武将は、物事を暴力で片付け、自国民を兵士として駆り立てて人殺しをさせる長なのに、偉人であるかのように教えていた。
 いま思えば、生存の維持管理をし、子孫が未来に存続されて世代を超越して生き続け、世代を超越して進化も未来に継続され続けたことで進化して備わっている運動機能や精神機能だと考えられ、生存の維持管理のための機構や機能だと考えるが、真逆の人殺しのために使われていたことになり、尊いはずがないし優れているなどとも到底言えない。それを偉人であるかのように教えることも、真逆だった。
 保護養育が必要な子供だけに親とは信頼回復も試みたが、「反抗する。子供は大人の言うことを聞け。誰のおかげで云々」などと言っては子供の口封じをした。
 知能上の知識や気持ちや考えに基づいたことを行っているわけだから、その行っていることで知識や気持ちや考えを自ら物語っているようなものであり、子供なりに大人の気持ちや考えを見抜いていたわけだが、大人は子供が言っていること聞き入れず子供の気持ちや考えを理解しようとしなかった。
 もちろん、子供の気持ちや考えや主張を理解しようとしなかった大人とは、理解し合えなかったし、話し合うことすら不能だった。
 俺は保護養育を要する子供だっただけに、大人には騙されまい、大人の言いなりにはなるまいと思い、小学校高学年で勉強は拒否した。

 思えば、親に対する不満は、保護養育される立場で、子育てではどんなことが必要なのかも直に経験していたことになり、相応のことを具体的に理解することも可能になり、理解したことは子育てに反映される。そういうことだったと考えると、本来は小学生の頃に理解可能になる人生上で重要なことを俺は理解しそびれたことになる。
 中学でも勉強はほとんどせず、中卒で社会人になり、結局、大人に対抗して公然と煙草を吸い上辺だけ大人振るようになった……。

 二十六歳になって、自分のことなのに勘違いし思い込んでいたことに、気がついた。よって、肝心な自分のことを知らなかったからだったことが分かり、平常心も保てなくなった。でも、実際には知的には未熟だからなのだということには気づけもしなかったほど知的には未熟だからだった。
 三十歳になって、やっと葛藤の理由を解明し解決できたことで、知的にはいかに未熟だったかを思い知らされていたことも理解でき、いかに無知で愚かだったかを自認し、すでに若気の至りで結婚や子育ては断念するしかなかった。
 
 
 こんなことの整理も、もともと文章化することを以て行ってきたが、文章自体に関しても未熟だったことに気がつき、文章自体に関する学習や文章を書く練習も兼ねることになっただけに、文章を書くことに関しても以前よりは成長しているし、書き進めやすくもなっている。
 目標の小説は長文になることは明らかなので、長文の練習も兼ね、誤解が生じるようでは逆効果なので詳しく書くことも心がけるようになったりで、長文になりがちなことばかりで、短文の練習に移行できないので気になっていた。だが、素材は無学な俺の限られた経験だけであり、結果的には、自分の生き様の各部を個別に詳しく書く準備をしていたようなものでもあった。
 一貫して重要だったこと、それは何だったのかも明らかになった。よって、それ以外のことも明らかになり、死に様が百人百様になる理由も明らかになった。それを反面教師にし、逆説的な裏付けにし、安らかに死ぬためには満たされているべき条件や必要な理由も明らかになってきた。
 
 他人の所為にしてしまうと、そんな知的な未熟さに気づけもしないままの自分になり、自分を知的に成長させることはできない。
 具体的に理解するほど気持ちや考えの切り替えが容易になるし、認め難いことを繰り返さないために活かせるようにもなる。
 全面的に相手が悪い場合で、反面教師という学習も可能なわけだから。
 
 
 
 
応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
夏場は、相互応援アクセスは中断します。
拍手ボタン等は非表示中です。
プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 

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