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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

人生を甘く観ていた

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございました。
 雪が無くなり次第、相互応援アクセスは断念します。
 なお、当地は、三月下旬になって連続して雪が降り、雪解けはブレーキがかかけられた状態で、平年は四月一日に積雪ゼロになる窓外の畑に、三月三十一日現在まだ雪が有ります。

 雪が無くなり次第、パソコンに向かうことに因る眼精疲労の悪化防止も兼ねて野良仕事優先になります。
 好天時には朝焼けや日の出や夕日や夕焼けの撮影にも出向くので、忙しくなります。
 実は、野良仕事も、山中での写真撮影も、一時的かつ精神的にとはいえ、経済社会から離れることができます。つまり、巧みに目を奪い心まで奪って私利私欲を貪ろうとする経済社会から、一旦、離れることができます。
 よって、五感では捉えることができないが、思考上で整理すると捉えることができることを、優先することができる。つまり、生存上、理解が容易ではないほど優れていて尊いことの把握を優先することができ、相応の自分の精神面を保護することもできる。
 もちろん、夏場は、これらが優先になります。

 
 
 
 人生を、甘く観ていた……

 人生は、五感では捉えることができないことだからでもある。
 経験相応の記憶を、思考上で整理しないと、人生は明らかにならないことだからでもある。

 もちろん、それ以外のことに目を奪われたり心まで奪われたりすると、思考上で記憶を整理することによって明らかになることを未理解なまま見失い、肝心な自分のことを見失ってしまうからでもある。
 肝心な自分のことを見失うからこそ、それ以外のことを大事なことだと勘違いする。
 それが勘違いであることに気づかないと、やがて思い込んでしまう。つまり、肝心なことを見失い、そうであることに気づけなくなる。
 
 
 通常、誰でも、日常会話で思考力や理解力を発揮するようになる。
 その重要性は、五感では捉え難いが、思考上では記憶を参考にして整理できるから、いかに重要であるかを具体的に理解できる。
 理解できたことは、識別や自覚も容易になるので、思考や判断の際に活用することも可能になる。

 もちろん、それ以外のことに目を奪われたり心を奪われたりするほど、その内面的なことの重要性を理解し難くなり、理解しそびれると、その重要性を識別や自覚すらし難くなる。
 内面的なことの重要性を理解しそびれるだけに、内面的なことである勘違いや思い込みが生じる法則的なことに関しても理解しそびれ、勘違いや思い込みに関しても気づき難くなる。
 内面的な行動上の中枢とも言える重要なことを理解しそびれると、精神の安定を保てなくなり、外見を重視しがちになり、外見が重要だと勘違いし、外見が重要なのだと思い込み、よって外見的なことで満足したり優越感を感じたり有頂天になったりもする。
 となると、知られれば不利だと思うことや不都合だと思うことは、見知られまいとし、隠し偽りもする。それは、重要なことを理解し難くすることだけに、自ら悪循環に陥ってゆく。
 気づいても、自分でも認め難かったりさえするわけだから。つまり、後悔したり自責を感じたりしている方こそ理性的なのに、自分の理性を重視できないどころか、認め難いわけだから。
 
 
 そもそも、自身が形成された経緯は、知らない。
 自身の内臓も、いまだに見たことが無い。
 呼吸器系だ、消化器系だ、循環器系だ、等々と言われる自身の生命生理に関しても、ほとんど未理解だ。

 もちろん、具体的な健康管理はできるはずもない。
 むしろ、健康を阻害するようなことをしているのに、気づけなかったりさえする。

 それでも生きていられるのは、生命生理は絶妙な秩序に基づいて自律して機能しているからにほかならない。

 この身体は、決して私物とは言えない。
 
 
 知能も備わっていたものだ。
 だから、経験でき学習でき上達もした。
 言葉も憶え、五感では捉えることができない文法的も憶えたから説明も上達した。
 会話を介して、五感では捉えることができない因果関係や理由などを思考上で理解したり納得したりするようにもなったし、理解したことに基づいた行動もするようになり、相応の結果にすることもできるようになった。
 五感では捉えることができない約束を、相応の時間経過後に果たせるようになった。現在は計画や目的に過ぎないことを、相応の努力などをして、相応の時間経過後に達成できるようにもなった。教えてもらい記憶に残っている道順を基に、目的地に到達することもできる。理解し記憶にあるルールに基づいて、ゲームやスポーツを楽しむこともできる。等々、ほとんど記憶に残っていることを参考に、相応の識別や自覚や思考や予想などができ、相応の行動ができるようになっただけに、それらを条件反射的な速さでできるようになった。
 これらの基本的なことや法則的なことは、当然に繰り返し経験していたことになり、相応の情報も記憶に残ったから相応のことができるようになったことになる。
 もちろん、基本的には、誰もができるようになる。

 なのに、かつては、学習し上達し日常的に発揮するようになったことをすら、未理解だった。
 繰り返し経験していたはずの、その基本的なことや法則的なことをすら、かつては未理解だった。

 いわば、精神面の優れた面を、日常的に発揮するようになった。
 が、そうであることを理解するには至らなかった。
 未理解なことは、識別や自覚はできない。
 だから、精神面の優れた面を活用することはできなかった。

 この知能も、決して私物とは言えない。
 
 
 いわば、精神面の弱点に関しても、かつては未理解だった。

 知能自体や意識や思考などが平常どおりに機能していることをすら自覚できず、むしろ異常ではないかと勘違いし思い込んでいるに過ぎないことにも気づけず、それゆえに苦悩し、三十歳が目前だっただけに困窮した。

 つまり、精神面に関することは、経験や行動上の中枢とはいえ、五感では捉えることができない内面だったこともあって、それ以外の環境上のことに目を奪われがちで心まで奪われがちだった。
 よって、肝心な精神面に関することは、ほとんど未理解だった。そうなんだということを、かつては把握できなかった。

 知らなかったことを憶えたり未理解だったことを理解したりする性質上、どんなに大事なことを未学習だとしても決して不思議なことではなく、どんなに重要なことを未理解だとしても不思議ではない。それゆえの渦中にあったにもかかわらず、そうであることを自覚できなかったわけだから、このことに関しても当時は未理解だった。

 行動や結果を左右している中枢である識別や思考や理解や判断などに関することを未理解だっただけに、想像や勘違いや思い込みや固定概念などに関することも未理解だった。それゆえに痛い思いをしたり損をしたり後悔したりしたにもかかわらず、その要因であることに関することもほとんど未理解だったことになる。

 そんな、経験済みだったり日常的に発揮するようになっていたことなのに、そうであることをすら知らなかったことに、気づき、確かめては知り、更に整理して具体的に理解し、再整理を繰り返すようになった。

 そんな経験上、すでに記憶に溜まっていることを、思考上で整理するだけで、その因果関係や理由や法則などを理解できることにも気づき知り、相応の準備がとっくに整っていたことをも理解でき、おのずから精神面の理解や充実や安定が最優先の生き方になった。

 いずれも、三十歳以降だった。
 よって、それまでは知能を十分に発揮していなかったことも分かり、特に知能の高度な面を発揮できていなかったことも分かり、誤った学習上で知能を誤用するようになったからだったことも分かり、生存上では知能を誤用さえしていたことも分かった。

 やはり、この知能も、決して私物とは言えない。
 
 
 唯一、直に経験し続けている自分自身のことなのに、「生きていることはどういうことか」に関しても、いまだに未整理で未理解だ。

 本人だけが直に知り得る内面的なことなども記憶に残るだけに、自分自身に関する情報が最も具体的に記憶に溜まり最も多く記憶に溜まっているはずなのに、「自分はどういう生き物なのか」に関しても、いまだに未整理で未理解だ。

 つまり、生存上のことに関して判断上では、根拠になることや基準になることを、いまだに未整理で未理解なのだ。

 最期の審判は自ら下すことになっていることは、分かっている。
 最期に臨む際は、心の準備が整っているか否かが重要であることは、かつて思い知らされた。
 それゆえに、生きざるをえなくなったのだから。

 この人生も、決して私物とは言えない。
 
 
 経験上で歴然としていたことだと言っても過言ではないのに、気づけなかったなんて……

「俺が云々」とか「自分が云々」とか「自身が……」などと言うようになっただけに、勝手に私物であるかのように勘違いし、根拠も理由も無いのに疑問を抱かず、よって確認もせず、納得できたわけでもないのに私物であるかのように思い込んでしまったのだろう……

 とても私物とは言えないことは、ほぼ間違いない。
 自分で知る以前から生存しているわけだから。
 自分は未理解でも、生命生理は自律して機能しているわけだから。
 容易には理解できないほど、生命生理は優れていて尊く、人工的には創れないどころか一般的には維持管理もままならないわけだから。
 なのに、まだ半信半疑状態だ。私物であるかのようなイメージが固定概念化してしまっているからなのか……
 それとも、生きていること自体がいかに優れていて尊いかに関して、情報が不十分だということなのだろうか……
 
 
 二十七歳で勘違いや思い込みに気づき、唯一、直に経験し続けているはずの自分のことをいかに知らないかを思い知らされて苦悩し、三年も解決できなかっただけに困窮した。
 その渦中で、その要因だった、想像や勘違いや思い込みや固定概念などを解明し、よって思考の無理や矛盾を解明して解決した。
 自分の経験を基に、いわば精神面の弱点を具体的に理解しはじめただけに、生後に知り得たことの不完全さも、分かっていたつもりだったのに……
 この身体は、決して私物とは言えない。とは、思いもしなかった。

 精神面の弱点を具体的に理解しはじめただけに、当時は、思考の健全性を重視しはじめた。
 やがて、記憶に残っている自分の経験を、変化や因果関係を基に整理したことに因り、知らなかったことを憶え詳しくもなりコツを掴んで上達したり会話では記憶だけを参考に理解できるほど熟練することが解ったことで、知能を構成している各感覚器官や記憶力や意識や感情などの特徴や学習の基本や法則的なことなどを理解できた。
 自分の経験を基に、いわば精神面の長所であり、着実に進歩し上達する能力でもある、学習力や取捨選択などの自浄能力を兼ねている思考力や理解力に関することを理解できた。
 が、知的面の不完全さを明確に捉えることができるレベルにすら達していなかったことになる。
 理解が不十分過ぎたからこそ、この知能も決して私物とは言えない、とも思わなかった。

 当時、おのずから精神面の把握や充実や安定が最優先になった。
 よって、それ以外のことを尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げて、目を奪い心まで奪おうとする行為は、人の精神面の弱点である錯覚や勘違いや思い込みなどを悪用して、もちろん私利私欲を貪っているとしか思えなくなり、おのずから敬遠するようになった。
 しかも、誰もが唯一直に経験し続けている自分自身のことを理解することであり、すでに十分に経験済みで十分に記憶に溜まっている情報を整理するだけで理解できることを未理解だったことも分かり、おのずから衣食住は二の次になっていった。
 が、理解したことは不十分だった、ということなのだ。
 この人生も決して私物とは言えない、と思うには至らなかったわけだから。
 
 
 知らなかったことを憶えたり理解したりするがゆえに、直に経験し続けている自分のことでさえ具体的に理解するとは限らないし、よって誰にも共通することを理解するとも限らず、誰もが同じことを憶えたり理解したりするわけではない。
 むしろ、知らなかったことを憶えたり理解したりするがゆえに、どんなに大事なことを未学習でも不思議なことでもなく、どんなに重要なことを未理解でも不思議なことではない。
 この、知らなかったことを憶えたり理解したりするがゆえの、弱点や不完全さの把握も、不十分なのかもしれない……
 溺れる者が藁を掴んだ程度なのだとも知らず、むしろ分かっているつもりになっていたに過ぎなかったのか……
 いまだに大海で溺れているような状態でしかなかったのか……
 
 
 精神面の把握や充実や安定を最優先して、再整理を数え切れないほど繰り返し、その都度に修正し新たな解明をし理解を深めたてきたわけだが、今回の気づきもその類だったということだ。

 こんな程度だったとなると、今年の夏は忙しくなるぞ。
 
 
 いずれにしても、目を奪われ心まで奪われることは、自分の場合は厳禁だ。

 自分が重視すべきことは、五感では捉えることができないが……
 生存上、優れていて尊いことは、歴然としているどころか、誰もが直に経験し続けている。
 精神面の優れた面も、誰でも発揮するようになる。

 ところが、それ以外のことを、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げることで、私利私欲を貪る。
 つまり、自分に都合が良いイメージを以って、他者の目を奪い勘違いさせ思い込ませて心まで奪って自分に都合が良い行動をさせることで、私利私欲を貪る。
 まさに、精神面の弱点を悪用し、他者を翻弄して、私利私欲を貪る。
 それが、経済社会を成り立たせている、とさえ考えられる。
 生存上、理解が容易ではないほど優れていて尊い面から目を逸らさせ、精神面の優れた面を狂わせている。

 そんなものに、目を奪われたり心まで奪われることは、自分の場合は厳禁だ。
 

 
趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの背景画を……





 

カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

この脆弱な精神面の最終課題

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。
 雪が有る間は、相互応援アクセス歓迎いたします。

 なお、当地、例年よりもかなり早く雪解けが進み、大地がかなり表れています。

 管理人「kisuke(喜助)」の人生上では、雪で行動が制限される冬場こそが精神面の整理に好都合だったのですが、加齢などもあって、冬場だけでは間に合わなくなってきました。

 
 
 今冬は、環境上のことに、気を取られた。
 よって、五感では捉えることができないが、内面的なことであり、記憶や思考関係に、集中できなかった。つまり、思考上で整理することによって明らかになる精神面に、集中できなかった。
 それどころか、精神制御も精神管理もできていなかった。
 結局、精神面の未熟さ脆弱さが、一層、明らかになった。

 が、そもそも、かつての自分は、自分のことを勘違いし思い込んでいることに、気づくことすらできなかった。
 そうだったことに、やっと気づいた。よって、肝心な自分のことをほとんど知らなかったことが明らかになった。動揺し、当惑し、孤独の世界を彷徨った。つまり、どういうことを知らないのかは捉えようが無かっただけに、自分のことを知らないことがどういうことなのかを思い知らされた。
 その経験上、自分の知識や考えには関係なく、生命生理は自律して機能していることに気づいた。
 次いで、各感覚器官や意識や記憶や識別や思考や判断など自体も平常どおりに機能していることに気づいた。
 よって、実行できないことも考えることができ、嘘も考えることができる、いわば思考には、無理や矛盾もありえることに気づいた。
 結局、解明し解決すべき的も絞られた。
 自分が意識し識別し思考していることの無理や矛盾だけに、本人だけは直に知り得ることであることにも気づき、ついに解明し解決しはじめた。その際に、記憶の頼りなさにも気づき、忘れないためにメモもし始めた。
 また、思考の健全性を重視しはじめた。思考も学習してできるようになったことだと考え、知るべきことは学習の基本や法則であることを知り、理解すべきことを整理しつつ文章化するようになった。そうしたことによって、文章化することでも整理が進み理解が深まることに気づき、積極的に文章化するようになった。
 更に、ブログに書き出した。知られれば不利だと思うことや不都合だと思うことを隠し偽ることは、解明や解決や改善をむしろ困難にすることに他ならず、それこそが精神面の無理や矛盾であることも解明済みだっただけに、あえて人目に晒すことで真摯になれることを活用した。これで、更に整理や浄化が進んだ。

 とはいえ、いまだにその途上にあって、未熟なのだ。
 自分の人生の最終課題だと考えられることも捉えるようになったが、まだ具体性は乏しいわけだから。
 イメージ的には、他界へのルートなり他界への扉なり、相応のことを見出すことだ。いわば、他界に臨む際の心の準備を整えることだ。
 
 
 自分は、かつて、死ねなかったことに因って、死ぬ辛さを知り、生きざるをえなくなり、自分の死を受け入れる心の準備ができていなかったから辛かったんだということをも知り、相応の生き方をしていなかったからだったことなども知ることになったが……
 
 
 そんな、自分の考えの無理や矛盾を解明し解決し始めた頃。

 盆栽などの園芸を始めた。
 植物も生き物であり、その生理には特徴や性質や条件などがあり、その状態の見方や、対応対処などの維持管理方法など、それらを自分が習得しないと順調には維持管理できないことだからでもあった。

 たまたま見かけた野良猫とも仲良くするようになった。
 野生動物もそうだが、野良猫も大自然の中で自立しているからでもあった。
 逆に、指図されたことをして、自由や能力を切り売りしてしか生きられなかった自分は、野良とはいえ自分の考えや判断を基に生きてゆけることに敬意さえ感じたからだった。
 猫は、言葉を話さないだけに、嘘も吐かないし、指図もしないし、命令もしない。また、屈服はするものの、服従はしない。
 なのに、人とでも仲良くなるし、兄弟や親子は仲良くし、子供をまさに命懸けで守る。
 医者を頼らない猫の、生命力の逞しさも、幾度も見せてもらった。

 自分自身の生命生理もそうなのだが、猫の生命生理も、植物の生命生理も、自分が生後に知り得たこととは比較にならないほど高度で絶妙な秩序に基づいて成り立っているんだということを、痛感することが多くなっていった。
 
 
 記憶や思考の無理や矛盾などを解明し解決しはじめただけに、五感では捉えることができない内面的なことや、思考上で整理することしか捉えることができないことを、重視するようにもなった。
 自分の記憶に溜まっていることを、思考上で整理するだけで、人生を左右するほど重要なことを解明でき解決できる。つまり、考えるだけで解明や解決でき条件がすでに整っている。が、知られたくないことや考えたくないこともあって、つい考えなかったばっかりに気づかなかったり知らなかったんだということになる。
 もちろん、目を奪い心まで奪うようなことは、敬遠せざるをえなくなった。
 そんな自分の生存上では重要ではないことを、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げ、つまり他人に勘違いさせたり思い込ませたりして私利私欲を貪ろうとしているとしか思えないことも、もちろん敬遠するようになった。
 
 
 盆栽の管理中、傍を通った人は、自分は初めて見る人だった。が、立ち止まり、「最近、心臓の手術をして、命拾いをした。が、命拾いをしたことよりも、人生観が一変したことに驚いている」と唐突に話してくれた。

 その数年前、自分は、死ねなかった、強引に自分を殺すことはできなかった。
 この経験上、実行できないことでも考えることは可能なんだと気づき、考えには無理や矛盾もあるんだということに気づいた。
 よって、考えの無理や矛盾を解明し、望んだわけでもない意識改革や人生の軌道修正が実現していた。
 このことを話し出したが、その人は自分の経験談ばかり話し、自分は自慢げに話すことでもないので話すのを止めたが……
 
 
 猫が死んでも、哀しく寂しく、生後に知り得たことを以ては死に対しても為す術が無いことを思い知らされ、実は日常の健康管理も思うままにならないことにも気づかされていた。
 家族やペットが死に、自分が死ぬわけではないのに、落胆する人もいるし、憔悴してゆく人もいるし、後を追うように他界する人もいる。

 日常でも、危険や恐怖を感じるのは、痛い思いをする可能性があるからでもあるが、対処対応できずに死ぬかもしれないからこそだ。
 死にたくないからこそ、必死に生きているようなものでもある。
 野生動物たちも、生きていることを必死で守ろうとするし、子供に餌を捕って来て与えるだけではなく、切り刻んで与えたり、半ば消化したものを吐き出して与えたりするし、子供をも必死で守ろうとする。

 でも、祖先や先祖が物語っているように、誰にも殺されなくても、老化や病気などで誰もが死ぬ。
 自分が死ぬ。となると、その辛さや精神状態は、日常的な恐怖体験や想像を超えることであることは間違いない。
 その際の心の準備ができているか否か、それに左右される面が大きいことも間違いない。

 そもそも、生後に知り得ることには限界があることや、生後に知り得ることを以ては為す術が無いことがあることをすら、知らなかったり納得できていなかったりするわけだから。
 むしろ、勘違いしていることや思い込んでいることにも、気づけず知らず自覚できない場合だってありえる。
 つまり、誰も変えようが無い事実や法則と、それとは異なる勘違いや思い込みなどとは、相違が甚だしかったりする。
 これらの相違が甚だしいほど、誰も変えようが無い事実や法則に直面した際に、対処できるはずもないから、動揺したり当惑したりするのだと考えられるわけだから。
 
 
 けれども、猫や犬の死であっても、その死んで逝く精神状態までも思い考える人もいる。
 その結果、こういう死に方はしたくないと思ったとしても、そのためにはどうすればいいのか改善策も考える。
 追悼だとか祈りなどと言う以前に、身近な死を機に死に関する考察をした人は、少なくとも自分の気が楽になる可能性がある。

 自分は、意識改革や人生の軌道修正を余儀なくされた三十歳以降、猫も大自然の中で自立して生きてゆけることを尊重して基本的には野良猫の状態の猫と関わるようになって久しい。
 でも、自分の目の前で死んだ猫も何匹もいた。
 猫も、老化に病気が重なって死んで逝くだけに、苦痛もあるはずだ。生後に知り得たことを以ては対応対処できないどころか、弱肉強食の世界で生きただけに、自由に動けなくなるだけでも不安や恐怖さえ感じるとも考えられる。
 なのに、苦痛を見せないどころか不安さえ見せず、呼びかけても反応しなくなり、手を触っても反応しなくなり、生きている自分がいる世界とはまさに別世界に逝ったかに思わされたものだった。
 言葉による具体的な意思疎通自体ができなかたこともあって、大事なことを理解し合えなかったような気もした。
 他界に臨む際の心の準備を重要視するようになっていただけに、自分も死ぬ際にはこうありたいとも思った。「俺も、そうする」とも言った。そのためには、どうすればいいかも考えた。つまり、やがて自分が他界に臨む際の心の準備をはじめていたようなものだった。

 もちろん、名医といえども死ぬわけだから、生命生理に関しては、理解するだけでも限度がある。よって、生後に知り得たことに因る生命生理に対する対応対処も限られ、それゆえに死を余儀なくされる。生後に習得したことを以ては、死自体はどうにもならない。
 が、相応の考察は可能で、考察を多くした人ほど他界に臨む際の心の準備を整えられる可能性も高い。

 こういうことは考えるだけで分かることなんだということも、考えればこそ分かる。
 つまり、単に考えないだけで、知らないままだったりすることもあるわけだから。
 
 
 いわば逆に、死を忌み嫌い続ける場合もある。
 つまり、考えるだけで分かるこういうことを考えもせず、死んで逝く際の精神状態も思いもしない。
 考えるだけで分かることなんだということをすら、知らないままだったりすることになる。
 となると、最期に臨む心の準備の可能性にも気づかないし、最期に臨む心の準備を重視することも無いし、最期に臨む心の準備は整うはずもないわけだから。

 そもそも、生後に知り得ることは、限られているどころか、生存上は偏りもするし、勘違いや思い込みもあり、よって考えには無理や矛盾も生じる。
 だからこそ、生後に知り得ることを以ては、生活がままならなかったり、健康管理もままならなかったりする。

 それどころか、誰もが直に経験し続けている生存に関することや、記憶に溜まったことを思考上で整理するだけで理解できること、つまり考えるだけで理解できるとは、ほとんど無関係ないことに、目を奪われもするし心まで奪われもする。
 誰もが直に経験し続けている生存とは、ほとんど無関係ないことを、尤もらしく見せかけもするし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げもする。
 見せかけや上辺だけで騙し欺くようなことなのに、そんなことに自己満足もし独り善がりもし優越感を抱きもし有頂天にさえなり、そういうことに夢中になりさえする。

 けれども、猫や犬は死に、先祖や祖先も物語っているように、誰もが死ぬ。
 死を忌み嫌い続けた末に、死ぬ場合は、その忌み嫌い続けたことを余儀なくされることになる。
 歴然としていることだったのに、相応の考察をしなかったことがどういうことかに、その時になって直面することになる。
 それでも正常な精神状態を維持できていれば、むしろ後悔に襲われるだけだ。
 精神面の弱点をすら考慮せず、むしろ無関係なことで優越感を感じたり有頂天になったりしている場合、その最期の心理は、自分の想像力の限界を超ている。

 そんな程度のことでも、考えてみたりしてこそ、そうなることを避けることも可能になり、相応の生き方も可能になるわけだから。

 つまり、最期に臨む際の心の準備を整えることや相応の生き方をすることに関しては可能なのだと、多くのことが物語っているとさえ考えられる。
 
 
 少なくとも、自分は心の浄化も必要としている。
 反省し自分の勘違いや思い込みや固定概念なども解明し改善し、根拠や理由や法則などを理解することに臨むべきだ。
 人生の残りは減少する一方なんだから。
 
 
 
 そう言えば、最近、もう余計なことをしている場合ではないというイメージが、時々、顕著になる。
 が、その具体的な理由までは捉えていない……
 新たな集中すべきこと…… それも定かではない……

 余計なことに気を取られ過ぎていただけだということか……
 
 
 三月に入り、雪に覆われていた大地が現れ始めた。
 つい、屋外に出るようになった。
 それで、気づいた。
 今冬は、降雪量が少なかったので、除排雪作業も少なく、よって運動不足だったのだ。相応の刺激も少なかった。
 そうだったからこそ、雪が少ないにもかかわらず、屋根の雪落としを二度も行った。
 運動不足や刺激不足は、老化にも悪影響を及ぼす。そういうことを、感覚的に感じる歳になったからでもあった。
 それどころか、老化に加速傾向をさえ感じるようになった。
 だから、つい動きたくなるのだろう……
 
 
 今夏も精神面の整理を頑張る。

 

趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの冬季間の背景画を……




 
 
 雪が無くなると、眼精疲労の悪化防止・野良仕事・好天時には日の出や朝焼けや夕焼けや夕日の撮影(実は精神面の解放)などで忙しくなります。

 

カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

整理不十分でも話したいこともある

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。
 雪が有る間は、相互応援アクセス歓迎します。

 当地、今冬の雪は少な目なまま、二月中旬に続いた極寒からも脱し、一転して、二月下旬は雪解けがはじまり春が待ち遠しい陽気が続いておます。

 管理人「kisuke(喜助)」の人生上では、雪で行動が制限される冬場こそが精神面の整理に好都合なのですが、今冬は有効活用がままなりませんでした。
 人生が残り少ないことや進行するばかりの老化を考慮すると、今年も夏場にも精神面の整理を頑張ります。

 
 
 思考のウォーミングアップや冬モードへの意識の切り替え。
 今冬は、他のことに気を取られていた……

 母の自立に対する説得云々でもなかった……
 むしろ逆で、自分が理解を求めていた……
 誰かの理解を得たくて、身近な母にだけでも理解してほしかったのだろう……

 もちろん、自分が自信が無かったからだ……
 理解してほしいことも、自分でも整理不十分で理解も不十分なことなんだから……
 説得などできるほどの完成度でもなかったわけだから……

 しかも、母のデーサービスの利用を決めたことで、自分は母の自立心を説得する類のことは諦めた状態になった……
 が、そんな気がしていただけで、実際には、母に理解を求めることを自分が諦めたような状態になった……
 だから、自分のヤル気も萎えたのだ……

 デーサービスの契約が成立し、母はデーサービスに行き始めた。
 それで、自分も一安心した。
 すっかり気を取られていたことで、一安心しただけに、自分のヤル気は不要になったのだ……

 自分は、自分の精神制御や精神管理ができなかった……
 五感で捉えることができる環境的な刺激が優先しがちで、自分の精神面とはいえ五感では捉えることができない内面的なことであるだけではなく、思考上で整理しないと捉えることができないことだけに、それらは疎かになった。
 自分こそ、精神的には、いまだに自立できていない……

 が、自分の自立が重要であることが明らかになった。
 最期は、誰でも独りで他界に臨むしかない。道に迷うか否かは、どれだけ繰り返し行ったかや、どれだけ詳しく知っているかに左右される。他界といえども、本人が生存中に得た知識や学習内容に左右される。
 この、他界へのルートや他界への扉なりを見出すことが自分の人生の最終課題だと考えられ、この完了が目指している理想だ。が、少なくとも精神的な自立や独り歩きは実現していることが望ましい。

 最終課題は、理想的には、根拠も理由もあって可能性を期待できる内容であるに越したことは無い。
 少なくとも、誰も悲しんだり落ち込んだりする必要が無いんだという内容や相応の生き方をしていて、誰も悲しんだり落ち込んだりする必要が無いことを裏付ける根拠も理由も明確で、理解し合え納得し合える具体的な内容であることが望ましい。
 言い換えると、難解で説得力が無く意味不明な御経や御布施などは無用だと言い切れるくらい、根拠や理由が明確で説得力がある具体的な内容であることが望ましい。

 もちろん、誰でも経験して記憶に溜まることを整理するだけで理解できることが望ましい。
 誰でも経験し記憶に溜まったことを整理するだけで理解できることなら、必要なことは内向する冷静さであり、他に目を奪われたり心を奪われたりしないことだ。
 つまり、学歴や資格は不要で、資金や費用も無用で、荒行や苦行や修行も要らず、流儀や作法すら問わない内容であることが望ましい。

 そんな類のことを、いつかは、母と話したかったことも事実だ。
 母は、安直に死を忌み嫌ってきたからでもある。
 とはいえ、母が思っているような馬鹿息子な俺の邪推に過ぎないのなら、その方が、今の俺にとってはむしろ救いでもあるのだが……

 通常、両親や祖父母や先祖や祖先が死んで逝った際に、どういう思いだったのかを考えただけでも、そうありたくないとか、自分の最期はこうありたいなどと思うだけに、自分の最期に備えた心の準備がはじまるようなものだ。
 が、安直に死を忌み嫌い続けた場合は、自分が最期に臨む際の心の準備はできない確率の方が格段に高い。
 となると、自分が忌み嫌い続けていた死を、やがては自分が余儀なくされることになる。

 最後の審判は、自ら下すことになっている……
 知能も備わっているだけに、生きていることはどういうことかは誰でも直に経験し続ける。恐怖感などの感情も備わっていて、思考力も理解力も判断力も発揮するようになる。迷うか否かは、自分が得た知識やその確かさに左右されるわけだから……
 なのに、その他のことに、目を奪われることもあれば、心まで奪われることもある。しかも、優越感を抱きもするし、慢心したりさえするわけだから……

 が、自分は、理解不十分なことである。
 しかも、自分は、勘違いや思い込みも絶えないわけだから……
 まだまだだ。自分こそまだまだなのだ……

 

趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの冬季間の背景画を……





 
カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

いまだに未知を彷徨う未熟さ

 

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 当地、今冬の雪は、現時点では少な目です。

 管理人「kisuke(喜助)」の人生上では、雪で行動が制限される冬場こそが、精神面の整理上好都合なのですが……

 
 
 思考のウォーミングアップや冬モードへの意識の切り替え。
 と言うより、これをメインにして生きてきたようなものだった。
 なのに、今冬は、すっかり難しくなっている……
 
 
 昨年十二月三十日から寝たきりになった母は、今年一月十二日に起きてくるようになり……
 二月月六日には、二月八日からデーサービスのお世話になることも決まった。
 ただし、病院への送迎は、九十歳代半ばとはいえ母の現状では該当しないという。
 母が毎月一回通院している二カ所の病院への送迎は、今迄どおりに自分がやるしかない。

 が、母のデーサービスが決まっただけで、明らかに自分の気が楽になった。
 思えば、自分の最期に備えた心の準備や老化や死に関することよりも、年末以来、直面していた、九十歳代半ばの母の老化や病気や葬儀などを、自分は無視できるはずもなかった。
 年末には、母の葬儀代として貯めてあった定期も、解約して使ってしまった。その直後のことだったから、尚更だった。
 つまり、環境上のことに気を取られて、精神面の成長や充実は疎かになったのだ。

 自分の精神面の成長や充実を優先して、その妨げにしかならない目を奪い心まで奪おうとする人為的なことは敬遠し、衣食住まで二の次にするようになったが……
 五感を刺激する環境上のことには、もともと安全上などでも意識を奪われがちだ。
 他方の精神世界は、内面であり、そもそも五感では捉えることができない。
 まして、五感でも捉えることができない気持ちや考えや記憶の無理や矛盾は、気持ちや考えや記憶などを思考上で整理しないと解明できないし解決できない。
 根拠になる事実は、五感で捉えることができる。が、関係や理由(性質や条件)や、因果関係や法則などは、記憶を整理して思考上で捉えるしかない。
 思考上で理由や法則などを理解できた場合は、その理解したことを基に行動することもでき、相応の結果にもなる。つまり、約束とはどういうことかを理解できた場合は、それに基づいたことも可能になり、約束を果たすことも可能になる。また、ルールを憶えたスポーツに関しては、憶えたルールに基づいた協議が可能になる。また、教えてもらった道順を理解できた場合は、その理解したことを基に目的地に到達することもできる。
 言うまでもなく、思考上で整理しないことは、理由や法則も理解できないので、未理解な理由や法則に基づいた行動はできないし、相応の結果にもならない。約束の内容を未理解だと約束を果たすことはできないし、ルールが無いスポーツは争いでしかなく、道順を知らないと道に迷いもする。事故になったりもするし、痛い思いをしたり、損をしたりもする。
 そういう性質上、精神世界でも、迷走していたり妄想に陥っていたりさえする。
 そんな場合も、内面的な精神内容こそが、行動や結果を左右していることを物語っている。
 もちろん、内面的な記憶や思考や判断などが、行動や結果を左右している中枢だということになる。
 この、自分の精神面の制御ができないどころか、精神的な内容の具体的な把握や解明や解決ができないのは、いまだに、自分の精神面の把握や理解が不十分だからにほかならない。
 
 
 二月八日。母のデーサービス初日。朝、今冬一番の大雪だった。
 目には見えない誰かが、「慎重にやれ」と言ってくれているような気がした。
 思えば、昨年から、そんな気がすることが多い。が、具体的なことは不明だ。

 というより、母のデーサービスが決まったことで、自分は気が楽になったのに、以前にも増して自分のヤル気も無くなっている……
 現に、こんな簡単な日記的なことしかしていない……
 なぜだ?
 何に気を取られているのだ?
 否。なにがなんでもやらなければ云々と言う思いは無くなり、焦りのようなものは消えている……
 いまだに、未熟だからなのか……
 母を説得することは、諦めたからか……

 母は、若い頃に花嫁修業で和裁を習得し、内職で花嫁衣装や寝具などを縫って、自分たち三人の子供の学費を稼いだが……
 ガスコンロに鍋をかけて点火すると、その場を離れて他のことをやるのが癖になった母は、幾度も鍋を焦がした。
 俺が幾度も言っても、聞く耳を持たなかったからだ。
 そんなこともあって、火災警報器を三個所に付けた。それが、さっそく鳴った。その後は、母は、点火したガスコンロから、離れることは減少し、離れる際には消火するようにもなった。
 ところが、しばらく経ったら、また火災警報器が鳴った。あの二度目以来、ガスコンロに関しては、母のいい加減さは改善され、火災警報器も鳴ることは無くなった。
 もちろん、母も、言葉を憶えただけではなくいろんなことを憶えて、相応のことをしている。母にも、学習力もあり思考力もあり理解力もあり、相応の行動もでき、相応の結果にもなる。
 にもかかわらず、基本的にいい加減だと、火事になりかねないし、似たようなことも起きる。
 それを解決できるのは、母の学習力や思考力や理解力だからこそ、それは尊重しなければならない。
 よって、最低限のことは知り考え理解してしっかりやってほしいし、実際にできるわけだから、俺は怒鳴りもする。
 が、あまりにも知らないからこそ、根拠も理由も無いまま炊事を一人前にできると勝手に思い込んでいる母は、夕暮れなのに、照明も点けずに調理する。計量をすることは無い。味見をすることも無い。もちろん、火加減をすることも無い。シンク内に散在しているゴミを、流すことも無い。
 でも、そんな程度のことに対しては、俺も注意しなくなった。
 ところが、母は、炊事をやらなくなり、野良仕事もしなくなり、やることなすことが一層いい加減になった気がする。
 しかも、二週間も寝たきり状態になった。
 もちろん、運動不足の弊害を再三指摘した。
 が、母は、改善しないどころか、反省すらせず、そもそも不利なことや知られれば不都合なことは認めない。むしろ、「なんと言われてもかまわない」と憤慨気味に吐き捨てる。自分は悪いことはしていないと言わんばかりに、強情を張る。口うるさく指摘するお前の方こそが悪いとまでは言わないが、少なくとも、俺が言うことに対して、母は聞く耳を持たない。
 反面、耳触りの好い言葉をかけられれば、母はすっかり好い気になりがちだ。が、上辺だけを偽装しているようなものであり、それに満足するわけだから、褒め殺されているようなものだ。
 パワハラだのモラハラだのと強調されれば、母の場合は過保護にされるだけだ。モンスター云々と言われている状態に育ちかねないとも考えたりする。

 そんな母は、最期にどんな思いをするのだろう。
 が、それに対する、為す術も、俺には無い。

 というより、自分も、自分の精神管理ができていない。
 もちろん、自分は、精神的成長や充実を諦めるわけにはいかない。
 俺は、すでに失格や失敗だらけだが、可能な限り理解を深めるし、俺の人生を生きる。
 なのに、それに、今冬は一向に集中できない……
 
 
 二月十二日。母は二度目のデーサービス。
 近年の母は、ほとんど時間潰しをして過ごしているようなものだ。
 つまり、貴重な人生の残りを、わざわざ無駄にしているようなものであり、最期には後悔するようなことばかりしている。

 が、そう思うのは、今冬の自分も、同じような状態にあるからだ。
 そうではない生き方を、俺はしてきたはずだ……
 すでに、各部は分かっている。
 が、総体的な整理はできていない。
 未熟だからだが、まだ無理や矛盾もあるからなのだろう……
 それは、総体的な整理を行うことによって明らかになり修正や改善も可能になるのかもしれない。

 でも、こんな日記的なことしかしていない……

 むしろ、母は、今回は、俺の言うことを聞いた。
 だから、デーサービスを利用することにしたわけだから。
 
 
 二月十三日。母は、月に一回の通院。
 いつも、病院で母を下して、自分は帰宅し、母からの電話で、迎えに行く。
 が、今回は、帰宅して、インスタントコーヒーの準備を始めたら、電話が来た。

 そろそろやらないと、貴重な冬場が無駄になってしまう。

 現に順調にいかない。だから、けっこう解った気がしているのは、勘違いでしかないのだ。
 勘違いや思い込みに二度と陥りたくないからこそ、再三、確認して整理し詳しくなり、理解したことを基に相応の識別や自覚が可能になったのに……
 理解は、不十分なのだ。
 的外れなのかも……
 趣向、目標、それらを変えてみるか?
 結局、模索をするしかない……
 そんなに未熟なのだ……
 
 
 二月十五日深夜。母の三度目のデーサービスの日の深夜。
 トイレに起きて、気づいた。タイマー予約での炊飯の準備をし忘れていた。
 毎朝、白ご飯を食べる。この炊飯も、自分の担当で、前夜、タイマー予約の準備をして、寝る。
 これを忘れていたのは、初めてだった。
 寒さが続いていて、深夜で、火の気がすっかり無くなった中で、にわかに準備をして、また寝た。
 
 
 二月十七日。
 朝、起きてから、ご飯が無いことに気づいた。
 タイマー予約による炊飯の準備も、完全に忘れていた。
 これは、まずい。
 自分こそ、しっかりしないと。
 
 
 二月十八日。
 昼、少しは意識の切り替えに通じるかもしれないと思い、昨秋収穫して保存してあった栗を出し、母にも皮むきをさせて、久しぶりに栗ご飯を炊くことにした。
 栗は、収穫後、低温で保存すると一層おいしくなると聞いた。試してみたら、確かにそうだった。以来、毎年、栗ご飯を数回やる分は栗も保存しておくようになったものを使う。
 栗の皮むきは大変だが、それ以外は、自分ができる炊き込みご飯の中では最も簡単で一番美味しい。
 炊飯器は、圧力タイプで炊いた方が、栗を噛んだ時に粉状にホクホクになるように炊ける。
 保存栗は、半ば正月用なのだが、今年の正月は母が寝たきり状態だったこともあって、食べそびれていたのだった。
 結果は、期待どおりだった。
 これで、気を好くして、頑張ろう。

 しかも、快晴だ。
 あっ、思えば、すでに雪解けを急がせるようなことだけは欠かさずやっている。
 そうだった。この時期になると、春に期待してしまうのだ。
 二月中旬を過ぎると、積雪もピークを過ぎる頃だ。
 しかも、今冬は雪が少なめだ。
 さまざまなブログでも、梅の開花や桜の開花情報を目にするようになる季節だからでもある。

 今月は、残り十日しかなかったのだった。
 
 
 二月十九日。今日、母は四回目のデーサービス。
 明らかに快方に向かっている母は、当分は大丈夫だろう。

 あっちゃー、自分のブログに、ついに広告が出ている。

 こんな日記的なことをしている場合じゃない。
 自分は自分なりに頑張らなきゃ。

 たくさんの応援アクセスを無駄にはできない。
 相互応援アクセスだけに、ブログの人気を捏造しているようなものでもあるが、それでも自分が気を好くしていたことは事実だし、それで継続できたことも事実だ。

 生理的に生きている限り、精神的には諦められない。
 自分が臨んでいることは、極めて個人的なことではあるが、生存上の基本的なことや基礎は誰にでも共通だ。
 むしろ、猫や犬にも共通することであり、野生動物にも共通で、植物にさえ共通することなんだから。
 
 
 気づき、それを確かめて知り、更に整理するほど具体的なことを理解でき、相応の識別や自覚や思考や判断などが可能になり、相応の振る舞いが可能になり、相応の結果になる。
 だから、知ったことを頼るしかない。

 三十歳以前は、あまりにも無知だった。
 つまり、どんなことを知らないのかをすら知らなかった。知らないがゆえに想像し、事実確認もしないがゆえに事実だと勘違いし、根拠も理由も無いからこそ思い込み、思い込んだからこそそれに基づいた行動をしようとしたのに、そうであることをすら知らなかった。
 そうだったことに、三十歳になって気づき知り具体的に理解し、以降は次々にいろんなことに気づき知り具体的に理解した。
 この次々に気づき知り具体的に理解したことを以て、三十歳以前は、考えるだけで理解できることも未理解だったほど無知だったことが実証されていった。

 もちろん、知ったことこそ、頼りになる。

 

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気にしていなかったようだが気になっていたこと

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。
 相互応援アクセス、歓迎します。

 当地は、年末に二度目の大雪が降り真冬に突入しましたが、その後は予想に反して、降雪は10㎝ほどのみです。
 除雪作業も無いだけに、運動不足気味です。

 管理人「kisuke(喜助)」の人生上では、雪で行動が制限される冬場こそが有意義な時間になのですが……
 年々、思うようにはいかなくなりつつあります。

 
 
 思考のウォーミングアップや冬モードへの意識の切り替えを早く終えたい……
 とは思うものの、思い通りにはいかない。
 
 
 実は、九十歳代半ばの母に、十二月三十日緊急事態発生。
 数年前の年末にも、母は激痛で耐え難いと言うので病院に駆けつけ、尿路結石と診断され、ただちに入院し、相応の正月を過ごした。そのこと思い出し、母も自分も「またか」と半ば勘違いしていた。
 母の行きつけの病院であり、母が尿路結石で入院もした病院に、診てもらいに行った。が、救急病院は当番制で、本日の救急当番病院は弘前市のある病院だと言われ、そっちに回された。
 検査の結果、母は、尿路結石ではなかったが、寝たきりになった。
 そして、一月十二日になって、やっと立って歩くようになった。
 
 
 もちろん、自分も相応の歳だ。

 かつて、三十歳を過ぎてから大事なことに気づき、相応のことではすでに失格していた。
 また、身体は自律して成熟するが、精神面は学習内容や理解内容に左右される。こんなことも知らなかっただけに、いかに未熟だったかを思い知らされた。
 よって、精神的成長を優先し、大人振ることにしかならない子孫を残すことは諦めた。
 当時は気づかなかったが、太古から世代交代を重ねて種族を存続させ進化を継続させた祖先や先祖を、裏切ることになった。
 もちろん、祖先や先祖の仲間入りする資格も失った。自分を、先祖や祖先と呼ぶ子孫もいない。

 こんな自分のところには、お迎えが来る価値も無い。

 近年、孤独死と強調されがちだが、誰でも、他界へは独りで逝くわけだから、本質的に孤独の極みだ。
 よって、それまでには、少なくとも独自の考えや判断で独り歩きができるようになっていることが望ましい。
 その独り歩きができた理想的な結果には、独り歩きができた証とも言える最期に臨む心の準備も整えることができていることも含まれる。
 自分は、経験上、そう考えるようになり、全く個人的なことでもあるだけに、相応のことにも取り組んできた。
 知るほどに、大外れではないとも思うようになった。
 誰でも死にたくないから生きているようなものであり、他の生き物を殺して食べてでも生きていたいわけであり、自殺は明らかに強引なことであり、犯罪を強行してでも生きることに執着している。などのことからも、死を受け入れる準備ができていないことや、その生き方などを、垣間見ることができる。
 というわけで、自分の場合は、できるものなら冥途の土産と言えるものくらいは用意したいと思うようになった。
 そんなことをことを思い出し、母が寝たきりであることを好機とばかりに、当ブログの今年の初投稿を済ませ、以後は相応の結果を期待できることに臨みはじめた。

 が、十二日、寝たきりだった母が起きてくるようになった。
 自分がやっていたことを省みたら、毎日、行ってはいた。が、ほんの短時間しか集中できていなかった。
 つまり、ほとんどの時間は余計なことを気にしていた……
 
 
 十三日。テレビで大相撲初場所の放送がはじまった。
 大相撲は、母は好んで見る。
 自分は、理解し合い協力し合うことを重視し、それとは逆の競い争うことは好まない。
 また、人は、生物の生存上重要ではないことを、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げ、つまり勘違いさせ思い込ませることで私利私欲を貪る。そんなことは、尊べないことし、公的電波の私物化も尊べないだけに、テレビ自体をとんど見なくなって久しい。
 が、今場所は中入り後はほとんど見ている。
 自分の関心は、力士の集中力とはどんなものなのかだ。
 そんな見方をしていたのも、自分が、一向に集中できなかったからにほかならなかった……

 大相撲の解説などで、よく言われることは。
 昇進したいと思うだけで昇進できるものではなく、優勝したいと思ったからといって優勝できるものではない。昇進や優勝は、勝ち続けた結果だから。つまり、重要なことは、一日一日の本番の取り組みで自分の相撲にいかに集中できるかだ。
 しかも、一般的には目にすることが無い稽古で、体力や感覚などを維持し更に磨く必要がある。
 その成果を出し切るべく、大勢の観客の前で、対戦する。
 もちろん、余計なことを気にせず、自分の思い通りに相撲を取れると勝つ。
 つまり、余計なことが気になると、集中できないので、思い通りにはできないし、負ける。
 多くの取り組みを見ても、要は精神的な内容に左右されている面が大きい。その精神面のための稽古なのだ。とさえ思える。

 その集中力に関しては、自分も大いに関心があった。
 競い争うこと以外に関しては、相撲は共感できることが多いからでもあった。

 いわば、相撲とは逆に、ローンで、つまり先に土地や家を入手して住み、後で建設費などを数十年間支払い続ける。これもも、自分の好みには反する。が、これに反する方が、相撲の精神にも似ている。
 転職を繰り返したが、結局、管理職から指図されたことをしてしか生きられなかった自分は、精神面の未熟さを思い知らされた。よって、精神的な成長や、理解を深め納得できることによる精神的充実を優先するようになったからでもある。
 が、精神的充実を優先する生き方は、資金が要らないことだが、収入も無いことだったからでもある。
 しかも、精神的な充実を重視するほど、外見は気にならなくなり、貧乏暮らしさえ気にならなくなり、いつのまにか衣食住も二の次になっていたからでもある。
 思えば、競い争うこと以外では、相撲の精神に共感できることが多かったことになる。

 しかも、自分の場合は、勝負でもない、観客はいない、むしろ孤独を尊重することだと言っても過言ではないほど個人的なことだ。
 なのに、日に、ほんの短時間しか集中できていなかった。
 なぜだ……
 
 
 昨日(十九日)、ふと、「一番気になることは何か」と思った。
 今更のような気もしながら、自問自答しはじめた。

「一番気になることは何か」

 象徴的なことで言うと「老化には勝てない」ことだ。
 老化は、勝負すること自体が不能なことだからだ。
 むしろ、理解や助けを必要とすることだからだ。
 そもそも、自身の内臓は見たことも無く、自身の生命生理に関する知識も無く、健康管理すらままならないわけだから。
 しかも、老化は、未経験なことであるだけではなく、学習上で可能になったことことまでも徐々に思い通りにはならなくなってゆくことでもある。

 最期(死期)も、例外なく誰もが余儀なくされることである。その予測も、不能なことだ。
 生後に知り得たことを以ては思い通りにはならないことを、象徴することが死だ。
 そもそも、自身の内臓は見たことすら無く、自身の生命生理に関する知識も無いわけだから、通常は知り得ることは限られている。
 個々に直に経験し続けている歴然としていることをすら知らなかったりもする上に、錯覚や勘違いや思い込みもある。よって、個々に直に経験し続けている歴然としていることではなく、的外れなことに夢中になったり有頂天になったりさえし、常軌を逸したりする。
 知能を誤用していた場合は最期には絶望することになり、知能を悪用した最期は生死のギャップが極端なだけに発狂的だと考えられる。

 知能も備わっているだけに、知らなければ困ることや、対処できなければ困ることが存在することは、日常的に誰でも経験する。
 知能も備わっていることによって、経験でき学習でき上達もし、五感では捉えることができない理由などを理解することもできるようになり、理解したことに基づいた対処や行動も可能になり、相応の到達や実現も可能になる。
 よって、最期に臨む心の準備に関しても、知らなければ困ることに該当する。
 むしろ、死自体は例外なく余儀なくされることは早くから知り得ることであり、最期に臨む心の準備は可能だとなると、これこそが、知らなければ困ることを象徴することだとさえ考えられる。
 
 
 自分は、三十歳になるまでは、最期に臨む心の準備に関しては全く知らなかった。
 が、死ねなかった。
 その思い通りにはできなかった体験上、出来ないことでも考えることは可能な自分の考えの無理や矛盾を実感した。
 無謀なことも考え行おうとしてしまう、そんな自分の考えを把握できていなかったことが判明したときは、自己管理できていない自分の考えに恐怖感を感じた。
 死ねなかったのも、心の準備すらできていないまま強引に死に臨むことの苦悩だったことも分かった。
 考えの無理や矛盾も、次々に解明できた。
 最期に臨む心の準備も、相応のことが存在することになり、それを自分はまだ知らないだけなのだと考えるようになった。

 しかも、肝心なことを知らないがゆえに想像し、その事実確認もしないがゆえに勝手に事実だと勘違いし、具体的な根拠も理由も欠落しているがゆえに事実だと思い込み、思い込みゆえに相応の行動をしてしまう。つまり、パニックにもなり、群集行動にもなる。
 この想像や勘違いや思い込みこそが、無謀であり、恐怖の一因だ。
 このことに関して具体的に解っているほど、相応の苦悩や恐怖はせずに済む。
 このことは、理解し納得済みだ。
 
 
 よって、最期に臨む心の準備は、七割前後までは済んでいると考えられる。
 が、準備完了であることを納得できるだけの決定的なことが欠けているので、勘違いもある可能性もまだまだある。
 残されている部分は、実際に最後に臨む際に確定するのかもしれないとも考えられるが、そうであるのなら、相応の理由や根拠は把握しておきたい。
 最期に臨む心の準備は、経験上、自分の人生の残された課題でもあるわけだから。

 うっかりしていると、最期に臨む心の準備も完了できないまま、その時がくることもありえる。
 経験上、分かっていることが、できていなかったとなると、少なくとも悔やまれることは間違いない。
 先送りしがちで、気にしていなかったような気がしていたりしただけで、年々、無視できないこととして気になるようになったのだろう。
 
 
 母は、人生が残り少ないことは明らかなのに、聞く耳持たず、障害者の認定を受けて特注の補聴器を手にしたのに使いもせず、テレビの音量も消し、「聞こえないから」と言う。が、そもそも聞こうという意思や相応の努力が見られない。
 見ただけで分かることも見もせずに、根拠も理由も無く上辺を繕うばかりで、騙し欺くようなことに固執し、ついには逆上気味になり、強情さを捨てられないことは明らかだ。
「くそ婆」「鬼婆」と言ったところで、反省する気配すら見せない。
 自分が考えて行っていることを認め難い、そんな悪循環に陥っているのだろう。
 愛想よくすると、すぐにいい気になる。
 それは、俺にはできない。
 残念だが、今の自分が協力できることは限られている。

 むしろ、自分にとっては、そんな母でも、反面教師としては存在価値があることは間違いない。

 

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気づき知り理解するほど自覚も対処も容易になる


 2018年は、たくさんの応援アクセスをいただき、ありがとうございました。
 とても励まされております。相互応援アクセス、歓迎します。
 2019年も、よろしくお願いします。

 当地は、12月に入ってからの突然の大雪で50センチ以上積もったが、その後は減少するばかりでした。
 更なる大雪を心配するあまり、12月中にやるのは初めてでしたが屋根の雪下ろしをしたのですが、無駄になりました。

 でも、二度目の大雪が降り、真冬に突入です。

 管理人「kisuke(喜助)」の人生上では、雪で行動が制限される冬場こそが有意義な時間になります。



 思考のウォーミングアップや冬モードへの意識の切り替えを早く終えたい……
 総体的な整理に取り組みたい……
 が、スタイルも思いつかない。楽しさや期待が生じない。
 でも、総体的な整理は一度も行ったことは無いわけだから……
 むしろ、そういう段階までは熟していないのだ。
 だったら、模索を始めるしかない。
 そーかぁ~。


 まてよ……
 集中できなかったのは、余計なことに気を取られていたからだ。
 思えば、いろんなことに気を取られていた……

 でも、人の場合、経験や学習や理解などの性質上、その内容(知ったことや出来るようになったこと)は、個人的にも年々変化する。
 当然に、その内容は、十人十色になる。

 野生動物は、どの個体も同じことをするようになる。それを、本能と言う。
 人の場合は、経験し、相応の学習をし、上達もし、目には見えない因果関係や理由なども理解できるようになる。この学習し理解して相応のことができるようになる性質上、その内容(知ることや出来るようになること)は、決まっていない。

 個人毎に、知人は異なる。趣味も、個人毎に異なる。
 同じ名称の料理を作っても、作る人毎に、作り方が違っていたり、出来上がりも違っていたりする。
 皆が、同じようにしているわけでもないし、同じことをしているわけでもない。
 個人が、複数の人と同じようにできるはずもないわけだから。

 むしろ、何でもかんでも他人と同じようにする必要はないのだ。
 好みや価値観や重視していることも、個人毎に異なるわけだから。


 そもそも、自分が誕生するに至った進化的背景は当然に見たことが無い。母胎内で自身が形成された頃のことももちろん知らない。自身の内臓も見たことが無い。自身の生命生理に関しても、知らない。
 つまり、生命生理は自律して機能している。が、そうであることすら、かつての自分は知らなかった。
 人は、知能も備わっていて、生後にいろんなことを知る。が、知る以前から、生物としては存在している。猫や犬もそうだし、野生動物もそうだし、植物もそうだ。
 よって、進化して形成された点でも、生命生理が自律している点でも、生物自体が、人が生後に知ることを超越している存在だということになる。

 むしろ、生後に知り得たことを以ては、日常生活もままならなかったり、健康管理がままならなかったり、老化を止められるはずもなく、やがては死を余儀なくされる。名医といえども、例外は無い。
 生後に知る性質上、どんな重要なことを知らないままだったとしても不思議なことではないし、どんなに重要なことを出来なくても不思議なことではないことになる。


 けれども、個人毎に知能も備わっているので、生存上重要なことほど、個人毎に直に経験し続ける。そうであることは、野生動物でも共通で、人同士でも共通だ。
 野生動物もそうだからこそ、個体毎に独自に識別や判断をして行動し、大自然の中で自立している。本来は、猫や犬もそうだ。
 本来は、生存上重要なことほど、歴然としているからだと言っても過言ではない。

 でも、そうであることを、人は理解するとは限らない。
 本能とは違い、学習や理解することであるがゆえに、学習するとは限らず、理解するとも限らない、という弱点や欠点さえある。そうであることも、理解するとは限らない。
 人には、理解力があるのにである。日常会話で、目には見えないことでも理解し合える。理解したことを基に、相応の行動もでき、相応の結果になり、一喜一憂するわけだから。
 なのに、個人毎に直に経験し続ける生存上重要なことは誰でも共通なのに、理解し合えるとも限らない。


 個人毎に直に経験し続けている生存上重要なことで誰でも共通なことを、未理解なほど、それ以外のことを学習することになる。その内容は、当然に百人百様になる。

 人には、錯覚もあり、事実とは違うことを事実だと勘違いもするし、事実とは違うことを事実だと思い込みもするし、独断したり決めつけたりさえする。
 個人毎に直に経験し続けている生存上重要なことで誰でも共通なことを、未理解なほど、それ以外の本来は重要ではないことを重要だと勘違いしたり重要だと思い込んだりもする。
 そんな経験や学習や理解などの内容を参考にする考えや好みや価値観や随意にできるようになることは、個人毎に千差万別になる。

 本来は重要ではないことや共通でもないことを重要だと勘違いし、重要だと思い込むと、それを基準にして比較したり考えたりするようになる。なので、劣等感を感じたり優越感を感じたりもする。
 まさに、本来は重要ではないことや共通でもないことを、重要だと勘違いし思い込んでしまっているからだ。
 だからこそ、何かを知らないとか何かが間違っている場合でも、それを劣ることとして捉えがちになる。

 けれども、誕生当初は、生存上必要なことを、ほとんど知らないし、ほとんど出来ない。
 その後に、知り、学習し、上達したことは随意にできるようになるわけだから。
 よって、知らないことや間違いなどを、劣ることして捉えた場合は、子供は育たない。

 しかも、自分が誕生するに至った進化的背景は見たことが無いし、母胎内で自身が形成された頃のことは知らないし、自身の内臓も見たことが無いわけだから、通常は知り得ること自体が限られている。
 大人になっても、個人的には、知人は限られていて、知らない人の方こそ圧倒的に多く存在する。
 つまり、生存上、本来は重要ではないことや、学習や理解の性質上個人毎に相違が生じることや、その極めて限られたことなどを、重視したり基準にしたりすることこそが間違いであり、無謀だとも言える。
 むしろ、生存上重要なことをそっちのけで、生存上、本来は重要ではないことを重要だと勘違いしたり重要だと思い込んだりすることこそが間違いであり、それを基準にして劣等感を感じたり優越感を感じたりすることも勘違いや間違いだということになる。
 もちろん、知らないことや間違いなどは、意図的なことですら無い。よって、悪意によることではない。つまり、罰点を付けるようなことでもなく、咎めるようなことでもない。

 学習であるがゆえの弱点や欠点さえあることも知らないほど、本来は重要ではないことを重要だと勘違いしたり重要だと思い込んだりする。つまり、学習や理解の性質上個人毎に相違が生じることを重視したり、その極めて限られたことだけを重視したりし、それを判断の基準にしたりする。だから、知らないことや間違いなどを、劣ることだと捉えもし、罰点を付けたり、咎めたりさえする。
 そうされる側は、知らないことこそ計り知れないほど多いことであり、悪意は無く意図的ですらないことなのだが、知らないことや間違いなどを知られまいともするようになり隠し偽るようになったりもする。
 勘違いや思い込みが、他人にも勘違いさせ思い込ませ、他の人生をも狂わせたりする。

 もちろん、知らないことや間違いなどは、悪意によるものではなく意図的なことですら無い。よって、本来は、隠し偽るようなことでもないわけだから。
 むしろ、知らないことや間違いは、隠し偽りようが無いほど多いことであり、隠し偽りようが無いことでもある。

 知られまいとするし、隠し偽りもし、独断的に固執したり決めつけたりさえするようになる。
 自分の考えに関することを把握できないと、考えに無理や矛盾さえ生じ振る舞いにも無理や矛盾が生じ、自分が困る結果になる。

 しかも、隠し偽ったり固執したりすると、その無理や矛盾を把握することも難しくなり、解決や改善も難しくなる。
 隠し偽ったりする場合は、把握や解決や改善に臨むのではなく、他のことに気を向けて気を紛らしたり、他のことを楽しんで癒したりしがちだ。そんな場合も、把握や解決や改善とは、逆のことをしているようなものだ。
 それが、ストレスの真因だったりする。パニックの真因だったりもする。

 もちろん、個人毎に直に経験し続けていて生存上重要なことで誰でも共通なことでも、理解し合うことは困難になってゆく。
 よって、協力し合うことも難しく、信頼し合い尊重し合うにも至らない。
 まして、個人毎に千差万別になることを理解し合うことは、ほぼ不可能だ。

 友達は限られ、更に親友は限られ、理解し合える恋人は更に限られ、信頼し合い尊重し合える夫婦や親子は更に限られる。


 個人毎に直に経験し続けていて生存上重要なことで誰でも共通なことを理解し合えないと、生存上は重要ではないことを尤もらしく見せかけもし、口先だけの言い訳や上辺だけの強がりや見せかけの見栄などを重視しがちになる。
 尤もらしく見せかけたり口先だけや上辺だけや見せかけだけなどは、努力すら要らないことだけに簡単だが、安易だとか軽薄だなどと言われる。

 上辺だけで、相手に勘違いさせ思い込ませてみを悪用して、私利私欲を満たそうとした場合は、相手が勘違いし思い込むことを悪用して、相手を騙していることになる。
 意図的だったり悪意があるほど、そうであることを認め難く、むしろ更に尤もらしく見せかけようとし、騙し欺く悪循環に陥ってゆく。

 そもそも、日常会話ができるようになったことで、学習力や思考力や理解力や判断力を発揮していることは実証されている。
 その学習力や思考力や理解力や判断力を、理解し合うことも信頼し合うことも尊重し合うことも無いわけだから。

 少なくとも、事実を認めるとか、信頼し合い尊重し合うことには反していることを認めるなどした場合は、修正や改善も可能になる。
 そうすることで、学習力や思考力や理解力や判断力が発揮されることにもなる。そうしてこそ、そんなことを理解し合うことも可能になる。つまり、学習力や思考力や理解力や判断力を信頼し合い尊重し合える方に向かう。重要で誰でも共通なことを、深く理解するほど、信頼し合い尊重し合えるようになる。
 が、そういうことは欠けている。

 むしろ、上辺や見せかけで騙す場合は、理解し合ったり協力し合ったり信頼し合い尊重し合うこととは反する。
 上辺を繕っているに過ぎないのに、満足したりする。
 考えには矛盾さえ生じる。

 まして、個人毎に異なることを競うとなると、協力し合うことには背くことになり、誰にも共通する物事を理解し合うことは論外になる。
 最低限平和であってほしい家庭内でさえ、悲惨なことが起きる。

 更に、自分に都合がよいことや自分に有利なことだけを以て優位を争うとなると、身勝手なだけだ。

 身勝手なだけだとなると、暴力に優るものは無い。
 そんなことでも、優越感を感じたり有頂天にさえなったする。

 国レベルでも、新兵器の開発も行われ、戦争も無くならない。
 争いの理由はどうあれ、個人毎に直に経験し続けていて生存上重要なことで共通なことを、理解し合うことも無いし尊重し合うことも無いし協力し合うことも無い。
 学習力や思考力や理解力や判断力を発揮するようになったにもかかわらず、学習力や思考力や理解力や判断力を信頼し合うことも無いし尊重し合うことも無いし協力し合うことも無い。

 そうだからこそ、法律も必要で、処罰もあり、刑務所もあり、死刑もある。
 つまり、個人毎に直に経験し続けていて生存上重要なことで誰にも共通なことを理解し合えず、学習力や思考力や理解力や判断力を発揮するようになったにもかかわらず信頼し合うことも無いし尊重し合うことも無いから、獣扱いされる。
 尊重されなくなるどころか、ほとんど無視され、この世から抹殺されてしまう。という見方もできる。


 もちろん、そっちは、大事なことではない。
 そんなことをしなくても、例外なく死を余儀なくされることは歴然としている。なのに、わざわざ獣扱いされたり死刑になる世界に迷い込むわけにもいかない。

 大事なのは、個人毎に直に経験し続けている生存上重要なことで誰にも共通なことであり、誰もが発揮するようになる学習力や思考力や理解力や判断力だ。
 自分が、そう思うのなら、自分は、それを重視し理解して尊重すべきだ。
 必要なことは、勘違いや思い込みが無くならない自分の心の整理だ。

 しかも、総体的な整理を進めるほど、総体的な因果関係に無理や矛盾は無くなり、理解も深まり、納得も確かになる。
 つまり、悔いや惜しさは減少してゆき、生きていることに執着する必要も無くなる。
 つまり、最期に臨む心の準備も整ってゆくことになる。
 もちろん、ただ諦めるしかない最期ではなくなる。

 そもそも、老化が進行するだけで、死んだほうが楽だという状態になってゆく。
 そうなるまえに、最期に臨む心の準備を可能な限り整えたい。

 

趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの冬季間の背景画を……





 

カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

未知なことは識別も自覚も対処もできない


 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。
 とても励まされております。
 相互応援アクセス、歓迎します。

 当地は、前回のブログ更新直後、積雪50センチ以上になり、除雪や屋根の雪下ろしで大忙しでした。

 管理人「kisuke(喜助)」の人生上では、雪で行動が制限される冬場こそが有意義な時間になります。



 個人的な、思考を冬モードに切り替えるためのウォーミングアップ。
 自分の考えを検証したり整理したり、考える際に参考にしている記憶に残っているイメージを整理したり検証したりすることだが……

 先日の大雪を除雪中、以前に耳にしたことを思い出した。
 暖冬なのに雪は多く降るのが不思議だった頃、テレビで気象予報士が「暖冬なほど日本海の水蒸気量が多くなり、それが東に移動して地上に雪になって降るので大雪になる」と言っていたことを。
 よって、今冬も大雪になることを心配し、早めだったが屋根の雪下ろしまで行った。12月中に屋根の雪下ろしをしたのは今回が初めてだった。

 こんな環境上のことに気を取られても、内面的なことである思考のウォーミングアップは殆ど忘れている。
 でも、内面的なことである思考のウォーミングアップは、そういう性質のことであることは、経験済みだし、すでに解ってもいる。
 だから、当該状態にあったことも捉えやすい。
 なのに、冬モードへの切り替えや、ウォーミングアップに、集中できず、空転状態だ……

 しかも、屋根の雪下ろしをした日から、気温が高めで、小雨になり、二日後には積雪も30センチほどになり、一安心した。
 にもかかわらず、冬モードへの切り替えやウォーミングアップに集中できない。
 なぜだ……

 老化の所為……、であっても、そうだと思うと堕落するだけなので、老化の所為だとだけは思いたくない。
 貴重な冬場を無駄にするだけではなく、人生の残り少なくなった貴重な時間までも無駄にしてしまうわけだから。
 早く解明して解決しないと……


 名前を言われても、その人を知らない場合は、どの人なのかは識別できない。
 その人に関するいろんなことを知るほど、その人に関するいろんなことを識別できるようになる。

 道順も、最初は経験的な知識は無いだけに、迷ったりもする。
 だから、探したり尋ねたりしながら行く。
 繰り返し行くほど詳しく憶え、相応の識別や判断が可能になるから、そのことに関しては精神的な迷いも減少する。
 相応の情報が記憶に溜まるほど、それを、言葉だけで他人に教えることも可能になる。そのことに関しては、精神的に安定する。
 遠回りしているのではないかと気づいたり、近道を探したりすることも可能になる。精神面の基本的なことは共通だから、自信になる。

 自分自身のことに関しても、同様だ。
 自分自身のことなのに、内臓は見たことすら無いし、生命生理に関する知識は無いし、健康管理に関する知識もほとんど無い。
 知らないことは、識別や自覚もできないので、対処もできない。異変を感じただけで、不安になる。
 しかも、生後に知り得たことを以ては、老化を止められるはずもなく、誰もが死を余儀なくされる。

 経験し学習し理解して、相応の自己管理が可能になってゆくが、経験や学習や理解の性質上でも、経験し学習し理解する内容は限られる。
 もちろん、順調に自己管理ができるようになるとは限らない。
 つまり、精神面には、弱点もあり欠点もある。
 そんなことをすら知らなかったから、三十歳になっても自己理解ができなかったどころか、苦悩し困窮した。

 苦悩し困窮したわけだから、精神面の弱点や欠点に関することも、経験していた。それどころか、思い知らされていた。
 なのに、そうであることをすら把握できなかった。三十歳になるまでは、精神面には弱点や欠点や欠陥さえ生じることを知らなかったからだった。
 知らないことは、識別や自覚はできない。だから、自己管理もできない。ということも、知らなかった。

 自分の識別や思考や判断などの類である、想像や勘違いや思い込みや固定概念などの特徴や弱点や欠点なども、経験済みで、それゆえに苦悩し困窮したのに、具体的なことは知らなかった。
 想像や勘違いや思い込みや固定概念などの特徴や弱点や欠点ゆえに、考えには無理や矛盾が生じることも、知らなかった。
 経験し学習し理解する内容は、偏りさえする。が、そんなことを知ったのも、三十歳を過ぎてからだった。
 知らないことは、識別や自覚は容易ではないので、自己管理も困難だった。

 思考内容の無理や矛盾を解明すべきなんだということを知らない時点では、むしろ、不都合なことを隠し偽ることや、上辺を繕うこと気を取られていた。
 もちろん、知らないことや、意図的ではないことは、悪意であろうはずが無く、咎めるようなことでもなく、隠し偽りようが無いことでもある。
 が、隠し偽ろうとすることは、思考上のことだ。
 だから、それは、解明を困難にすることであり、解決を困難にすることに他ならなかったことに気づいた。それゆえの苦悩だったことにも、やっと気づいた。
 気づけたからこそ、思考内容の無理や矛盾を解明でき、思考内容の無理や矛盾が要因だっただけに解明できただけで苦悩は解決した。
 精神面の弱点や欠点とはいえ、特徴などを具体的に知るほど、識別や自覚も可能になり、よって対処も可能になる。
 こんな自分だけに、思考のウォーミングアップは欠かせないことなのに、集中できない……

 自分が困ることになることなのに、そういうことなんだということを判断できなかった頃は、強行しようとさえした。
 こんな経験上、思考(情報処理)の健全性を重視するようになり、衣食住は二の次にし、雪で行動が制限される冬場をそのために使うようになったのに……


 歴史上に、わざわざ汚名を刻むようなことであっても、そういうことであることを知らないと、そういうこともしてしまうことになる。
 つまり、経験や学習や理解の内容しだいでは、知能を誤用するようにもなる。

 誰でも日常会話で理解力を発揮するようになるのに、自己管理は目指さず、相手の所為にし、暴力的に制裁し制圧さえするわけだから、知能を悪用さえするようにもなる。
 むしろ、経験や学習や理解の内容しだいでは、知能に欠陥があるかのような状態にさえなる。

 こんなことも、今で分かっているのに、なぜ集中できない……


 そもそも、自分の考えを検証したり、自分の記憶に残っていることを整理することは、何時でも可能な状態にあることであり、何処に居ても可能な状態にあることでもある。
 つまり、とっくに準備は整っている。
 単に考えて整理するだけなのだ。
 内面的なことであり、極めて個人的なことではあるが、学歴や資格は要らないし、資金も要らない。冷静さが必要なことだけに寝転んだほうが良かったりもし、礼儀や作法も必要無いし、苦行や荒行とは逆のことでさえある。
 そんなことも、今は解っている……
 だから、対処は容易なはずなのに……

 要は、環境上のことを忘れるくらい、内向できるかだ。
 が、記憶には、思い出したくないこと・考えたくないこと・認め難いこと・見知られたくないこと・隠し偽っていること、なども溜まってゆく。
 これらが多く溜まるほど、内向は困難になる。
 見ただけで分かるのに、見もしない。
 聞こえているのに、聞き返す。聞く耳持たず、聞こえない振りをするのが癖になってしまっている。
 考えるだけで分かることなのに、考えもしない。
 挙句の果てに、「なんと言われたってかまわない」と言うが、逆上気味になる。
 しかも、隠し偽ろうとすることは、思考上のことだ。
 内向できれば、記憶や思考の無理や矛盾などを整理したり改善することも可能だ。
 そんなことも、自分は経験済みだから、今の自分が在る。

 が、現に、噛み合わず、空転状態で、冬モードに切り替えるのに難儀している。

 しかも、大雪以来、雪は減少するばかりだ。
 だから、この程度のことはできているのだが……


 あっ、雪は降らなくても、十二月は貧乏暮らしには特に忙しい月だった。
 お金、お金。どうやって用意すればいい……
 お金は、最期には要らなくなるが、現代の文明文化の中では生きている間は必要だ。
 最期に臨む心の準備や充実を目指してきたが、資金は必要ないことだっただけに、お金にもならなかったからなぁ……
 精神面を重視するようになり、衣食住は二の次にするようになって久しい。
 でも、最期に臨む心の準備、遺族の心配を解消する説明も可能な根拠も理由もある確信、それこそ優先すべき歳でもある……
 最期に臨む心の準備が整えば、生きていることに執着する必要すら無くなるわけだから……
 すでに、進化上では自分は諦めるしかない。勘違いや思い込みに因る恐怖心は解決済みで対処可能だ。が、整理不十分で、根拠や理由や確信は欠けている……
 しかも、これまでの全てがそうだったように、経験済みで記憶にあることを因果関係や理由に基づいて整理するだけで解明できる、その準備は整っているはずだ。
 むしろ、例外なく誰もが余儀なくされる死は、人為的に変えようが無いことであり、相応の心の準備も存在する可能性もあり、自分が知らないだけかもしれないのだ……
 ああ~、こっちこそ必須な歳なのに……

 片付けるべきことは、どうにか片づけよう。

 目を奪われ、心まで奪われ、見映えのために私利私欲を貪る。
 最期に臨む心の準備を疎かにする。
 その最期の心理も経験済みな自分は、そっち迷い込むことだけは避けなければならない。

 

趣味の写真、今年の撮影は終了したので……
当ブログの冬季間の背景画を……





 

カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

思考のウォーミングアップ・概要


 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。

 8日朝、積雪20Cm前後になり、今冬初の除雪。
 9日朝、積雪30Cm前後で、当地は本格的な冬に突入です。

 雪で行動が制限される冬場こそ、自分の人生上では有意義な時間になります。
 カテゴリ「思考のウォーミングアップ」も新設しました。



 農繁期は終わり、意識を冬モードに切り替えるために、気の向くままに行ってきた精神面のウォーミングアップ。
 あくまでも冬モードに切り替えるためであり、個人的なことであり、しかも内面的なことだ。
 自分の記憶に残っていることを、思考上で事実関係や因果関係や理由などを整理することにもなるだけに、記憶にあるにもかかわらず考えてみもしなかっただけに未整理で未理解だったことを今更のように理解することにもなる。
 自分に関することを理解すると、相応の自分に関することを識別できるようになるだけではなく、自分のことだけに自覚が可能になる。
 自分に関することを識別や自覚できるようになるだけに、精神は安定する。もちろん、相応の精神管理も可能になるからこそ、精神が安定する。

 記憶にあることを参考にして考えている、という事実関係が分かると、的外れな勘違いや思い込みの解明も容易になり、いつのまにか記憶に定着したイメージ(固定概念)を捉えることも可能になり、よって覆すことも可能になる。
 また、そうしたくないのに、そうしてしまう、その理由の解明も可能になり、よって解決もできる。
 曖昧なことなども、更に理解を深めることが可能になる。

 そういう経験をするからこそ、経験した一連の因果関係や理由をも客観的に理解でき、よって自覚できるようになり、理解が深まるほど自信も得られる。


 要は、内面的なことであり、五感では捉えることができないことだということだ。

 が、生活上は、環境上のことに気を取られ、人間関係もあり、五感で捉えることができることに気を取られがちだ。
 それだけで、内面的なことは疎かになる。

 しかも、経済優先の人社会は、目を奪うものや心まで奪うものこそが溢れている。
 よって、個人的に重要な情報処理や、記憶に溜まったことを思考上で整理するだけで理解できる準備が整っている、ということをさえ未理解なまま見失っていたりする。

 少なくとも、自分がそうだった。
 でも、困窮した末に、人間関係を断ち、自室にこもったことで、省みることができた。
 だからこそ、勘違いや思い込みに関しても解明でき、「記憶に溜まったことを思考上で整理しただけで困窮の要因を理解できたわけだから、相応の準備が整っていたからだった」ということも理解できるようになった。

 個々に知能が備わっているだけに、誰でも、唯一、自分に関することは直に経験し続ける。
 記憶には、自分に関することが最も多く溜まってゆく。
 学習力や思考力や理解力は、日常的に発揮するようになる。
 記憶に溜まっていることを、思考上で整理するだけで、自分に関することを理解することができ、重要なことも理解できる。相応の準備は、経験上、自ずから整うからにほかならない。


 理解しそびれたまま時間が経過し過ぎると、未理解であることをさえ認め難くなったりする。
 間違っていることが明らかになっても、不都合なことや不利なことは隠し偽ることや上辺を繕うことに固執するようにもなり、当然に省み難くさえなる。
 結局、他人の所為にする。
 そういう悪循環に陥っていることをすら把握できなくなりもする。

 が、相応のことが記憶にあるからに他ならない。ただし、不都合だとか不利だと思うことを、否認したり隠し偽っているわけだから、把握や理解や解決を困難にしている。
 むしろ、その記憶にあることを整理するだけで、無理や矛盾なども解明でき、よって解決もでき、事実関係を把握できるようになるだけに精神も安定するし、自信にもなり、人間関係や信頼関係も回復できる。
 つまり、自分が本来はそういう存在であることを、見失っていたりする。

 とはいえ、実際には、自分なんかは説得できない。
「知らないだけだ。誰にでもある間違いだ。悪意は無い。咎めることでもない」ということをさえ、解り合うことができない。
 反面教師としても捉えられることができるようになった自分は、早めに気づいて反省でき相応のことを理解することもできたからこそでもあり、恵まれていたと思うようにもなった。


 人間関係を離れて、大自然の中に独りで立つ趣味の写真も、気づけなかった自分の勘違いや思い込みに気づけたりするからでもある。
 自分も、理解はまだまだ不十分なわけだから。
 むしろ、いまだに精神面のウォーミングアップをしているような段階でしかないのかもしれない。

 

11日、久しぶりの青空。
3月まで、雪に埋もれたような暮らしになります。










 
カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

ウォーミングアップの序?

 
 そろそろ意識を切り替える……
 が、すっかり空転するばかり……

 しっかりしろよ。
 意識の切り替えは、個人的なことにほかならず、冬モードに切り替えることだろ。

 そうだった。
 雪で行動が制限される冬季間を、有意義に使うことでもある。
 だから、それに向けて、意識を切り替えるのだった。
 となると、精神面のウォーミングアップが必要だ。
 精神面のウォーミングアップといえば、重視して行ってきたことこそ、精神面のウォーミングアップそのものだったとも言える……
 その中心的なことといえば、思考の健全性を回復することだ。
 よーし。思考が回復してきた。
 ま……、こんなことを数日も行えば、なんとかなるだろ。

 気になる冬支度の方を、今日は片付けるとしよう。


 21日朝。
 霙だった。
 まだ暗い時間帯には雪が降っていたのかもしれない。
 すっかり遅れているが、初雪だったことにしよう。

 雨が上がったら、すっかり落葉した山肌は白くなっていた。


 22日。
 今日も、雨。

 


 趣味の写真は、今秋は、この場所から主に撮っていた。
 中央辺りを横切っている林道を、以前は樹木が覆っていた。
 その樹木が数十ヘクタールも伐採され、今夏、搬出も終了した。
 よって、遠くの峰々が見えるようになった。




今秋の撮影場所(南端から北向きに撮影)
この中央辺りで、西に向いてスタンバイする。
そして、広大な空が夕焼けになることに期待して待つ。
やがて、雑然とした伐採跡地であることは忘れている。




20181111 今年の撮影はこれで終了



 勘違い・思い込み、その修正もあった。

 カメラも、中古は安く売られている。売っても、そこそこの値段だったりする。
 なので、次々に、買っては使ってみて、売った。
 が、ISO感度に関して、勘違いしていたからでもあった。

 実は、今年は、気象情報の収集や学習だけではなく、カメラに関する知識や技術的なこともできるだけ習得しようと思った。
 というわけで、撮影した画像から、自分のISO感度に関する考えに疑問を抱き、Web検索を繰り返した。
 その結果、ISO感度を上げるほどノイズは増えることや、ISO感度はノイズを減らすための機能?ではないことも分かった。

 つまり、ISO感度に関する具体的なことは未理解なまま、勝手に「ISO感度が高いカメラほど、ISO感度を上げてもノイズが少ないのだろう」と想像し、いつのまにかそうなのだと勘違いし思い込み疑問を抱かなくさえなりつつあったのだった。

 
カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

そろそろ意識を切り替えよう

 
 収穫は終わり、後片付けは残っているが、秋の農繁期は一段落。
 今年の農繁期は……
 里には雪も降らず……
 雨は降ったが少なく……
 好天には恵まれたという印象だ。

 以前は、十月中に里に初雪が舞い、十一月に入ると積雪があるのが、あたりまえだった。近年は、それが無い。
 冬場の最低気温も、以前ほどは下がらなくなった。
 農作業には、好都合だ。

 が、自分が優先し重視していることからは、すっかり遠退いていた。

 何かに気を取られると、他のことは疎かになる。
 何かに気を取られると、他のことは忘れてしまう。
 使った道具も、どこかに置いたままにして、すっかり忘れ、見事に錆びてしまったものを目にしたりする。
 今春も、ある道具を使ったが、どこに置いたのか、最後に使った場所がどこだったのか、いまだに思い出せない。
 そんなことが、老化とともに、顕著になる。

 そもそも、生存上必要なことや、現実的なことや、目に見えるものなどに、気を取られがちだ。
 つまり、記憶などの内面は、五感では捉えることができないだけに疎かになりがちだからでもある。

 でも、老化とともに集中力も衰えるなどしたがゆえに、集中すべきことには今まで以上に集中せざるをえなくなったのだ。
 そうだとしたら、決して悪いことではない。

 が、的外れなことにでも集中してしまうからなのか、肝心なことは記憶にあることは分かっているのに、思い出せなかったりする。
 ま……、記憶には、思い出したくないこともある。
 相手しだいでは、知られたくないことも記憶にはある。
 意外な、勘違いや思い込みや固定概念もあったりするからだ。
 そんなことが、障害になっていたりもするのだ……。

 だから、何かをしている時に、ほとんど無関係なことを思い出したりする。
 必要な時に思い出せなかったことを、意外な状況で思い出したりもする。
 つまり、記憶には有る。
 が、記憶は、五感では捉えることができない性質上、順調には思い出せなかったりもする。

 五感では捉えることができない記憶にある過去の経験なども、思考上では捉えることができる。
 記憶にあることを、思考上で、事実関係や性質や条件、因果関係や理由などに基づいた整理をすると、相応の一連のことを理解できる。
 つまり、五感では捉えることができないことを、思考上で理解することは可能だ。
 そのために、超冷静になる。
 理解できたことは、それを基に相応の識別などが可能になるわけだから。
 会話上などで日常的に行っていることなのだが、未理解な場合と理解した場合の違いも分かる。
 これらに関しては、三十歳前後の頃よりも進歩している。

 そういえば、顔や物事やイメージは記憶に有って、相応の識別もできるが、その名前を思い出せなかったり、相応の言葉が思いつかなかったりする。
 そんな事実関係を整理して、理由を解明できれば、その改善も少なからず可能になる。

 そんな事実関係や因果関係の整理や理由の解明や理解を、今冬も、またやろう。

 総体的な整理は、まだ行っていないんだから。

 人生の残り時間は、少なくなる一方なのだ。

 誰でも、唯一直に経験し続ける自分の人生のためなんだから。

 早めに、意識を冬モードに切り替えなきゃ。

 

今年は、夏以降は、雲海はほとんど発生しなかった……。
朝焼けは、断念後にあっただけに、撮りそびれた……。
趣味の写真は、想定上では残念な結果になった……。
が、情報収集は進展しただけに、来年に期待する。




Nikon D200 + SIGMA 17-70





Nikon D7200 + SIGMA 10-20


 
応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
夏場は、相互応援アクセスは中断します。
拍手ボタン等は非表示中です。
プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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