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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
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カテゴリ : ◆本来は、自分はどういう存在なのだろう。

説得より納得が先だ……

 
 自分が納得できていないことを、説得することは不可能だ。
 自分が納得できていないのは、理解が不十分だからだ。
 理解不十分なのは、整理が不十分だからだ。
 整理できていないことは、説明が難しい。

 思えば、自分は、まだ整理を行っていないことが……。
 生きていることは、本来はどういうことなのか。
 自分は、本来はどういう存在なのか。

 これらに関する整理は、まだ行っていない。

 これらは、個人が生まれる以前に形成されたことだ。
 これらが存在することによって、個人が生まれたことになるわけだから、個人の生存上は絶対的なことでもある。
 また、自身の身体などが形成された当時のことは知らず、自身の内臓は見たことすら無い。消化器系だ呼吸器系だ循環器系だなどと言われる生命生理に関しても、理解することすら容易ではない。
 つまり、それらは自律して機能していて、通常は未理解でもかまわない。だからこそ、植物も野生動物も生存しているどころか世代交代もし種族の存続や進化も継続される。自律して機能しているということは、絶妙な秩序に基づいて機能していることを物語っている。
 これらは、生後に知ることよりも、それ以前に存在していて自律して機能している生命生理の方が優れていることをも物語っている。
 しかも、本人が誕生する以前に形成されて、本人が知る以前に自律して機能している。これらに関しては、直に経験し続ける自身のことであり、知能も備わっているにもかかわらず、生後に理解することすら容易ではない。
 もちろん、人工的に変えることはできない普遍的なことであり、根本的には植物や野生動物にも共通する。
 そういう性質上、生存の根拠や理由でもあり、人生に関する判断の基準に相応しいことでもある。
 もちろん、事実確認もしない像像上の、根拠や理由が無いがゆえの勘違いや思い込みを一掃したうえで、事実確認をし根拠や理由に基づいた整理をして理解でき納得できればだ……。

 しかも、普遍的で共通する性質上、具体的に理解するほど、最期に備えた心の準備の可否や是非などに関しても適切な判断が可能になる。
 ということは、最期に備えた心の準備が、意外な方から進展する。
 むしろ、この体系的な整理自体こそが、最期に備えた心の準備にも該当しているのか……。
 最後の審判は、自ら下すことになるわけだから。


 生きていることは、本来はどういうことなのか。
 自分は、本来はどういう存在なのか。

 これらに関して、総体的なことなので、多面的な角度から説明するしかない。
 まず自分が整理し理解し納得できないと、それは難しい。


 いずれにせよ、こんな大事なことを忘れていたなんて……。
 自己満足や独り善がりに陥っていたのか……。
 否、ボケてきているのか……。
 眼精疲労などで老化を意識し過ぎ、最期に備えた心の準備に気を取られ過ぎていたのか……。
 否、否、最期に備えた心の準備だけに、これが最後の課題であるかのような勘違いし思い込んでさえいた……。
 しかも、春になり、野山で過ごすことが、みょうに自然な感がすじるようになっていた。
 でも、そうだったがゆえに、勘違いや思い込みに陥っているのではないかと気づいた……。

 今春、ブログで予定した今夏の予定は解除だ。


 生きていることは、本来はどういうことなのか。
 自分は、本来はどういう存在なのか。

 この整理を、今夏はやろう。


 とは思うが、内心、二の足を踏んでいる。
 他の記事に部分的には書いたことあり、分散してはいるがすでに述べてある。
 が、総体的には未整理で、未熟だからにほかならない。
 しかも、本来はどうなのかを明らかにすることは、そういうことを知らず勘違いや思い込みだらけだった頃の自分がいかに無知で愚かだったかを具体的に明らかにすることになるからでもある。
 老化は自覚するほど進行しているだけに、これは重荷になりだしたのか。
 総体的に整理する必要があり、相応の準備を要することでもある。
 二の足を踏んでいた理由も少なくない。
 むしろ、回避気味だったのだ……。
 野山にばかり出かけていたわけだから。

 いずれにしても、人生の道に迷っていた……。


 今日は、早朝から久しぶりの本格的な雨。
 本格的な雨は、五月末の降雹があった雨以来だ。



20180530 降雹被害(二日後に撮影)

 当日、家にいたが、降雹があったことも確認できた。が、家の辺りは被害はほとんど無かった。
 翌日、畑まで行って、降雹の被害に驚いた。自分の経験上、今回が最大の降雹被害だ。


 野山に出向くことを雨に妨げられて、こうして文章化して気持ちの整理をしはじめると、いつものように、勘違いや思い込みも整理され、また動きはじめる。

 二の足を踏みがちだった心の整理をしながら、まだ残っている人生の課題に取り組もう。


 自分が、いかに無知で愚かだったかを明らかにすることでもあるが、「こうして生きて死ぬのなら、さっさと死んだほうがましだ」と判断したことで、そうではない生き方が始まったんだから……。
 知能も備わっていて、直に経験し続けていたことだったのに、自身の生命生理が自律して機能していることをすら、考えたことも無かったがゆえに知らず、知らなかったがゆえに自覚できなかった。
 精神面が平常どおりに機能していることも、考えたことも無かったがゆえに知らず、知らなかったがゆえに自覚できなかった。
 自分が行っている識別や思考の一環である想像や勘違いや思い込みなどの特徴や欠陥をすら、未理解だったほど無知だった。それゆえの思いや考えの無理や矛盾も、解明できず解決できなかったからこそ相応の苦悩までした。

 まさに無知で愚かだったことを自認した。だからこそ、そうではない生き方が始まったんだから……。
 無知で愚かで苦悩を余儀なくされることが、好いことであろうはずがないことは歴然としていた。備わっている知能を十分に発揮できていないことも、好いことであろうはずが無いからだった。
 よって、確かめ、整理し、備わっている知能を発揮しはじめたからこそ、直に経験し続けていたはずの自分のことを理解し始め、自分の思いや考えの無理や矛盾を解明でき解決できた。
 そこで、事実未確認な想像や根拠や理由が伴わないがゆえの勘違いや思い込みではなく、それ以前から存在していることになる本来に関することを重視し始めた。
 つまり、自分が識別し思考し判断していることの一環である想像や勘違いや思い込みや固定概念などの性質や特徴や欠陥などを未理解だと、無理も矛盾もありえるそれらに基づいたことをしてしまう。
 だから、目にこそ見えないが、精神面は行動上の中枢であり、この健全性を重視しはじめた。

 言い訳や嘘を言うことが無い猫からも、学んだ。
 愚かなことでもしてしまう行動の中枢など目には見えないことを重視し始めただけに、衣食住は二の次になった。
 知らなかったことを憶えることができ、上達もでき、熟練もし、会話を介して目に見えないことを理解することもできるようになる。だからこそ、思いや考えの無理や矛盾の解明や解決もできた。そんな学習の法則も、熟練することまで分かった。つまり、会話を介して、目には見えないことでも理解し納得できるようになる。よって、理解できなかったり納得できなかったりもし、必要に応じて確かめたり尋ねたり調べたり学校に通ったりさえする。

 自分の知識や考え以前から存在していて、直に経験し続けていたり、すでに発揮しているのに、そうであることをすら自分が知らなかったことを、今更のように知りはじめただけに、そういうことをもっと具体的に捉えようともし始めた。

 そして、生存上でも、人生に関しても、判断の基準になることとして求めはじめたことが、いわば次のことだった。
 生きていることは、本来はどういうことなのか。
 自分は、本来はどういう存在なのか。

 これこそが、生存上でも、人生に関しても、判断の基準に相応しいことだと考えられたからだった。

 この体系的な整理は、自分の人生にとっては天命なのだ。


 こんな大事なことを、忘れかけていたなんて……。

 いかに無知で愚かだったか……。
 まさに、それゆえに、最期に備えた心の準備が必要な齢になるまで時間を要してしまった、
 それどころか、こんな大事なことを、忘れかけていたなんて。


 時間をかけてでも、忘れかけていたことを復活させて、整理して理解し納得することを目指そう。
 自分で事実や因果関係などに基づいた整理をしたことしか自分で理解できないし納得できないわけだから、まず自分が理解し納得するために相応の整理をしよう。
 そもそも、植物や野生動物にも共通する普遍的なことでもある。
 誰もが直に経験し続けていることでもあり、誰でも理解力を発揮するようになるわけであり、誰でも理解可能なことである点でも、共通なんだから。
 普遍的なことこそ、隠し偽る必要も無いし、綺麗事で偽装することも無いし、そんなことを優れたことであるかのように祭り上げることも無いんだから。

 
カテゴリ : ◆本来は、自分はどういう存在なのだろう。

説得は至難だ……

 
 雪が解け、野山に出向くようになった。
 パソコンからは離れるほど、眼精疲労が緩和されるからでもあったのだが……。
 山菜を採りながら野山で過ごすことが、みょうに自然な感がすじるようになっていた。
 なので、この理由も気にしはじめた。


 テレビでしか見知ることが無い高価な食材や高級料理は、食べたことが無い。
 さぞかし、美味しいのだろう。
 が、食べ尽くせるはずもない。
 そこまで、自分で作れるようになろうとすら思わない。
 食べ物のために行列に並ぶ気には到底なれない。
 五感では捉えることができないことこその重要性を知り、それを理解することの重要性を知ってしまっただけに、衣食住をすら二の次にするようになったわけだから。
 まして、目を奪い心まで奪うことは、むしろ敬遠したい。

 かつて、産地市場に、山で採ったマツタケを出荷している人たちが言っていた。
「マツタケは、俺は食べない。こんなものは、食いたいとも思わない。マツタケは、売る物だ。マツタケを売れば、これ以上に美味しいものをたくさん飲み食いできるんだから」

 消費者の要望に沿うような努力をするようになったことで、農産物は農薬や化学肥料だけではなく遺伝子操作までするようになった。
 でも、自家用野菜は、虫に食われても、ほとんど無農薬だ。

 まして、山菜は、無農薬どころか、本来は無料だ。
 が、野菜として栽培されるほどではないのは、個性が強い・あくが強い・癖が強い、などとも言われる特徴があるからだろう。
 でも、野趣に富んでいると言って好む人もいる。
 私利私欲のために人工的に洗練されたものではなく、名声や名誉や地位などとも無関係に、大自然の中で生きているものの方に、自分も興味がある。

 そんな山菜も、タケノコはほぼ終わった。
 毎日食べていたワラビもほぼ終わり、ミズの塩昆布和えを毎日食べる季節にった。
 山菜は、貧乏暮しにマッチしているのか、飽きることが無い。
 シオデを採れた際には、スパゲッティの具にする。
 家で食べる食事は、礼儀作法だ、マナーだ、エチケットだ、などと気にする必要すら無いことが御馳走のようなものだ。

 ブログで予定したことが、間違いだったかのような日々だ……。


 自分の、無知、想像、勘違い、思い込み、固定概念、それゆえの思いや思考などの無理や矛盾。それら、五感では捉えることができないことの解明や解決が、かつて必須になった。
 そんな人生だっただけに、五感では捉えることができない心の整理を人生のテーマであるかのようにし続けてきた。
 その整理が進み、記憶や思いや思考などの無理や矛盾の解明や解決が相応に進み、勘違いや思い込みによる苦悩からは解脱できた。
 猫と関わったことで、五感では捉えることができない人生というものを考えさせられた。猫は、言葉を使わないが、感情や気持ちなどを察し合っていることも知った。
 五感では捉えることができないが直に経験し続けていることの重要性や、人工的には創れないどころか理解すら容易ではない絶対的な存在など、それらによる裏付けも進んだ。
 その再整理を、今夏、予定していた……。

 が、すでに解脱し、その裏付けまで進んでいる。そうだったからこそ、自然をみょうに自然に感じるのだとも考えられる。
 ということは、むしろ予定外のことが必要だったのか……。


 そもそも、進化は、現代の生物が生まれる以前に実現しているわけであり、現代人が関与できないわけだから、進化は自律していると考えられる。
 その結果生まれる個体の形成や生命生理や成長や成熟なども、自律している。
 知能も備わっている。経験でき、学習でき、上達もし、人は日常会話もできるようになる。つまり、五感では捉えることができない関係や理由や法則などの一連のことを理解することもできるようになり、理解したことに基づいた識別は思考や判断も可能になる。だからこそ、相応の行動も可能になり、相応の結果にもなる。

 約半年間の雪景色が、新緑に変わるこの季節は、植物の生命生理も自律して機能していることを実感しやすい。
 この点でも、野山で過ごすことが、みょうに自然に感じるようになったのかもしれない……。


 かつての自分は、直に経験していて歴然としていることをさえ知らない無知だったわけだから。

 が、野生動物も植物も、太古から計り知れないほどの世代交代を重ねて、数え切れないほどの祖先や先祖の遺伝情報を継承して、現代の生物が誕生していることは、もともと歴然としていることだった。
 人には、五感では捉えることができない関係や理由や法則などを理解することもできる知能も備わっているわけだが、理解が容易ではないほど生命生理は高度で絶妙にできていることや、自律して機能していることも、直に経験し続けていることであり歴然としている。そういうことだけに、そうであることを理解することも可能だ。
 生殖機構も備わっていて、進化上形成されたと考えられる生命生理が、未来へと継続されるようにまでできている。つまり、種族としては、世代交代を重ねながら生き続けるようにできていることになる。また、進化の可能性も継続される。
 それらは、少なくとも自分が生まれる以前からそうできている。生命生理は、少なくとも自分は理解も容易ではないほど高度な秩序に基づいて自律して機能していることも事実だ。つまり、人工的には維持管理もままならないほど高度で、生存上は絶対的な存在であることも、歴然としている。

 けれども、誰もが直に経験し続けていることであっても、生存上は重要なことであっても、生後に知り得ること以前に存在する絶対的なことであっても、そうであることを具体的に理解するとは限らない。
 学習や理解の性質ゆえだ。
 未整理なことは未理解で、未理解なことは自覚できないし尊ぶこともできない。
 事実を、事実関係や因果関係などに基づいて整理したことは一連のこととして理解でき、その一連のことを参考にした識別や自覚などが可能になるわけだから。


 それどころか、人は、生存上は本来は関係が無いことを、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げて、目を奪い心まで奪い、人の錯覚や勘違いや思い込みを悪用して私利私欲を貪りもする。
 つまり、私利私欲のために都合がよいイメージを優れたことだと思い込ませる。
 それを、真に受けた人は、その思い込みに基づいた行動をする。
 つまり、生存上は本来は関係が無いことや学習力や思考力や理解力を発揮することでもないことを、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げて、目を奪い心まで奪い、錯覚や勘違いや思い込みを悪用する。
 まさに、洗脳して翻弄することに該当する。

 種族の絶滅、絶滅危惧種、資源の枯渇、膨大なゴミ、大気汚染、制御不能の原子力発電、原爆、これらは無責任を象徴するようなものだ。
 しかも、子供たちや子孫に対する気持ちや考えであることをも物語っている。
 やっていることは、生存上無関係どころの話ではない。
 そういうことをやっているのは、人という動物だけだ。

 そんな人間環境を、自分は敬遠するようになった。
 これも、自然をみょうに自然に感じるようになった一因だったのだろう。
 否、自分も、やっと本来の自然な状態に戻りつつあるのだ……。


 が、説得は、至難だ……。
 自分でさえ、解明や解決は容易ではなかったんだから。
 でも、思考力や理解力を発揮できたからこそ、自分の心は整理が進み相応の無理や矛盾が解消されていった。
 が、母に対しては、いまだに怒鳴るしかない……。

 とっくに九十歳を過ぎた母も、生存上、重要なことや絶対的なことは直に経験し続け十分過ぎるほど経験していることになる。
 しかも、子供を三人産んで育てた。
 なのに、生存上重要なことを理解できていない。
 和裁を憶えて内職にしたた学習力もあり、日常会話では五感では捉えることができない関係や理由などを理解することもできる。
 なのに、年々、発揮しなくなった。
 やったとしても、いい加減なことばかりで、口先だけの言い訳どころか嘘まで吐き、まさに上辺だけを繕う。
 自分ではやるまいとし、俺にやらせる。
 そんな母をさえ、いまだに説得できないんだから。

 結局、怒鳴ったわけだが……。
 その後の態度から、怒鳴られるようなことをしたんだということは、今回は母も分かったようだった。
 が、改善されなかったどころか、悪化する一方だったから、怒鳴ったわけであり、母は具体的なことは分かっていない……。
 修正、改善、反省、改心、自浄、そんなこととは無縁だ。
 もちろん、簡単に説得できることでもない。

 そもそも、母親を相手に、説教じみたことを言うのは抵抗がある。
 本来は、母の方が詳しくて、母親が子供に教えてこそ自然なことばかりなんだから。
 しかも、誰もが直に経験していることを、わざわざ指摘することになる。
 思えば、何時も、手短に言うだけだった……。

 母は、一向に聞く耳持たないからでもあったが……。
 自分でやらずに、俺にやらせてでも、優位に立とうとする。
 自分では、ただ怠けてでも、優位に立とうとする。
 火事にならなかったことが不思議だったくらい、いい加減なことばかりで、口先だけの言い訳どころか嘘まで吐き、まさに上辺だけを繕ってでも、優位に立とうとする。
 言い換えると、俺を馬鹿息子扱いすることで、母は優位を維持してきたのだろう……。
 となると、むしろ覆すことが容易ではなくなり困難になるようなことを母は重ねてきたことになるわけだから……。
 それを変えることができるのは、本人だけだ……。
 暴力的に変えることは、もちろんできない。

 が、自分が、そう思っていた。
 否、今も、そう思うことで、片付けようとしている。
 つまり、そう思い込もうとし、いつのまにか、そうだと勝手に思い込んでさえいたのだ。
 これは、独断や偏見の類でもある。
 いずれにしても、自分が説得できなかったからだ。

 残っている課題は、最期のための心の準備だけだとばかり思っていたのに……。
 自分の心の整理だけではなく、他者を説得できるようになることも、人生の課題なのだろうか……。
 他者をも説得できるようになることは、今以上に精神的に成長することであることは確かだ。
 つまり、精神的には未熟なのだ。

 幾度も、母は、自分で「ボケてしまった」と言って、そう思い込み落ち込んだ。
 その都度、説得した。
 想像の段階や勘違いでも、心配になり、内容しだいでは苦にもなる。もちろん、思い込みもするし、落ち込みもする。
 でも、それらは、むしろ思考力や判断力や感情など自体は正常に機能しているからこそだ。
 しかも、勘違いしたり思い込んだりしているに過ぎないから、いつも一時的で終わり、平常に戻る。
 つまり、おまえはボケているわけではない。
 そんなことを繰り返しただけに、そうだったんだということを、母も少なからず分かるようになったからだろう、やらなくなって久しい。
 むしろ、老化が進んでいるのにである。

 幾度も鍋を焦がし、俺が言うことには聞く耳を持たなかった。
 が、火災報知機を付けたら、二度目に鳴って以来、火を放置することも無くなった。


 そもそも、誰にでも備わっている知能は、進化上形成されたであろう、そうであること自体が尊い。
 日常会話で発揮するようになる学習力や思考力や理解力も、誰もが発揮するようになることだけに尊重しなければならない。

 その尊さを未理解だったり、勘違いや思い込みなどもあり、思考には無理や矛盾もありえるだけに、知能を誤用しはじめたり悪用するようになったりさえする。
 が、その解明や解決をするために欠かせないのも学習力や思考力や理解力であり、これらは自浄能力でもあるわけだから。


 とは思うが、善人ではありえないわけだし、善人である必要も無いわけだからなあ……。





畑の一角に母が放置した壊れたジョーロの下は沢蟹の棲家

 春からなのだが、このジョーロを幾度も除けて見たが、この沢蟹が留守だったことは一度も無い。



壊れたジョーロの下で暮らしている沢蟹


 自立して生きているお前たちをこそ見習いたいものだ。
 媚びるわけでもなく、資格を欲するわけでもなく、自由を切り売りして服従するわけでもないんだから。
 もちろん、名誉や地位などを欲するわけでもない。

 ということは、大事なことは、誰かに認めてもらうことでもなく、誰かから資格や名誉もらうことでもない。
 生まれる機会に恵まれたことや生命生理が自律して機能していることによって生きていられること自体が、どんなに優れたことで尊いことかを、理解することの方こそが大事なのだ。

 
カテゴリ : ◆本来は、自分はどういう存在なのだろう。

◆学習上は脆弱・生理面は絶妙


学習上では、学習に関することをすら未理解だった。



 かつては、自分のことをさえ勘違いし思い込んでいた。
 つまり、肝心な自分自身のことを殆ど知らなかった。
 そんな実態に、気づくことすらできなかった。
 だからこそ、違和感も感じないまま生活できたのだった。

 そんな実態に、たまたま気づいた。27歳にもなってからのことだった。動揺を通り越し、深く落ち込んでしまった。当然だった。相応の内容だったわけだから。
 でも、当時は、気づいた程度だった。つまり、具体的なことまでは分かっていなかった。そうであることをすら、把握できなかったのだから。
 イメージ的には、以前の勘違いや思い込みは、頼れなくなった。が、頼りになる具体的で新たな知識や考えは、早々には得られるはずもなかった。そんな状態にあったわけだが、当時は、これだけ具体的には把握できていなかった。

 つい、想像を頼った。
 事実確認や根拠や理由を必要としない、頭の中だけで行う想像に過ぎなかった。それゆえに、新たな勘違いをした。が、そうであることも、当時は把握できなかった。
 つまり、想像ゆえの勘違いや思い込みや、それゆえに無理や矛盾があることも、把握できなかった。
 だからこそ、改善できず、葛藤を余儀なくされていた。

 生きるためには、葛藤だけは解消したかった。
 煩わされる、人間関係を、次々に断った。
 独りになり、考え込みがちになった。
 生活は、夜型に変わっていった。
 自室から出たくなくなった。
 が、ついに、気づいた。
 事実確認をしたわけではない。つまり、自分が頭の中で考えていたに過ぎない。だから、想像に過ぎなかったのだ。
 つまり、想像に過ぎないことに気づけなかったがゆえに、想像上のことを本当のことであるかのように勘違いし思い込みかけていたのだ。
 しかも、思い込み難かった。根拠も理由も無く、納得できるはずもなく、むしろ無理な内容だったからだ。それゆえの葛藤でもあったのだ。
 にわかに葛藤の要因が解明された。無理も矛盾もあった想像や勘違いや思い込みも解消した。葛藤も解消していた。
 人間関係を断ったのが良かった。
 自室にこもったのが良かった。

 以前は、他人を気にし心まで奪われ、自分を未理解なまま見失っていた。
 自室にこもることも、人目を気にするからこそ辛かった。むしろ後ろめたさをさえ感じながらだったが、人間関係を断った。
 よって、自分を省みることができた。
 つまり、見失い未理解なままだった自分のことを、具体的に理解し始めていた。

 その、実際には数分間で解明できたことに、気づけるようになるまでに3年も費やした。しかも、葛藤を余儀なくされながらだった。30歳になっていた。
 いかに無知で愚かだったかを、受け入れざるえをえなかった。

 30歳を過ぎてから、理解しそびれていた自分のことを具体的に理解することになったが、いかに無知で愚かだったかを理解することに他ならなかった。
 自分のことを勘違いし思い込んでいたことに気づいた当時も、納得できなかったり納得したりしていたわけだから、相応の思考力や理解力を日常的に発揮していたことんいなる。むしろ、そうだったからこそ、勘違いや思い込みに気づくことができたのだ。そんなことも、ようやく分かった。
 むしろ、思考力や理解力は、小学生の頃には発揮できるようになっていた。なのに、そうであることを30歳を過ぎるまで未理解だった。つまり、精神的な成長は、小学生の未熟な状態で止まっていた。

 学習に関することをさえ具体的に理解するとは限らず、学習上のことは、きわめて脆弱であることを思い知らされた。


生理面の絶妙さは歴然としていた。なのに、未理解だった。



 学習上の内容の脆弱さが具体的に分かるほど、生理面の絶妙さを思い知らされた。
 肝心な自分自身のことを未理解だろうが勘違いしていようが、生きていられる。
 だからこそ、赤ん坊も生きていられる。野生動物も生きていられる。植物だって生きていられ、微生物も生きている。
 つまり、頭では、自分のことすら未理解だったり自分のことをさえ勘違いしていたりした。が、生理面(生きていること自体)は、実に良くできていることを如実に物語っている。
 しかも、生理面が実に良くできていることは、誰もが直に経験し続けている。
 そうであることも、歴然としていた。
 なのに、そういうことを、ほとんど未理解だった。


 誰にでも、骨や筋肉などで構成されている運動機能も、もともと備わっている。
 これらは、どこかの名医が創ってくれたものではない。
 そうであることを、誰もが、生涯、直に経験し続ける。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能も、もともと備わっている。
 これらも、どこかの天才が創ってくれたものでもない。
 そうであることも、誰もが、生涯、直に経験し続ける。

 日常的に、本人の経験に相応する印象が本人の記憶に残り、相応の情報処理(識別や思考など)が可能になり、相応の振る舞いも可能になるし、いわゆる学習も成立する。

 学習の要である識別・思考・予想、試行・確認、取捨選択など、いわゆる情報処理は、まだ言葉を知らない乳幼児期に学習し始めることでもあり、内面的なことでもあり、誰も教えようが無い。
 しかも、本人ができるようにならないと困ることであり、本人が試行錯誤を繰り返して習得するしかないことでもあり、本人が試行錯誤を繰り返すからこそ習得することでもある。
 つまり、生命生理が自律して機能しているだけではなく、学習に関しても、大人でも教えようが無いことを、乳幼児期に独自に学習し始めるようにできていることを物語っている。
 もちろん、どこかの誰かが創ってくれたシステムではない。

 朝、目覚め、何処かが普段と違っているだけで、異常に気づく。言い換えると、異常が無いことをチェックするようになる。そうなるようにできていることを物語っている。

 言葉を介して意思疎通もできるようになった。つまり、幼児期には、言葉が指す物事を、記憶に残っている印象を参考にして意識できるようになり、相応の考えや予想もできるようになり、相応の振る舞いもでき、相応の結果にすることもできるようになる。

 文法を憶えるからこそ、説明も上手になる。

 確かなことを詳しく憶えるほど、確かで具体的な可否や是非などの判断も可能になり、相応の振る舞いや結果にも通じる。

 記憶を頼るだけに、それを意識した約束も可能になり、目的や目標を想定した努力も可能になり、計画的なことも可能になる。

 言葉を介して、五感では捉えることができない記憶内の情報を整理し、根拠や理由があって因果関係などが理に適っていないと納得できないし、理に適っていると納得し、いわゆる理解することもできるようになる。

 いずれも、要である情報処理の上達に因る。それは、本人の試行錯誤次第で磨かれる。
 だからこそ、大人が教えないことだって、憶える。
 大人が憶えて欲しくないことも、憶えた。
 大人が、上辺だけ尤もらしいことを言い、御機嫌取りをしたり脅したりして騙すようなことまでして、自分勝手なことを強いようとしていることを見抜く。だからこそ、反抗するようにもなった。

 知能は、学習システムでもあり、生存維持管理システムでもあることになるのだが、生理的な各感覚器官や意識や記憶力が絶妙にできていることによって成り立っていることになる。


 でも、状況に、相応したことを独自に学習していたことになる。
 理解が容易な時期に、躾や教育で余計なことを強いられ続けると、肝心なことである経験し学習し理解できるようになったことを理解しそびれる。

 まして、他者によって学習し上達したとなると、それだけ、学習の独自性が歪んでしまう。
 本来は、各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている知能が備わっていることによって、その性質でもあり機能でもあり能力でもある法則に基づいて独自に学習(習得)して、思考力や理解力を小学生の頃には発揮するようになる。
 なのに、そうだったことは未理解だった。

 それこそが、自分の人生上では、知らなければ困る最たることだった。
 理解できるようになったのに、その基本であり学習に関することや要でもある情報処理に関することを未理解だったからこそ、想像しているに過ぎないことにも気づけず勘違いしやすく思い込みやすく、気づくことも難しかった。
 まさに、それゆえに、3年間も葛藤を余儀なくされた。

 むしろ、葛藤ゆえに、その事実関係の解明も余儀なくされた。
 解明したことによって分かったことは、小学生の頃には理解できるようになったことを、未理解だったことが要因だったことを具体的に理解したようなものだった。
 もちろん、相応のことを理解できたからこそ、解決できた。

 小学生の頃には理解できるようになったことを、具体的に理解できたときは30歳を過ぎていた。よって、精神年齢は小学生レベルだと自認した。
 すると、小学生の頃に戻ったかのような気がするようになった。精神年齢は、まさに小学生レベルだったのだと実感した。
 しかも、学習上は重要だった時期まで退行したからか、知らなかったことをどうして憶えられるのか、できなかったことをどうして随意にできるようになれたのか、どうして学習(習得)が実現するのかに関することも、具体的に理解できるようになった。
 ついに、精神構造自体に関しても理解することになった。いわば、乳幼児レベルまで退行していたようなものだったからだった。

 いずれも、30歳を過ぎてからのことだった。
 生理面の絶妙さ、学習上の脆弱さ、その差も本来は歴然としていたのに……。


学習内容次第で、知能を誤用もするし悪用さえする。



 どのアイコンをクリックすれば、どういう画面になる。逆に、どの画面にするためには、どこをクリックすればいい。などと憶えるほど、パソコンも活用できるようになってゆく。
 そういう内面的な情報処理を子供が独自に学習することによって、傍目にも盛んに学習するようになる。
 それをいいことに、躾や教育を行う。

 子供の頃に限らず、状況や人為的な事態なども、経験し、相応の対処方法などを学習(習得)する。
 日常会話ができるということは、相応の思考力や理解力を発揮できている。よって、良かれ悪しかれ、条件が満たされていないと納得できなかったり、条件が満たされていると納得し、理解することにもなる。
 辻褄が合わなかったり、納得できなかったりすると、疑問や不信感さえ抱く。
 まして、無理強いしようとし、そのためにあの手この手を駆使されると、反感を抱き、反抗さえする。

 躾や教育の悪影響は甚大だ。


 特に、子供が独自に内面的な情報処理を学習することによって心が形成される時期は、そのためにこそ保護養育が必要な時期である。
 余計なことをしなくても、保護者の影響を受けやすい時期のことでもある。
 そういう重要なことを無視し、つまり大人側から勝手なことを強いることは、意図的に大人の都合よく子供の心を歪めようとすることにほかならない。

 基本的には、独自に試行や取捨選択を繰り返し、いわば自浄能力を発揮するから、上達と同じ行程上で学習(習得)することになる。
 でも、経験し、相応の学習(習得)をするわけだから、その内容は、個人毎に異なる。
 もちろん、躾や教育の悪影響は甚大だ。

 個人的には、学習内容は限られるし、好みや価値観にも左右されるので、習得する内容は偏りさえする。
 実際には、片言で話し始め、上達し、流暢な会話ができるようになる。ということは、相手が話した内容を高速で理解できるようになり、それに対する自分の気持ちや考え高速で整理し文章化できるようになったことを物語っている。つまり、そんな自分の意思で行っている情報処理に関しても理解できるようになったことを物語っている。
 なのに、未理解なままだったりする。理解力を発揮するようになったのに、理解とはどういうことかも未理解だったりする。
 具体的な否定や肯定ができないことだからこそ、想像をする。その性質上、勘違いもし、思い込みもする。
 先入観もあり、それを基にした想像もする。
 想像とは、勘違いとは、思い込みとは、心理の悪循環とは、そんなことも未理解だったりする。

 いつのまにか習得し行うようになり、繰り返すほど上達し、熟練してしまったことでも、その内容しだいでは、認め難かったり、偽装や隠ぺいもする。
 反省や修正や改善をしないで、隠し偽らずにいられないほど後ろめたいのに正当化もする。
 自殺や殺人や戦争など、生存上でさえ無理なことや矛盾したことをさえ行うようにもなる。
 つまり、経験次第で、自分で困るような的外れなことをさえ学習し、知能を誤用もするし悪用さえするようにもなるし、自ら災いを招きもする。


 自分は、自分の考え次第だったはずの学習んい関することを未理解だったからこそ、自分が想像しているに過ぎないことにも気づけなかったし、勘違いしていることや思い込みつつあったことにも気づけず、その無理や矛盾にも気づけず、それゆえに葛藤を余儀なくされていることにすら気づけなかった。
 それは、不都合なことは認め難くなっていたからでもあった。
 つまり、記憶に残っていることに左右されていた。そういうことだったからこそ、考えただけで分かり、解決できた。

 もちろん、日常会話ができる程度の思考力や理解力があれば、気づくこともでき、事実を認めることもでき、よって具体的に理解することもでき、解決することもできる。
 言い換えると、記憶にあることに左右されているのに、単に思い出すまいとしたり、そのことは考えまいとしたり、余計なことに気を取られていたりした。だから、気づけなかった。
 自分の考えに関することを未理解だったからこそ、知能を誤用していることにも気づけないし、悪用さえしていることも理解できなくなるし、そうであることに気づけなくさえなる。
 そんなことが分かったことによって、未理解だからこそ陥る心理の悪循環に関することも分かったわけだが……


 学習上のことはきわめで脆弱だが、それでも生きていられる。
 それは、生理面は自律して機能しているからにほかならない。

 スポーツでも、ルールに基づいたことを行うから競技として成立し、ルールを無視すると乱闘になる。
 秩序が無ければ成立しない。成立したかに見えても、秩序が不完全なだけでも崩壊する。成立するに足る秩序があってこそ成立する。

 しかも、生命生理は、人工的なルールに基づいたものではない。
 むしろ、理解するだけでも容易ではないわけだから、きわめて高度な秩序に基づいていることはあきらかだ。
 つまり、絶妙な秩序に基づいて機能しているからこそ、自律していることになる。
 生きていること自体は、まさに絶妙にできているからこそ成り立っている。
 しかも、歴然としている。隠し偽りようもない。

 そんな歴然としていることをすら、30歳を過ぎるまで未理解だった。そんな学習上のことこそが、生後に経験し学習し理解することだけに、躾や教育の影響は甚大で、その内容は、限られ偏りもし、錯覚や勘違いや思い込みもあり、まさに知能を誤用して自分で困り、悪用さえして自ら災いを招くようにさえなる。
 自分の子供に洗脳まがいの躾や教育を行っていたりする。
 子供の数は激減しているわけだから、子供を産み育てるような環境ではなくなりつつある。
 環境破壊まで懸念され、多くの種を絶滅させ、絶滅危惧種も無くならない。
 自殺や殺人どころか戦争も絶えない。
 経験や学習の内容次第で、知的内容は左右される。その内容次第で、生存上、無理なことや矛盾することさえ行う。
 学習上の脆弱さも、もともと歴然としていたことになる。そうであることさえも理解できなかったのだから。だからこそ、自分のことをさえ勘違いし、むしろ慢心さえしていた。

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プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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