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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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そろそろ意識を切り替えよう

 
 収穫は終わり、後片付けは残っているが、秋の農繁期は一段落。
 今年の農繁期は……
 里には雪も降らず……
 雨は降ったが少なく……
 好天には恵まれたという印象だ。

 以前は、十月中に里に初雪が舞い、十一月に入ると積雪があるのが、あたりまえだった。近年は、それが無い。
 冬場の最低気温も、以前ほどは下がらなくなった。
 農作業には、好都合だ。

 が、自分が優先し重視していることからは、すっかり遠退いていた。

 何かに気を取られると、他のことは疎かになる。
 何かに気を取られると、他のことは忘れてしまう。
 使った道具も、どこかに置いたままにして、すっかり忘れ、見事に錆びてしまったものを目にしたりする。
 今春も、ある道具を使ったが、どこに置いたのか、最後に使った場所がどこだったのか、いまだに思い出せない。
 そんなことが、老化とともに、顕著になる。

 そもそも、生存上必要なことや、現実的なことや、目に見えるものなどに、気を取られがちだ。
 つまり、記憶などの内面は、五感では捉えることができないだけに疎かになりがちだからでもある。

 でも、老化とともに集中力も衰えるなどしたがゆえに、集中すべきことには今まで以上に集中せざるをえなくなったのだ。
 そうだとしたら、決して悪いことではない。

 が、的外れなことにでも集中してしまうからなのか、肝心なことは記憶にあることは分かっているのに、思い出せなかったりする。
 ま……、記憶には、思い出したくないこともある。
 相手しだいでは、知られたくないことも記憶にはある。
 意外な、勘違いや思い込みや固定概念もあったりするからだ。
 そんなことが、障害になっていたりもするのだ……。

 だから、何かをしている時に、ほとんど無関係なことを思い出したりする。
 必要な時に思い出せなかったことを、意外な状況で思い出したりもする。
 つまり、記憶には有る。
 が、記憶は、五感では捉えることができない性質上、順調には思い出せなかったりもする。

 五感では捉えることができない記憶にある過去の経験なども、思考上では捉えることができる。
 記憶にあることを、思考上で、事実関係や性質や条件、因果関係や理由などに基づいた整理をすると、相応の一連のことを理解できる。
 つまり、五感では捉えることができないことを、思考上で理解することは可能だ。
 そのために、超冷静になる。
 理解できたことは、それを基に相応の識別などが可能になるわけだから。
 会話上などで日常的に行っていることなのだが、未理解な場合と理解した場合の違いも分かる。
 これらに関しては、三十歳前後の頃よりも進歩している。

 そういえば、顔や物事やイメージは記憶に有って、相応の識別もできるが、その名前を思い出せなかったり、相応の言葉が思いつかなかったりする。
 そんな事実関係を整理して、理由を解明できれば、その改善も少なからず可能になる。

 そんな事実関係や因果関係の整理や理由の解明や理解を、今冬も、またやろう。

 総体的な整理は、まだ行っていないんだから。

 人生の残り時間は、少なくなる一方なのだ。

 誰でも、唯一直に経験し続ける自分の人生のためなんだから。

 早めに、意識を冬モードに切り替えなきゃ。

 

今年は、夏以降は、雲海はほとんど発生しなかった……。
朝焼けは、断念後にあっただけに、撮りそびれた……。
趣味の写真は、想定上では残念な結果になった……。
が、情報収集は進展しただけに、来年に期待する。




Nikon D200 + SIGMA 17-70





Nikon D7200 + SIGMA 10-20


 
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ついに集中不能……

 
 日はすっかり短くなり、寒くもなり、やがて降る雪を気にしながら、農繁期はピークに。
 ブログの記事には、ついに集中不能。


 ところが、十月二十八日の明け方、好い夢を見た。
 しかも、朝から雨。

 夢は、雪がある季節のことだった。
 まだ若い頃の両親と、意見が合わず、自分は帰宅した。
 そして、居間で南側の窓を背にして座っていた。
 すると、知人や、その知り合いなどが、続々と入ってきて、十畳の居間が二十人以上の人で溢れ、みんな立ったままで軽い動きのダンスをしているようだった。
 自分の右隣に座ったのは知人だった。が、彼は、実際には自分よりも若いのだが近年他界している。
 自分と彼の間に割って入た人は、隣にいる彼を指して「彼の妹の(何とか)です」と自己紹介をした。が、彼には、姉はいるが、妹はいないはずだと思った。
 そんなこともあって、彼らも精神的に問題を抱えている人たちなんだと自分は気づいた。
 そこで、「この中で、一番困っているのは誰なんだ?」と自分が尋ねた。
 すると、口々に言ったのは、自分の右隣に座り、実際には自分よりも若いのに他界した彼の妻だと。
 その彼の妻は、みんなと軽い動きのダンスをしていて、自分の方は見向きもしない。
 そんな中で、自分が、勘違いや思い込みの話をし、生命生理は自律していることや、精神面は平常どおりに機能していることを確認するような話をした。
 が、誰にも効果が無かった。
 というわけで、結局、自分が話す順序に問題があった、こういう順序で話すべきだった、などと反省を余儀なくさることになった。

 夢としては、久しぶりに前向きな内容だった。
 最近、現代文明とも関わろう、などと思うようになったからだったのだろうか。
 現代文明とも関わろうと思うと、まだ解決しなければならない問題があることも事実だ。
 誰もが直に経験し続ける肝心なことを未理解なまま、むしろ的外れな勘違いをし思い込み固定概念までいたき、肝心なことをすっかり見失っているであろうことを、明らかにすることだから……。


 進化や身体の形成や生命生理に自律などは、知る以前から存在していることであり、生存上は絶対的なことだからでもある。
 しかも、基本的なことや基礎的なことほど繰り返し経験する。

 知能も備わっていて経験でき学習でき理解できるようにもなるが、知る以前から存在していることの多くは、生後に習得したことを以ては変えようが無いことだからでもある。
 つまり、普遍的なことだからでもあり、そういう性質上もともと歴然としていることでもある。

 唯一、直に経験し続ける自分自身のことであり、相応の情報が自分の記憶に溜まってゆくことでもあり、日常的に思考力や理解力を発揮するようにもなるわけだから、本来は誰でも精通できる条件が整ってゆくことでもある。

 ところが、理解する対象は、誰もが直に経験し続ける絶対的なことや普遍的なことなどであり、物体のような存在ではなく、因果関係や理由や法則などである。
 つまり、五感では捉えることができない。経験し記憶に溜まった情報を、思考上で整理して、誰もが直に経験し続ける絶対的なことや普遍的なことなどを理解するしかない。
 そういう性質上、精通できる条件は整ったことをすら、理解するとは限らない。

 むしろ、五感で捉えることができることに、目を奪われがちで、心まで奪われがちでもある。
 文明的にも社会的にも、目を奪おう心を奪おうと躍起になる。つまり、誰もが直に経験し続ける絶対的なことや普遍的なことなどではなく、それ以外のことを尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げる。

 生存上、誰もが直に経験し続ける絶対的なことや普遍的なことなどを理解する好機を逸すると、認め難いことや知られたくないことや思い出したくないことなども記憶に溜まる。つまり、理解することが容易ではなくなったり困難になったりさえすることもある。
 勘違いしていたことすら認め難かったり、愚かだったとなると知られたくなかったりする。
 にもかかわらず、プライドや名誉や地位などは成立していたりする。プライドや名誉や地位などの性質上、それらは捨て難かったり覆すことすら困難だったりもする。

 でも、もともと絶対的で普遍的で歴然としていることを、単に理解することだけに、無学な自分でも、日々、詳しくなった。
 そんな自分の経験に、解決策も秘められているのかもしれない。
 そもそも、誰でも、五感では捉えることができないことでも、日常会話で理解し合えている。このことも明らかな事実なんだから。
 むしろ、言葉を話せない猫や犬なども、記憶に残っていることを基に遠くまで出かけもするし、帰っても来る。相手次第で、噛む加減や爪を出す加減もしているし、仲良くする相手を見分けていることにもなる。つまり、気遣いもしているし、相手の心情を察していることにもなるんだから。

 

先日までは好天が続いたのだが……。
趣味の写真は、今年は残念な結果に……。










 
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老化・若返り

 
 皮膚のシミや皺、禿や白髪、などは老化が分かりやすい。
 他に、老化って、どういう面が、どう衰えるのだろうか。これは、未経験だったことなので、経験的な知識は無い。
 こんなことを、加齢にともなって、否応なく経験するようになる。
 足腰の疲れ方や、飲食関係や排泄関係のいわば劣化や、各感覚器官や記憶関係や思考関係の衰退、等々。

 でも、衰退なのか劣化なのか老化なのかを明確に判断をするだけの具体的な知識は無い。
 つまり、根拠や理由などの具体的な知識が無いまま、これが老化なのだろうと思ったりする。
 ただ、結果的なことを指して、「それが老化なのだ」とか、「それが老化によるものなのだ」などと言ったりもする。
 会話上でも、根拠や理由などの知識が無いまま、想像上で、そう言っているに過ぎなかったりもする。
 根拠や理由をそっちのけで、「認知症だ」と決めつけたりもし、「ボケた」と思い込んだりさえし、それゆえに落ち込んだり、相応の振る舞いをするようにさえなったりもする。

 ところが、心配になったり苦悩するほど、むしろ相応の分別力や感情も平常どおりに機能していることを物語っている。
 なのに、平常通りに機能している点を無視するかのように、根拠や理由などの知識も無いことを、つまり想像上で「ああだこうだ」と言ったりする。
 これは、老化とは、言い難い。

 もちろん、事実が明らかになり、勘違いだったことや独断や思い込みに過ぎなかったことなどが判明したりもする。
 ところが、「勘違い」とはどういうことを指すのかを未理解だったことも判明したり、「独断」や「思い込み」とはどういうことを指すのかを未理解だったことなども判明したりする。
「理解」とはどういうことかを未理解だったり、「未理解」と「理解」の違いなども未理解だったりする。
 いずれも日常的に発揮していて、当然に経験済みだ。なのに、理解できていないことになる。
 そういうことも、把握能力がある人は、動揺したりもする。
 この場合は、むしろ老化ではない。

 経験済みで、日常的に学習力や思考力や理解力なども発揮している。が、経験済みなことに関する事実関係や理由など未理解なだけだ。
 つまり、日常的に学習力や思考力や理解力などを発揮しているのだが、唯一直に経験し続けている肝心な自分のことであり、かつ発揮し経験済みなことに関しては、学習力や思考力や理解力などを十分には発揮できていないということになる。
 いわば、精神面が本来の成熟に達していない、という捉え方をすることもできる。


 日常会話上でも、思考上で記憶にある情報を参考にして整理することができるから、五感では捉えることができない事実関係や因果関係や理由や法則などを理解することもできる。
 だから、根拠や理由が不十分だったり、無理や矛盾があると、理解できないし納得できないので、会話の展開も滞る。
 日常でも、未理解なことは、識別できないし自覚もできないので、相応の思考や予想などの展開も無い。
 こういう性質上、必要な場合は、不明な部分を尋ねもするし確かめもするし、勉強したり研究したりさえする。
 そして、根拠や理由が十分で理に適っていると、理解でき納得もできる。

 理解できた場合は、理解した内容である一連のことが記憶に残る。むしろ、理解する際に、記憶に残っている関連することを参考にするだけに、それらが関連付けられて整理されることによって、一連のことや理由などを理解でき納得するに至ると考えられる。
 よって、記憶に残っている理解した内容を参考に、相応の識別や自覚や思考や予想なども可能になり、相応の振る舞いも可能になり、相応の結果にもなる。
 つまり、未理解だった時点ではできなかったことが、理解したことによって可能になる。

 日常会話でも、話題を変えても、その話題を基に会話を展開したりする。
 会話上、記憶に残った約束を、相応の時間経過を経てから果たしたりもする。
 教えてもらい、記憶に残っている道順を頼りに、目的地に到達したりもする。
 ルールを知り、それを基にしたスポーツもできる。
 単純なことでは、見聞きして記憶に残ったことは、後で思い出したりすることができるだけに、記憶に残ったことを参考に相応のことを意識したり自覚したり識別や思考なども可能になる。
 猫や犬なども、人の身振りや手ぶりに相応の反応をするようになったりするように、人の発声にも相応の反応をするようになる。

 人の場合は、思考力や理解力を日常的に発揮するようになり、相応の情報が記憶にも残っているわけだから、思考力や理解力や理解自体の性質や特徴に関しても理解可能だ。
 ところが、そうであることを未理解だったりもする。
 この場合は、精神面が本来の成熟に達していないと考えることもできる。


 ちなみに、骨や筋肉なども、負荷をかけて鍛えれば強化される性質がある。
 つまり、生活上で適度に運動することによっても、日常レベルまで鍛えられていると考えられる。
 そういう性質上、寝てばかりいると衰弱し、巻き爪になったりもし、日常動作もままならなくなったりする。が、これは、骨や筋肉の本質上、最低限の運動をしなかったことによる衰弱である。だとすると、日常生活上最低限の運動を続けることによって再度強化されて解決する。この場合は、病気とは言い難い。
 見かけは大人に見えても、運動機能が本来の成熟に達していない場合だってありえる、とも考えられる。

 もちろん、精神面も、本来の成熟に達していない場合もありえる。
 唆し強いるばかりの大人には理解してもらえず、保護養育下では嫌でも「嫌だ」とは言えず、言いなりになった。そんな小学生の頃の自分自身の本当の気持ちも、大人になった自分なら無二の理解者になれる。
 そんな、小学生の頃の自分自身の気持ちを、大人になった自分が理解してあげた場合は、小学生の頃の純真さを取り戻せる。

 もちろん、子育て上の重要なことを、知ることにもなる。
 自分自身が知らなかったことを憶えた学習や上達した学習に関することを理解できている場合は、何も知らず何もできない状態で誕生する子供を保護養育する際に極めで重要な知識になるわけだから。
 逆に、自分自身が知らなかったことを憶えた学習や上達した学習に関する基本的なことなのに未理解だと、自分の子供を虐待しているに相当するようなことをしていても、そうなんだということを理解できない場合もありえる。
 だからこそ、そういうことをしてしまう。
 経験上の中枢でもある精神面に関することを理解することは、そのくらい重要なことだということにもなる。

 むしろ、何も知らず何もできない状態で誕生した子供の子育てをする際は、子供が、次々に知らなかったことを憶え、相応の識別をするようになり、学習し上達することを目の当たりにする。
 それを基に、相応の知能が備わっていることや、学習の法則や理解自体に関することを理解することも可能だ。
 つまり、子育てをすることによって、精神的に成熟に達する場合だってありえる。


 そもそも、自分が知る以前から、進化が存在し、その末裔として現代の生物たちは生まれたことになる。
 もちろん、自分が知らないうちに自身は形成され、自分は見たことも無いが自身の内臓なども存在するし、自分は未理解でも生命生理は自律して機能している。
 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も備わっていて、経験でき、学習でき、上達もし、熟練して、五感では捉えることができない理由などを会話を介して理解できるようになる。つまり、相応の器官や機構や機能や能力や性質や条件や法則なども、知る以前から存在していて、生理面は自律して機能しているからこそである。

 学習力や思考力や理解力などは、日常的に発揮するようになるわけだから、経験済みでもある。
 でも、この事実関係や因果関係や理由や法則などを、単に未整理なばっかりに、未理解だったりする。
 未整理なことは、未理解な状態にある。整理できたことは、理解でき納得もできる。
 理解できたことは、相応の識別や自覚なども可能になり、相応の行動も可能になり、相応の結果にもなる。

 こんなことも未理解だった精神面の、未熟さに、気づき、理解し、自認したら、自覚できるほど精神面が若返った。
 そもそも学習力や思考力や理解力などを盛んに発揮するようになるのは、「なぜ?」「どうして?」などと根拠や理由を重視し始めた小学生の頃だったことも分かった。
 こういう点では、若返りと言うよりは、学習内容に相応する未熟で自然な精神状態に戻ったことになる。
 が、かなり若い頃の精神状態に戻れたことには変わりない。
 しかも、ここまで精神的に戻れたからこそ、ここからの本来の習熟を再開したり継続することも可能になった。
 一面とはいえ、未熟なことは、老化でもあろうはずもない。

 これを、異常扱いしたり病気扱いしたりアダルトチルドレンなどと言ったりもする。
 なので、適応し難くもなり、自認し難くもなり、苦悩もし、せっかく気づいた好機を台無しにしたりもする。
 よって、異常扱いしたり病気扱いしたりすることこそが、上辺だけ大人振っているに過ぎなかったり、偏見だったり、子供の心を歪める要因だったりするわけだから、その方こそが異常の類だ。


趣味の写真は、学習に関する理解を深めるためでもあった。
よって、未熟なことにトライしたわけだが……。

今年は、朝焼けや夕焼けには期待が薄れていった。
そんなわけで、雲海に期待するようになった。
ところが、雲海にはほとんどならない。
しかも、日が短くなり、野良仕事に追われるようになった。
が、今年一番の夕焼けになった。
でも、撮影ポイントまで行く時間が無い……。




20180925





20180929



 
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沢山の応援アクセス、ありがとうございます。

 

 沢山の応援アクセス、ありがとうございます。

 今年も、秋の農繁期になりました。
 年毎に、老化というものを実感させられる、そんな歳になったようです。

 農繁期のピークに向かうにつれて、こちらからの応援アクセスが滞りがちにもなりました。
 皆様からの応援アクセスも、ご無理無きよう、お願いします。

 月日が過ぎ去るのも、とても速く感じるようになりました。
 やがて、死を余儀なくされる……。
 それは、避けることはできない。変えることもできない。通常は、その時をすら選べない。
 その時も、あっというまに来るのでしょう。




 幸い、今夏は、最期に備えた心の準備がすでに進んでいたんだということが、意外な方面から明らかになった。
 そんな気はしてはいたのだが、たまたま多角的かつ総体的な整理を進めたことによって、想像や勘違いや思い込みに関することを更に詳しく知ったからでもあった。
 よって、勘違いや思い込みなどによる思いや考えの無理や矛盾が更に解消され、すでに準備が進んでいたことに気づけた。

 また、たまたま多角的かつ総体的な整理を進めたことによって、生後に知る以前に存在する面こそが絶妙にできていることが一層明らかになったことによって、それで裏付けられたからでもあった。
 生きていること自体(生命生理)は自律して機能している。
 人工的には創れない高度な知能もすでに備わっている。
 それらに関することは、つまり自分自身に関することは、唯一、直に経験し続けていて、相応の記憶も溜まってゆく。
 学習力や思考力や理解力は、日常的に磨かれている。と言っても過言ではない。
 よって、その記憶に溜まってゆく自分自身に関することを整理して考えるだけで、自分自身に関することは理解できるようになる。
 つまり、自分自身に関することは精通していても不思議ではない条件が整ってゆく。
 思春期頃には理解が可能な準備が整う。

 しかも、知る以前から既に存在している普遍的なことは、生後に知ることに対しては絶対的な存在であり、かつ優れていることを、単に理解するだけだ。その性質上、地位や名誉などとは無関係でもある。
 物体としては存在せず、対環境的な五感では捉えることができない、理由や法則などを思考上で整理して理解することでもある。そういう性質上、資金は要らない。むしろ、売り買いできるものでもない。
 理解する以前から存在するが、五感では捉えることができないことを、思考上で整理して理解することを以て救うようなことでもあり、それは冷静さが必須なことでもある。よって、競い争うこととはいわば逆で、苦行や荒行とも逆のことでもあり、学歴も資格も不要だ。
 既に存在していて人工的には変えようが無い絶対的なことや普遍的なことをただただ詳しく理解することだけに、寝転んででもできる。よって、誰かが作った礼儀や作法などを気にするだけでも出来なくなることでもある。
 むしろ、個人毎に唯一直に経験し続けることであり、成人にもなれば経験も記憶も十分にあり、その個人的な経験や記憶を整理して考えることによって理解できることだけに、何時でも何処でも可能なことであり、誰でも理解が可能なことでもある。


 ただし、そういうことに気づいたり、確かめたり、知ったり、具体的に理解したりする以前に、それゆえに、他のことに目を奪われ、勘違いし、真に受け、思い込み、心まで奪われてしまうこともある。
 となると、肝心な自分のことを未理解なんだということをすら見失い、気づき難くもなり、認め難くさえなったりする。

 等々。


 ちなみに、死は、誰も変えようが無い、つまり絶対的なことだけに、生前の勘違いや思い込みなどを絶対的に一掃してくれることでもありえる。

 ただし、本人の精神姿勢次第だ。
 つまり、肝心なことを未理解だったり、それゆえに的外れな勘違いし思い込んでいる場合は、相応の精神姿勢になれるまでに、最低限の勘違いや思い込みの払拭が必須になる。
 その後に可能になる、相応の事実確認や理解も必須だからだ。

 ところが、肝心なことを未理解な場合は、勘違いや思い込みとはどういうことかも未理解だったりする。未理解なことは、識別や自覚が容易ではないので、勘違いしやすく思い込みやすいだけに、そういう状態に陥っていることに気づき難くもある。
 でも、日常会話で思考力や理解力は発揮できている。
 よって、知らなかったことや勘違いや思い込みだったことに、気づいたり分かったりする。
 が、思考力や理解力は発揮できているだけに、気づけなかったことが、気まずかったりする。
 その知らないことや勘違いや思い込みの内容しだいでは、知られたくなかったりもし、隠し偽ったりもする。
 知らなかcったことや勘違いや思い込みなどに、せっかく気づいた。よって、知ることもでき、勘違いや思い込みの修正も可能尾になる。なのに、そういうことも知らなかったり、勘違いでもなく思い込みでもない本当はどうなのかという肝心なことは知らなかったり、特に自分の識別や思考や判断に関することを知らない場合は、異常ではないかと新たな勘違いをしたり、それゆえに苦悩したり、自殺したりさえする。
 言及されることを嫌い、指摘されると逆上する人だっている。
 つまり、事実も根拠も理由も伴わない口先だけや上辺だけを繕うことなら、即可能だ。植物や一般動物と違って、人は、尤もらしく見せかけもするし、本当らしく工作もするし、優れたことであるかのように祭り上げもする。が、それは生存上は重要なことではなく尊ぶべきことでもなく、むしろ騙し欺く類だけに悪循環に陥りもする。
 いずれも、肝心なことを把握し難くすることでもある。重要なことを未理解なうえに、その重要なことを解明し難くしているわけだから、重要なこととは逆行することでもある。

 しかも、最期に備えた心の準備が整っているか否かに関わらず、死は余儀なくされる。
 生理的には老化し衰弱して死に至るのだろうが、その際の精神面はまさに想像を絶する状態になることもありえる。
 そういうことに直面したがゆえに、自分はできなかったことだが、自殺する場合は、自分自身を無理矢理殺してしまうことにほかならない。つまり、準備ができていない。なのに、無理矢理だ。しかも、勘違いや思い込みゆえだったり、自分の精神管理や行動管理ができていないがゆえの恐怖だったり、それを強引に克服しようとする強行だったりする。そんなことを強行してしまう精神状態はいかがなものだろう……。
 殺人の被害者側は、無理矢理殺されてしまう。被害者側に問題が全く無かったとしても、その精神状態はいかがなものだろう……。
 そういうことをしなくても、通常でも、誰でも死を余儀なくされる。つまり、誰も避けることはできない。生後に習得したことを以ては、変えることもできない。その時をすら選べない。
 いずれにしても、その時に、どういう精神状態になれるか。それは、相応の精神状態になれるだけの根拠も理由もあり納得できた具体的な準備がどれだけできているか否かしだいだということになる。

 その準備が、その時になって実際に確かめるしかないのではないかと思うくらいまで、すでに進んでいた。
 いわば、意外なことにも気づける程度まで、今夏は進展した。

 でも、勘違いや思い込みの性質上、勘違いや思い込みにはなかなか気づけない。現に、いまだに勘違いや思い込みなどに気づくわkだから、無くなってもいない。ということでもある。
 しかも、邪心もある。野心だってある。でも、それによって見失うものの方こそが重要だ。つまり、それらは、重要なこととは逆のことであることが、すでに分かっている。だから、自制するしかない。

 今年の冬には、順次に文章化して、更に整理を進めないと……。


 秋の農繁期のピークに向かうにつれて、日も短くなったにもかかわらず、朝夕の写真も続けているわけだが……。
 今夏は、今一なのばかりだったからでもある。
 なので、写真も、まだ期待を捨てるわけにはいかない……。





 秋になって、兆候は好くなった。
 ただ、格好の空模様が、朝夕ではないことがほとんどだ。惜しい天候ばかりだ。
 今夕も期待できそうだが、明朝も、もしかしたら……。

 
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久しぶりの見事な夕焼け

 
 今夏は、予定は解除して、マイペースでやってきた。
 最後に備えた心の準備に関して、納得はできなくても、具体的な手掛かりを求めていたわけだが、それも一時解除した。

 最期に備えた心の準備も、総体的な整理が進むと、自ずから成立することであるかのような気がしていたからでもあった。

 死は、誰でも余儀なくされることである。つまり、誰も変えることができない、絶対的なことだ。
 よって、その時に相応の心の在り方も、法則的と言っても過言ではないほど明確なものが実は在るのに、自分が知らないだけなのではないかとさえ思っていた。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も、誰にも備わっていて、誰でも経験でき学習でき上達もし、日常的に常用する動作や会話などの基本的なことは主に記憶を参考に条件反射的な速さでできるようになるほど誰でも熟練する。
 その内容が、直に経験し続けている自分自身に関することであることが重要で、それ以外のことでは役に立たないことも分かっていた。

 そんなこともあって、今夏は、限られたことに囚われることから、離れることにした。

 よって、多方面から考察することが容易になった。
 お盆には、相応の手がかりも得た。
 実は、勘違いや思い込みや固定概念などが問題で、それを排除し、それが生じないようにするだけで、相応に心の整理ができる。
 更に、学習の法則に関することを理解するほど、本来の心が完成してゆく。
 理解したことは、随時自覚可能になり、よって自制も可能になる。
 いずれも経験済みだった。なのに、限られたことに囚われていて、多面的に考察しなかったばっかりに、総体的な捉え方も進展しなかった。なので、気づけなかっただけだった。

 成人なら、経験済みで、相応のことが記憶にも残っている。だが、人生観などのように、もともと多面的に考察して総体的に把握することによって明らかになるスケールの物事も存在する。
 もちろん、多面的に考察して総体的に整理してゆくことによって浮上するかのように明らかになることもある。

 要は、唯一、直に経験し続けている自分自身のことであり、相応の情報も自分自身の記憶に溜まっていることでもあり、思考力や理解力も備わっている、そんな自分自身のことに関して理解を深めてゆくことによって、いわば健康的な思考が可能になり、その基準も明確になり、相応のことも明らかになる。
 自分自身のこととはいえ、生存上の基礎的なことや基本的なことを理解することは、生後に習得したことを以ては変えようが無い絶対的なことや普遍的なことを理解することでもある。それは、野生動物や植物にも共通であり、そういう絶対的なことや普遍的なことを理解することにもなる。

 いうまでもないが、いわば自分自身を見詰めることである。
 それは、対他的なことですらなく、競うこととは反することであり、ましてや争うこととは逆のことでもある。


20180908 里の上空は雲に覆われていた。
が、衛星画像では日本海中ほどら北朝鮮上空まで晴れていた。

日の入り後5分ほど経って、やっと夕焼けが……。





更に3分ほどで、久しぶりに見事な夕焼けになった。





 自分が日常的に話しかけていると、猫は見詰めるようになる。
 つまり、猫は真剣に考えているのだ。

 猫は、言葉で意思疎通をすることは無い。

 なので、猫のほうが独自に、相手がなにをしようとしているのか・どうしたいのかなどを察知しようとし・それに対してどうすればいいのかなどを考えて、相応の反応もしているのだと考えられる。
 つまり、猫は、伝えることには疎い。
 が、独自に察することは行動上欠かせないことだけに、察することには長けているのだと考えられる。
 というより、独自に察することは、生存上でも重要なことだけに、野生動物ほど察することには長けている必要があるのだろう。

 いつも外でブラッシングをしてあげる。
 家の中にいても、戸を開けただけで、猫は駆け足で外に出るようになった。
 そして、いつもブラッシングをする場所の傍の柱で爪とぎをしなたら、早くやって欲しいと言わんばかりに待っている。


 人の場合は、言葉以外のものを駆使してでも伝える。
 仕向けもし、唆しもするし、強要もするし、命令もするし、強制もするし、脅迫もする。むしろ、自殺もするし、殺しもする。
 重要ではないことを、尤もらしく見せかけもするし、本当らしく工作もするし、優れたことであるかのように祭り上げもし、もちろん私利私欲を貪る。
 つまり、錯覚や勘違いや思い込みなどの精神面の弱点を悪用する。
 その性質ゆえに、エスカレートもする。
 マスメディアやコミュニケーション・ツールの開発や進歩は目覚ましい。
 視聴率も気にしないわけにはいかないのだろう。

 そういうものに、目を奪われ、真に受け、そうだと勘違いし、思い込み、固定概念まで記憶し、心まで奪われてしまい、それを基準に、行動し、自己満足し、優越感さえ抱き、有頂天にさえなる。
 つまり、錯覚や勘違いや思い込みなどの精神面の弱点を悪用されて翻弄される。
 そんな性質上でも、エスカレートする。

 直に経験し続けているはずの肝心な自分自身のことを、未理解なまま、理解しそびれ、見失ってしまっていることに気づけなくなる。
 他人から与えられたイメージを基に行動するようになっていることにも気づけず、実は翻弄されることを判断できなくなったりもする。

 しかも、有頂天になるほど、実態はそうなんだということは認め難くなる。

 そんなことも考えるだけで分かることなのだが、不都合なことは考えまいとする。
 むしろ、偽装さえする。
 いわば、悪魔の掟に従う。
 良くないと思いつつ強行したり、悪いことだと思いながら強行してしまったり、結果を想定できるのにやってしまったりし、いわゆる「魔が差す」と言われる。その魔こそが「悪魔」だとすればだが、悪魔の掟ともいえる否認や隠し偽らざるをえない悪循環に陥る。

 記憶や考えに関する内面的なことなので、改善することは、本人にしかできない。

 知能が備わっていることによって、経験でき学習でき上達もし熟練して、五感では捉えることができない意味や理由なども言葉を介して理解できるようになる。
 そんな基本的な能力は誰にでもあることは、日常的基本動作や日常会話ができるようになることによって実証される。

 だが、学習する性質上、その内容は、限られるし、個人的な好みや価値観に左右されるだけに偏りさえする。
 詳しく憶えたことしか的確な識別や判断はできない。練習に相応しただけしか上達できない。
 そんな、弱点とも欠陥とも言える面がある。つまり、そうであることをすら知らなかったりさえする。
 また、錯覚や勘違いや思い込みや固定概念が形成され、それに基づいた行動までしてしまう。
 そんな、弱点とも欠陥とも言える面もある。もちろん、そういう経験済みのことを未理解なほど自覚できないし改善できない。

 本質的とも言える、弱点とも欠陥とも言える面を、未理解だからこそ有頂天になる。
 有頂天になるほど、弱点とも欠陥とも言える面を認め難くなる。認め難いことは、理解できない。理解できないことは、改善できない。

 いわば悪魔の掟も、勘違いや思い込みや固定概念などの類に過ぎないわけだから、実は気持ちしだいで簡単に反故にできる。
 単に反故にするだけで、改善しはじめる。
 だが、勘違いや思い込みや固定概念に固執し、それを基準に判断すると、不都合なことは認め難く、反故にすることも容易ではない。

 
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お盆・迎え火・送り火

 
 日の出や朝焼けの撮影は、億劫になった。
 が、里が朝霧に包まれると、山頂からは雲海が見れる。そんなときには、出向く。
 そのぶん、夕日や夕焼けは好さそうなだけでも出向いている。
 そんなこともあって、今一ばかりだが……。






 山で夕日&夕焼けの撮影をした後、当集落まで帰る頃にはかなり暗くなる。
 そして、集落を貫いている通りを半分以上は通るのだが……。
 お盆になり、迎え火が目を引いた。
 翌々夕も、その翌夕も通ったが、迎え火を焚いている家は限られていて、通りに面した家々の三分の一位だ。
 集落内には由緒ある古い寺がある。参道とも言える通りに面した家々は、古い家系ばかりだ。が、日中に見ても、迎え火を焚いた痕跡が無い家が多い。
 いつのまにか、こんなに少なくなっていたのだ。

 思えば、迎え火には子供たちの花火が付きものだった……。なのに、子供を見かけなかった。
 世帯数百五十以下の集落なのに、途中だけでも空き家が二軒ある。
 近年、家を解体して空き地になった屋敷だけでも三カ所になった。


 父が他界して、自分も迎え火を焚くようになったわけだが、自分も迎え火を焚くのは消極的だった。


 迎え火とは、お盆に戻ってくる先祖の霊が迷わないように、目印として七月または八月十三日の夕方に焚くのだと聞いていた。
 お盆中に一緒に過ごした先祖の霊を送り出すべく八月十六日の夕方に焚くのを送り火と言うようだが……。
 当地では、二十日まで毎夕焚き、二十日盆は集落ぐるみで賑わす。


 でも、父と、こんな話をしたことがあった。

 生きているうちでさえ自分でどうももできないからこそ、死ぬ。
 死ねば、腐敗が始まる。だから、二十四時間後には焼かれる。そして、葬られる。
 つまり、死ねば、なされるままで、なす術が無いことを如実に物語っている。
 仮に、死んでからも何かができるくらいなら、簡単には死なないはずだし、むしろ生きているうちに相応の証がでるはずだ。
 霊として帰ってこれるんだったら、生きている人が必要とする灯りや火などは要らないはずだし、お盆に限って帰る必要も無い。
 葬式なんだから、派手にやるほど馬鹿げている。むしろ、質素な方がいい。

 根拠や理由があるのに、自分が知らないだけなのなら別だ。
 が、根拠や理由が無いのなら、尤もらしく見せかけているに過ぎず、だからこそ派手にもなる。
 しかも、お金を出して業者にやらせる。
 となると、言い訳や偽装や欺瞞的なことでしかない。
 近年は、僧侶までが「お布施が足りない」と言ったという話を二件も耳にしている。
 宗教によって、やることが違う。他の宗教ではやることを、違う宗教ではやらないわけだが、だからといってどうにかなるわけでもない。むしろ、それをやったからといって、どうにかなるわけでもない。
 言い訳や偽装や欺瞞的なことなら、亡くなった人に失礼であり、無理や矛盾さえあり、むしろ慎みたい。

 夕日や夕焼けの写真を撮りに行っていた日は、こんなことも考え、自分も迎え火は十三日と翌日しか焚かなかった。


 そんなことより、先祖が例外なく他界したということは、生きている自分たちも、やがて逝かなければならないことは間違いないことを物語っている。
 しかも、家族やペットが死んでも落胆する。
 まして、自分が死ぬとなるとそれ以上の苦悩を余儀なくされることも間違いない。
 死ぬことよりも、そういう結果に通じると思うだけで、恐怖を感じ、パニックにもなり、免れようと必死にもなる。

 そもそも、人には、知能も備わっていて、経験でき学習でき上達もし、動作や会話などの日常的に常用される基本的なことは熟練する。
 よって、会話を介して、目には見えないことでも理解し合えるようにもなる。だからこそ、理解したことを基にした行動も可能になり、約束を守ったり、目的地に到達したり、目標を達成したりすることなどもできる。
 もちろん、詳しく知っていることや具体的に理解できていることほど、具体的な根拠や理由を基に認否や可否や是非などの判断もでき、相応の結果予想もできる。
 よって、悪しき結果になることは避けることができ、着実に好結果にすることもできる。

 そうであるがゆえに、知らなければ、困り、迷いもする。
 知らないことの内容しだいでは、当惑もし、パニックにもなる。
 傷病時も例外ではなく、死に関しても例外ではない。

 むしろ、死に関することこそが、理解の必要性や理解内容の重要性を象徴していると言っても過言ではない。


 死にたくないから、生きることに固執しているだけだったりする。自分が逝く際の心の準備を疎かにし、根拠も理由も無い想像や的外れな勘違いや思い込みに囚われて生きても、逝く際に少なくとも迷う。
 死ねば腐敗が始まったりすることもあって、死を忌み嫌ったりさえする。それも、自分の最期の心の準備からは遠退くことになる。忌み嫌っているのなら、お迎えも来ないだろう。
 それでも、例外は無く、いつかは逝くことを余儀なくされる。
 迷っているような生き方をしていたのなら、最期に苦悩を余儀なくされることは間違いない。
 勘違いや思い込みでさえ、そうであることに気づけないと、パニックにもなり、苦悩もする。その苦悩に耐え切れず、強引に自分を殺してしまうことさえある。
 つまり、理解や準備を疎かにして、言い訳や偽装や欺瞞で片づけるとなると、非道でしかない。
 私利私欲や競い争い優越感や地位や名誉などに囚われていても、やがて死を余儀なくされる。いよいよ逝く際に、後悔するようなことにばかり囚われて生きていたことに気づいても、心の準備は間に合わないので、相応の苦悩を余儀なくされる。
 考えの内容しだいや行動しだいでは、人権や人格を理解し合うことすら無いまま、獣同様に鉄格子のある部屋に拘束されることもあり、死刑もある。
 そんなことも、生存中に、垣間見ることもでき、少なからず経験もするので、理解も可能だ。

 しかも、知能も備わっていて、数十年も生きて、自分もやがて他界入りすることは間違いない。それは、自分では変えることができないことなんだから。
 その際の心の準備を、それまでに行ったか否か、それに最期の心理が左右されることは間違いない。
 むしろ、相応の生き方をしたか否かを問われるようなものだ。


 自分は、まだ相応のものを探し求めるしかない状態であることが明らかになった程度だが……。
 生きているうちに理解でき納得でき、死に対する苦悩や不安が不要になる。そんな内容であるべきなのだろうとも考えられる。
 そんな内容なら、遺族も理解でき納得でき哀しみも不要になり、相応の生き方も可能になるわけだから。
 人ほどの理解力は無いペットにも、人の側で相応の最期を確保してあげられることになる。

 そもそも、こういうことは、五感では捉えることができないことであり、思考上で理解することなので、お金では買えない。
 むしろ、五感では捉えることができないが、既に存在する法則的なことなので、思考上で理解するだけだ。なので、誰でも可能だ。

 そうではない、むしろ偽装や欺瞞だから、お金で片づけもし、それゆえに派手にもなるわけだから。
 そんな偽装や欺瞞に惑わされがちだからこそ、五感では捉えることができないことを理解することに集中できない。
 そんな偽装や欺瞞は、慎めるほど、こういうことが見えてくる。






 
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十分には考えてみなかった……

 
 自分の人生上でメインとして捉え臨んできたことを、忘れかけていたほど、今春から行動的なことをしがちだった。
 その理由が気になった。
 そんなに大事なことが他にもあるのか……。


 幾度か考えてはみたが、決定的な理由は思い当たらなかった。

 が、見ようとしないことは、見えない。
 聞こうとしないことは、聞き取れない。
 確かめないことは、具体的なことは知らない。
 考えないことは、理解できない。
 習得しようとしないことは、習得できない。

 日常でも、知ろうとし、確かめ、事実関係や因果関係などを整理して考え、事実と一致するか否かや理に適っているか否かなども判断し、情報不足だったり無理や矛盾がある場合は納得できないし、情報が十分で理に適っている場合は理解でき納得することもでき、相応に具体的な可否や是非の判断も可能になる。
 よって、相応の行動もでき、相応の結果になる。

 単に見えている
 見えているのが文字であることを意識できている
 何と書いてあるのかを読もうとしている
 その書いてあることが定かか否かを確認している
 書いてあることに疑問を感じている
 書いてあることを具体的に理解できた
 理解できていることに基づいた相応の行動をしている
 相応の結果が出ている
 これらには相応の相違がある。

 単に聞こえている
 聞こえているのが人の言葉であることを意識できている
 その人が何と言っているのかを聞き取ろうとしている(その人が言っていることを解析している)
 その言っていることが事実か否かや理に適っているかなどを確認している
 その言っていることに疑問を感じている
 言っていることを具体的に理解できている
 理解できていることに基づいた相応の行動をしている
 相応の結果が出ている
 つまり、そうしようとした場合は、相応に進展するし、相応の結果にもなる。

 もちろん、そうしようとしない場合は、そういう進展は無い。

 つまり、思い当たるまで考えなかった。だから、思い当たらなかっただけだ。そうだったとも捉えることができる。
 そのくらい、行動的なことを優先していたからからでもあった。
 要は、その理由だ……。


 環境上の事実に限らず、自分の内面的なことである記憶に残っていることや想起や想像や気持ちや考えなどにも、感情や心理は左右される。
 よって、行動が左右され、相応の結果になる……。

 今年も、朝焼けや日の出や日の入りや夕焼けなどの撮影をする季節にもなり、情報収集もし、夏至の頃には好天になることに期待した。
 気象現象は、自分の思い通りになることではない。
 望ましい気象状態になるか否かは、知識が無かった頃ほど想像するしかなかった。今でも気象情報には疎く、想像を頼るしかない場合が多いだけに、的外れが多い。

 実際の結果は、その時になるまで分からない。
 今年も、可能性に期待して出向いても、五割以上は残念な結果だ。そのくらい、自分の知識や考えが、未熟で間違いが多い。
 でも、自然現象なので、それなりに素晴らしかったりする。
 もちろん、望んでいるような気象現象になることは稀だ。
 今年も、よほどでない限り撮影ポイントへ出向いた。
 相応に気を取られていたことは確かだ。

 最近は、望む気象現象になるか否かの、気象現象に関する知識や考えや判断の確率が向上していることを実感している。
 とは言っても、今日は期待できないという判断と、今日は期待できるという両極端の判断の的中率が高くなった。
 ガソリンの無駄遣いが減少した。そこそこのものばかりだが、画像がハードディスク内に溜まった。


 というより、撮影中は、意外なほど冷静になれる。

 撮影現場は、いわば大自然の中であり、しかも自分独りだけの状態になるからでもあるが……。
 朝夕は、現場で一通り設定すると、画像の使用目的上、インターバルタイマーで(設定時間間隔で自動で)撮影し続ける。
 手が空いた自分は、大自然と向き合う。

 自分の知識や考えなどには、大自然は一切左右されることが無い。
 勘違いや思い込みは、大自然には通用しない。
 大自然の方が言葉で指摘してくれることも無いし説明してくれることも無い。
 自分が臨んでいる大自然に関することは、自分の方が必要に応じたことを理解するしかない。
 ただ、大自然は歴然としている。隠し偽ることも無い。隠蔽することも無いし、偽造や捏造することも無い。
 そんな大自然に臨むからなのか、意外なほど冷静になれる。
 ただ、大自然は、容易には理解できない。
 自分の方に勘違いや思い込みがあるからだったりする。
 その解明もしようと思うと、更に冷静にならざるをえない。


 もちろん、大自然は、「お前は、勘違いしている、間違っている」などと言葉にして言うことも無い。
 大自然は、「おお、よく来てくれた」などと御世辞も言わないし煽てることも無い。
 つまり、この自分に、勘違いさせるようなことはしないし、思い込ませるようなこともしないし、そういうことを助長することも無い。
 それも魅力だ。そう思うのは、自分は褒め殺されがちだからなのだろう。

 そもそも、知能も備わっている。経験でき、学習でき、上達もし、動作や会話などの基本的なことは熟練する。
 が、容易には確かめられないこともあり、知り得ることは限られ、もちろん偏りもする。しかも、錯覚もあり勘違いや思い込みもあり固定概念さえ形成される。
 だからこそ人は、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、競い争って優れたことであるかのように祭り上げる。もちろん、私利私欲を貪るためだ。
 地位だの名誉だのを欲すると、そのためには媚び諂いもする。
 宗教なのに、そういうことをしているとしか思えなかったりする。
 そういう性質上、揉め事になる。

 そういうことは、大自然には必要ないわけだし望んでいないし通用しないわけだから。


 むしろ、人も、大自然の一部だ。
 進化など、人が誕生後に知る以前から存在していることは、むしろ個人的な生存上は絶対的なことだ。
 生存上絶対的なことは、誕生や死が物語っていて歴然としている。
 自身の内臓は見たことすら無く、自身の生命生理に関しては未理解なのに、自身の生命生理は自律して機能しているわけだから、一般的には理解できないほど絶妙な秩序に基づいて自律していることになる。
 自律して機能していることや法則などは、普遍的な存在であり、誰にとっても共通であり、それらが優れていることや尊いことは誰でも直に経験していることになり歴然としている。

 残念ながら、知り得ることは限られ偏りもし、勘違いや思い込みや固定概念さえ形成されるし、精神面には弱点もあり欠陥さえあるだけに、そうであることをすら未理解だったりする。
 かつての自分は、知能が平常どおりに機能しているのに、そうであることをすら自覚できなかった。
 経験上、知能の構成器官に異常があれば直ちに気づくようになる。が、そうであることをすら自分は未理解だった。
「想像」や「勘違い」や「思い込み」は、自分の識別や思考の一環なのに、どのことを指すのかすら知らなかった。想像や勘違いや思い込みなどの特徴も欠陥も、未理解だった。もちろん、自分が想像しているに過ぎないことも自覚できず、自分が勘違いしていることも思い込んでいることも自覚できなかった。
 それでも、生きていられたのは、生命生理は自律して機能していたからに他ならなかった。
 よって、生命生理が自律して機能していることに気づいた。
 知能の構成器官も意識や思考力や判断力も平常どおりに機能していることにも気づいた。

 生後に知り得ることに対しては絶対的な存在であり、誰もが直に経験し続けることでもあり、もともと存在することを捉えるだけなのだが、因果関係や理由や法則などは物体として存在するわけではないので、もともと五感では捉えることができない。
 が、思考上で記憶を参考にして整理することは可能であり、よって理解することもできる。
 そんなことをより具体的に理解しようと思えば、冷静になることは必須だ。
 冷静になるには、独りがいい。
 しかも、普遍的な大自然に臨むのがいい。






 山を信仰する人たちもいる。
 その理由も分かるような気がしてきた。


 反面、人は、原爆を作り、制御できない原子力を使おうとし、膨大なごみを捨て、大気汚染が進んでも排気ガスを出し続け、子供を生むに値しない環境と化しつつある。
 さまざまな種族を絶滅をさせた人類は、自ら少子化を選択しはじめている。
 しかも、人口自体が減少傾向にある。田舎でも、空き家が増える一方だ。
 つまり、人は、住むに値しない環境になりつつあると判断しはじめているのだろう。

 自分にも勘違いや思い込みや邪心まである。
 だから、大自然に臨むと畏怖を感じるのだろう。







 絶対的な存在で普遍的で優れていて尊いものを理解しようと思うと、己の邪念は捨てなければならない。

 人が、尤もらしく見せかけたことや、本当らしく工作したことや、地位だの名誉だのと優れたことであるかのように祭り上げ、そういうことを以て私利私欲を貪ることに、背を向けてこそ、絶対的に優れたことや普遍的に尊いことを捉えることが可能になる。

 かつては、自分が気づく以前から、いろんなことが歴然としていることをさえ、自分は未理解だった。
 未理解だったどころか、人工的に尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げたに過ぎないことを、優れたことだと勘違いし思い込んでいた。
 自分が勘違いし思い込んでいることをすら把握できなかった。
 だからこそ、その勘違いや思い込みゆえの無理や矛盾に苦悩し困窮した。
 でも、そだったからこそ、その無理や矛盾や勘違いや思い込みを解明でき、更に事実関係を具体的に理解できた。
 よって、もともと歴然としている絶対的なことや普遍的なことに関して理解を深め、それを自分の人生上のメインにするようになった。


 朝焼けや日の出や日の入りや夕焼けなども、少なくとも人工的なものではない。
 その撮影も、自分にとっては普遍的なことに臨んでいるようなものなのだ。
 撮影中、大自然に臨みながら、内心ではメインに関する新たな気づきや展開を期待する。


 自分は、わざわざお迎えが来るには値しない。

 むしろ、生命生理は自律して機能していて、知能も備わっている。
 そうであるがゆえに、知らなければ迷いもするし困りさえする。
 知能も備わっていて、知らなかったことを憶えることもでき、憶えたことを参考に相応の識別や思考や予想も可能になり、それを基に相応の振る舞いが可能になるからこそ、より具体的で詳しいことも理解でき、相応の達成や到達などの成果もになる。
 その、知能の構成要素や各性質や特徴、それゆえの学習の法則、熟練するまでの基本までは、ほぼ理解できた。

 しかも、生きていることがどういうことは誰でも直に経験し続け、相応の情報も記憶に溜まってゆく。

 つまり、他界に通じるルートなり他界への扉に類することも、自分で見出さないと最期に自分が困る。
 家族が死んでも、ペットが死んでも、つまり自分の死以外ででさえ落胆し悲嘆するわけだから。
 なのに、その解決策を見出そうとはせず、根拠や理由も無い偽装的な葬儀を行い、それゆえに見た目だけを尤もらしく見せかけ、そんなことを競ったりさえする。

 というわけで、いわば、他界への扉とも言えるような具体的なものは発見できなくても、他界に通じるルートとも言えるようなことに思いを馳せ、相応の気づきや発見に期待したりする。


 以前は、経験上、魂が身体から離れる幽体離脱的なことに関心があった。
 が、根拠や理由が乏しく、錯覚や勘違いの類である確率が高い。
 近年は、むしろ逆だ。
 現に、生命生理が高度な秩序に基づいて自律して機能している。
 知能もすでに備わっていて、学習でき、上達でき、会話を介して記憶にあることを整理して理解できるほど熟練し、その基本的な面は誰でも共通だ。
 ただし、かつての自分は、そうであることを未理解だった。つまり、基本的には共通だが、共通であることをすら理解するとは限らない。学習や上達や熟練の性質上でも、学習内容や上達する内容や熟練する内容は、個人的にも変化するものであり、個人毎には異なる。
 自分の場合は、肝心な自分の精神面に関して未理解だったがゆえに、苦悩を余儀なくされ困窮した。
 が、考えるだけで解明でき解決できることだった。
 しかも、より確かなことをより具体的に理解するほど、より的確な判断や対応や結果予想などが可能になるだけに、精神は安定する。
 もちろん、経験上、すでに備わっている知能に関することや、その機能や能力とも言える自分の精神面に関することを理解しただけ精神面は安定した。
 つまり、理解した内容が、少なくとも既に存在している物事で人工的には創れないどころか理解すら容易ではない絶対的な存在に関することや普遍的なことだと、精神は安定する。
 よって、知能内に理解を深めた内容や完成度しだいでは、相応の機能は始めることもあるのではないか……などと思う。


 実際には撮影をしているのだが、大自然を目に前にして冷静になれた内心ではそんなことに思いを馳せているわけだから、むしろ、その精神環境作りのために撮影をしているようなものかもしれない。
 そんな内面的なことに気を取られて、むしろ撮影が疎かになったこともあったわけだから。

 ただ、気づきや進展だけに、早々にあるわけではない。
 だからこそ、そんな撮影に出向く。


 行動的なことを行うと、こうして座って文章化しながら整理することからは当然に離れてしまう。
 が、自分が目指してきたことに適ったことをしていたわけであり、外れたことをしていたわけじゃない。
 そもそも、行動的なことの情報量に比べると、その記憶を整理して言葉で書き表せることは限られる。こうして文章化しても、上辺を繕っているようなことにしかならない……。


 

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期待と畏怖

 
 写真を撮っているのに……。
 目には見えないのだが、確かに存在し、しかも大事なことに、自分がまだ気づいていないような気がしている。
 かつて、自分が理解しそびれていた大事なことに、気づき、理解したことによって、あたかも見えているかのようになった。そんな、自分が未知なことに、心が勝手に期待している。

 自分にとって大事なことだと分かったことは、それ以前は自分が未知だったことばかりだった。
 しかも、誰もが直に経験し続けていることであり、知能も備わっていて思考力も理解力も発揮しているにもかかわらず、未理解だった。
 自分は知らなかったんだということに、気づき、確かめ、思考上で整理したことによって特徴や因果関係や理由や法則などの目には見えないことを理解できた。
 目には見えないことを理解できたことによって、目には見えないことなのだが存在しているし大事なことだったんだということも分かった。
 それゆえか、写真を撮っているのに、心は、何かに期待している。
 自分にとって未知な世界を心が勝手に徘徊している……。

 思えば、いつも畏怖が伴っている。
 目には見えないことに臨んでいるから、当然なのだろうか……。
 それとも、とんでもない思い込みや勘違いに、気づきく前兆なのだろうか……。
 そうだとしても、受け入れる。その解明や解決にも臨む。
 根拠も理由も無い勘違いや思い込みや固定概念の無理や矛盾を解明する都度、それまでは欠けていた根拠や理由や大事なことであることをも理解でききたんだから。

 が、本来の予定上では、言い訳にしかならない。













 
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マイペースで行くことにするか……

 
 大事なことを、まだ未整理だったどころか、未整理であることを忘れかけていた。
 そうだったことに、気づいた。
 なのに、一向に始める気にならない。

 生きていることは、本来はどういうことなのか。
 自分は、本来はどういう存在なのか。

 これらは、現代人が誕生する以前に形成されたことであり、現代人には変えようが無い過去に形成されたことである。
 それゆえに誕生するわけであり、生存上絶対的なことでもある。
 唯一、直に経験し続けることであり、思考力や理解力があれば理解できることでもある。
 生存上は絶対的なことであり、植物や野生動物にも共通する普遍的なことでもあり、事実や事実関係や理由などを整理して理解すれば、生存に関する可否や是非などの判断をする際にも絶対的かつ普遍的な根拠や理由になる。

 むしろ、経験や学習や理解の性質上、経験や学習や理解の内容は、限られ、個人的にも変化し、個人毎に異なり、よって偏りもする。

 そもそも、進化に関する具体的なことは簡単には理解できないし、自身が形成されたことに関する具体的なことも知らない。
 自身の内臓なのに、見たことすら無い。
 自身の生命生理なのに、いまだに具体的なことは未理解だ。

 しかも、怪我をしても、血は止まり、やがて治癒する。
 不適切な飲食をした際などには、嘔吐や下痢をする。
 つまり、簡単には死なない機構まで備わっていて自律して機能していることは、経験済みだ。
 なのに、そうであることをすら、かつては未理解だった。

 それどころか、想像や勘違いや思い込みや固定概念もあり、思いや考えや判断などには無理や矛盾さえ伴い、そうであることも十分に経験していた。
 なのに、自分の思いや考えに関することである想像や勘違いや思い込みや固定概念の性質も欠陥などの具体的なことも、かつては未理解だった。

 自分の思いや考えに関することを未理解だったからこそ、自分の思いや考えや判断などの無理や矛盾を把握できず解決できなかったがゆえに苦悩し困窮した。
 が、自分の思いや考えや判断などの無理や矛盾だっただけに、事実関係などを整理して考えただけで解明でき解決できた。
 つまり、考えて整理するだけで理解できることだったのに、そうであることをすら未理解だったのは、自分の思いや考えに関することを考えなかったからだった。

 そんな経緯上、「じゃあ本来はどうなのか」ということで理解を深めてきたことだった……。
 自分が望んだわけでもなく、解明や解決を余儀なくされたことだっただけに、自分の人生に課された天命だとさえ思ったことだった……。
 経緯上でも、この総体的な整理と理解こそが大願だったと言っても過言ではない……。

 なのに、一向に始める気にならない。


 なぜだ?

 総体的なことであり、老化もしているので、億劫なのか……。
 総体的なことであり、そういう点では未整理だが、部分的には他の各記事に書き出し済みだ。それを、総体的に整理するだけなので、油断しているのか……。
 この相対的な整理を行うことは、かつてはいかに無知で愚かだったかを、自ら具体的に明らかにするようなものでもある。それゆえに、回避しがちなのか……。
 でも、それでは、経緯上、逆の結末になる。長年かけて理解したことである本来の優れた面を見なかったことにすることになるわけであり、まさに無知と愚かさを優先させることになる。
 が、それらは、この大事なことを忘れかけていた理由でもあったのだろうか……。


 今春からは、行動的かつ実践的なことをしがちだ。
 しかも、新たな展開に期待さえしている。
 欲張り過ぎるのか……。


 こんなときは、こうして文章化して気持ちの整理をしてみるが、これにさえ真摯に臨めない。
 結局、言い訳のような結果にしかならない……。


 いずれにしても、超冷静になることこそが必要だ。
 もちろん、焦るようなことではない。
 これは間違いない。

 生存上は絶対的なことや普遍的なことであり、そうであるにもかかわらず理解しそびれていた自分の問題でもある。
 誰もが直に経験し続けていることでもあり、これを基に理解する必要があることであり、極めて個人的なことでもある。
 でも、生存上は絶対的なことであり、普遍的なことであり、多くの生物にさえ共通することでもある。
 もちろん、絶対的なことや普遍的なことは、隠し偽ることも無いし、逃げ隠れもしない。

 マイペースで行くとするか……。
 思いや考えの無理や矛盾は、具体的に解明し解決済みなんだから。
 本来はどうなのかも、総体的には未整理だが、部分的には他の各記事に書き出し済みでもある。

 進化は、一世代では成立しない。
 図や象形文字で始まった文字の発達にしても、言葉の発達にしても、幾世代も経て形成されたものだ。
 文明文化も、多くの世代が受け継いで進展させ進歩させたものだ。

 が、思考力や理解力や納得を尊重せず、差別し脅かし制裁し唆し煽て褒賞して、想像させ勘違いさせ思い込ませ誤った方に進んでいるとしても、それでさえ世代を超えて成り立っている。
 焦ると、急ぎ、無理をすると、そういう方に向かいかねない。

 むしろ、冷静になり、誰でも直に経験していて相応の情報が記憶に溜まっていることを、整理して理解するだけなんだから。
 しかも、捉え方によっては、すでに余裕がある。

 今夏は、視野の狭くするとも言える予定は無しにして、視野をより広くするためにも、しばらくは随意に行こう。
 望んだわけでもなく、余儀なくされたとはいえ、自分の思いや考えの無理や矛盾も解明でき解決できたわけだし。
 そもそも自分の意思が形成される以前に、生まれたんだから。

 それにしても、こんなに大事なことを二の次にするほどのことって、なんなのだ……。
 単なる老化なんだろうか……。
 
 
 







 

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怒鳴ってもみるもんだね

 
 いい加減過ぎる母を、先日、怒鳴った。
 
 
 その後、母の態度が変わっていた。

 聞き返さなくなった。
 以前は、聞こえなかったかのように聞き返すのが癖になったのだと思っていたが、それを母は止めた。
 たまには、本気で怒鳴ってもみるもんだね。

 話す俺を見るようになり、俺の話に聞き入るようにもなった。
 以前は、母は自分から話しかけたにもかかわらず、俺の返事を待たずに、どうせ駄目だろうと言わんばかりに、こっちを見もせずにボソボソ独り言をつぶやくのも癖になったのだと思っていたが、それも止めるようになった。
 とはいえ、怒鳴らなくても、分かるようになってほしいものだ。

 本来、人は、目には見えない気持ちや考えなども言葉で説明することができ、それを理解することもできるわけだから。
 これを尊びたい。

 見た目を繕うだけだったり目には見えない気持ちや考えなどを隠し偽るようなことは、上達したり熟練するほど、理解し合えなくなるわけだから。


 母は、老化と共に難聴になったことも事実なんだろう。
 が、かなり小さい音にでも反応する。なので、聞こえないわけではないことは分かっていた。
 母が真剣に聞き返した(大事なことなど)場合は、あえて俺は小声で応えるが、それでも聞き取れる。
 つまり、聞き取ろうとした場合は、聞き取れる。

 ところが、日頃のいい加減さゆえの後ろめたいことや自分勝手なことや重要ではないことなどの場合は、俺の返事を待つことすら無く、どうせ駄目だろうと言わんばかりに、こっちを見もせずにボソボソ独り言をつぶやいたり何かをやりはじめたりする。
 よって、俺が話す内容を聞き取ろうとか理解しようとしていないのであって、聞こえないわけではない。
 だから、さまざまな問題にもつながる。


 音自体が聞こえないことと、相手が話す内容を聞き取れない(理解できない)こととは違う。
 声が聞こえてきただけで、その声の主が知人だと分かったりする。
 また、待合室などのざわめきの中でも、ある人が話している内容を聞き取ろう(理解しよう)とすることもできる。そうした場合は、話している内容を聞き取る(理解する)こともできる。
 反面、内容は聞き取ろう(理解しよう)としない他の多くの人が話しは意味不明だし雑音でしかない。
 むしろ、多くの人の話を同時に聞き取ることは困難だ。

 文章を読む場合も、同様だ。
 内容を読み取ろう(理解しよう)した範囲の内容は読み取れる(理解できる)。
 が、そうしない部分の内容は不明だ。
 ただし、速読術などを習得している場合は別だ。

 見ただけで分かることも、見ないだけで分からない。

 考えるだけで分かることも、考えないと分からないわけだから。


 ちなみに、人は、口の動きを見るだけでも、その人が話している内容を読み取れる読唇術とやらを習得している人もいると聞く。

 カラスも、さまざまな鳴き方をする。
 その鳴き方の違いから、個別に意味をがある言葉として捉えようとしている人もいると聞く。

 猫も、さまざまな鳴き方をする。
 人が使うような具体的な言葉ではないが、感情や気持ちを表していたり、感情や気持ちを分かってもらおうとしていたり、感情や気持ちを伝えようとしていると思えることさえある。
 寄りかかったり、尻尾を立てたり、喉をゴロゴロさせたりもする。つまり、具体的な言葉は話せないが、気持ちや考えに基づいた態度や振る舞いをする。
 そういうことを基に、猫たちは感情や気持ちを察し合っているからこそ、仲良くできる相手か、そうではない相手かを識別し、相応の振る舞いもしているのだと考えられる。

 そんな感情や気持ちをも、猫たちのように察したり、読み取れるようになったりたいものだ。

 
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 沢山の応援アクセス、ありがとうございます。




 極めて個人的なことですが……。
 カテゴリー「自分の心を理解する:事例」は、次回の投稿記事を以て終了します。
 次回の投稿記事中の経験を以て、当時、学習の基本的なことを理解できたからです。
 もちろん、見て確かめるよりも先に条件反射的な動作をしてしまう理由も、ついに分かった。
 よって、依存症的な喫煙の理由の解明も可能になり、禁煙・断煙・絶煙などの解決も容易になったわけですから。

 そんなわけで、四月以降用の新展開を思案中です。
 季節柄、新たな芽を出したい。
 できるものなら、脱皮するごとくありたい。
 肉体的な老化に対しては為す術が無いが、精神的には未だに未熟なだけに学習も成長も可能だ。
 年々、否応なく超個人的なことに臨まざるをえなくなるわけだから、今のうちに……。

 太古からの世代交代や種の存続や進化を、未来に継続させたからこそ、その子孫が祖先や先祖と言う。
 人並みのことをしなかった自分は、祖先や先祖に背いたわけだから、せめて冥途への土産も一つくらいは用意したい。
 自分を、先祖や祖先と言う子孫もいないわけだが……。
 創作もやってみたい。
 などと検討し、試みも開始中です。

 よって、ブログからも、もう少しの間ですが離れます。

 もちろん、年寄りの冷や水かもしれません……。

 また、先日から、当地では雪解けも始まりました。
 一進一退を繰り返す雪解けですが、雪に埋もれていたかのような冬から、あと一カ月ほどで解放されます。
 この季節感、春への期待、どこの家でも雪解けを促進させるべく雪を崩し、他のことは手につかなくなりがちです。
 自分は、雪で行動を妨げられる冬場を有効活用してきたわけですが、眼精疲労や老化に対しては為す術がないだけに、雪解けや春への期待が以前より明らかに増しています。

 
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また小休止


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 今回も、予定外です。

 予定通りにいかないことや、思い通りにいかないことが、着実に増えてゆく。
 そんな歳なんでしょう……。





 2月5日、午後。
 スーパーに行ったのだが、隣がドラッグストアなので、「目薬も買っていこう」と思い、寄った。
「見えずらくなり、目がショボショボします。冬なので湿度が36%まで下がったりするのに、石油温風ヒーターを使っているので、かなり乾燥気味な部屋で生活しています」
 頷きながら聞いていた、そのコーナーの担当らしき店員が、
「こちらは、いかがでしょうか」
 と言って、棚の上に並んでいるある商品を勧めた。
「じゃそれをください」
 と言って、レジの前に立った。
「え? 1400円台?」
「そう…です…」
「600円前後の目薬しか買ったことがないんだけど……」
「……」
 と言ったが、今年になって、電動シェーバーを買ったことが思い浮かんだ。しかも、自分の勘違いや思い込みを覆すことができたのだった。
「ま、いいか」
「はい……」
「『これは高いから効くぞ』と自分に言い聞かせて、そう思い込んで使ってみる」
 店員には、そう冗談を言って、会計を済ませた。


 これまで、電動シェーバーは幾度か買ったが、いずれも使用後に皮膚がヒリヒリするので敬遠しがちだった。
 昨年は、加齢ゆえなのか、育つものは大事にしたいような気もし、髭には悪意があるわけでもないので、無精髭を良しとした。
 結局、一カ月に一度くらいしか髭剃りをしなかったが、かなり前から使っているT字型の二枚刃を使用していた。

 北国の貧乏暮らしの冬場の風呂場は、とても寒い。
 今年の正月過ぎに、久しぶりに電動シェーバーを使ってみた。使用後は、あいかわらずりヒリヒリする。
 ところが、電動シェーバーの広告を目にし、気になりだし、ふと思った。
 これまで買った電動シェーバーは、安価なものばかりだった。だから、使用後にヒリヒリするのか……。
 高価な電動シェーバーなら、使用後もヒリヒリしないのか……。
 電動シェーバーが生き残れているのも、性能を向上させているからなのだろう……。
 いずれにしても、どの電動シェーバーも使用後はヒリヒリような気がしていたのは、自分の勝手な想像に過ぎなかったのだ。しかも、いつのまにか事実であるかのように勘違いし、確かめもせずに事実であるかのように思い込んでしまっていたのだ……。
 勘違いや思い込みなら、これを覆さなきゃ。

 でも、T字型の二枚刃は千円前後で買える。使用後も快適だ。ただし、シェービング剤や洗顔剤を使うだけに、使用場所は限られる。
 高価な電動シェーバーなのに、シェービング剤や洗顔剤を使った場合にだけ快適なのなら、使用場所は限られるわけだから、自分にとっては買う価値は無い。
 シェービング剤や洗顔剤を使わなくても、使用後が快適なのなら、どこでも使えるわけだから、相応の価値がある……。

 というわけで、検討を開始した。
 価格.com売れ筋ランキング第一位の電動シェーバーが、日本の一流メーカー品で2017年製で三枚刃で一万円以下だった。
 メーカー直販サイトでは一万円以上で売られている。
 この程度なら、ヒリヒリしないのかもしれない。
 それを、最も安く売っていたネットショップから購入した。

 久々に買った電動シェーバーが届いた。
 早速、シェービング剤や洗顔剤なしで使ってみた。使用中も、使用後も、ヒリヒリしない。
 が、使用後の感じは、千円前後のT字型の二枚刃よりは劣る。
 でも、シェービング剤や洗顔剤を使えば、更に快適なのだろう。しかも、水洗いもできるわけだし。電動シェーバーの性能も向上していたのだ。
 とりあえず、シェービング剤や洗顔剤なしで、この程度なら十分だ。なんといっても、どこでも使える。

 やはり、安価な電動シェーバーばかり買って、どれもこんなものなんだろうと勝手に想像し勘違いし思い込んでいたのだった。
 自分の勘違いや思い込みを覆せたことことが、自分にとっては電動シェーバーよりも価値がある。

 というわけで、無精髭は止めて、自室で、ほぼ毎日、電動シェーバーを使うようになったのだった。


 帰宅し、買ってきた目薬の【用法・用量】を確認した。
 1回1~2滴。1日5~6回点眼してください。と書かれていた。
 早速、2滴ずつ両目に点した。
 清涼感、ゼロ。だが、目が潤った感じがして楽になった。「これは効く」と実感した。
 清涼感ゼロの目薬も初めてだったが、直ぐに効果を実感できた目薬も初めてだった。

 これまで使った目薬は、清涼感はあったが、効果を実感したことは無かった。
 思えば、目薬も、安価なものばかり買って、気を紛らしていたようなものだったのだ。
 なのに、どの目薬もこんなものなんだと勝手に想像し、自分が勝手な想像をしているに過ぎないのに、やがて事実であるかのように勘違いし、いつのまにか事実であるかのように思い込んでしまっていたのだ。

 勘違いや思い込みも覆せただけに、その目薬を何度も点した。

 ところが、寝る頃には、瞼が痒くなってきた。

 翌朝、瞼が痒いどころか、赤くなっていて、明らかに腫れている。
 使い様で、毒も薬、薬も毒、と言われる。
 効果を実感できる目薬に初めて出会えたのだが、こんな結果になったのも初めてだ。
 瞼の痒みや腫れが治るまでは、目薬を点すのは休止するしかない。
 手遅れ気味だが、残り少なくなった洗眼液で幾度か目を洗い顔も洗った。

 2月9日。
 瞼の痒みも腫れも、ほとんど治った。
 が、上下の瞼の皮膚の表面がカサカサしている。皮膚が乾いているというより、微細な瘡蓋で覆われているような感触だ。
 が、これは、目薬の所為ではないのか……。たまたま、他のことと重なったことによって、理由を勘違いしたことは幾度もあった……。
 いずれにしても、これなら、あと数日もすれば治るだろう。
 というわけで、数日振りに、また目薬を点した。
 やっぱり効く。清涼感はゼロなのだが、目が潤って楽になった感じがする。
 でも、1日に1回……、否、午前中に1回、午後に1回だけ点すことにしよう。


 そして、最近。
 眼精疲労が、明らかに改善されつつある。
「蒸気でアイマスク」も、効果があったのかもしれない。
 むしろ、勘違いや思い込みが2件も覆されて、それだけ気が晴れたからかもしれない。


 根拠や理由が乏しくて、具体的な判断ができないから、想像する。
 しかも、事実確認もしないがゆえに、事実とは違うことにも気づかず、むしろ事実であるかのように勘違いする。
 そして、いつのまにか事実だと思い込んでいる。
 そんな想像や勘違いや思い込みにも、保身やリスク回避や価値観などが伴うからでもある。
 根拠や理由が乏しいがゆえに想像し、その際の価値観しだいでは、すでに事実だと勘違いしていたり思い込んでいる場合さえある。

 考えや判断にも、価値観などが伴う。
 根拠や理由しだいで考えや判断の内容が変わるが、根拠や理由しだいで思考や判断の対象に対する価値観なども変わるからだ。

 価値観などが変わることによって、勘違いや思い込みが覆ることもある。
 よって、気が晴れたりもする。
 が、行動も生活も一転したりさえする。


 思えば、自分は安価なものを買って試してみる傾向がある……。

 自分が尊ぶようになったものは、むしろタダだからでもある。
 自分が尊んでいるものは、そもそも売り買いできるものではない。
 自分が尊んでいるものは、目には見えない意味や理由や法則などを理解できる思考力や理解力もそうだが、相応の知能が備わっていることもそうだし、目には見えない法則などもそうだ。
 それらは、、目には見えないが、もともと誰でも経験し続けていたり発揮していることであり、よって誰でも理解可能なことだからこそ、タダなのだ。
 それらは、自分が理解する以前から存在するわけだが、物体として存在するわけでもなく、理解した本人の精神上で明らかになることだから、タダなのだ。
 タダなのだが、人工的には創れないどころか、むしろ絶妙にできていて、理解するほど尊さが分かる。
 よって、衣食住をさえ二の次にしがちになった。

 そもそも、生まれる機会に恵まれて、生命生理が自律して機能していることによって生きていることなどを、知能も備わっていることによって体験できる。
 だからこそ、猫も野生動物も子供を命懸けで守ろうとするのだろうから。
 そうすることによって、太古から世代交代を重ねて存続されてきた種族や進化が未来に継続されるわけだし。
 命懸けなのに、報酬を望んでいるわけでもないし、硝酸や名声を欲しているわけでもない。
 上辺だけの体裁を繕い、不都合なことを隠し偽ってまで見栄を張る、それとはスケール自体が違うことなんだから。

 
応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
老化と眼精疲労により、
相互応援アクセスは断念します。
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プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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