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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

さてさて奮起奮起

 

 たくさんの応援アクセスに、お礼を申し上げます。

 ブログの更新に集中できなかった六月は、皆様の応援アクセスに救われ、復活もできそうです。
 ありがとうございます。


 
 
「実践こそが大事だ」
 と言うことだよな、モッちゃん。

 自分は、知るべき時に肝心なことを知りそびれた。だから、的外れなことを真に受けもした。そうだったがゆえに、精神面に無理も矛盾も生じ苦悩し困窮し、その修正を余儀なくされた。
 その修正ができるようになった。よって、じゃあ「肝心なことであり知りそびれていたことでもある本来の自分」って何なのだと思うようになった。つまり、やっと、「本来の自分」というものを知ろうとし始めた。
 こんなことばかりしているうちに、肉体的には老化が進んだ。が、いまだに精神的には未熟なんだということでもある。

 でも、未熟なわけだから、可能性は残っている。
「他界に臨む心の準備」として知り得たいずれの条件も、満たせていないわけだから、満たせる可能性は残っている。可能性が皆無になったわけではない。
 しかも、残っている可能性は、これまでに理解したことに基づいて実践的なことをすることばかりだ。
 ただし、老化は無視できなくなり、ハードルがすっかり高くなってしまっている。

 物体として存在するものではないので、五感では捉えることができないものであり、思考上で解明するしかないであろうことであり、解明するだけで意義があるであろうことだけに、解明したいと思っていることもある。これは、可能性も十分に残されている。
 でも、生後に知り得ることは、限られ、偏りもするし、勘違いや思い込みもあり、健康管理もままならない。
 専門知識を得た名医といえども死ぬわけだから、生後に知り得たことを以て出来ることは限られる。
 そういう生後に知り得る性質上、このハードルは、若くても飛び越えられそうもないほど高い。
 が、それに関する理解を深めることで明らかになってゆくであろうことでもあり、人生の最終課題だ。

 むしろ、高望みはせず、「自分は本来はどんな生き物なのか」この理解だけでも深めておいた方がいいような気もする……
 人生の残り時間は少なくなる一方なんだから……
 
 
 いずれにしても、死んだほうが増しだと思う状況では、強引に死ぬからこそ、辛い。
 死ねば楽になれるという状況も、生きていることが辛いことが前提になるわけだから、大差はない。
 むしろ、死ぬわけではないのに、パニックに陥ることもあるわけだし、発狂することもあるわけだから、死ぬとなるとそれらを超えた精神状態もありえる。

 要は、意識があるうちの最期に、どういう精神状態になれるかだ。
 これは、生前、相応のことを行ったか否かに左右され、相応の生き方をしたか否かに左右される。

 専門知識を得た名医といえども、生後に知り得たことを以て治療できることには限度があるわけであり、誰もが死を余儀なくされる。
 こんな、生後に知り得たことの脆弱さを具体的に理解できていることも、「他界に臨む心の準備」として欠かせない。

 まだまだ生きていたいと思う環境では、感謝したり詫びたり反省したりすることが容易だ。
 もちろん、誰かの意思や行為に因って死ぬことは無いわけだから、少なくとも強引なことに因る辛さは無い。

 結局、意識は無くなり、心肺停止し、腐敗が始まるので二十四時間後には火葬されるわけだから、死に至る際の意識が無くなってからのこと特に肉体的なことは論外だ。
 精神的なことは、遺族側の記憶に残り続ける。なので、その内容は問われる。
 よって、「他界に臨む心の準備」的なことなどは、誰にも共通するような根拠や理由で誰でも理解でき尊重できるような内容であることが望ましい。
 
 
 知能が備わっていて、経験でき、知らなかったことを憶え、相応の識別や思考や予想などができ、上達もし、記憶を基にした情報処理は条件反射的な速さでできるようになり、因果関係や理由や法則など(五感では捉えることができないこと)も思考上では理解できるようになる。
 道順が記憶に残ると、それを基に、スムーズに目的地に到達できるようになる。
 ルールを憶えると、その記憶に残っているルールを基に、ゲームやスポーツなどが可能になる。
 そういうことが可能になる過程では、精神面の弱点も経験するわけであり、それを克服しているようなものだ。よって、精神面の弱点も具体的に理解することが可能で、具体的に理解するほど適切な対応も可能になる。
 そういう環境なら、まだまだ生きていたいと思う。

 そんな環境にするためにも、これまでに理解したことを活かすべく実践的なことをしたいよな……
 これまでに理解したことを活かせる実践的なことを目指せたら、好いよな……
 
 
 人は、日常会話で学習力も思考力も理解力も発揮するようになり、理解したことに基づいたこともできるようになる。もちろん、そのことをも具体的に理解することが可能で、理解相応のことも可能になる。
 が、それらは、五感では捉えることができないことであり、思考上で整理することによって理解できる。
 そういう性質上、考えてもみないことは、理解できない。未理解な場合は、理解することの重要さも分からない。

 その重要さを、親子でさえ理解し合えなかったり、家庭内で悲惨なことが起きたりさえする。
 日常会話で学習力も思考力も理解力も発揮するようになったことに関することを未理解なほど、勘違いや思い込みをしがちで、それを悪用して、尤もらしく見せかけもし本当らしく工作もし優れたことであるかのように祭り上げて、目を奪い心まで奪い、騙し欺きもする。
 不利なことや不都合なことは認めまいともするし、隠し偽りもするし、言い訳や嘘も言い、居直りもし開き直りもし、強情を張り、逆上もし、強引に相手の口封じさえする。
 政治では、絶対に書き換えるべきではない書類をでさえ書き換えたりする。
 それでも足りないと、自殺者が出たり、暴力的に口封じしたり、結局、自身が逃げ隠れしなければならなくなり、その先は言うまでもない。
 まさに、そういうことが、そういうことを改善することを困難にし理解し合うことを困難にしている。
 日常会話で学習力も思考力も理解力も発揮するようになるわけだから、本来はその事実関係や因果関係を理解することも可能だし、理解した場合は相応の自覚や思考なども可能になるので、慎むことや避けることも可能になるだけに、改善もできる。
 が、理解や改善を困難にすることをしているだけに、言及すれば逆効果になることが多く、気が引ける。

 進化上形成された知能が備わっていて、誰でも日常会話で学習力も思考力も理解力も発揮するようになる。
 このことを、尊重する人は、その重要さを理解し合おうともするだけに、暴力的に片づけることは嫌うし、争うことも嫌うし、競うとさえ避けるし、自慢するさえ避ける。
 暴力的ン片付けようとする人や、争い競いがちな人は、このことを尊重しないし理解し合おうともしない。

 そうであるがゆえに、人と仲良くなるのは、猫や犬と仲良くなるよりも難しい。
 
 
 むしろ、言葉を話せない猫や犬は、言葉で理解し合うことはできなくても、人とでも仲良くなれる。
 言葉を用いない猫や犬は、事実だけを基に識別し思考し判断しているから、口先だけでも何とでも言える言葉や見せかけは無意味だからなのだろうか。

 モッちゃんは、言葉では理解できないわけだが、経験や学習上、警戒心を捨て、俺を信用するようになり、痛いのを我慢してでも自分ではできないことを俺にやってもらうようになった。
 日常会話で学習力も思考力も理解力も発揮するようになる人が容易にできないことを、言葉を用いないモッちゃんは独自にできていた。
 そうだったことを、むしろ俺が理解できず、モッちゃんが死んだことによって、考えさせられ、やっと気づき、そして知った。

 

何も言わずに、ただ存在し続けている。
だから、信仰し、霊峰と言うのだろうか。




2019 夏の夜明けの霊峰





2019 夏の日暮れの霊峰


 

カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

ありがとうモコちゃん

 
 モッちゃんの気持ち、可能な限り察するよ。
 
カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

「他界に臨む心の準備」再開

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。

 相互応援アクセスは、夏場は休止します。

 
 
 
 山菜が採れ始めるこの季節、つい山野に出向く。
 野良仕事などの現実的なことに、年毎に気を取られるようになってきているような気もする。
 写真撮影も、今日は駄目かもしれないと思いながらも、出向く。
 が、いずれも、浮世から、離れることができる。目を奪い心を奪おうとする行為から、離れることができる。つまり、自分の精神面が左右されがちなことから、離れることができる。
 よって、自分の考えや模索などを優先できる。
 だからだよな。
 
 
 山菜は、非人工的なものだが、間違いなく季節的に育ち、採れる。
 そんなことが、記憶にも残っている。
 なので、相応の季節が想起してくれて自分の心に期待が生じて、行動が促される。

 野良仕事は、植物の性質を基に、自分が予想した結果になることに期待して、相応の人為的なことを行う。

 朝焼けや夕焼けの写真撮影の場合は、ちょっと違う。
 気象現象は、自分の思い通りにはならない。それどころか、自分の浅知恵では予想すら容易ではない。
 なので、知識を得るためにも撮り逃がさないためにも、自分好みの撮影場所に出向く。
 そして、地上からの実際の気象現象を撮って、パソコンで見る天気図や気象衛星の画像などの上空から捉えた情報と見比べる。
 つまり、パソコン上の情報を基にして、地上から見れる気象現象を予想して撮影場所に出向くだけに、より的確に予想できるような情報を収集する。
 
 
 今年は、まだ夕日と夕焼けの撮影にしか出向いていないが、五月は好天が多かったので、二十二日の時点で十五回出向いている。
 でも、まだ夕焼け自体が、少ない。そこそこの夕焼けも、無いに等しい。期待している雲の下を夕日が照らすタイプの夕焼けは、もちろん無い。
 つまり、的を得たような情報を得られる気象状態にも、まだなっていない。
 が、この辺りに雲があると夕焼けにはならないとか、よってこの辺りが晴れていないと夕焼けにはならないなどの、逆説的でもあり失敗は成功の基的でもあり反面教師的ともいえるような情報は得られる。よって、着実に的は絞られている。なので、決して無駄でもない。

 しかも、繰り返し出向くうちに分かったことだが、ガソリン代を気にしながらも懲りずに出向くのは、相応の理由もあるからだった。
 そもそも、人間関係を断って自室にこもったことによって、自分の勘違いや思い込みや固定概念をも覆すことができた。つまり、尤もらしく見せかけ本当らしく工作したことを見抜けるようになり、本来の自分を取り戻すことができた。
 よって、それぞれの自由だったことも分かり、尤もらしく見せかけ本当らしく工作したテレビドラマなどは見なくなった。
 むしろ、自分が未知だったことである「生きているということはどういうことなのか」とか「本来の自分はどんな生き物なのか」に関心が向いただけに、それ以外のことに浮かれている浮世は敬遠するようになった。
 だから、自分のこんなことを客観的に捉えられるようにもなった。

 撮影現場は、大自然の広大な空間の中だ。
 そこで、独りで、思い通りにならないどころか浅知恵では予想すら容易ではない気象現象に臨む。
 よって、自分の記憶内の役に立たない勘違いや思い込みや余計なだけの雑念からも、離れることになる。
 しかも、自分にとって望ましい気象現象になることに期待して臨む。これが、自分にとって未知なことを捉えようとする模索に似ている。
 自分にとって未知で未理解なことを捉えようとしているうちに、写真撮影は二の次になっていたりする。

 新緑に変わってゆく大自然の中は、「生きているということはどういうことなのか」に思いを巡らすのには格好の環境でもある。
 そんなことでもあるから、写真の成果は一向に無くても出向く。
 出向くのは、夕焼けではなくても稀に見事な自然現象になったりするからでもあるが、未熟で勘違いも思い込みも無くならない自分の精神面にとっては、妙薬に優る環境だと分かってきたからこそだ。
 浮世に、それだけ自分が惑わされがちだからだが、夕焼けの撮影に出向く山中では、本来の自分を捉えることも可能になるからでもある。
 それは、自分が生後に知り得たことよりも以前から存在し、自分が生後に知り得たことよりも優れていることに臨むことでもある。

 夕日が彼方の尾根に沈み、夕焼けになり、夕焼けの名残で彼方の稜線だけが浮き彫りになる時間帯は、自分の末路に思いを馳せるに相応しい環境でもある。
 
 
 そもそも、誕生の背景である進化に関することは、自分は知らない。
 自分の祖先や先祖に関しても、知っていることは限られている。
 自身が誕生した経緯も、実際には知らない。
 知らなかったことを憶え練習相応に上達したのに、この学習に関することも未理解だった。
 かつては、自身の生命生理が自律して機能していることをすら知らなかった。
 それどころか、想像や勘違いや思い込みなどの自分の思考に関することをすら三十歳になるまで未理解だった。
 もちろん、生後に知り得ることは、その性質上、限られもするし偏りもする。しかも、勘違いや思い込みもある。そうであることを理解できたのも、三十歳以降だった。
 いまだに、自身の内臓なのに見たことすら無く、自身の生命生理なのに具体的なことは未理解だ。
 いつのまにか、「他界に臨む心の準備」を重視するようになり、その時が明らかに近づいているのに、死とはどういうことなのかも、いまだに具体的なことは知らない。
 
 
 ならば、浮世に流され、流されるまま浮かれて、浮かれたまま死んで逝けるのなら、「他界に臨む心の準備」も必要無い。
 が、それは成立しない。
 自分と言ったり自身と言ったりするが、この身体は、私物とは言い難い存在でもある。
 学習力も思考力も理解力も備わっているし、思考力も理解力は日常的に発揮していることになり、日常的に磨かれていると言っても過言ではないわけだから。
 最期の審判は自ら下すことになる。
 
 
 こんなことを書いて、「他界に臨む心の準備」の模索を再開するつもりでいたのだが……
 
 
 二十三日。
 前夜、ご飯を食べたモッ(モコ)ちゃん(今春満二歳になった雌猫)が、二十三日朝は立ち上げることもできなくなり、居間のモッちゃんの指定席に寝かせたら、寝たきりのまま、昼前に死んだ。

 まさに、死は、予測できない。
 生後に知り得たことは、死自体に対しては為す術が無い。
 死んだか否かのの判断さえ簡単ではない。
 そうであることを、モッちゃんが身を以て実証してくれたような結果になった。
 それらは、自分にも共通する。
 明日は我が身……、そう思うしかない。
 そんな自分に「他界に臨む心の準備」の模索は急務だと、モッちゃんが気づかせてくれたとも思えた。
 ところが、自分は予測できないことや為す術が無いことに関して、つい思いを巡らすだけに、思考は空転し、他のことに関してはボケ気味にさえなる……

 けれども、モッちゃんが、俺に考えさせている。それを尊んで、考え続けた。
 一週間も要したが、ある勘違いに気づいた。
 よって、「他界に臨む心の準備」の一つとして有効かつ重要なことに気づいた。
 それは、他界に臨む際、その環境が確かな信頼関係が築かれていることだった。
 信頼関係が確かなほど、安心できるわけだから。

 そんな誰でもやっているようなことに、いまごろ気づいた俺は、この確かな信頼関係も築けていない。
 このことにも、モッちゃんがて気づかせてくれた……
 勘違いや思い込みもある生後に知り得たことよりも、絶妙な秩序に基づいて自律して機能している生きていること自体の方が優れていて尊いことは歴然としている。なのに、そうであることを、まだ誰とも理解し合えていない。
 人は誰でも会話できるようになる。つまり、会話を介して、目には見えない意味や理由なども理解し合えるようになる。よって、理解したことに基づいた行動もできるようになる。だからこそ、協力し合うこともでき信頼し合うこともでき尊重し合うこともできる。なのに、そうであることも、まだ誰とも理解し合えていない。

 が、モッちゃんが、俺に考えさせているんだから……、もっと簡単なことなのかも……
 否……、明日は我が身……、それゆえに考えてしまうのだ……
 それとも、思考が空転するのは、まだ勘違いしているからか……
 思考が空転すると、他のことに関してはボケ気味になる。よって、頭が壊れそうにで不安になり、そんなことに気を取られ、考えることを止めてしまうことは確かだ。

 モッちゃんは、俺が勘違いしているあいだ考えさせた。だから、俺は自分の勘違いに気づけた。
 生きていたときも、モッちゃんは言葉は話せないので、俺が察し考え、相応のことを行って確かめ、俺の考えが的を得るまで、それを繰り返したりしたからでもある。

 モッちゃんの身体は、確かに死んだ。が、まだ俺に考えさせているのは、もともと言葉を話せないモッちゃんの感情や気持ちや考えだということになる。
 モッちゃんは、言葉こそ話せなかったが、感情や気持ちや考え相応の行動をしていた。これは明らかだったんだから。
 人のように、尤もらしく見せかけることも無いし、本当らしく工作することも無いし、そういうことを競い争ってまで優れたことであるかのように祭り上げることも無いわけだから。

 モッちゃんは、まだ何かに気づいてほしいのだ。そう信じるか否かて、俺が模索し続けるか否かが決まるのだ……
 モッちゃんの感情や気持ちや考えは、まだ生きている。
 否、モッちゃんの感情や気持ちや考えを、生かし続けるか否かも、俺の気持ちや考えしだいなのだ。
 それぞれの自由なんだから。
 誰かと理解し合うことも大事だが、理解し合うに値することをまず自分が理解することも大事なのだ。

 

カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

「他界に臨む心の準備」今回は小休止

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。
 相互応援アクセスは、夏場は中断します。

 パソコンも老化したのか、不調なだけではなく、最近は不穏な動作までします。
 老化に伴う眼精疲労の悪化も避けたいです。
 実生活は精神面の充実優先につき、貧乏暮らしなので、夏場は生存維持の野良仕事が必須になります。

 
 
 この時期は、夏場モード(生存維持のための野良仕事優先)への切り替え期につき、「他界に臨む心の準備」は今回は小休止です。
 
 
 
 かつて、叔父(父の兄)の葬儀の手伝い中に気づいた。十分に食べたのに、満腹感を感じなくなった。それどころか、まだ食欲がある。
 当時、体重も5㎏ほど増えた。

 その後、従兄弟(数年前に他界した父の兄の長男)が他界した頃も、また満腹感を感じなくなり、更に体重が増えた。

 増え続けた体重は、ピーク時には90㎏に達しそうだった。

「太っていることは、健康の証だ」などとも言っていた。
 そのイメージは、子供の頃から抱いていたものだった。
 
 
 満腹感を感じない体験以前に……
 自分の苦悩や葛藤体験ゆえに、想像や勘違いや思い込みや固定概念などの特徴や性質を知った。よって、想像や勘違いや思い込みや固定概念などを参考にしたり基準にさえしていたことによって生じていた思考の無理や矛盾をも解明でき、相応の葛藤や苦悩は解消した。

 つまり、詳しく知らないことであり、具体的な識別や判断ができないことであるがゆえに、想像し、事実確認もしなかった。
 その性質上、想像し放題だ。そうであることをも知らなかったから、そうであることを自覚もできず、よって自制もできず自己管理できなかった。
 もちろん、想像が暴走していたようなものであり、妄想に陥っていたのだった。

 具体的な判断ができないがゆえの想像の内容上、心配どころ苦悩しはじめたことも一因だったわけだが……
 具体的な判断ができないのに、想像上のことを基に心配したり苦悩してしまったこと自体が、葛藤の一因だったとも言える。

 想像に過ぎないことを自覚できず、事実確認を行わず、根拠も理由も無かったからこそ、自分が想像しているに過ぎないことなのに事実であるかのように勘違いした。
 まさに、思考内容が無理だった。

 勘違いしたどころか、事実だと思い込んだ。
 思い込んだからこそ、相応の行動までしようとした。
 でも、相応の行動までするとなると、無理や矛盾がある。これによっても、葛藤が生じた。

 その想像の基になった、イメージの存在も明らかになった。
 それも、想像に過ぎないことだったのに、確認し難いことだっただけに事実だと勘違いし、いつのまにか事実だと思い込み、相応の行動をするようになり、疑問も抱かなくなったがゆえに、記憶に定着してしまい固定概念になったものだと考えられた。
 それを基に想像していただけに苦悩や葛藤を余儀なくされたわけであり、もちろん自分の意に反することでもあり、誰もがそう考えているとも限らない。そういうことだったことも分かっただけに、その固定概念は覆された。

 そんな経験上、安易な想像は止め、事実確認をするようになった。
 つまり、自分の経験を基に理解したことである想像や勘違いや思い込みや固定概念の性質や特徴を基に確認し、根拠も理由も無い思い込みや固定概念も積極的に覆すようになった。
 そんな経験上、自分の精神面の把握や理解や充実を重視するようになり、衣食住は二の次になっていった。


 その後に、満腹感を感じなくなり、体重が増えただけに、その理由も精神的なことが要因ではないかと気になった。
 が、太った体重に慣れたからだったのか、気にしなくなった。
 このことに関しては精神的な要因も、解明できないままになった。
 
 
 そして、集団検診を受けるようになった。
 自分でも体重が気になりはじめた。
「太っていることは、健康の証だ」的なイメージも気になりだした。

 かつて、自分の勘違いや思い込みなどの特徴や性質を解明して、勘違いや思い込みをも参考にしていた考えの無理や矛盾を解消できた。
 その経験を参考にして考えた……

「太っていることは、健康の証だ」と思っているが、実験したわけではなく、事実確認すらしたわけではない。つまり、根拠も理由も無い想像上のイメージに過ぎない。

 そうだったのに、想像上の「太っていることは、健康の証だ」というイメージの事実確認もしなかったがゆえに、いつのまにか事実だと勘違いしたのだ。

 しかも、根拠も理由も無視したからこそ、「太っていることは、健康の証だ」というイメージをいつのまにか事実だと思い込み、つまり疑問も抱かなくなった。

 疑問も抱かなくなりった「太っていることは、健康の証だ」というイメージは、いつのまにか記憶に定着して固定概念化した。


 そう考えられた。
 が、「太っていることは、健康の証だ」という思い込みや固定概念を、覆すまでには至らなかった。

 体重を減らすことにも、本気はなれなかった。
 でも、本気になれないのは、「太っていることは、健康の証だ」的な思い込みや固定概念があって、それに反することを行うことになるからこそ難しいのだ、と思うようになった。
 体重を減らしたいという思いも持続した。
 だからだったのか、結構な年月を要したが、85㎏まで減った。

 慣れなのか、また体重を気にしなくなった。
 
 
 やがて、集団検診のたびに「これがメタボだ」と言われるようになった。
 体重を減らしたいという思いは復活し、持続した。
 だからだったのか、努力をしたわけでもなく、数年は要したが、5㎏減って80㎏になった。
 それでも、集団検診では「これがメタボだ」と言わた。
 いろんな努力をしたのに、それは評価されない。

 たしか、缶コーヒー類を自分で買って飲むことを、まず止めた。
 思えば、最初に体重が減ったのは、あの頃だった。

 でも、タバコは止められなかった。
 禁煙を試みるたびに喫煙本数が増え、1日の喫煙本数が40本になった。
 よって、喉の不快感を自覚するようになり、それだけ禁煙を真剣に考えるようになった。
 思えば、止めたいのに、止められる知識も無く、自信も無かっただけに、それらの事実を隠し偽るように「好きで吸っている」などと言って愛煙家を気取っていた。あの偽装の愛煙家に見せかけるために、喫煙本数が増えたのだ。が、偽装は、大人げない。だから、更に偽装する。よって、喫煙本数が増えた。
 喫煙しはじめた理由を考えたところ、中卒後に上辺だけ大人振るためにタバコを吸い始めたことを思い出した。その上辺だけの偽装を更に偽装し続けていたようなものだったのだ。もちろん、偽装は、大人とは言えない。いわば、非大人だ。
 むしろ、大人げない見せかけだけの嘘の類を止めることができてこそ精神的にも大人へと成長できる。
 相応の思い込みや固定概念を覆したりするなどの自分の精神面の把握や改善ができてこそ、相応の行動的なことを改善することもできるわけだから。
 そんなことに気づき、即座に、開封済みの煙草も買い置きの煙草も父にあげて、突然の如く絶煙した。2002年12月下旬のことだった。
 絶煙こそが、自信になった。誰かに評価されることよりも、自信の方が重要であることは間違いない。
 以後、吸わない方が自然だとも感じるようになった。
 
 
 体重の減量も、できないことではない。
 ただし、体重減量の場合、絶煙のように一気にできることではない。時間も要することなので、簡単なことではない。こういうことを把握できていることも、やり遂げる際の精神管理上は重要な情報になる。
 喫煙本数が増えたのと同様に、肥満に至った理由にも偽装があるのかもしれない。「太っていることは、健康の証だ」と言って正当化していたことは事実であり、相応のイメージを抱いていることも事実なんだから。
 肥満に至った理由にも、思い込みや固定概念もある。その、解明や解決も必要だ。
 そもそも食べることは、生きることに直結していることでもあるんだから。

 減量するにしても、自分は精神面の自己管理の一環だ。
 自分の思い込みや固定概念を覆してきた自分は、栄養ドリンクやサプリメントなどは頼らなかった。
 両親は、かつて、アロエのジュースを愛飲した。そのアロエのジュースを入手できなくなったが、変化は見られなかった。なのに、その後は、栄養ドリンクやサプリメントを頼りがちだった。それは、思い込みどころか、思い込みに過ぎなかった愚かさを偽装することに執着しているのではないかとさえ思えたものだった。
 その後、所属していた団体の先輩が、「うちの婆さんが『○○の店のリポ○タンが一番効く』と言って、その店までわざわざ行って買う」と言い、それは周知のこととなった。
 小麦粉でも、医者が「胃薬だ」と言って渡すと効果があるという話を聞いたことがある。
 栄養ドリンクやサプリメントも、愛用者の思い込みによる効果に過ぎなかったりする。
 もちろん、それぞれの自由だ。
 それぞれの自由だからこそ、自分の場合は、あくまでも自分の精神面の自己管理の上達や自信になることを選択する。
 自分の精神管理ができないことこそが不自由の極みなんだから。
 テレビコマーシャルの出演者は、相応の出演料などを貰えるからこそ努力してでもダイエットする。それを、商品の効果だと真に受け思い込もうものなら、詐欺にあいかねない。
 与えられたイメージを、真に受け、思い込み、相応の行動をするようになる。その愚かさを偽装し、逆上してまで正当化する。そうなると、洗脳されて翻弄されている類になる。
 その類は、避けたい。

 酒は、各団体に所属しなくなったことで、親睦会で酒を楽しむことは無くなって久しい。
 自分は体質的に酒に強い方ではないことも分かっていた。
 そもそも、貧乏暮らしには、無駄遣いでしかない。
 自分にとって重要なのは精神面の成長であり充実であり、それに反することでもある。
 そんなことを思うようになり、自分で買ってきて飲むことは無くなった。
 母に対しても、「買ってくるな」と言って禁じた。
 そうしているうちに、酒は止めた。

 2017年、姉が農作業中に足首を捻挫し、忙しいので我慢して仕事をしたこともあって悪化させた。
 膝や関節の話が、自分も気になるようになった。
 老後も膝や腰を無事に維持したいとも思うようになった。
「太っていることは、健康の証だ」的な思い込みや固定概念も、覆したい。

 そんなこんなで、2018年春、ついに意図的に体重の減量に臨んだ。
 2月頃、体重5㎏減量。
 減量した体重を維持したまま春の集団検診。
 集団検診の問診の担当医が変わったこともあってか、「メタボだ」とは言われなかった。

 5㎏減量した体重に、すっかり慣れた昨年の夏。
 身体が重苦しいと思うようになった。
 気になって体重計に乗った。体重が1.5㎏ほど増えていた。
 そのことから察し、昨春に徐々に減量しただけに、軽くなりかつ楽になった実感は薄かった。が、1.5㎏ほどとはいえ急に太ったことによって重苦しさや窮屈さを実感したのだと考えられた。
 ということは、太っていた頃は重苦しさや窮屈さを感じなかったが、徐々に太ったからであり、しかも太っている状態に慣れてしまったからだったと考えられた。
 太っていることは、決して健康の証ではない。
 ついに、「太っていることは、健康の証だ」的な思い込みや固定概念が、実体験によって覆りはじめた。
 すみやかに、1.5㎏減量。
 
 
 そんな経験上、今春も、5㎏減量。
 今回は難儀し、集団検診にも間に合わず、目標まであと0.5㎏だったが、数日後に今春の目標達成。

 ピーク時から数㎏減量、その後5㎏減量、意図的に昨春5㎏、意図的に今春5㎏。
 ピーク時からだと、18㎏前後減量した。
 当地で18㎏前後の物といえば、リンゴ生産農家が使用しているリンゴ箱の中身が18㎏前後。
 18㎏前後の物を、持ち上げるとなると、かなりの重さだ。持ち続けるとなると、早々に限界がくる重さだ。
 でも、体重のピーク時にも、そんなに重いものを持ち上げているほど足腰に負荷がかかっている実感さえ無かった。慣れてしまっていたからだったのだろう。
 また、いずれの減量時も最大で5㎏で、少なく。しかも、徐々に減量した。だからだったと考えられるが、軽くなりかつ楽になった実感も薄かった。これにしても、徐々に慣れていったからだったと考えられる。

 ということは、慣れは、思い込みや固定概念の形成にも影響していたのだ……

 いずれにしても、自身の関節の負担だけは相応に楽になったことは間違いない。
 
 
 意外だったことは、減食程度では、痩せないことだった。
 今春は特に、目標だった集団検診に間にあいそうもなくなったので、夕食を断ちはじめたが、なかなか痩せなかった。

 むしろ、いかに無駄な飲食をしていたかを思い知らされ、いかに他の命を無駄に食っていたかを痛感させられた。
 私物とは言い難いこの身体が不健康になるほど、飲食していたのだった。

 いつのまにか思い込んだイメージや固定概念が、太る結果に通じる行動をさせていた。だからこそ、それに反することになる減量が難しかった。
 そんな思考や判断や行動をさせてしまう、思い込みや固定概念は、もちろん要らない。
 
 
 今後、更に5㎏減量して、体重65㎏前後にする。

 根拠も理由も無い思い込みや固定概念が、確認された事実によって覆されたこともあってか、夕食を断つこと自体は無理ではなくなった。
 習慣や癖的なことに関することが、今後の精神管理の要になる。

 生まれる機会に恵まれ、生き物の一生を体験できることに感謝して、私物とは言い難いこの身体の健康管理をする。
 そうしつつ、他界に臨む心の準備を行う。

 体重の減量も、精神管理も必須で、精神管理は他界に臨む心の準備にも通じる。
 むしろ、とても私物とは言い難いこの身体の、私物化は避けたい。
 また、以前からやってみたいと思ってはいた断食も、浮世を離れた大自然の中で試してみたい。
 
 
 もちろん、誰でも直に経験し続けていることである「生きていることはどういうことなのか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」などの誰にでも共通することに関しては、とても私物とは言い難いことであるだけに、他界に臨む心の準備をするにしても根拠や理由に相応しい。よって、更に理解を深める。
 浮世を離れた、大自然の中で。

 

趣味の写真、撮影しはじめてはいるのだが……
まだ当ブログの背景画を……





 

カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

油断大敵だが 急ぐことでもない

 

 たくさんの応援アクセスに、御礼を申し上げます。
「ありがとうございました」

 相互応援アクセスは断念します。

 パソコンも不調で……
 ダウンロードに時間を要するブログの場合、「fc2.comはが応答していません」と表示されたり・「許可されていないコンテンツの使用許可」だったり・ダウンロードの途中でInternetExplorerが動作を停止や自動的な再起動やら・グラフィックが自動的に再起動したこともありました。

 眼精疲労の悪化も避け、緑豊かな夏場は目を養生したいです。

 大自然の中で、自分勝手な想像や根拠も理由も無いがゆえの勘違いや思い込みや固定概念などを、可能な限り捉えては覆します。
 自分が知らないうちに身体が形成されて産まれ、自分が見たことも無い内臓が自分が未理解でも自律して機能していることなど、「生きていることはどういうことなのか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」などの、誰でも直に経験し続けていて誰にでも共通することに関して少しでも理解を深めることに臨みます。



 誰にでも知能も備わっているだけに、誰でも自身のことだけは直に経験し続ける。
 しかも、誰でも日常会話ができるようになり、日常的に学習能力や思考力や理解力を発揮するようになり、目には見えない事実関係や因果関係や理由やルールなども理解できるようになる。
 よって、理解したことや約束やルールなどを基に、相応の行動もできるようになり、相応の結果にすることも可能になる。
 だからこそ、協力し合うことも可能で、信頼し合いもするし尊重し合うこともできる。
 つまり、経験上の「生きていることはどういうことなのか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」などは、独自に精通できるだけの条件も整っている。
 共通なことだけに、世代を超えて理解し合える条件も整っていることになる。

 けれども、自分が、前述したことを理解できたのは三十歳以降だったわけだから、唯一直に経験し続けている自分自身のことでさえ理解するとは限らない。
 特別に医学を学んだ名医といえども死ぬわけであり、そもそも生後に知り得たことを以てできることには限界があることになる。
 よって、死ぬことは、誰も避けることはできない。
 そういう点も、誰にも共通だ。
 共通なことだけに、具体的に理解し合うことも可能だ。

 要は、その最期に臨む際の精神状態だ。
 知能も備わっていて、目には見えないことも理解できるようになるからこそ、死は誰も避けることができないことも早くから知り得る。
 もちろん、相応の生き方をすることも可能だ。しかも、数十年も生きる。
 つまり、最期に臨む際の心の準備をすることは可能だ。

 だからこそ、最期に臨む際の精神状態は、その時のための心の準備ができているか否か、相応の生き方をしたか否か、などに左右される。
 家族が死んでも、自分の心の準備ができていないほど、それを疎かにしてきたことになるから動揺し、やがては自分も余儀なくされることだから落胆もする。
 ペットが死んでも、やがて自分が余儀なくされた際の準備ができていないほど憔悴したりする。
 つまり、最期に臨む際の心の準備をすることは可能なのに、疎かにして生きていた、その結果なのだとも考えられる。
 自分が、最期に臨む際の精神状態は、その時のための心の準備ができているか否か、相応の生き方をしたか否か、などに左右される。

 このことに関しても、誰も避けることができない共通事であり、そういう性質上では世代を超えて精通済みであっても不思議なことではない条件も整っている……

 ただし、最期に臨む際の心の準備が可能か否かを確かめた人は、その可否を知ることもでき、最期に臨む際の心の準備が可能な場合は、その準備を整えることも可能になる。

 そもそも、直に経験し続けている自分自身のこととはいえ、自身が形成された経緯は知らないし、内蔵は見たことも無く、理解すること自体に限界があるわけだから。
 しかも、勘違いや思い込みや固定概念もある。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 最期に臨む際の心の準備にしても、無関心な人もいるだろうし、否定する人だっているだろう。
 言うまでもなく、直に経験し続けている自分自身のことや誰にも共通することを疎かにしていたどころか、それ以外のことに目を奪われたり心を奪われたり、備わっている知能を非共通なことや競い争うことや私利私欲などにばかり使っているとなると、共通なことから逸脱するどころか常軌を逸していたりする。
 
 
 かつての自分も、共通なことから完全に逸脱し、そうであることに気づくことすらできなかった。
 が、結局、共通な世界に戻らざるをえなくなり、かなり戻ったつもりなのだが……
 それ以外のことで目を奪おうとし、非共通な私利私欲や競い争うことなどを以て心まで奪おうとする、そんな浮世に流されそうになる。
 ただ、そんな目には見えないことも、かなり観えるようになってきていることも事実だ。
 
 
 でも、当カテゴリ「他界に臨む心の準備」は、初投稿にもかかわらず事前に言い訳をしたようなものだった……

 二の足を踏み先送りにするばかりで着手できなかったことだけに、その理由の解明やら解除やら解禁のようなことが必要だ……
 が、それが現状でもある。
 一応、他界に臨む心の準備に移行したわけであり、その有効性や可否や是非や意義などを模索し探求するわけだから……
 冬場に行った思考のウォーミングアップが不完全だったのに、他界に臨む心の準備を夏場に模索し探求することに切り替えたわけだから、何度も仕切り直すだろうし再整理も繰り返すことになるだろう……

 しかも、雪が消えて現れた大地が日に日に緑に変わってゆくこの時期は、むしろ生存を維持するための野良仕事などの行動的なことに移行する。

 というわけで、今回の投稿は休みにしようと思っていた……
 いかん、いかん。それでは、解明や解決とは逆行し矛盾する。
 他界に臨む心の準備に関しては、不完全で、これから模索し探求するしかないわけだから。

 もちろん、十連休や桜祭りなどの浮世とは、とっくに自分は無縁だ。
 衣食住さえ、いつのまにか二の次になっていたんだから。
 
 
 かつては孤独の世界を彷徨ったが、人間関係を断ち、自室にこもったことによって、自分を見詰めることが可能になった。
 生命生理は自律して機能していることに気づいた。
 知能や思考や判断など自体は平常どおりに機能していることにも気づいた。
 出来ないことでも考えることができ、嘘も考えることができる、考えには無理や矛盾もありえることに気づいた。
 よって、自分の勝手な想像や根拠も理由も無いがゆえの勘違いや思い込みや固定概念などを、捉えては覆すこともできた。

 つまり、学習や理解の性質上では、どんな大事なことを未理解でも不思議ではなく、どんな重要なことを未学習でも不思議なことではない。直に経験し続けている自分のことを知らなくても不思議なことではない。
 むしろ、学習や理解の性質上では、とんでもない勘違いや思い込みや固定概念を抱いてしまって相応の生活をしていることさえある。反省したり改善すべき間違いであるがゆえに、否認に固執したり、強情を張ったり、暴力的に服従を強いたり、逆上して暴力的に相手の口封じをしたりする。
 もちろん、本人の頭の中でも理性と虚勢が争っている。
 個人的にも、理性を基に理解し納得できることを頼って生きるか、虚勢を元に上辺や見せかけだけのために競い争うかだ。

 自分は、根拠や理由を模索し、理解でき納得できることを探求し、理性を頼ったから、自分の考えの無理や矛盾を解明でき解決できた。
 そして、余計なことではなく、知らなければ自分が困ることや、個人的に最低限は知るべきことを、模索し探求しはじめていた。
 その本質的なことは共通なだけに、結果的に、誰にでも共通することを模索し探求していた。

 太古から世代交代を重ねて存続されてきたことや継続されてきたことは、その末裔として生まれた者には変えようが無い。
 自分も、自分が知らないうちに身体が形成されて産まれ、自身の内臓も見たことすら無く、自分の生命生理に関しても未理解で、健康管理すら思うままにならないわけだから。
 それ以外のことを、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、自分に都合よく有利なことを競い争ってまで優れているかのように祭り上げるなどして、優越感を感じたり有頂天になったりしたところで、むしろ誰かに刷り込まれたイメージを基に行動し翻弄されているようなものだったり、愚かさを象徴するようなことだったりする。

 そんな浮世も、同類だった自分には、どうすることもできない。

 でも、自分の勘違いや思い込みや固定概念は、すでに変えることができた。
 そして、自分は、自分が知らないうちに身体が形成されて産まれ、自分が見たことも無い内臓が、自分が未理解でも自律して機能していることなどに関心を抱きはじめ、「生きていることはどういうことなのか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」などを念頭に置くようになった。
 もちろん、誰でも直に経験し続けていて誰にも共通することであることも、確信していった。
 
 
 なのに、人生を甘く見ていた……
 
 
 誰にも知能も備わっていて、生きていることがどういうことかは個人毎に直に経験し続ける。
 生後に知り理解することより、それ以前に生存していて生命生理が自律して機能していることの方が優れていることは、歴然としている。
 自身が形成された経緯は知らず、自身の内臓も見たことが無く、自身の生命生理に関しても知らないし、生後に知り理解することは限られている。
 それどころか、勘違いや思い込みなどもあり、生後に知り得たことを以ては、生活がままならなかったり、健康管理がままならなかったり、常軌を逸したことをさえする。
 生後に知り得たことに対して、自律して機能している生きていること自体の方が、絶対的存在であり尊い。
 つまり、生後に知り得ることは限られ勘違いや思い込みもあり、よって名医といえども死ぬ。が、それ以前に生まれる機会に恵まれて生存していられることや、生命生理は絶妙な秩序に基づいて機能していることによって生きていられる。
 などの、経験上のことに関しては、繰り返し直に経験し続けることであり、年々、独自に精通できる条件が整ってゆく。

 しかも、生きていることがどういうことかは、生後に知り得ることを超越していて、誰も変えようが無いことだけに、誰にも共通することであり、先祖や祖先の代から共通なことであり、経験上の共通なことに関しては世代を超えて理解を深め合える条件も整っている。

 生きていることはどういうことかを理解するほど、生後に知り得たことの脆弱さを知り、生理的に生きていること自体を尊ぶしかなくなり、それに基づいた生き方をすることになる。
 よって、先祖や祖先が世代交代を重ねて種族を存続させ進化を継続させてきたように、その世代を超えた尊さも理解し合え、実践できる。
 また、誰でも生後に知り得たことを以てできることには限界があることや、誰でも死ぬんだということをも、納得した生き方をするようになる。

 つまり、相応のことを理解し合えていたりすることによって、おのずから最期に備えた心の準備が整うようなことをも行われるのかもしれない。
 
 
 ところが、知らなかったことを知ったり、未理解だったことを理解する性質上、直に経験し続けていることを知るとは限らず理解するとも限らない。つまり、「生きていることがどういうことか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」とかは知らないままだったりもする。
 それどころか、直に経験し続けていること以外のことに目を奪われもし、それを重視するようになって心まで奪われたりもする。
 非共通なことを競い争って私利私欲を貪り合うわけだから、その先にあるのは独占や独裁や支配であることが露呈したりする。
 もちろん、誰でも死ぬんだという共通なことを想定しない生き方をすることになり、最期に備えた心の準備は論外扱いにする。

 生理面は自律して機能していて、生後に理解することは容易ではなく、よって健康管理は思うままならないし、老化は止められないし、名医といえども死を余儀なくされる。
 つまり、生きていること自体は、生後に知り得たことを以ては変えられない。二度と生まれることもできない。
 むしろ、生後に理解することは限られ、勘違いや思い込みもある。
 
 
 日常的にも、死を忌み嫌い恐れ、、恐怖を象徴することが死であったりする。
 想像や的外れな勘違いや根拠や理由が無い思い込みなどでも、動揺するし当惑もするしパニックにさえなる。
 が、事実が明らかになったり、想像に過ぎなかったとか的外れな勘違いや思い込みに過ぎなかったことなどが明らかになっただけでも、安心する。

 経験を整理して、想像とはどういうことで、勘違いとはどういうことで、思い込みとはどういうことか、
 それらの特徴などを理解した場合は、理解した知識を基に、まだ事実確認ができていないわけだから想像しているに過ぎないことを自覚できるようになる。
 それだけで、まだ想像に過ぎず事実確認ができていないわけだから、想像上のことを事実だと勘違することも無くなるだけに思い込むことも無くなるし、想像に過ぎない段階でパニックに陥ることも無くなる。

 言い換えると、それらに関することを未理解なだけでも、想像を頼りがちになり、しかも想像しているに過ぎないんだということを自覚できない。
 想像しているに過ぎないんだということを自覚できない上に、不安や危機的要素が加わると、まだ想像上のことなのに、事実であるかのように勘違いしはじめる。
 勘違いし始めているに過ぎないことを自覚できない上に、不安や危機的要素が強いほど、自ら不安や危機感を煽るようなことを想像してしまい、そうするほど、想像に過ぎないことを事実であるかのように思い込む。
 思い込むほど、違和感や疑問を抱かなくなる。よって、思い込みに基づいて行動してしまう。
 結局、実際に何かが起きているわけではなく、想像や勘違いや思い込みに基づいてパニックになる。

 まして、いよいよ死ななければならないその時は、実際に訪れる。
 その時の心理を左右するのも、相応の知識があるか否かだ。
 その時の精神状態を、自分で安定させることができるだけの知識があるか否かだ。
 いわば、その時に備えた心の準備ができているか否かだ。
 この有効性や必要性は、ほぼ間違いない。

 この有効性や必要性を、知っているか否かに因っても、相応の模索や探求を始めるか否かが分かれ、その時に備えた心の準備が整うか否も分かれる。

 日常的なことからも分かることであり、むしろ歴然としていると言っても過言ではないが、どう捉えるかは、現にそれぞれの勝手な状態にある。
 母親と言えでも、身勝手で強情を張るばかりで、しかも長生きし続ける。
 その最期の心理は、変えようが無い。
 あくまでも、本人の知識で決まる。よって、本人が、どんな生き方をしたかで決まる。
 
 
 やはり、着手できなかった理由を解明して、解除なり解禁なりして、意向の切り替えなりをしなければ進展しない……
 もちろん、最期は予測できない。
 その時が突然に訪れる確率が、加齢とともに高まっていることも間違いない。

 その時に備えた心の準備ができていないからこそ、死こそが最大の恐怖で、恐怖を象徴することが死であったりする。
 その時に備えた心の準備ができていないからこそ、死を頑なに忌み嫌い恐れたりする。
 その時に備えた心の準備ができていないからこそ、家族が死んでも精神面が一変したり、ペットが死んでも憔悴したりする。
 死にたくないからこそ、他の生き物を殺して食べている。
 銃の所持が認められている国では、殺されるかもしれないと思うあまり、先に相手を撃ち殺してしまったりする。
 自分が死にたくないから、相手を殺してしまう。
 無差別殺人まで行ったりする。
 現代社会はストレスを癒す必要があるのか、現代病を併発するほど偏食や過食しているとも言われ、裏では大量に食べ物が廃棄されているとも聞く。
 いずれも、死を忌み嫌い恐れ、生きることに執着していることを物語っている。

 でも、殺したり殺されたりしなくても、誰もがやがては死を余儀なくされる。
 その時の精神状態は、その時のための心の準備がどれだけ出来ているかとか相応の生き方をしたか否かに左右される。

 日常的にも、知らないことは、模索や探求を始めるしかないだけに、判断に迷いもするし予想は外れていたりする。強行すれば、痛い思いをしたり損をしたりするなどのリスクも伴う。
 が、繰り返し経験したことほど、確かなことや詳しくしいことが記憶に溜まってゆく。それを参考にする識別や思考や判断にも迷いが無くなり、むしろ的確になるだけに好結果に通じる。
 だからこそ、観察し尋ねもし確かめもし調べもするし試しもし繰り返し練習もする。
 それでも足りない場合は、研修所に通ったり学校に通ったりもし、研究所を設けたりさえする。
 だから、高度なことも実現する。

 そういう学習や理解の日常経験上でも、他界に臨む準備ができていないまま死を余儀なくされる精神状態は、判断に迷うばかりであり、動揺するであろうことは否めない。

 諦めて死ぬにしても、そもそも当惑するからこそ諦めざるをえないのだとすると、むしろ諦めることに固執するしかないことになる。

 直に経験し続けている自分のことを知らず、他のことに目を奪われ、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げていることに心まで奪われ、そんなことに優越感を感じるようになり有頂天になったりさえしている場合、その最期は、絶望を否めないどころか、発狂的だったりしても不思議ではない。
 そんな的外れな勘違いや思い込みに早めに気づくと、常軌を逸した行動に走ったり、無差別殺人などを行うのではないかとも考えられる。
 死は誰でも余儀なくされるわけだから、そんなことをした場合の最期の心理ともなると発狂を超えるのではないだろうか。

 ただ、本人はそのまま死んで逝くだけに、その時に備えた心の準備を整えているか否かに関わらず、最期の精神状態の最終確認は本人のみが知ることになる。

 いずれにしても、最期の精神状態は、相応の心の準備の有無や生き方に左右される。

 ただし、生前に最期に臨む心の準備ができた場合は、生前に相応の根拠や理由などを理解し納得できることになり、準備ができたことも生前に判断できることになる。

 準備には段階があり、段階に応じた精神状態の相違もありえる。
 準備の有効性を信じて少なからず準備に臨んだ場合は、的外れなことに囚われて有頂天になることは無くなり、絶望的な最期や発狂的な最期にはならずに済む。

 むしろ、日常経験上、他界に臨む準備の有効性や必要性に気づかない方が不自然であり、そんなことに気づき知っているのに着手できないことも不自然だ……

 相応の生き方を、したか、否かにも左右されることになるが……
 その点は、自分の場合は手遅れなこともある……

 まだ、自分でも認め難いことや考えたくないことや思い出したくない類のことがあるから、着手できないのだろうか……

 まだ勘違いや思い込みがあって的外れな方に向いているのか……

 気になることは……
 あくまでも、他界に臨む心の準備の完成度とも言うべきことの最終確認に関しては、実際に他界に向かその時に決定的になり、本人のみぞ知ることだということだ……
 でも、生前に、根拠も理由も明確で理解でき納得できれば、準備が整ったことも生前に納得できる……

 違う。
 自分のことをすら満足にできないのに、人助け的なことまで考えるから、空転してしまうのか……
 他界に臨む心の準備の最終的な可否や是非の確認は、実際に他界に向かその時に本人のみぞ知ることである……
 死んで逝くだけに、その心の準備に関しては、それぞれ勝手なことでもある……
 つまり、あくまでも自分のこととして考えるべきなのだ。
 むしろ、生きていることを終わるわけだから、まさに超個人的なことでもある。
 そういうこととして的を絞った方がいいのか……
 しかも、生前に準備を整えることが重要だ、

 そんなことだけでも早めに具体的に把握しなければ……

 あああ、結局、今回は上辺を繕っただけの言い訳でしかない……
 書けば書くほど、上辺を繕う言い訳になるだけだ。

 やはり、今回の投稿は春休みとするか……

 待てよ。最期は医者を頼らないなど、そんな決心をすることも重要なのか……

 

趣味の写真、撮影しはじめたばかりなので……
当ブログの背景画を……





 
カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

他界に臨む心の準備

 

 たくさんの応援アクセスに、御礼を申し上げます。
「ありがとうございました」


 畑の雪が消えてしまい、夏場は生存維持のための野良仕事などを優先しますので、相互応援アクセスは断念します。

 老化に伴う眼精疲労の悪化を防ぐためにも、夏場は緑豊かな大自然に臨むため、パソコンからは離れがちになります。

 誰でも、唯一、直に経験し続けていることである、「生きていることはどういうことなのか」とか、「自分は本来はどんな生き物なのか」などは、生存上の根拠や理由にもなり判断基準にもなり得る。
 なのに、ほとんど未理解だった頃の自分は常軌を逸していた。
 そんな経緯上、その探求や把握や理解は欠かせない。

 直に経験し続けていること以外のことに目を奪われ心まで奪われがちな浮世から、一時的とはいえ離れて、雑然としてはいるが命が繁茂している大自然に足を運ぶことも多くなります。

 指図されなくても、独自に識別し判断して生存を維持している野生です。
 託児所や保育所など他人任せにはせず、親がむしろ命懸けで子供を守ろうとする野生の世界です。
 学ぶことが多くあります。

 野生の知能より、本来は人の知能の方が優れているはずなのにです。現に、言葉を介して、目には見えない理由やルールなども理解し合え、理解したことを基に行動することもできるわけですから。

 早朝と夕暮れの撮影時にも、好天に限らず早めに出かけます。


 当ブログは、管理人の精神面に勘違いや思い込みや固定概念もあり考えに無理や矛盾もあるだけに、その整理に的を絞った記事ばかりになってしまいましたが……
 最期は、予測できないどころか、突然に訪れる確率が加齢とともに高まるようです。
 よって、今夏は、当記事タイトル「他界に臨む心の準備」に関する整理に臨みます。
 当該カテゴリも新設しました。
 ただし、二の足を踏み先送りにするばかりで着手できなかったことだけに、その理由の解明やら解禁のようなことも必要なようです。よって、思考のウォーミングアップの、続きのようなものになりそうです。
 
 
 

たまたま自分は気づいたが……


 
 気づいてからずいぶん経った今、思うに、最期は予測できない。それどころか、突然に訪れる確率が加齢とともに高まる。
 その時に備えた心の準備ができていない場合の辛さも、自分は経験したからこそ気づきもした。

 経験した当時は、生きているということはどういうことなのかも知らず、自分は本来はどんな生き物なのかも知らず、それらは直に経験し続けていることであることをすら知らなかった。
 死ねなかったことによって、やっと気づいた。自分の知識や考えに因らずに、つまり生理面は自律して機能している。しかも、それは直に経験し続けていたことであり歴然としていることだったことにも、やっと気づいた。
 よって、自分の考えなどを把握できていなかったことにも気づいた。いわば、本心に背くことを強行しようとしたことにも気づいた。そんな自分の考えに恐怖を感じた。
 あの日のうちに、気持ちは一転し、死を恐れるようになった。いわば、やっと本心に基づいた生き方が始まったのだった。
 五感では捉え難いことだが、思考上では捉えることができることを、捉えられるようになったからでもあった。
 結局、生きるしかなくなった。

 生きるとなると、それまで直面し続けた目には見えない壁のようなものを解明し解決しなければならなかった。
 でも、すでに気持ちが一転していた。五感では捉え難いことだが、思考上では捉えることができることを、捉えられるようになったからでもあった。
 生理面が自律して機能していることにはすでに気づいたこともあってか、知能や意識や識別や思考や判断なども、それら自体は平常どおりに機能していることに気づいた。
 それは、自覚するだけで確認できることだったことにも、今更のように気づいた。
 むしろ、目にゴミが入ったときなどは直ぐに気付くように、異常があれば直ぐに気付く性質のものだったことにも、今更のように気づいた。

 よって、考えには無理も矛盾もありえることに気づいた。出来ないことでも考えることは可能であり、むしろ嘘でも考えることができるわけだから。

 ようやく、自分が考えていた内容を確認し始めた。
 人間関係を断って自室にこもるようになったのに、傍目を気にし、上辺を繕うことばかり考えていた。
 むしろ、不利なことや不都合なことは、隠し偽ろうとしていた。
 が、それは、解明や解決を困難にすることにほかならない。
 反省でもない。
 肝心な解明や解決は、しようとすらしていなかった。
 そんな考えに捕らわれていたこと自体こそが、矛盾だった。
 ついに、思考の矛盾を具体的に解明できた。

 内向に集中するようにもなった。
 事実確認をしたわけでもないから、想像していたに過ぎなかった。
 根拠や理由を確かめもしなかったがゆえの勘違いや思い込みだったことも分かった。
 根拠も理由も無い勘違いや思い込みが、いつのまにか疑問も抱かない固定概念になっていて、そのイメージを基に想像していたことも分かり、その固定概念を覆すこともできた。

 考えの無理や矛盾だけに、もともと考えている内容を確認するだけで分かることだった。そんなことも今更のように分かった。
 五感では捉えることができないことだが、意識上のことであり識別や思考上のことでもあり、記憶にも残ることだけに、その内容を客観的に捉えることももともと可能なことだっただけに、思考の無理や矛盾は次々と解明でき解決しはじめた。

 つまり、以前は、最期に備えた心の準備ができていない場合の、その時の辛さも、知らなかった。
 それは、考えただけで分かることなのに、考えたことすら無かったからだった。
 だからこそ、相応の生き方もできなかったわけだし、相応の準備もできなかった。
 それゆえの辛さだった、とも考えられた。


 思考力も理解力も、日常会話で発揮していた。なのに、そうであることも未理解だったことに気づいた。
 もちろん、思考力も理解力も十分に発揮していなかった。そんなことも分かった。
 しかも、これも、考えただけで分かることだった。なのに、考えたことすら無かったから未理解だったことも分かった。
 最期に備えた心の準備ができていなかったからだったどころか、死んでしまうには惜しいことばかりだったことも分かってきた。

 未発揮だったことを復活させたり、未理解だったことを理解したりして、それらを活用することが、生きるために必須になった。
 
 

そもそも日常的にも……



 気づいたからこそ確かめ、確かめたからこそ相応のことを知ることもでき、知ったからこそ随意に確かめることが可能になった。

 思えば、死にたくないからこそ、他の生き物を殺して食べて、必死で生きているようなものだ。
 不安や恐怖感にしても、自分では対処できないことだったり、よって死んでしまうかもしれないことが予想されるからだとも考えられる。
 もちろん、最期に備えた心の準備ができていないからでもある。

 そもそも、この身体は自分が知らないうちに形成されたわけだから、自分の意思で生まれてくることはできないわけだから。
 両親の基にのみ、自分が生まれる。しかも、母の数百の排卵は、それぞれが兄弟姉妹に相当し、たまたま受精した卵子だけが誕生する機会に恵まれるが、それが自分だったことになる。これらは、死んだら、二度と生まれてくることは無いことをも物語っている、
 生命生理は自律して機能しているわけであり、生後に知り得たことを以ては健康管理もままならない点でも、人生は一度限りだということが分かる。

 が、植物も世代交代をして、太古から存続されてきた種族が更に存続され、太古から継続されてきた進化も更に未来へと継続されている。

 野生動物は、生存を命懸けで守り、子供をも命懸けで守る。
 よって、太古から存続されてきた種族が更に存続されるわけであり、太古から継続されてきた進化も更に未来へと継続される。

 人も、動物だ。
 太古から祖先や先祖が存続させ継続させてきた、その末裔として産まれるわけであり、祖先や先祖が存続させ継続させてきたことを更に存続させ継続させることで、先祖の仲間入りもでき、先祖と言ってくれる子孫も生き続けることになる。
 最期に臨む心の準備としては、これに優るものは無いだろう。

 なのに、人類は、多くの生物を絶滅させてきたどころか、人種を絶滅させようと戦争さえする。
 子供たちの未来を台無しにするかのように、ゴミになるものを生産し海洋汚染や大気汚染までし、その後始末を政府が行って助長している。しかも、可能だからと、原発や遺伝子操作や宇宙開発なども行うようになり、本人には責任を取りようが無いようないことまで行うようになった。
 尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げて、私利私欲を貪り合っている。それに、目を奪われ心まで奪われた消費者が加担する。
 現在も多くの絶滅危惧種が存在すると言われるが、人は自ら少子化を進行させている。
 それは、計り知れないほどの祖先や先祖が存続させ継続させてきたことを、途絶えさせることでもある。もちろん、祖先や先祖の仲間入りはできない。祖先や先祖と言う子孫もいない。
 そんな自分の場合は、最期に臨む心の準備も、相応に難しさを増すことは明らかだ。

 こんなことも、あの頃は、考えたことすら無く、知らなかったわけだから、最期に備えた心の準備はできていようはずがなかった。
 
 

学習上でも……



 生きるためには、思考の健全性を重視するようになった。
 よって、自分が知らなかったことを憶え上達して記憶を参考に条件反射的な速さでできるようになることを基に、学習の法則や学習の基本的なことも理解できた。
 いずれにしても、確かめてこそ、確かなことを知ることもでき、詳しく知ることもでき、五感では捉えることができない理由や法則なども理解でき、具体的な可否や是非の判断も可能になる。
 最期に臨む心の準備の可否や是非にしても同様だ。

 そもそも、知能も備わっていて、生きていることがどういうことかとか、自分は本来はどんな生き物なのかとかは、直に経験し続ける。
 が、自身の内臓は見たことが無く、自身の生命生理に関しても具体的なことは知らない。
 傷病時も、知らないことには、対処もできないから、判断に迷い、よって不安になり、パニックに陥りもするし、恐怖さえ感じたりする。

 でも、知ったことは、相応の識別や思考や予想なども可能になる。
 医者は他人の傷病を治療できる、などといったことが可能になるように。

 最期に臨む心の準備の可否や是非に関しても、気づけばこそ確かめもし、確かめるからこそ相応のことを知り、知ればこそ相応の考慮も可能になり、必要なら相応の生き方をするようにさえなる。
 
 
 相応の考慮や相応の生き方をすればこそ、更に具体的に理解することも可能になる。

 そもそも、思考力も理解力は、少なくとも日常会話で発揮するようになるわけだから。
 むしろ、日常的に磨かれてさえいると言っても過言ではない。

 唯一、直に経験し続けていることである、生きていることがどういうことかとか、自分は本来はどんな生き物なのかとか、肝心な自分に関することを理解しそびれていたとしても不思議ではないが、そのことに気づいたとしても不思議ではない。

 根拠や理由があって理に適っていると、理解でき納得もでき、可否や銭の判断も可能になり、悪しき結果になることは避けることができ、好結果になることには臨むことができる。
 よって、根拠や理由が不十分だったり無理や矛盾が有ったりすると、理解できないし納得できないし、好結果になる確率は低く、悪しき結果になる確率だけが高く、いわゆる高いリスクが伴う。
 無理や矛盾があっても、冗談は別で、妥協もするが、高いリスクが伴うだけに、必要な場合は事前に尋ねもし確かめもするし、必要なら教習所や学校に通いもするし、研究所を設けさえする。

 つまり、相応のことに臨むことになり、相応のことを念頭に置いた生き方をすることも可能になる。
 
 
 具体的なことを理解するほど、相応の生き方をすることも可能になるからこそ、相応の準備を整えることも可能になる。

 現段階では、最期に臨む心の準備の実際の是非に関しては、実際に他界入りした本人にしかわからない、とも考えられるが……

 これこそが、まさに超個人的なことであることも事実だ。

 でも、まだ予想だが、相応の生き方をして、不安や恐れを解消し、むしろ祖先や先祖の仲間入りなどに期待して臨めるくらいの準備が完了していれば、完璧なのだと考えられる。
 その内容が、遺族の悲しみも払拭するくらい、根拠も理由も具体的で説得力のあれば、完璧であることを裏付けられたくらいの完璧さなのだと考えられる。

 また、通常は、知り、理解し、相応の生き方をするようになってこそ、その結果として相応の準備も整う。
 よって、相応の準備が整っていない段階では、その結果に通じることを、知ることや、理解することや、相応の生き方をするようになることなど、それらこそが重要だということになる。
 むしろ、結果的な準備を整えることよりも、そのための相応の生き方をする(できるようになる)こと自体が、悔いを残さない生き方をすることに通じる。よって、相応の準備が整っていない段階では、少なくとも相応の生き方をする(できるようになる)ことこそが重要なのだと考えられる。それ無しには、結果は成立しないわけだから……
 
 
 いずれにしても、突然、その時が訪れる前に、最期に備えた心の準備に関しては少なくとも迷うことは無いくらい可能な限り明らかにしておきたいものだ。

 

趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの冬季間の背景画を……





 

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kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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