生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
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猫だって学習する 6.そこまでやるの


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 八月の中旬から、天候がなかなか好転しません。
 今年の秋の農繁期は、大変です。
 昨日も雨。今日も雨。なので……。



 チビが舐めてあげるたびに転倒しがちだった子猫たちの、毛がフワフワになった。
 物を見る目や足どりがしっかりするとともに、いろんなものにジャレるようになり、好奇心も旺盛になった。
 子猫たちの可愛いさは、日増しに増していった。

 そして、ご飯も食べるようになった。

「子猫を一匹、うちで欲しいんだけど……」
 と言われ、一匹、少なくなった。

「うちでは、二匹欲しい」
 と言われ、二匹、いなくなった。

 結局、子猫は一匹だけになった。
 残した子猫は、顔やお腹や手足が白く、背中や長い尻尾が茶色の濃淡の縞柄で、雄。
「タモ」と命名した。

 兄弟姉妹がいなくなったタモは、真っ白い母猫のチビとジャレ合うしかない。


 翌日。
 脱衣所を覗くと、チビが、見慣れない毛色の子猫二匹の面倒を見ている。
 え……、どういうこと……。
 二匹の子猫は、いずれも白い部分はまったくない。チビの子猫たちよりも、明らかに小さい。が、同じくらいの大きさだった頃のチビの子猫たちより、ぽっちゃりと太っている。

 そこに、チビと姉妹のクロがやって来た。
 すると、チビが面倒みている見慣れない毛色の子猫の首の後ろをクロが銜え、そのまま連れてゆく。
 クロの毛も、白い部分が全くない。
「クロの子猫を連れてきていたのか、チビ」

 そういえば、チビが出産後、チビと姉妹のクロのお腹も目だって大きくなった。
 やがて、クロは、ご飯を食べにだけ来るようになり、大きかったお腹も小さくなっていた。
 それらから察して、近くの他所の小屋あたりで、クロも子猫を産んだのだろうとは思っていた。
 そのクロの子猫を、チビが連れてきて面倒みていたのだった。
 猫は、自分以外の子供の面倒までみるんだ。
 そこまでやるのか。


 愛情の確かさが、太古から世代交代を重ねて継続されてきた種族や進化を、より着実に未来に継続させることは間違いない。
 太古から世代交代を重ねて継続されてきた種族や進化を未来に継続させる壮大なスケール中の、一世代を全うすることにもなる。
 それに比べると、名誉や権力は私利私欲の象徴でしかない。むしろ、論外だ。科学や医学などとも、関係ないんだから。
 継続され続けた種族は、進化も重ねたのだろう。
 むしろ、医学が無かったからこそ、相応の進化をしたのかもしれないし、そういう種族が存続されたのかもしれない。

 その結果、地球上で最も進化しているのは人だと考えられ、自分も人なのだが……。


 思えば、チビは五匹産んだ。
 が、一匹はイタチか何かに襲われ、チビは子猫を命懸けで守ろうとした。
 そのことをすら、俺は忘れていた。
 それどころか、欲されるままに、俺は勝手にチビの子供を一匹あげ二匹あげた。
 子猫は一匹だけになった。
 俺の愛情は、チビ以下だ。
「ごめんな、チビ」
 こういうことは、やっぱり俺は失格だ。

 チビのお腹を触ってみた。
 タモだけしか吸わなくなった、小さい乳首が並んだ乳房が、すっかり硬くなっている。
 大変だ。こういうことだったのか。
 四匹の子猫が一斉に小さい手でモミモミした乳房だった。
 みんなで、小音ながら喉をコロコロさせながら乳を飲んだのだった。
 幸福感というものを、俺に教えてくれた光景でもあったのに……。
 チビは、寂しかったどころではなかったのだ。


 クロが銜えて連れて帰った子猫を、また、チビが連れてきた。
 それを、また、クロが連れ戻しに来る。
 クロの二匹の子猫も、銜えて連れて歩くには、けっこう大きい。
 子猫の首の後ろを銜えたクロが精一杯持ち上げると、子猫は胎児のように足を縮めるのだが、それでも引きずりそうになる。
 しかも、子猫が大きく揺れるだけに、クロは歩くのも大変だが、子猫も大変だ。
 そんなことをしばらく繰り返した。
 チビとクロは姉妹だけに、仲がいい。
 それにも増して、子猫に対する母猫の愛情はすごい。


 当時、チビの出産や子育てを目の当たりにしたことによって、自分が理解しそびれていたことである、自分が生きている根本的なことに関して考えはじめた。
 つまり、チビによって、気づかされ、考えさせられたことによって、「生きていることはどういうことなのか」、「自分は本来はどういう存在なのか」を念頭に置くようになった。
 よって、気づく都度に確かめるように思考を巡らせ、そうして分かったことをも繰り返し整理するようになり、相応の具体的なことを捉えていったわけだが……。

 当時、不思議だったのは……。

 そもそも、人は、「愛」などと言う言葉まで使う。
 自分は、少なくとも、小学校に六年間通い、中学校に三年間も通い、帰宅してから宿題までやらされた。
 そんな自分が、知りもしなかったし、いつのまにか失格していたことを、猫や小鳥たちが実践していることだった。

 猫や小鳥たちが、そんなことを実践していることをすら、自分は知らなかった。
 むしろ、人は、生存上は重要でもないことだからこそ、尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作もするし、優れたことであるかのように祭り上げさえする。
 そんな大人に、子供の頃には抗議した。が、理解を得られず、信頼回復もままならず、むしろ反抗扱いされ、自分の気持ちや考えの重要さを自分でも理解しそびれた。
 結局、上辺だけだと知りつつも、目を奪われ、自分も上辺を気にし、上辺を比較しがちになり、上辺を基準に考えるようになり、心まで奪われて、上辺を繕うようになった。
 その上辺のために、騙し合いをしたり、裏では知られたくないことや認め難いことまでしたりし、認め難いがゆえに強情を張り、口封じまでし、自殺したほうが増しなことを人は行っていたりする。
 自分も、その類だった。
 それどころか、人は、多くの種族を絶滅させ、生存環境自体をさえ破壊し続け、兵器の開発までしているわけだから、人自体が絶滅危惧種になりかねないことを行っていることになる。
 つまり、小鳥や猫などが惜しみなく発揮している愛情や幸福感が、人には欠落しているとさえ思える。

 少なくとも、自分は、直に経験し続けていることである自身のことに関して無知で、自分が意識し識別し思考していることに関してすら無知だったがゆえに、自分で考えて行っていることが愚かなことであることにさえ気づけなかった。
 が、それゆえに困窮し、そうなった理由や固定概念も、ほぼ解明できた。
 解明でき解決できるわけだから、無知で愚かでいいはずがない。
 よって、「生きていることはどういうことなのか」、「自分は本来はどういう存在なのか」、その根本的なことに関心が向いた。
 そして、野良猫と出会った。

 猫や野生動物たちは、「愛」などと言う言葉は使わない。躾や教育は、見当たらない。上辺や見た目は気にしないし、報酬や名誉や地位や資産や権力などとは無関係だとさえ思える。彼らの世界には、科学者もいないし、医者もいない。
 にもかかわらず、小鳥は、子育てのために巣作りをし、餌を運んできて子育てをする。
 雉の仲間のヤマドリや鴨は自分に目を引くかのように、怪我でもしているような派手な振る舞いをしてまで、雛たちを守る。
 蜂の頭はあんなに小さいのに、巣の前で威嚇をすることで、争いになることを避ける。
 猫は、子供を守るためには命懸けで攻撃する。
 つまり、命を守り子供を守るために、命を惜しまずに愛情を発揮していることになる。
 そうすることによって、太古から世代交代を重ねて継続されてきた種族や進化が、未来に継続される。そんな壮大なスケール中の、一世代を命懸けで全うしていることになる。

 自分は知りもしなかったことを、猫や小鳥たちは実践している。
 そういうことができる具体的な理由を、自分がなかなか知り得なかっただけに、不思議でさえあった。
 猫や小鳥たちが、そんなことを実践していることをすら、自分は知らなかった。
 自分は知りもしなかったことを、猫や小鳥たちは実践している。なぜだ……。
 彼らは、愚かなこともしない。どうしてなんだ……。


 こうして、猫の子育てを目の当たりにしたことによって、「生きていることはどういうことなのか」、「自分は本来はどういう存在なのか」という捉え方が、自分の考え方の根幹として定着していった。

 
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猫だって学習する 5.猫にも愛情がある


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 頑張って秋の農繁期も乗り切ります。
 日増しに忙しさが増し、秋の農繁期は11月中旬まで続きます。

 趣味の写真「普遍に臨む」:朝焼け(日の出)・夕焼け(日の入り)の画像は、掲載を休みます。朝露・夜露でカメラがびしょ濡れになる季節になったので、来年に期待します。
 ただし、色づき始めた紅葉は、仕事をさぼってでも撮る予定。



 突然、聞いたことが無い激しい声と荒々しい物音が、一坪半の勝手口から聞こえた。
 振り向くと、戸のガラス部分の勝手口側を何かが駆け登り、天井を蹴ったのか、向こう側の脱衣所の横の下駄箱に降りたのが見え、音は消えた。
 猫用に設けてあげた出入り口から床下に出たのだ……。
 戸を開けて見ると、一坪半の勝手口の天井にまで尿らしきものが撒き散らされていて、爪痕もあり、明らかに天井の一角を駆けたことを物語っていた。
 脱衣所を見た。
 子猫が一匹足りない。
 猫用に設けてあげた、床下に通じる出入り口から、イタチかなにかが侵入して子猫を襲ったのだ……。
 子供を守るために、チビは天井まで追い駆けたのだ……。

 子連れの野生動物は、危険だと聞く。
 山菜採り中に、音もなく攻撃してきたのはフクロウだった。
 鴨や雉の仲間のヤマドリなどの雌は、知らずに近づくと、自分に目を引くかのように怪我をして飛べないとも思える派手な振る舞いをしながら遠退き、その隙に雛たちは一斉に隠れる。
 もちろん、自身を守るためだけなら、さっさと逃げるだけでいい。
 つまり、雌は、自分の命を犠牲にするようなことをしてまで、子供を守ろうとしていることになる。
 命を守る。子供を守る。これこそが、愛情の証だったのだ。

 チビの子猫は、毛もフワフワになり日増しに可愛さが増すばかりだったが、まだヨチヨチ歩きしかできなかった。
 外に出て、床下を覗いてみた。
 チビの前に、白い子猫らしきものが横たわっている。
「チビ。銜えて、ここまで連れて来い」
 が、言葉は通じない。
 むしろ、俺なんかを頼りにしていないのか……。
 長い竹を持ってきて、その先に子猫を載せるようにして、床下から出した。
 棒の先に乗せた子猫を見守るようにしてチビもついて来た。
 子猫は、生きている。が、威嚇の唸り声をだす。
 チビが顔を近づけても、威嚇の唸り声をだす。
 子猫の首に噛まれた跡があり、顔以外は全く力が入らないのだ。
 居間に連れてきた。
 が、チビが近づいても、子猫は威嚇の唸り声をだす。
 苦痛と恐怖感だけが続いているのだろう。
 三十分余りで、子猫は息絶えた。
「チビ。この子の分も、他の子たちを大事にするしかない」


 そもそも、小鳥も、子育てをするために巣まで作る。それどころか、雛に餌を運んで養育する。
 自分が山菜採り中に、音もなく攻撃してきた、否、威嚇してきたのはフクロウだった。自分が知らずに巣に近づいてしまったからだったが、あれには驚いた。
 蜂も、自分の目の前で空中停止して「それ以上は巣に近づくな」と言わんばかりに威嚇したことがあった。あれ以上、自分が巣に近づけば、攻撃されていたはずだ。
 山中を歩く音だけが聞こえ、カモシカだろうと思い、その姿が現れるのを待っていた。すると、楢の木の根元に黒い子犬のようなものが現れて上を見上げた。その楢の木の上の方にも、黒い子犬のようなのがいたので、子熊だと分かった。
 母熊の気配さえしなかったのは、とっくに俺に気づいていて俺を警戒しているからだ。
 子連れの野生動物も、子供を守るために、他に対しては極めて攻撃的になるので、危険だと言われる。
 背を向けるのも危険だと言われる。
 が、その場を早々に去った。

 思えば、保身上、そんな威嚇や攻撃に気を取られがちだった。
 が、むしろ注目すべきことは、彼らは、事前に威嚇することであり、争いになることは避けようとすることだ。
 しかも、彼らの主目的は、むしろ子供を守ることであり命を守ることだったわけだから、こっちを重視すべきだったのだ。
 未熟な子供を守るためだからこそ、自身が犠牲になるようなことをしてまで、威嚇し、それでもだめなら攻撃する。
 そのために、命を懸ける。
 彼らは、地位や名誉や報酬などは望んですらいないんだから。
 命を守り、未熟な子供を守る。これこそが愛だったのだ。


 それは、太古から世代交代を重ねて存続されてきた種族と進化を、より確実に未来に継続させることでもある。
 太古から未来まで生き続ける、その一世代を、命懸けで全うしていることにもなる。

 ということは、愛が高度であるほど、世代交代を着実に行えることになる。
 つまり、愛が高度であるほど、太古から世代交代を重ねて継続されてきた命が、着実に未来へと継続される。
 よって、太古から世代交代を重ねて継続されてきたであろう進化も、着実に未来へと継続される。
 ということは、愛が進化を継続させていることになり、愛によって進化もし続けたのだ。

 進化して、生命生理が高度に複雑に組織化した生物ほど、成熟するまでに時間を要する。
 よって、産まれてからも養育や保護が必須になり、まさに愛が必須になる。
 養育や保護が必須になったことを考えると、愛の進化も必須だったことになる。
 進化は、愛の進化でもあったのだ。
 いずれにしても、愛と進化は切り離せないものだったのだ。


 もちろん、最も進化しているのは人のはずだが……。

 野生動物や猫などは、実践している。なのに、自分は知りもしなかった。
 自分がやっていたことは、色恋沙汰どころか、まさに大人振っただけの騙し合いでしかなかったことが、これで決定的になった。
 相手を替えるたびに、だらしなくなっていったのに、自分の考えや振る舞いには疑問すら抱かなかった。
 むしろ、自分がやっていたことは、幼児が大人用の道具や材料を使って飯事遊びをしているようなものだったのだ。

 人だけが、わざわざお金を支払ったまで他人に預ける。託児所、保育所、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、などなど。
 でも、人は、進化上では関係ないことや、生存上でも重要ではないことを、尤もらしく見せかけもするし、本当らしく裏付け工作もするし、優れたことであるかのように祭り上げさえする。
 そもそも、収入、名誉、地位、権利、権力、財産なども、私利私欲を象徴するようなものでしかなく、非平和的なものだ。
 それらは、人為的に差別基準を工作することでさえある。
 平和に貢献できる立場にある政治家なのに、裏ではろくでもなことをしていたことが、暴かれたりする。
 犯罪や戦争などを問題視させられがちだが、尤もらしく上辺を繕っているに過ぎない文化こそが、実際には詐欺の類で差別的な人工的物だとさえ考えられ、その温床だったのではないかとさえ考えられる。
 その先にあるのは支配や独裁だ。
 進化を考慮しない。生きていることがどういうことなのかも考慮しない。それどころか、国民に見知らぬ同士での殺し合いをやらせる。
 歴史上に、わざわざ汚名を刻むようなことでしかないんだということを理解できない人が指導者になったりする。
 それらは、幸福や愛とは、非なものだったのだ。

 進化上や生存上の普遍的なことや理解力を超越していることなどは、直に経験し続けることだ。
 が、それ以外のことに気を取られると、直に経験し続けていることでも実感もし難くなる。
 直に経験し続けていることである進化上や生存上の普遍的なことや理解力を超越していることなどを実感できなくなると、相応の幸福感も乏しくなり、よって愛情も乏しくなる。

 しかも、進化上のことや生存上のことは普遍的で生物に共通だが、それ以外の非共通なことや人工的なことになるほど、理解し合うことも難しくなる。
 友達は限られ、更に親友は限られ、理解や信頼が重要な恋人は更に限られ、進化上や生存上のことが重要になる子供を産み育てるパートナーは更に限られる。
 人の場合は、最も進化しているはずなのに、家族や親子でさえ理解し合えなかったりする。
 それどころか、人の家庭内では、悲惨な事態にさえなったりする。

 つまり、進化や生存に基づく幸福感や愛情に関しては、猫や野生動物の方が優っている……、少なくとも彼らの方が徹底している……。
 もともと、通貨を用いず、言葉も用いない、そんな野生動物が実践しているんだから。
 命を守り未熟な子供を守ることが愛なら、愛は、お金で売り買いするものではないし、お金で売り買いできるものでもないんだから。

 むしろ、一見、個人なのだが……。
 実際には、生殖機構も備わっていて、太古から世代交代を重ねて継続されてきた種族と進化を未来に継続させることができる。
 その壮大なことの一世代を、誰でも担えるようにできていることになる。

 自分が無知だったから、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げていること見抜けなかった。
 だからこそ、その上辺だけに目を奪われ心まで奪われたわけだから、自分が愚かだったわけだが……。
 命を守り未熟な子供を守ることが愛だとも知らず、上辺だけ大人振ったわけだから、精神的には大人になっていなかったことになるわけだが、そうであることをすら知らなかった……。

 もちろん、進化に関することや生存に関することを考慮しないほど、産まれる機会に恵まれて生きていられることの幸福感が乏しく、よって命を尊び護る愛情も乏しくなる。
 躾や教育、名誉、地位、財産、権力などは、進化上では障害にしかならないのかもしれない。

 そんなものに、目を奪われ心まで奪われていたのかと思うとゾッとする。

 あっ、そうだった自分の考えを過信するのは厳禁だ。
 自分こそ、勘違いし思い込んでいるだけかもしれないんだから。
 しかも、今の自分にとっては、そっちは邪道でもある。
 数年前に、自分の思いや考えの無理や矛盾に気づくことができ、それを解明できた自分は、まさに恵まれていた。それを、台無しにしかねないことは慎んだ方がいい。
 チビは猫なのに、いろんなことに気づせてくれ、考えさせられ、学ばされることが多い、そんな程度の自分なんだから。

 
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猫だって学習する 4.猫にも幸福感がある


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 趣味の写真「普遍に臨む」:朝焼け(日の出)・夕焼け(日の入り)の画像は、掲載を休みます。
 8月7日撮影後、天候は好転しないまま現在に至り、残念ですが趣味の写真の期待は萎えてしまいそうです。
 当地では、りんご(品種:つがる)の収穫は終わり、14日から稲刈りを始めた方もいて、そろそろ秋の農繁期が本格化します。



 そろそろ雪解けが始まる頃だった。
 チビのお腹が大きくなってきた。
 昨秋、まだ子猫だったのに……。

 そんなことより、妊娠中から、人の声を聞いていると、人に対する警戒心は薄れるかもしれない。
 そう思い、チビのお腹をさすりながら話しかけることにした。
 その都度、お腹を撫でもらいやすいように体勢を整えるチビは、急に馴れ馴れしくなった。


 チビのお腹は、すっかり大きくなった。
 が、いつごろ産まれるのか、それは知らない。
 むしろ、野生動物は、自然界で自立して生きている。
 人は「野良」と言うが、猫も自然界で自立して生きてゆける。

 つまり、人以外は、自分で出産するし自分で子育てもする。

 むしろ、人だけが、出産を手伝ってもらい、託児所、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、などまで用意されている。

 でも、自分は中卒で社会人になったからだったのか、指図されたことを行って、その報酬で生活していた。
 というより、そうしてしか生きられない不満を癒すために、その報酬を全て費していた。
 大学まで行けば、指図する立場に立てたのだろうか。
 そうだとしても、それだって自立とは言い難い。

 異性関係でも、好結果に通じる具体な知識は、自分には無かった。
 テレビでは恋だとか愛だと言う。
 それを真似たが、上辺だけ尤もらしく見せかけることになり、積極的にもなれず、身体を張った騙し合いをしていた。
 そんな関係なら、続ける方がどうかしている。
 相手を替えたが、だらしなくなるだけだった。

 結局、そんな自分の、思いや考えや固定概念の、無理や矛盾を解明し解決するしかなくなった。
 それが、三年前にできた。
 よって、理解し合い信頼し合い尊重し合うことが重要だったことも分かった。
 が、それとは逆のことをしていた自分は、とっくに失格だった。


 チビが、テレビの前に行き、急に座り、お尻をこっちに向けて足を高々と上げ、お腹が大きいだけに窮屈そうに毛繕いをはじめた。
 意外だった。いつもは、ストーブの傍で毛繕いをしたり眠ったりしているのに……。
「チビ、どうした」
 近寄って見ると、チビのお尻から何かが出てきていた。
 産まれるんだ。チビも出産は初めてだから、知らないんだ。大変だ。どうしよう。全く準備をしていない。
 にわかに箱を用意し、勝手口の向こう側にある風呂場の脱衣所に持ってゆき、その箱にタオルを敷いた。
 そして、チビを抱えて脱衣所に連れて行き、その箱に入れた。
 脱衣所側はドアなので、そのドアを少し開けて、閉まらないようにサンダルを挟んでおいた。

「ニャー」
 居間の戸の勝手口側からチビの声がした。
「はい。産まれたのか?」
 戸を開けると、入ったチビは、早々に座り、お尻の手入れをした。
 チビのお尻の周りの毛は濡れていて、血も付いている。
「産まれたんだな、チビ」
 そう言って、居間から勝手口に出て脱衣所に向かうと、チビもついてきた。
 脱衣所の箱の中にいる、産まれたばかりの子猫は、毛は薄く短く、目は開いていないし、上手に立つこともできない。
 目の前の箱に入ったチビは、子猫が居ない側で箱の端に背中を押し付けるようにして寝ると、お腹を出して「かわいいでしょ」と言わんばかりだ。
「かわいいな」

 チビは、産まれたばかりの子猫を、これ見よがしに見せてくれている。
 子連れの野生動物は、子供を守るために、他に対しては極めて攻撃的になるので危険だとさえ言われる。
 母猫は、子猫を隠して守るとも言われる。
 昨秋、出会った頃は、チビたちも一斉にに逃げ惑い警戒心丸出しだったのに。
 こんなに馴れてくれた。
 気持ちを隠し偽り、言葉を使うだけに口先だけの言い訳や嘘も言い、不都合なことは認めまいと強情まで張る、そんな人の精神面よりも、そういうことができない猫の精神面の方が分かりやすいと思ったことは、間違いではなかった。
「チビは、すごいな」
「ニャー」
「大事にしなきゃ、なあチビ」

 チビは、むしろ傍に人がいた方が安心なのだろうか。
 今も、産まれたことを伝えに来たようなものだった。
 そもそも、産気づいたから、人がいつも見ているテレビの前に、わざわざ行ったとも思える。
 最近、すっかり馴れ馴れしくもなった。

 でも、チビは、出産も子育ても自分でできる。
 人以外の動物は、みんなそうだ。


 むしろ、人だけが、そうではない……。
 なぜだ……。
 出産を手伝ってもらうし、託児所、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、そんなものまで用意されている。
 それらが、本来の自立を支援する内容ではないとしたら……。
 それらこそが、本来の自立を妨げているのだとしたら……。
 人は、勘違いもするし、思い込みもするわけだから……。
 そうだとしたら、世代を超えて文化的な悪循環に陥っていることになる。

 そもそも、生命生理は、自律して機能している。
 知能も備わっている。
 よって、経験でき、学習でき、相応のことができるようになり、上達もする。

 警戒心まるだしだったチビたちも、家に入るようになり、ストーブの周りで眠るようになった。
 警戒すべき相手か、仲良くすべき相手なのかを、識別できるようになった。

 仲良くするためのルールに近いことも学習しているし、噛むときや爪を立てるときは加減もしている。
 仲良くするために、慎むべきことを慎んでいることになる。
 だからこそ、仲良くし合う相手も限られている。

 チビは、戸を開けることも学習し、上達もした。
 必要なことは独自に学習するし、上達もする。

 むしろ、言葉を使わない猫には、言葉で強いることは通用しない。
 だから、相応の言い訳や嘘も猫は学習しない。

 人は、言葉も憶える。
 それをいいことに、大人は言葉で、唆しもするし、煽てもするし、御機嫌取りもし、脅しもし、指図もし、命令もする。
 子供は、拒否し、信頼を回復のために抗議もする。
 それを反抗だと決めつける大人こそが、子供に服従を強いているからにほかならない。
 子供にとっては信頼を回復するための振る舞いなのに、大人は反抗扱いするので、過激にもなる。
 でも、まだ保護養育を要する頃だけに、限界がある。
 むしろ、嫌でも、嫌だとは言えない。
 それゆえに、体裁も気にしはじめる。
 不利なことや不都合なことは知られまいとするようになり、隠し偽ることも学習する。
 言い訳も憶える。申し訳程度のことをすることも憶え、上辺を繕うことを憶える。嘘も憶え、騙し欺くことも学習する。
 しかも、経済的には豊かになっただけに、食べ物には困らなくなったどころか、余して捨てるようになった。お金さえ出せば、上辺を繕うことも容易になり、尤もらしく見せかけることも容易になり、優れているかのように見せかけることまで容易になった。
 流行に左右される。行列まで作る。
 そういう性質上、そういうことに満足している場合だってあり得る。むしろ、そういうことを優れていると勘違いし思い込んでいる場合だってありえる。
 大人の代表とも言え、国際平和に貢献できる立場にある政治家でさえ、裏では不正を行っていたことや、不利なことや不都合なことは可能な限り隠し偽り通そうとしたことや、口封じしたことなどが、暴かれたりする。
 自分を制することができないので、他を制しようとする。
 経済制裁や軍事的処罰は、相手を困らせて服従させることであり、独裁や支配を目指していることを物語っている。
 決して、仲良くしようとしているわけでもない。
 そんな人たちが、教育の内容を左右しているわけだから……。

 そもそも、誰にも知能が備わっていて、誰でも学習して相応のことを行うようになり、基本動作や日常会話は誰でも上達する。
 その学習自体の基本面は、誰でも共通だ。
 猫だって、相手次第で、反撃もし警戒もするが、仲良くもなる。
 本質的に、仲良くすることは好み、嫌悪ゆえに避けるし争いにだってなる。
 つまり、経験内容や学習内容には、問題もありえる。
 ということすら、考慮されていないのかも……。

 が、俺は自分のことをさえ勘違いし思い込んでいた。
 しかも、具体的に解明するまで三年も要したのだ。
 この事実を棚に上げたり、自分の考えを過信することは、厳禁だ。

 むしろ、自分の思いや考えや記憶にあることを、疑問視し確かめたことで、その無理や矛盾を解明でき解決できたのだ。
 だからこそ、目には見えないことを捉えやすくなり、誰にも共通することや普遍的なことが分かってきた。
 これが、俺の促進すべきことなのだ。


 人が自分できないことを、チビは自分でできる。
 俺が教えようが無いことを、チビは独自に学習したし、上達までしたのだ。
 チビに対して、俺が余計なことをするのも禁止だ。
 そもそも知識が乏しい俺は、盆栽でも、軽薄なことをしていただけだったり、枯れ死させることだとも知らずに、そんなことをわざわざしていたことまであったのだ……。
 余計なことをすれば、もちろんチビは子猫も隠してしまう……。
 野性的な面もある猫だけに、本当は俺は居ない方が、チビは安心なのかもしれない。
「チビ、どこへも行くなよ。お願いだから」

 自分は居間に戻った。
 子猫が産まれていることを母に知らせた。
「産まれた」
「……」
「おまえは、見に行っちゃダメだ。まだ見に行くなよ。おまえは、普段から猫を見下しているんだから」
 母親なのに、俺のことだって馬鹿息子扱いしてきたんだから。
 そんな言葉まで口から出そうになった。
 両親とは、理解し合えていなかった。


 が、当時は、両親云々どころではなかった。

 かつては、自分のことを勘違いし思い込み、疑問も抱かなくなっていた。
 直に経験し続けているはずの自分のことであり、経験上の自分のことなのに、ほとんど知らなかった。そうなんだということをすら把握できなかった。
 そうだったことに、やっと気づけた。
 なのに、新たな勘違いをし、思い込み、困窮した。そうなんだということも、把握できなかったからこそ解決できなかった。それゆえの、困窮だった。
 でも、その困窮ゆえに、自分の思いや考えには無理や矛盾がありえることに、ついに気づけた。
 気づけたことで、内向しはじめ、やっと自分の思いや考えの無理や矛盾の解明が始まった。
 真因は自分の思いや考えや概念の無理や矛盾だったことをやっと解明でき、再確認を繰り返し、そのことに関しては二度と陥ることは無いと確信できるまでになった。

 人も、知ることによって、相応の識別や思考や予想や、相応の振る舞いもできるようになる。
 不具合は修正するどころか微調整までするからこそ上達するし、間違いや勘違いを修正するからこそ確かになり詳しくもなる。

 が、そんなことが分かって、まだ三年ほどしか経っていなかった。
 まだまだ、他に、惑わされやすく、煩わされがちだった。


 もちろん、間違いや的外れな勘違いや思い込みなどに気づかず、それを基準にして考えると、正しいことを間違っていると判断することになる。
 そういうことを考慮せず、しかも説得や指導もできないのに、相手が間違っていると決めつけることは、横暴でしかない。
 そんな判断を基に、相手を暴力的に片づけようものなら、横暴の極みでしかない。
 しかも、自分でも認め難く反省し難いことを重ねることになり、その悪循環に陥る。
 自分では創れない高度な知能が備わっているのに、そうであることをすら理解しないで、誤用するどころか悪用さえすることになる。
 自分を制することができない、自分を理解できない、自分を律することができない、それゆえに自ら災いを招いてしまうわけであり、恐怖でもある。

 実際には、自分の思いや考えや記憶に残っていることは、自分だけは直に知り得る。
 だからこそ、自分の思いや考えの無理や矛盾を解明し解決することも可能だった。
 人は、知ることによって、相応の識別や思考や予想や、相応の振る舞いもできるようになる。
 悪循環には二度と陥るまいと思いもするし、再確認も繰り返すし、相応に詳しくもなり、更に具体的に理解することも可能になる。
 このほうが、相手の考えを変えることよりも、明らかに容易だ。
 他に奪われていた目を取り戻し、見失っていた心を取り戻し、自分を理解しはじめたから、植物や動物にも共通することで普遍的なことを理解できるようにもなった。

 なのに、自分の思いや考えに疑問も抱かず、自分の思いや考えを変えることもできないのに、相手の考えを変えようとすることは、横暴でしかない。
 自分が説得できず指導できないを棚に上げて、他を処罰してしまうことは、横暴の頂点に立つことでしかない。

 そもそも、自分のことは省みないと理解することができないだけに、他に目を奪われ心まで奪われると、自分を見失う。
 極めて冷静になれないと、自分の思いや考えの無理や矛盾は、解明できないし解決できない。
 身体の余計な力を抜き、内向し、雑念を払い、考えること自体も一時的に止める。それができるようになると、自分の思いや考えの無理や矛盾の解明も容易になる。
 もちろん、知られたくないことも浮上し認め難いことにも直面するわけだが、それゆえに解明や解決や解消が可能になる。

 自らを律することができるようになる必要がある自分にとっては、真の正義と言えることは、自分の思いや考えを疑問視し、自ら邪念を制し、自らを正すことでしかない。
 それは、学歴や資格を必要とせず、資金も要らず、礼儀や作法も無く、何時でも何処でも可能なことでだり、誰でも可能なことでもある。
 それ以外のことは、自分の場合は二の次でいい。
 特に、目を奪おうとし心まで奪おうとすることには、要注意だ。

 両親が、不都合なことは認めまいと強情を張っても、自分が説得も指導もできないわけだから自分も未熟なわけであり、大差ないのだ。
 怒りは、他者を制しようとする横暴さゆえの興奮であり、無理や矛盾がある考えに対して理性が反応しているがゆえに生じる葛藤だ。
 興奮せず理性的にあるためには、自制すべきことであり、そうであることを理性が示唆してくれていると言っても過言ではない。
 興奮するようでは、こういう類の説得や指導もできるはずがない。
 理性を尊重し理性的で在るために、自ら邪念を制し、自らを律することを、まず自分こそが学習すべきなのだ。
 それが、何時でもできるようになってこそ、精神的に自立したと言える。
 更にその先で、説得が可能になる。
 自分の、想像や勘違いや思い込みや固定概念の無理や矛盾に気づき、具体的に解明でき解決できた俺は、恵まれていると思うしかない。

 猫だって、学習している。
 反撃すべき相手なのか、仲良くすべき相手なのか、そんなことも見分けているし、相応の振る舞いをしている。
 噛むにしても、爪を立てるにしても、相手に応じて加減をしているわけだから。
 だからこそ、相応の同志間では仲良くする。
 そんなことに気づかせ教えてくれる猫には、感謝だ。

 じゃぁ、自分を省みさせる、強情な両親にも、感謝すべきか……。
 反面教師だが、そういうことになる……。
 が、そんなことをしようものなら、両親は増々いい気になる。それじゃ、逆効果だ。
 想い出したり考えたりしただけで、怒りが込み上げてくる。
 率直に、「くそ婆」でいいんだ。


 チビが、また産まれたとを伝えに来た。
 また、見に行った。
 目の前で、チビは子猫がいる箱に入り、子猫が下にならないようにしながら寝て、小さい乳首が並んだお腹を顕にする。
「かわいいくて、うれしくて、しかたないんだな、チビ」
「……」
「こうして、子供を産んで育て、その子供も子供を産んで育て、世代交代を重ねることで種族は生き続けているんだよな」
 まてよ……。
 そうすることによって、太古から世代交代を重ねて存続されてきた生命が、更に未来に継続される。
 だからこそ、進化もし続けてきたのだろう。
 それは、一世代だけでは到底不可能なことだ。
 現実的には一世代に過ぎないが、子供を産んで育てることは、太古から世代交代を重ねて継続されてきた生命や進化などの壮大なことを未来に継続させることだったのだ。
「これこそが至福だったんだ。だから、チビは、うれしくて、しかたないんだ。な、チビ」
「……」
「チビは、すごい」

 自分も、三年前、思いや考えの無理や矛盾を解明し、二度と陥るまいと再確認を繰り返し、二度と陥ることは無いと確信するに至った。
 が、考えが勝手に展開しているような状態になり、それが煩わしくなり、何も考えないことは可能なのかにトライした。
 そして、考えを一切止めることができたからだったのだろう、感動し涙が溢れ、これこそが自分自身そのものだ、ついに原点に戻れた、と思った。
 あれは、生後に知り得たことは勘違いや思い込みもあり無理も矛盾もあるが、それとは関係なく生命生理は自律して機能していることを体験している状態になったからだったのだ。
 生後に知り得たことを、生きていること自体が超越していることを体験している状態になったからだったのだ。
 こんなに大事なことに、チビに気づかされるなんて……。
「至福の、御裾分け。ありがとう、チビ」

 チビは、生後に経験し学習してできるようになったことを、生きていること自体が超越していることを実体験しているんだ。
「まだ産まれるんだろ、頑張れ、チビ」


 生きていることは、どういうことなのか。
 自分は、本来はどういう存在なのか。
 そういうことを気にしはじめてはいたのだが、チビの出産を機に、その観点で根本的かつ体系的に捉えようとするようになっていった。


 そもそも、生命生理は自律して機能している。
 生命生理に関することを未理解だろうが、勘違いしていようが、生後に知り得たこととは関係無く機能している。

 知能も備わっている。
 知能も、生理面は自律して機能している。
 よって、経験でき、学習し、上達もし、相応のことは随意にできるようになる。

 知能が備わっているから、経験でき相応のことを習得できるわけだから、経験や学習以前に知能が備わっていることが重要であり、生後の経験や学習上の知識や思いや考えに対しては知能自体は絶対的な存在でもある。

 しかも、自分は、日常的に活用している知能に関することでさえ未理解だった。
 知らなかったことを憶えた理由や法則に関することである学習に関することも、未理解だった。
 自分が考えていることである想像や勘違いや思い込みに関してすら未理解だったから、勘違いし思い込み困窮した。
 よって、生後に知り得たことを以ては、知能は創れるはずがない。
 つまり、生後に知り得たことを、それ以前に備わっている知能の方が超越している。

 もちろん、生命生理は、野生動物も植物も自律して機能している。
 野生動物にも植物にも世代交代をして生き続ける生殖機構などが備わっているからこそ、世代交代をして生き続けている。
 世代交代を重ねて生き続けているから、進化もしたのだろう。
 生殖機構も、すでに備わっている。
 子供を産むことも、生後に知り得たことを以て随意にできるようになることを、超越している。
 つまり、生後に知り得ることを、それ以前に存在する物事の方がもともと超越している。

 そうであることは、生きているだけで体験していることになるわけだが、子供を産むことは、そうであることを象徴するようなことだったのだ。
 自分が、産まれる機会に恵まれ、生きることを体験でき、それが元々はどういうことだったのかを再確認できることでもあったのだ。

 俺は、これに準じる至福を探すしかないんだ……。


 チビは、同じことを繰り返し、そのつど見に行き、子猫は五匹産まれた。
 記録には、三月二十二日とある。
 そろそろ、家の周りの雪は消えて無くなる頃だったのだ。


 父猫は一向に顔を見せないが……。
 産んだのは、チビだ。
 チビの身体からから産まれた子猫は、まぎれもなくチビの子供だ。
 そういう点でも、人より優っているのか……。


 
カテゴリ : ◆自分を理解する。

猫だって学習する 3.猫もルールを学習している


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 8月7日撮影後、天候に恵まれず、撮影は無いまま現在に……。
 よって、趣味の写真「普遍に臨む」:朝焼け(日の出)・夕焼け(日の入り)の画像は、今回は掲載を休みます。



 居間のストーブの周りで、チビたちは過ごす。
 自分は台所で、チビたちのご飯を用意する。
 当時は、現在のようにペットフードは普及していなかった。
 地元の魚菜店から安価な鰯などを買ってきて、水煮し、それをくずして、同量くらいの人用のご飯を混ぜて、いわゆる猫マンマを用意する。
 大型スーパーの出店に押され気味になり、生き残っている地元の魚菜店も、調理済みの総菜を扱う量が増えたとか、生魚を買っても店で三枚におろしてもらう人が多くなったなどと言い、そのアラを貰えるようになった。
 増えはじめた養老施設などもお得意さんだという魚菜店だけに、鯛やハマチなどのアラだったりもした。


 猫と、気持ちや考えを伝え合えないものだろうか……。
 そう思い、ご飯をあげる時には、必ず「ごはんだよ」と言ってから、「『ごはん』と言うのはこれのことだよ」と言いながら、ご飯をあげてみることにした。

 それを繰り返すうちに、「ごはんだよ」と言うと、ストーブの傍に寝そべっていたチビは起き上がって座り、辺りをキョロキョロ見回すようになった。
「はい、ごはん。『ごはん』って言うのは、これのことだよ」
 食べることが先のチビたちは、人が言う言葉には関心は無い。
 目には見えないことでも伝え合える言葉の機能も、言葉を使わないチビたちは知らないのだ。
 でも、警戒心丸出しだったのが、こんなに馴れた。自分も、このことの方が大事だ。

 やがて、「ごはんだよ」と言うと、チビは明らかに寄って来るようになった。
 こういうことも学習するんだ。
 だったら、チビたちが一度に食べきる食事の量を把握し、決して残さない程度あげた方が効果があるはずだ。
 むしろ、お腹が空くくらいの方が分かりやすいはずだ。
 常に食べ物を与えておいたのでは、チビたちは、こういうことは学習する必要すら無くなるわけだから。

「ごはんだよ」
 と言うと、チビたちは小急ぎに来るようになった。
 言葉の意味は分からなくても、「ごはんだよ」という人の発声の後に、ご飯を貰える。こんな事実関係を、チビは憶えたのだ。

 だったら、「ごはんだよ」と言いながら、その食器を箸で叩いて音も出しても、その事実関係をチビは憶えるのか、試してみた。
 それは、数回もしないうちに、反応するようになった。
 人の発声が、食器を叩く音に替わっただけだから、当然なのかもしれない。
 でも、「ごはんだよ」と言うのを、食器を叩く音に替えても、チビたちは反応する。
 やはり、食器を叩く音がした後で、ご飯をもらえる。この事実関係を、チビたちが憶えたからにほかならない。

 そういえば、畑の近くなどで鼠か何かを狙っている猫を見かけるが、鼠は見えていないのに、音だけで鼠の動きを察知して狙っているとしか思えなかったりする。


 いつのまにか、チビたちのご飯の準備をしている段階で、チビたちは気づいて明らかに待っている。
「ごはんだよ」と言ったり食器を叩いたりすると、そうするのを待っていたかのように一斉に寄ってくる。
 ということは、自分がチビたちのご飯の準備をはじめた際の振る舞いや音や匂いなどを基に、そろそろご飯をもらえることをチビたちは察知していることになる。
 すごい……。

 その後、ご飯の準備をしている段階で気づいたチビたちは傍に寄って来て待機するうようになった。
 しかも、落ち着かない。
 もうすぐご飯を貰えることを、完全に察知し予想している。

 あることが発生すると、その次にはどういうことが起きるのか。そんなことも、猫たちの記憶にも残っているのだろう。
 その記憶を参考にするから、あることが発生した段階で、その次にどういうことが起きるのかまでも、察知や予想できる。
 その察知や予想を基に、待機しているわけだから、察知や予想を基に相応の行動までしていることになる。
 そんなことまで、猫も学習するんだ。
 まさか、俺の勘違いじゃないよな……。

 傍に来て「早く食べたい」と言わんばかりに「ニャー」と言って催促するようになった。
 ご飯の準備を始めた段階で、そのもの音や匂いなどを基に、チビは自分が食べるご飯の準備を始めたことを察知し、そろそろごはんをもらえることを予想するからだ。
 チビの振る舞いに、クロは追従する。
 おっかあは、反応が遅く、まさに借りてきた猫のようでもあり、遠慮しているようにも見える。が、子供たちを見守っているのだろうか。


 ということは、チビが戸を開けるのを憶えたのも、人が戸を開けるのを繰り返し見ているうちに、戸が左の方に動くことや、戸が動くと出入りできるだけ開くことを憶えたからだ。
 その記憶を基に、チビも戸を動かして開けようとし、ガリガリ引っ掻くようになったのだ。
 そうしているうちに、爪が掛かって、戸が動いて少し開いた。
 その開いた隙間に、チビは右手を入れた。もちろん、力を発揮しやすくなり、更に開いた。
 そこに、強引に頭を入れて、もがきながら身体も押し込んで更にもがき、自分が出て行けるだけ戸が開いて、ついに出て行った。
 もちろん、自分で開けることができるんだということも体験した。それも記憶に残ったはずだ。
 だから、積極的に大胆な開け方をするようになった。後ろ足だけで立って、両手の爪を戸に引っ掛け、戸が接している柱に額を押し付けて開けることを憶えた。これなら、力も発揮できる。
 やる度に、上達した。やる度に、力加減やコツを憶えたからだ。
 チビは自分で簡単に戸を開けて出かけるようになった。

 チビが開けるのを待っていたかのように出かけるクロとおっかあは、戸を開けることを憶えようとすらしない。
 だから、憶えない。

 また、猫は、鼠取りは人よりも巧いのだろうが、人が用意してあげるようなご飯は作れない。
 だから、ご飯は、作ってくれるのを待つしかない。
 そういうことなのだ。


 その後、チビたちのご飯の準備を始めたら、チビが待ちきれないとばかりにウロウロしはじめ、ついに飛び上がってシンクに上がった。
「ダメ。ダメだよ、チビ。こういうことは、しちゃダメ」
 触ることは許されるようになったものの、まだ抱っこをしたことは無かった。が、初めてチビを抱えて、床におろした。
 そして、恐る恐る、厳しい口調で「ダメ」と言い、その頭に軽く猫パンチをした。
「行儀良く待つ。そういうことも憶えなきゃ」

 翌日も、チビは飛び上ろうとした。
 が、飛び上がる前に厳しい口調で叱った。
「ダメ。飛び上っちゃダメ。やったら、お仕置きだよ」
「……」
 チビは、返事はしないし、言葉は通じないわけだし、早々には憶えないのかな……。
「これは全部、チビたちに上げるんだから。急かされて、手を抜くと、おいしくないんだよ」
「……」
「はい、お待たせ。ごはんだよ」

 チビが飛び上がろうとする都度、厳しい口調で戒めているうちに、シンクに飛び上がろうとはしなくなり、また座って待つようになった。
「今やってるから。行儀良くして、待ってろ」

 叱られたことも、やってはいけないこととして、ちゃんと学習するんだ。
 間違いない。

 思えば、チビたちの、お腹をさすったり、脇の下をさすったり、喉をさすったりすると、自分の手を噛んだりするが、まさに加減して軽く噛んでいる。
 猫パンチも、相手を殴るというよりは、相手の振る舞いを戒めているのではないかとさえ思える。
 チビとクロがジャレ合っているうちに、悲鳴を上げ、身構え、爪先立って毛を立てて背を丸めて敵対することもあるが、怪我をするほどのことはしていない。むしろ、直ぐに仲直りする。
 母猫は、子猫を首の後ろを噛んで運ぶことは知られている。が、子猫なのに怪我をすることは無いのだろう。むしろ、子猫を安全な場所に運ぶわけだから。
 仲良くしたいとか、嫌われるようなことはするまいとか、相応の加減もしていることになる。

 そもそも、親子でも子猫同士でも、モミモミもしているし、舐め合うし、ジャレ合う。
 でも、子猫同士でジャレ合っても、悲鳴を上げたり、反撃したりもする。親猫も、子猫に猫パンチをしたりする。
 でも、いじけることは無いし、敵対関係にもならない。
 結局、喉をゴロゴロさせてモミモミもするし、舐め合うし、仲良くジャレ合う。
 つまり、やってはいけないことも憶えて、慎むようになるから、仲良くできるのだろう。
 猫同士でも、仲良くするために必要なことや、仲良くするためにはやってはいけないことも、学習して、相応の振る舞いをしていることになる。
 もともと、親子間や子猫同士で、そんなことも学習しているのだ。


 もちろん、攻撃もするし、威嚇もするし、悲鳴も上げるし、警戒もするし、安眠もするし、尻尾をピーンと立てもするし、喉をゴロゴロさせるし、モミモミもやるし、親子でも子供同士でも楽しそうにジャレ合いもする。
 あれは、猫にも、嫌だとか、痛いとか、嬉しいとか、楽しいとか、そんな感情や気持ちや考えもあることの証なのだ。
 気持ちや考えもあるからこそ、相応の判断もし、相応の振る舞いをしていることになる。

 戸を開けることにしても、自分で必要なことは独自に学習して、自分でできるようになるわけだから。
 仲良くするために必要なことも学習して、相応の振る舞いをしているのだ。
 たぶん、間違いない。

 俺だって、チビたちのことを少しずつ知って、それなりのことをしているわけだから。
 つまり、俺の方が理解できていなかった……、ということになる。

 そもそも、要の考えや判断などは、内面で行うことだけに、目には見えないし、教えようも無いのに……。
 猫は、すごい……。


 ということは、警戒心を丸出しだった頃に、叱れば、当然にますます警戒して遠退いたはずだ。
 でも、いろんなことを知ったことによって安心できることが分かり、いわば信頼関係も確かになっていった。
 俺も、それは壊したくない。
 猫も、鼠は簡単には獲れないものなのだろう。
 野良だと、暖房も無いわけだし。
 しかも、自分で戸を開けて出て行けるようにもなった。
 もちろん、叱られたことは、自制したほうが得だ。だから、そうするようになったのだろう。

 ということは、信頼関係がしっかりするほど、それを壊すまいとするし、嫌われまいともすることになり、叱られたことは自制するようにもなるのだろうか。
 ん……、むしろ信頼関係がしっかりしていれば、良くないことをした時に、叱って教えてくれる人をこそ、一層、信頼するようになるということなのか……。


 チビは、自分で戸を開けることも憶えた。
 人が話す言葉は理解できなくても、音や匂いなどを基に、次にどういうことが起こるのかを察知したり予想したりして、相応の行動もするようになった。
 どういうことをすれば、嫌われるとか叱られるとかも憶え、相応の自制もできるようになった。
 つまり、一連のことが記憶に残り、それを基に、次に起きることを察知したり予想し、相応の行動もできるようになる。
 これを応用できることで、猫が必要で憶えそうなことって……、何かないかなあ……。


 でも、猫も学習していることは、すでに実証されている。
 そうであることを、むしろ自分が未理解だったりする。
 猫はせっかく学習しているのに、そうであることを自分が理解できていないと、むしろ自分が勘違いしたり誤解したりさえする。
 こっちのほうが問題なのか……。


 とりあえず話しかけていれば、やがては、猫とも気持ちも通じるのかもしれない。
 むしろ、叱ると、相応の学習をするわけだから、気持ちは通じているようなものだ。
 自分こそ、人同士では言葉で伝え合うだけに、それに慣れ過ぎてしまっているのかもしれない。それは、ある。

 でも、いつかは、人が話す言葉も、チビたちは分かってくれるような気がして、話しかけるのは当たり前になっていった。


「なあ……、おっかさん。チビとクロは家で面倒みるから、おっかあは野良に戻ってよ。……な。皆を面倒みることはできないんだ。おっかあは、野良で子育てまでしていたんだから、大丈夫だろ。自立って、すごいことなんだよ」
 ということで、おっかあを集落の外れまで連れて行って、そこに放した。
 雪が最も多い時期だったが、猫は帰ってこれない距離ではないと思えた。
 でも、おっかあは、帰ってくることは無かった。
 猫も、いろんなことが分かっているんだ……。
 しかも、自立して子育てまでするわけだから……。


 猫も、いろんなことを少なからず分かっていて、それなりの行動をして生活していることは、間違いない。
 猫は、人のような言葉を話せないだけなのだ。
 猫の唇は、言葉を話すようにはできていない。言葉を話せるような調整が可能な声帯も、猫には無いのだ。
 だから、記憶や気持ちや考えはあっても、それを言葉にして伝え合い分かり合う文化も無い。

 むしろ、人は、言葉を憶えるからこそ、間違いや勘違いに基づいたことも口にするし、事実が伴わない口先だけの言い訳も言えるわけだし、事実とは違うことを事実だと思わせるための嘘も言うようになる。
 事実を知られまいともするし、わざわざ困難にさえするし、否認し強情も張るし、相手の口封じさえする。

 そんなことはできない猫たちの方が、よっぽど分かりやすい。
 分かってくるからこそ、仲良くもなれる。
 初めは警戒心丸出しだったチビたちも、仲良くするに足ることを少なからず知ったからこそ、こんなに馴れたことになる。

 猫は、言葉を使って伝え合うことも分かり合うことも無いが、誰も教えなくても、必要なことは独自に学習する。
 もちろん、必要無いことは学習しない。
 言葉で伝え合うことも分かり合うことも無いだけに、唆されることも無いし命令されることも無い。
 だから、言い訳や嘘は憶える必要すら無い。
 いじけることも無いし、すねることも無いし、泣いて自分に都合良くすることも無いし、否認して強情まで張ることも無いし、ヒステリックになることも無いし、自棄的になることも無いし、相手の所為にすることも無いし、逆上することも無いし、自分勝手の象徴として暴力的に口封じすることも無い。

 人は、騙しもするし嘘も吐くからこそ、それゆえの争いにもなる。
 嘘を吐けない猫は、そんな理由で争うことは無い。
 むしろ、直ぐに事実を認めて、自制するようになり、仲良くする。

 雄猫同士は、暴力的に決着をつけるわけだが……。
 人は、徴兵して国民を最前線に行かせて見知らぬ同士で殺し合いをさせる。
 もちろん、そんな首謀者同士に殺し合いをさせるとか、そんな首謀者を処刑してしまえば、国民が最前線で見知らぬ同士と殺し合いをする必要も無くなる。
 けれども、人は、嫌だとすら言えない。
 むしろ、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げ捏造さえする。
 歴史上でも、見知らぬ同士で殺し合いをすることを選択し、戦争に加担し助長さえしてきたわけだから。


 
カテゴリ : ◆自分を理解する。

猫だって学習する 2.猫だって学習する


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 猫も、憶える。
 だからこそ、現在地からは見えない所から来るし、現在地から見えない所へ帰ってもゆく。

 自分も、キノコ採りに行くと、初めは探す。
 キノコが生える山や場所を見つけると、記憶にも残る。
 分かりづらい場所だったりすると、自分が分かりやすい印をつけたりする。そうしたことも、記憶に残る。
 その場を去る時も、帰宅後も、記憶にあることは思い出す。翌年も、キノコが生える秋になると、以前に記憶に残ったキノコが生える山や場所を想い出し、そこを目指して出かける。

 猫も知らなかったことを憶えるし、相応のこともしている。間違いない。

 警戒する必要が無いことを憶えれば、猫も警戒しなくなる。
 俺を警戒する必要は無いことを猫たちに憶えてもらおう。

 盆栽の水やりを憶えるために昼休みに帰宅するのだが……。
 猫たちと出会ってまもなかった頃は、猫たちとは会えない日ばかりが多かった。

 しかも、盆栽は、行動しない植物だけに、反応も遅い。それゆえに、植物の生命生理を捉えるのは難しく、症状が表れたときには手遅れだったりもする。
 その点、猫は行動するだけに、警戒心も率直に表れる。もちろん、言葉は話せないだけに、言い訳や嘘は言えない。つまり、猫の気持ちや考えの方が捉えやすい。よって、対応もしやすい。
 というわけで、猫も学習をしているんだということを、もっと具体的に捉えようと思うようになった。


 植物も、生命生理は自律して機能している。
 つまり、そんなことを理解できる知能は、植物には備わっていないと考えられ、学習しているとも考えられないし、植物は生きるための行動もしない。それでも生きているのは、生命生理が自律して機能しているからにほかならない。
 それどころか、人が雑草と言う植物でさえ、成長もするし、花も咲かせ、結実し、世代交代もし、種族の存続までしている。
 むしろ、人の理解力こそ拙い。
 栽培してみると痛感するが、植物の健康を維持する場合は、その植物の自律している生理面を、どれだけ管理人が理解できているかに左右される。
 知識が無いがゆえに、死なせまいとし、安易に水や肥料をやり過ぎて、結局、殺すようなことをしていたりした。

 猫も、生命生理は自律して機能している。
 つまり、そんなことを理解できる知能は猫には備わっていないと考えられるが、生命生理は自律して機能しているから生きている。
 世代交代もするし、種族の存続までしている。つまり、太古から繰り返されて継続されてきたことを、継続させていることになる。
 生命生理自体が、絶妙な秩序に基づいて自律して機能しているからにほかならない。

 猫には、知能も備わっている。
 自分の知能も、自分は創作不可能どころか、考案すらできないほど巧妙にできている。
 むしろ、人は、知能上で、尤もらしく見せかけもするし、本当らしく工作もするし、優れたことであるかのように捏造さえする。
 そうだとも知らず、的外れな勘違いをしたり、とんでもないことを思い込んだり、そうであるにもかかわらず慢心したり有頂天になったりさえする。
 それでも、知能の構成要素である視覚や聴覚や嗅覚や味覚や触覚などの各感覚器官や意識や記憶力なども、生理的には自律していることによって機能している。
 つまり、すでにそうであることを、備わっている知能上で理解することはできなくても、知能はすでに備わっているわけだし、知能自体は生理的には自律して機能している。
 そうであることは、猫だって同じなのだ。

 知能自体は生理的に機能しているだけに、そうであることは直に経験でき、環境上のことも経験できる。
 経験相応の印象が記憶に残る。良いことであれ悪いことであれ、繰り返し経験することほど確かに記憶に残るし詳しく記憶に残る。
 記憶に残っていることを参考にした識別や思考や判断などの情報処理が可能になる。
 子猫たちは母猫にはついて歩くが、俺のことは警戒していたわけだから、見分けていたわけだし、自分を守っていたことになる。
 しかも、猫は行動する。つまり、記憶に残っていることを参考にした識別や思考や判断などの情報処理ができていることを証明しているようなものだ。


 人は、知能上で、学習し、上達もし、会話できるようになる。つまり、会話を通じて、目には見えない理由などを理解することもできるようになり、理解し合えるようにもなる。
 が、自分がすでにそうしていることをすら、数年前までは自分は未理解だった。つまり、日常的に思考力や理解力を発揮していたのに、そうであることをさえ具体的なことは未理解だった。
 日常的に識別し思考していて行動上の中枢でもある知能が平常どおりに機能していることをすら、数年前まで自分は知らなかった。
 直に経験し続けていたはずの生理面が自律して機能していることも、数年前に初めて少し具体的に知った。
 知能も備わっていて、学習もし、思考力や理解力を発揮できるようになり、それらのことを具体的に理解できる準備が整ったのに、そういうことをほとんど未理解だったわけだから、直に経験し続けている肝心な自分のことをほとんど未理解だった。
 つまり、思考力や理解力を発揮していることと、どういうことを理解しているか否かは、別問題なんだということも未理解だった。
 もちろん、思考力や理解力を発揮していることと、そうであることを具体的に理解できているか否かは、別段階なのだ。

 会話を以て理解し合えることは事実なのに、普遍的なことに基づいた基本的なことで共通で重要なことを未理解だと、その共通で重要なことを親子でさえ理解し合えなかったりする。
 理解し合えないと、会話には限界を感じる。
 反省しないどころか、認めまいとし、すね、いじけ、そして泣き、ヒステリックになり、自棄的になり、ついに逆上さえするとなると、自分の言及の仕方に疑問を感じ、下手な言及は逆効果にしかならないのだと痛感する。

 が、猫とは、人が使っている言葉で会話することはできない。言葉で説明して、猫と理解し合うことはできない。
 ということは、会話以前の段階のことが、猫たちと仲良くするためには大事なのだ……。


 猫たちと会えたときは、警戒する必要が無いことを憶えてもらおうと、食べ物をあげて、距離を縮める努力をした。

 猫にも知能も備わっているからこそ、知らなかったことを憶える。
 憶えたことは、見分けてもいる。聞き分けてもいるし、嗅ぎ分けてもいる。つまり、憶えたことに相応することも行っていることになる。
 もちろん、知らなかったことを憶えることができ、相応のこともできるようになる。
 これは、間違いないはずだ。
 すでにそうであることを、自分も今更のように具体的に理解しているわけだから、何かを具体的に理解できているか否かは別問題だ。
 自分が経験し続けていることであっても、確かめて、事実関係を整理したことだけは、具体的に理解したり納得したりすることになるわけだから。

 むしろ、言葉を話せない人の子供も猫や犬なども、言葉では語り尽くせないほどの情報処理は行っているのかもしれない。
 空を飛んでいる小鳥たちでさえ、木々の間を巧みに通り抜けて、上手に枝に止まる。

 まだ言葉を話せない人の子供も、人見知りをするようになる。
 つまり、人を見分けるようになる。
 まだ言葉は知らなくても、知っている人なのか、知らない人なのか、それは見分けるようになるからだ。
 言葉は知らない幼い頃でも、いつも会っている人のことは記憶に残っているだろうし、会ったことが無い人のことは記憶にも無い。
 むしろ、いつも会っている人のことは、いろんなことが記憶にも残っている。初めて会う人は、どんな人なのかが記憶に無い。
 相応のことが記憶にある人だから、抱っこして欲しいとも思うだろうし、手を伸ばしもする。が、どんな人かを知らない人である場合は、それゆえに不安になり、泣いてしまったりもするのだろう。
 知能は備わっていて機能もしているが、その機能上で可能になった内容がまだその程度だということになる。

 学習し、上達して、大人になっても、言葉で話せることは限られている。
 むしろ、記憶に残っているイメージの方が、多いし、行動上は重要なのだ。
 記録や伝達や会話などの都合で、図案化や記号化や標識化もするし言葉にし文章化もする。
 しかも、視点を変えた捉え方もするし、敬語を使ったり、特有の文体を使ったりもする。
 それは、言葉で話せることは、限られるからだ。本人が習得している語彙に限られるし、本人が習得している文法に左右されるし、立体的な構成は難しいわけだから。しかも、言葉にする段階で、間違いもするし、言い訳も言えるし、口先だけの嘘も言える。
 やはり、言葉にして話したり理解したりする以前の段階の、実際に感覚で感知している物事や、それが記憶に残った情報など、間違いや嘘が無い方が、重要だし、分かりやすいのだ。

 自分は、ああだこうだと考えて理解しようとするわけが、理解できているか否かは、猫たちの場合はやはり別問題なのだ。
 自分も、直に経験し続けている自分自身のことなのに、殆ど未理解だった。未理解なことは、識別できないし自覚もできなかった。
 自分の思いや考えの無理や矛盾ゆえに困窮したのに、そんな無理や矛盾をすら把握できなかった。だからこそ解決できず、むしろ困窮したわけだから。
 でも、困窮ゆえに、その真因である自分の思いや考えの無理や矛盾を解明でき解決できたわけだし、やっと経験上の自分のことを理解しはじめた。すでに三十歳だった。
 だから、つい把握しようとし解明しようともし理解しようともしてしまうわけだが……。
 それ以前の段階の方が、シンプルで、しかも言葉に依る嘘は無く、分かりやすいということになるか。


 自分の思いや考えの無理や矛盾を解明でき困窮を解決でき、経験上の自分のことを理解しはじめた、その二年後のことだった。
 自分の心の整理も不十分で、自分の精神面に関する理解も不十分だった。
 だからこそ、たまたま出会った猫たちが、警戒心丸出しだったので、その精神面の方が把握しやすく理解しやすいと思えたのだった。


 猫たちは、昼休み頃には食べ物を貰えることを憶えたからか、しだいに会えるようになった。

 母猫について来る子猫は2匹か3匹なのだが、子猫は全部で5匹いることが分かり、1匹だけ真っ白い子猫がいることも分かった。

 警戒心よりも食べ物が優先なのか、食べ物には直ぐに寄ってくるようになり、子猫たちは所有権を主張するような唸り声をだしながら貪るようになった。
 猫にも、気持ちもあるし、考えてもいるのだ。

 盆栽の水管理を憶えるよりは、猫とではあるが仲良くなることの方が楽しみになった。

 陽は短くなる一方で、農繁期もピークになったが、猫たちと仲良くなれることへの期待は着実に育っていった。


 農繁期も一段落し、薪ストーブを使い始めた。
 母猫についてくる子猫は二匹になった。
 弱肉強食の世界の淘汰や試練なのだろうか……。

 すぐ近くで暮らしているのだろうかと思うほど、猫たちは頻繁に来るようになった。
 猫たちに食べ物をあげる場所を、しだいに勝手口近くに移動し、やがて勝手口の中で食べてもらい、ついに薪ストーブがある居間で食べてもらった、
 これも学習だ。猫だって学習する。
 警戒心が薄れたのも、警戒する必要が無いことを学習したからだ。
 猫にも、気持ちもあるし、考えてもいる。だから、相応の学習もするのだ。


 ところが、居間の戸を閉めると、猫たちは腰を低くして出口を探し右往左往しはじめ、パニックに陥りそうな様相を呈する。
 外で自由に行動できることで安心も確保しつつ生きてきたであろう猫たちは、逃げ場が無い狭い家の中に閉じ込められるようなことは恐怖なのだろう。
 そこで、何時でも猫が出られるように、戸は十分に開けておくことにした。
 食べ終えると、早々に外に出て行ってしまう。
 でも、かなり学習した。間違いない。

 家に入ると、薪ストーブの傍は暖かい。
 満腹になると、家の中で毛づくろいをするようになり、やがて寝転がって毛づくろいをし、ついに眠るようになった。
 猫にとっては、暖房が魅力なのだろう。
 ストーブの傍で眠るようになった猫たちを見ると、あの警戒心は何処へいったのかと思う。
 寝顔は、警戒心は不要になった証だが、学習した証でもある。
 むしろ、猫も気持ちや考えに基づいて相応の行動しているのだ。つまり、相応の学習をしているのだ。


 子猫は、二匹ともメスだった。
 真っ白い子猫の方を「チビ」と名付けた。
 白い部分が無い茶黒系のトラ柄の子猫を「クロ」名付けた。
 母猫を、「おっかさん」とか「おっかあ」と呼ぶことにした。


 暖房をしているだけに、猫のために開けていた戸を徐々に狭くし、ついに戸を閉めた。
 やはり、猫たちは不安げに腰を低くして出口を探して右往左往しはじめる。
 野良だっただけに、狭い家の中は落ち着かないのだろう。
「大丈夫だよ。いつでも開けてあげるから。ほら」
 屋外に出る勝手口の戸は、猫が出入りするくらい常に開けてある。
 でも、外まではいかなくなり、すぐに居間に戻るようになった。
 外は日増しに寒くなる。やはり家の中の暖房が魅力なのだ。
 それを繰り返すうちに、戸を閉めた状態にも慣れていった。
 学習していることは間違いない。
 繰り返すことで、猫も詳しくなるのだ。
 警戒する必要が無いことに関しても、詳しくなったのだろう。
 それなりのことを考えもしているし、相応の学習もするし、相応の行動をしていることになる。


 日増しに寒くなるので、外に通じる勝手口の戸も閉めておけるようにしようと思い、勝手口内のコンクリートを少し壊して床下に通じる猫専用の出入り口を設けてあげた。
 古い家なので、床下からは屋外に出られる。
 そこから出て行っては帰って来ることを繰り返した猫たちは、確かめているようにも見え、自由に逃げられる状態であることを確認して安心しているようでもあり、楽しんでいるようにさえ見えた。
 居間から出ると、小急ぎに猫専用の出入り口から出かけてゆく。
 でも、外が寒くなるほど、家の中の暖房が魅力なのだろう、帰ってくる。


 居間と勝手口を隔てる引き戸を閉めても、猫たちは平気になった。
 猫たちが出かけたそうなことをすると、その都度、戸を開け閉めしてあげた。
 が、その閉めてある戸を、チビがガリガリと引っ掻き、自分で開けようとするようになった。
 そこから人も猫たちも出入りしているし、その戸を人が開け閉めしているのを見ているし、開け閉めできるものであることをチビが憶えたからこそ、チビは自分で開けて出かけようとしたことは間違いない。
 が、チビは自分では戸を開けることができない。

 ところが、数回目には、戸が少し空き、その隙間にチビは手を入れて、ついに自分で戸を開けた。

 開けることができ、その感触を憶えたからだろう、大胆に後ろ足だけで立ち、両手の爪を戸にかけて、額を柱に押し付けて、見事に開けるようになった。

 繰り返すうちに、チビは自由に戸を開けて出かけるようになった。
 チビが戸を開けるのを待っていたかのように、クロも出かけ、おっかあも出かける。

 猫も、学習するし、上達もする。間違いない。

 そんなことは、教えようも無く、教えたわけでもない。
 つまり、猫は、自分が必要なことは独自に学習するんだ。
 むしろ、人が教えようがないことを、猫は独自に学習する。これは、重要なことだ。


 ところが、チビは開けた戸を閉めることはない。
 チビが戸を閉めることも学習したら、そりゃあすごいことだ……。
 でも、チビは、戸を閉める必要はないのだ。だから、戸を閉めることは憶える必要も無いのだ。
 戸が閉まっていることが必要なのは、人の方なんだから、だから、人が閉めればいい。


 チビは、帰って来ると、閉まっている居間の戸をガリガリひっかき、外からも開けようとする。
 が、外からだと、出る時とは反対の方向に開けることになるからなのか、一向に開けることができない。
「チビか?」
「ニャー」
 その返事を聞いて、戸を開けてあげる。
「おかえり。帰ってきたら、開けてちょうだいって『ニャー』て言うんだよ。分かった?」
「……」
「返事の『ニャー』は?」
「……」

 チビは、外からは自分では開けることができないことを憶えたのだろう。しだいにガリガリやらなくなった。
 その代わりに、「ニャー」と言うようになった。
「ニャー」
 そう言えば、必ず自分が返事をする。
「はい」
 と言って戸を開けてあげる。
「おかえり。帰ってきたら、開けてちょうだい『ニャー』って言うんだよ。黙っていちゃ、チビが帰ったのに人は気づかないんだから」

 帰って来ても、戸をガリガリやらずに、「ニャー」と言うようになっていった。
「ニャー」と言えば、人が開けてくれることも憶えたのだ。
 ならばと、帰ってきた気配があっても、チビが「ニャー」と言うまで待つことにした。
「ニャー」
「はい。おかえり」

 いつのまにか、猫の学習に対する自分の期待も確かになり、言葉も通じているかのように接するようになっていった。


 本能的にできることと、学習したことによってできるようになったことの違いは……。
 知能自体は、備わって産まれるものだけに、進化上形成されたもので、人工的な物ではないこともあって、構成要素も誰でも共通だ。
 知能の能力である、経験でき、学習でき、上達することなど、基本的なことも誰でも共通だ。
 本能的にできるようになることなら、種族では誰でもできるようになるわけであり、種族では共通する。
 でも、知らなかったことを憶えることは、その性質上、誰もが憶えるとは限らない。
 しかも、試行錯誤して学習し、繰り返し練習して上達したことだからこそ、上手に(随意に)できるようになる。もちろん、その上達には、個人的な努力や時間を要する。
 そんな学習の性質上、学習し習得した内容は個人毎に異なる。

 やっぱり、チビは学習している。間違いない。
 クロは、自分では開けようとしないが、チビが開けようとすると見ているし、チビが開けると立って出かける。これも、クロの学習なのかもしれない。


 言葉を知らないチビに、言葉で説明して教えることは不可能だ。
 むしろ、チビは自分が必要なことは独自に学習する。
 しかも、必要無いことは学習しない。
 この方が、重要なのか……。

 人も、まだ言葉を知らない人の赤ん坊には、言葉で説明して教えることはできない。
 でも、知能は備わっているだけに、経験でき、知らなかったことを憶え、できなかったこともできるようになり、上達もする。
 つまり、大人でも教えようが無いことを、赤ん坊の頃に独自に学習しはじめることになる。
 だから、教えないことも憶えるし、大人が憶えて欲しくないと思うことだって憶えるし、大人の口先だけや上辺だけを見抜き拒否もし批判視するようにさえなる。

 大人になってからでも、模索し、試行錯誤して、学習し、繰り返し練習して上達する。そのために必要な、識別や思考や取捨選択などの情報処理は内面で行うことだし、努力は自分でするしかない。
 つまり、自分で必要な情報処理や努力を行ったことは相応に学習するし上達もする。
 自分がそうして学習し上達したことだからこそ、随意にできるようになる。
 良いことであれ悪いことであれ、確かなことを知るほど確かな識別や判断が可能になる。つまり、悪しき結果に通じることは慎めるようになるし警戒するようにもなるので減少し、好結果を期待できることは積極的にもなるから、着実に好結果にすることができるようになる。
 だからこそ、観察するし確かめもするし繰り返し試しもする。よって、詳しくもなり、上達もする。
 五感では捉えることができない関係や性質や条件や理由なども、イメージとして把握できるようになり、具体的に理解できるようにもなり、文章化して説明できるようにもなる。
 わざとやったのか否かも重視するようになり、嘘か否かも重視するようになり、想像や邪推に過ぎないことも分別できるようになる。
 つまり、根拠や理由があって理に適っているかを検証できるようになり、根拠や理由があって理に適っていれば理解でき納得できる。
 もちろん、根拠や理由が乏しいと理解できないし納得できない。冗談だったりもし、納得できなくても妥協もするが、騙されれば損なので必要に応じて不明な部分は確かめる。
 だからこそ、取扱説明書が用意されていたり、教習所や学校まで設けられていたりもし、高度な学習も可能だ。

 そういう、自分で経験し学習し理解できるようになったことが基本であり行動上の中枢でもあり重要なことでもあり、具体的に理解できる準備も整ってゆくことであり、もちろん独自に理解することも可能だったことになる。


 でも、子供だった自分にとって必要だったことは、仲良くし合うことであり、助け合うことであり、そうであることを理解してもらうことだった。

 が、個人毎に、経験内容は異なり、学習内容は異なり、理解できている内容も異なる。
 知能の能力に基づいた基本的なことで、重要かつ誰にも共通なことであっても、理解するとは限らない。
 親子でさえ理解し合えることは限られる。
 大人は自分の思い通りに子供を行動させるために、褒め脅し、競わせ争わせた。
 子供には間違っているだけなのに罰点をつけ正させるが、その先生の間違いを小学生だった自分が指摘したら、先生は逆上した。
 中学校でもそうだった。
 理解し合い助け合い仲良くすることは抑圧され、競い争うことが優先されると、最低限平和であってほしい家庭内で親子でさえ争う。

 共通なことでもなく重要なことではないないことだからこそ、わざわざ尤もらしく見せかける。
 後ろめたいからこそ、本当らしく工作し、必死にさえなる。
 結局、競い争い、暴力的に優劣を決め、優れたことであるかのように捏造する。

 そんなことも見抜きつつ、自分も見た目や上辺を気にするようになった。
 つまり、目には見えないことだが、直に経験し続けている普遍的なことや、誰にでも共通する基本的なことや、具体的に理解する準備が整った重要なことを、独自に理解することも可能だったにもかかわらず、自分は理解しそびれ、自分を見失い、そうであることに気づけなくなったことになる。
 だからこそ、自分は目に見えるものに目を奪われ、自分でも上辺だけ大人振るようになった。

 にもかかわらず、そんなことに気づけなかった頃は、すっかり一人前になったような気さえしていた。
 実際には、知能を誤用し、悪用さえするようになっていたのに、そうであることに気づくことさえできなくなっていた。
 自分が疑問視し批判視さえしていたことに、心まで奪われ、人生まで見失い、そうであることに気づくことさえできなくなっていた。


 目には見えない気持ちや考えを、猫と伝え合えたり分かり合うことができたらすごいけどな……。
 学習できるのは、記憶や識別や思考などの中枢によるものだし、それらは内面的なことなので目には見えない。
 でも、猫にも、気持ちもあり、考えもあり、相応の情報処理などをしているからこそ相応の学習もしている……。
 が、気持ちや考えは目には見えないだけに、言葉を話せないと、伝え合うことはできないし分かりあうこともできない……。

 むしろ、言葉を話せなくても、気持ちは通じるのか……。

 やはり、間違いもあり嘘も言える会話以前の、事実を識別し確かめるしかない段階こそが重要なのか……。

 猫は、自分が必要なことは独自に学習するが、必要無いことは学習しない。

 自分は、言葉を憶えたばっかりに、言葉で唆され煽てられ脅され競わされ争わされた。
 それを、拒否し批判視した。
 が、拒否や批判視に気を取られ、直に経験し続けている肝心なことを理解しそびれたばっかりに、見た目を気にするようになり、上辺だけ大人振るようになり、そんな上辺だけを繕う世界に迷い込んだ。
 つまり、自分は、直に経験し続けていることなのに、生きていることがどういうことかをすら理解しそびれ、肝心なことを理解しそびれ、余計なことを学習したばっかりに、自由や労働を売って拘束され、いわば服従して、その報酬で生活していた状態だった。
 その不満を癒すために、その報酬を全て費やする必要があったのにもかかわらずだ。

 人は野良と言うが、猫は大自然の中で自立して子育てまでしている。太古から世代交代を繰り返して継続されてきた壮大なスケールの進化の一世代を全うし継続させる。

 肝心なことを理解しそびれた自分は、テレビの恋だの愛だの恋愛だのにも、心を奪われた。
 好結果に通じる具体的な根拠や理由は欠けていただけに、自分も上辺だけ真似て尤もらしく見せかけるしかなかった。つまり、騙していたに過ぎなかった。
 本来は理解し合い信頼し合い尊重し合うべきことなのだと気づいた時には、すでに失格していた。


 ちなみに、自分で戸を開けることを学習するよりも、自分で開けることができない戸を人に開けてもらう方法を学習することの方が、高度な学習だと考えられる。
 それに近いことを、チビややり始めていたことになる。
 そうであることを、自分は予感しはじめていた。
 でも、そうであることを、この頃の自分がまだ具体的には理解できていなかった。
 そんな意思疎通に関することも、猫との関係を通じて、具体的に理解する世界へと自分は誘われてゆくことになる。



 

 以下は、現在の趣味の写真「普遍に臨む」です。



 夏至の前後の日の出・朝焼けの撮影は三時起きで、梅雨時なのに雨が少ないだけに、ず~っと寝不足です。
 しかも、朝は、好いのが撮れていない。
 今年は、未熟なのに安易に想像を頼ったばっかりに、まだ撮れていないほど見事な朝焼けを撮り逃がしている。

 でも、夕焼けは、今年最高のが撮れた。
 もちろん、これは理想ではないことを、昨年、撮り逃がして知っている。



20170725-夕焼け


 夕陽が眩し過ぎるくらいの気象条件で、夕焼けも鮮やかになるのだろうか。



20170725-夕陽


 
カテゴリ : ◆自分を理解する。

猫だって学習する 1.猫との出会い


 たくさんの応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 記事の後部に、趣味の写真「普遍に臨む」:朝焼け(日の出)・夕焼け(日の入り)の画像も掲載しました。




 気になった方をふと見た。
 そこにいたのは、真っ白い猫だった。
「おいで」
 言葉は通じない……。
『知らないおじさんについて行っちゃダメだよ』って言われた、っていうことも無いよな。
 そもそも、初対面だ……。
 家の裏の方から来たであろう猫は、立ち止まったまま、こっちを向こうともしない。
 俺のことは、知らない。だから警戒しているのだ。
 自分が、ゆっくり半歩進んで立ち止まり、また、ゆっくり半歩進んで立ち止まりしながら近づいた。
 白い猫の後方で一斉に逃げて隠れたのは子猫だった。
 真っ白な猫はめずらしかったので、それにばかり気を取られていたのだが、後方は家の陰になっていて見えなかった。
 子連れだということは、野良だ……。
 近づくのは止めて、しゃがんで黙って見ていた。
 すると、現れては引っ込み右往左往しながら子猫が現れた。また一匹。また一匹。
 母猫は真っ白だが、三匹の子猫たちは、白い部分が無い子が二匹、お腹だけが白い子が一匹だった。
 みんな痩せていて、毛並みが乱れていた。

 でも、逃げ隠れして警戒心丸出しの野良猫たちの気持ちの方が、自分には分かりやすい気がした。
 自分は、人間関係を断ち、自室にこもったからこそ、自分の思いや考えの無理や矛盾は解明できた。
 人は、尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作もし、優れたことであるかのように捏造さえする。
 世間体だ体裁だ礼儀だエチケットだなどと言うが、付和雷同だったり、上辺を繕っているだけだったり、強がりだったりさえする。
 建前や本音もある。本人が居ない所では陰口や噂話をする。外面と気持ちとは裏腹だったり、外面は騙し欺く類だったりさえする。
 そうとも知らず、目を奪われると自分を見失う。心まで奪われると人生を見失う。
 猫が言い訳や嘘を言わないのは言葉を使わないからだが、警戒心丸出しなのは、言い訳は言えず嘘をつけない証でもある。
 だから、分かりやすい。

 子育てまでしているんだから、野良とはいうが自立している。
 知らぬ間に失格していた俺よりも増しなのだ。
 見かける野生動物も自立しているわけだが、当地は積雪一.五メートル前後だけに、そんな中では自分は数日しか生きられないだろう。

 警戒心丸出しで正直な猫たちと、仲良くなるためにはどうすればいいんだ……。
 否、仲良くしていただくには、どうすればいいのだろう……。

 俺を警戒している。が、親を信頼しているから一緒に来ている。つまり、見分けている。少なくとも、知らない相手か、知っている相手か、それを見分けていることになる。
 猫を好きな人もいるが、猫を嫌いな人だっている。
 ということは、俺は警戒する必要は無い相手であることを憶えてもらう必要がある。
 仲良くしたいという気持ちを、分かってもらう必要がある。
 それを望む俺の努力次第なのだ。

 とりあえず、食べ物だ。
「ちょっと待ってろよ。まだ行くなよ。すぐ来るからな」
 そう言いながら家に入り、急いで猫が食べそうなものを探した。
 戸棚に、出汁用の鰯の煮干しがあった。それを5~6匹持って外に出た。
 猫たちは、その場にいた。
 猫たちが逃げない距離を保って、しゃがんで、出汁用の小魚を差し出した。
「ほら、魚。好きだろ。お腹、空いているんだろ。おいで。遠慮しなくてもいいよ」
 が、猫たちは警戒している。
 ゆっくり一歩だけ、自分の方で近づいた。
 が、猫は後ずさる。
 それは困る。なので、その場に小魚を置いて、一個だけ母猫の近くに放り投げて、その場から自分が去った。
 更に、去った。
 もっと、去った。
 やがて、白い母猫は匂いを嗅ぎながら近づいて、それを食べた。
 やった。まさに一歩前進だ。
 子猫たちは、隠れては現れ右往左往するばかりで、母猫だけで食べてしまった。
「また、おいで。明日も、おいで」
 約束は……、無理だよな……。

 短い夏は過ぎ去り、陽は短くなり、秋の農繁期に向けて気持ちが忙しくなる、そんな頃だった。
 猫たちがまた来てくれることに期待して、畑に行くしかなかった。


 警戒心丸出しの猫たちと、仲良くなる。仲良くなれるかどうかは、まだ分からない。相当の時間を要することは間違いない。
 相応のことを憶えてもらう必要があるわけだが、言葉は通じないわけだし。

 自分は、新たな勘違いをしていることに気づけず、むしろ困窮した。
 自身の生命生理は自律して機能していることに、やっと気き、経験上のことを確認しただけでも、空腹や喉の渇きや尿意や便意を我慢するにしても限度があることや、呼吸を止めることにも限度があることから、自律して機能しているんだということを初めて具体的に知った。
 もちろん、不適切な飲食をした場合は嘔吐や下痢もするし、怪我をしても止血して治癒するし、簡単には死なない機構まで備わっている。
 次に、知能肢体は平常どおりに機能していることに、気づき、自覚するだけで確認できることだっただけに各感覚器官や意識や記憶や思考や判断力などが平常どおりに機能しているか否かを確認した。むしろ、それらに異常が生じた場合は直ちに気づく性質上、普段は異常だとは思いもしないことにも分かった。そんなことも初めて具体的に知った。
 でも、その知能上では、実行できないことでも考えることはでき、言い訳もし、嘘も言う。そんな性質上、思いや考えには無理も矛盾もありえることも、初めて具体的に知った。
 よって、事実確認をしていない想像に過ぎず、つまり根拠や理由を必要としなかったがゆえに勘違いし思い込んだことを解明できた。
 更に、想像の基になっていた、子供の頃に抱いた固定概念や先入観も解明でき、覆すこともできた。
 しかも、子供の頃に目には見えないことを理解できるようになり、根拠や理由を重視するようになり、不明な場合は「なぜ? どうして?」と確かめるようになったことが分かった。ところが、大人の理解は得られず、むしろ反抗扱いされ、自分でも自分の気持ちや考えを理解しそびれた。だからこそ、やがて上辺だけ大人振るようになった。なのに、すっかり一人前になったと勘違いし思い込んでいたのだ。
 気づいたことによって確認し、三年間の困窮から這い上がるべく確認したことによって次々に知り、二度と陥るまいと繰り返し確認したことで解明でき解決したが、そんなことにでさえ三年も要した。
 しかも、すでに三十歳になっていた。

 生理面は、自律して機能している。
 知能自体は、平常どおりに機能している。
 知能上の思いや考えには無理も矛盾もありえる。
 思いや考えの無理も矛盾も解明し解決が進んだだけに、同じことに仮に陥ったとしても直ぐに這い上がれることも分かった。
 つまり、そんなことを知らなかったばっかりに困窮し、やっと解明できただけに、精神面の弱点も思い知らされた。が、気づき確認し解明できたことで、何時でも自分で確認できるようになっただけに、二度と陥ることは無いと確信した。

 けれども、本来の自分のことに関しては、未理解だ。
 小学生の頃には、根拠や理由を重視し、思考力も理解力も十分に発揮できるようになった。
 なのに、そうであることをすら理解しそびれ、肝心な自分のことは殆ど未理解なままになった。
 それこそが、困窮した真因でもった。
 すでに三十歳になっていたが、本来の自分としては精神年齢は小学生程度だったからだった。


 残念ながら、自分でもやっと解明できたことだけに、両親が自分で解明できないことを、説得することもできるはずがない。
 でも、自分で分かっていないのなら、間違いの類でもあり、悪意とは限らない。
 むしろ、自分も、自分の思いや考えの重大な無理や矛盾を解明し解決できただけで、精神管理も十分とは言えない。
 安易に、知られれば不都合なことだと思い込んで隠し偽ることは慎みたい。
 まして、尤もらしく見せかけたり、本当らしく工作したり、優れたことであるかのように捏造し、そんなことに満足し慢心し有頂天になることは厳禁だ。


 生理面は、自律して機能している。
 知能自体は、平常どおりに機能している。
 知能上の思いや考えには無理も矛盾もありえる。
 自分を見失いもするし、人生を見失いもし、そうであることに気づき難くもなる。
 でも、知能自体は平常どおりに機能している。だからこそ、解明も解決もできる。
 生理面は自律して機能している、ということは絶妙な秩序に基づいて成り立っていることになる。

 よって、まず自分の知能上の情報処理の健全性を重視するようになった。
 また、本来は自分はどういう存在なのかを念頭に置くようになり、その要でもある学習とはどういうことなのかに関心が向いた。

 その学習を理解すべく、油絵に臨むことにした。
 目には見えないことも存在する。それらを表現したくて、もともと油絵をやっていただけに、真剣になれた。

 盆栽にも興味を抱いた。
 口も利かないし行動もしない植物も、生きている。目には見えないが、生理的には自律して機能している。
 それらを最低限は理解しないと、鉢に植えて維持することはできない。つまり、植物の整理とはいえ、自分の理解力を超越していて、絶妙な秩序に基づいているからこそ生きている状態が成り立っている。
 やってみると、人の都合で鉢に植えた植物だけに、その健康管理は人が行うわけだが、それ自体が容易ではなかった。
 植物の生理を未理解なまま、死なせまいとするあまり、つまり勝手に水や肥料をやり過ぎ、根腐れになり枯れ死してしまう。死なせまいとしているのだが、無知ゆえに、勝手なことをし、わざわざ殺しているようなことをさえしていたりする。
 植物の場合は、悪い症状が表れたときでさえ、知識不足ゆえだと手遅れに等しい。
 が、生命生理が自律していることや、生きていることなどは、共通することでもあり、油絵よりも緊張感があって魅力を感じた。
 以前は、弁当持参で畑に行き、畑で弁当を食べて、昼寝するのだが、自分は盆栽の土の乾き具合や水管理を憶えるために、昼休みに帰宅するようになった。

 あの日も、そうだった。
 そして、そろそろ畑に向かおうとした時だった、
 気になった方をふと見たら、そこにいたのが真っ白い猫だった。


 猫たちとなら仲良くなれそうな気がし、久しぶりに嬉しさを味わいながら畑に向かった。
 畑に向かいながら、猫のことばかり考えていた。
 猫たちの警戒心と、自分が自室にこもったからこそ自分の思いや考えの無理や矛盾を解明できたことと、重なるような気もしていた。

 生理面は、自律して形成され、誕生後も自律して機能している。
 植物だって、猫だって、その生命生理は自律して機能している。
 それは、自分のことをさえ勘違いし思い込みもする俺の理解力を超えている。

 猫にも、各感覚器官や意識や記憶力なども備わっているわけだから、知能も備わっている。
 つまり、経験でき、学習もする。音がする方に向けて耳を動かすのは、音を聞き分けようとしているからだ。匂いを嗅ぎながら歩くのも、何かを嗅ぎ分けようとしているからだ。
 それも、たぶん俺の耳や鼻を超えている。

 さっきの猫たちは、初めて会った俺を警戒していたし、親を信頼しているから一緒に来ていたわけだから、そういうことも見分けていることになる。
 猫も、知らないことは不安なのだ。
 自分だって、知らなかったがゆえに想像し勘違いし思い込んだ。
 でも、良かれ悪しかれ具体的なことを知るほど、的確な判断ができるようになる。
 猫だって、そうなのだ。

 以前、毛の色がパンダのように白と黒がはっきりした猫と、柴犬型の真っ白い犬も飼っていたことがあった。
 あの猫は、冬は犬小屋で犬と一緒に寝ていた。
 あれも、学習だったのだ。


 こうして、猫を相手に、やがて自分が意思疎通に関する学習をすることになる。
 子供の頃には、大人の理解を得られなかったこともあって十分に学習できなかったことを、猫を相手に学習することになる。
 もちろん、もともと社会的適応上でも必要なことだけに、遅れ馳せながら半ば必然的に学習することになる。
 が、猫を相手に、自分がそういうことを学習するであろうとは当時は思いもしなかった。

 野良だから、自立している。
 野生動物の、大自然の中で自立している。
 そんなことを思い、自分も山野に出向くことも多くなり、春には山菜を採るようになり、秋の山でキノコ採りもするようにもなる。



 

 以下は、現在の趣味の写真「普遍に臨む」です。

 もちろん、素人の趣味の撮影です。
 サイズが小さいと、見るに堪えないです。
 というわけで、前回から、画像サイズは1622×1080にしました。
 記事内の画像をクリック(モニタサイズによっては表示された画像を更にクリック)していただくと1622×1080の画像が表示されます。
 なお、当ブログが重くならないよう考慮し、パソコン画面上で画質は落ちが気にならない程度までファイルサイズを圧縮してあります。

 もし気に入った方は、個人使用は自由です。
 好みのサイズの画像上で右クリックし、保存して、ご使用ください。


 実は、今日は駄目だろうという勝手な想像を頼ったばっかりに、めったに見れない格好の朝焼けをすでに撮り逃がしています。
 その後、格好の朝焼けや夕焼けには、まだ恵まれていません。

 ところが、夏至の頃は、名峰:八甲田山から日が昇り、名峰:岩木山に日が沈む。そんな位置関係に郷里があったことを知り、その撮影をしながら、朝焼けや夕焼けを待っています。



20170708-夕焼け 名峰:岩木山


 梅雨を実感したのは、7月末から8月にかけての5日程度だった。
 が、この短い雨天の間に、名峰:岩木山山頂への日の入りを撮るチャンスは逸していた。



20170708-日の入り 名峰:岩木山


 日の出、日の入りは、太陽が明るすぎ、自分は上手に撮れないので二の次しがちだったが……。
 夕陽は、熟した柿のような色になったり、朱泥のような色になったりして、直視も容易にり、撮ってもみる。
 それでも太陽は明るすぎて、撮影画像は暗くなる。
 ただし、靄や霞しだいでは、稀に念願の太陽の色をなんとか撮れたりする。



20170629-夕陽 名峰:岩木山


 入梅は夏至の頃だったが、好天が続いた。



20170629-朝 名峰:八甲田山



 撮影時、念頭に置くことは、空間(空中や中空などと言われる)を撮ること。
 空間は、普段は気にしないが、目の前に開けていて、間違いなく存在する。が、空間には、ピントを合わせることはできないし、それ自体を撮影することはできない。
 ならば、初心者でも撮影を楽しめる朝焼けや夕焼けを撮ることで、その画像に空間も撮り込みたい。
 しかも、朝焼けは、仕事の前に(夏至の頃は3時半頃から)撮れる。夕焼けは、仕事の後で(夏至の頃は19時頃から)撮れる。

 というわけで、野生動物の気配を感じる大自然の宙空の中に自身を置いて撮影に臨む。
 これ自体に、実は魅了されている。

 勝手な想像や邪念を捨てて、天気図と衛星画像で確認し、可能性があれば撮影ポイントに向かう。
 朝夕の特徴なのか、雲は、俄かに発生することもあるが、見ているうちに晴れてゆくこともある。
 また、今年は、意外なほど多くの野生動物を見かけている。撮影後、下山した際、右に折り返すカーブを過ぎたら車の直前を同方向に熊が走った。
 人間関係を離れ、野生動物の気配しか感じない大自然の宙空の中に自身を置いて、望む気象状態になることに期待して待ち続ける。
 一時的とはいえ、勘違いや思い込みもあり無理も矛盾もある思いや考えを捨てると、自分の思いや考えを超越している大自然を体験している状態になる。だから、これに魅了されているのだと考えられる。
 この、勝手な想像や邪念を止めて、大自然が望む気象状態になることに期待して待ち続けることが、心の整理の妙薬に匹敵するような気もしている。
 しかも、その場では思わない。
 その場を、離れてから思う。
 もちろん、望む気象状態にならない時にこそそうだ。だから、懲りずに出かける。

 つまり、望む気象状態になると、その撮影に夢中になる。よって、欲も邪念も発揮してしまうからなのだろう……。
 ま……、そんな時は、そこそこの写真は撮れているわけだが……。

 
カテゴリ : ◆自分を理解する。

自分を理解する。

 
 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。

 次のカテゴリ名を改めました。

 旧カテゴリ:自己理解「事例集」
  改
 現カテゴリ:自分を理解する。

 旧カテゴリ:自己理解「事例集」を設けた当時より理解が深まっており、それを加味した内容にする都合上、カテゴリ名も改めました。
 今夏は、当カテゴリに投稿します。
 記事には、趣味の写真:日の出(朝焼け)・日の入り(夕焼け)の画像も挿入します。

 あくまでも、個人的な心の再整理(浄化)用とします。
 ですが、仮に誰かのお役にたてたなら、私こそ救われます。私にとっては、それに優る癒しは無いです。


 かつて、人間関係を一切断って自室にこもったことによって、自分の思いや考えの無理や矛盾を解明し解決できた。
 その後は、実践的な解決に臨んだ。
 更に、ブログとはいえ、自分の思いや考えを公開することで真摯になれることを知り、これを有効活用することにした。

 つまり、生理面は自律して機能していることに気づき、事実関係を簡単に確認をしただけで相応の事実を知った。
 次いで、知能(精神面)自体は平常どおりに機能していることに気づき、各感覚器官や意識や記憶や識別や思考などは自覚するだけで確認できることだっただけに相応の事実を知った。
 よって、知能上の思いや考えに無理や矛盾があることが明らかになった。なので、再確認や再整理などを繰り返し、自分の思いや考えの無理や矛盾はほぼ解明できた。
 結局、勘違いや思い込みや固定概念などに気づけなかったがゆえに、人生を台無しにするところだったことが明らかになった。
 そこで、じゃぁ本来は自分はどういう存在なのだろう。と思うようになり、その理解に臨むようになった。

 戦わない。競わない。他と比べない。
 自分の心の無理や矛盾を解消する必要があるわけだから。勘違いや思い込みが多くて未熟な自分を救う必要があるわけだから。自分が生きているうちに間に合わせたいわけだから、
 一時的とはいえ、邪念から離れて、人と言う動物として大自然と一体になる。これは、何も考えないことが可能だったことから発展したことだが、この可能性も重視する。

 
 
 本日、午後は雨に……。

 


20170621-朝焼け 名峰:八甲田山

 真っ赤にならないのが、惜しい。
 太平洋上に雲があるのだ……。

 東北も梅雨入りだということで、当地も午後からは雨に……。
 夏至の日の入りを撮りたかったのだが……。

 
 



20170618-夕焼け

 惜しい。真っ赤にはならずに終わった。
 日本海の上空に雲があるのだろう……。

 


20170618-夕焼け 名峰:岩木山


 


20170618-朝-雲海 名峰:八甲田山

 この日の朝、まだ暗かったが、里は霧に覆われていて、上空は見えなかった。
 でも、霧が発生するのは、高気圧に覆われているからであり、霧の上は雲海で、その上空は晴れていることを物語っている。
 予想は、的中していた。

 
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kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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