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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
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カテゴリ : ◆自分の心を理解する:事例

自分の心を理解する:事例 ブラインドタッチ


 休止中にもかかわらず、沢山の応援アクセス、ありがとうございます。


 カテゴリー「自分の心を理解する:事例」は、当記事を以て終了です。
 目で見て確かめるよりも速い条件反射的な動作をしてしまう、その理由が、今回の記事内の経験でついに分かった。
 その後、今回の記事内の経験を基に、再整理を繰り返したことで、学習に関する基本的なことや法則的なことも理解できたからです。

 学習の基本的なことや法則的なことに関しては、すでに投稿済みの記事内に「当時は未理解だったこと」として幾度も記載してあります。
 関心がある方は、キーワード"教習所"か"学校"で当ブログを検索すると、当該記事がヒットします。


 四月以降は、高望みはせず……。
 誰もが直に経験し続けていることであり、精通できるだけの条件が整ってゆくことでもある、自己理解に臨みます。
 その要でもある学習の基本的なことや法則的なことを重視し、投稿済みの記事の再編集に臨み、自分の心の更なる整理や浄化に臨みます。
 反省や、謙虚になることなら、以前よりも容易になっているわけですから。

 あっ、……まだ文章の書き方の勉強をするつもりだったんだ。
 表現の方法も、まだ勉強したことが無かったんだ。
 それらをやりながら、更に丁寧にやる練習もしよう。
 できることなら、感謝を込めた表現、そういうことを生きているうちにできるようになりたいものだ……。




自分の心を理解する:事例 ブラインドタッチ

   目次(当ファイル内リンク)

◆どうして、こんなこと(ブラインドタッチ)が出来るんだろ?
◆自分の意思に基づいた動作であるはずなのに、その事実関係を未理解であることは、すでに関心事でもあった。
◆いわばブラインドタッチができるようになった事実関係を知ろうと、記憶内を探しはじめた。

◆JIS配列キーボードに移行した当初は、入力に必要なキーは一々探さないと見つけられなかった。
◆入力に必要なキーを早く見つけられるものもでてきた。繰り返しただけ、各キーの位置が記憶されたからだ。
◆キーボードを見る前に、入力に必要なキーが有る辺りが思い浮かぶものがでてきた。
◆一々手を除けてキートップを確認するのが、煩わしくなった。
◆手を除けず、手元も見ずに、入力することを試みはじめた。
◆いわゆるホームポジションに手を安定させる工夫をした。
◆手元を見るのは単なる癖だと分かったので自制し、画面を見る練習をした。
◆出来るようになれるとは思えず、長い時間を要したが、いつのまにか実用していた。

◆もちろん、どうしてこんなこと(ブラインドタッチ)ができるのかは未理解だった。だから、不思議だった。
◆なので、記憶に残っていることを繰り返し整理してみた。それによって、できるようになった事実関係や理由を理解できた。
◆よって、整理できたことは、相応のことを理解できる。ということも、理解できた。
◆もちろん、事実関係を未整理なことに関しては、その因果関係や理由などは未理解な状態にあるのだ。

◆整理が進むと更に不思議なことが浮上した。
◆キートップの文字は、見るわけでもないので、憶えているわけでもなかった。
◆話すときに口や唇や舌や声帯を調整しているように、入力に応じた指を動かす方向や距離などの動作を憶えているのだ。

◆理解できたことは、応用や活用も可能になる。
◆学習に関することを理解でき応用や活用ができる、ここまでの学習の基本的なことは誰でも共通だ。

◆ちなみに。

~~~:☆☆☆:~~~





◆どうして、こんなこと(ブラインドタッチ)が出来るんだろ?



 キーボードからの入力中、ふと思った。
 どうして、こんなこと(ブラインドタッチ)が出来るんだろ?
 当時は、ブラインドタッチと言う言葉とは無縁だった。

 文章は、手指でキーボードから入力している。が、キーボードも手指も見ていない……。
 目は、モニタの画面を見ている。考え通りに文章化され表示されているかを見ている。
 その文章化に関することを、頭で考えている。キーボードや手指のことを考える余裕は無い……。

 簡単な確認をしてみた。
 キーボードや手指に関することに気を取られると、文章化する内容を考えることは無理だ……。
 文章化する内容を考えると、キーボードや手指に関することを考えることは無理だ……。
 え……、無理なことなのに、現に実行できている?
 そんな無理な……。


 更に確認してみた。

 入力を続けながら、自分の手元やキーボードを見てみた。
 すると、文章化する内容に思考を集中できなくなり、入力が滞る。
 モニタ画面も、見れない。

 反対に、文章化する内容に思考を集中してみた。
 すると、手元や、入力するためのキーが何かとか、それがどこにあるかなどは、考えられない。
 モニタ画面を見れば、もちろん手元は見れない。

 どういうこと?
 実際に自分で行っている動作なのに……。
 こういうことが、どうしてできるのかは理解できていない。
 あ、そういうことか……。
 つまり、実行はできている。が、その事実関係や理由は理解できていない……。
 ということか……。

 もちろん、繰り返したことによって、学習し、上達したからこそ、できるようになったことであることは間違いない。
 なのに、その事実関係は、理解できていない……。


 確認をするうちに、更に気づいた。
 各キーを目で探したり確認したりするより、手元を見もしないで動かしている手指の動きの方が明らかに速い。
 入力中の手指の動きの方が速くて、入力相応の各キーを目で探したり確認できたとしても追いつけない。
 もちろん、入力相応の各キーを、目で探したり確認したりはしていない。
 つまり、記憶に残っている各キーの位置を基に、手指の動作を行っているのか……。
 だから、目で探したり確認したりするより、速いのか……。

 アイコンの位置が変わったとき、アイコンの位置を目で確認する以前に、記憶に残っているアイコンの位置にマウスポインタを移動してしまうから、元にアイコンがあった位置にマウスポインタを移動した。
 スイッチの位置が変わったときも、スイッチの位置を目では確認せずに、記憶に残っているスイッチの位置に手を伸ばしてしまうから、元にスイッチがあった位置に手を伸ばした。
 あれと、似たようなことなのか……。

 でも、アイコンやスイッチの時のように、単純ではない。
 文章の入力を連続的に行っているわけだから。
 条件反射的なことを、連続的に行っている、ということか……。


 スイッチを付け替えた時も、アイコンの位置が変わったときも、実際に行っていることなのに、その理由を未理解だったことが明らかになった。
 もちろん、その事実関係や理由を理解する格好の機会だと思った。
 でも、不思議だっただけで、理解できなかった。

 今回も、現に行っていることなのに、その理由を未理解だったことが明らかになった。
 もちろん、その事実関係や理由を理解する格好の機会であることは間違いない。
 直に経験している自分のことでもある。
 もともとは、知らなかったことだったし、できなかったことだった。繰り返し接し、学習し、上達して、随意にできるようになったことであることも間違いないんだから。



◆自分の意思に基づいた動作であるはずなのに、その事実関係を未理解であることは、すでに関心事でもあった。



 生理面は、自律して形成され、自律して機能している。
 感覚器官・意識・記憶力などで構成されている精神機構も、骨や筋肉などで構成されている運動機構も、すでに備わっている。
 けれども、経験や学習の性質上、その内容は、個人的には変化するし、限られもするし、偏りさえし、生存上は的外れだったりもするし、間違いもある。
 しかも、実行できないことでも、考えることは可能だ。言い訳も、嘘も、騙し欺くことも、考えることは可能だ。更に、錯覚や想像や勘違いや思い込みなどもある。よって、考えには無理や矛盾も生じる。
 そんなことが自分の経験上から分かったことによって、自分が事実確認をせずに想像をしていたに過ぎなかったことも分かった。
 そんな想像の性質上、勘違いもし、思い込んだことも分かった。
 そんなことが分かったことによって、かつて思い込んだことによって固定概念化したイメージが記憶内にあったことも解明でき、覆すこともできた。
 それらの性質や欠点なども、自分の経験を整理したことによって具体的に解明できた。

 そんなことに気づき知り解明できたことによって、直に経験し続けている肝心な自分に関することをいかに知らず未理解だったが具体的に明らかになった。
 よって、確認や識別や思考や判断などの情報処理の健全性を重視し始めた。
 その情報処理ができるようになった理由でもある学習に関する基本的なことや法則的なことにも関心が向いた。

 その後、野良猫と仲良くなれたことで、猫も、知らなかったことを憶え、相応のことができるようになり、上達することも、目の当たりにすることができた。
 猫の子育てに接することができたことによって、初めて自分の人生観も構成された。

 そして、スイッチを付け替えたことによって、目で見もせずに条件反射的な速さの動作をしていることが浮上した。
 が、その理由が分からなかった。
 理由が分からないのに実行していたことが、不思議だった。
 意に反するようなことまで実行してしまうことには、恐れさえ感じた。
 その事実関係や理由を理解するには、格好の機会だと思った。
 が、理解できないまま、新たな位置に慣れてしまった。

 マウスの位置が変わったときも、理解する格好の機会だった。
 が、理解できないまま、新たな位置に慣れてしまった。

 いわば、模索を繰り返し、学習し、上達したことだと考えられるが、その学習に関する因果関係や法則的なことや基本的なことを未理解だったことが、具体的な事実を基に浮上した。
 なのに、理解できなかった。
 でも、未理解で不思議だったがゆえに、その未理解だった学習に関することへの関心は深まっていた。
 もちろん、その因果関係や理由は、目には見えないことでもあり、思考上で整理できれば理解できることでもあった。



◆いわばブラインドタッチができるようになった事実関係を知ろうと、記憶内を探しはじめた。



 できるようになった経緯なども考えて、記憶に残っていることを辿りはじめた。
 そして、解り始めたことを整理し、更に繰り返し確認し整理した。

 想像や勘違いや思い込みゆえの苦悩や困窮だったことを解明できたことによって苦悩や困窮から解放された当時、簡単なメモをしていたが、文章に変わっていった。
 そして、文章化することに因っても相応のことが整理されて理解が深まることに気づき、文章化が促進されたからでもあった。

 消しゴムで消したり書き直したりする手書きがもどかしくなり、和文タイプライターに注目した。
 そして、ワードプロセッサなるものの存在も知った。が、当時は、オフィス用で、とても手を出せる値段ではなかった。
 キーボードの一部に小さい液晶画面があって一行数十文字を表示できるものでも、数十万円だった。
 ところが、ほんの数年のうちに、パーソナル用の安価なワープロ専用機が発売され始めた。これに期待した。
 ローマ字入力が効率がいい。だから、キーボードは50音の規則的な配列であって欲しい。などと思っていた。
 すると、ほどなく、小さいブラウン管仕様のパーソナル用のワープロ専用機が二十万円以下で販売された。
 しかも、自分が思っていた以上のキーボードだった。M(森田)式と言われる手の形状に合わせて作られたキーボードで、ローマ字入力専用だった。キーは左手が母音で右手が子音で、50音に適った規則的な配列だった。
 早速、予約した。

 ローマ字入力専用で、50音に適った規則的な配列だったので、商品が届く前から、夜に眠る前にキーボードを思い浮かべて入力の練習をすることができた。
 届いたワープロ専用機は、思っていた以上に、効率よく入力できる工夫がされていた。
 ワープロ専用機での文章の切り貼り(カットアンドペーストやコピーアンドペースト)は、消しゴムが要らないこともあって、文章の練習にも好都合だった。
 手書きから、デジタル化に移行し、心の整理も加速した。

 入手後、半年ほどで、自分が話すよりも、入力の方が速いことを実感した。
 やがて、思考スピードと変わらない速さで入力できているような気さえした。

 が、当時は、そんなことが出来るようになったことを不思議だとすら思わなかった。
 実用が目的だった。心の整理が加速された。それらが優先だった。
 ブラインドタッチと言う言葉にも、この頃はまだ縁が無かった。
 よって、いわばブラインドタッチができるようになった理由は、考える必要も無かったのかもしれない。

 しかも、短期間で実用可能になったわけだから、実用可能になった理由に相応する事実は記憶上でもまだ新鮮だったことになる。よって、その実用可能になった具体的な理由は未理解でも、わざわざ整理して理解する必要は無かったのだ。
 ブラインドタッチに関して説明する必要も無かった点でも、わざわざ整理して理解するまでもなかった。

 むしろ、そのワープロ専用機は640キロバイトのフロッピーディスク仕様だっただけに、容量不足に不便さを感じるようになった。
 切り貼り(カットアンドペーストやコピーアンドペースト)は大いに活用したが、文章の練習を兼ねていただけに、常に新規に書きだすことにしていたからでもあった。

 しかも、値段は変わらず、高性能化したワープロ専用機が、半年毎に新発売されるようになった。
 が、可能性や将来性を考慮し、パソコンへの移行を考えはじめた。

 当時のパソコンは、16ビットか32ビットで、OSはМSーDOSで、まだ性能が低かったが、かなり高価でもあった。
 買っても、自分が使えない場合は、もちろん無駄遣いになる。が、それは、確かめた事実ではない。自分の想像や先入観に過ぎない。
 想像や勘違いや思い込みでは、大変な思いをさせられた。
 そんな想像や先入観を覆すことに慣れるためにも、自分が使えるかどうか事実を確かめるべく、パソコンを買うことに決めた。

 ワープロ専用機ですでに作成済みの文書は、パソコンとは互換性が無かった。
 そこで、購入店から、ファイル変換のできる新型のワープロ専用機を借りてきて、全ての文書をテキストファイルに変換した。
 結局、ワープロ専用機は、三年ほどで役目を終え、パソコンに移行した。
 よって、ワープロ専用機のM(森田)式ローマ字入力専用キーボードから、互換性が高いJIS配列に移行したのだった。



◆JIS配列キーボードに移行した当初は、入力に必要なキーは一々探さないと見つけられなかった。



 以前のワープロ専用機のM(森田)式ローマ字入力専用キーボードは50音に適った規則的な配列だっただけに、そうであることを憶えただけで、まだ商品が届かないうちから、寝てから各キーの位置を思い浮かべてキー入力の練習をすることができた。
 だからこそ、すぐに慣れてしまい、思考と同じくらいの速さで入力できているような気さえするようにまでなった。

 その後で、パソコンに移行し、JISキーボードになった。50音とは無関係な配列で、配列の規則性も分からず、どのキーがどこに在るのかを憶えること自体が億劫だった。
 ワープロ専用機でやったように寝てからキーボードを思い浮かべて練習することは、不可能だった。
 当然に、各キーを一々目で見て探さなければ入力できなかった。
 早々に慣れたワープロ専用機の軽快さばかりが思い浮かんだ。

 でも、パソコンに移行する必要がある。
 というわけで、ワープロ専用機は一切使わないことに決めて片付けてしまった。



◆入力に必要なキーを早く見つけられるものもでてきた。繰り返しただけ、各キーの位置が記憶されたからだ。



 入力に必要な各キーを、目で見て一々探しては、入力する。
 ワープロ専用機の場合は、早々に実用レベルに達し、更に習熟したことを、つい思い出してしまう。
 JISキーボードからの不慣れな入力は、思考の妨げにさえなり、なかなか馴染めなかった。

 JISキーボードでは、いつになると実用レベルに達するのか見当もつかなかった。
 日本語を効率よく入力するために作られたワープロ専用機のように快速入力は望めないのだとも考え、JISキーボードでの習熟は諦めたことも記憶に残っていた。


 でも、繰り返すうちに、「この辺だった」とか、「こっちの方だ」などと、必要なキーをしだいに早く見つけられるようになった。
 つまり、必要な各キーを繰り返し探すすうちに、各キーに関する大まかな位置情報が記憶に残り、その記憶に有る情報も参考にして探せるようになっていったことになる。


 必要な各キーを探す際に、「Sは、Aの右隣にある」とか「Eは、Sの右上にある」などと思うようになった。
 あれは、そういう関連した捉え方もしていたからだったのだ。
 つまり、必要な各キーを探す際に気づいた関連したことも記憶に残っていることになり、それも参考にして探していたことになる。


 ということは、大まかな位置や、隣との関連性など、探す際の捉え方と共に各キーの位置が記憶に残るので、それだけ記憶に残る関連情報が増えて確かにもなっていったことになる。
 その記憶に残っている情報を参考に各キーを探すので、早く探せるようにもなっていったのだ。



◆キーボードを見る前に、入力に必要なキーが有る辺りが思い浮かぶものがでてきた。



 やがて、入力するために必要なキーは、キーボードを見る前に、記憶にあるものが思い浮かぶものもでてきた。

 つまり、あ・い・う・え・お・などの母音に相当するA・I・U・E・O・などのキーは、使用頻度が高く、探す回数も多い。
 よって、先に記憶に残り確かにもなりやすかったからだ。


 JISキーボードに移行して、すでに二年ほど過ぎた頃。
 データベースソフトのマクロプログラムに魅了され、パソコンの魅力を知った。
 プログラムの条件分岐は、文章の書き方や考え方の練習にもなるような気がした。
 全体像が記憶に有る方が構築や確認をしやすいだけに、幾度か徹夜もした。
 もちろん、軽快な入力が望ましくなった。
 そこで、調べた。ワープロ専用機と同じようなM(森田)式キーボードが、パソコン用としても売られていることを知り、購入した。
 ところが、使用中のデータベースソフトと相性が良くない。というわけで、使用を諦めた。
 一層、JISキーボードに慣れることが重要になった。


 当時、マクロプログラムに夢中になったこともあって、可能な限りパソコンで管理できるようにして通信販売の真似事もした。
 通信販売の真似事で得た収入で購入したのは、まだ白黒液晶のノートパソコンだった。



◆一々手を除けてキートップを確認するのが、煩わしくなった。



 つい、手を除けてキーボードを見る。
 でも、キーボード上に手がある状態でも見える一部の(要所の)キーだけしか見ていないことに気づいた。
 つまり、必要なキーの位置を探しているのではなかった。手の位置を確認していたのだった。
 そのくらい、記憶に残っている各キーの位置情報が確かになったからだ。
 その記憶に残っている情報を参考にするから、目で見てキーの位置を確認する必要は無くなってきたのだ。


 つい、キーボード上から手を除けるのが癖に過ぎなかったことも分かり、その繰り返しが煩わしくなり始めた。
 それだけ、入力に必要なキーの位置は、記憶に残っている情報を基に分かるようになったからだった。

 ならば、手の位置さえ決まれば、キーボードを見なくても入力できるはずだ。


 この頃、地元の議員選挙に、親戚からも立候補することになり、その有権者名簿のデータに電話帳のデータを加えてノートパソコンに入力し、その管理用の簡単なマクロブログラムも作成して、そのノートパソコンを候補者に貸した。
 が、使えないということで、役に立たなかった。


 ところが、冬季間だけのアルバイト的な仕事を紹介された。
 入力済みだった有権者名簿のデータを活かせる仕事だった。
 その収入で、Windows 3.1 のデスクトップパソコンを購入した。
 が、データベースを使っていた都合で、MS-DOS仕様でばかり使い続けた。
 インターネットにも、まだ未接続だった。

 でも、Windows 3.1 で起動することも可能だった。
 将来的なことを考えて、Windows 3.1 も起動しは使ってみるようになった。
 よって、マウスでアイコンをクリックしてソフトなどを起動するするようになった。
 なので、カテゴリー「◆自分を理解する:事例」内の「事例:アイコン」は、これ以降のことだったことになる。



◆手を除けず、手元も見ずに、入力することを試みはじめた。



 手を除けて確認するのが煩わしく感じるくらい記憶が確かになったのなら、手を除けずに入力してみよう……。
 が、手の位置を確認したり、入力に必要なキーを時々確認することも、癖になっていたことが明らかになった。
 その癖も、学習したことにほかならない。相応のことが記憶に残ったことによるものだ。
 というわけで、意識して、癖になっている手を一々除けることを止める(手を除けない)ことにした。
 そして、手で覆われていて見えないキーでも、記憶上から探し、それを基に、間違ってもかまわないから入力することにした。
 手の位置を確かめるために見るようなものなのだが、癖は、さすがに癖だった。
 記憶に残っていることだけを参考にすることにしたが、記憶自体が実に曖昧なものだったことにも気づいた。
 結局、ミスタッチばかりだ。

 さっさと片付ける必要があることは、結局、手元を見ながらやった。それでは、手元を見る癖を直すのは遅れる。



◆いわゆるホームポジションに手を安定させる工夫をした。



 現在使用中のキーボードはFとJのキートップに突起がある。これを頼りに、通常はホームポジションが決まるのだろう。
 が、ローマ字入力専用に近い自分は、FとJは殆ど使わない。
 そんなこともあって、手の位置を安定させる方法を考えた。
 そして、木製のアームレストを自作して使用した。



◆手元を見るのは単なる癖だと分かったので自制し、画面を見る練習をした。



 手元を見まいとすると、指先は手探り状態になった。
 それだけ、記憶内から必要なキーを探すことに捕らわれた。
 もちろん、画面に表示される文字を読むことは疎かになった。
 文章化すべきことに思考を集中できるはずがなかった。

 でも、急ぐ必要がないときは、いくら間違えてもかまわない。
 暗い時間帯に部屋の照明を消し、手元を見ても見えない状態にして、入力する練習をした。
 それができるくらい、すでに記憶に残っている各キーに位置情報は確かだと考えられ、手元を見る癖を直すだけだと考えられたからだ。

 やがて、手元を見なくなり、ミスタッチも減少してゆき、頭では文章化することに集中できるようになってゆき、それが画面上に文章化されているかを目で確認できるようになっていった。



◆出来るようになれるとは思えず、長い時間を要したが、いつのまにか実用していた。



 出来るようにはなれないだろうと思えなかったことが、長年、繰り返し、不具合を改善したこともあって、いつのまにか出来るようになっていた。

 もともとは、未熟で不自由だった。
 学習し、実用的になることに意義があった。
 必要なことを憶え、効率よくしようとか便利にしようと思い、不具合なことは改善した。
 未知なことだったし、計画的でもなかったし、長い年月を要した。
 精神整理に関する文字入力を行う場合は、MS-DOS仕様のデータベースソフトと同社のMS-DOS仕様のワープロソフトを使用していた。
 が、いつのまにか、実用的になっていた。

 手の位置さえ決まれば、キーボードを見なくてもどうにか入力できるようになっていた。
 違和感や不具合が無くなり実用的になったからこそ、気にもしなくなった。
 つまり、手元を見る必要がなくなり、キーボードを見る必要もなくなり、もちろんキーを一々探す必要も無くなっていた。



◆もちろん、どうしてこんなこと(ブラインドタッチ)ができるのかは未理解だった。だから、不思議だった。



 自分が実際に行っている動作なのに、どうしてこんなこと(ブラインドタッチ)ができるのか、その事実関係や理由は未理解だったことに気づいた。
 自分で学習し上達して出来るようになれたはずなのに、そうなれた事実関係や理由を未理解だった。
 理由を未理解なのに、実際に動作できる。
 それが、不思議だった。



◆なので、記憶に残っていることを繰り返し整理してみた。それによって、できるようになった事実関係や理由を理解できた。



 学習し、上達したからこそ、できるようになれたことは、他の学習上からも間違いない。
 でも、当初は諦めがちだったこともあって、長い時間を要した。
 つまり、ブラインドタッチが出来るようになれた理由は、すでに過去のことだった。
 でも、記憶を辿り、事実関係や変化などを整理してみた。
 記憶に残っていることを整理したことによって、事実関係や因果関係や理由などが解りはじめたので、再整理を繰り返した。
 そして、事実関係や因果関係や理由などが解るほどに、実用的にできるようになれた変化や事実関係や因果関係や理由などを理解することができた。



◆よって、整理できたことは、相応のことを理解できる。ということも、理解できた。



 そもそも、知らなかったことを憶える場合も、上達する場合も、見もせずに連続的な条件反射的な動作ができるようになるにしても、相応の情報が記憶に残るからこそ可能になる。
 その記憶に残っていることを、事実関係や因果関係に基づいた整理するだけで、関係することで構成された一連のことを理解できる。
 もちろん、考えるだけで理解できることでもあった。

 事実関係や変化や因果関係や理由などを整理できたことによって、事実関係や変化や因果関係や理由などを理解できた。
 よって、変化や因果関係などの整理ができたことは、相応の事実関係や因果関係や理由などの一連のことを理解できるんだということも、理解できた。



◆もちろん、事実関係を未整理なことに関しては、その因果関係や理由などは未理解な状態にあるのだ。



 つまり、学習し上達し、条件反射的な速さでできるまで熟練した。
 が、相応に時間も要した。
 よって、学習し上達し熟練した事実関係や変化や因果関係などは、未整理だった。
 未整理なことは、未理解な状態にあるのだということになる。
 整理できたことは、理解できるわけだから。

 整理できたことは理解できる性質上、学習し上達し熟練したことに関しても、事実関係や変化や因果関係などを未整理な段階では、学習し上達した因果関係や理由などは未理解だった。ということになる。

 そもそも、記憶には残っていた。その関係することを因果関係などに基づいて整理できたことによって、その一連のことを理解することもできた。
 つまり、記憶には残っていても、未整理なことは、未理解な状態にあるのだ。

 もちろん、学習し上達し熟練したことと、そうなれた因果関係や理由などを理解できていることとは、性質が違うことだったのだ。


 また、相応の時間を要した。ブラインドタッチができるようになった因果関係や理由などは過去のことだったからでもある。
 しかも、因果関係や理由は、目には見えない。
 が、思考は記憶を参考にして行うだけに、思考上では記憶を整理することもできる。
 記憶に残っていることを思考上で整理できれば、理解することもでき納得することもできる。
 そういうことだったからこそ、記憶に残っていることを事実関係や変化や因果関係に基づいて整理しただけで、理解できた。

 でも、考えただけで理解できた。
 もちろん、考えるだけで理解できることだった。
 なのに、考えなかったから未理解だったということにもなる。


 思えば、想像や勘違いや思い込みや固定概念などに関しても、そうだった。
 自分が思いを巡らしたり判断したりしていたこと自体に関することだったのに、想像や勘違いや思い込みなどに関することを考えたことも無かったから、想像や勘違いや思い込みなどに関する具体的な特徴や欠点などは未理解だった。
 でも、事実確認をしていなかったことに気づき、よって想像に過ぎないことに気づいた。
 そして、根拠や理由を無視するから、事実とは違うことも分からず、事実とは違うことでも事実だと勘違いすることも分かった。
 その勘違いが覆されないほど事実だと思い込み、その思い込みを基に行動してしまうことも分かった。
 つまり、気づいたことによって、その事実関係の整理を繰り返したから、想像や勘違いや思い込みなどの特徴や欠点も理解できた。

 よって、事実関係を未整理だった頃は、想像や勘違いや思い込みなどの特徴や欠点も未理解だったことも明らかになった。
 そうだったからこそ、勘違いも多く思い込みも多かった。ということも理解できた。

 でも、それ以上の具体的なことは未理解だったが……。
 事実関係や因果関係などを未整理なことに関しては、未理解な状態にある。これに該当するのか。
 それらの事実関係や変化や因果関係などを理に適った整理ができた場合は、その一連の事実関係や因果関係や理由などを納得し、理解できたことになるわけだから。


 つまり、学習でき上達でき随意にできるようになれ巧みにできるようになれるだけではなく、それらの事実関係や因果関係や理由などを理解できる理解力もあるからだ。
 ただし、巧みにできるようになった段階では、その理由は、すでに過去のことになる。
 が、相応のことが記憶に残っているからこそ、それを参考にした識別や思考や予想などもでき、相応の振る舞いもできる。
 でも、その記憶に残っていることを未整理なうちは、未整理なことに関しては未理解な状態にある。

 しかも、関係や理由は、目には見えない。
 が、思考上では整理できる。もちろん、未整理なことは未理解な状態にある。

 よって、変化や事実関係を思考上で整理したことは、相応の因果関係や理由を理解することもできる。
 その理解できたこと基に、事実関係を整理したことは、相応の因果関係や理由なども理解できるんだ、ということも理解できる。
 未整理なことは、未理解なんだ、ということも理解できる。

 なのに、そこまでは整理したことが無かった。
 だから、想像や勘違いや思い込みは解明できたが、理解に関しては、そこまで具体的には理解できなかった。
 だからこそ、識別や思考や判断などの情報処理の健全性を重視し始めた。
 つまり、学習の基本的なことや法則的なことも未理解だったからだった。
 だから、やがて、学習の基本的なことや法則的なことにも興味を抱いた。
 でも、格好の機会だとは思うのだが、なかなか理解するには至らなかった。

 その理解自体に関して未理解だった面も、今回やっと理解できた。



◆整理が進むと更に不思議なことが浮上した。



 JISキーボードでも、会話に近いスピードで入力できている。
 各キーの位置を目で探したり確認するよりも、明らかに速いスピードで入力できている。
 その理由は、まだ不明だ。



◆キートップの文字は、見るわけでもないので、憶えているわけでもなかった。



 気になることを、確かめてみたら、次のことも分かった。

 日本語のローマ字入力は、ほぼブラインドタッチが可能だ。が、英字入力するとなると、キーボードを見ないと入力できない。
 URL などを英字入力の際には、キートップの英字を一字一字探さなければ見つけられない。
 はっきり言って、キートップの英字はほとんど憶えていない。

 でも、日本語入力とはいえ、ローマ字入力ができる。
 各キーの位置を一々確認するよりは、明らかに速いスピードで入力できている。
 JISキーボードでも、会話に近いスピードで入力できている。
 なぜだ……。

 でも、手の位置がホームポジションからずれていると、総体的にずれた位置のキーを打っている。

 また、手の位置がホームポジションにあっても、ミスタッチをすることがある。
 その場合は、先ず手指の動きに違和感を感じて気づく。
 よって、画面上の文章の間違っている部分を探して直す。

 これらのことから、手指やキーボードやキートップの文字は見なくても入力できることは分かるのだが……。
 それができる具体的な理由は、分からない。
 なのに、できるわけだから、不思議だ。



◆話すときに口や唇や舌や声帯を調整しているように、入力に応じた指を動かす方向や距離などの動作を憶えているのだ。



 思えば……、手元を見ない練習を始めたとき……。
 つまり、手元を見ないで入力する際に、必要になったことは……。
 入力上、次々に必要になる各キーを見なくても確実にタッチできるようになることだった。

 手元を見ないことにした当初は、キーボードは記憶内のものを思い浮かべていた。
 が、入力を行う手指は見ないことにしただけに、「この辺りかな」と手探り状態になった。
 キーボードを見ないための手探り状態だっただけに、入力に必要なキーは、どの指を、どの方向に、どのくらい移動したところにあるか、そんなことが気になった。
 つまり、キーボードも手指も見ないで入力するだけに、どの指がどの方向にどのくらい移動したところのキーを押すと画面上に何の字が表示されるかが重要になった。
 これだ。
 それを繰り返した結果、入力しようとする言葉の発音に相応する各指や移動方向や移動距離などの感覚的な情報が記憶上に明確になっていったのだろう。

 車の運転で、各ペダルやハンドル操作を身体で覚えているのと同じようなことだったのだ。

 思えば、会話する際も、思考は、相手が話すことを理解することや自分が話すことを考えることに集中し、実際に声を出して言葉にして話すための口や唇や舌や声帯の操作は殆ど意識しなくても話せる。

 入力しようとする言葉の発音に相応する各指や移動方向や移動距離などの感覚的なことを憶えると、見るわけではないキートップに何と書かれているかは関係なくなっていったのだ。
 結局、視覚で確認する必要もなくなった。
 見もしないので、キートップに書かれている文字は、どうでもよくなったのだ。
 だからこそ、目で見て探したり確認したりするよりも明らかに速い動作が可能になったのだ。


 声は聞かなくても、口の動きを見ただけで、話している言葉を読み取ることが出来る人もいると聞く。

 書く文字も、いつも同じような字になる。
 ここだけは直そうと思っている部分もあるが、いつも同じような字になるのは、字形を手の動かし方で記憶しているからだと考えられる。

 車の運転中も、視覚的に捉えているスピードや車間距離を基に、視覚的には確認せずに足でアクセルやブレーキの踏み込み加減を微調整している。

 以前、毎日上り下りしている階段を、試しに目を閉じて上ってみたり夜に照明無しで上ってみたことが幾度かあった。
 あの時、特に最後の一段がもう一段ありそうで戸惑った。普段は、足元も階段も見ないで上るのにである。
 でも、普段は、足元は見ていないが、目に見える窓の高さや手すりの感触などで、上り切ったことは判断していると考えられた。

 それらと同じように、感覚的なことや、必要な動作も、憶えているのだ。



◆理解できたことは、応用や活用も可能になる。



 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている精神機構(知能)が備わっている。

 よって、知らなかったことでも、経験相応の印象情報が記憶に残り、その記憶を参考にした識別や思考や予想などが可能になる。

 よって、観察し確かめ試したことは、詳しくもなり上達もする。つまり、観察し確かめるほど間違いや勘違いも修正され、試したことほど不具合の改善や微調整も行われるので、それだけ具体的かつ適切な可否や是非の判断も可能になる。よって、悪しき結果になることは避けることもでき、着実に好結果にすることが可能になる。

 更に記憶に残った情報が確かになり、それを基に動作などができるようになると、一々目で確かめる必要が無くなるだけではなく、一々目で確かめるよりも速い条件反射的な速さで動作ができるようになる。

 しかも、それらは相応の情報が記憶に残っているからできるようになることであり、記憶に残っていることだけを基に日常会話ができるほどの理解力もあるだけに、そうなれた事実関係や因果関係や理由なども整理すれば理解できる。

 もちろん、理解できたことは、応用や活用も可能になる。
 つまり、整理上でも、ある程度理解できると、その理解できたことを基に再確認や再整理が可能になる。
 この時点で、すでに応用や活用が始まっているからこそ、整理が進み、理解するに至るのだ。



◆学習に関することを理解でき応用や活用ができる、ここまでの学習の基本的なことは誰でも共通だ。



 学習でき上達し熟練するだけではなく、それらがどうしてできるようになるのかを理解することもでき、その理解できたことは応用や活用が可能になる。
 それは、日常会話で実行していることでもある。
 よって、そこまでは、誰でも共通だ。

 考えるだけで理解できることをさえ、考えなかったばっかりに未理解だった自分は、遅れ馳せだったから、ここまで理解するにも大変な時間を要しただけだ。


 応用や活用ができるとはいえ、自身の身体を解剖するわけにもいかず、自身で実験できることも限られるだけに、個人的には知り得ること自体が限られている。
 もちろん、知人も限られ、生活環境のことも知り得ることは限られるし、何でもできるようになれるわけではない。
 むしろ、本来は誰でも理解でき、誰にでも共通なことでも、未理解だと共通ではなくなり、相応の不具合も生じかねない。
 そういう点でも、共通であることを理解することまでが重要だということになる。



◆ちなみに



 模索してきた結果、いわゆる学習に関する基本的なことを理解することができた。
 この学習の基本的なことを理解できたことによって、以前とは逆に、理解できたことを基にして確認したり整理したりすることが可能になった。

 禁煙したいと思ったが、できないどころか、喫煙本数が二倍に増え、日に四十本も吸うようになった。
 そこで、理解済みだった学習に関する基本的なことに気づき、それを元に、あれこれ確認した。
 禁煙できないどころか本数が増えた理由は、禁煙したいのだが、「禁煙を確実に実現できる知識も無く、自信も無いので、むしろ喫煙を肯定していたから」だったことを解明できた。
 また、軽い煙草にしようとか、本数を減らそうとかしていたわけだから、「なんとかタバコを吸い続けようとしていたようなものであり、禁煙しようとはしていなかったからだった」ことも解明できた。
 そもそも、少年時代に喫煙し始めた理由は、「上辺だけ大人振るためだった」ことまで解明できた。
 つまり、そもそも吸い始めた理由を忘れ、条件反射的に喫煙するようになり、いわば依存症的に喫煙するようになった、その理由を解明できた。
 自分のことなのに、こんなことも理解できないで、自分の精神管理もできないのに、上辺だけ大人振っているだけで、そんなことに執着しているようでは、とても大人とは言えない。
 むしろ、こんなことは理解でき、相応の精神管理もできてこそ、大人に近づくこともできる。
 解明できたことは精神的な内容だっただけに、解明できた瞬間に覆されもした。
 直ちに、開封済みの煙草も買い置きの煙草も父にあげて、自分は禁煙・断煙・絶煙的なことを実行した。
 同じ居間で父がタバコを吸っても、平気だった。
 同僚七人全員が喫煙者で、自分だけタバコを止めたのだが、そこでも平気だった。

 その年間のタバコ代を投じて、Windows XP パソコンを購入した。

 文章化し整理することによって、理解が深まり、文章を書く練習にもなる。
 というわけで、当時はYahoo!掲示板を楽しんだものだった。

 

カテゴリ : ◆自分の心を理解する:事例

自分の心を理解する:事例 アイコン


 沢山の応援アクセス、ありがとうございます。

 当地は、2月前半まで、例年よりも雪は少なかったのですが……。
 平成3年以来、最低気温が初めてマイナス18.5℃を記録。
 2月後半からは、積雪が増し、17日は暴風雪になり……。
 その後、数日で、例年並みの積雪になってしまいました。

 しかも、除雪で忙しかったことを理由にして、肝心なことに関しては怠けていた……。
 そんな気もするが……、やっぱり、何かに気を取られるほど、他のことは忘れるようになった、これにも該当する。

 むしろ、肝心なこととはいえ、勘違いや思い込みに囚われていたり陥っていたりもする。
 その解明や改善をする都度、肝心なことが進展し理解が深まったわけだから。
 そんな勘違いや思い込みもありえる考えを、一時的とはいえ、止め、離れ、忘れて、除雪を行っていた。
 となると、新たな考えが容易になる。
 これは、重視しなければならない。

 思えば、想定外の転換期がおとずれそうな気もし、それに期待して、余計な考えは止めたりもしていた。
 だから、それ以外のことには集中できなかったのか……。

 ならいいのだが、近年は、単なる老化現象だったりもする……。





 当時……。

 自分が苦悩し困窮した理由が、想像や勘違いや思い込みなどだったことを解明しただけに、識別や思考や判断などの情報処理の健全性が重視なのだと思い始めた。
 そして、乳幼児や猫でも、知らなかったことを憶え、できなかったことを随意にできるようになり、上達もしたりするだけに、その法則的なことに関心を抱いた。いわゆる「学習」に、関心を抱いた。

 その学習の法則などを理解できるかもしれないという可能性にも期待して、ホームページ作りを憶えることにした。
 空き時間があって、気が向いた時にやるだけの、独学だったこともあって、ホームページ作りは迷走状態で始まった……。
 と思っていたのだが、実は違っていた。
 アイコンに関しては、ホームページ作りを始める以前のことだったことが分かった……。
 つまり、いつのまにか、ホームページ作りの時だと勘違いし思い込んでいたことは間違いない。
 じゃあ、なんのアイコンだったのだ……。
 かなり前のことで、しかも勘違いして、すっかり思い込んでいただけに、なんのアイコンだったのかは今となっては思い出せない。
 でも、また、自分の勘違いや思い込みを覆すことができた。
 しかも、重要なことは、ソフトウエアが何だったかではない。
 条件反射的な動作をしてしまうことが重要だったのだ。


 ある日、そのソフトを起動しようと、マウスポインタをデスクトップ画面の上のほうに移動した。
 が、そのアイコンが、いつも有る一番上の列に無い。
 探したら、一番下の列(タスクバーのすぐ上)に有った。
 なぜ?
 思い浮かんだのは、ほんの数日前に、不要なソフトを幾つかアンインストールしたことだった。
 そのアンインストールした内の、あるソフトのアイコンもデスクトップ上の方に有った。しかも、起動しようとしたソフトのアイコンの左隣にあった。
 それが、無くなっている。

 つまり、不要なソフトをアンインストールしたことによって、そのアイコンもデスクトップ上から無くなった。
 確認したら、アイコンは自動整列に設定されていた。
 よって、デスクトップ上から、アンインストールしたソフトのアイコンが一つ無くなったので、アイコンが自動的に整列された。
 その結果、起動しようとしたソフトのアイコンは画面の上の方に有ったのだが、左隣の列の下に移動したのだ。

 アイコンは、自動整列のチェックを外して、ドラッグすれば、元の位置に戻せる。
 でも、アイコンの位置が変わっただけだ。その理由も解かった。

 しかも、あのときのことを思い出した。
 室内照明用のスイッチを別の位置に付け替えたことで、すっかり慣れた状況が変わった。
 よって、具体的なことを未理解なまま行っていたことが浮上した。
 つまり、その未理解だったことを、理解することが容易になった。

 が、理解することが容易になったことまでは気づいたのだが、スイッチを付け替えた際には具体的な理由は理解できなかった。

 その後、あえて利き手ではない左手で文字を書く練習をはじめたときも、左手は極めで不器用で、つい右手で書きたくなった。
 にもかかわらず、右手で書きたくなった具体的な理由は、理解できなかった。

 更に、利き手ではない左手でマウスを使う練習をし始めた時も、左手は不器用で違和感だらけだった。なので、右手に持ち替えたくなる。
 それでも、右手に持ち替えたくなる具体的な理由を、理解することはできなかった。

 でも、状況が変わることによって、普段は気にもせずに行っていたことや未理解だったことが、浮上する。
 それは、その事実関係を具体的に理解する格好の機会であることは間違いない。

 そんなことわけで、アイコンを元の位置に戻すのは止めた。


 数日後。
 そのソフトを起動しようと、画面の上のほうにマウスポインタを移動した。
 ところが、起動しようとしたソフトのアイコンが、あるはずの位置に、見当たらない。
 でも、すぐに思い出した。元に有った位置に無くなった理由や、画面の下のほうに移動したことを。
 そして、画面の下の方に有るアイコンを見つけ、そこにマウスポインタを移動してクリックした。

 これこそ、その事実関係を理解する好機だ。
 元あった位置には、今はアイコンは無い。
 なのに、その元の位置にマウスポインタを移動してしまう。
 なぜだ?
 しかも、目の前のデスクトップ画面を見るだけで、元あった位置にはアイコンは無くなっていることは分かる。
 つまり、デスクトップ画面を見もせずに、マウスポインタを移動していたことになる。
 結局、マウスポインタを移動したが、肝心のアイコンが無いことに気づく。

 スイッチを違う位置に付け替えたときも、元にスイッチがあった位置に手を伸ばしてしまった。
 目の前の柱を見ただけで、今はスイッチが無いことが開かるのに、見もせずに、手を伸ばしていた。
 むしろ、元あった位置にはスイッチは無くなっていること見ながらでも、手が伸びそうになったりした。
 なので、自分の意思に因る動作ではないような気さえした。

 が、スイッチを付け替えたときは、未理解だったことが浮上し、その未理解だったことを理解する格好の機会だと思ったにもかかわらず、理解することはできなかった。

 というわけで、利き手ではない左手で文字を書く練習をし始めた。
 あのときも、左手の不器用さに我慢できないかのように、ボールペンを右手に持ち替えたくなり、右手で書きたくなった。
 が、その理由も理解できなかった。

 利き手ではない左手でマウスを使う練習をし始めた時も、左手で文字を書く練習を始めたときと同様だった。
 その理由も、また理解できなかった。

 でも、未理解だったことが浮上した時こそ、その具体的な理由を理解する格好の機会であることは間違いない。
 なのに、その具体的な理由を理解できない。
 そもそも、理由が分からないのに、そういう動作をしていた?
 否、理由が分からないから、無駄な動作をしてしまうのか?
 自分が行っている動作なのに、そうしてしまう理由が分からない。
 理由が分かれば、改善や解決も容易なはずだ。
 理由が分からないだけ、改善や解決が遅くなる。

 まるで、右手依存症だ。
 今は無い、元に有った位置に向かって、元にしていたような動作をしてしまう。
 が、無駄な動作だ。
 と言うより、意に反する動作だと言っても過言ではない。
 そんな動作をしてしまうのは、なぜなんだ?

 アイコンが元に有った位置は、記憶されているからなのか……。しかも、繰り返しクリックしているだけ、アイコンが元に有った位置に関する記憶は確かだ。
 アイコンの新たな位置は、まだほとんど記憶されていない。少なくとも、まだ記憶が不確かなのか……。
 つまり、アイコンが現在に有る新たな位置に関する記憶は無いに等しい。が、アイコンが今は無いが元に有った位置に関しては記憶はむしろ確かにある。

 しかも、マウスポインタを移動してから、デスクトップ画面やアイコンを目で見て確かめる。

 そうか。
 画面を見もしないのは、アイコンが元に有った位置は記憶にも残っていて、その記憶を基に、つまりアイコンが元に有った位置にマウスポインタを移動している、ということなのか。
 記憶を基に動作を行えるのなら、目で見て確かめる必要は無い。


 当時は、その程度しか理解できなかった。
 自分が、記憶に残っていることを参考に識別し思考し判断などを行い、それを基に相応の動作をしていたのに……。


 やがて、そのソフトを起動する際に、マウスポインタを移動しながら、元に有った画面の上に方には目的のマウスポインタは今は無いことや、下の方に移動したことなどを思い出して、画面の下の方にマウスポインタを移動するのが早くなった。


 更に、そのソフトを起動しようと思った段階で、目的のアイコンは画面の下の方に移動したことを思い出し、そうであることを事前に見て確認するようになった。
 よって、画面の上の方にマウスポインタを移動するという無駄な動作はしなくなった。


 繰り返すうちに、アイコンの新たな位置の記憶が優先し、アイコンの位置が変わったことも脳裏をよぎるが無意味になり、無駄な動作をしなくなるにつれて余計なことも考えなくなった。


 結局、アイコンの新たな位置に慣れてしまい、元に有った位置にマウスポインタを移動してしまうことは無くなりし、アイコンの位置が変わったことは思い出でしかなくなった。
 よって、アイコンが元に有った位置にマウスポインタを移動してしまう理由は、未理解なままになった。


 つまり、スイッチの時と同様に、アイコンも、元に有った位置にマウスポインタを移動してしまうことが不思議だった。
 見もせずに動作していたことも不思議だった。
 自分の動作なのに理由などを未理解だったことも不思議だった。
 むしろ、意に反する動作をしてしているとさえ思えた。そんな不思議さにばかり気を取られていた。
 しかも、新たなアイコンの位置も繰り返すほど確かに憶え、実用的になり、慣れてしまうと、それで十分に用が足りる。
 つまり、その理由まで理解する必要は感じなかった。
 結局、新たな方に慣れてゆき、不思議だったが理解できなかったことには構っていられなくなった。


 後に気づくのだが……。

 スイッチを付け替えたときと同様に、当時、新たな位置に慣れていったわけであり、その変化や事実関係や理由なら、理解も容易で、やがて慣れてしまう理由をも理解できたはずだった。

 つまり、繰り返し接したことほど、そのことに関する記憶が確かになってゆく。
 記憶が確かになると、当初のように探したり目で確かめるよりも早く情報処理ができるようになり、よって相応の動作も早くできるようになる。
 更に記憶が確かになると、その記憶を基に動作できるようになる。よって、目で確かめる動作の方が遅れるがちになる。

 ちなみに、日常会話は、記憶に有ることだけを参考にしてでも行われる。だからこそ、理解したり理解できなかったり、納得したり納得できなかったりする。

 けれども、記憶だけを参考に情報処理ができるようになってしまうと、その事実関係を理解することは難しく、そうなった事実関係を理解することも難しくなる。
 むしろ、そうなる段階的な変化や理由などに注目した方が、アルタイムで理解できるので、理解は容易だ。
 よって、最終的に記憶を基に条件反射的な動作をしてしまう理由をも、理解できたはずだった。

 が、当時、学習の法則的なことに関して関心を抱いていて、格好の経験もしていたにもかかわらず、不思議さにばかり気を取られたために、肝心な学習の基本的や法則などは理解しそびれてしまったのだった。
 もちろん、集中力の性質上、的外れなことに気を取られるほど、肝心なことが疎かになる。そういうものであることも、当時はまだ未理解だった。


 知らないことや曖昧なことほど、リスクも高い。詳しく知っていることほど、適切な識別や判断が可能だし、好結果に通じる。
 想像や勘違いや思い込みや、先入観や固定概念などに関しても、同様だ。
 もちろん、損をしたり痛い思いをしたりすることは避けたいし、可能な限り好結果にしたい。
 よって、必要に応じて、観察し確かめ試し、確かで詳しい情報を得ようとする。
 確かで詳しい情報を得たことは、相応の具体的なことを基に認否や可否や是非の判断も適切にできるようになる。だからこそ、好結果することもできる。
 日常でも、そうしている。

 会話上でも、良いことであれ悪ことであれ、根拠や理由が不十分だったり無理や矛盾があったりすると、理解できないし納得できない。
 だから、必要に応じて、尋ねたり確認したり調べたりさえする。
 そして、根拠や理由があって理に適っていると、理解でき納得もできる。
 つまり、具体的な理由を基に、可否や是非などの判断も可能になり、よって、悪しき結果は避けることができ、着実に好結果にすることができる。

 もちろん、必要なら、教習所にも行くし、学校にまで通う。

 そんな、日常的におこなっていることも、当時の自分はまだ理解できていなかったことになる。

 
カテゴリ : ◆自分の心を理解する:事例

自分の心を理解する:事例 左手で文字を


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。


 せっかく気づいたことでも、思い出せなくなったり、忘れてしまったりもする。
 だから、メモをするようになり、文章化するようにもなった。
 文章化して繰り返し整理したことで、それだけ整理も進んだ。
 そんな経験上、文章化して整理することの有効性にも気づき、文章化することを活用するようにもなった。

 つまり、頭の中だけで思考したり整理したり理解したりするのには、限界があるからだったのだ。
 なのに、そうであることは理解しそびれていた。

 錯覚や勘違いや思い込みや先入観や固定概念などの精神面の弱点や欠点は、思い知らされ、解明できたのに……。
 思えば、頭の中で、識別や思考や理解や判断などを行う。
 つまり、記憶に有ることを参考に識別したり思考したり、記憶にあることを整理して理解したり解決したり、予想したりもする。
 そんな性質上、むしろ、頭の中だけで、十分なことができるような気さえしていた。
 これも、勘違いや思い込みでしかない。
 つまり、過信までしていたことになる。

 頭の中で行うことは、目には見えないからでもある。
 それゆえに、絵に描いたり、図にしたり、記号化したり、文章化したりするわけだが、これらは、目に見えるようにすることでもある。
 しかも、記憶よりも、記録の方が確かに残る。
 もちろん、精神面の欠点や弱点を補うことでもある。

 だからこそ、自分も、メモするようになり、文章化するようになり、再整理まで繰り返すようになったのに……。
 否、だからこそ、気づくことができたのか……。





 当時は……。
 自分の識別や思考に関することである想像や勘違いや思い込みや、その参考にしている記憶に関することである固定概念に関することなどを、未理解だったばっかりに、それゆえの無理や矛盾も把握できず、三年も苦悩したあげくに困窮した。
 ところが、精神的に困窮しただけに、思考には無理も矛盾もありえることに気づいた。
 よって、想像や勘違いや思い込みや固定概念の性質や特徴などを解明でき、苦悩は解消し解放された。
 結局、自分の識別や思考に関することを未理解であることがどういうことかを思い知らされ、直に経験し続けているはずの自分のことをいかに未理解だったかを思い知らされた。
 肝心な自分のことをほとんど知らなかったわけであり、いわば知っていたことは余計なことなかりだとさえ思えた。

 それらは、誕生後に、経験し、相応のことを学習した、その類であることも分かった。
 学習ゆえに、憶えたことは限られ、間違いもある。
 よって、識別や思考や判断の健全性を欲した。

 個人的なことで、根拠も理由も無い思い込みや固定概念などは、可能な限り確かめるようになり、覆すようにもなった。
 しかも、誕生当時は知らなかったことを、誕生後に経験し、相応のことを憶え、随意にできるようになったんだ、という概要は確信するようになった。
 すでに三十歳になっていたが、「学習」とはどういうことなのか、その法則的なことや具体的なことに、今更のように関心を抱いた。
 自分が、まだ言葉も話せなかった幼い頃に、知らなかったことを、どうして憶えたのか。できなかったことを、どうして随意にできるようになり、どうして上達したのか。そんなことを未理解だったことが明らかになっただけに、関心は深まった。
 また、学習したことに因って出来るようになったことなのか、否か。その判断の基準になるようなことも知りたかっただけに、学習とは本来はどうなのか、という関心でもあった。


 そして、猫が、戸を開けることができなかったのに、できるようになり、上達もした。
 猫も、知らなかったことを憶えるし、相応の識別もしていることが分かった。


 その後に、長年使い続けた照明用のスイッチを付け替えたことによって、それまでは気にもしなかったことが明らかになった。
 つまり、長年続いた状況が変わったことによって、長年行っていた動作が、実は具体的な事実関係や理由を未理解なまま行っていたことなどが明らかになった。
 普段は気にもしなかったことが、浮上した状態になった。もちろん、その事実関係や理由を理解する格好の機会だった。
 なのに、具体的なことは理解できなかった。

 格好の機会だとは思ったが、それを活かすだけの知識は自分にはまだ無かった。
 しかも、条件反射的に手が動いてしまう不思議さにばかり気を取られ、付け替えた新たなスイッチの位置に慣れてゆくことこそが学習であることに気づかず関心が向かなかった。

 当時は、直に経験し続けている自分自身のことだけに、(体的な根拠や理由が無いまま)十分に知っていると勘違いし思い込み、それが先入観や固定概念にもなり、自分の情報処理能力を過信していた。
 そうであることにも、まだ気づけなかった。
 つまり、自分のことを知らないことが、どういうことかを思い知らされたにもかかわらず、直に経験し続けている自分自身のことだけに(具体的な根拠や理由が無いまま)十分に知っていると勘違いし思い込んでいた。
 それが、むしろ自己理解の障害にさえなっていたことになる。

 相応のことに気づく都度、確かめ、それを繰り返すたびに確かになり詳しくなっていった。これ自体も、知らなかったことを憶えることだった。
 つまり、相応のことが、記憶にも残った。
 そうだったからこそ、再整理も容易になった。
 そういう経験済みのことも、当時は具体的には理解できていなかった。が、経験済みであり、相応のイメージは記憶にも残っていて、関連することを考えるたびに思い浮かんだ。

 状況が変わったことによって、事実関係を未理解だった動作が浮上した。
 これは、その動作をするようになった具体的な事実関係や理由を理解するには格好の機会だ。
 というイメージが記憶に残り、気になっていた。

 また、自分のことであり、経験上のことであり、自分の動作なのに、ほとんど未理解だった。
 それゆえに不思議だと思い、関心も深まっていった。


 状況が変わったことによって、気にもしなかったことや未理解だったことが浮上した。
 当然に、理解し易くなる。
 ならば、意図的に状況を替えて……。
 普段は気にもしなかった未理解なことを、浮上させ……。
 その事実関係や理由などを理解できないものだろうか……。

 とりあえず、いつもは右手で書く文字を、左手で書いてみようか。
 早速、やってみた。
 が、不器用な左手で書くのは嫌になり、ボールペンを右手に持ち替えて書きたくなる。
 つまり、右手で書いた方が少なくともすらすら書ける、ということを憶えているし、思い出しもする。

 このことから、子供の頃に、先に器用に使えるようになった手を優先的に使うようになったであろうと考えられた。
 つまり、片手でも出来ることは、先に少しでも器用に使えるようなった右手を優先的に使う。
 よって、不器用な左手は、ますます使わない。
 結局、右手はますます器用になって利き手となり、その右手の補助的な使い方をするようになった左手は器用にはならなかったのだ。

 弟は、左利きだ。
 でも、弟は、子供の頃に右手を使う練習をさせられたこともあって、右手もかなり器用に使う。

 もともと右利きの自分は、左手を使う練習はしなかった。
 つまり、左手は練習しないから、器用に使えないのだ……。


 その際に使用した紙は、捨てずに傍に置いてあった。

 その紙に書かれた字は、そもそも線が真っ直ぐでない。俗に「みみずが這った」と言われるような線だ。
 左手で字を書いたとき、真っ直ぐな線をなかなか書けなかったことも、記憶に残っていて思い出した。

 横画は、左側から右方向に向って引く。その性質上、右手で書く方が書きやすい。
 左手は慣れていないこともあるが、左手で左から右方向に線を引く場合は、筆記具の角度が突き刺さるような角度になる。
 右手は慣れているからだと思ったが、線を引く際の筆記具の角度の関係でもあった。
 むしろ、日本の文字は右手で書くことを前提に考案された文字だとさえ考えられる。
 となると、今回の目的には、不向きだ。


 結局、左手で文字を書く練習をするのは、諦めた。
 新たなことを、憶え、上達し、熟練する、その過程に学習の法則があるわけだが、そうであることには当時はまだ気づけなかった。
 よって、学習する具体的な理由も、理解しそびれた。


 が……。
 スイッチでも思ったが、先に学習していることが、新たな学習の障害になる場合もある……。
 右手ではスムーズに書けることが分かっているから、つい右手で書きそうになるわけであり、左手で練習する際には障害になる。
 つまり、右手で書けるような線を、左手では書けるようになるには、少なくとも右手で書けるようになった以上の努力と時間を要することになる。


 左手で書いた字を見て、小学校低学年の頃に同じ字を幾度も幾度も書いて練習したことを思い出し、当時と大差のない字だと思った。
 中学生になった頃には、大人の言いなりになることに危険を感じて、ほとんど勉強はしなくなり、字を上手に書こうとも思わなくなったわけだから。
 だから、字を書くときは、いつも思う。自分が書く字は中学生の頃のままなのだと……。
 子供の頃に、いろんなことを学習して随意にできるようになったことは間違いない。


 そもそも、両手とも器用には使えなかったのだ。
 そうだったことは、赤ん坊を見ると分かる。
 自分も、赤ん坊だった頃はああだったことになる。


 結局、望みだった細部の具体的なことは一向に理解できなかったが、意外にも概要の把握の方は着実に進んでいたのだった。

 
カテゴリ : ◆自分の心を理解する:事例

自分の心を理解する:事例 スイッチ


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 残念ながら、老化に伴う眼精疲労に因り、パソコンに向かう時間を制限せざるをえなくなりました。

 でも、個人的な心の整理を行う手段でもあるだけに、記事の編集は止められません。
 また、ブログに投稿することを、個人的には義務にすることで継続することにしています。

 よって、相互応援アクセスの方は、断念します。
 本年は、たくさん応援アクセスをしていただきまして、ありがとうございました。



 ※ 前々回と、前回と、記事の編集が間に合いませんでしたので、それらの主要な点も以下に仮に記載しました。



 猫と、言葉で具体的なことを話せたら……。
 そんな思いが増していった。
 けれども、タモ(チビが最初に産んだ雄猫)にも、言葉で説明して何かを教えることはできない。


 でも、チビもそうだったのだが、タモも、居間と勝手口の間の戸を自分で開けることを学習した。

 野良だったチビ(タモの母猫)は、家に初めて入ったのが晩秋とも初冬とも言うべき頃だっただけに、その後だったが、居間と勝手口の間の戸を自分で開けることを学習した。
 翌春、チビが家の風呂場の脱衣所で産んだ子猫の内、一匹はイタチか何かに襲われて死に、一匹はもらわれてゆき、次いで二匹もらわれてゆき、残した一匹の雄猫にタモと名付けたのだが、タモは暑くなる前に、居間と勝手口の間の戸の開け方を学習した。

 チビも、タモも、一旦できるようになったら、着実に上達し、大胆にもなった。

 もちろん、独自に学習した。
 自分は教えようが無かったわけだから。


 そんな結果から、学習に関することを察したところ……。

 居間と勝手口の間の戸を、人が開け閉めする様子は、居間に居る猫たちにも見えている。
 見ていると、戸は開け閉めできるものであることや、人が開け閉めしていることや、人が戸を開けて出入りする、猫たちの記憶にだって残るはずだ。
 人が戸を開けると、もちろん猫たちだって出入りできる。
 そんなことも記憶に残っているのだろう。

 そもそも、猫も、仲良くする家族や、仲良く遊んでくれる人や、食べ物をくれる人などに、相応の違う接し方をする。
 相手次第で、爪を出さないし力加減もしている。
 かまって欲しいと言わんばかりに、寝っころがってお腹を出すのも、誰にでもするわけではない。
 つまり、記憶に残っていることを参考にして識別や思考や予想などもして、相応の振る舞いをしているのだとも考えられる。

 でも、猫は、言葉で具体的に「外に出たい」とか「戸を開けて欲しい」などとは言えない。
 むしろ、自分で随意にできるようになれたほうが手っ取り早い。
 となると、自分で開けられるものか否かも問題だ。
 更に、どうして戸が開くのか、どうすれば戸が開くのか、それだ。
 そうだったとすると、猫たちは真剣に観察していたのか……。
 真剣に観察していたのなら、戸はどの方向に動き、戸が動いた分だけ開き、開いた所から出入りが可能になる、そんなイメージも猫たちの記憶に残ったかもしれない。

 だとしたら、タモが外出したくなったときに、タモの記憶に残っているイメージ(戸はどの方向に動き、その分だけ戸が開き、出入りが可能になる)を思い浮かべた……。
 その記憶に残っているイメージ(戸はどの方向に動き、その分だけ戸が開き、出入りが可能になる)を参考にして考え、そうなのならばこっちに引っ張れば開くかもしれないと考え、そうなのか否かを確かめるべく試してみた……。
 当初は、ガリガリ引っ掻くばかりだった。
 が、巧く爪が掛って戸が少しだが動いた。となると、これだ、とも思っただろう。にわかに、夢中になった。
 チビの場合は、戸が少し開いたところに右手を入れてもがいて更に開けた。
 タモは、少し開いた戸の間に顔を九十度回転させて押し込み、更に身体も押し込み、いわば身体で戸を押し開けて勝手口に出た。
 もちろん、自分で戸を開けることができる、ということを体験し、それも記憶に残っただろう。
 その後は、たちまち上達した。
 そして、大胆に開けるようにもなった。
 相応のコツも憶えたからこそだ。

 つまり、猫も、かなりの学習能力を発揮している。


 自分も、経験相応の印象なり情報なりが記憶に残り、その記憶に残っていることを参考にして相応の識別や思考や予想などもして、相応の振る舞いをし、相応の結果になる。
 繰り返したことは、確かに憶えるし詳しくもなるし、コツも憶えるし上達もする。

 学習自体の基本面は、人も猫も共通なのだ。


 だったら、タモが「ニャー」と言ったとき、自分が返事をすることを繰り返していれば、それが記憶に残る。
 つまり、タモが「ニャー」と呼びかけ、俺は呼ばれたことを認識したことを伝える返事をする、という事実関係がタモの記憶に残る。
 そして、タモが何かをしてほしいときなどに、その記憶にある事実関係を参考にして考え、俺に気づいてもらうために「ニャー」と呼びかける。
 その程度のことは、できるようになれるのではないのか……。

 思えば、チビは、外から帰って来た際に、勝手口側から居間の戸を開けることは憶えられなかった。
 でも、勝手口側で「ニャー」と言うようになった。
 その都度、俺が戸を開けてあげていたのだった……。
 つまり、チビは「ニャー」と言うだけだが、チビの気持ちは「戸を開けてほしい」とか「居間に入りたい」と言っているようなものだったのだ。
 そこまで察していたわけではなかったが、俺が戸を開けると、チビは早速入る。
 ということは、チビは、言葉で具体的には話せないが、チビなりの意思表示をしていたことになる。
 それは具体的な言葉ではないので、察するしかないわけだが、察して相応の応対をすれば意思の疎通も成立していたことになる。
 むしろ、俺が察しなかったり、理解しようとしなかったことこそが、問題だったことになる。

 その程度の意思疎通なら、きっとタモだってできるようになれる。
 チビよりも幼い時期に、タモは戸を開けるようになったんだから。


 要は、言葉で伝えることはできない。
 が、感情や気持ちはあり、相応の表情や振る舞いもしている。
 なので、その表情や振る舞いなどを基に、感情や気持ちを、察することが重要なのだ。

 ならばと、戸には心張り棒かって、猫は開けることができないようにした。
 つまり、タモが「ニャー」と言って、「外へ行きたい」とか「ここを開けて欲しい」などと言わんばかりの振る舞いをした際に、その気持ちを自分が察して戸を開けてあげることにした。
 もちろん、的確に応対した方が、その事実関係を、タモは憶えやすいはずだ。

 きっと、タモは、意思表示ができるようになり、意思疎通もできるようになるはずだ。

 また、タモが「ニャー」と言ったときは、自分は必ず返事をすることにした。
 当然に、タモが「ニャー」と言ったときには、必ず返事することを徹底した方が、その事実関係をタモは憶えやすいことになる。
 タモが何をしてほしいのかも、もちろん察するしかないのだが、相応のことをしてあげる。

 そんなことを、ごく当たり前に行う日々になっていった。


 そして、何年目だったのだろう……。
 タモが返事をしていることに、母が気づいた。
 誰かが「タモ」と呼んだときだけ、必ずタモが「ニャー」と返事をする。
 そうであることは間違いないことを、何度も確かめた。

 タモは言葉は話せないし、意思疎通は目にも見えない。
 なのに、タモは、自分が呼ばれたことを識別でき、それができていることを返事をすることを以て呼んだ相手に伝えるようになった。
 そう考えられた。

 となると、タモが何かをしてほしいときに「ニャー」と言っていたのも、タモは言葉で具体的に説明することはできなかっただけで、相応の意思表示はしたいたことになる。
 タモは言葉で具体的に説明することはできないだけに、その点を人の方で察するしかなかった。
 察した内容が、タモの望み通りだったり、相応の応答ができた場合は、意思疎通が成立していたことになる。

 違う。
 猫同士は、具体的に説明ができる言葉は使わないが、仲良くする家族に対しては、爪を出さないし噛む場合も力加減をしている。
 むしろ、寄りかかったり、尻尾の先だけでも触れていようとする。
 警戒心丸出しだったのに、人の傍で眠るようにもなったし、撫でて欲しいと言わんばかりに寝転がってお腹を出すようにまでなった。
 タモのお気に入りの居場所は、俺の胡坐の中だ。
 つまり、猫は、言葉では意思疎通をしないが、表情や振る舞いを識別しているだけではなく、表情や振る舞いから察することができる感情や気持ちなども識別しているのだ。
 だからこそ、相応の振る舞いをしていることになる。
 むしろ、言葉を使わないがゆえに、猫たちは、感情を率直に表し合い、その感情や気持ちを察し合っているのかもしれない。
 ということは、言葉は使わないが、意思疎通ができているのだ。
 猫は、すごい。

 むしろ、猫がそういうことを察しているのに、自分は察することができなかったことになる。
 この点でも、猫よりも、自分の方が劣っている……。
 自分は、言葉を話すようになったから、猫たちのように察することを忘れたのだろうか……。
 言葉の性質上、口先だけで言い訳も言えるし嘘も言えるし、事実とは違うことを事実だと勘違いさせ思い込ませることもできる。

 自分が子供の頃、大人は子供の気持ちや考えを理解しようとすらしなかった。
 むしろ、子供を煽てたり御機嫌取りをしたり脅したりして、思い通りに子供を行動させようとした。
 逆らうことは許されず、反抗扱いされた。

 なのに、自分は言葉を過信してしまっているのか……。
 根拠も理由などの具体的なことを確認もせずに、外見的なことだけを基に勝手に想像し、猫よりも人の方が優れていると勘違いし思い込んでしまい固定概念化してしまっているのだろうか……。

 人は、事実とは違うことを事実だと勘違いさせ思い込ませることもするだけに、自分に都合よく有利になるようなこともするし、優れたことであるかのように祭り上げもする。
 もちろん、私利私欲のためでしかなく、巧みに偽装や隠蔽などもし、独占や独裁を目指しているようなものだ。
 むしろ、相手のことは侮り翻弄し見下す。
 そうだとも知らず、そんなことに目を奪われて加担し助長し、肝心な自分を見失い、心まで奪われて本来の人生を見失った。
 そんな自分に、やがて気づいたからこそ、自分の無知と愚かさに絶望したのだ。


 というわけで、自分も、猫の振る舞いから、その気持ちや考えを察することを心がけた。
 また、人が話すことも、嘘偽りが無く、言葉に伴う物事が明確なら、猫も憶えやすく、識別できるようにもなるような気がして、日常的にタモに話しかけるようにもなった。


 そのタモに異変が生じ、隣町の獣医を訪ね、獣医が原付バイクで二度足を運んでくれた。
 が、タモは五歳の年の九月十八日の夜、苦痛だったはずなのに、あがきもせず、もがくこともなく、呼びかけても反応もしなくなり、まさに独自に他界に向かった。

 自分は、泣くのを堪えていた。
 が、猫たちは、そういうことはしない。むしろ、感情を素直に表す。そうすることで、共感もし、その状況などまで判断して、一斉に身を守る行動もとったりさえする。
 男なんだから、大人なんだから、というのは上辺だけを繕うことでしかない。そういうことは止めようと思った、途端に涙が溢れて止まらなくなった。
 あまりの哀しさと寂しさから、日頃、強情を張ってでも上辺を繕うばかりの母に向かってまで本音を吐いた。
「おまえは死んでも、こんなに哀しくはないはずだ」



事例 スイッチ




 タモが亡くなった哀しさ、タモがいなくなったも寂しさ、自分の孤独、それらを紛らそうとも思い、ストッカーを購入した。

 手入れをされていない雑然とした野山に出向くようになったのは、積雪が一メートル以上になる冬山でも生き抜く野生に比べて、指図されたことをしてしか生きられなかった自分の未熟さを思い知らされるようになったからだった。
 山菜やキノコを採りに行くようになったのは、野良と言われるが猫は大自然の中で自立して生きてゆけることを重視するようになったからだった。
 その、無農薬食品であり有機肥料だけで育った食品でもある山採やキノコなどの、冷凍保存用に欲しいと思っていたストッカーだった。


 九月二十一日、ストッカーが届いた。
 ストッカー用の電気の配線工事は、自分で行った。

 家は安普請の木造で、「建てた年に、おまえは7歳だった」と幾度か聞かされたことがあった。
 当時の大工道具は電動ではなく、大工がノミやカンナなどの刃を砥石で研いでいたことは、憶えている。

 台所があり、その隣が物置部屋(四畳半で食器や漬物などを置いてある)で、その物置部屋を廊下代わりにして進んだ先のドアを開けると、トイレがある。
 その物置部屋とトイレの照明を点灯・消灯するスイッチは、物置部屋の戸の一メートルほど手前の台所の柱にある。
 それらの、元からある電気の配線を利用することにした。

 まず、台所に有ったスイッチ(物置やトイレの照明用)を、配線ごと取り外した。
 そして、物置部屋とトイレの照明側を、一旦、直結にした。つまり、配電盤の電源をオンにすると、物置部屋とトイレの照明が常時点灯する状態にした。
 その直結にした配線の物置部屋側に、ストッカー用に新たな配線をしてコンセントを設けた。
 更に、その先の配線を片方だけ切って、そこに配線して新たにスイッチを設けた。

 その結果、物置部屋内とトイレの照明を点灯・消灯するスイッチは、台所からは無くなり、物置部屋の戸を開けると一メートルほど先の右側の柱に新たに設けられた。


 そのスイッチを付け替えた夜。
 トイレに向い、手を伸ばしたが、スイッチが無い。
 思えば、物置部屋のストッカー用の配線工事を行った際に、元に有ったスイッチは取り外して、目の前の戸を開けた先の物置部屋内の柱に付け替えたのだった。
 物置部屋の戸を開けると、左側には新たにストッカーがあり、右側の柱にも以前は無かったスイッチがある。


 その後も、トイレに行く度に、以前にスイッチがあった傍まで行くと、手を伸ばしてしまう。
 そこには、スイッチはもう無い。
 なのに、手を伸なしてしまう……。

 考えてみみても……。
 記憶を参考にして手を伸ばしているという実感は無い。
 すでにスイッチが無いことは見ただけで分かるわけだから、スイッチの有無を見もしないで手を伸ばしていた。
 すでにスイッチが無いことを忘れているくらいだから、ここで手を伸ばそうなどと考えて行っているとも思えない。
 いわば、勝手に手が伸びてしまう……。
 これを、条件反射と言うのだろうか……。


 日常、自分の記憶に無い人のことは、自分は名前も識別できない。
 会ったりすると、相応の情報が自分の記憶に残る。
 記憶に残るからこそ、別れた後でも、会っていたときの記憶は思い出せる。よって、あのことを確認し忘れたと気づくと、急いで確認しに戻ったりもする。今度会った時には……、などと思いを巡らすこともできる。
 つまり、記憶に残った情報を参考に、相応の識別や思考や予想なども可能になる。
 その識別や思考や予想などの内容次第では、躊躇したり、行動するか否かを具体的に決定したりもし、相応の結果にもなる。

 警戒心丸出しだった野良猫と、仲良くなることもできたわけだが、猫も仲良くできる相手か否かを見分けているからだ。
 猫が、相手しだいでは爪を出さなかったり噛む力も加減したりしているのも、仲良くできる相手か否かを見分けているからだし、いわば仲良くするために守るべき最低条件(ルールの原点)をわきまえていることになる。
 つまり、猫は、言葉で具体的に伝え合うことはできなくても、むしろ表情や振る舞いなどを基に相手の気持ちをも察していることになる。だからこそ、相応のことも行っていることになる。そうできることにも、共感しているのかもしれない。

 なのに、自分は、自分でスイッチを取り外し、すでにスイッチは無いところに自分で手を伸ばしてしまう。
 しかも、そうしてしまう事実関係や理由を理解できない……。


 幾度目かで、少し手前の位置で、この先で手を伸ばしてしまうことを思い出し、そこで立ち止まることができた。
 この二歩ほど先で、すでにスイッチは無くなっているところに、いわば勝手に手が伸びてしまう。
 ならばと、スイッチが元に有った位置には、今はもう無いことを目で見て確認した。
 付け替えたので、今は戸を開けた先に有ることも、その記憶を思い出して確認した。
 その上で、歩き出した。
 が、それだけ確認したにもかかわらず、いつも手を伸ばす辺りで、いつものように手を伸ばそうとしてしまう。
 機械仕掛けかとさえ思え、思わず独りで笑ってしまった。
 いわば、自分の意思に基づかずに、むしろ自分の意思を無視して勝手に手が伸びてしまうようにさえ思えた。


 幼い頃からこの家で暮らし、一時期は都会で暮らしたものの、戻ってからも数年は暮らしている。
 いわば、このスイッチの操作は、生活に根差しているということなのだろうか……。
 生活習慣というものも、こういうことだということか……。


 そもそも、自分は、以前は、自分のことを勘違いし思い込んでいたことに気づくことさえできなかった。
 結局、直に経験し続けていたはずの肝心な自分のことを、ほとんど未理解だったことが明らかになった。
 思考力も理解力も発揮できていることをさえ、未理解だった。
 むしろ、直に経験し続けている自分のことで、しかも理解が可能なはずのことを、未理解であることは、どういうことなのかを思い知らされた。
 つまり、事実確認をしない想像や、それゆえの勘違いや、勘違いが一向に覆されないがゆえの思い込みや、疑問すら抱かなくなった固定概念や、無理や矛盾だらけの妄想の世界に迷い込んだ。

 今回も、それゆえに理解できないのか……。
 自分が手を伸ばしてしまうのに、この事実関係や理由も未理解だったし、いまだに理解もできない。

 もちろん、行動上の中枢に関することを、自分で把握できないと、自分の想像や勘違いや思い込みなどの無理や矛盾も解決できなかったりもする。
 その内容しだいでは、自分が困ってしまったりさえする。


 数年前、事実関係を解明できたことによって、解決もできたことで、具体的なことも明らかになったわけだが、それまでは、自分の想像や勘違いや思い込みや固定概念などに無理や矛盾があることを、解明できなかったばっかりに解決できず三年も困窮した。
 当時は、自分の記憶や識別や思考に関することなのに、想像や勘違いや思い込みや固定概念とは、どのことを指すのかも知らず自覚できなかったし、それらの特徴や欠点なども未理解だったからでもあった。
 それらを、特徴などを基に自覚できるようになり、欠点も理解できたからこそ、覆すこともできた。

 でも、それらは、自分の記憶や識別や思考に関する内面的なことが主だった。
 この手が伸びてしまうことに関しては、自分の動作に関することが主だ。
 自分の動作に関しては、ほとんど把握できていなかったことが判明した。
 しかも、これだけの事例があるにもかかわらず、事実関係や理由を全く把握できない。
 もちろん、行動に関することでも、自分で把握できないと、解決もできない。
 当然に、その内容しだいでは、自分が困ってしまったりさえする。


 事実関係を把握できなくても、無意味な動作は改善を要する。
 事実関係を把握できないことなのに、それを改善するにはどうすればいいんだ……。

 これに関しては、この場所でだけだ。
 しかも、夜で暗い場合にだ。
 つまり、夜に、その場所まで行くと、スイッチの有無などは考えもせず見もしないで、手を伸ばして、点灯や消灯をしていたことになる。
 そんな動作を自分で行っていたことを、具体的には把握できていなかったことにもなる。
 まさに、条件反射だ……。

 そんなことを考えるようになった頃には、手を伸ばしそうになる手前で気づけるようになり、立ち止まれるようになっていた。
 そこで、元に有った位置からはスイッチは無くなったことを見て確認し、戸を開けた物置部屋内の柱に付け替えたことも記憶上で確認することにした。
 そして、伸びそうになる右手を左手で押さえて、歩き出した。
 それでも、右手は伸びそうになる。
 よって、自分の意思に反して、自分の手が勝手に動いてしまうかのようにさえ思えた。

 生活習慣や癖などを、修正しなければならないとなると、かなり大変なのだとも考えられた。


 油断すると、照明が必要ない昼間でも、手が伸びたりする。
 これは、以前よりも気にするようになったからだとも考えられた。
 また、見て確認するわけでもなく、考えて行っているわけでもないのだとなると、むしろ日中に手が伸びたりしても不思議ではない……。


 でも、行く度に、手が伸びそうになる手前で立ち止まり、元に有った位置にはスイッチはもう無いことを目で確認し、戸を開けた先の物置部屋内の柱に付け替えたスイッチを思い出し、その上で進む。
 繰り返すうちに、それらの一連の事実確認は簡略化されてゆき、すでにスイッチが無い位置には手を伸ばさなくなった。


 でも、うっかり確認を忘れると、手が伸びてしまい、自分でも笑うしかない。
 が、手を伸ばしてしまうことをふと思い出したり気にしたりした場合に、つい手を伸ばしてしまうのだとも思えた。
 ならばと、元にスイッチがあった位置を気にしないくらい、新たなスイッチの位置である物置部屋内の柱を意識するように心がけた。
 よって、そこまで行くと、新たなスイッチの位置を思い出すようになり、加速的に移行していった。
 しかも、理解できそうもないことは、気にもしなくなっていった。


 理由を理解するのであれば格好の経験をしていたわけだが、残念ながら、その具体的な理由を当時は理解するに至らなかった……。

 数年前に、自分の想像や勘違いや思い込みや固定概念などを解明したことによって、相応のことは分かった。
 知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになり、上達もし、いわゆる学習できることも分かった。
 それゆえに、間違ったことも学習することも分かった。
 もちろん、錯覚や勘違いや思い込みや固定概念などもあり、それらが事実によって覆されたり修正されたり浄化されたりしながら詳しくもなり上達もすることも分かった。
 つまり、学習自体の概要は分かった。
 よって、学習自体の法則に相当するような具体的なことにも関心が向いていたのに……。

 つまり、スイッチを付け替えたことによって、望み願っていた事例の方からやって来てくれたようなものだった。
 ところが、そうだったことにさえ気づけず、残念ながら、当時は条件反射的なことだということにし、新たなスイッチに慣れてゆき、考えもしなくなった……。


 でも、自分の経験上のことなのに、把握できていない、具体的に理解できていない、ということが存在することは明確になった。
 しかも、自分の経験上のことなのに、知らない、把握できていない、具体的に理解できていないことなどは、そういう状態で記憶にも残るようになった。
 いわば、記憶上にも、相応の空きページが用意されたような状態になった。
 よって、用意された空きページに相当するようなことには、気づきやすくもなった。
 それが、自分で日常的にも行っている学習自体に関することなのに、その具体的なことを自分で未理解だったことが明らかになったことだけに、関係することに思い当たる都度、自分の経験を基に確認を繰り返し事実関係を整理して解明し理解してゆくことになる。


 やがて、学習に共通する学習の基本的なことを理解し始めたことによって、スイッチにも共通する基本的なことを具体的に理解することになるわけだが……。

 実は、新たな位置のスイッチに慣れていった。
 それと同じように、元の位置にあったスイッチにも子供の頃から慣れていったことになり、やがて条件反射的に手を伸ばすようになったことになる。

 つまり、スイッチの新たな位置に慣れていった理由と、元にスイッチがあった位置に条件反射的に手を伸ばすようになった理由は、同じだったことになる。

 よって、新たな位置のスイッチに慣れてゆく理由に注目して理解すると、元にスイッチがあった位置に条件反射的に手を伸ばすようになった理由をも理解できたことになる。
 もちろん、新たに慣れてゆく変化や段階的なことを基にして、慣れてゆく理由を理解する方が容易だ。条件反射的に行うようになってしまってから、その理由を理解する方が難しい。

 けれども、スイッチを付け替えた当時は、そんなことも知らなかった。
 だからこそ、条件反射的な自分の動作が不思議だっただけに、こっちにばかり気を取られたわけだから……。


 でも、状況が変わることによって、相応のことが明らかになる。
 つまり、普段は気にもしなかったことが、浮上した状態になる。
 それは、その事実関係を具体的に理解する好機の到来でもある。
 そんなイメージが、当時、記憶上に残った。

 
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好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
老化と眼精疲労により、
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プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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