生理面は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていることが絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もするわけだから、生きる理由を学習するようなものだ。
 記憶を参考に識別し思考し、学習し上達し熟練し、見えない約束やルールや法則なども理解でき、理解し合い協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 生存や経験や学習や思考や理解、信頼や尊重や愛や幸福、それらは理解上成立する。しかも、誰でも理解可能で、無料だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 もちろん、進化や自身が形成された経緯や生命生理などは、通常は知らない。
 誰でも共通な知能や経験や学習や理解に関することも、理解するとは限らない。
 知らないことは想像もするし、自分のことでも勘違いし思い込みもする。目を奪われ心まで奪われ、自分を見失い人生も見失い、そうであることに気づけなくさえなる。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 が、普遍的ではなく、共通でもなく、異なるほど、理解し合うことは難しくなる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 そうであることは、マスメディアが発達した現代では歴然としているわけですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、病気ではない、異常でもない」
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「悟り」とは 2016/12/27
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冬モードへの意識の切り替え

 
 悪天候続きだったからだろうか……。

 例年になく野良仕事が忙しかったことは事実だ。

 写真は目に見えることなのに、目に見える成果が今年は無かったからか……。

 いずれにしても、すでに2回も除雪機を使い、すっかり冬景色になってしまった。
 それどころか、最低気温がマイナス11度近くまで下がっていた。

 とっくに、冬モードへの意識の切り替えをしていなければならないのに、一向に始める気にならない。


 というより、考えが行き詰まり、その考えに無理や矛盾があることに気づくとき……。
 気づくことに期待して、息を殺すほど心を落ち着かせる。
 あのときの状態に似ている。
 そうするようになったのは、同じことを繰り返し経験したからにほかならないのだが……。
 もちろん、すっかり勘違いし深く思い込んでいることほど、そうであることに気づくのは難しい。

 否……、単なる怠けか!

 ま……、老化が進行していることも否めない。


 でも、こうして書き始めると、また、その気になる。
 いつも、そうだった。
 肝心な自分のことを勘違いし思い込んでいたに過ぎなかったことに気づき、肝心な自分のことはほとんど知らなかったことが判明した。
 的外れだとも知らずに満足さえしていたわけだから、そんな自分に絶望し、深く落ち込んだ。
 でも、生きるしかなかった。書くことで気持ちを整理することが必須になった。
 それでも、今だに、余計なことを気にすると焦る。
 妥協すると、もちろん的外れな方へ行ってしまう。

 いわば、思考パターンが本来の健康的な状態であることが大事であり、それを自分で維持管理できることが重要だった。
 意識の切り替えに好都合だと思って再開した写真では、写真自体は一向に進展しなかったが、意外にも心の浄化は進んでいた。
 あれも、精神面では、妥協しなかったし焦らなかったからだともいえる。
 写真を撮りに行っていたわけだが、精神面では余計な考えを排除して可能性に期待した。その練習を、行くたびに行っていたようなものだった。
 気象現象に関する具体的な知識が無いだけに、余計なことを考える。その余計な考えが排除されるほど、ただただ可能性に期待する。
 そんな精神状態になれるからこそ、写真は一向に進展しないのに、車の燃料費を気にしながら、暗いうちに起きて、撮影ポイントに足を運んでいたようなものだった。

 あ、あれを、まだ引きずっているのか……。
 今年の撮影は、紅葉で終わりにしたのに。

 それとも、写真が一向に進展しなかったことへの未練もあるのか?


 夏、写真に関しては一向に進展しなかっただけに、ヒントを得ようと思い、写真ブログを次々に覗くようになった。
 その先々で、圧倒された。
 こんな写真も撮れるのか。
 どうやってこういう写真は撮るのだろう。
 この人はプロのカメラマンなのか。
 などと思わされもした。
 つい、どんなレンズを使っているのだろうとも思い、使っているカメラは……、などとも思った。

 自分は、中古のデジイチが安かったことで、かつて諦めた写真を、今年たまたま再開した。
 入手したカメラは、使いこなせるはずもなく、人生最後の一眼レフだとも思い、使い倒す気でいたのだが……。
 10年ほど前に D200 で撮った画像も気になりはじめた。それが入っているハードディスクを引っ張り出して見てみた。
 D200 で撮った画像と、使用中のカメラの画像とは、透明感が違う。明らかに D200 の方が自分の好みだ。
 使い慣れてはきたが、使用中のカメラを自分はまだ使いこなせていない。
 否、未熟だからこそ、続けるためには機材との相性も重要なのだ。
 しかも、D200 は、10年ほど経った今では2万円も出せば買える。
 意外な成果があった以上、写真は止めるわけにはいかない。
 むしろ、来年こそ、撮れるものなら、心を浄化した理由までも写っているような画像を撮りたい。
 稀な気象現象という点でも、下手でも、フルサイズのカメラで撮っておきたい。

 そうこうしているうちに、秋の農繁期に入った。
 そして、悪天候の所為か、赤が冴えないまま今年の紅葉は終わり、今年の撮影も終わった。
 写真が一向に進展しなかったことも事実だ。


 ならばと、今年購入した中古のカメラ3台+レンズ5本をすべてヤフオクに出品した。
 なんと、総額では、入手時の総額に近い値で売れた。
 思えば、かつてD200を手放した時も購入価格とほぼ同額で売れた。
 どういうこと?。

 早速、Nikon D750 を入手することに決定。
 D750用のレンズは、主に朝焼けや夕焼けを撮る都合上、できるだけ明るいレンズを欲しかった。
 でも、今年使ったカメラは、いずれも同じメーカー製で、手振れ補正機能がボディ内蔵だった。手振れ補正は有効だった。
 かつて使ったD200は、レンズ側に手振れ補正機能が必要だった。が、ほとんど単焦点レンズばかり使用していたので三脚は必須だった。
 もちろん、絵に描いたような貧乏暮らしの予算上、フルサイズ用のレンズとなると、複数は無理だ。
 というわけで、レンズは、AF-S NIKKOR 16-35mm f4G ED VR 手振れ補正機能付きに狙いを定めた。

 なんと、その狙ったレンズ AF-S NIKKOR 16-35mm f4G ED VR が、フィルター付き、ほぼ新品、保証期間中で保証書付き、なのに他よりも安価、即決、出品されたのは前夜だった。
 即、落札。

 数日後、Nikon D750、開封済み未使用品(レンズキットからレンズを抜き、キャッシュバックキャンペーンに応募済みのもの)を、落札。
 D750 は、今年使ったカメラをヤフオクに出品して得た総額よりも、800円高かった。

 到着した D750 のリコール問題の確認をした結果、いずれにも該当しなかった。



20161123 D750到着当日の動作確認画像より


 予算的には、レンズの分は新たな出費になった。
 その分は、サブ機にしようと思っていたパソコンなどを、ヤフオクに出品して補うことにした。
 数年前から始めた、パソコンの修理再生の勉強上、再生したパソコンを66台ヤフオクに出品したが、黒字にすること自体が容易ではなかったので止めることにした。
 そして、再生67台目は、自分用のサブ機として残しておこうと思っていた。
 が、それは余分なものであり、むしろカメラの方を優先した。

 カメラは、完全に入れ替わった。
 もちろん、この先の冬場は、使わない。
 来年こそはと思う期待が、そうさせた。
 ということは、今年の撮影は終わったのに、カメラは来年用のものを用意したから、まだ気持ちを切り替えられないのか。

 その心は、自分の目にも見えないし、写真にも撮れない。


 これまでもそうだったが、こうして書くと、意識の切り替えができない理由であろうと思われることが次々と判り、具体的な真因は捉えられなくても、意識の切り替えは進む。


 雪に埋もれる冬場に自分が臨むことも、目に見える被写体を撮る写真とは違う……。
 むしろ、目には見えないが紛れもなく存在するものを、文章化することで、目に見えるがごとく明らかにすることに臨む。

 目には見えないが、紛れもなく存在するものには、意味や理由や法則などもある。
 それらは、紛れもなく存在するが、五感を駆使しても捉えることはできない。
 でも、記憶に残っていることを、事実関係に基づいて整理すると、捉えることができる。
 つまり、記憶に残っていることを、事実関係に基づいて整理できる思考力や理解力を発揮することによって捉えることができる。
 その記憶に残っていることや思考力や理解力も、内面的なものなので目には見えないが、紛れもなく存在する。
 だからこそ、それに基づいた相応の振る舞いもし、相応の結果にもなるし、それゆえに結果に一喜一憂もする。

 複数の写真ブログを覗いても、それぞれに個性がある。
 つまり、写真には、その撮影者の考えや気持ちや心も写っていることになる。
 もちろん、撮影者は、そうであるか否かに一喜一憂する。
 ただ、それを、他者が具体的に捉えるのは難しいだけだ。

 言葉で具体的に話すことが無い犬や猫も、いろんなものを見分け聞き分け嗅ぎ分けて相応の行動をしている。
 現在地からは見えない所を目指しもするし、スキップに似た駆け方もするし、近道もするし、帰っても来る。
 犬は尻尾を振るし、猫は尻尾をピーンと立てる。
 さまざまな反応や振る舞いを見せるが、それらは、相応の気持ちや考えがあることや、相応の学習をしていることを、如実に物語っている。
 もちろん、人も、まだ言葉を話せない頃は同様だ。
 ただ、それらの内面的なことは、目には見えない。
 でも、目に見える事実を整理したり、記憶なしには識別できないし相応の感情や気持ちも生じないし相応の行動もしないなどと整理すると、目には見えないことも思考上には浮かび上がってくる。
 自分の精神面も、基本的には同じ構造であることを理解できていると、目には見えないことの方が重要で尊いものとして観てくる。
 かつて、考えに無理や矛盾があって苦悩した場合でさえ、本来は高度な知能を誤用していた状態にあったからであり、知能の尊さを理解できていないからでもあった。

 その見ている側の、中枢である内面的な心を、あたかも目に見えるくらいに明らかにしたいものだと思う。
 可能なら、考えの無理や矛盾までもが一目瞭然になるくらいまで明らかにし、解決を容易にしたいものだと思う。
 少なくとも無知と愚かさを思い知らされた自分の心をそういう風に捉えられるようになりたいわけだが、これこそが、自分の人生上のメインテーマでもある。


 そもそも、本当に大事なものは、目には見えない。
 本当に大事なものこそ、お金では買えない。

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人生観

 

進化


 現代人が誕生する以前に、現在のような形態になった。現代人は関与できない次元のことである。
 つまり、進化自体は、人為的なことではないので、自律していることになる。

 ちなみに、生後に習得したことを以って治療できることは限られているからこそ、名医と言えども死ぬ。
 名医と言えども、犬や猫の治療にすら限度がある。
 人に限らず犬や猫なども、生きていること自体こそが、人が生後に知り得ることを超越した存在であることは歴然としている。
 むしろ、人が生後に知り得ることには、錯覚もあり、的外れな勘違いもあり、根拠も理由も無くて否定できないがゆえに思い込んだりさえするわけだから。

誕生


 本人の意思はまだ無い。
 つまり、進化上形成された生殖機構に基づいて、自律して分化し身体が形成されて、やがて誕生する。
 内臓などの生理面も自律して機能していて、本人の意思や考えに因るものではない。
 だからこそ、微生物や植物や野生動物や犬や猫なども、生存し続けられるし、生殖や世代交代もするし、子育てをする動物も少なくない。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も備わっている。もちろん、人以外の動物にも備わっている。

 ちなみに、備わっている知能は、どこかの天才と言われる人が創ってくれたものではないし彼らが発明したものでもない。
 むしろ、天才と言えども、備わっている知能を使って、環境を破壊するものを発明したり、人類を破滅させかねないものも開発する。
 つまり、生後に習得した内容しだいでは、対生存上で知能を誤用し悪用さえする。
 言うまでもないが、微生物や植物や野生動物でさえ、人が生後に知り得ることを超越している存在なのだ。

成長


 成長自体も自律していて、本人の意思や考えに因るものではない。

 知能も備わっていることによって、そうであることを直に経験できる。気になることほど、しっかりと意識する。経験相応の印象が記憶に残り、記憶に残っていることを参考に識別が可能になる。
 繰り返し経験したことほど、本人の記憶は確かになり詳しくもなり、本人はより的確な識別が可能になる。
 そんな性質上、よく知ろうと観察したり確かめたりしたことほど、勘違いや間違いの修正もできるので更に記憶は確かになり詳しくもなり、より的確な識別や判断や予想なども可能になる。
 よって、繰り返し試したことほど、上達する。つまり、複雑な思考や予想なども可能になる。相応の振る舞いなども可能になり、相応の結果になるようにもなる。
 言い換えると、経験不足で未学習で随意にできなくて不自由だったことが、経験し学習し上達して随意にできるようになる。しかも、大人に助けてもらうことも憶えるので、自分の実力を超えた協力を得られる。だからこそ、好奇心も旺盛になり、盛んに学習するようにもなる。
 それは、意思の成長でもあり、自信の成長でもある。


 ちなみに、小鳥は、木々の枝にぶつからずに、枝の間を通り抜けるし、高い木の小枝に上手に止まれるようにもなる。
 猫も、小急ぎに出かけもするし、近道もするし、現在地からは見えない所に向かいもするし、ちゃんと帰ってくる。
 また、人が戸を開け閉めするのを見て、猫も戸を開けることにトライし、一旦できると、次からは簡単に開けて出かけるようになる。
 でも、猫は戸を閉めることは憶えないので、猫が戸を開けられないようにすると、猫は「ここを開けられなくなった」とか「ここから外に出たい」とか「ここを開けて欲しい」と言わんばかりの態度を見せ、言葉では言えないので「ニャー」とだけ言う。
 そんな猫の気持ちや考えを、人の方で察して戸を開けてあげると、猫も、開かない戸をガリガリやらなくなるし、戸の前に座って戸を開けて欲しいと言わんばかりに「ニャー」と言うようになる。
 つまり、猫も、人と意思疎通をするほどの学習している。
 人も言葉を話せない子供の頃にも気持ちや考えはあるわけだし、猫にも気持ちや考えはある。が、その気持ちや考えを、言葉で具体的に伝えることはできない。つまり、人の赤ん坊も泣くしかないように、猫も「ニャー」と言うことしかできない。それを、人の側でどれだけ察してあげるかや応えてあげるかに、猫の学習内容が左右されることになる。
 言うまでもないが、言葉で具体的に言えない気持ちや考えを、人が察してあげなかったり応えてあげないと、相応の意思疎通に関することは学習しないことになる。

 もちろん、人の場合は、備わっている知能の性質や能力上、経験でき学習でき習熟や熟練でき理解できるようになり、相応の振る舞いが可能になり、相応の結果が伴う。
 ただし、そうしなかったことは、本人はできるようにすらならないし、簡単に上達するわけでもない。
 つまり、普遍的な存在である知能の性質上、その基本的な機能や能力や、それを基に可能なことには、相応の条件や因果律や法則がある。
 そんな性質上、誰でも、生きているほど多く経験することになる。
 そんな、目では見ることができない理由や因果律や法則や、知能自体の基本的なことは、普遍的なことで変えることはできないどころか、それに基づいたことしか成立しないだけに、誰でも否応なく経験するし、相応のことが記憶にも残る。
 記憶を参考にして、個々の識別や事実関係に基づいた整理が可能な思考上では、事実関係に基づいた一連のことは具体的に理解することも可能になる。理解した内容も記憶に残るだけに、いわば何時でも何処にいても更に熟成させることも応用や活用も可能になる。
 日常会話でも、条件が満たされていないと納得できないし、条件が満たされていることは理解でき納得できるようになるわけだから。
 それは、精神面の基本的な成熟だとも言えるし、本人の意思の確立だとも言える。

 もちろん、直に経験し続ける自身の、経験上のことは、事実関係に基づいた整理をするだけで具体的に理解できる、その準備も整いはじめていることになる。
 また、意識し、記憶を参考に識別や思考や予想もし、それに基づいた振る舞いをし、相応の結果が伴うわけだから、それらの因果関係や法則に関しても具体的に理解できる準備も整いはじめていることになる。

成熟


 生理面の成熟は自律していて、意思で制御できることではない。

 直に経験し続けている自身の経験上のことや、自分が意識し識別し思考し予想して相応の振る舞いをし相応の結果にしている精神面を要とする一連のことは、事実に基づいて整理するだけで具体的に理解できる。それらに関して理解した場合は、相応の自己管理が可能になる。
 想像や勘違いや思い込みや独断や偏見なども、その弱点や特徴などを、経験を基に具体的に理解すれば、その知識を基にして、想像や勘違いや思い込みではないかを自分で検証できるようになる。
 つまり、精神面の自己管理が可能になるわけだから、精神的にも自立する。


 もちろん、生理的には自律して成熟するが、精神的な成熟は経験や学習や理解などの内容に左右される。そんな性質上、躾や教育や環境上の悪影響も絶大だ。
 そもそも、備わっている知能(各感覚器官や意識や記憶力など)に関することは、内面的なことだけに、誰でも個人的に直に経験する。
 その各感覚器官や意識や記憶力などの性質や機能や能力と言われるものを、本人が内面的に活用するようになる。つまり、記憶を参考にした識別や思考や予想などを学習する。
 よって、観察し確かめ試すようにもなり、詳しくもなり上達もし、言葉に関することも理解できるようになり、相応の振る舞いもできるようになり、相応の結果になる。
 それらの、知能の本質に基づいた一連のことを以て、意思が確立し自信も確立しつつ心が形成される。
 そうして形成される心だけに、本来は絶妙にできている。しかも、そうであることを、誰もが直に経験し続け、学習経験もし、上達できることも経験し、会話などでは記憶を参考に条件反射的な速さで情報処理ができるほど熟練することも経験し、それだけの思考力や理解力を発揮するようになる。
 でも、未熟なほど、誘惑には弱い。まして心の形成過程で、保護されなかったり、幼いうちに大人から余計なことを強いられると、当然に心の形成は歪む。
 本来は、誰でも、記憶を整理するだけで理解できるようになるのに、それを他者が阻害し、しかも都合のよいことを学習させることは洗脳でしかない。
 それでも、大人になるほど、経験や記憶は増え、日常的に思考力や理解力は磨かれるので、心の形成や心が歪んだ理由などを理解できる準備は着実に整ってゆく。
 よって、心の歪みや自己管理ができていないことに、気づいたりもする。
 気づけるくらいだから、記憶にあることを整理するだけで理解でき、もちろん自分で修正することも可能だし、必要で可能なのに未理解だったことを今更のように理解することもできる。
 よって、まさに自己管理が可能になるわけであり、遅れはしても精神的に自立できる。

生殖


 有性生殖では、全く個人的には子供は産めない。
 憎み合い軽蔑し合う異性同士だと、接近することすら難しい。
 パートナーがいても、産めるとは限らない。

 誰もが直に経験し続けていることである、精神面・生きていることの絶妙さ・産まれる機会に恵まれた貴重さなどを理解できていれば、生後に学習し理解したことを以て日常生活や健康管理も可能になる。そういうことを、具体的に理解し合えるほど信頼し合え尊重し合える。そういう異性同士だと自ずと行う。
 誰もが直に経験し続けていることを、具体的に理解しているほど高度な自己管理が可能になる。
 もちろん、子供の成長を、健康的に保護養育することもできる。
 しかも、自分の経験を基に理解した生存に関する基礎や基本的なことは、誰もが直に経験し続ける共通なことだけに、子供の成長を目の当たりにすることによって再確認でき、それだけ詳しくなれる。
 当然に、誰もが直に経験し続ける共通なことや普遍的なことを、親子間で理解し合え信頼し合え尊重し合える。

 つまり、本来は、進化上備わっている生理面の最高の能力と精神面の最高の能力が発揮されることだと考えられる。

老化


 生後に学習し理解したことを以ては、通常は老化は阻止できない。
 むしろ、個体が長生きし過ぎると、世代交代や進化には支障が及ぶ。
 まして、権力的で独裁的で暴力的な個体は、子孫の精神にも悪影響を及ぼし、進化にも悪影響を及ぼしかねない。

 そもそも、生きていることはどういうことかを直に経験し続け、相応の知能も備わっていて思考力や理解力を発揮するようになる。
 言うまでもないが、経験上知り得る「生きていることがどういうことか」に関しては、精通していたとしても不思議ではない。

死亡


 生後に学習し理解したことを以ての治療には限界があり、名医と言えども死ぬ。
 もちろん、誰も死を拒否できない。
 つまり、逆らうほど苦悩が増すだけだ。
 権力的で独裁的で暴力的な個体も死亡するわけだが、老化による死には、誰も責任を負う必要が無い。
 死も、進化上では必要なこととしてあるのだと考えられる。

 むしろ、生きていることはどういうことかを直に経験し続け、相応の知能も備わっていて思考力や理解力を発揮するようになり、百年前後も生きる。
 よって、経験上知り得る「生きていることがどういうことか」に関しては、精通していても不思議ではない。
 つまり、本来は、他界に臨む心の準備まで整っていてこそ自然なのだと考えられる。


 人生を全体的に捉えることができるようになると、相応の勘違いや思い込みも明らかになり、修正もできる。
 更に、必要で可能なのに未理解だったことも浮上するが……。


 進化上形成されたことや、生きていること自体は、相応の秩序に基づいて自律して機能しているわけだから絶妙にできていることになる。
 進化上形成されたと考えられる、各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能まで備わっているわけだから。

 知能が備わっていることによって、誰でも、自身のことは直に経験し続ける。
 誰でも、知らなかったことを、憶える。
 誰でも、随意にはできなかったことを、随意にできるようになる。
 誰でも、上達もでき、記憶にあることを参考にした識別や思考や予想や相応の動作などは条件反射的な速さでできるほど熟練する。このことは会話ができるようになることによって実証される。
 大人になってからでも、知らなかったことを憶える場合や、できなかったことを随意にできるようになろうとすると場合、その基本的なことは備わっている知能に基づいたことだけに、赤ん坊の頃から同じなんだということを理解できる。

 もちろん、経験できることは限られ、学習できることも限られ、上達できることにも限度があり、健康管理もままならなかったり老化は止められず死を余儀なくされる。
 ところが、生存上の基礎や基本は普遍的なことなので、誰でも直に経験し続けていることでもあり、独自に理解できる条件が整ってゆくことでもあり、何時でも理解でき何処にいても理解できる準備が整うことは間違いない。
 また、生存上の基礎や基本は普遍的なことであり、誰にとっても共通なことなので、本来は理解し合うことも容易なことである。
 普遍的なことや、それに基づいた法則や理由など、人為的なこと以前のことを理解し合えると、信頼し合えるし、生きている絶妙さ自体を尊重し合うことも可能だ。
 友達、親友、恋人、夫婦、親子、いずれも、理解し合え信頼し合え尊重し合えることによって絆が強くなる関係でもある。むしろ、理解し合えるか信頼し合えるか尊重し合えるかに左右される関係だ。逆に、競い争うことで崩壊する関係なのだから。
 言うまでもなく、競い争うよりも、誰でも直に経験し続けている生存上の基礎や基本や法則などの普遍的なことを理解し合うことの方が、本来は簡単で、しかも有意義だということになる。


 ところが、個人毎に、育つ環境は異なり、経験する内容は異なり、学習する内容は異なり、好みや価値観は千差万別になり、理解する内容も異なる。
 もちろん、個人毎に、見たいものだけ見る。聞きたいことだけ聞く。考えたいことだけ考え、憶えたいことだけ憶えるようになる。

 つまり、誰もが直に経験し続けていることである普遍的なことや基本的なことは誰でも共通なのに、誰もが理解するとは限らない。
 もちろん、誰もが直に経験し続けていることであり、自身に関することであり、経験上知り得ることをさえも、理解するとは限らない。

 しかも、錯覚もあり、間違いもあるし、想像もするし、勘違いもし、思い込みさえする。
 その性質上でも、そういう精神面の弱点や欠点に関しても、誰でも理解するとは限らない。


 よって、精神的には本来の自立に達しない。
 普遍的なことや基本的なことや法則などを、理解し合うこともできない。
 友達、親友、恋人、夫婦、親子なのに、誰もが直に経験し続けているはずの普遍的なことや法則などの共通することを、理解し合えない。
 つまり、納得の上で信頼し合うことや尊重し合うことはできない。

 それどころか、私利私欲に走り、懐疑や不信感を煽る。
 当然に、知られれば不都合だと思うことや不利だと思うことを隠し偽りもし、言い訳もする。
 つまり、上辺だけ尤もらしく見せかける。
 もちろん、不都合なことや不利なことは否認し強情を張りもし、嘘も吐く。


 相手は見抜けないだろうと侮って騙し欺くわけなので、見抜かれれば困ると思うし、葛藤が伴うのだが、反省はせず、むしろ本当らしく工作したりもする。
 もちろん、その事実関係や弊害の理解は容易だ。
 でも、否認し、理解しないし、反省しないし改善しない。
 隠し偽り強情を張ることは、理解や改善を困難にすることにほかならない。
 結局、悪循環の深みに陥ってゆく傾向がある

 上辺や見せかけのことで騙し欺く類だけに、優れたことであるかのように見せかけるために競いもし、自分の方が優れていることを誇示するために争いもする。
 つまり、誰でも直に経験し続けている普遍的なことや共通することや絶妙にできている尊いことを無視して、私利私欲のために、名誉、権力、独裁、暴力、軍事力、などに物を言わせようとする。
 挙句の果てには、他者の所為にし、他者の口封じさえし、暴力的に片づける。


 恋人や夫婦でも破局もあるわけだから、上辺だけ尤もらし見せかけているだけだったり騙し合いだったとしても不思議ではない。しかも、友達、親友、恋人、夫婦、などは別れることで片づけもする。
 が、最低限平和であってほしい家庭内で幼い子供が犠牲になる。
 つまり、誰でも直に経験し続けていることである、絶妙にできていて尊いことを無視し、生後に習得した勘違いや思い込みなどを優先するからこそ、秩序に基づいて自律して機能している絶妙な物事を破壊してしまう。
 子供が減少していることも事実だ。

 誰もが直に経験し続けていることである生きていること自体の絶妙さに比べると、生後に経験し学習し理解する内容は、比較にならないほど劣ることは歴然としている。
 名医と言えども、生後に学習し理解したことを以ての治療には限界があり、死ぬわけだから。
 個人的には、生後に習得したことを以ては、生活がままならなかったり、健康管理もままならなかったりする。
 経験や学習や理解の性質上、誰もが直に経験し続けている生存に関することを理解しそびれもし、知能を誤用するようにもなるし悪用するようにさえなる。
 つまり、人間関係上でこそ、懐疑や不信感を抱き、私利私欲に走って知能を誤用し、独断や独裁に執着して知能を悪用するようにもなる。
 それも、誰にも知能は備わっていて、誰もが直に経験し続けていることである、普遍的で共通することを理解しているか否かだけの違いだったりする。

 仮に、相手を殺して、自分が殺されることを免れたとしても、老化は止められず死を余儀なくされる。
 その死は、誰も責任を取る必要が無い。



 そんなことを嫌い、そんなことから離れ、やがて、いろんなことを基に人生を捉えるようになった。
 が、こうして、人生を全体的に捉えられるようになったことによって、それを基に、いろんなことを捉えられるようになった。
 趣味の写真「普遍に臨む」をやったことによって、心の浄化は進んだことは間違いない。
 今となっては取り返しがつかないことをやってしまった理由も明らかになるわけだが……。
 それゆえに必要だった精神面の把握であり、写真よりも、こっちの方が大事だった。
 だからこそ、もっと具体的に把握しようともしてしまう……。

 そもそも、意識の切り替えの一手段として始めたことだった。
 自分の考えに、振る舞いや結果が左右される。
 だから、それまでの考えから離れ、それまでとは違うことを意識したり、それまでとは逆のことをさえ意識したり考えたりして、考えを変える。
 つまり、基本的には、知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになることなのだが、その内容しだいでは知能を誤用するようにもなるし悪用するようにもなる。
 だから、その基本的なことを再体験すべく、写真をはじめた。

 朝夕の撮影時には、広大な空間の中に自分を置く。
 自分が望む気象現象が展開することを期待して待つ。
 気象現象だけに、作為的なことはまったく通用しない。
 素人の自分の知識や考えも、ほとんど役に立たなかった。
 ただただ、広大な空間の中で、望む気象現象になることに期待して待った。

 その日毎に設けた画像フォルダを単純に数えたところ、7月下旬から10月末までに、撮影に出向いた回数は朝夕80回ほどだった。
 実際には撮影に出向いていたわけなので、心の浄化は意外だったわけだが……。

 思えば、勘違いや思い込みや独断独裁や私利私欲もある人間関係から一時的とはいえ離れていることには気づいていた。
 広大な空間に魅了されていたが、自分の心の浄化が進んでいることも感じてはいた。

 が、その場にいるのは、写真は学習や上達が目的でのことだった。
 でも、撮影に臨むにあたっては、余計な考えを捨てる必要があった。
 つまり、心に関しては白紙に戻すようなことをした。写真とは逆の、非学習的なことをしていたことになる。

 むしろ、心の浄化を感じていたからこそ、暗いうちから足を運んでいた。
 撮影時に、とても贅沢な時間を過ごせていると思ったりもした。だからこそ、夕焼けにならないのに、いつも惜しむように暗くなるまで現場にいた。
 写真の方は、期待を超えた夕焼けを撮り逃し、期待したような朝焼けや夕焼けは一向に撮れず、進展しなかったわけだから。



 それにしても、こんなに天候が悪い秋は、初めてだ。
 11月1日、里にも初雪が降った。
 11月2日、朝から久しぶりの青空だった。なので、少し早いと思いながらも、午前中に紅葉の撮影に行ってきた。




20161102 紅葉-a


 樹高の高い楢などの葉が落ちると、樹高が低いモミジが黄色から鮮やかな赤色になる。
 つまり、樹高の高い落葉樹の葉や葉が無くなり、林の中の樹高が低い樹からも緑色が無くなり、裸樹や黄色や赤色になる。
 そんな状態が自分にとっては理想的なのだが、昨日は、まだ緑色が残っていて、赤色が不十分なモミジばかりだった。
 でも、今日11月3日、発達した低気圧が通過。霰というより、雹のようなものが降った。樹高の高い樹に守られていた樹高の低い樹は、傷つきやすい。
 もう、今年の紅葉を撮影するチャンスも無いのかもしれない。




20161102 紅葉-b



 11月中旬には、秋の農繁期は終わる。
 今年の後片付けや、来年の準備もしておきたいので、野良仕事自体には終わりは無いのだが……。
 農民は、疲れ切っている。やがて、雪が降る。なので、野良仕事は、一旦終える。

 なので、野良仕事をしながらも、意識する対象をこんどは今冬に臨むことに切り替えてゆく。

 
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 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
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