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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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人生観 2017


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。
 沢山の応援アクセスをいただいたことにより、かつてなかったほど早く過ぎ去った2017年でした。

 皆様には絶対的に尊い2018年になりますよう、ご祈念申し上げます。

 生存上の基本的なことや基礎ほど、多くの生物に共通です。
 2018年も、よろしくお願い申し上げます。


 
 
 
 かつては、人生観などは考えたことも無かった。
 ところが、自分のことを勘違いし思い込んでいたことに気づいた。よって、肝心な自分のことをほとんど知らなかったことにも気づいた。
 自分のことを知らないということが、どういうことなのかを、三年も思い知らされ困窮していった。


 困窮したがゆえに、実行できないことでも考えるし言い訳も嘘も考える自分の考えには無理も矛盾もあることに気づき、生理面は自律して機能していて異常が無いことに気づいた。
 次に、各感覚器官や意識にも異常は無いことに気づき、識別力や思考力や判断力も平常どおりであることに気づいたことで、困窮の理由は自分の考えの無理や矛盾であることが顕著になった。
 現に、精神面の困窮だった。

 ついに、自分の想像や勘違いや思い込みや固定概念などの特徴や欠点を解明でき、考えの無理や矛盾が解決されていった。

 つまり、自分の想像や勘違いや思い込みに関することをすら知らなかったからこそ、想像や勘違いや思い込みゆえに生じる無理や矛盾を解明できず解決できず、むしろ困窮したことが分かった。
 解明でき、解決できたとはいえ、自分の勘違いや思い込みに関することを知らなかったからだっただけに、二度と陥るまいと再確認や整理を繰り返すほどに具体的に理解でき、同じことには二度と陥ることは無い、仮に陥ったとしても解決は容易だ、と確信した。

 ほとんど未理解だった自分のことを、やっと理解し始め、人生上の自分という捉え方も始まった。
 自分が望んだわけでもなく、むしろ否応なく、自分の意識改革や人生の軌道修正が行われた。


 その後(三十歳以降)に、猫と関わり、猫に気づかされ、猫に考えさせられ、自分の人生観というものも生成されていったわけだが……。

 いつのまにか、老化も死も考慮する人生観になった。
 
 
 進化
 生命生理
 運動機構と精神機構(学習能力) 学習内容 行為行動 人為的結果
 生殖機構(世代交代)
 老化・死亡

 この色で表示したことに関しては、太古からの進化上で形成されたと考えられ、現代人には変えようが無ことで、その点は生物に共通だ。
 個人毎に育つ環境が異なり、よって経験内容が異なり、学習する性質上では学習内容は個人的にも変化する。
 その性質上、誰もが直に経験し続ける絶対的なことであっても理解するとは限らず、自分が記憶を参考に識別したり思考したり予想したりしていることに関しても理解するとは限らない。
 よって、誰にとっても絶対的で共通することをさえ、理解し合えなかったりし、学習内容は個人毎に異なる。

 学習内容相応する行為行動になるわけだが、誰にとっても絶対的で共通することを理解し合えないと、私利私欲を追求しがちになる。
 誰にとっても絶対的で共通することを理解し合えないから、家庭内でも悲惨なことが起き、破壊エネルギーを頼り、戦争も無くならない。

 人為的な結果である文明文化は、迷走もするし暴走もする。
 でも、進化に関することは、変えようがないし変わらない。



進化



 進化して形成されたであろう生物や生命生理は、現代人が産まれる以前に形成されたことになる。
 本質的には、親の形態を継承して生まれる。植物や野生動物や犬や猫などにも共通である。
 生命生理が複雑に組織化されている生物は、単細胞が、受精し、分化し、誕生し、成長し、成熟して成体になる。つまり、突然、成体で発生することは無い。
 有性生殖では、両親の遺伝情報を継承して誕生する。よって、継承する遺伝情報は、世代交代を重ねるたびに二倍になる。天文学的な数の祖先や先祖があったから、個人が生存していることになる。
 学習能力も運動能力も、発揮することによって強化され、使わないと衰退する。
 世代交代をし、種族が存続された場合は進化も継続される。
 計り知れないほどの世代交代を重ね続けて進化して、現在の形態になったと考えられる。
 いずれも、尊い。

 これらの本質的なことは、人工的なものではなく、生物に共通する。
 むしろ、現代人が誕生する以前に存在したことであり、その結果として現在が存在するわけだから、生存の背景にあることや生存上の本質的なことは、現代人にとっては絶対的な存在である。


生命生理



 生命生理(生きるための機構)は、誕生後も自律して機能している。
 だからこそ、植物も生きていられるし、成長し、開花し、結実し、世代交代も行い、種族と進化が継続される。

 経験できることでも、不適切な飲食をした際の嘔吐や下痢や解毒や、怪我をした際の止血や治癒力など、簡単には死なない機構も備わっていて自律して機能する。

 自律して機能しているということは、絶妙な秩序に基づいて機能していることになる。
 もちろん、人知を超越しているわけであり、尊い。

 むしろ、現代人が産まれる以前に形成された点でも、現代人が生後に知ることは容易ではない。
 理解することさえ困難だからこそ、老化や死を余儀なくされるわけだが、生後に習得したことを以ては健康管理もままならなかったり生活自体もままならなかったり、犯罪で生きのびたりさえする。
 つまり、生命生理は、本人が知る以前から存在し、生後に学習し理解するなどの習得をして随意にできるようになったことに対しては、絶対的な存在である。


運動機構と精神機構(学習能力)



 骨や筋肉などで構成されている運動機構と各感覚器官や意識や感情や記憶力などで構成されている精神機構(学習能力)が備わっている。
 犬や猫などにも、運動機構も精神機構(知能)も備わっている。
 よって、自身のことは直に経験し続け、相応のことを憶え、識別し思考し予想もできるようになり、相応の振る舞いも可能になり、相応の結果にすることもできるようになる。
 それだけ、高度な生存の維持管理が可能になる。相応の精神機構や運動機構も備わってることになり、尊い。

 つまり、運動機構も精神機構(学習能力)も、本人が知る以前から備わっていることによって、学習し理解するなどして相応のことは随意にできるようになるわけだから、生後に習得することに対しては、精神機構(学習能力)も絶対的な存在である。


学習内容



 自身に精神機構も運動機構も学習能力も備わっているだけに、そうであることを自ずから経験し、独自に学習するようにできている。
 だからこそ、猫も学習し、人も赤ん坊の頃から学習しはじめる。
 むしろ、学習するためには、記憶を参考にした識別や思考や予想などの内面で行う情報処理が必須だが、それは独自に学習するしかないだけではなく、他は教えようがない。

 言葉を知らないうちは、会話はできない。
 物事と、それを指示する言葉を憶えることによって、その言葉で指示された相応の物事を意識できるようになる。
 自分で物事を指示する言葉を発声できるようになると、言葉で物事を指示できるようになり、その指示した物事を相手に意識してもらえるようになる。
 だから、既に存在している物事を特定して指示する言葉を、さかんに憶えようとする。

 目には見えない文法も憶えて、文章化して説明できるようになる。
 目には見えない過去のことでも、記憶に残っていることを参考にして話し合えるようになる。

 不明な部分があったり、無理や矛盾などがある場合は、理解できないので、尋ねたり確認したりし、根拠や理由が十分で理に適っていると理解でき納得もできるようになる。

 目には見えない約束やルールや理由や法則なども理解できるようになり、理解したことに基づいたことも随意に行えるようになる。

 観察し確かめ試すなどするほど、曖昧だったことや勘違いなどは修正され、確かに詳しいことを憶える。
 記憶を参考に識別や思考や判断を行うだけに、詳しく憶えたことほど具体的な理由を基に認否や可否や是非などの的確な判断も可能になる。つまり、痛い思いをしたり損をしたり自分が困ることになるようなことは避けることができるようになり、より的確に好結果にすることが可能になる。
 だからこそ、もっと知ろうともするし、曖昧な部分をさえも尋ね確かめもするし、教習所や学校に行ったりもする。

 嘘や言い訳、意図的にやったのか過失か、そんなことも重視するようになる。

 つまり、躾や教育の内容には無くても、基本的なことは独自に学習し上達もし、動作や会話などの基本的なことは誰でも熟練することは歴然としていて、試験をやるまでもない。

 自分のことは、直に経験し続け、経験相応のことは記憶にも残り、相応の識別や思考や予想などもできるようになるからこそ、疑問や不信感を抱いたりもするだけに、それらに関しては具体的に理解できる条件が整ってゆく。
 むしろ、識別力思考力や理解力などは、日常的に使われるだけに、日常的に磨かれると言っても過言ではないだけに、それらに関しては何よりも詳しくなれる条件が整ってゆくことになる。

 精神機構(知能)も備わって生まれることによって、経験でき学習できて理解できるようになるだけに、その学習し理解した内容に対しては、自分が望む以前に備わっている知能や生命生理や進化は全体的な存在であることも、自覚し考え整理するだけで理解でき、尊さも具体的に理解でき尊べるようにもなる。
 絶妙な秩序に基づいて自律して機能している尊さも、誰でも直に経験し続けることでもあり、具体的に理解するほど尊べるようになる。

 むしろ、直に経験し続け相応のことが記憶にも残っている自分のこと以外のことに関しては、経験できるとは限らず、学習できるとも限らず、理解できるとも限らない。
 具体的なことを知らないことほど、想像するしかなかったり、事実確認をできないがゆえに勘違いしたり、勘違いが覆されないがゆえに思い込んだり、思い込みが固定概念化するなど、精神面には欠点もある。
 それらの、経験や学習や理解の性質上の弱点や欠点などに関しても、具体的に理解するほど、識別や自覚が容易になり、よって確認を重視するなど、自己管理が可能になる。

 ただし、躾や教育の内容が、本人が独自に学習し理解できるようになった基本的なこと以外のことばかりだと、本人が何よりも詳しく理解できる準備が整ってゆく自分のことであっても理解しそびれる。


行為行動



 自分の経験を基に理解しても、生存上の基礎や基本は絶対的な存在であり犬や猫や植物にまで共通することもあるだけに、それらに関しては理解し合うことも可能になる。
 よって、自律していて絶妙にできている面を尊び合うことも可能になる。

 もちろん、より確かで、より信頼でき、より尊べる、そんなものを得ようとする。
 よって、遊ぶだけの友達でも限られ、いろんなことを話せる親友は更に限られる。


人為的結果



 基本的に、知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになり、詳しくもなり、上達もし、動作や会話などの基本的なことは熟練する。
 親や学校で教えてくれなくても、基本的なことは独自に学習するし上達もするだけに、むしろ、躾や教育に、疑問を抱きもするし抗議さえするし拒否もする。

 それらのことが可能になる学習の基本的な法則や、その基礎である知能の構成要素やなどを、具体的に理解するほど、それらの生存上の基礎や基本的なことは共通であるだけに、その知識を基に、子供が自ずから経験し独自に学習することを保護することも可能になる。
 もちろん、余計なことはせずに済むし、余計なことを防ぐことも可能になる。


生殖機構(世代交代)



 言葉を話さない猫だが、お互いに相手の気持ちを察し合っているからこそ、仲良くできる相手か否かを見分けている。
 子供を命懸けで守るほど愛情が豊かでもある。
 野生動物や植物でさえ、太古から計り知れないほどの世代交代を重ねて継続されてきた進化と種族を、着実に未来に継続させている。
 壮大なスケールである進化の過程の、一世代に託されている天命を全うする。


老化・死亡



 個人的なことや、一生として捉えていたが……。
 壮大なスケールの進化を尊ぶ一世代でありたいものである。



けれども



 すでにそうできていることや、直に経験し続けていたことを、自分が具体的に理解し始めたのは三十歳を過ぎてからだった。
 しかも、人間関係を断ち、自室にこもったことで、内向できるようになり、いわば自分と向き合えるようになったことによって、もともと考えただけで分かることを理解し始めた。
 もちろん、学歴も要らず資格も要らず資金も要らず、苦行や荒行や礼儀や作法も要らず、ただ考えるだけで分かることばかりだった。それまでは、考えたことが無かったから、知らなかったのだった。
 しかも、それ以外のことに目を奪われ心まで奪われていたからこそ、考えもしなかった。
 つまり、何よりも詳しくなれる条件が整ってゆくことであっても、理解するとは限らない。

 経験し学習し理解する性質上でも、通常は、自身が形成された当時のことは知らないし、自身を解剖するわけにはいかないので知り得ること自体に限度がある。
 むしろ、生命生理が自律して機能しているからこそ、そんな自分のことを理解することは疎かになったりさえする。
 自分で識別し思考し予想などまでして判断をするだけに、過信もしがちで、精神面の弱点や欠点を理解しそびれ、その弱点や欠点に陥ったりさえする。
 よって、せっかく備わっている知能上に、習得したことを以ては、日常生活がままならなかったり、健康管理がままならなかったりする。

 つまり、進化上形成されたであろう生命生理や知能などは絶妙にできていることは、誰でも直に経験し続けていることになる。
 が、そうであることを理解するとは限らない。つまり、生後に習得したことは、限られもし、偏りもし、錯覚や勘違いや思い込みなどまである。
 生後に習得したことを以ては、治療にも限界があるからこそ、名医といえども死ぬ。
 経験や学習や理解の性質上、その内容は、個人的にも変化する。
 しかも、通常、自身が形成された経緯は憶えていないし、自身を解剖するわけにもいかないので知り得ることは限られ、直に経験し続けている自分のことをさえ理解するとは限らない。
 よって、経験し学習し理解する内容は、個人毎に千差万別になる。


 知らないことだからこそ想像し、事実確認をしないほど勘違いしやすく、勘違いが修正されず覆されないと思い込みもするだけに、思考や判断には無理や矛盾も生じる。
 そんな精神面の欠点とも言うべきことに関しても、学習や理解の性質上、具体的なことを理解するとは限らない。
 自分の思考や判断に関することだけに、まさに考えるだけで分かることなのだが、そうであることすらも知っているとは限らない。
 自分の思考や判断に関することを未理解だと、思考や判断の無理や矛盾の解明や解決は不可能に近い。
 むしろ、思考や判断の無理や矛盾だけに、想像や錯覚や勘違いや思い込みなどの特徴や欠点を解明できただけで解決したりする。
 そんなことも、自分が理解できたのは三十歳を過ぎてからだった。

 自分のことを勘違いし思い込んでいたことに気づき、肝心な自分のことをほとんど未理解だったことに気づき、新たな勘違いをしたものの、それゆえに、想像や勘違いや思い込みなどを解明でき、自分を理解し始めることができた。
 この時点で気づき解明できた自分は、恵まれていた。

 言葉は話さないが、明らかに気持ちを察し合っている猫に、気づかされ考えさせらえ教えられ救われた。


 人は、言葉を話すがゆえに、口先だけで言い訳を言ったり嘘を言ったりもする。
 それは、相手は見抜けないだろうと侮り、相手の錯覚や勘違いや思い込みなどの精神的な欠点を悪用しているようなものでもある。
 お互い様だと相殺し、仕返しに言い訳をし嘘を言うと、その世界に迷い込みもする。

 露骨にはやらず、尤もらしう見せかけもするし、本当らしく工作もし、優れたことであるかのように祭り上げもする。
 仕返しどころか、私利私欲を貪るためだとなると、言い訳や嘘とは比較にならないほど質が悪い。
 宗教といえども、尤もらしう見せかけ、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げるのは、私利私欲のためだからだ。

 そんなことも、見抜けない場合は、むしろ目を奪われ、心まで奪われもし、お金を使ってまでも、尤もらしう見せかけもするし、本当らしく工作もするし、優れたことであるかのように祭り上げ、そんなことに加担し助長することになる。

 そんなことにでさえも満足したり優越感を感じたり慢心して見下したりさえする。つまり、自ら、勘違いし思い込んでしまいもする。
 しかも、無知だとか愚かだとか卑劣だとかは、認め難い。
 私利私欲のためだからこそ、反省はせず、むしろあの手この手を駆使する。
 それは軽蔑されることだったことを知ると、せっかく事実を知ったのに絶望したりする。

 だからこそ、自殺もし、殺人もし、戦争までし、相手の存在を否定し合う。

 経験や学習や理解の性質上、弱点も欠点もあるだけに、生後に習得した内容しだいでは、知能を誤用するようにもなり悪用さえするようにもなる。


 生きていること自体が絶妙な秩序に基づいて成り立っていることは、誰もが直に経験し続けていて歴然としていることなのにである……。
 植物や動物たちは、太古から継続されてきた進化と種族を、着実に未来に継続させているのにである……。

 やはり、尊いものを見失わず、いかに尊いかをより具体的に理解することに精進したいものである。

 
カテゴリ : ◆自分の心を理解する:事例

自分の心を理解する:事例 スイッチ


 沢山の応援アクセスに、感謝を申し上げます。

 残念ながら、老化に伴う眼精疲労に因り、パソコンに向かう時間を制限せざるをえなくなりました。

 でも、個人的な心の整理を行う手段でもあるだけに、記事の編集は止められません。
 また、ブログに投稿することを、個人的には義務にすることで継続することにしています。

 よって、相互応援アクセスの方は、断念します。
 本年は、たくさん応援アクセスをしていただきまして、ありがとうございました。



 ※ 前々回と、前回と、記事の編集が間に合いませんでしたので、それらの主要な点も以下に仮に記載しました。



 猫と、言葉で具体的なことを話せたら……。
 そんな思いが増していった。
 けれども、タモ(チビが最初に産んだ雄猫)にも、言葉で説明して何かを教えることはできない。


 でも、チビもそうだったのだが、タモも、居間と勝手口の間の戸を自分で開けることを学習した。

 野良だったチビ(タモの母猫)は、家に初めて入ったのが晩秋とも初冬とも言うべき頃だっただけに、その後だったが、居間と勝手口の間の戸を自分で開けることを学習した。
 翌春、チビが家の風呂場の脱衣所で産んだ子猫の内、一匹はイタチか何かに襲われて死に、一匹はもらわれてゆき、次いで二匹もらわれてゆき、残した一匹の雄猫にタモと名付けたのだが、タモは暑くなる前に、居間と勝手口の間の戸の開け方を学習した。

 チビも、タモも、一旦できるようになったら、着実に上達し、大胆にもなった。

 もちろん、独自に学習した。
 自分は教えようが無かったわけだから。


 そんな結果から、学習に関することを察したところ……。

 居間と勝手口の間の戸を、人が開け閉めする様子は、居間に居る猫たちにも見えている。
 見ていると、戸は開け閉めできるものであることや、人が開け閉めしていることや、人が戸を開けて出入りする、猫たちの記憶にだって残るはずだ。
 人が戸を開けると、もちろん猫たちだって出入りできる。
 そんなことも記憶に残っているのだろう。

 そもそも、猫も、仲良くする家族や、仲良く遊んでくれる人や、食べ物をくれる人などに、相応の違う接し方をする。
 相手次第で、爪を出さないし力加減もしている。
 かまって欲しいと言わんばかりに、寝っころがってお腹を出すのも、誰にでもするわけではない。
 つまり、記憶に残っていることを参考にして識別や思考や予想などもして、相応の振る舞いをしているのだとも考えられる。

 でも、猫は、言葉で具体的に「外に出たい」とか「戸を開けて欲しい」などとは言えない。
 むしろ、自分で随意にできるようになれたほうが手っ取り早い。
 となると、自分で開けられるものか否かも問題だ。
 更に、どうして戸が開くのか、どうすれば戸が開くのか、それだ。
 そうだったとすると、猫たちは真剣に観察していたのか……。
 真剣に観察していたのなら、戸はどの方向に動き、戸が動いた分だけ開き、開いた所から出入りが可能になる、そんなイメージも猫たちの記憶に残ったかもしれない。

 だとしたら、タモが外出したくなったときに、タモの記憶に残っているイメージ(戸はどの方向に動き、その分だけ戸が開き、出入りが可能になる)を思い浮かべた……。
 その記憶に残っているイメージ(戸はどの方向に動き、その分だけ戸が開き、出入りが可能になる)を参考にして考え、そうなのならばこっちに引っ張れば開くかもしれないと考え、そうなのか否かを確かめるべく試してみた……。
 当初は、ガリガリ引っ掻くばかりだった。
 が、巧く爪が掛って戸が少しだが動いた。となると、これだ、とも思っただろう。にわかに、夢中になった。
 チビの場合は、戸が少し開いたところに右手を入れてもがいて更に開けた。
 タモは、少し開いた戸の間に顔を九十度回転させて押し込み、更に身体も押し込み、いわば身体で戸を押し開けて勝手口に出た。
 もちろん、自分で戸を開けることができる、ということを体験し、それも記憶に残っただろう。
 その後は、たちまち上達した。
 そして、大胆に開けるようにもなった。
 相応のコツも憶えたからこそだ。

 つまり、猫も、かなりの学習能力を発揮している。


 自分も、経験相応の印象なり情報なりが記憶に残り、その記憶に残っていることを参考にして相応の識別や思考や予想などもして、相応の振る舞いをし、相応の結果になる。
 繰り返したことは、確かに憶えるし詳しくもなるし、コツも憶えるし上達もする。

 学習自体の基本面は、人も猫も共通なのだ。


 だったら、タモが「ニャー」と言ったとき、自分が返事をすることを繰り返していれば、それが記憶に残る。
 つまり、タモが「ニャー」と呼びかけ、俺は呼ばれたことを認識したことを伝える返事をする、という事実関係がタモの記憶に残る。
 そして、タモが何かをしてほしいときなどに、その記憶にある事実関係を参考にして考え、俺に気づいてもらうために「ニャー」と呼びかける。
 その程度のことは、できるようになれるのではないのか……。

 思えば、チビは、外から帰って来た際に、勝手口側から居間の戸を開けることは憶えられなかった。
 でも、勝手口側で「ニャー」と言うようになった。
 その都度、俺が戸を開けてあげていたのだった……。
 つまり、チビは「ニャー」と言うだけだが、チビの気持ちは「戸を開けてほしい」とか「居間に入りたい」と言っているようなものだったのだ。
 そこまで察していたわけではなかったが、俺が戸を開けると、チビは早速入る。
 ということは、チビは、言葉で具体的には話せないが、チビなりの意思表示をしていたことになる。
 それは具体的な言葉ではないので、察するしかないわけだが、察して相応の応対をすれば意思の疎通も成立していたことになる。
 むしろ、俺が察しなかったり、理解しようとしなかったことこそが、問題だったことになる。

 その程度の意思疎通なら、きっとタモだってできるようになれる。
 チビよりも幼い時期に、タモは戸を開けるようになったんだから。


 要は、言葉で伝えることはできない。
 が、感情や気持ちはあり、相応の表情や振る舞いもしている。
 なので、その表情や振る舞いなどを基に、感情や気持ちを、察することが重要なのだ。

 ならばと、戸には心張り棒かって、猫は開けることができないようにした。
 つまり、タモが「ニャー」と言って、「外へ行きたい」とか「ここを開けて欲しい」などと言わんばかりの振る舞いをした際に、その気持ちを自分が察して戸を開けてあげることにした。
 もちろん、的確に応対した方が、その事実関係を、タモは憶えやすいはずだ。

 きっと、タモは、意思表示ができるようになり、意思疎通もできるようになるはずだ。

 また、タモが「ニャー」と言ったときは、自分は必ず返事をすることにした。
 当然に、タモが「ニャー」と言ったときには、必ず返事することを徹底した方が、その事実関係をタモは憶えやすいことになる。
 タモが何をしてほしいのかも、もちろん察するしかないのだが、相応のことをしてあげる。

 そんなことを、ごく当たり前に行う日々になっていった。


 そして、何年目だったのだろう……。
 タモが返事をしていることに、母が気づいた。
 誰かが「タモ」と呼んだときだけ、必ずタモが「ニャー」と返事をする。
 そうであることは間違いないことを、何度も確かめた。

 タモは言葉は話せないし、意思疎通は目にも見えない。
 なのに、タモは、自分が呼ばれたことを識別でき、それができていることを返事をすることを以て呼んだ相手に伝えるようになった。
 そう考えられた。

 となると、タモが何かをしてほしいときに「ニャー」と言っていたのも、タモは言葉で具体的に説明することはできなかっただけで、相応の意思表示はしたいたことになる。
 タモは言葉で具体的に説明することはできないだけに、その点を人の方で察するしかなかった。
 察した内容が、タモの望み通りだったり、相応の応答ができた場合は、意思疎通が成立していたことになる。

 違う。
 猫同士は、具体的に説明ができる言葉は使わないが、仲良くする家族に対しては、爪を出さないし噛む場合も力加減をしている。
 むしろ、寄りかかったり、尻尾の先だけでも触れていようとする。
 警戒心丸出しだったのに、人の傍で眠るようにもなったし、撫でて欲しいと言わんばかりに寝転がってお腹を出すようにまでなった。
 タモのお気に入りの居場所は、俺の胡坐の中だ。
 つまり、猫は、言葉では意思疎通をしないが、表情や振る舞いを識別しているだけではなく、表情や振る舞いから察することができる感情や気持ちなども識別しているのだ。
 だからこそ、相応の振る舞いをしていることになる。
 むしろ、言葉を使わないがゆえに、猫たちは、感情を率直に表し合い、その感情や気持ちを察し合っているのかもしれない。
 ということは、言葉は使わないが、意思疎通ができているのだ。
 猫は、すごい。

 むしろ、猫がそういうことを察しているのに、自分は察することができなかったことになる。
 この点でも、猫よりも、自分の方が劣っている……。
 自分は、言葉を話すようになったから、猫たちのように察することを忘れたのだろうか……。
 言葉の性質上、口先だけで言い訳も言えるし嘘も言えるし、事実とは違うことを事実だと勘違いさせ思い込ませることもできる。

 自分が子供の頃、大人は子供の気持ちや考えを理解しようとすらしなかった。
 むしろ、子供を煽てたり御機嫌取りをしたり脅したりして、思い通りに子供を行動させようとした。
 逆らうことは許されず、反抗扱いされた。

 なのに、自分は言葉を過信してしまっているのか……。
 根拠も理由などの具体的なことを確認もせずに、外見的なことだけを基に勝手に想像し、猫よりも人の方が優れていると勘違いし思い込んでしまい固定概念化してしまっているのだろうか……。

 人は、事実とは違うことを事実だと勘違いさせ思い込ませることもするだけに、自分に都合よく有利になるようなこともするし、優れたことであるかのように祭り上げもする。
 もちろん、私利私欲のためでしかなく、巧みに偽装や隠蔽などもし、独占や独裁を目指しているようなものだ。
 むしろ、相手のことは侮り翻弄し見下す。
 そうだとも知らず、そんなことに目を奪われて加担し助長し、肝心な自分を見失い、心まで奪われて本来の人生を見失った。
 そんな自分に、やがて気づいたからこそ、自分の無知と愚かさに絶望したのだ。


 というわけで、自分も、猫の振る舞いから、その気持ちや考えを察することを心がけた。
 また、人が話すことも、嘘偽りが無く、言葉に伴う物事が明確なら、猫も憶えやすく、識別できるようにもなるような気がして、日常的にタモに話しかけるようにもなった。


 そのタモに異変が生じ、隣町の獣医を訪ね、獣医が原付バイクで二度足を運んでくれた。
 が、タモは五歳の年の九月十八日の夜、苦痛だったはずなのに、あがきもせず、もがくこともなく、呼びかけても反応もしなくなり、まさに独自に他界に向かった。

 自分は、泣くのを堪えていた。
 が、猫たちは、そういうことはしない。むしろ、感情を素直に表す。そうすることで、共感もし、その状況などまで判断して、一斉に身を守る行動もとったりさえする。
 男なんだから、大人なんだから、というのは上辺だけを繕うことでしかない。そういうことは止めようと思った、途端に涙が溢れて止まらなくなった。
 あまりの哀しさと寂しさから、日頃、強情を張ってでも上辺を繕うばかりの母に向かってまで本音を吐いた。
「おまえは死んでも、こんなに哀しくはないはずだ」



事例 スイッチ




 タモが亡くなった哀しさ、タモがいなくなったも寂しさ、自分の孤独、それらを紛らそうとも思い、ストッカーを購入した。

 手入れをされていない雑然とした野山に出向くようになったのは、積雪が一メートル以上になる冬山でも生き抜く野生に比べて、指図されたことをしてしか生きられなかった自分の未熟さを思い知らされるようになったからだった。
 山菜やキノコを採りに行くようになったのは、野良と言われるが猫は大自然の中で自立して生きてゆけることを重視するようになったからだった。
 その、無農薬食品であり有機肥料だけで育った食品でもある山採やキノコなどの、冷凍保存用に欲しいと思っていたストッカーだった。


 九月二十一日、ストッカーが届いた。
 ストッカー用の電気の配線工事は、自分で行った。

 家は安普請の木造で、「建てた年に、おまえは7歳だった」と幾度か聞かされたことがあった。
 当時の大工道具は電動ではなく、大工がノミやカンナなどの刃を砥石で研いでいたことは、憶えている。

 台所があり、その隣が物置部屋(四畳半で食器や漬物などを置いてある)で、その物置部屋を廊下代わりにして進んだ先のドアを開けると、トイレがある。
 その物置部屋とトイレの照明を点灯・消灯するスイッチは、物置部屋の戸の一メートルほど手前の台所の柱にある。
 それらの、元からある電気の配線を利用することにした。

 まず、台所に有ったスイッチ(物置やトイレの照明用)を、配線ごと取り外した。
 そして、物置部屋とトイレの照明側を、一旦、直結にした。つまり、配電盤の電源をオンにすると、物置部屋とトイレの照明が常時点灯する状態にした。
 その直結にした配線の物置部屋側に、ストッカー用に新たな配線をしてコンセントを設けた。
 更に、その先の配線を片方だけ切って、そこに配線して新たにスイッチを設けた。

 その結果、物置部屋内とトイレの照明を点灯・消灯するスイッチは、台所からは無くなり、物置部屋の戸を開けると一メートルほど先の右側の柱に新たに設けられた。


 そのスイッチを付け替えた夜。
 トイレに向い、手を伸ばしたが、スイッチが無い。
 思えば、物置部屋のストッカー用の配線工事を行った際に、元に有ったスイッチは取り外して、目の前の戸を開けた先の物置部屋内の柱に付け替えたのだった。
 物置部屋の戸を開けると、左側には新たにストッカーがあり、右側の柱にも以前は無かったスイッチがある。


 その後も、トイレに行く度に、以前にスイッチがあった傍まで行くと、手を伸ばしてしまう。
 そこには、スイッチはもう無い。
 なのに、手を伸なしてしまう……。

 考えてみみても……。
 記憶を参考にして手を伸ばしているという実感は無い。
 すでにスイッチが無いことは見ただけで分かるわけだから、スイッチの有無を見もしないで手を伸ばしていた。
 すでにスイッチが無いことを忘れているくらいだから、ここで手を伸ばそうなどと考えて行っているとも思えない。
 いわば、勝手に手が伸びてしまう……。
 これを、条件反射と言うのだろうか……。


 日常、自分の記憶に無い人のことは、自分は名前も識別できない。
 会ったりすると、相応の情報が自分の記憶に残る。
 記憶に残るからこそ、別れた後でも、会っていたときの記憶は思い出せる。よって、あのことを確認し忘れたと気づくと、急いで確認しに戻ったりもする。今度会った時には……、などと思いを巡らすこともできる。
 つまり、記憶に残った情報を参考に、相応の識別や思考や予想なども可能になる。
 その識別や思考や予想などの内容次第では、躊躇したり、行動するか否かを具体的に決定したりもし、相応の結果にもなる。

 警戒心丸出しだった野良猫と、仲良くなることもできたわけだが、猫も仲良くできる相手か否かを見分けているからだ。
 猫が、相手しだいでは爪を出さなかったり噛む力も加減したりしているのも、仲良くできる相手か否かを見分けているからだし、いわば仲良くするために守るべき最低条件(ルールの原点)をわきまえていることになる。
 つまり、猫は、言葉で具体的に伝え合うことはできなくても、むしろ表情や振る舞いなどを基に相手の気持ちをも察していることになる。だからこそ、相応のことも行っていることになる。そうできることにも、共感しているのかもしれない。

 なのに、自分は、自分でスイッチを取り外し、すでにスイッチは無いところに自分で手を伸ばしてしまう。
 しかも、そうしてしまう事実関係や理由を理解できない……。


 幾度目かで、少し手前の位置で、この先で手を伸ばしてしまうことを思い出し、そこで立ち止まることができた。
 この二歩ほど先で、すでにスイッチは無くなっているところに、いわば勝手に手が伸びてしまう。
 ならばと、スイッチが元に有った位置には、今はもう無いことを目で見て確認した。
 付け替えたので、今は戸を開けた先に有ることも、その記憶を思い出して確認した。
 その上で、歩き出した。
 が、それだけ確認したにもかかわらず、いつも手を伸ばす辺りで、いつものように手を伸ばそうとしてしまう。
 機械仕掛けかとさえ思え、思わず独りで笑ってしまった。
 いわば、自分の意思に基づかずに、むしろ自分の意思を無視して勝手に手が伸びてしまうようにさえ思えた。


 幼い頃からこの家で暮らし、一時期は都会で暮らしたものの、戻ってからも数年は暮らしている。
 いわば、このスイッチの操作は、生活に根差しているということなのだろうか……。
 生活習慣というものも、こういうことだということか……。


 そもそも、自分は、以前は、自分のことを勘違いし思い込んでいたことに気づくことさえできなかった。
 結局、直に経験し続けていたはずの肝心な自分のことを、ほとんど未理解だったことが明らかになった。
 思考力も理解力も発揮できていることをさえ、未理解だった。
 むしろ、直に経験し続けている自分のことで、しかも理解が可能なはずのことを、未理解であることは、どういうことなのかを思い知らされた。
 つまり、事実確認をしない想像や、それゆえの勘違いや、勘違いが一向に覆されないがゆえの思い込みや、疑問すら抱かなくなった固定概念や、無理や矛盾だらけの妄想の世界に迷い込んだ。

 今回も、それゆえに理解できないのか……。
 自分が手を伸ばしてしまうのに、この事実関係や理由も未理解だったし、いまだに理解もできない。

 もちろん、行動上の中枢に関することを、自分で把握できないと、自分の想像や勘違いや思い込みなどの無理や矛盾も解決できなかったりもする。
 その内容しだいでは、自分が困ってしまったりさえする。


 数年前、事実関係を解明できたことによって、解決もできたことで、具体的なことも明らかになったわけだが、それまでは、自分の想像や勘違いや思い込みや固定概念などに無理や矛盾があることを、解明できなかったばっかりに解決できず三年も困窮した。
 当時は、自分の記憶や識別や思考に関することなのに、想像や勘違いや思い込みや固定概念とは、どのことを指すのかも知らず自覚できなかったし、それらの特徴や欠点なども未理解だったからでもあった。
 それらを、特徴などを基に自覚できるようになり、欠点も理解できたからこそ、覆すこともできた。

 でも、それらは、自分の記憶や識別や思考に関する内面的なことが主だった。
 この手が伸びてしまうことに関しては、自分の動作に関することが主だ。
 自分の動作に関しては、ほとんど把握できていなかったことが判明した。
 しかも、これだけの事例があるにもかかわらず、事実関係や理由を全く把握できない。
 もちろん、行動に関することでも、自分で把握できないと、解決もできない。
 当然に、その内容しだいでは、自分が困ってしまったりさえする。


 事実関係を把握できなくても、無意味な動作は改善を要する。
 事実関係を把握できないことなのに、それを改善するにはどうすればいいんだ……。

 これに関しては、この場所でだけだ。
 しかも、夜で暗い場合にだ。
 つまり、夜に、その場所まで行くと、スイッチの有無などは考えもせず見もしないで、手を伸ばして、点灯や消灯をしていたことになる。
 そんな動作を自分で行っていたことを、具体的には把握できていなかったことにもなる。
 まさに、条件反射だ……。

 そんなことを考えるようになった頃には、手を伸ばしそうになる手前で気づけるようになり、立ち止まれるようになっていた。
 そこで、元に有った位置からはスイッチは無くなったことを見て確認し、戸を開けた物置部屋内の柱に付け替えたことも記憶上で確認することにした。
 そして、伸びそうになる右手を左手で押さえて、歩き出した。
 それでも、右手は伸びそうになる。
 よって、自分の意思に反して、自分の手が勝手に動いてしまうかのようにさえ思えた。

 生活習慣や癖などを、修正しなければならないとなると、かなり大変なのだとも考えられた。


 油断すると、照明が必要ない昼間でも、手が伸びたりする。
 これは、以前よりも気にするようになったからだとも考えられた。
 また、見て確認するわけでもなく、考えて行っているわけでもないのだとなると、むしろ日中に手が伸びたりしても不思議ではない……。


 でも、行く度に、手が伸びそうになる手前で立ち止まり、元に有った位置にはスイッチはもう無いことを目で確認し、戸を開けた先の物置部屋内の柱に付け替えたスイッチを思い出し、その上で進む。
 繰り返すうちに、それらの一連の事実確認は簡略化されてゆき、すでにスイッチが無い位置には手を伸ばさなくなった。


 でも、うっかり確認を忘れると、手が伸びてしまい、自分でも笑うしかない。
 が、手を伸ばしてしまうことをふと思い出したり気にしたりした場合に、つい手を伸ばしてしまうのだとも思えた。
 ならばと、元にスイッチがあった位置を気にしないくらい、新たなスイッチの位置である物置部屋内の柱を意識するように心がけた。
 よって、そこまで行くと、新たなスイッチの位置を思い出すようになり、加速的に移行していった。
 しかも、理解できそうもないことは、気にもしなくなっていった。


 理由を理解するのであれば格好の経験をしていたわけだが、残念ながら、その具体的な理由を当時は理解するに至らなかった……。

 数年前に、自分の想像や勘違いや思い込みや固定概念などを解明したことによって、相応のことは分かった。
 知らなかったことを憶え、できなかったことも随意にできるようになり、上達もし、いわゆる学習できることも分かった。
 それゆえに、間違ったことも学習することも分かった。
 もちろん、錯覚や勘違いや思い込みや固定概念などもあり、それらが事実によって覆されたり修正されたり浄化されたりしながら詳しくもなり上達もすることも分かった。
 つまり、学習自体の概要は分かった。
 よって、学習自体の法則に相当するような具体的なことにも関心が向いていたのに……。

 つまり、スイッチを付け替えたことによって、望み願っていた事例の方からやって来てくれたようなものだった。
 ところが、そうだったことにさえ気づけず、残念ながら、当時は条件反射的なことだということにし、新たなスイッチに慣れてゆき、考えもしなくなった……。


 でも、自分の経験上のことなのに、把握できていない、具体的に理解できていない、ということが存在することは明確になった。
 しかも、自分の経験上のことなのに、知らない、把握できていない、具体的に理解できていないことなどは、そういう状態で記憶にも残るようになった。
 いわば、記憶上にも、相応の空きページが用意されたような状態になった。
 よって、用意された空きページに相当するようなことには、気づきやすくもなった。
 それが、自分で日常的にも行っている学習自体に関することなのに、その具体的なことを自分で未理解だったことが明らかになったことだけに、関係することに思い当たる都度、自分の経験を基に確認を繰り返し事実関係を整理して解明し理解してゆくことになる。


 やがて、学習に共通する学習の基本的なことを理解し始めたことによって、スイッチにも共通する基本的なことを具体的に理解することになるわけだが……。

 実は、新たな位置のスイッチに慣れていった。
 それと同じように、元の位置にあったスイッチにも子供の頃から慣れていったことになり、やがて条件反射的に手を伸ばすようになったことになる。

 つまり、スイッチの新たな位置に慣れていった理由と、元にスイッチがあった位置に条件反射的に手を伸ばすようになった理由は、同じだったことになる。

 よって、新たな位置のスイッチに慣れてゆく理由に注目して理解すると、元にスイッチがあった位置に条件反射的に手を伸ばすようになった理由をも理解できたことになる。
 もちろん、新たに慣れてゆく変化や段階的なことを基にして、慣れてゆく理由を理解する方が容易だ。条件反射的に行うようになってしまってから、その理由を理解する方が難しい。

 けれども、スイッチを付け替えた当時は、そんなことも知らなかった。
 だからこそ、条件反射的な自分の動作が不思議だっただけに、こっちにばかり気を取られたわけだから……。


 でも、状況が変わることによって、相応のことが明らかになる。
 つまり、普段は気にもしなかったことが、浮上した状態になる。
 それは、その事実関係を具体的に理解する好機の到来でもある。
 そんなイメージが、当時、記憶上に残った。

 
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プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
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