生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは
「悟り」とは 2016/12/27
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カテゴリ : ★草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅵ. 病院からの帰り



 軽トラを、病院の玄関前に止めた。
 ガラスのドアの向こうで、こっち向きで俯いて長椅子に腰掛けていた母。
 軽トラに気づき、母は腰を上げて、ゆっくり歩るきだした。
 助手席のドアを開け、
「『今度からは、家族の誰かに付き添ってもらって来てください』って言われた……」
 と言いながら母は乗った。
 その、なにもかもが、憔悴していた。
 来るときは、バス停までは送ったが、路線バスで来たのに……。
 薬を貰いに病院に行ってくると言って家を出ただけに、少なくとも普段と変わりなかった……。
 病院で具合が悪くなった、ということか……。
「入院……、必要なのか?」
 母は首を小さく横に振った。
「え……。じゃ、今度、いつ来いって?」
「言わなかった……」
「え……。帰ってもよくて、いつ来いとも言わなかった。なのに、付き添いが必要って……、どういうこと……」
「……」
「今度来るとき、付いて来ればいいのか?」
 母は頷いた。
 高齢だから、すでに諦めるしかない状態なのか……。
「じゃ、そうするから……」
「……」
 歳だけに、医者や看護婦に『付き添いが必要だ』って言われれば、落胆するのも当然かもしれない……。
 軽トラの助手席で、背を丸め深く俯き小さくなっている母は百歳過ぎに見えた。
 あんなに憔悴した母を見たのは初めてだった。
 付き添いが必要な具体的な理由は不明で、釈然としなかった。が、私は軽トラを発進させた。

「そんなに心配するな。もう歳だから付き添いが必要なんだろ……」
「……」

「心配するだけじゃ、自分で寿命を縮めるようなものだ……」
「……」

「俺が言うことなど……、あいかわらず聞く気も無いか……」
「……」

 でも……、自分は知っているのに、母と話す機会自体が無くなってしまうと、自分が悔やむことになるだろう。
「ま……、俺の都合で言うわけだが、言うだけ言っておく……」
「……」
「誰でも、知能も備わって産まれ、学習でき、相応のことは随意にできるようになる。が、生後に習得するわけだから、その内容は、個人的にも変化し、個人ごとには千差万別になる。つまり、どんな大事なことを知らなくても不思議ではないし、何でも知っている人は存在しないし、何でもできる人も存在しない。医者だって、誤診もする。おまえも、親父も、病院を替えたことで治ったこともあった。そんな例は珍しくないから、そうしたんだろ」
「……」
「親父は、写真を撮った結果、医者の診立てが違っていたことが判ったが、すでに手遅れだった。従兄弟の義政は、病院側から和解の申し出があったことで判ったらしいが、医療ミスで早く死んだ」
「……」
「そもそも、特別に勉強し研究した名医でも、治療には限度があるし、老化は阻止できないし、死は受け入れるしかない」
「……」
「つまり、生後に習得することに関して言えば、人は何様でもありえない」
「……」

「知能も備わって産まれるので、生きていることがどういうことかは、誰でも直に経験し続ける。学習力もあり、記憶にあることだけを参考に会話できるようになり、思考力も理解力も発揮するようになる。でも、そうであることをすら、理解するとは限らない」
「……」
「思考力も理解力も発揮するから、会話上でも納得できなかったり納得したりする。直に経験し続けている自分のことに関しては精通していても不思議ではない。が、会話上で納得できなかったり納得したりしていることをすら、具体的に理解するとは限らない」
「……」
「それどころか、勘違いだってある。思い込みもする。俺も一時はそうだったが、勘違いしていることに気づけず、思い込んでいるに過ぎないことに気づけなかった。つまり、勘違いや思い込みに関しても、具体的なことは未理解だったりする」
「……」
「俺も、自分で考えたことによって、自分で困った。なのに、その事実関係さえ把握できず解決できなかったこともある」
「……」
「上辺だけ尤もらしく見せかけもし、必死で本当であるかのように見せかけもするし、競い争ってまで優れているかのように見せかけもする。それが、人生上では的外れなことでも、そうであることに気づけなかったりもする。むしろ、根拠も理由も無く実績も実力も無いのに、勝手に何様かのつもりになったりもするし、慢心もするし、有頂天になったりもする」
「……」
「長生きしたところで、肝心なことを隠し偽り、私利私欲を貪るだけだったりする」
「……」

「人の親も、無条件に尊いわけではない。親が、子供を殺すことだってある。妊娠しても中絶もする。家族計画もある。産んでも子供を虐待したりもする。当然に、上辺を繕っているに過ぎなかったりもする。幸せそうに見せかけているだけだったりもする。つまり、最も肝心なことが欠けていたりする。そうなんだということをさえ、分かっていない親だったりもする」
「……」
「でも、子供は親を選べない」
「……」
「猫でさえ、相手を見分けて仲良くし、相手しだいで喧嘩もする。人の法律上では、訳が分からず身勝手過ぎると死刑にされる」
「……」
「でも、訳が分からない親を殺せば、刑務所に入れられる。法律にも思い上がりが感じられるが、暴力的に片づけることは、訳の分からない親以上の身勝手なことであることは事実だ」
「……」
「未熟な子供にとっては、人生経験が十分なはずの親の在り方が、いかいに重要であるかを物語っている。が、そんなことをさえ未理解な親だっている」
「……」
「もちろん、俺が勘違いし思い込んでいるにすぎない場合もある。だから、自分の考えを押し付けることさえできない……」
「……」
「結局、自分がどういう生き方をするか、ということに行き着くわけだが……」
「……」
「もちろん、おまえがどうするかは、おまえの気持ちや考えしだいだ」
「……」

「ただ、生後に習得したことを以ては、どうすることも出来ないことが存在する。理解するだけでも容易ではないことも、存在する。誰もが直に経験し続けることでもある、生きていることはどういうことかもそうだ」
「……」
「が、その人生の基礎や基本を未理解だったり、最も肝心なことを疎かにした生き方をしてしまったりするということだ……」
「……」
「もちろん、生後に習得したことを以ては、一般的には傷病にも対応できない。老化を阻止できるはずがない」
「……」
「知能も備わっていて、生きていることがどういうことかは直に経験し続け、数十年も生きたのに、心の準備すらできていないまま、死を受け入れるしかなかったりもすることになる」
「……」
「生きている状態でさえそうであり、なす術が無いからこそ老化し死ぬわけだから、死んでからは何かができるはずがない。むしろ、死ねば腐敗が始まる。なので、翌日、焼かれる」
「……」
「もちろん。二度と産まれてくることは無い。そうであることは、俺たち三人を産んだおまえならよく分かるはずだ……」
「……」
「つまり、産まれる機会に恵まれ、生きていること自体が尊い。そうであることすら理解するとは限らない。直に経験し続ける肝心なことを知らなかったり、それゆえに勘違いしていたり思い込んでいたりさえする。まさに、生後に習得したことに関しては、人は何様でもありえない」
「……」
「だから、生後に習得した内容の是非が、死によって問われる。最後の審判は、自ら下すことになっている」
「……」

「おまえにとっては、あくまでも俺は馬鹿息子なのだろう。俺がいくら言っても、おまえには聞こえてすらいないんだろう。でも、俺なんかが言わなくても、生後に修得することを以てはどうすることもできないものの存在は歴然としている」
「……」
「的外れことを習得するほど、無駄どころか、自ら災いを招く。そういうことも、生前に十分に経験する……」
「……」
「親子なんだから、はっきり言う。おまえは、俺よりも馬鹿なんだよ。このままでは、くそ婆や鬼婆のままで終わるんだよ」
「……」


「親父が死んだ歳と同じ歳になるのは、来年か?」
「……」
「ん?今年か!」
「……」
「じゃ、今月の末で、八十八か」
「……」
「親父が逝って、もう四年にもなるのか。早いな」
「……」
「おまえも、長生きだけはしたな。あんなに早くから、『長くは生きられない』と言うのが口癖だったのに」
「……」
「いずれにしても、誰でも逝く。こればっかりは、誰も拒否できない。誰でも、受け入れるしかない。そうであることは、おまえの方が多く見ているし知っているはずだ」
「……」
「覚悟ができていた方が楽だぞ。心の準備ができていないと、苦しむ。逆らえば、もっと苦しむ。逆らうから、苦しむ。死ぬとき、失うものが多いほど苦しむことになる」
「……」
「そういうことは、生きているうちに十分に経験するからでもある。考えるだけで分かることだからでもある。心の準備をするためには、余るほどの時間があったからでもある。つまり、生きているうちに心の準備をやっておく必要がある」
「……」
「死ぬ際に苦しむ原因になりそうなことは、生きているうちに解決しておくしかない」
「……」
「馬鹿息子が言うことなど、聞く気は無いか……」
「……」
 前方の信号が、黄色に変わった。
「人の言葉は、どういうことを話しているのかを聞こうとし解析すればこそ理解することもできる。内心で糞食らえとでも思って聞こうとすらしないと、どんなことを言っていたのかさえ記憶に残らない」
「……」
 信号が、赤に変わった。


 止まった軽トラの助手席で、母は深く落ち込んだままだった。
 ん!?。
 落ち込んでいる……。
「もしかして……。ボケたから、付き添いが必要なんだって思っているのか?」
「先生も看護婦さんも『付き添いが必要だ』って……」
「ああああああ、そういうことか。それで、落ち込んでいるのか」
「……」
「でも、それは違う。たぶん、おまえの勘違いだ。おまえは、ボケてはいない。前に、何回も言っただろ。そんなに心配している。それは、精神面が正常に機能している証拠なのだ」
「……」
「見聞きもできる。意識もしっかりしている。記憶も大丈夫だ。分別力も発揮できている。だからこそ、心配にもなるし苦にもなる。しかも、感情も正常に機能している。すべて、ボケてはいない証拠だ」
「……」
「今朝だって、普段どおりだった。路線バスで来た。薬をもらいに来ただけだ。その、病院から帰るのに、何でこんな状態になったんだろうと思ったよ」
「……」
「『付き添いが必要だ』って言われたのは、ボケたからじゃない。これは間違いないはずだ。おまえは、また勘違いしている」
「……」
 信号が青に変わった。
 右折して国道を南に向かう。

「そういうことだったのか。でも、医者や看護婦にそう言われたんじゃ、馬鹿息子が言うことは、耳にも入らないよな」
「……」
「保険証を失くしたとき以来だから、ほぼ二年間も、やっていなかったのに……」
「……」
「あれ以来、『ボケた』とは言わなくなったし、馬鹿げたことでしかないことが解ったから、やらなくなったのだと思っていたのに」
「……」

「ま……、俺も……、勘違いする」
「……」
「さっきも、もう歳だから諦めるしかないのかと思っていた」
「……」
「『付き添いが必要だ』って言われたときは、急に具合が悪くなって入院が必要になったのかとも思った。入院の準備をさせるために、一旦、帰すのかなって」
「……」
 あ……、付き添いが必要な本当の理由が明らかになれば、むしろ母の心配を煽ることになりかねない。
「ボケてはいない。付き添いが必要なのも、ボケたからでもない。それだけは間違いない」
 とは言ったものの、母は落ち込みから這い上がれない。
 母にとっては、俺はあくまでも馬鹿息子なのだ。俺が言っていることなんか、そもそも聞くに値しないのだ。
 母のことなんか気にしていない振りをして運転した。


 二十年以上も前、地方中心都市の内科医院に入院して回復した母は、以後も、毎月一回、路線バスを利用して通院していた。
 同市内の、整形外科にも、毎月一回、路線バスで通院していた。
 その整形外科の近くの、眼科にも行くようになり、白内障の手術も行った。
 十年ほど前の網膜剥離も、その眼科で明らかになり、大学病院で緊急手術をしてもらい成功した。
 その後も、その眼科にも時々行っていた。

 三年前、父は、地方中心都市の国立病院に入院し、間もなく八十八歳になり、一ヶ月あまりの入院で、秋に他界した。
 その病院の駐車場から院内の長い廊下を歩いて病室まで杖をついて毎日のように往復した母(当時八十三歳)は、杖を使わずに歩くようになっていた。
 そんなこともあって、あえて送迎も控えめにした。

 ところが、母は、ボケたと言って落ち込むようになった。
 でも、保険証を失くした時以来、「ボケてきている」とは言うものの、思い込んで落ち込むことは無くなった。
 馬鹿げていることを繰り返しただけに、母は学習したのだと考えられた。

 正月過ぎ、母のかかりつけ内科医院が、後継者問題や都市開発などで予定通り廃院することになった。
 以来、距離が半分以下の、近くの町の町立病院に母は通院することになった。
 その町立通院に三度めか四度めに通院した際の帰りのことだった。


「仮に『ボケた』と言われても、『ボケてなんかいない』って言い返すくらいのほうがいいんだよ」
「……」
「疑問も抱かず、否定もしないで、逆にそうだと思い込むから、心配になるし苦にもなり落ち込むわけだから」
「……」
「否定したり、疑問を抱くだけでも、思い込まずに済むわけだし、落ち込むこともないんだから」
「……」
「『バスに乗ってきたんだ』って、言えばよかったんだよ」
「……」
「『付き添いは必要ない』って、先生に言えばよかったのに」
「……」

 真正面の10キロ以上も先に、タケノコ採りで馴染みの山が雨で霞んでいた。
「村の方は雨だな……。家を出るときには降っていなかったのに」
「……」

 緩い右カーブになり、国道の右側は、家並みは途切れ、川に替わった。上流で大きく蛇行している川は、進行方向とは逆に流れ下ってきている。
「川の水、多いな、今日は」
「……」
 国道に接している、川に架かった橋側が感応式信号になっている。
 その先は、国道の両側に家並みが続き、先のほうで上り坂になっている。

「いつも言うが、想像に過ぎないのに、それを基に心配し、更に苦になり、落ち込んでいるなんて、馬鹿げている」
「……」
「いつも、一時的だった。結局、平常に戻る。平常に戻らなかったことは、一度も無かった」
「……」
 私が言うことは、母の心には届いていなかった。
 ほとんど反応しない母の落ち込みは、いつもよりも深く、いままでとは違う真剣ささえ感じられた。

 坂を上り切り、左にカーブすると交差点がある。その先で右にカーブして橋を渡る。橋の先は、長い上り坂が続く。
 上り坂の途中からは路面が濡れていた。
 坂を上ると、水溜りもあった。
「雨、この辺りにも降っていたんだな」
 坂を下り始めると、左のほうに村が見える。


 家に着いても、消沈したままだった母は、ゆっくり居間に入り、
「『家族の誰かに付き添ってもらって来て』って紙にも書いてくれて、持たされたんだけど……」
 と言いながら、ショルダーバッグの中を探した。
「あ、これだ。『家族の誰かに渡して』って……」
 その紙には、難聴だから付き添いが必要だ、という内容のことが書かれていた。
「おまえ、これを読みもしなかったのか!」
「付き添いが必要だからって……」
「だけど、難聴だから、付き添いが必要だって書いてある。いつも言うが、見るだけで分かることだろ」
「え……」
「ボケたからだとは、どこにも書かれていない」
「耳のこと!」
「そうだ。納得したようだな」
 母は笑顔をこぼした。
「見るだけでも分かったはずだ。それだけで、勝手な想像はする必要もなかったし、落ち込むことも無かったのに」
「見なかった。読まなかった……」
「笑っている場合じゃないだろ。馬鹿げているだろ。まさに、見れば分かることを、見もしないで、勝手な想像をして、ボケたと思い込んで落ち込んでいたに過ぎなかった」
「あははっ」
「いいかげんに憶えろよ。確かめずに、勝手な想像をして、思い込んで、落ち込むなんて、馬鹿げているだろ。いい加減に止めろ。頼むよ。確かめる癖をつけろよ」
「……」
「補聴器、幾つもあるのに、持たずに行ったのか?」
「小さくても、しょっちゅうつけていると、耳が痛くなるのよ」
「テレビを見るときより、医者の話を聞くときこそ必要だろ」
「忘れた。だからボケてきてるんだよ」
 視線が合うのも避けていたが、母の笑顔は止まらなかった。
「普段から、いい加減だからだろ。しかも、狡い。聞く耳持たない。反省することが無い。だから繰り返す」
「着替えてくる」
 笑顔のまま母は寝室に向かった。


「今回は、今までで一番分かりやすい。いいかげんに憶えろ。実に馬鹿げたことなんだから」
「分かってきてたのよ。だけど、先生と看護婦さんに、あんなことを言われたから」
「うん。今回は、そういう先入観もあったからだ……。でも、他人の所為にしたら、解決できない。自分で、確かめなかったことや、想像して勘違いし落ち込んでいたに過ぎなかったことなど、事実関係が分かったからこそ、笑っちゃうわけだろ」
「お昼ご飯、食べよう」
「え……」
「お腹空いた。何か作って」
 これ以上、言う必要はないか……。
 こんなに分かりやすい経験は、めったにできない。
 あんなに深く落ち込んでいたのに、事実関係が分かったからこそ、母は笑わずにいられないのだ。
「何か買ってくれば良かったな」
「有るものでいいから」
「スパゲッティなら有るけど」
「それでいい」
 母の笑顔が止まらない。
 想像し思い込み落ち込んでいた愚かさまで分かったからこそ、自嘲するしかないのだろう。
 備わっている能力を最低限は発揮しなければ、自分で困ることをさえ考えるし行うんだから。
 ボケに関しては、もう大丈夫だろう。


 以来、四年経った。
 九十二歳になった母は、野良仕事はするものの、老化は否めなず、病院の往復は、すべて送迎している。
 でも、母が「ボケた」と嘆き落ち込むことは、無くなった。

 ほとんどは反面教師だったが、俺は学ばせてもらった。
 だから、俺は、おまえのようなことは、せずに済む。

 でも、礼は言わない。
 おまえがいい気になると、逆効果になるだけだから。

 思えば、かつて、帰郷した自分は、上辺や見せかけを非難し、学習や知識の重要さを主張したものだった。
 嫁いだ姉が、時々やって来ては、その都度、手土産を目の前に広げて安易に母の肩を持つ。他方、親の言いなりにならずに厳しいことを言う俺を、非難したものだった。
 都会に就職していた弟も、正月には帰省し、来るたびに小遣いをあげて母の肩を持つ。仕事をしながら大学を卒業した報告をし、昇進した報告をし、嫁を貰った、が即離婚。それでも、親の言いなりにならずに厳しいことを言う俺を、非難したものだった。
 上辺や見た目だけで判断しがちな母が、すっかりいい気になったものだった。もともと俺を馬鹿息子扱いしていた母は、ますます俺を馬鹿息子扱いするようになった。
 つまり、母は、棚に上げておいた自分の無知や愚かさを認め難くなるようなことばかりしていたことになる。
 もちろん、母が、娘や次男を批判視することも至難になっていったことになる。
 当然に、俺のことも、馬鹿息子扱いするほど、母は自分の考えを覆し難くなっていったことになる。
 そんな自縄自縛こそが、最大の要因だったのだろう。

 だからこそ、俺がいくら「くそ婆」「鬼婆」と言っても、母は悟れないのだ。
 日常的に全面的に協力しているのは、俺なのに。
 姉も弟も、都合の良い時だけやってきて、上辺を繕うだけで、無責任なのに。






テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

カテゴリ : ★草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅴ. 御浚


 今回は、母との会話の中に猫の話題が登場します。
 いつかは猫のことも書く予定ですが、まだ先になります。
 というわけで、私と猫との関係を、今回は少し盛り込んでみました。



 台所でインスタントコーヒーを飲み終えて、自室に戻ろうとしたときだった。
「おまえが言うとおりかもしれない」
 居間に居た母が、そう声をかけた。
「分かってきたのか?」
「なんとなく……」
 窓を背にして立膝を抱えて座っている母。その前には、冬には暖房で使っていた薪ストーブがまだある。
「簡単には憶えられないこともある。努力が必要だったり時間を要することもある」
「おまえが何回も言ったから……」
「繰り返したことは、詳しくもなるし上達もする。日常的に繰り返し実用する動作や会話は、条件反射的な速さでできるほど熟練する。進化や、文明の進歩は、世代を超えて実現したことになるわけだし」
「……」
「ただ、想像や思い込みや悪い癖も、繰り返すほど上達する。しかも、一旦、上達したことを、直す場合は、当然に努力と時間を要する」
「……」
「御浚、やるか?」
「いい……」
「……このあいだ、一応やったからな」
「……」
「……じゃ、雑談でもするか」
 雑談と言い換えたが、馬鹿げたことであることを母には憶えてもらう必要がある。
 困るのは俺なんだから。
 薪ストーブを間にして、母のほうを向いて私は座った。


「おまえは、俺たちを三人産んで育てた。だから、俺よりは知っているはずだ。誰にも、目や耳などの感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能は備わって産まれる。そうだろ」
「……うん」
「でも、誕生当初は、首も座らないわけだよな」
「うん。手も足もバタバタするだけ……。布団やタオルをかけてあげても、すぐに蹴飛ばしてしまうんだよ」
「そういえば、このあいだ、スーパーの駐車場で、おまえを待っていたとき……」
 その時のことを話した。
 私の、右隣の車の助手席のドアを開けたので、見た。
 助手席はチャイルドシートになっていて、そこに、進行方向とは逆向きに赤ん坊が乗せられた。
 母親らしき女性は、運転席に乗り、下を向いて何かをしていて、赤ん坊にはほとんどかまわなかった。
 赤ん坊の目の前には、いろんなオモチャを吊り下げてあった。
 が、赤ん坊は、手が届くオモチャも、まだ上手く掴めない。
 でも、目の前に吊り下げられていて手が届かないオモチャをも、見る。じっと見詰めるわけではないが、それにも触りたいのだろう、手足をバタバタさせるどころか身体ごと飛び跳ねそうなくらいバタバタしていた。
「そう」
「うん。重力や引力や自分の重さや平衡感覚などは、赤ん坊でも否応なく経験する。でも、誕生当時は思い通りには動けないから、もがくしかない。でも、もがくからこそ憶える。本人がそうして憶えるから、思い通りに動かけるようになってゆく。つまり、大人でも教えようが無いことを、赤ん坊の頃に自分で憶えはじめる。もちろん、大人になってからパソコンなどを憶える場合も、初めは探し、繰り返し、練習して、上達するしかない。本人がそうしたことしか憶えない」
「……」
「首が座るようになると、上下や前後左右が分かりやすくなる。むしろ、それが不安定になると大人は眩暈をするわけだろ」
「二か月もすると、声をかけると、振り向くようになるんだよ」
「このあいだ駐車場で見た赤ん坊も、そのくらいだったのかもしれない。声を掛けたり、音を出したりしても、すぐに振り向きそうな感じだったから」
「じゃあ、そうかもしれない」

「猫だって、人を見分けるようになる。家族が使っているバイクの音まで聞き分けるようになる。しきりに匂いを嗅ぐわけだから匂いでも識別している」
「タモ(猫)は、返事するようになった」
「うん。タモを呼んだ時だけタモが返事をすることを、みんなで交代して確かめたよな」
 母が、私を呼んでも、タモは返事をしないし、父を呼んでも、タモは返事をしない。が、「タモ」と呼んだ時だけタモは返事をする。
 そうであることを、家族が交代して確かめたのだった。
「何度も何度も呼ぶので、タモは振り向かないで返事だけするようになった」
「しまいには、頭も上げずに寝たままで返事をした」
「ついには声も出さないでお腹を動かすだけだった」
「うん」
「あれから、かなり年が経った……」
 あれは、忘れるはずがないことでもあった。


 あの頃……
 自分の心の歪みに気づき、新たな勘違いに気づけずに三年も葛藤を余儀なくされた。
 でも、その不本意さそれゆえに、その要を解明できた。
 だからこそ、本格的な改善が始まった。
 後に思うが、この頃から、まさに根拠も理由もある本来の生き方が始まったのだった。

 当時、関心を抱いたことは、学習とはどういうことなのかだった。
 知らなかったことを憶えることはどういうことで、できなかったことも随意にできるようになるのはどういうことなのかだった。
 それによって、自分の心が形成された。が、その性質ゆえに、肝心なことを理解しそびれもし、歪みもした。そう考えられたからだった。

 たまたま、近所の子供が、ダダをこね、子守り役の祖母が持て余していた。
 その事実関係から、次のように考えられた。
 その子供は、ダダをこねると好いことをしてもらえる、と憶える。
 だからこそ、その子供は、好いことをしてほしいときには、ダダをこねる。
 それを、祖母は甘やかす。
 だから、悪循環に陥ってゆく。
 もちろん、子供には悪意は無く、知らなかったことを憶え、できなかったことが随意にできるようになる。つまり、学習している。
 しかも、自分ではできないことを、大人にしてもらえる。当然に、学習は促進される。

 その後、家の傍を真っ白な野良猫が通った。子連れだった。
 母猫よりも、子猫たちの方が逃げ隠れするのが素早かった。
 知らない人に対しては警戒心を顕にする。そんな野良猫の気持ちは率直で、私には分かりやすかった。
 自分の母親は、世間体を気にし上辺を繕うばかりで訳が分からない。独裁者のような母に、父は頭が上がらない。そんな両親に、私はうんざりしていた。
 猫も、警戒し反撃もする。が、親子や兄弟姉妹は仲良くする。つまり、猫とはいえ、信頼関係を左右する法則なり暗黙のルールなりが存在することになる。
 その子連れの野良猫に、警戒心を解いてもらうとか、自分を信用してもらうとか、自分と仲良くしてもらうとかするには、どうすればいいのだろう。そう思って、相応の試みをはじめた。
 決して敵ではないことを知ってもらう。強いない。騙さない。直視しない。むしろ友好的であることを知ってほしい。食べ物を置いて、その場からは離れる。猫たちが警戒しない所まで離れる。
 来るのが待ち遠しかった。猫たちは、時々来るだけだった。食べ物は、その時に家に有る煮干しだったり干物だったりビスケットだったりした。(当時は現在のようにペットフードは普及していなかった)
 猫たちは、自分が傍にいても、食べてくれるようになった。
 猫たちは一斉に寄ってくるようになった。
 俺は、この猫たちを食べ物で騙しているだけなのか……。まだ、そんな迷いがあった。
 でも、信頼関係を築く法則に適ったことが行われるなり、警戒心が不用になるなどして、信頼関係を築く条件が満たされれば、猫とでも仲良くなれる。
 回数を重ねるうちに、子猫は四匹いることが分かった。
 やがて、子猫は、親と同じ色の真っ白な子猫(雌)と全身が黒っぽい縞の子猫(雌)と二匹だけになった。
 開放的な自然界とは違い、狭い家の中には、警戒して、なかなか入ってくれなかった。
 やがて寒くなり、薪ストーブで暖をとりはじめたころに、その猫親子が我が家に入ってくれた。
 真っ白な子は「チビ」、黒っぽい縞の子は「クロ」と名付けた。
 一メートル以上も雪が積もる冬は、薪ストーブの周りで暮らしてくれた。その寝顔に、当初の警戒心はどうなったのだろうと思わされたものだった。
 触ることも許された。
 真っ白なチビも黒っぽい縞のクロも、すっかり大きくなった。
 翌春、母猫には、野良に戻ってもらった。

 そして、真っ白な「チビ」が、家で五匹の子猫を産んだ。
 そのうちの一匹は、猫専用に設けた出入り口から入ってきたイタチのようなもの襲われ、チビに反撃されて糞尿を撒き散らして天井を駆けるほどの争いをした。
 が、可愛い盛りの子猫は首を噛まれていただけに、首から下が不随になり、その日のうちに死んだ。
 やがて、二匹がもらわれていった。
 更に、もう一匹ももらわれていった。
 残した子猫(雄)に「タモ」と名付けたのだった。

 タモとは、会話はできない。言葉で説明して何かを教えるということはできなかった。

 でも、人の場合、経験相応のことが、記憶に残る。
 だからこそ、別れた後でも、会っていたときのことを思い出せるし、相応のことを考えることも出来し、伝え忘れたことがあった場合には戻って伝えることも出来る。
 再会時には、記憶に残っていることを思い出すからこそ以前に会ったことを識別できるし、以前に会った時はどうだったかを話題にすることもできる。
 タモの祖母や母にあたるチビやクロたちは、数日毎に、やってきた。あれだって、記憶があるからこそできる。
 記憶を参考にして識別や判断をしているからこそ、現在地からは見えない遠い所にも行くし、小急ぎに野菜畑の中を近道もするし、駆け足で行ったりもする。
 少なくとも、俺は敵ではないことを憶えたからこそ、家にも入るようになり、薪ストーブの周りで眠るようにもなった。
 猫も、経験相応のことを記憶し、記憶を参考にして識別しているからこそ、相応の行動をしていることになる。
「チビ」も「クロ」も、食事を出すたびに食器を叩いて音を出していたら、その音を出すと急いで寄ってくるようになった。
 そこで、食事を出すたびに「ごはんだよ」と言うことにした。すると、「ごはんだよ」と言うと寄ってくるようになった。
 猫は、言葉は理解できない。が、猫も、経験相応のことは記憶に残り、その記憶を参考にしているからこそ識別でき、だからこそ相応の行動をしている。
 つまり、猫も、学習する。間違いない。

 ということは、タモにも、何かを憶えさせることは可能だ。
 タモが、その記憶を参考に、識別し、相応の行動をするようになる。
 そう考え、タモが『ニャー』と言うたびに、私の方が返事をすることにした。
 それを繰り返しすことによって、タモ自身が『ニャー』と言った際に私が返事をすることが、タモの記憶に残る。
 やがて、タモ自身が、その記憶を参考に、『ニャー』と言った際に私が返事をするんだということに、気づくかもしれない。
 気づければ、タモ自身が私に気づいてほしいときにも『ニャー』と言うようにもなるかもしれない。
 より確実に憶えてもらうためには、タモが『ニャー』と言ったときに、私が確実に返事するほど有効だということになる。
 そう考えた私は、タモが「ニャー」と言うのを待ち、すかさず返事をするようになった。

 タモ自身にも、「タモ」と呼べば、お前のことだし、お前に話しかけているんだ、ということも憶えさせようと思った。
 タモが傍にいるときは、タモの身体を軽くポン・ポンしながら「タ・モ」と呼ぶ。
 離れているときは、必ずタモを見て、「タモ」と呼ぶ。
「タモ」と呼ぶ際に手を叩いて、タモに気づかせるようなこともした。
 タモが振り返るまで呼んだりもした。
 タモが反応すれば、もちろん褒めた。

 そうしているうちに、人が引き戸を開け閉めするのを見ているからか、タモも引き戸を開けることを憶えた。
 タモが学習することは、間違いない。

 ところが、開けっ放しで出かける。外壁には猫専用の出入り口を開けてある。
 そこで、タモが引き戸を開けれらないようにした。
 すると、タモはガリガリひっかいても、戸は開かないので、戸の前で「ニャー」と言うようになった。
 早速、私は返事をし、「自動車に気をつけろよ」などと話しかけながら戸を開けてあげる。
 タモは小急ぎに出て、その先の猫専用の小さい出入り口を通って出かけてゆく。
 やがて、タモは、戸を開けようとせずに、戸の前に座って「ニャー」と言うようになった。
 タモが学習していることは、日増しに明らかになっていった。

 ならばと、タモが戸の前で「ニャー」と言っても、私は返事だけして対応しなかったりしてみた。
 すると、タモが私の傍まで来て「戸を開けてよ」と言わんばかりに私にすがった。
 タモは、言葉は話せないが、意思表示ができるようになった。
 タモにも、気持ちがあり考えもある。が、タモは、言葉では話せないだけなのだ。

 気持ちや考えなどは、内面的なことなので、直に見知ることはできない。だからこそ、人は、言葉で気持ちや考えを伝える。
 が、本来は、言葉を使わなくても、意思表示は可能だ。
 猫の場合は表情や振る舞いによる意思表示だけに、それを受け取るべき自分が識別ができるかどうかが重要なのだ。
 タモの振る舞いによる意思表示を、受け取るべき自分が見落としさえしなければ、適切な対応もできるし、意思疎通が成立する。
 もちろん、タモは、意思表示できるようになることによって、協力してもらえる。タモは自分ではできないことを、私にしてもらうことができる。
 だからこそ、猫も相応の学習をする。

 タモが「ニャー」と言えば、私は返事をし、タモの気持ちを察して応えることが、日常化していった。
 タモの気持ちを、もっと具体的に知りたい。タモは、どう思っているのだろう、どんなことを考えているのだろう。いつか言葉で具体的な意思疎通をしてみたい。そんな気さえするようになった。

 タモが、どういう行動をして活動エリアを広げてゆくのかか知りたくて、タモの後を付いて行ったりもした。

 両親に対しても、私は学習や努力を主張していた。
 そんな私を、上辺だけを基に判断しがちな母は一蹴し、私を馬鹿息子扱いして見下していた。
 私が、家に招き入れた猫たちをも、母は邪魔にさえしていた。
 そんな母に対しては、心を閉ざすしかなかった。
 言葉を話せるし、具体的に理解し合うことが可能なのに、言い訳や嘘ばっかりでは、言葉を話せない方がましだ。

 言葉を話せないタモに対しては、私は心を開き、むしろタモに期待し、タモと意思疎通をする試みまでした。
 そうしたことによって、私の心は育て直されていったのだった。

 そんな、ある日、母が気付いた。
「タモが、返事してる」
「えっ」
「タモ」
「ニャー」
「タモ」
「ニャー」
 家族が交代で、タモを呼んだ時だけタモが返事することを繰り返し確かめた。
 タモが「ニャー」と言えば、返事して話しかけ、状況を察して応えることが日常化していた私は、タモが返事をするようになっていたことに気づかずにいたのだった。

 言葉で説明して教えることはできないが、経験相応のことは記憶に残り、猫自身が自身の記憶を参考に識別して相応の振る舞いや行動をするようになる。つまり、学習する。
 人の赤ん坊にも、大人は教えようが無い。赤ん坊自身も模索するしかない。が、模索相応のことが記憶に残り、その記憶を参考にした識別や思考が可能になり、試行も繰り返せるからこそ、学習する。
 だからこそ、大人が教えようが無いことを学習し、大人が教えないことも学習し、大人が子供には憶えて欲しくないと思っていることさえも学習し、大人に抗議もし、拒否もし、反抗もする。
 そんなことにまで、タモが気づかせてくれたのだった。

 相応の知能が、すでに備わっているからに他ならない。
 学習の基本を理解できたことによって、もともと相応の知能が備わっていたからだという心の原点も明らかになった。

 言葉が話せるのに、訳が分からないことばかり言う母に対しては、本当に私を産んだ母親のかと疑問が増すばかりだった。

 獣医に往診してもらった。三度、往診してくれた。
 が、タモは死んだ。
 一匹の猫が死んだとは思えないほど哀しく寂しかった。
 訳が分からない母に向かって、「おまえが死んでくれたのなら、むしろせいせいしただろう」と吐いた。

 しかも、タモが死んだ寂しさの中で、思いがけない決定的な体験をした。
 その体験では、記憶の重要さが歴然としていた。しかも、日常的に繰り返したことほど記憶が確かになり、その確かな記憶を参考にするからこそ条件反射的な速さで(考えるよりも早い動作が)できるようになる(熟練する)んだということに気づいた。
 タモと、学習の基本を学んだ上だったからこそ、気づくことができたことだった。

 結局、知能はどういう器官で構成されているか、知らなかったことを憶えるとはどういうことか、できなかったことが随意にできるようになるのはなぜなのか、学習とはどういうことなのか、そんな根拠や理由に関する理解を深めつつ、私は自分の心を着実に育てていった。


 以来、三十年以上も経った。
 何様かのつもりでいた母は、何も憶えようとしないまま、現在に至っていた。
 それどころか、自分で「ボケた」と言って落ち込むようになったのだった。
 母は、自分の考えに関することなのに、想像に過ぎないことも思い込みでしかないことをすら理解できていない。
 むしろ、省みれないのだろう。自分で認め難いことを考え行ってきたし、それが記憶にあるからにほかならない。

 皮肉なことに、母が「ボケた」と言って落ち込むようになったことからも、精神面に関することを私は更に理解した。
 だからこそ、「おまえはボケてはいない」と、これでもかと説得することもできた。


 思えば、母も、三十年前のことを憶えていた。
 むしろ、俺たちが子供だった頃のことも憶えている。
 それ以前のことだって話したことがある。
 母にだって、学習能力もある。
 会話上では、納得しなかったり、納得したりするわけだから、思考力も理解力もある。
 母の繰り返しそうな気配は減少している。と感じたりもしていた。
 母が笑う時も、以前よりは明るくなった。そう感じたりもしていた。
 母も、多少は分かってきているのだ。

 ただ、改善できた確証は、まだ得ていない。

「人は、寝返りができるようになり、這うようになり、掴まって立ち、足だけで立ち、歩き、走り、跳び回るようになる。片言で話し始める言葉も、上達し、記憶にあることだけを基に会話するようになるわけだよな」
「……」
「もちろん、成長すれば、できるようになるわけではない。片言で話し始めた言葉も練習するから上達するし、箸の使い方も微調整するから上達するし、字も読めるような字を書けるようになる」
「……」
「繰り返したり練習したことは高度なこともできるようになる」
「……」
「自分の目が、何時ものように見えていないことなどに、気づくようになる」
「普段、どのくらい見えているか、憶えているから?」
「うん。分かってきた?」
「聞こえていた時のことは憶えているから、聞こえなくなったことも分かる……」
「おお、分かってきたんだ」
「何回も言われたから」
「何をやっていたのか分からなくなった。なのに、そうであることをさえ分かるんだから」
「そう言われると、そうかな……って思う」
「記憶には、いろんなことが溜まってゆく。それを思い出して、こうして話すことも出来る」
「……」
「つまり、記憶に残っていることを整理して考えるだけで、何故だったのか理由なども分かる」
「……」

「もちろん、突然、ボケることは、無いんだと思う」
「そうかもしれない……」
「おまえの方が、昔からの知り合いがボケたりしてるわけだから知っていると思うけど、急にボケた人はいなかっただろ?」
「けど……」
「そこの家の婆さんも、ボケた」
「うん」
「タモが死んで数年経った頃だったと思うが、自分の家が見えるそこまで来て、自分の家を見ながら、傍にいた俺に、『家に帰れなくなったから、連れて行ってもらえないか』というようなことを言った」
「……」
「ボケていると聞いていたこともあって、ボケているんだと俺も思った。家はそこだし、その家を見ながら言ったんだから」
「……」
「でも、気持ちや考えを文章化して話すだけでも知的に高度なことだ。話したこと自体は、文法にも適っていたし、理にも適っていた。そんなことを考えたら、ボケているわけではないんじゃないかと思った」
「……」
「ただ、自分の家が見えるところまで来ている。その家を見ながら言った。『家に帰れなくなったから、連れて行ってもらえないか』というようなことを。そこが不可解だった」
「……」
「でも、家に帰れない理由があるとか、連れて行ってもらった方が都合がいいから、そう言ったのだとしたら、ボケてはいなかったどころか、知能を駆使していたことになる。でも、そんなことは確認できなかった。だから、連れて行った」
「……」
「あれから何年後だったか、亡くなり、葬儀の手伝いにも行った。が、いまでも、俺は、ボケてはいなかったんじゃないかと思っている。おまえがボケたと言うようになってからも、そのことを幾度か思い出した」
「……」
「あの頃は詳しくもなかったが、おまえとは話すことができる。だから、詳しくもなった」
「……」
「もちろん、おまえは、毎回、平常に戻った。平常に戻らなかったことは、一度も無かった。むしろ、いつも一時的だった。それらからも、ボケているわけではないことは、明らかだ」
「……」

「おまえは、ボケた人ともけっこう接してきたわけだから、ボケた人に関しては、俺よりも憶えているはずだ。本当にボケ始めたのなら、おまえのように簡単には平常に戻れなくなるはずだ」
「いるよ……」
「え……」
「ユミ婆ちゃんは、文子(由美の嫁)が『お婆さんがボケた』と言って施設に入れたんだけど、わたしたちが会いにゆくと全然ボケているとは思えないんだよ」
「本当はボケていないからだろ。おまえと同じなんだよ。本人が心配するあまり思い込んでいるに過ぎないのに、家族までがボケ扱いしたら、本人はますますボケた思い込む。むしろ、ボケてはいないと思う方が難しくなる。そうだろ」
「……」
「おまえだって、自分で『ボケた』と思い込んで落ち込んでいたわけだから、俺までがボケ扱いしたら、おまえはますますボケたと思い込んだはずだ」
「そうかもしれない。ユミ婆ちゃんは、文子がトイレなどに行って目の前から居なくなると、文子の悪口を言ったりして、普通に戻るのよ。目の前に嫁がいると、ダメなのよ」
「反撃していたのか。それこそ、ボケてはいない証拠だ」
「施設に入れられる前、家にいた頃も、そうだった。嫁は、いっつもボケ扱いしていた。息子は、もっと酷かったのよ。ユミ婆ちゃんも負けまいとするからだけど……」
「悔しがって反撃までするくらいなら、ボケてはいない。そういえば、ユミ婆ちゃんは、施設に入れられてからも、家に帰りたがっていたって言ってたよな」
「いっつもそうだった。会いに行くと、一緒に帰るって言うのよ。荷物をまとめ始めたりするのよ。だから、帰るときは辛いのよ」
「たぶん、ボケてはいなかったんだよ。自分でボケたと勘違いしていたか、ボケ扱いされていたんだろ」
「ボケ扱いされたまま、死んじゃった……」
「いま言ったことは、よその家で軽々しく口に出しちゃ駄目だよ」
「言えないよ」
「そんな家では、おまえもボケ扱いされて片付けられるよ」
「……」

「俺は、いつも、ボケていないことにばかり気を取られて、考えもしなかったけど……。もしかしたら、おまえも、俺がボケ扱したら、怒って反撃するんじゃないのか」
「……」
「ま……、おまえがボケれば、俺の人生も台無しになる。俺だって、もういい齢なんだから。自分が困るようなことは、するわけにはいかない。おまえを施設に入れる金だって無い。だから、おまえが多少ボケたとしても、俺はボケ扱いはしない」

「心配になるのよ」
「え……」
「何をやっていたのか分からなくなったり、思い出せなくなったりすると、何がどうなったのか分からなくなるから、ボケたのかと思うし、ボケた人たちのことを思い出すから……」
「あ、そうか。小さい村だから、ボケた人たちも、若い頃からの知り合いし、記憶にあるよな」
「ボケはじめてからも話もしているし、すっかりボケてしまってからも話しているし、ああなるんだなって思うし、心配になるのよ」
「なるほど。ボケに関する知識は無いが、ボケればどうなるかは、おまえの頭の中には記憶されている。その記憶にある人たちのようになると思うしかない。否定する知識は無いんだから。当然に、心配になる。そういうことだったのか」
「なんにも考えられなくなる……」
「考えがそっちに行ってしまうから、ますますボケたかもしれないと思うわけだろ」
「自分も、ああなるのだと思うと、苦になるのよ」
「想像に過ぎなくても、そこまで行ってしまうと、苦になるのも当然だ。そうだったのか。想像に過ぎなくても、内容しだいでは、心配になるし、苦にもなる。だから、思い込みもするし、落ち込みもするんだ」
「本当にボケてしまったような気がしたんだから」
「そういうことだったのか。やっと分かった。落ち込んでしまう理由が曖昧だったんだ」
「でも、おまえが、おまえはボケてはいないって言うから……」
「ボケているわけではないからだ。そうだったことは、もう自分でも分かるだろ」
「なんとなくだけど、分かっていたのよ」
「いま話したことを、何時でも思い出せばいい。つまり、記憶にあるボケた人たちのようになるんだと真剣に想像するほど、配になり苦になる。でも、実際にそうなったわけではない。想像して、心配しているに過ぎない。だから、その想像を止めると、平常に戻る。もちろん、想像している時だけで、一時的なことで、平常に戻らなかったことは一度も無かっただろ」
「うん」
「そういえば、俺も同じような経験をしていた。なのに、気づけなかった。実は、山で、迷ったのかもしれないと思ったことがあって、あのときはパニック気味になった。まだ消防団員だったので、山岳遭難の救助に何回か出動したときのことなどばかり考えたからだった。あのときと、同じようなことだったということだ」
「そうかもしれない」
「実際には、想像しているに過ぎなくても、想像の内容しだいでは、心配にもなるし苦にもなるので、思い込みもする。パニックにもなる。恐怖感も、そうだ。群集心理も同じようなものなのだ。想像の内容しだいでは、失神する人だっている」
 ついに分かった。その重要性上、メモをしたいと思った。が、目の前の母のことをそっちのけで、私は理解を深め、繰り返すことで記憶に留めようともしていた。
「その、山で迷ったとき、どうした?」
「あ、あのときは……、パニック気味になって、動き回ることもできなくて、呆然としていた。そしたら、実際に何かが起きているわけではないので、しだいに冷静になった。そして、目の前にある鉈で切った小枝を見て、見覚えがあることに気づいた。だから、移動方向や位置関係など、現実的なことを確かめはじめ、結果的に想像は止めたことになる。そして、現実的な事実を基に迷っていたわけではなかったことに気づき、想像に過ぎなかったことが分かって、ほっとした」
「う~ん」
「想像に過ぎなくても、想像の内容しだいでは、思い込むどころか、パニックにもなるんだ。自分の生存に関わる重要なことだと、心配になるし苦にだってなる。当然だ」
「ボケてしまったら大変だし、苦になるばかりで、他は何も考えられなくなった」
「うん。群衆でさえ、パニックになるわけだから」
「ただわめきたくなる……」
「うん。ああ、どうすればいいんだー、っていう感じ。違う。どうすればいいのかわからず、訳が分からなくなってしまう」
「わかる……」
「そんなことに基づいて、実際に行動したら、大変なことになる。俺が山で迷ったと思った時も、パニックに陥ったまま実際に行動していたら本当に遭難したはずだ……」
「……」
「恐怖感も、実際に何かが起きているわけではない場合は、まさに想像に基づいた感情に過ぎない。そんなものに基づいて実際に行動してしまったら、それこそ大惨事になりかねない」
「それこそ怖い……」
「ボケ扱いしたり、ボケたと思い込んでしまっても、同じことだ」
「うん」
「逆に、冷静になるだけで、いろんなことが分かる」
「慌ててしまうから、分からなくなる……」
「うん。記憶にいろんなことが溜まっているので、その影響もある。でも、冷静なときは、こうして整理して考えただけで、いろんなことが分かった。つまり、いろんなことが記憶にあるし、相応の経験もしているわけだが、整理して考えないことは未理解なままなのだ」
「普段は、いい加減だから……」
「まあな。でも、実際に何かが起きているわけではなく、自分で想像しているに過ぎないのに、本当にそうだと思い込んでまうことって、馬鹿げているどころか、怖いことでもあるんだよな」
「せっかく分かってきたのに、またなったから悔しかった」
「あああ……、そう」
 母は、真剣だったのだ……。
「おまえから何回も聞いたのに……」
「記憶にあって、相応のことを実際にやっていても、理解できていないこともあるし、勘違いしたり思い込んだりすることだってある。だから、繰り返し考えないと理解できないこともある。しかも、俺も、物覚えは悪くなった。思い出せなくもなった。忘れやすくもなってる」
「うん」
「でも、老化だ。ボケではない。老化は、どうにもしようが無い。誰もが死ぬが、その類だ。むしろ、忘れたり、思い出せないことは、大事なことではないからだ」
「難しいことは分からないけど、ボケたと思うのは間違っているような気はしてきていたのよ」
「そうか。大事だと思うことほど、真剣に考えもする。それだけ記憶にも確かに残る」
「うん」
「投げやりになるなよ。よく見たり、確かめたり、考えたり、そんなことをするようになれよ。もともと分別できるんだから……」
「……」
「ま……、俺も、お前がボケたと言うので、ああだこうだと考えて、それなりに分かったことを言っているようなものだけど……」
「……」
「さっきの、想像に過ぎなくても、その内容しだいでは、心配になるし、苦にだってなるし、思い込みもするし、パニックにもなるんだということだって、自分でも経験していたのに理解していなかった。おまえが『ボケた』と言うようになったおかげで、気づいた。気づいたことは具体的に理解することもできる。理解したことは活かせる……」
「……」
「いま話したことを、あちこちでも思い出せれば、ボケたと思い込むことは無くなるはずだ……」
「……」
「話して、良かった。今日は、大収穫だ。でも、これで終わり。俺、やることがあるから……」


 思えば、以前、単に会話をしたことによって、平常に戻った、とも考えられないわけではない。
 母が『ボケた』と言うようになってからは、かつては無かったほど、話すようになったわけだから。
 会話だけでも、平常どおりであることを自覚することも可能だ。会話は、客観的な要素が満載だからかもしれない。


 やがて、母は、長年続けてきた白髪染めを止めた。
 母の頭髪は真っ白だった。






テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

カテゴリ : ★草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅳ. 保険証を失くした


 
「ああ……」
 階下で、ボソボソ言い始めた母。
 もしかしたら……。
 私は耳を澄ました。


 母は、しばらくやっていなかった。

 野良仕事を始め、現実的なことに追われるようになり、現実離れした妄想には陥らなくなったのだろう、と考えていた。

 やった場合も、毎回、一時的で終わり、平常に戻る。
 母は、自分で「ボケた」と想像し、それを基に心配し、心配するあまり思い込み、落ち込んでいるに過ぎない。
 幾度も繰り返しただけに、馬鹿げたことであることを自覚できるようになって、やらなくなったのかもしれない、と期待もしていた。


「あぁ…ボケてしまったぁ」
 そう聞こえた。
 母の嘆きは、居間のほうからだった。

 解決したわけではなかった。
 母は、自分で「ボケた」と想像し、それを基に心配し、思い込み落ち込んでいるに過ぎないことを、まだ理解できていなかった。

 母は、勝手に「ボケた」と思い込み落ち込んでいる。
 その要である内面的なことを無視して、外見だけを基に判断し、真に受けて、俺までがボケ扱いしようものなら、母をますます「ボケた」と思い込ませ落ち込ませることになる。
 そうなれば、困るのは俺なのだ。
 自ら災いを招く軽薄で愚かなことは、何もしないことよりも劣る。
 余計なことを抱え込むことだけでも、阻止したい。

 むしろ、放っておいても、母は平常に戻る……。
 そうした方が、母には分かりやすいかもしれない。
 想像が基になっているに過ぎず、実際に何かが起きているわけではないんだから。


 というより、俺が言ったことも、相変わらず、母は聞いていなかったことになる。

 それとも……、俺が憶えたことは、間違っているのか……。
 そんなはずはない。
 重要な部分は、自分の経験を基に理解した。理解できたからこそ、改善もできた。かつては想像もできなかった今の自分が在るのが、何よりの証だ。


 母こそ、憶えようとしない。
 そもそも基本的な学習能力は発揮していない。
 これだ。何も憶えようとしないことこそが、問題だったのだ。
 必要なことを憶えようとし、必要なことを憶えさえすれば、解決することなんだから。
 むしろ、そうすれば、何もかも解決する。

 ボケたか否かは、もう二の次でいい。
 想像云々も、後回しでかまわない。
 改善や反省云々でもない。
 でも、一向に憶えようとしない母に、どうやって憶えようという気にさせればいいんだ。


 母は、なぜ憶えようとしないのだ……。
 母の知能を構成している各器官は平常どおりに機能している。
 会話でき、約束事も可能なわけだから、思考力も理解力も発揮している。
 自分で想像して心配し思い込んでいるに過ぎない馬鹿げたことなのだと理解するだけで、むしろ繰り返し難くさえなるはずだ……。

 母にも、学習能力はある。
 若い頃に和裁を習得した母は、俺たち三人を育てた頃、内職で花嫁衣装や寝具などを手縫いで仕立てたものだった。


 むしろ、誰でも、誕生当初は寝返りもできない。
 誕生後に、環境上の刺激とともに、自身の各感覚器官や意識や記憶力や感情などの個別の特徴や知能の構成要素は、直に経験し続け、相応のことが記憶に残る。
 その記憶を参考に、識別や思考や理解や予想などもするようになる。
 だからこそ、それらを可能にしている知能の構成器官(各感覚器官や意識や記憶力など)に異常があれば、気づく。つまり、知能の構成器官に関しては、平常どおりに機能しているか否かを日常的にチェックしているような状態になる。
 その上で、記憶を参考に識別や思考や理解や予想などを行う。つまり、知能の構成器官を随意に活用するようになる。
 気になることを意識する。不確かなことは確かめようとする。そうしたことに関する記憶も確かになり、それだけ確かな識別や思考も可能になり、適切な振る舞いが可能になる。
 繰り返し接したり観察したり確かめたり試したりしたことほど、そのことに関する記憶は詳しくもなる。
 記憶に詳しいことがあることほど、それを参考にして行われる各部の識別や思考や予想も可否や是非の判断なども的確に行えるようになり、相応の結果にもなる。
 その、知能の構成器官を活用して内面で行う情報処理(識別や思考や予想など)が熟練するからこそ、動作や会話などの基本的なことは、記憶を参考に条件反射的な速さで行えるまでに熟練する。

 それらを以て、誰もが生活するようになる。

 動作や会話などの基本的なことは小学生の頃に熟練するわけだから、十年前後も要する。
 大人になってからでも、努力と時間さえ惜しまなければ、詳しくもなれるし上達もするし熟練することもできる。
 そんなことに期待し、楽しんで臨み、達成して喜ぶ。
 そんな面が、母には無い。

 世代を超えて進化し、文明や文化も世代を超えて進歩したのに。


 母は、一切、憶えようとしなくなった。なぜだ……。いつからなのだろう……。
 憶えようとしなくなった理由が分かれば、その解決も可能になるのだが……。
 電話の子機への切り替えも、憶えようとしない。
 備わっている知能を、母は活用していない。

 やってみようとすらしないで、「憶えられない」と即答する。
 見ただけで分かることも、見もしないで勝手なことを言う。
 考えただけで分かるようなことも、考えず、自分の愚かさを棚に上げてまで勝手なことを言う。
 火事を出しても不思議ではないほど、いい加減だ。
 だからこそ、本来の能力を発揮させるために、俺はあえてやらせてきた。
 それゆえか、一時期よりは、改善された感じがする。
 が、油断はできない。なにをするにも、ブツブツ言いながら仕方なく嫌々やるんだから。
 上辺だけや見せかけだけの、いい加減なことばかりしているのに、自分だけ大変な目に合っているような態度をする。
 炊事まで、俺にやらせる。俺は料理は趣味ではないが、学習に関しては詳しくなれるし、憶えるだけ得をする。が、母は、ますます堕落する。
 備わっている知能を、母は誤用している。
 安易にボケ扱いすることは、母にますます「ボケた」と思い込ませ落ち込ませることであることは間違いない。


 母は、必要以上に世間体を気にする。見た目だけ優先し、見た目だけを繕う。
 見た目を繕えなくなると、拗ね、泣き、強情まで張る。
 繕えなくなると、自棄的に嘆きヒステリックにさえなる。
 そんなことに、学習しなくなった要因が潜んでいるのか……。
 改善しようとしない。反省すらしない。「そうかもしれない」と言うことさえ、めったに無い。
 自分の都合しだいで、憶えていない、知らない、と即答する。
 他を疑っているような振る舞いばかりで、他を信用しているようなことが無い。
 騙し欺くことに固執しているようなものだ。
 つまり、見抜けないだろうと侮っている。
 備わっている知能を、悪用さえしている。

 思い当たる過去の母にさえ、腹が立つ。
 未解決なままだからだが、母には逆らい難いことも事実だ。
 説得する実力が無いからでもあるが、直に糾弾するには抵抗があり、葛藤が生じる。
 自分に生じる葛藤だけに、その要因を、自分の記憶の中から探す。微かに感情は甦る。それが、年々、曖昧になる。その解明は、もう絶望的だ。
 でも、それゆえに葛藤は緩和され、以前よりも言えるようになった。「馬鹿たれ」、「くそ婆」、「おまえは鬼か」、などと……。
 親子だからこそ言えるわけだが、そんな言葉を使ったところで、母は悟れない。

 むしろ、俺も着実に老化し、残り時間は無くなる一方だ。

 母は、膝がどうとか、腰がどうのと言い、月に一回は整形外科にも通院している。
 運動不足ぎみで、骨粗しょう症も始まっているという。
 好き勝手にさせておくと、本当にボケかねない。
 そうなれば、俺が困ることは歴然としている。
 そんなことは、母は考えもしないんだから。


 階下の母は、静かになった。
 物音一つしない。
 気配さえ感じない。
 その静けさが、私に腰を上げさせた。

 居間のテレビの直ぐ前に、母は座っていた。
 総入歯を外した萎んだ皺だらけの口は空いている。
 意識は内向しているのか、目は泳いでいる。
 肩からは力が抜けている。
 本当にボケたのか……。
 諦観、悲哀、初めて経験するような感情がよぎった。

 でも、内面的なことだ。見た目で判断できることではない……。
「どうした?」
「……」
「ん?」
「ボケてしまった……」
 母は俯き背を丸め小さくなった。
 絶望というより、パニック気味に見えた。
 そこまで思い込むなんて……、馬鹿か……。
 でも、会話は成り立っている。
 感情も思考力も、機能している。だからこそ、不安にもなるし、パニックに陥りもする。
 想像が基で、むしろ知能を構成する各器官自体は正常に機能していることが実証されている。
 感情も思考力も機能しなければ、不安にもならないし、パニックにも陥らない。そうなればこそ、ボケている可能性がある。
 今回も、ボケたと想像して思い込んでいるに過ぎない。

 母の前に、私は胡坐をかいた。
「ボケてはいない。落ち着け」
 とは言ったが、母は、平常どおりであることをすら識別できないし自覚できない。だからこそ、むしろボケたと想像し、想像に過ぎないことも自覚できないから、本当にボケたと思い込んでいる。
 今の母に、想像に過ぎないことを自覚させることは至難だ。

「ところで、ボケたと思う、理由は?」
「なんにも分からなくなった……あぁぁ」
「そんな演技は、要らない。大げさな演技をするほど、おまえは思い込むんだから、それは止めろ」
「……」
「むしろ、それだけ分別できるんだから、ボケているわけでもない」
「……」
「俗に言う、頭の中が真っ白にって何も考えられなくなったことは、俺も何回かある。でも、そういう状態になっていること自体は、俺は分かっていた。おまえも、なんにも分からなくなったこと自体は、分かっているわけだろ」
「……」
「なんにも分からなくなったのに、そうであることを客観的に捉えることができているわけだから、ボケていない証拠だ。むしろ、知能の高度な面を発揮できている証拠だ」
「……」
「会話だってできている。会話は、犬や猫などはできない。とても高度なことだ」
「……」
「俺が話した内容を、おまえは記憶にあることを参考にして解析している。必要なことが記憶に無い場合は、憶えていないとか知らないと言うし、必要なら尋ねたり確認したりもする。つまり、価値判断もしていることになる」
「……」
「俺が言ったことが、本当にそうか否かなども考えて、理に適っているかも判断し、応える必要が無いと思えば答えないし、応えるべきだとも判断した場合には返答する。返答する気持ちや考えなども、整理して文章化できないと応答はできないのだ」
「……」
「実際には、もっと複雑なことを頭の中で瞬時に行えるようになったからこそ、会話できる」
「……」
「相応のことが、現にできている。だから、ボケているはずがない」
「……」
 母の手が、何かを探すような小動きをした。
 思い込みからは解放されたのか……。
「誰でも、会話は、赤ん坊の頃に片言で話し始めて上達する。俺たちは、そうして育ったはずだ。そうであることは、おまえの方が詳しくても不思議ではない」
「……」
 けれども、自分の意思で頭の中でやることも、上達し熟練すれば用が足りすので、それを客観的に把握する必要は無くなり、熟練すると速過ぎて把握し難くもなる……。
「前よりも悪くなってるし……」
「……そんなことはない。それだけ分別できる。会話だってできる。どれも、ボケていない証拠だ」
「……」
「感情だって機能している。分別力も感情も機能しているからこそ、心配になるし苦にもなるわけだろ。それだって、ボケていない証拠だ。ただ、老化は、仕方がない」
「……」
「いつも言うが、まず、ボケたと思うのを止めろ」
「……」
 母は、背筋を少し伸ばした。
「『なんにも分からなくなる』って? どういうこと?」
「保険証……。どこにやったのか、なんにも憶えてない……」
「そういうことだったのか。見ているものを分別するよりも、『憶えていない』とか『知らない』とか『忘れた』とかを分別できることの方が高度なことだ。記憶にあるか否かを判断できているわけだし、自分の精神面を客観視ができているということでもある」
「……」
「保険証?」
「どこにやったのか、なんにも憶えていない……」
 保険証と言えば……。
 個人別に名刺サイズになり、郵送されてくるようになった。そうとも知らず、母はゴミとして燃やしたらしく……。
「再発行してもらってから、一ヶ月も経っていないだろ?」
「だからぁ……。はぁぁ…」
「それは、止せっ。大げさな演技をするほど悪い方に向く。むしろ冷静になれ」
「……」
「見つからなければ、また再発行してもらうしかないだろ」
「……」
「見た目だけを繕って生きてきたに過ぎないのに、何様かのつもりになっていたからだ」
 今こそ母の強情さを打開する好機であるかのような気がした。
「……」
「現に分別力があるのに、その分別力で勝手に『ボケた』と想像し、決めつけて、思い込んでいる。そんなのは馬鹿げている。俺までイライラする」
「……」
 本音だったが、母に逆効果なことは、結局、私が困ることになる。
 母は、見た目を優先する。言い訳し、強情まで張る。それが駄目だとなると、自棄的になる。
 改善どころか反省することすら無かった。
 だから、「馬鹿タレ」と言うしかなくなる。
 でも、母が、自棄的になり、会話もしなくなり、分別すらしなくなり、すでに老化している能力を使わなくなると、本当にボケてしまいかねない。
 ボケれば、母自身は苦さえ無くなるのだろうが、そんな馬鹿な母に、俺の人生が奪われてしまうなんて……。
「ボケてはいない。だから落ち着け。とにかく、一旦、冷静になれ」
 自分にも言い聞かせた。
 俺が困らないためには、相応のことを俺がするしかないのだ。

「ところで、ちゃんと探したのか?」
「思い当たるところは、全部探した」
「最後に使った病院は?」
「再発行してもらってからは、使っていないから」
「記憶を辿っていけば思い出せたりするものだが……」
「……」
「知能も備わって産まれて八十年以上も生きているのに、勝手に決めつけたり勝手に思い込んだり、いい加減さが習慣になってしまっているからだぞ……」
 母が不機嫌な表情になった。
 つい思い知らせたくなるが、この歳になって自ら負担を増やすようなことをするのも愚かなことだ。
「ボケているわけではない。しっかりしろ」
「そう言うけど、なんにも思い出せない」
 母は、テレビ台の中を探し始めた。
「俺も、記憶力は衰えている。視力や聴力が衰えると、記憶に残ることも減少する。でも、それは単なる老化だ。ボケではない。むしろ、分別力はある。なのに、その分別力でボケたと想像して思い込むのだけは止めろ」
 母は、自分の寝室に行った。
「どこにも無い」
 そう言い、母はテレビの前に戻った。
「メガネも、意外なところに置き忘れてたりするだろ」
「保険証だから、とんでもないところには置かない」
「実際に無い所は、何回探しても見つからない。だから、まだ探していないところを探すしかない」
 そう言えば、タケノコ(ネマガリタケ)を採りに行ったとき……。リュックは置いた場所にあったのに、よく見もしないで無いと思ったばっかりに、そこ以外の実際には無い場所ばかりを探した。
 いい加減なことばかりしている母にも、その可能性はある。
「いつもしまうところは、どこだ?」
「肩にかけるこのバッグ。いつものように入れていたはずなんだけど、見ても無かった」
「ちゃんと見たのか」
「何回も見た」
「じゃ、そのバッグの中のものを全部、ここに出してみろ」
「この中は入っていないって」
「いいから、逆さまにして中のものを全部ここに出してみろ。内ポケットの中のものも、全部だ」
 母は、ショルダーバッグを逆さにして中身を出した。
「それ、保険証だろ?」
「あ、あった」
「憶えていたところに実際に有ったじゃないか。記憶も確かだ。ボケてなんかいないだろ」
「よかった~、有って」
「目も見える。見るだけで分かることだろ」
「ああ~、よかった~」
「いいかげんに見ただけだったからだぞ」
「こんなに早く、また再発行してもらいに行くのかと思って、気が重かったんだ」
「そんなことまで分別していたのか」
「……」
「頼むから、ろくに確かめもしないで、勝手にボケた思い込むのも、止めろ」
 バッグから出した診察券などに紛れて、同じようなものが……。
「これも保険証だ。ほら」
「あ、ほんとだ」
「このあいだも、よく見もしないで、再発行してもらったということか、まったく……」
「やっぱりボケてきている。ひどくなっている」
「いい加減なだけだ。よく見もしない。確かめもしない。ろくに考えもしない。勝手に妄想し思い込むようなことばかりしてきたからだ。ボケじゃない」
「おまえがそう言うんなら、そうなんだろ」
「他人事みたいな言い方をするな。そうやって、不都合なことは認めまいとする。誤魔化す。反省しない。改善しない」
「我が儘だから」
「むしろ、狡いんだろ。大変な目に合うぞ」
「返した方がいいかな、一つは」
「え……。返すより、予備にすればいい」
「また失くすといけないから、そうする」
「あと、いくらも生きられないんだぞ。しっかりしろよ」
「……」
「このあいだの、何かに気を取られると他のことを忘れることも分かりやすかったが、今回は更に分かりやすいだろ」
「……」
 むしろ、今回は、勘違いや思い込みを理解するには格好の経験だ。
 こういう経験に基づいたことなら、母でも理解しやすいはずだ。
 以前よりは、俺が言ったことを聞き入れている感じがする。
 そう思ったが、その場では、自分も整理できなかった。


 自室で、整理してみた。

 実際には、いつも通りにショルダーバッグの中に保険証が有った。
 なのに、ショルダーバッグの中をよく確かめもせずに、無いと想像し、思い込んだ。
 だから、実際には保険証が有るショルダーバッグの中だけは探さなくなった。
 当然に、ショルダーバッグ以外の実際には無いところばかり探した。いくら探しても見つかるはずがなかった。だから、焦ったのだ。
 そして、今度は、ボケたのかもしれないと想像し、思い込んだ。
 つまり、精神面は平常どおりに機能していた。
 なのに、精神面は平常どおりに機能していことを確かめもしないで、ボケたかもしれないと想像した。結果的には、平常どおりではないと想像した。
 当然に、精神面が平常どおりに機能しているか否かは更に確かめなくなった。
 結局、ボケたか否かをはっきりしたいが、ボケたか否かを判断する知識は無いので、具体的な否定も肯定もできない。
 あるはずがないところばかりを探していたようなものだった。的外れなことにばかり知能を駆使したために全く空転していた。
 そうであることを自分で把握できなかっただけに、結局、何が何だか分からなくなり、ボケてしまったのだと思い込んだのだろう。

 タケノコ採りの時は……。
 現地に着き、タケノコ採りをする場所も決まった。
 昼食などが入っているリュックサックは、分かりやすそうなブナの大木の根元に置いた。
 その周りで、小袋を袈裟懸けにしてタケノコ採りをはじめ、小袋が一杯になり、リュックを置いたはずのブナの大木の根元に行った。が、リュックが無い。
 慌てて、それらしい他のブナの大木の根元を次々に探したが、どこにも無い。
 結局、諦めて下山することに決め、念のため、最初に置いたと思っていたブナの大木の根元に寄ってみた。そこに、リュックが有った。
 つまり、置いた場所を憶えていたし、そこに実際に有った。
 ところが、見る角度が違い、シダなどの葉に隠れて見えなかった。それだけで、無いと思ったので、それ以上は確かめもせず、無いと思い込んでしまった。
 だから、そこ以外の実際には無い所ばかりを探した。

 そのことを思い出したから、バックの中身を全部出させた。
 その結果、ほとんど同じだった。

 テレビで、タイムカプセルを探した番組でも、そうだった。
 実際にタイムカプセルを埋めた場所を最初に掘り当てた。が、何とかという理由で、これは違うと言って、埋め戻してしまった。
 当然に、そこ以外を探したわけだが、あるはずがない。
 結局、最初の場所を掘り直し、そこだったことが判った。
 その結果、一部始終も解明された。

 テレビの気象情報を見る時も、基本的には同じだ。
 何かに気を取られると、他のことは疎かになるのも、基本的には同じことなのだ。

 俺の気象情報も、想像に過ぎないので、外ればかりなのも同じようなことだ。

 つまり、精神面は平常どおりに機能している。だが、そうであることは確認もしない。
 それ以外の、知りもしないことに気を取られたり、有りもしない所ばかり探すことに夢中になる。
 そうであることは分かっていないので、パニック気味になる。

 いずれにしても、知能自体は平常通りに機能していることが実証されている。
 むしろ、思考力が機能しているだけに、老化を、ボケと勘違いしている可能性もある。

 もちろん、悪化すれば俺が困る。
 母にも、思考力も理解力もあるのだ。
 経験に基づいたことほど、理解しやすい。
 母のおかげで、俺だけが詳しくなっても……。
 今のうちに理解してもらおうと思い、母に話した。

 思えば、こんなに話すようになったのは、母が「ボケた」と言うようになってからだ。
 母が率直には聞き入れないからでもあるが、深刻な内容だったからでもある。
 話す内容よりも、話すこと自体に意義があるのか。
 そもそも、難しいことを母に理解させることが、無理だったことは間違いない。





テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

カテゴリ : ★草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅲ. おまえはボケてはいない

 

 知能も備わって産まれる。
 知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになる。
 片言で模倣し始めた言葉も、繰り返すほど上達する。
 目には見えない気持ち考えなどを伝え合うことができ、協力してもらえ、自分の能力を超えた生活が可能になるだけに、知らなかった言葉を次々に憶える。
 より的確に伝えるために、目には見えない文法もいつのまにか憶え、目には見えないことをより具体的に説明できるようになる。
 繰り返したことや実用していることほど確かに憶え、観察し確かめ試したことほど詳しくなり上達し、動作や会話などの基本的なことは条件反射的に行えるほど熟練する。
 記憶にある過去のことや気持ちや考え、個々の言葉の意味、物の性質、関係や理由、法則なども、目には見えない。そんなことも文章化して説明し合えるようになり、記憶にあることだけを参考にして理解し合えるようになる。

 だからこそ、約束やルールに基づいたことも可能になった。

 だからこそ、会話で、知らない部分があったり辻褄が合っていないと、理解できないし納得もできない。
 だからこそ、必要なことは知ろうとするし尋ね確かめもする。
 根拠や理由があって辻褄が合っているほど、具体的に理解でき、納得することもできる。
 具体的なことを知るほど、そのことに関しては可否や是非の判断も適切にでき、具体的な理由を基に肯定することもできるし否定することもできるし、具体的に説明することなどもできる。

 むしろ、身勝手だったり、必要なことを教えてくれなかったり辻褄が合わないと、懐疑や不信感を抱いたりする。
 納得できなくても、妥協や打算は可能だが、リスクが高い。その結果、損をしたり事故になったり争いになったりさえする。
 そういう経験上でも、必要なことは事前に知ろうとするし確かめもする。

 そうであることを、日常が物語っている。

 しかも、母は八十年以上も生きてきた。

 なのに、「ボケた」と嘆き、落ち込んでしまうなんて……。


 でも、母は、本当にボケているわけではない……。

 知能の構成機関は、老化はあるが、すべて機能している。
 日常会話もでき、相応の識別力や思考力や理解力も発揮できている。
 だからこそ、約束事も可能だし、目的地に行って帰ってくることもできる。
 むしろ、不利なことは誤魔化そうとさえする。事実とは違うことを、事実だと見せかけて、そうだと思わせようとする。

「何をしていたのかわからなくなった」と言って落ち込んでしまった状態でも、自分が困った状態に陥っていることを客観的に捉えることもできる。
 だからこそ、心配し、苦にもなり、パニック気味にさえなり、落ち込むのだ。
 それも、知能の構成機関自体は、むしろ正常に機能している証だ。


 考えることができるからこそ、ボケたのかもしれないと想像することもできる。

 ただし、具体的なことを知らないことだからこそ想像する。
 具体的なことを知らず、根拠も理由も無いのに、事実確認もしないで、頭の中だけで想像するわけだから、し放題だ。
 そんな性質上、圧倒的に外れが多い。
 そんなことを基に行動するには、リスクが高い。だからこそ、通常は、躊躇したり、確かめたりする。
 隠し偽ることや嘘を吐くことや騙すことなども、想像上は容易だ。
 が、相手を見抜けないだろうと侮ることであり、自ら信用を損ねることを行うことでもあるから、実際にはし難い。

 そんな経験も、事実関係を整理することで理解できるのだが、母は事実関係を整理したことがないのだろう。
 自分が想像しているに過ぎないんだということも、母は未理解だからこそ、識別できない。
 その像像を基に心配し思い込み落ち込んでいるに過ぎないことも、母は未理解だから識別できないのだ。
 だからこそ、根拠も理由も無い想像を基に、心配して、根拠も理由も無い想像の深みとも言える妄想に陥ってしまうのだろう。
 その状態を基に、ボケてしまったと思い込み、パニック気味になり、何も考えられなくなり、落ち込んでしまうのだ……。

 でも、このあいだ、「何をしていたのかわからなくなった」と言っていた。
 日常でも、何かを強く意識するほど、それ以外のことは意識されなくなる。

 そこで、いわば母とは逆に、知能の構成要素などは平常どおりに機能していることや知能の高度な面まで発揮できていることを、俺は指摘する。
 知能の構成している各感覚器官や意識や記憶力や思考などは、日常生活に活用しているだけに、異常があればすぐに気付く。つまり、正常に機能しているか否かを日常的にチェックしているような状態にある。
 そういう性質上、識別や自覚も容易で、事実だけに、母も識別し自覚するのだろう。
 その際に、根拠も理由も無い想像や妄想ばかり意識していた状態から、意識する対象が感覚的にも捉えることができる現実的な事実に切り替わる。
 つまり、根拠や理由も無い想像は止めることになり、その想像を基にした心配や思い込みは成立すらしなくなる。
 結局、平常に戻る。
 毎回、一時的なことで終わる。
 母は、ボケているわけではない。


 結果的にだが、機能面は正常に機能していることが実証されている。
 ただ、知識が足りない。しかも、肝心な自分の行動上の中枢である精神面や思考に関する知識が足りないのだ。
 日常的に、意識し識別し思考し理解して活用し発揮している知能に関することなのに……。


 知能は備わっている。
 が、知能上に、経験し学習し理解し習得する性質上、どんな重要なことを知らなくても不思議ではなく、どんな大事なことをできなくても不思議なことではない。
 生存上、的外れなことばかり習得し、そんなことに満足している、としても不思議ではない。
 生後に習得したことを以ては、生活もままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化は止められないし、死は受け入れるしかない。
 知能上に習得した内容しだいで、尊びもするし、自殺もするし、殺人もし、戦争までする。

 でも、知らないから、できなくて、困る。
 そもそも、知ることによって、不具合の解決や改善もできる。
 知ることによって、到達することや、達成することや、成就などもできる。


 たしかにそうだが、母が、想像や思い込みに関することを理解することは、難しいことを母自身が物語っているようなものだ。

 想像や思い込みは、頭の中で行うことであり、五感では捉えることができないことだからでもある。
 会話上でも、記憶にあることを参考に、思考上で整理して、理解する。それ自体に関することを理解することだけに、難しい。
 それを、説明して理解させることは、それ以上に難しい。

 でも、不可能なことではない。
 会話自体が、相手が話したことを、自分の記憶にあることを参考に識別や解析や整理をして理解し、相応の記憶や気持ちや考えなどを文章化して応答している。
 俺が言葉で指摘したことを、母は、記憶を参考に識別でき日常必要なことは理解できる。
 だからこそ、意識する対象を俺が指摘した事実に切り替え、平常どおりに機能していることを自覚する。
 会話でき、理解する能力は、母にもあるわけだから。

 想像や思い込みに関することを理解しないと、解決したとにはならない。


 知能の構成要素などが平常どおりに機能していることを母が自分で識別し自覚できるようになるだけでも……。

 ただ、俺の説得力不足や理解不足を棚に上げて、安易に片づけてしまうのでは、それは俺自身の問題になる。
 理解を深め説得力を増すと、まず俺自身が納得できる。そうなると、俺は陥らずに済むようにもなれる。


 母が「ボケ」たと言っているわけではない時でも、その把握だけでもしようと、私は模索するようになっていた。






 日常でも、想像の内容しだいで、楽しみにしたり喜んだりもするし、危機感を感じたり、単なる想像だけなのに恐怖感をさえ感じる。

 些細なことでも、褒められると嬉しい。ダメだしされると落胆気味にもなる。が、それを修正して認められると気分は良い。

 自分のブログも、アクセスが少ないと、内容的なことまで気になり、落胆気味にもなり、記事の内容にも影響する。
 アクセス数が増えただけで、少なくとも気分は良くなる。
 その性質を活用して、ブログ開設当時は意図的にアクセスアップ作戦を展開したりした。
 ところが、それでいいような気がして、肝心な精進が疎かになり、自分でも勘違い気味になることも分かっている。

 日常のささやかなことでも、好結果に結果に期待すると、相応の行動を始める。
 その段階で、やる気にまでなる。

 山菜やキノコの季節になると、出かけずにはいられなくなる。
 想像や類推や推理などで始まるわけだが、そのとおりか否かを確かめようとしたり、確かめずにはいられなくなったりもする。


 想像を基に心配し苦になり落ち込むのと、逆バージョンは、想像を基に期待し喜んでしまうことになるが……
 宝くじは、当たる可能性はあるが自分の努力で実現できることでもない、全部買い占めて全部当選したとしても赤字になる、当たる確率は極めて低い、などと考えると期待できないので買わない。
 当選すれば大金が手に入る、当選は奇跡的な幸運だからこそ、などと好結果を想像し期待すると、宝くじを買う。
 でも、結果を未確認できない段階では、あくまでも想像を基に、買わないか買うかまで決めている。いずれにしても、想像を基に、行動までしていることになる。
 当選番号が確定した結果、自分が購入した券が外れだという事実が明らかになると、もともと想像を基にした期待はだけに、それは成立しなくなり崩壊する。期待が大きかったほど、大きく落胆する。
 期待し過ぎて平常心を見失っていると、平常心に戻ること自体が容易ではないことだってありえる。


 母も、想像し、心配し、思い込み、落ち込む。
 だから、その落ち込みからは、独自には抜け出せない。
 それどころか、平常に戻っても、また繰り返す。

 やはり、想像や思い込みに過ぎないことをすら識別できず自覚もできないからにほかならない。
 未理解なことは、具体的な識別はできない。
 内面や関係や理由や法則などは、五感で捉えることはできない。
 でも、言葉を介して理解し合うこともできる。つまり、記憶にあることを思考上で整理することによって、五感で捉えることができない内面や関係や理由や法則などを理解することもできる。
 理解できたことも記憶に残るので、それを参考にした識別や思考なども可能になるし、更に理解を深めることも可能になる。
 が、そういうことも、母は未理解なのだ。
 想像や勘違いや思い込みなどの特徴や性質に関する具体的なことを、母は未理解だからこそ、識別できず自覚できず思い込み落ち込んでしまう……。

 もちろん、自分が想像したことを基に自分で困っている馬鹿げたことなんだということを理解できれば、当然に繰り返さなくなる。
 それで、この件は落着なのだが……。


 感じ意識し識別し思考し理解し想像し予想までして活用している知能に関することを、母は未理解だからこそ、せっかく備わっている知能を貴んでもいない。
 未理解だったとしても、不思議なことではない。
 むしろ、的外れなことばかり学習したとしても、不思議でもない。
 でも、子供の心が育つ際に、最も影響がある母親だった……。

 いまだに、俺が言ったことも、母はいい加減に聞いている……。


 そもそも、母は、人の目を気にし、上辺だけを繕う。それを、俺にまで強いる。
 根拠や理由を無視し、上辺だけでは、リスクが高いどころか、騙し欺く類でしかない。つまり、母は、備わっている知能を、誤解し、誤用している。俺は、拒否し、批判する。
 それでも、母は、根拠や理由を無視し、上辺を繕えないと、いじけ、拗ね、泣き、自棄的になって困らせ、ヒステリックになって脅してでも、我儘を通そうとする。まさに、上辺だけに拘る。
 老化の所為だろう、かつてよりは改善された感じはするが、俺が言うことは、もともと聞く気は無いのだ。

 母は、自分で言い出したのに、返事も待たずに何かをやり始めたりさえする。勝手に違う話をしたりもする。聞く耳を持たないことを見せつけている、と思うしなないような振る舞いをすることも珍しくない。
 だからこそ、俺に頼み事をするときも率直には言えず、いつも回りくどい言い方をする。

 母は、自分で改善しようという気も無い……。反省する気すら無いのだ……。
 自分が困ることでさえ、止めず、繰り返す……。
 せっかく備わっている学習能力を誤用し悪用さえしている。
 大げさな嘆きが、自棄的にも感じ、開き直っているのかとさえ感じるのも、当然だったのだ。

 日常的にも、想像の内容しだいで心配になり苦になる。そんなことも、母は分かっていない……。
 だから、逆に、想像しだいでは楽しくなり期待するものだ、などとは思いもしない……。
 ボケてはいないんだとか、平常どおりなんだとか、むしろ備わっている知能の能力はどれだけのものなのだろうなどと思いを巡らせれば、日常的に発揮できている能力や、誰もが直に経験し続けていることなので、相応の事実に辿り着くはずだし、無知でもなくなり、自信まで得られるのだが……。
 そういう世界からは、逸脱した世界に母はいる。

 改善されないまま、本当にボケてしまうと、母は悩みも苦も無くなり、どうでもよくなるのだろう……。
 むしろ、「ざまあみろ」と言わんばかりに振る舞いそうで、そう思うだけで腹が立つ。
 そうなると、俺の人生は、完全に台無しになる。
 くそ婆に、踏まれ続けたようなものだったのに、この歳になって蹴られるようなものだ……。

 そうなることことだけは、阻止しなければならない……。


 が、俺も、危機的な想像をしているに過ぎないのか。
 それは違う。問題が、解決できていない。
 しかも、行動上の中枢に関することことであり、老化しているだけに、早目に解決策を見出す必要がある。
 母は、何とかする気が無い。
 なら、俺が何とかするしかない。困るのは俺なんだから。俺が困ることは、俺がなんとかしないと……。


 俺も想像しているに過ぎないのかと思うと、そんな気がしないでもないが……。

 ボケた(痴呆症や認知症など)とは、どういことなのか。その具体的なことは、俺は知らない。これは事実だ。
 自分で「ボケた」と言って落ち込んでしまう母は、知っているはずがない。

 実際にボケたとしても、知識に基づいて具体的にボケていると判断をすることは、俺にはできないし、母もできない。
 実際にボケていなくても、知識に基づいて具体的にボケていないと判断することも、俺にはできないし、母もできない。

 そういう事実上、「ボケた」と言う母は、ボケたのかもしれないと想像しているに過ぎない。
 想像に過ぎないのだが、心配になり、本当にボケたのかどうかは判断できないので思考は空転し、他のことは考えられなくなるので、ボケたと思い込んで落ち込んでしまうのだろう。

 でも、困った状態に陥っていることを、自分で客観的に捉えることができているからこそ、嘆きもする。
 そんな高度なことまでできるくらいだから、ボケているはずがない。

 そこで、俺が、精神面の平常どおりに機能している点を指摘する。
 その言葉で指した物事を、母は識別しているからこそ、相応の物事を自覚するのだろうし、その際に、事実が伴わない想像や思い込みは止めことになるからだろう、平常に戻る。
 平常に戻らなかったことは一度も無かったし、いつも一時的なことでしかない。


 いくら考えても、母の場合は、想像や思い込みに因るものであることは、ほぼ間違いない。

 母は、ボケてはいない。

 母は、自分でが考えていることである想像や思い込みに関することをすら理解できていないから、自己管理ができないだけだ。


 おまえの上辺の見せかけや振る舞いには、俺は惑わされない。
 俺にとって余計なことは、あくまでも俺の考えで阻止する。


 日常会話でも、条件が満たされていて、辻褄も合っていると、納得できるし、理解することもできるし、相応の展開もする。

 知らない部分があるだけで、会話も滞る。辻褄が合っていない場合は、そのままでは納得できないし、理解もできない。
 だからこそ、必要なら、尋ねもするし確認もし、事実関係を把握した上で、判断しようとする。

 把握不十分で納得できなくても、妥協や打算などもするが、その性質上、好結果になる確率は低く、むしろ争いになったりする。

 そんな場合でも、問題点を確かめもするし、繰り返さなくもなる。


 むしろ、具体的なことを知っていることに関しては、具体的に肯定や否定もできるし、適切な可否や是非などの判断もできるから、相応の結果にもなる。

 具体的なことを知らない物事に関しては、具体的な否定もできないし具体的な肯定もできない。
 その際に、事実確認をせずに、とりあえず頭の中だけで思いを巡らせて想像し、仮りのイメージを想定する。
 つまり、具体的なことを知らないからこそ、想像する。しかも、事実確認もしない、根拠も理由も伴わない、そんな想像だけに、し放題だ。
 そんな想像上の仮りのイメージだけに、事実と一致している確立はゼロに近い。

 そんな想像の性質や特徴などに関しても、具体的なことを未理解だと、具体的な識別や自覚もできないし、具体的な否定や肯定もできない。
 自分が想像しているに過ぎないことを自覚できず、想像上の仮りのイメージに過ぎないことも自覚できないと、想像上の仮りのイメージが事実と一致しているか否かも確かめない。
 想像上の仮りのイメージに過ぎないことでも、内容しだいでは心配になる。
 心配するくらいだと、想像上の仮りのイメージを半ば事実だと思い込みかけていることになる。
 心配して思い込むほど、他のことは考えられなくなるし、想像上の仮りのイメージに過ぎないんだということを自覚し難くなる。
 結局、自分の想像や思い込みによって、自分で困ってしまう。
 実際に何かが起きているわけではないからこそ、現実離れした想像上の世界に迷い込んでしまう。

 通常は、確かめようとするし、反省だってするし、繰り返すまいと思えば理由を知ろうともする。
 事実関係を把握できれば、繰り返さなくもなる。


 知能が備わっていて、経験でき、学習でき、日常会話ができるようになり、納得できなかったり納得したりするようになり、理に適っていると理解できる。
 識別や思考や理解や予想や約束などもでき、備わっている知能を活用できている。
 客観視もできている。
 そんなことを、客観的に理解できていないだけだ。

 ただ、人工物ではない知能も普遍的なものであり、その能力の基本的なことまでは、誰でも共通だ。

 その知能上の、考え方や考える内容などは、個人毎に異なる。
 まして、経験内容、学習内容、理解した内容など、いわゆる習得した内容は、個人毎に千差万別になる。
 つまり、そんな自分のことに関することを知らなかったり未理解だったりしても、不思議なことではない。

 しかも、不都合なことは知られまいとするし、プライバシーは保護されている。企業秘密も容認され、黙秘権もある。
 当然に、都合よく有利になるように偽りもするし、生存上はどうでもいいようなことなのに尤もらしく見せかけもするし、優れたことであるかのように見せかけようと競い争いさえする。
 私利私欲のためであるほど、偏見が強く、独断的で、差別的になる。
 独裁的なほど、隠ぺいや口封じもするし、自殺もあり、殺人もあり、戦争までする。
 いわば、悪魔の罠に嵌ったようなことや、邪道を極めるようなこともするようになる。
 つまり、経験や学習の内容しだいでは、普遍的なことや共通なことでも拒否さえするし、わざわざ理解を困難にもするし、改善を不可能にしてしまうことさえする。
 せっかく備わっている知能を、誤用もし悪用さえするようにもなる。
 そんなものは、必要ですらない。
 立ち入る必要も無いだろう。
 習得したことを以ては、肝心な日常生活もままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化は止められないし、死は受け入れるしかないんだから。

 重要なことは、頭の中にある。


 こうでもない、ああだこうだ、などと私が模索するのをよそに、母からは「ボケた」と言って落ち込む気配すら感じなくなっていった。


 雪解けが進むと、植物の芽出しや花や新緑に期待する。

 やがて、野良仕事を始めた。
 野山に育つ草木に誘われるように、種を蒔き、苗を植え、その結実や収穫に期待する。
 すっかり、現実的なことが優先の日々になった。


 が、解決はしていない。
 もちろん、おまえはボケてはいない。
 目には見えないことだが、むしろ目が見えなくても、理解がすることが可能なことでもある。
 それだけの能力が、おまえに備わっていることも、すでに実証されている。
 そうであることを、おまえが具体的に理解し納得することで、この問題は解決したことになる。


テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

カテゴリ : ★草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅱ. 何をしていたのか分からなくなった



 家は、安普請で古い。電話が、私にだった場合も、母は私の部屋の真下の台所から『電話』と伝える。
 その台所から、あの日は、母の嘆きが聞こえてきた。
「あぁ…ボケてしまったぁ…」
 その余韻までが私に聞こえよがしに響いていた。

 でも、母は呼んだわけではない……。
 母は本当にボケているわけでもない……。
 実際には、何かが起きているわけですらない。
 知能を構成している各機能に異常は見当たらない。
 平常どおりに機能している事実を指摘すると、それを自覚でき、結果的に想像や思い込みは止めるからだろう、平常に戻る。
 平常に戻らなかったことは、一度も無かった。
 毎回、一時的なことだった。

 放置しても、平常に戻るはずだ……。
 備わっている知能を活用するのではなく、自分で困ることを想像して思い込むなんて、馬鹿げているんだから。

 でも、母は、繰り返した。
 改善されたわけではなかった。
 悲観的な嘆きは、自棄的になり、あからさまになり、むしろ酷くなっているような気がした。
 母は、本当にボケれば悩みも苦も無くなるのだろうが、そのぶん余計に私が困ることは明らかだった。

 しかも、母が言うくらい目や耳が老化しているのなら、記憶力も想起力も衰退しているのだろう。
 記憶自体が曖昧なものであることは、何かを思い浮かべてみるだけで分かる。それが、衰退しているとなると、その記憶を参考にして行う思考力も理解力も衰退していることになる。
 ワープロ専用機が普及し、パソコンが普及して、それを使うようになったが、手書きは明らかに衰退している。
 幼い頃に経験し学習して十年も費やして思考などで活用できるようになった知能の構成器官や機能だけに、考えることが減少すれば活用しなくなるわけであり、各機能自体が衰退しかねない。
 各機能自体が衰退すれば、考えたくても考えられなくなり、本当にボケてしまいかねない。

 母の嘆きの後、静けさが長引くと、それも気になるようになった。


 居間に続く台所で、母は背を向けて肩を落して呆然と立っていた。
 本当にボケてしまったのかと思い、諦観や寂しさが脳裏をよぎった。
 が、直前に相応のことを考えていたからにほかならない……。

 居間から、恐る恐る私は声をかけた。
「どうした?」
 母は反応しなかった。
「返事くらいしろ」
「ボケてしまったぁ…」
 ……泣いたって、俺は騙されない。
「分別できているだろ。ボケてはいない」
「おまえは自分のことじゃないから、そんなことを言える……」
「おまえこそ、そんなことを言えるのも、その悔しさも、ボケていない証拠だろ。俺は勝手なことを言っているわけじゃない」
「……」
「会話だって成り立っているだろ。目には見えないことを、言葉でやり取りできているんだよ。俺が話したことを、おまえは自分の記憶にあることを参考に識別したり解析したり理解したりして、それに対する気持ちや考えを文章化して応答している。とても高度なことだ。そんなことが、現にできている。ボケているはずがない」
「……」

「ボケたと思う理由は?」
「何をやっていたのか、なんにも分からなくなった……」
「そうか。でも、それだって、目には見えない自分の内面を、客観視できているからこそ言える。しかも、目には見えない事態を、客観的かつ的確に把握できていることになる。もちろん、俺には見えないし、俺は把握できないことを、おまえは把握して、それを言葉にして、俺に伝えている。すべては、高度な能力を発揮できている証拠だ」
 母は、振り向こうともしなかった。
「なんにも思い出せない……」
「……泣くな。泣けば解決することじゃないだろ。尤もらしく見せる必要も無い。映画やドラマじゃないんだから、演技も必要ない。それらは、余計なことで、障害にしかならない。精神面に関することを把握するには、冷静になることが必要なんだ」
「だんだん酷くなる……」
「だから、大げさに考えるのは止めろ。冷静になれ。だんだん酷くなることを分別できるのも、以前はそうではなかったことが記憶に残っているからだし、それと比較できているからだし、自分を客観視できているからだし、自分を客観的に把握できているからでもある。すべてが、高度な能力を発揮できているからこそなのだ」
「親を馬鹿にして……」
「馬鹿にしているわけじゃない。ボケているか否かは、知識が無いので判断できない。でも、高度な能力を発揮できていることは明らかだし、ボケているはずがない。だから、そう言っているだけだ」
「……」
「おまえには、美味しくないときも、そう言うだろ。少なくとも、美味しくないのに、美味しいと言ったことは無い」
「……」
「むしろ、美味しくないのに、美味しいと言うから、本当のことを見失うし、上達もしないわけだろ。それどころか、真に受けると、下手なのに、すっかりいい気になったりする。そうなると、聞く耳持たなくなるし、手もつけられなくなり、呆れるしかなくなる」
「……」
「おまえも、せっかく備わっている知能を使って、その知能を台無しにするようなことばかり考えている。わざわざ馬鹿げたことを考えて、勝手に自分で困っている。馬鹿げたことな場合は、『馬鹿タレ』と俺は言う」
「……」
「それでも、おまえは、馬鹿げたことだとは一向に悟らない。それどころ、自分で困ることをこうして繰り返す。そんなことは止めてほしいから『くそ婆』とも言う」
「……」
「『ああ、ボケて良かったなあ。本当に良かった』と御世辞を言われたいわけじゃないんだろ。『ああ、困った。どうしよう』などと言ったところで、解決することでもないだろ」
「……」
「誰でも、知らなかったことを憶えるし、できなかったこともできるようになる。でも、生後に習得したことを以ては、老化は止められないし、死は受け入れるしかない。生後に習得した内容しだいで、私利私欲を貪るようになる人もいるし、自殺をする人もいるし、殺し合いもするし、戦争までやる。つまり、せっかく備わっている知能を、誤った使い方をするようにもなるし、悪用さえするようにもなるし、そうしていることをすら理解できなくなったりもする。でも、そんな生き方をしたくてそうしているわけではないはずだ。おまえだって、ボケるだけでも、嫌なんだろ」
「……」
「だから、俺は止めさせようとする。実際には知能の高度な面も発揮できている。そのことを、何度も言った」
「……」
「でも、おまえは、ろくに聞いてもいないんだろ」
「……」
「これも、いつも言うことだ。分別できる知能を使って、わざわざ落ち込むようなことを考えるのは、馬鹿げている。止めろ」
「……」
 母はエプロンの端を持ち上げて涙を拭いた。
「今やっていたこと、なんにも思い出せないんだよ」
「だったら、悔しいのは当然だろ。それも、正常だからこそだ」
「……」
「むしろ、何をやっていたのか分からなくなったことを、客観的に把握できているからこそなのだ。知能の高度な面を発揮できているからこそなのだ。問題点を客観的に把握できているからこそ、問題にしているわけだし、困ってもいるし、思い出そうともしているし、思い出せないから悔しいんだろ。すべてが、ボケていない証拠なのだ」
「まだそんなことを……」
「おまえこそ、まだそんなことを……」
「……」
「同じ状況で、悔しくもなく、まったく平気だったり、むしろニコニコしているのなら、ボケたのかもしれないと俺も思う」
「……」
「そうではないだろ。そうなるのは、むしろ嫌なんだろ。ボケたくは、ないんだろ」
「……」
「思い出せないだけでも、悔しいんだろ」
「……」
「だったら、ボケていないのかもしれないとか、むしろ平常どおりなのかもしれないとか、そういう考え方をしろよ」
「……」
「悔しさや不安や危機感や恐怖感などは、状況を把握するうえでも生きてゆく上でも欠かせない重要なことなんだ」
「……」
「悔しさや不安や危機感や恐怖感などを感じる状況なのに、それを感じなかったとしたら、どうなる」
「……」
「実にアホらしいことでも、死んでしまう。自殺も平気だろうし、殺人も平気だろうし、自滅するんじゃないの」
「……」

「とにかく、ボケたかもしれないと思うのは止めろ。ボケてはいないことが明らかな事実を探せ」
「……」
「その、目の前に在るのはガスコンロだ。分かるだろ?」
 ガスコンロの方に母の首が少し動いた。
「それで、煮物をしたり魚を焼いたりしている。そうだろ?」
「……」
 母は、聞いている。考えてもいるのだ。
「そうやって、普段は、目の前に在るものを識別したり判断したりしている。そういう分別ができるだけで、平常どおりなのだ。そうであるだけで、異常かもしれないなどとは思いもしない」
「……」
「そこで、何回も鍋を焦がした。おまえは、火を点ければ、その場を離れるのが癖だからだ。しかも反省しない。俺が何度も言ったのに聞く耳持たない」
「……」
「このあいだ、ついに火災報知機まで鳴った」
「……」
「俺が消防団員だった頃に出動した火災原因の代表だ。いい加減なことばかりするおまえが、ボケたと言い始めたから、俺が入手して取り付けた火災報知器だ」
「……」
「いい加減過ぎると、大変なことになるぞ。そういう警報なんだよ。本来、火災報知機を取り付けるべきなのは、おまえなんだよ」
「……」
 母は聞いている。が、返す言葉が無いのだ。
「火災報知機が鳴ったことだって、憶えているだろ。思い出すことだってできただろ。それも、ボケていない証拠だ」
「……」
「おまえは、不都合なことは、言い訳をするし、隠し偽りもする。だから、また繰り返す。繰り返したくない人は、むしろ失敗したことを思い出して、繰り返さないために活用するんだよ。自分で火災報知機を付けたりする。おまえみたいに、何食わぬかを顔をしたりしないし、何様かのつもりになったりなんかしない」
「……」
「俺が何回も言っても、おまえは聞く耳持たなかったということなんだよ」
「……」

「ま……、俺も……、偉そうなことは言えないが……」
「……」
「おまえが、またやったら、こんなことを言おうなどとも考えていたが、実際に話し始めたら、予定していたことは思い出しもしない」
「……」
「このあいだは、説明することに夢中になって、その説明を、何のためにしていたのかを忘れた」
「そういうことも多くなった……」
「さっきも、そうなりかけた。でも、ボケではない。これは老化だ。説明することに気を取られるようになっただけ、今まで以上に他のことが二の次になってしまうようになっただけだ」
「……」
「そういえば、このあいだ、前を走っている車が、センターラインをはみ出しそうになったり、ガードレールにぶつかりそうになったり、それを繰り返していた。あれ、憶えているだろ?」
「うん……」
「車間距離を少し詰めて見たら、携帯で電話しながら運転していた。つまり、電話から聞こえる話しに気を取られても、目の前の見えているはずのことでさえ、あんなに疎かになるっていうことだ」
「……」
「消防署前の信号で止まっても、まだ電話していた。もし、あの電話の内容が、あのときよりも重大な内容だったら、事故を起こしていたかもしれない」
「……」
「俺は、気象情報を見るときは、近年は、ほとんど毎回だ。このテレビの前で、気象情報が始まるのを待つ。その間に、つい考え事をしてしまう。気づくと気象情報は終わっていて、目の前のテレビの画面を見ていたはずなのに肝心な気象情報は記憶にも残っていない」
「そういうことは、しょっちゅうある」
 母は、一瞬、視線を私に向けそうだった。
「だろ。それでも、ボケているとも思わないだろ?」
 母が、そわそわし始めた。
「ここまできたら、何かを思い出したのよ。それに気を取られたから、なんにも分からなくなった」
 と言うと、手を伸ばして包丁を取り出した。
「これを取りに来たのよ」
 そう言いいながら、私の前を通り、居間の窓側に行った。
「大根を漬けようとして、包丁を取りに行ったのよ」
 居間の南の窓の傍には、大根などがある。それを前に、母は座った。
「振り向いて居間を見れば分かったのに。的外れなことに気を取られて、肝心なことを忘れただけだ」
 エプロンの端で涙を拭く母は、笑いを堪えているかに見えた。
「台所まで行ったら、何かを思い出したのよ……。何んだっけ……。それを今度は忘れた」
 大根を切り始めた母。
「俺も、気象情報を見逃すと、そんなに大事なことを考えていたのかと思って思い出そうとしたりする。が、ほとんど思い出せない。気象情報を見逃したことに気を取られるから、今度は、他のことが意識されなくなるからだ」
「そうかもしれない」

「あ、そうだったのか。分かった。包丁を取りに行ったが、他のことを思い出したので、包丁を取りに来たことを忘れたわけだよな?」
「うん」
「しかも、どうしても思い出せない。なので、今度は、ボケたのかもしれないと思ったわけだ?」
「……」
「ところが、ボケたかどうかに関する知識は、おまえにも無いし、俺にも無い。だから、ボケたかどうかは判断できない。つまり、ボケたのかもしれないと想像することしかできない。でも、ボケたとなると、心配になるし、特別気になる。当然に、他のことは考えられなくなるし、疎かになる。そういうことだ」
「……」
「でも、逆に、現実的なことを気にしたり考えたりすると、想像していたことはどうでもよくなる。実際に起きていることでもないからだ。だから、毎回、一時的なことだし、いつも平常に戻る。実際にはボケているわけではないからだ」
「……」
「つまり、せっかく備わっている知能で、わざわざ『ボケたのではないか』と想像して思い込んで、自分で困っている」
「……」
「馬鹿げているだろ」
「……」
「いいかげんに、憶えろよ」
「……」
 あえて「馬鹿タレが」と言うつもりだったのだが、その気は失せていた。
 母が「ボケてしまった」と言って落ち込むようになって以来、その事実関係を把握しようとした私は、普遍的なことや基本的なことは共通であるだけに、自分が未理解だった点を理解できたからだった。


 母も、日常会話もできるわけだから、相応の理解力も発揮している。客観視できることも、明らかだ。
 自分が想像し思い込んでいるに過ぎないんだということを理解できれば、解決するはずだ……。

 なのに、止めるどころか、繰り返す。
 俺が言ったことも、ほとんど聞いていないのだ……。

 ただ、誰でも、知能を構成している各感覚や意識や記憶や識別や思考などは、平常どおりに機能しているか否かを日常的にチェックしているような状態にある。
 これだけでも、独自に確認し自覚できるようになってくれれば、繰り返さなくなるはずなのだが……。

 今回の経験を基に、何かに気を取られると他のことは疎かになる、ということくらいは憶えてほしいものだ……。

 想像するにしても、ボケてはいないかもしれないとか、むしろ平常どおりなのかもしれないとか、備わっている知能の能力はどれだけのものなのだろうとか、そういうことに思いを巡らせれば、相応の事実に辿り着くのだが……。






テーマ : メンタルヘルス・心理学
ジャンル : 心と身体

カテゴリ : ★草稿「おまえはボケてはいない」

Ⅰ. 「あぁ…ボケてしまったぁ…」


 一見、ボケたかにも見えるが……。
 各感覚や意識や感情などは平常どおりに機能していることが実証されていた。
 識別や思考や客観視も会話もでき、知能の高度な面も発揮できていた。
 ※ 編集上、主要な根拠や理由に相当する部分の文字色を緑色にしてあります。
初回投稿:2012/03/29
再編集 更新:2016/05/01
※ 投稿後も推敲を重ねて、創作作品として仕上げてゆきます。



 父が他界し、一周忌も秋に済んだ、あの年の冬からだった。
 自棄的に嘆き、落ち込んでしまうようになった、母。
「あぁ…ボケてしまったぁ…」

 たしかに、ボケたかに見えるが……。
 突然ボケることって、ありえるのか……。

「ボケた人が、自分がボケたことを分別できると思うか?」
「……」
「ボケたことを自分で分別できなくなったのだったら、ボケたのかもしれないと俺も思う」
「……」
「分別できるんだから、ボケてはいないだろ?」
「……」
「しかも、ボケたかどうかは、医者でも知識に基づいた検査をしないと判断できないはずだ」
「……」
「医者のような知識は、お前には無いよな」
「……」
「医者のような検査をしたわけでもないんだろ」
「……」
「なのに、おまえは『ボケた』って言う」
「……」
「知ったか振りは、いいかげんにしろ。誰にも信用されなくなるぞ」
「……」
 不機嫌な表情になった母。
 それは、ボケていない証だ。
「せっかく分別できる知能が備わっているんだから、まともな分別をしろよ」
「……」
 母の表情は気まずそうにさえ見えた。
「馬鹿か。おまえは」
 捨て台詞で母を叱咤して、私は切り上げた。

 くそ婆。
 これが実態じゃないか。
 普段も勝手に何様かのつもりでいるだけだ。
 いい加減なことばかりして、上辺だけを尤もらしく見せかけているに過ぎない。
 都合が悪くなると、どこかが具合悪いと言う。
 老いたことをいいことに、ボケたことにして、都合が悪いことを誤魔化そうとしているのだとしたら、むしろ知能犯だ。

 私には理解が無い母でもあった。
 私の心の中では、腹癒せが必要だった。




「あぁ…、ボケてしまったぁ…」
 またか……。

 ボケているとは考えられない点を、私は指摘した。
 母は、平常に戻った。
 思ったとおりだ。
 ボケているわけではない……。
「馬鹿タレが」

 おまえの裏側も日常的に見ている俺は、おまえにだけは騙されない。

 産んで育ててくれたこと自体は掛け替えがないが、それを台無しにするようなことばかり、おまえはしてきたのだ。
 俺は、自分を取り戻すだけでも相応の苦難を強いられた。が、その結果、予想もしなかった充実した生き方に替わったことも事実だが……。
 おまえは、何食わぬ顔で人生をやり過ごそうとばかりする。もちろん、おまえは、備わっている知能の高度な面を、ろくに使わないまま失うことになるのだ。

 心の中だけでは、空転するばかりだった。
 癒されなかったのは、不安もあったからだった。そのことに、ようやく私は気づいた。


 ボケたのか否かを判断する専門知識は、中学でもろくに勉強しないで肉体労働ばかりしてきた私にはあるはずが無かった。
 でも、役立つかもしれないと思い当たることはあった。

 かつて、三年間の葛藤を余儀なくされた際に、「俺は、病気ではない、異常でもない」と思ったことで好転し始めた。
 その根拠は、自分の知能を構成している各感覚や意識や記憶や識別や思考などは平常どおりに機能していたことだった。
 それは、直ちに確認できることでもあった。自覚することを以て、平常どおりに機能していることを確認した。それで、「俺は、病気ではない、異常でもない、間違いない」と確信した。
 必然的に、そんなことに詳しくなった。
 知能を構成している各器官が平常どおりに機能しているか否かなら、誰でも、日常的にチャックしているような状態になる。しかも、意識し識別や思考や理解や予想などで活用するようになることでもある。
 直に確認したり直に活用できるのは本人だけだが、知能を構成している各器官は、人工的なものではなく、普遍的な存在であり、誰でも共通で、その基本的な機能も誰でも共通である。


 母の知能を構成している各器官の状態を、母の言動や振る舞いを基に察することなら私でもできた。


 母は、かなり以前から眼鏡を使用するようになった。
 十年ほど前には、視野が狭くなったことに気づいたわけだから、平常はどうだったかを憶えていたからだったことになる。早く気づけたからこそ、網膜剥離の緊急手術を行い、成功した。
 母の視覚は、機能していた。

 母は、だいぶ前から聞こえ辛くなったと言っていたが、本来はどのていど聞こえていたかを憶えていたからだということになる。
 余計なことを考えていると聞こえなかったり、聞こうとしないと聞こえなかったりするので、私は確認を兼ねて小声で話しかけることが多かったが、母は応答した。
 特に、人の言葉は、どんなことを言っているのかを聞き取ろうと解析した場合に理解もできる。その他の人が話していることは、雑音の類でしかなく、記憶にも残らない。
 聞こえないと言うよりは、振る舞いから察して、母は勝手な考えや判断で片づけてしまうことも多々あった。
 母の聴覚も、機能していた。

 母は、匂いを云々したことは、少なかった。
 若い頃に蓄膿症の手術をしたと言ったことがあった。
 でも、戴いた線香の香りの違いも母は分かっていた。大発生し始めたカメムシも、匂いで存在に気づくこともでき、その臭さを嫌っていた。
 母の嗅覚も、機能していた。

 上辺を繕うだけの母は、台所の掃除もいい加減だ。薄暗くなっても照明も点けず、味見をしないで、いい加減な料理を作る。食べる際に、塩っぱ過ぎたとか、味が薄過ぎたなどと言う。
 母の味覚も、機能していた。

 手も器用に使えた。
 二足で歩くこともできた。
 母の触覚も、機能していた。


 知能を構成している各器官や知能の機能は、誰でも直に経験し続けていて、意識し識別し思考し理解もし活用しているだけに、普段どうなのかも記憶に残っているし、平常どおりでなかったり異常がある場合は本人は気付く。
 つまり、記憶に残っていることと、現在の状態とが、一致していれば平常どおりで、相違しているだけで平常とは違うことに気づくし、異常があれば困りもするので当然に気付く。
 猫でも、どこかが痒くなると、そこを掻く。
 知能を構成している各器官に関しては、日常生活で活用するようにもなるだけに、平常どおりに機能しているか否か(異常が無いか)を、日常的に無意識にチェックしているような状態になる。
 眠くなっただけでも気づくし、なかなか眠れなくても疑問視する。

 そういう点も、母の精神面が平常どおりに機能していることは、母の言動や振る舞いが物語っていた。


 会話ができたわけだから、相手が話したことを、自分の記憶にあることを参考に識別や解析を行い、知らない部分があれば必要に応じて尋ね、辻褄が合わないと納得できなかったり不信感を抱いたりし、辻褄が合っていると納得し理解して、相応の自分の気持ちや考えを文章化して話すこともできたし、相応の行動もしていた。
 それらは、記憶力も識別力も思考力も理解力も予想力も発揮していたことをも物語っていた。

 それらのことからは、突然ボケるとも考えられなくなった。


 でも、そういうことは知らないからこそ、母は「ボケた」と言って落ち込み、それを繰り返す。
 そんな母が理解できることも、限られている。

 知能の構成している各器官が平常どおりに機能しているか否かなら、誰でも日常的に無意識にチェックしているような状態にある。
 知能の構成要素は、誰でも共通でもある。
 これらなら、指摘も容易だ。
 指摘されれば、母でも自覚できるはずだ。


 母がボケたと言い出すと、母の平常どおりに機能している点を、私は指摘するようになった。
 母は、平常どおりに機能している点を自覚するのだろう、平常に戻った。

 母は、本当にボケているわけではない……。
 むしろ、俺が言葉で指摘したことを、母は理解できたから、自身の平常どおりに機能している点も自覚できたはずだ。
 馬鹿げたことであることも、そのうちに理解するだろう……。






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 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
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