生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは 客観的な考え方の特徴は 主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは 「悟り」とは 2016/12/27
主観的とは 客観的とは 客観的な考え方の特徴は 主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは 「悟り」とは 2016/12/27
Copyright (C) 2012 心を開く 心眼を開く All Rights Reserved.
カテゴリ : 未分類
「自立」って……
今年も、冬用の薪の準備中なのだが……
だいぶ前、所属している団体で薪割り機を購入してからは、農機具店から借りる半額で使えるようになった。
けれども、一日中やり続けるのは辛くなった。
1日では片付かなかったりりするので、半日ずつ借りたりもした。それでも、手が届く近くで轟くエンジン音を聞き続けなければならない。それが、実は結構なストレスだった。
そんなことを思う内に、今年は、自力で薪割りをはじめていた。
車で3キロあまり行き、当ブログの夏場の背景画の尾根の向こう側の、山間の畑で薪割りをする。
新緑の時期でもある。早朝だけなので、小鳥のさえずりを聞きながらやる。
かつては、どこの家でも冬の燃料は薪で、こうして自力で薪割りをした。薪割り機械が無かったからでもあるが、自力でやるのが当たり前だった。
チェーンソーがまだ無かった頃は、組合員で雑木林を分配しに行き、分配した雑木を各家庭で鋸で伐採して、そこに積んで置く。それを、まだ雪がある内にソリで運び、道路脇まで移動する。そのソリ引きを、中学校が春休みになると手伝わされたものだが、スリル満点で楽しかった。
そんなことを思い出したりしながら、いつのまにか、一冬分の薪の半分は割った。
早朝の薪割り中、こんなことも思い出した
割るために小切りした薪を、毎年、同じ場所に盛り上げ、それを割るのだが、昨年、すぐ傍に狐が死んでいた。
草が新芽を伸ばし始めてまもなかったので、枯れ草の上だったが、その狐の死骸は、日々、少しずつ食べられるとともに少しずつ移動し、1週間ほど経った頃には探したが見当たらなかった。
その頃、畑からの帰り道、当ブログの夏場の背景画の尾根の向こう側を左のほうに進み、画像には写っていないが掘割を通って画像に写っている側に出て坂を下りはじめたら、自分の軽トラの前を、小さい動物が走り始めた。スピードを落としたが、なかなか道路から逸れない。それは、猫よりも小さく、リスよりは大きい、子狐だと分かった。
テンは見かけることが多くなったが、めったに見かけない狐は生活圏が広いのだろうと想像したら、畑で死んでいた狐は、この子狐の母親だったのではないかと思った。
残念ながら、死んでいた狐の性別までは確かめなかった。
目の前の子狐は、道から逸れて草むらに入っていった。
でも、一匹だけで、まだかなり小さい。
かつて、あの巨大台風の前の年、畑の近くで産まれ育った子狐は、たしか5匹前後いた。
母親が死に、いまの子狐の他の兄弟も死んでしまったのかもしれない。
でも、あの子狐は生き続けている。
だから、この先も生き残るのだろう。
もう自立しているようなものなのだ。
そんなことを思ったのだった。
そんなことも思い、今年は、全部の薪を、自力で割ることにした。
薪割り中には、自立に関することを考えるようになっていた。
そもそも、「自立」って……、具体的にはどういうことなのだ……
Web検索をしてみた。
結果、次のようなことを指すようだ。
他への依存や他による支配への従属や他からの助力などの他の力を頼らずに、自分一人の力で物事を行うこと。
ということは、機械を頼らず、自力で薪割りをすることも自立に近い。
言葉を用いないだけ意思疎通が乏しい野生動物は、生きるために必要な判断や行動も独自に行っていることになるが、あれが「自立」なのだ。
昨年の子狐のように……
人の場合、幼い頃は、保護養育に依存している。だから、自立しているとも言わない。
保護養育への依存が15年前後も続く。その間に、必要なことを憶え必要なことは随意にできるようになり、それを以って自立することになる。
つまり、人の場合は、憶えたことは相応の識別や思考や予想も出来るようになり詳しくもなり、練習相応のことは随意にできるようになり巧みにできるようにもなる。
しかも、言葉を憶え、言葉を使って意思疎通ができるようになり、好奇心が旺盛になり盛んに学習する。
ところが、躾や教育も行われる。
言い換えると、野生動物は、言葉を用いないだけ意思疎通も難しい。なので、個々が独自に判断できるようになるしかない。むしろ、独自に行動できるようにならないと生き続けられない。
人という動物の場合は、学習能力が優れている。しかも、言葉を用い意思疎通も可能になる。特に、15年前後もの保護養育を必要とする。それゆえに、躾や教育も行われる。
ところが、個人毎に育つ環境は異なる。躾の内容は親によって違う。
よって、好みや価値観は個人毎に千差万別になり、当然に理解し合うことが困難だったりもする。それゆえに、友達は限られ、親友は更に限られ、恋人は限られ、結婚相手は限られ、結婚したにもかかわらず離婚し、子供が生まれ育っているにもかかわらず離婚する。
つまり、好みや価値観は個人毎に千差万別になることだけでも、自立するとは限らないことを物語っている。むしろ、自立は、眼中に無い人のほうが圧倒的に多いことになる。
躾や教育も、自立のためだとも限らないことになる。
人は、尤もらしく見せかけもし、本当だと思い込ませようとさえする。
もちろん、他者が思い込ませようとしているに過ぎず、根拠も理由も乏しく、そもそも自分が見た事実ではない。などの識別や判断ができれば、思い込むことは無い。拒否しても、しつこいと、反抗さえする。
けれども、具体的なことを知らないことは、具体的な否定や肯定もできないので、反論や拒否も具体的にはできない。それゆえに、想像をしがちだ。その想像も、否定的な内容だと、思い込むことも無い。ところが、尤もらしく見せかけられ、本当だと思い込まされるだけに、肯定的な想像ばかりすると、相手が言っている通りなんだと思い込みがちで、他者が言うことを真に受けがちにもなる。
つまり、自分が見た事実を重視しなくなり、事実に基づいた情報処理もしなくなる。
他者に惑わされるほど、自立を見失ってゆく。
義務だと言うが、9年間、拘束される。大人が用意したことをやらされ、それを基に点数をつけられ順位をつけられ競争させられ、家に帰ってからも宿題までやらされる。
それは、紛れもなく強いられることでしかない。
他への依存や他による支配への従属や他からの助力などの他の力を頼らずに、自分一人の力で物事を行うこと。それを自立だとすると、むしろ教育は自立を阻害している。
でも、阻害だと判断するとも限らず、むしろ肯定するほうが圧倒的に多いから成り立っている。
好みや価値観が違うために理解し合えないどころか、競争させられ、勝者が褒賞される。
本来の判断力を阻害され、差別的ともいえる判断基準を記憶させられる。だからこそ、成績優秀だとか高学歴だとかで優越感を抱き有頂天になり何様かのつもりにもなる。
人は、勘違いを基にも満足する。思い込まされたことを基に有頂天にもなる。自分で考えて行っていることによって、相手が嫌がっているのに、その矛盾を理解できないと、むしろ慢心さえする。
優越感や有頂天や慢心ゆえに、それに反することが発覚すると、否認し強情を張り逆上さえする。
もちろん、指摘も困難になる。
つまり、不具合が発覚しているにもかかわらず、改善されなくなる。
結局、人同士が、争いもし、戦争をやるようにさえなる。
判断力が阻害されて、差別的な基準が記憶させられたことに違和感を感じることなく、それを基準にして考え行動してしまうとなると、すっかり洗脳されていると言っても過言ではない。
未自立や不自由さを好都合だとばかりに、上辺や見せ掛けや見映えで惑わし、翻弄までする。
自立とは関係の無い、上辺だけ尤もらしく見せかけたことを以って、搾取や詐取してでも私利私欲を貪り、それゆえに豪邸で暮らしたりもする。
もちろん、自立とは、そういうことではない。
野生動物でも自立しているわけだから。
少年だった自分は、勉強を嫌った。それを強いる大人を疑った。
が、社会人になった。でも、勤務時間に拘束されたわけだから、自由を売っていた。知識や技術を売っていたと言いたいところだが、指図されたことを行っていたわけだから服従だった。
その仕事のストレスを解消するために、その仕事で得た報酬を費やしていた。
仕事が休みの日など、つまり肝心な個人的な時間も、仕事のストレス解消に費やされていた。
しかも、その仕事を辞められなかった。
そんな無理や矛盾をすら把握できていなかったからでもあったが、まさに自由を売り服従してしか生きられなかったからにほかならなかった。
そんな現実的なことをすら、かつては未理解だった。
自由とはどういうことか、考えたことすら無かった。
まして、自立云々は、思いつきもしなかった。
まさに、不自由そのものだった。
肉体的には成熟したのだが、自立とは到底いえない状態だった。
野生動物よりも、人という動物は学習能力が優っているにもかかわらず、自立するとは限らない。自分だけがそうだったとしてもだ。
そもそも、人の場合は、知らない物事は、識別すらできない。
知ったことは、相応の識別や思考や予想などもできるようになり、相応の行動も可能になり、相応の結果にもなる。
観察し確かめ試すほど、間違いや勘違いや思い込みなども修正されて、有効で確かなことを詳しく憶えることになり、相応の識別や思考や予想などもできるようになるからこそ、相応の展開や結果にもなる。
意味や理由や好みや価値などの五感では捉えることができないことも言葉で説明することもでき、五感では捉えることができない理由や法則などを理解することもできる。
つまり、自立にしても、それはどういうことなのかを具体的に理解するほど、その知識を基に、自立しているか否かを具体的に識別や判断できるようになる。
そんなことも日常的に行っていたわけだが、かつては未理解だった。
もちろん、好みや価値観は千差万別になる。
でも、他の振る舞いに惑わされているようでは、自立ではない。
他者をどうこう言っている場合でもないのだ。
自立を目指すか否かも、それぞれの勝手なんだから。
自立を目指すか否かも、本人の気持ちしだいだったのだ。
自立だからこそ、本人によってのみ成し得る。
もともと、本人に許されていることでもある。
自立だけに、きわめて個人的なことだったのだ。
こういうことを考える行動上の中枢的なこと自体が、もともときわめて個人的なことなんだから。
もともと、生後に経験し学習し理解することだけに、個人的には知らないや随意にはできないことこそが計り知れないほど多い。
しかも、記憶にあることは、間違いや勘違いや思い込みなどもある。
当然に、修正や改善も、独自にできるようになる必要があったのだ。
むしろ、学習上も試行錯誤や取捨選択は必須で、修正や改善を本来は独自に行っていたことになる。
「人の自立とはどういうことなのか」これも、しばらくは念頭においてみよう。