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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
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カテゴリ : ◆無知の悟 「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」

目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」


 当記事は、次のカテゴリ内の記事を目次です。
 カテゴリ:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」

 きわめて個人的な世界なのだが、理解し尽せない世界だけに、むしろ超個人的な深みに臨みつつある昨今……。
 今夏(2018)は、当カテゴリ記事の再編集を行い、心の再整理(浄化)に臨もう。
 当時、一進一退を繰り返したことによって、主要なことが解明されていったわけだから。
 思いや考えの無理や矛盾の解明も解消もできたことによって、こんなことの解明や解決も可能なんだということを体験的に納得でき、自己理解が始まったわけだから。
 
初投稿:2017/06/08
その後の微調整&再編集 更新:2018/04/30
※ 再編集につき投稿日を更新日に変更






無知の悟
「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」

   目 次(投稿済み別記事リンク 別窓(別タブ)表示
   見出し毎の書き込みは、個人的な再編集用の概要や要点です。
   これらの調整を行いつつ再編集(心の浄化)を行います。


今は……


 もう一度、自分の心の整理に臨もう。
 学習の基本や法則を理解するほどに、精神上の道に似たものもできている。
 要は、未知の世界に、どんなものを想定して目指すかだ。
 今度の心の再整理は、最期のための心の準備に通じているような気もするが、その理由も分かるのかもしれない……。

かつて、自分を勘違いし思い込んでいた。


 かつては、生きていることがどういうことなのかは、考えたことすら無かった。自分はどういう存在なのかも、考えたことすら無かった。
 冬場に出稼ぎに行き、春に帰省せず、都会で見習いで就職し、格好の学習経験をした。なのに、学習に関することを理解せず、理解力は磨かず発揮すらしなかった。
 学習し、相応のことが記憶に残ったことだから、相応のことができるようになった。だから、今でも理解できることなのに。
 そんなことをすら未理解だったのに、すっかり一人前になったような気がしていた。
 それは、勘違いや思いみに過ぎないんだということも、知らず、気づくこともできなかった。
 むしろ、違和感を感じることさえ無く暮らしていた。
 それは、あまりにも自分のことを知らないからなのだとは、思いもしなかった。
 つまり、生後に知らないことを憶える性質上、直に経験し続けていることをすら理解するとは限らない。生きていることはどういうことなのかとか、自分はどういう存在なのかとか、そういうことを考慮しない生き方をすることもあり、そういうこととは無関係な生き方をすることもあり得ることになる。

あの日、気づいた。自分を未理解だったことに。


 知らなかったことを憶えたんだということを、今更のように知った。
 練習相応に上達したんだということも、今更のように知った。
 それは、人生を左右する重要なことだったことも、今更のように知った。
 しかも、子供でも知っているのに、自分は知らなかった。
 すっかり一人前になったような気がしていたのは、勘違いや思い込みや独り善がりの類でしかなかったのだ。肝心な自分のことを、ほとんど知らなかったのだ。
 それまでの自分というイメージが心の中で崩壊し、自分のことを知らないという深い孤独に陥った。

 日常的に思考力や理解力が磨かれて自分を客観視できるようにもなったからこそ気づくことができたんだということには、気づくことさえできなかった。
 やっと本来の自分に戻れたんだとは、思いもしなかった。
 知らないのなら、知ろう。とも思わなかった。

未理解とは、どういうことかを思い知らされた。


 自分のことなのに、雲を使うような状態に陥った。
 平常心も取り戻せなくなった。
 孤独の世界を彷徨うばかりだった。

 知能自体は平常どおりに機能していることに、気づくことすらできなかった。
 日常的に思考力や理解力や判断力などを発揮できていることにすら、気づけなかった。

 異常かもしれないと想像し、異常かもしれないと新たな勘違いをしはじめた。
 それこそが想像や勘違いに過ぎなかったのだが、そうであることにも気づけなかった。

 自分が行っている識別や思考に関することを未理解であることが、どんなことなのかを、思い知らされていた。
 そうだったにもかかわらず、そうなんだということも、当時は捉えることができなかった。

 独りになりがちになり、人間関係を断ち、自室にこもるようになり、夜型の生活になり、異常者扱いされることを恐れはじめた。
 自分で相応のことをしているからなのだとは、思いもしなかった。

 単に知らないだけなのに、それゆえに困窮してしまうことが存在することを、思い知らされていた。
 そうだったにもかかわらず、そうなんだということも、当時は捉えることができなかった。
 想像、勘違い、思い込み、妄想、そんなことに関しても考えたことすら無かったからでもあった。

困窮し、やっと自分のことを理解しはじめた。


 自室にこもり、困窮したことによって、やっと自分のことを理解しはじめた。

 喉が渇き、空腹を感じた。随意に呼吸を止めることはできない。心臓も随意には止められない。むしろ、不適切な飲食をすると吐いたり下痢をしたりする。そんな経験上の事実を確認したことで、自身の生命生理は自律して機能しているんだということを初めて基具体的に知った。
 つまり、実行できないことでも思い考えることができ、言い訳も嘘も考えることができる思いや考えにこそ、無理も矛盾もありえるのだ。

 次いで、各感覚器官や意識や記憶力や識別や思考などは自覚するだけで確認できることにも気づき、知能自体は平常どおりに機能していることを、初めて経験上の事実や自覚を基に具体的に知った。
 普段でも、精神面の性質上、精神面に不具合がある場合は直ちに気づく。だから、不具合が無いだけで、普段は異常だとは思いもしない。そんなことも初めて知った。
 気づいたことは確かめもし、確かめるほど具体的なことを知ることもでき、具体的に知るほどに識別や自覚などが容易になった。
「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
 平常心を取り戻せなくなり苦悩し困窮した理由は、思いや考えなどの無理や矛盾にある。
 しかも、こんな自分のことを、あまりにも知らないからだ。


要だった矛盾を解明し、英知の扉が開いた。


 目には見えない思いや考えなどの無理や矛盾を解明をすべく、冷静になり、内向しはじめた。
 他人を気にし過ぎ、自分のことを疎かにしていた。
 つまり、問題の解明や解決は、しようとすらしていなかったことになる。
 自分のことを知るべきなのに、自分のことを知ろうともしていなかった。

 自分が考えて行っていたことなのに、こんな矛盾があることに気づくこともできなかったなんて……。

 むしろ、異常者扱いされると思い込み、不都合なことは隠し偽ろうとし、上辺だけ尤もらしく見せかけようとしていたていた。
 これは、解明や解決が困難にすることにほかならない。この思いや考えは、解明や解決とは、まったく矛盾する。あの日、やっと気づくことができ重要なことなのに、それが台無しになることだからこその葛藤だったのだ。

 英知の扉が開いた。

想像・勘違い・思い込み、その類だった。


 自分の思いや考えに関することだけに、自分だけが直に知り得ることであり、考えるだけで分かることだった。
 分かればこそ、自制も可能になり、方向転換もでき、解明も解決も可能になる。

 異常かもしれないとか異常者扱いされると思ったり考えたりしたが、それが事実か否かは確認していない。つまり、異常かもしれないとか、異常者扱いされると、想像していたに過ぎない。
 事実確認もせず根拠も理由も必要としない想像は、し放題だ。当然に、外れの確率の方が高い。
 自分が考えて行っていることなのに、こんなことに三年も気づけなかったなんて……。

 想像に過ぎなくても、内容しだいでは不安にもなり心配になり苦にもなる。
 こんなことも経験済みなのに、気づけなかった……。
 だから、事実とは違うのに、事実だと勘違いした。
 勘違いしていることには、もちろん気づけなかった。

 勘違いだとは知らず覆せなかったから、むしろ事実だと思い込んだ。
 思い込みに過ぎないことには、もちろん気づけなかった。

 むしろ、思い込んだからこそ、それを前提にしたことまで考え、行おうとまでした。
 そうであることにすら、気づけなかった。

 知らないとか間違いとか勘違いや思い込みの類は、意図的なことではないし日常的にあることでもあり、異常とは言えない。責め咎めるべきことでもない。

 むしろ、思い込みに基づいては、実行できなかった。
 だから、気づいた。
 気づいたから、確認した。
 確認したから、具体的な事実を知ることもできた。
 知ったことは、何時でも何処にいても想い出して確認できるようになった。
 よって、詳しくもなれた。
 これらも、異常ではない証のようなものだ。


 思えば、もともと学習力や思考力や理解力なども発揮できていた。
 でも、気づかないことは、確かめもしない。確かめないことは、具体的なことは知らない。
 直に経験し続けている自分のことであっても例外ではないのだ。
 学習力や思考力や理解力など、日常的に発揮していることでさえ、確かめたことは無かったからこそ、具体的には知らなかったんだから。
 無知で愚かだたことにばかり気を取られていたが、日常的に思考力や理解力は磨かれ、自分を客観視もできるようになったこともあって、あの日、気づくことができたことになる。知能自体の成長や進歩の証でもあったのだ。
 まして、せっかく気づいたのに、新たな勘違いをし、それに気を取られれば、他のことは重要なことでも確かめもしない。隠し偽ったりすることに気を取られれば、解明や理解を困難にすることになる。
 そうだったからこそ、考えただけで分かったことも分からないままだったことになり、考えるだけで分かることなのに自分の思いや考えに関することでさえ知らなかったことになり、知らないことは自覚も識別もできなかったのだ。
 むしろ、初めて気づいたのも、思考力も理解力も発揮できていたからこそだった。が、そうであることを未理解だったから自覚も識別もできなかった。だから、むしろ新たな勘違いをしたのだ。
 本当は、あの日に初めて気づいたこと自体が、自分にとっては飛躍的な進歩や成長だった。
 むしろ、気づけず平気だったことこそが異常に類し、それに気づいたのだから動揺してこそ当然であり、動揺こそが正常さを取り戻した証だったのだ。
 なのに、確認せず、想像し、とんでもない勘違いをしたばっかりに、三年も遠回りしてしまったのだ。

先入観や固定概念があったからだった。


 理由も根拠も無い想像をすることは難しい。何らかの理由や根拠があってこそ、相応の想像をする。
 差別的なイメージがあった。
 解決できず、知られまいとし、思い込んでしまった。
 想像の基になる、先入観や固定概念や差別的なイメージが記憶にあったからだったのだ。
 これも、気づけば確かめることもでき、確かめれば相応の事実を知ることもでき、事実関係が分かれば覆すこともできる。

知能を誤用し悪用し悪循環に陥っていた。


 記憶に有って、心理にも作用していることになる。
 記憶に残っていることだからこそ、考えるだけで分かる。
 つまり、思い出すまいとしたり、考えないだけで、一向に分からないのだ。
 考えたくないことや思い出したくないこととか……。
 知られたくないことや、隠し偽りたいことといえば……。

 大人振っただけの騙し合いだった。失格だ。
 あの時も、大人振った。認め難くて、いつのまにか肯定したからだったのだ。

 突然、思い出した。水恐怖症だったことを。
 知られまいとして、自分でも考えなくなり、思い出さなくなった。
 これも、気づいたから確かめ、確かめたから理由や事実関係も分かり、分かった事実関係や理由を思い出せるから対処できるようになり、解決できた。
 つまり、子供の頃には、すでに思考力や理解力もあり、いろんなことが分かっていた。だからこそ、大人に騙されまいとし、言いなりにはならず、むしろ信頼を回復したいから抗議までしたのだ。
 でも、反抗扱いされた。大人は強いるだけで、子供の気持ちを理解しようとすらしなかった。
 しかも、大人に受け入れられなかったこともあって、自分の気持ちや考えを自分でも整理すること無く理解もしそびれたのだ。

 だからこそ、子供の頃に批判視したのに、上辺だけ大人振る大人になった。
 肉体的には、自律して成長し成熟もする。が、精神面は、学習し理解した内容に左右される。今頃、こんなことを知るなんて、精神的には未熟過ぎる……。

 自分の精神面を未理解だと、深みに陥りもする心理の悪循環が存在する。
 でも、自分の思いや考えに関することだけに、理解できる。理解すれば、陥らずに済む。むしろ、理解を深めることもでき、自己管理が可能になる。

あれは、天使のささやきだったのだ。


 自意識制御。これこそ自分自身だ。原点に戻れた。本来は、こんなこともできるのだ。備わっている知能の高度な面をやっと発揮しはじめたのだ。
 あの日に気づくことができたことは、本来は小躍りして喜ぶべきことだったのだ。
 なのに、精神的には未熟だったばっかりに、とんでもない勘違いをしたばっかりに三年余りも……。
 あの日の子供たちの言葉は、自分にとっては天使のささやきだったのだ。
 精神的には未熟なままの自分を、今の自分なら理解してあげられる。
 自分で育て直せてこそ、大人になれる……。


 結局、自分が望んだわけでもないのに、意識改革や人生の軌道修正が完了していた。

 確かめるようになった。
 物体としては存在しないし、目にも見えないが、思考上では捉えることができ一連のことを理解することもできる、確かに存在する性質や条件や理由や法則などを重視するようになった。
 生後に知ることは限られ偏りもし的外れだったりもするし、錯覚や勘違いや思い込みもある。が、自分が知る以前から存在していることは、絶妙な秩序に基づいて自律していて、動物だけではなく植物にも共通で、誰でも直に経験し続けていることでもある普遍的(非人工的)なことこそが尊い。
 本来は、その普遍的な性質上、その尊さまでも歴然としている。
 そういうものを尊び、理解しようとするようになった。

 それは、人間関係を断ち、自室にこもったからこそ、自分の思いの無理や矛盾を解明でき、よって可能になったことでもあり、学歴も要らず資格も要らず資金も無くても理解できることだった。
 本来の自分で理解することによって自分を救うことでもあり、苦行とは逆で、修行ですらない。
 冷静になることは必須で、リラックスする必要があることだけに、寝転んででもできることであり、礼儀も作法も要らない。
 すでに存在していて、考えるだけで理解できることを理解するだけなので、何時でも何処にいても可能なことであり、誰でも可能な状態にあることだった。

 それに対して、そうではないことだからこそ、尤もらしく見せかけていることや、後ろめたいことだからこそ本当らしく工作することや、競い争ってまで優劣を決めて優れたことであるかのように捏造しているに過ぎないことなどは、意図的かつ人為的なことである。
 しかも、他の目を奪い心まで奪うことであり、自分を見失わせ人生まで見失わせることでもある。
 そういうことをしてまで私利私欲を貪ることでもあり、騙し欺いてまで他人の不幸を喜ぶようなことだとも考えられる。
 そうだと思われることは宗教であっても、疑問を感じるようになった。

 ただ、いずれも、目には見えないことである。
 でも、日常会話でも、目には見えないことを理解し合える。その思考力や理解力も、目には見えないが、発揮できている。
 根拠や理由が不十分だったり無理や矛盾があると、理解できないし納得もできない。根拠や理由が十分で理に適っているからこそ、理解でき納得もできる。
 だからこそ、約束やルールや計画や目的などに基づいた行動もでき、信頼し合い尊重し合うこともできる。
 それらのことも、目には見えない。
 だが、思考力や理解力を発揮すれば、目に見えるが如くに捉えることができるようになるからだった。




2017-大樹の新緑

 

カテゴリ : 把握できていること&用語集

心を開くとは 心眼を開くとは


 自分の、歪んでいた心の整理上で、「いつのまにか閉ざしていた心が開いた」という捉え方も可能になり、「心を閉ざす」「心を開く」という捉え方も可能になった。
 そんな個人的な心の整理上の、個人的な経験を基にした、あくまでも私見です。
 
初投稿:2012/04/24
その後の理解を基に再編集 更新:2018/04/13
※ 投稿済み記事の更新とともに投稿日も更新







心を開くとは 心眼を開くとは


   目 次 (各◆小見出しは当ファイル内の本文リンク)

     目次内の各◆小見出しの下は本文の概要






 私見を述べる前に、Web 検索でヒットする使われ方・日常やテレビで耳にする使われ方、それらから察すると、次のようなことだと考えられる。


 ■「心を閉ざす」 概略

「心を閉ざす」とは、、気持ちや考えや記憶に残っていることなどを、知られまいとしたり、隠したり、偽ったりすること。

 つまり、「心を閉ざす」とは、意思疎通を断つことだと考えられる。


 ■「心を開く」 概略

 心を閉ざしていることが前提になる。
 よって、心を閉ざすことと、反対のことに該当する。

「心を開く」とは、、隠さず、偽らないこと。むしろ、知ってもらおうとか、理解してもらうために、話したり説明したりすることになる。

 つまり、「心を開く」とは、意思疎通を再開することだと考えられる。






 私見としては、次のことが前提になる。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている精神機構(知能)が備わっている。
 よって、経験でき学習でき理解できるようになり、相応の随意なこともできるようになり、相応の結果にもなる。これが、知能の基本的な能力だと考えられるが……。
 表題に関係する面としては、次に述べるような高度な意思疎通もできるようになる。

 思考上では一連のことを理解することもでき、理解できた内容に基づいた識別や思考や可否や是非などの判断も可能になる。
 よって、信頼し合うこともでき、協力し合うこともでき、尊重し合うこともできる。

 つまり、学習や理解上、五感では捉えることができない内面を理解し合うことも可能になるわけであり、極めて高度な意思疎通を行うようになる。






「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことか。相応のことを知っていれば、そうせずに済むし、そうしてしまったとしても気づきやすく回復も容易にできる。
 よって、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、よく知らないうちに、そうしてしまうことが多いと考えられる。
 知らないからこそ、回復が困難になることもしてしまう。
 だからこそ、悪循環の深みに陥ってゆく傾向もある。
 そういうことも未理解だからこそ、前項で述べた「心」の優れた能力を、台無しにしてしまうこともあるのだと考えられる。

 そういう場合は、その解決や回復などを行うためには、事態の把握が必要になり、そのためには「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって、ここで述べた「心を閉ざす」ことに関することを知ることになる。






「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、知らないがゆえに、そうしてしまっている場合。
 それを、回復するためには、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、まず把握する必要がある。
 この段階で、「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって前項で述べたようなことを知ることになる。

 前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたことを前提にした場合は、「心を開く」とは次のようなことになる。
 簡単に言うと、断った意思疎通を、再開することでもある。
 未理解な場合は、前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたようなことを把握し反省して回復することでもある。
「◆そもそも「心」とは(本来は)」項で述べた、「心」の本来の優れた能力を発揮するための努力をすることでもある。
 結果的には、「心」の本来の優れた能力を、理解し合い信頼し合い尊重し合えるようになるように、相応の努力をすることになる。







 Web 検索でヒットする使われ方・テレビや日常で耳にする使われ方、それらでは多様で諸説ある。
 ここでは、私見として、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を、別の観点から捉えてみる。
 よって、同じ記事内に記載する。


「目には見えないことなのに、あたかも見えているかのように捉えることができているからこそ、相応の対処対応ができる」
 そう言うときの、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」その能力のことをここでは「心眼」と仮定する。
 すると、次のようなことが該当する。






 私見としては、次のようなことになる。
「心眼」自体は猫でも発揮しているが、「心眼を開く」ことは誰でもできるわけではない。
 一気に開けることでもない。結果的に「心眼は開いてゆく」。
 また、段階的に開いてゆく。よって、段階的な違いもある。
 こんなことであることも分かるようになりつつ、具体的なことを知るほどに徐々に開かれてゆき顕著になってゆくのが「心眼が開く」特徴でもある。
 そういう性質上、「心眼が開く」とか「心眼は開いてゆく」などと言った方が適切だ。

 つまり、「心眼を開く」とは、私見では次のようなことだと言える。
 自分も、日常的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことを、裏付ける事実を基に具体的な理解し納得すること。






「心眼を閉ざす」という言い方は、あまり耳にしないが……。

 まず、日常的に心眼を発揮するようになる。よって、閉ざされることも無い。

 でも、「心眼を開く」ことが難しくなることはある。
 そもそも、日常的に心眼を発揮するようになり、その後に気づくことになる。
 そういう性質上、気づく以前に、気づき難くなるようなことや理解し難くなるようなことをしてしまったりもするからだ。



~~~:以上は目次 ☆☆☆ 以下は本文:~~~






◆「心を閉ざす」「心を開く」概略



 私見を述べる前に、Web 検索でヒットする使われ方・日常やテレビで耳にする使われ方、それらから察すると、次のようなことだと考えられる。

「心を閉ざす」にしても「心を開く」にしても、心は内面なので、対環境的な五感では捉えることはできない。
 でも、振る舞いや結果は捉えることができたりする。
 その振る舞いや結果などを基に、心の状態を察して言い表している言葉だとも考えられる。


■「心を閉ざす」 概略



「心を閉ざす」とは、、気持ちや考えや記憶に残っていることなどを、知られまいとしたり、隠したり、偽ったりすること。

 つまり、「心を閉ざす」とは、意思疎通を断つことだと考えられる。

 隠し偽るにとどまらず、逃げ隠れしたり、逆上して相手の所為にし口封じをしたりするわけだから、それらも含まれることになる。
 更に、相手の所為にして暴力的に片付けてしまおうとするし、争いにもなる。それも、「心を閉ざす」方法が激化したものであり、その象徴的なことには戦争が該当する。

 いずれも、反省や学習や自浄などに、背くことでもある。
 また、理解し合うことも無く、協力し合うことも無く、信頼し合うことも尊重し合うことも無い。それらに、むしろ反することでもある。


 ■「心を開く」 概略

 心を閉ざしていることが前提になる。
 よって、心を閉ざすことと、反対のことに該当する。

「心を開く」とは、、隠さず、偽らないこと。むしろ、知ってもらおうとか、理解してもらうために、話したり説明したりすることになる。

 つまり、「心を開く」とは、意思疎通を再開することだと考えられる。

 もちろん、逃げ隠れすることや、相手の所為にしたり口封じをすることは、止める必要がある。
 お互いに相手の所為にして戦争したり争ったりすることを止めることは、むしろ必須になる。

 いずれも、反省し学習し自浄能力を発揮することでもある。
 理解し合い、協力し合い、信頼し合い、尊重し合えるようになる努力をすることでもある。




◆そもそも「心」とは(本来は)



 私見としては、次のことが前提になる。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている精神機構(知能)が備わっている。
 よって、経験でき学習でき理解できるようになり、相応の随意なこともできるようになり、相応の結果にもなる。これが、知能の基本的な能力だと考えられるが……。
 表題に関係する面としては、次に述べるような高度な意思疎通もできるようになる。


 知能が備わっていて、経験でき学習でき一連のことを理解できるようになり、相応の記憶や気持ちや考えも形成される。
 この気持ちや考えや記憶に残っている内容などは、内面的なことなので、対環境的な器官だと考えられる五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)では捉えることはできない。


 でも、野鳥は、一斉に飛び立ったりする。
 つまり、一羽の反応を基に、その状況を察することはできるし、仲間の心情を共感することもできるからではないかと考えられる。
 他の鳥たちが一斉に飛び立つのも、そういうことなのではないかと考えられる。

 人の群集心理も、似たようなことだと考えられる。
 つまり、具体的な理由は知らなくても、周囲の人の振る舞いを基に、大変な事態になっていることなどの状況は察することができ、悲鳴などからは心情に共感したりすることもできる。
 だからこそ、具体的な理由は知らないまま、逃げ惑ったりする。
 具体的な理由は知らないまま、連鎖的に群衆に広がってしまったりもする。

 赤ん坊の泣き声だけを基に、その状態を察することもできるからこそ、相応の対応をしてあげることもできる。
 それによって、赤ん坊の生存が維持される。

 猫は、誰とでも仲良くするわけではない。仲良くしている相手に対しては、力加減などをしている。
 つまり、言葉で具体的に説明することはできなくても、相手の反応や表情などを基に、その気持ちや考えを察して、相応の加減をしているのではないかと考えられる。
 そういう相手であることをも識別しているから、多少のことは許容し合うし、仲良くできるのだ、と考えられる。

 人の場合は、相手の反応や表情などを、類似した自分の経験や記憶を参考にして捉えることもでき、相応に相手の気持ちや考えを察することもでき、相応の振る舞いもでき、相応の結果にもなる。
 つまり、自分がされて嫌なことは、相手も嫌なんだろうと察することができ、相応のこともできるので、相応の結果にもなる。

 嫌なはずなのに、「嫌だ」と言えないし拒否できないことも、察することができたり、その心情に共感したりもする。
 よって、「嫌だ」と言えず拒否できないことを、隠し偽り嘘を吐く場合でも、察し、抗議したりする。


 人は、身振り手振りでも、伝えようとする。
 ということは、五感では捉えることができない内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、伝え合えることが可能であることを、人は分かっている。
 だからこそ、人は身振り手振りででも伝えようとする。

 気持ちや考えや記憶に残っている内容などは、五感では捉えることができないからこそ、人は図を書いたりもする。
 よって、共通の意味を含んだ信号や標識や記号は社会的に実用されている。

 更に具体的な絵を描いたりもする。


 日常会話ができるようになると、五感では捉えることができない内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、言葉で伝え合えるようになる。
「知らない」とか「記憶に無い」とか「知っている」とか「記憶に残っている」などとも言う。

 いつのまにか文法も憶えて、五感では捉えることができない内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、整理し、文章化して、具体的に説明できるようになる。
 もちろん、内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などは、五感では捉えることができない。けれども、思考上では、内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、整理して、関連することで構成された一連のことでも理解でき、相応の応答もできるようになるからこそである。
 だからこそ、不明な部分を尋ねたり確認したりもする。

 一連のことを理解すると、それが記憶に残り、その内容に基づいた、識別や思考や予想などもでき、相応の行動をすることもできる。
 教えてもらったことが記憶に残り、それを頼りに、初めて行く目的地にでも到達することもできる。
 約束したことが記憶に残り、それに基づいた、行動をすることもでき、相応の結果にすることもできる。
 ルールを理解すると記憶に残り、その記憶に残っているルールに基づいたスポーツなども可能になる。

 思考上では一連のことを理解することもでき、理解できた内容に基づいた識別や思考や可否や是非などの判断も可能になる。
 よって、信頼し合うこともでき、協力し合うこともでき、尊重し合うこともできる。
 相応の優れた能力が備わっていることをも、認め合い理解し合えるからにほかならない。


 つまり、学習や理解上、五感では捉えることができない内面を理解し合うことも可能になるわけであり、極めて高度な意思疎通を行うようになる。
 これらのことは、小学生の頃には誰もが出来るようになり、行うようになることでもある。
 これらのことを可能にしているのが、「心」だと考えられる。
 もちろん、「心」は開いていることが、本来のありかただと考えられる。




◆「心を閉ざす」とは



「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことか。相応のことを知っていれば、そうせずに済むし、そうしてしまったとしても気づきやすく回復も容易にできる。
 よって、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、よく知らないうちに、そうしてしまうことが多いと考えられる。
 知らないからこそ、回復が困難になることもしてしまう。
 だからこそ、悪循環の深みに陥ってゆく傾向もある。
 そういうことも未理解だからこそ、前項で述べた「心」の優れた能力を、台無しにしてしまうこともあるのだと考えられる。


 そういう場合は、その解決や回復などを行うためには、事態の把握が必要になり、そのためには「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって、ここで述べた「心を閉ざす」とはどういうことかや、その弊害などを知ることになる。


 前項の「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べたことを、「心が開いている」状態だからこそ出来ることと仮定し、それを本来の「心」と仮定した場合は、「心を閉ざす」とは次のようなことになる。

 通常、意思疎通を断つことを「心を閉ざす」と言っているのだと考えられる。
 よって、前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、少なくとも発揮しなくなることに該当する。
 よって、困ったり、問題視される。この段階になると、「心」の優れた能力に背いていたりすることになる。
 そこで、解決や改善や回復といったことが必要になり、事態の把握や解明などが必要になる。


 そもそも、気持ちや考えや記憶に残っていることなどは内面的なことなので、その具体的な内容は、本人が話すことによって、他者は知ることができる。
 よって、気持ちや考えや記憶に残っていることなどは内面的なことは、本人が話さないだけで、他者には知られずに済む。
 理由は多種多様だが、意思疎通を断ち、「心を閉ざす」。

 もちろん、前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、少なくとも発揮しなくなる。
 当然に、理解は得られず、協力も得られない。
 よって、理解や協力や保護が必須な子供の頃には、必然的に「心を開く」ことに該当することも行うのだが、自衛上、「心を閉ざす」練習もしているようなものだと言っても過言ではない。

 理由は多種多様でも、話さないことは、相手を、信用できない、信用しない、などということをも意味する。
 そうであることは、察することもできる。
 よって、友達は限られ、親友は更に限られる。
 前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、理解し難くなる。

 相手しだいでは、気持ちや考えや記憶に残っていることなどを、知られまいとするようにもなる。
 前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、自他共に未理解だと、改善し難いどころか、むしろ拗れさせもする。

 自衛上、知られると不利だと思うことや不都合だと思うことは、隠すようにもなるし、言い訳もするようになり、事実を偽るようにもなる。
 分かった振りだけをしたり、上辺だけ明るく振る舞ったりする場合も、事実を偽る類であり、認めることや反省を自ら困難にすることでもあり、一層、心を閉ざすことに該当する。
 隠し偽り、言い訳や嘘を重ねるほど、認め難いことを物語っていて、当然に反省し難いことを物語っているが、その深みに陥ってゆくことを自ら行っていることをも物語っている。

 もともと自分が悪いわけではないという理由で、相応のことを認めまいともする。
 認めないことは、事実関係の把握もできない。
 となると、解決を自ら困難にしていることになる。

 自身の内臓は見れないわけだから、何でも憶えられるわけでもなく、何でもできるようになれるわけでもない。が、行動上、しっかりやらないと、大変な事態になることもある。
 そんな場合でも、いい加減だったことを認め難い場合は、本来は優れた知能が備わっていることをも認め難くなる。
 認めないことは、その具体的なことを理解することはできない。

 認めず、反省もせず、相殺してしまう場合もある。
 が、良くないことだと感じていたり、悪いことだと分かっていたり、結果的に大変なことになることを予想できているにもかかわらず、「お互い様だ」と肯定してしまう。
 もちろん、反省を自ら困難にすることに他ならない。

 威嚇的なことをしたり、努力して基準を作ってまで差蔑的なことをすることもある。
 転嫁して、相手の口封じをすることもある。
 相手の所為にしてしまうと、自分の問題点は解決する必要が無くなる。つまり、解決できない。

 逃げ隠れするしかなくなる場合もある。

 相手の所為にして暴力的に片づけてしまおうとすると、争いになり、戦争にもなる。

「心を閉ざす」と、「心」の優れた能力を少なくとも発揮しなくなる。
 更には、「心」の優れた能力に背くことにる。
 よって、人間関係の回復が難しくなってゆく傾向がある。
 その象徴的なこととしては、相手の所為にして暴力的に片付けてしまおうとする争いや戦争などが該当する。
 つまり、理解し合うことには反し、協力し合うことにも反し、信頼し合うことにも反し、尊重し合うことも反することをし合うようになる。

 そういうことだけに、一般的に、多くの人に対して「心を閉ざしている」状態になりがちでもある。
 むしろ、プライバシーもあり責任が伴うこともあるだけに、「心を開く」相手は限られているのが一般的だとも考えられる。
 実は、全く個人的には「心を閉ざす」必要すら無く、経験上の自分のことには精通できる条件も整うわけだが、それにも反していたりする。

 
 
 

◆「心を開く」とは



「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、知らないがゆえに、そうしてしまっている場合。
 それを、回復するためには、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、まず把握する必要がある。
 この段階で、「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって前項で述べたようなことを知ることになる。

 前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたことを前提にした場合は、「心を開く」とは次のようなことになる。
 簡単に言うと、断った意思疎通を、再開することでもある。
 未理解な場合は、前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたようなことを把握し反省して回復することでもある。
「◆そもそも「心」とは(本来は)」項で述べた、「心」の本来の優れた能力を発揮するための努力をすることでもある。
 結果的には、「心」の本来の優れた能力を、理解し合い信頼し合い尊重し合えるようになるように、相応の努力をすることになる。


 誕生時には、言葉自体を知らない。
 言葉を知らないうちから、いろんなことを行うようになる。
「心を閉ざす」とはどういうことかや弊害なども知らないうちから、それに該当することも行うようになり、練習しているような状態にさえなったりするわけだが……。

 幼い頃ほど、生存上、保護者の理解や協力が必須だ。
 心を閉ざすと、保護者の理解や協力を得られなくなる。
 そんな性質上、自ら「心を開く」ことに該当することも行う。

 経験し学習し理解する性質上、詳しく知っていることは限られ、知っているが曖昧なことが多く、間違いもあり、勘違いもある。
 でも、悪意だとは限らないし、自覚すらできなかったことだったりもする。
 そういうことを自覚できる内は、自浄能力も発揮するし、反省もするので、自ら心を開きもする。

 見知ることはできない内面の気持ちや考えや記憶にあることを、伝え合い、複数で話し合うことによって、勘違いや考えの無理や矛盾などの修正もできたりもする。
 そうすること自体が、理解し合うことでもあり、協力し合うことでもあり、尊重し合うことにもなり、そういうことが可能であることを確認することもできる。
 必然的に、更に理解しようともするし、重視するようになる。

 そういうことが可能になる相手は、一般的には、かなり限られると言っても過言ではないわけだが……。
 個人的に、経験上の自分のことを理解する場合、相応の条件は、年々、整ってゆくだけに、随時、可能になることでもある。

 そういうことが可能になるように心の整理をすることが「心を開く」ことに該当することになる。
 よって、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を発揮できるようにする努力をすることでもある。


 そういうことを知らないがゆえに、いつのまにか心を閉ざし、その悪循環に陥っている場合は、悪循環に陥っていることなどのことを理解したり反省したり認め難かったことを認めることが必須になるが、それら自体が「心」の優れた能力を発揮できるように努力することにほかならない。

 いずれにしても、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を、理解するだけでも、発揮もしていることにもなる。
「心」の優れた能力を理解し合えば、「心」の優れた能力を信頼し合うことになり、「心」の優れた能力を尊重し合うしかなくなる、
 それが、「心」の優れた能力を発揮でき理解できた証でもあるわけだから。

 
 
 
 

◆「心眼」とは



 Web 検索でヒットする使われ方・テレビや日常で耳にする使われ方、それらでは多様で諸説ある。
 ここでは、私見として、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を、別の観点から捉えてみる。
 よって、同じ記事内に記載する。


「目には見えないことなのに、あたかも見えているかのように捉えることができているからこそ、相応の対処対応ができる」
 そう言うときの、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」その能力のことをここでは「心眼」と仮定する。
 すると、次のようなことが該当する。


 猫も、現在地からは見えない遠い所までも行くし、そこから家に帰っても来る。
 つまり、目的地は見えないのに、あたかも見えているかのように行動していることになる。
 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」
 よって、猫も「心眼」を発揮していると考えられる。

 また、猫も、小急ぎに行ったり、近道をしたり、駆け足で行ったりもする。
 このことからは、猫にも、相応の感情や気持ちや考えが有ると考えることもできる。
 となると、猫も「心眼」を発揮していることが、具体的になる。

 いずれも、もちろん目には見えない。
 が、人の側で、自分が感情や気持ちや考えに基づいて行動していることを参考にして、猫もそうしているんだと考えることもできるからにほかならない。
 このような、人が行っていることも、「心眼」だと考えられる。
 自分の内面だが、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」わけであり、相応の能力を発揮できているわけだから。

「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力も、まさに「心眼」を発揮できるからこそできることである。
「◆「心を閉ざす」とは」の項で述べたことでさえ、「心眼」を発揮できるからこそなのだが、残念ながら優れた能力は発揮できていないので、争いになったりするわけであり、勘違いや思い込みなどに基づく知能の誤用や悪用に該当する。

 つまり、猫も人も、「心眼」自体は日常的に発揮している。


 ただし、猫の場合は、「心眼を開いている」とは言わない。
 猫が、現在地からは見えない目的地を目指して「あたかも目に見えているかのように行動している」ことを、人も知らなかったりする。
 自分が、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことをも、知らなかったりする。
「心眼」と言う言葉自体を、知らなかったりもする。
「心眼」と言う言葉に聞き覚えはあっても、その意味を知りたいとは思わなかったりもする。
 このような場合も、「心眼を開いている」とも言わない。

 
 
 

◆「心眼を開く」とは



 私見としては、次のようなことになる。
「心眼」自体は猫でも発揮しているが、「心眼を開く」ことは誰でもできるわけではない。
 一気に開けることでもない。結果的に「心眼は開いてゆく」。
 また、段階的に開いてゆく。よって、段階的な違いもある。
 こんなことであることも分かるようになりつつ、具体的なことを知るほどに徐々に開かれてゆき顕著になってゆくのが「心眼が開く」特徴でもある。
 そういう性質上、「心眼が開く」とか「心眼は開いてゆく」などと言った方が適切だ。


 人は、過ぎ去った過去のことでも話題にすることができ、目の前に居ない人のことでも話題にすることができる。
 つまり、日常的に、目に見えないことでも話題にする。

 いつの時代に、どんな理由で、誰が使い始めた言葉なのかなどいったことは、知らなくても、「心眼」という言葉を耳にしたりする。

 不思議な能力や優れた能力に、興味があると、具体的なことを知ろうともする。

 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」その能力のことだ、ということくらいは、聞いたことがあったり、記憶に残っていたりもする。

 日常的に、そんな記憶を参考にして、識別したり考えたり判断したりしている。
 そうしていること自体も、目には見えない。
 が、識別したり考えたり判断したりしている性質上、そのことをむしろ重視している。「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力も、まさにそうだ。
 よって、目には見えないことにも、気づく。


 猫も、現在地からは見えない遠い所までも行くし、そこから家に帰っても来る。そんなことにも気づく。
 つまり、目的地は見えないのに、あたかも見えているかのように行動していることになる。そんなことにも気づく。
 ということは、猫も「心眼」を発揮しているのではないか。などと思ったりもする。
 この「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことに気づく。このことが、「心眼を開く」最初の段階だと考えられる。
 つまり、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことに気づく。よって、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということを、識別したり自覚したり判断したりすることが容易になる。
 これが、「心眼を開く」最初の段階だと考えられる。



 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということを、識別したり自覚したり判断したりすることができるようになると、気づいた程度では不確かなので、類似したことが気になる。優れた能力でもあり、せっかく気づいたことが間違いないかを確かめたりもする。

 猫も、小急ぎに行ったり、近道をしたり、駆け足で行ったりもする。
 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」。
 やっぱり、猫も「心眼」を発揮している。

 そうだとしても、猫の、記憶も、記憶を参考にしていることも、内面的なことなので、他者は見知ることはできない。
 見知ることができないのに、そう思うのは、自分が記憶に残っていることを参考にして識別や思考や予想などをしていて、それを猫に投影するようにして考えるからだ。

 でも、自分が記憶に残っていることを参考にして識別や思考や予想などをしていることも、見知ることはできない。
 が、人(自分)は、会ったことが無い場合は、相応の記憶も無いからこそ、会ったことが無いと判断する。
 つまり、以前に会った時のことが記憶に有って、それを思い出すことができた場合は、以前に会ったことがあると判断することもできる。
 内面は、五感で捉えることはできない。なのに、「知らない」とか「記憶に無い」とか「知っている」とか「記憶に残っている」などとも言う。
 つまり、記憶内を検索しているようなものだ。

 そんな、自分が、内面に基づいて行動していることを参考にして、猫もそうなんだと考えているのだ。

 むしろ、自分も、日常的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」からだ。
 こうして、自分が心眼を発揮できていることを捉えることができるようになることによって、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということが記憶に残り、何時でも自覚できるようになる。
 ここから、本格的に「心眼が開いてゆく」。

 あくまでも、気づき、具体的なことを知るほどに、その本人の「心眼が開いてゆく」わけだから。

 つまり、気づいた程度では不確かなので、類似したことが気になったり、せっかく気づいたことが間違いないかを確かめたりもする。
 そうするほどに、裏付けになる具体的なことを知ることになり、その具体的な事実に裏付けられて、より具体的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということを、記憶に有ることを参考に何時でも自覚できるようになる。
 よって、更に「心眼が開いてゆく」ことになる。


 内面の気持ちや考えや記憶にあることなども、目で見ることはできない。
 でも、過ぎ去ってしまった過去のことでも、話題にする。
 目の前にはいない人のことでも、話題にする。
 会話中の文法や意味や理由なども、見ることはできない。
 つまり、対環境的な五感では捉えることができないことでも、思考上では記憶を整理して理解することもでき、相応の振る舞いもできる。なので、あたかも見えているかのように、話し合うこともできるし、認否や可否や是非などの判断まで行う。

 まさに、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」からこそできることだ。
 そんな具体的な事実を裏付けや参考にするほど、目には見えないことを識別したり自覚したり判断したりすることができるようになる。
 よって、「心眼が開く」とは、このことだろう。と自分で判断できるようになる。

 つまり、「心眼を開く」とは、私見では次のようなことだと言える。
 自分も、日常的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことを、裏付ける事実を基に具体的な理解し納得すること。


 長々と書いたが、猫でも発揮していて、自分も日常的に発揮していたことを、相応の事実を基に具体的に理解したに過ぎない。
 つまり、「心眼が開く」こと自体は、大したことではない。
 確かにそうなのだが、ここまで「心眼が開く」と、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができる」世界が広がる一方だ。こっちの方こそが重要で、「心眼が開いた」からこそ可能になることであり、「心眼が開いた」証とも言える。
 もちろん、精神面が一転する。
 つまり、いつのまに勘違いや思い込みが多くなったが、やっと本来の精神状態に戻ったのだ。とも言える。

「心眼が開いた」からこそ可能になった……、やっと本来の精神状態に戻ったことによって可能になったことに関しては、他の項や、他の記事に反映されているので省略するが……。

 目に見えることを捉えることよりも、その背景にあって行動や結果を左右している中枢でもある気持ちや考えなどの目に見えないことの方が重要だ。ということも、明確に捉えることができるようになる。

 対環境的な五感で捉えることができることに気を取られがちで、五感で捉えることができないが、思考上では理解できる因果関係や理由や法則などは理解しそびれていた。
 しかも、五感で捉えることができず、思考上で理解するしかないことの方が、生存上でも重要だ。などということも、捉えることが可能になる。

 対環境的な五感では捉えることよりも、思考上で理解することの方が高度な能力を発揮することでもある。などということも、捉えることが可能になる。

 でも、生後に習得したことを以ては、日常生活もままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化は止められるはずもなく、医者でさえ死を余儀なくされる。


 日常的に発揮していた「心眼」に関しても、気づくことさえできなかったんだから。
 でも、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができる」ことを、相応の裏付けを以て具体的に理解することができた。
 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができる」その性質上でも、そのことを具体的に理解できた性質上でも、それが段階的に顕著になった性質上でも、「心眼が開く」ことに優ることや優る能力などが存在するであろうことは否定できない。
 知らなかったことを憶えることができる性質上でも、自分の未知の領域には、「心眼が開く」ことに優ることも存在するに違いない。

 
 
 

◆「心眼を閉ざす」とは



「心眼を閉ざす」という言い方は、あまり耳にしないが……。

 まず、日常的に心眼を発揮するようになる。よって、閉ざされることも無い。

 でも、「心眼を開く」ことが難しくなることはある。

 そもそも、日常的に心眼を発揮するようになり、その後に気づくことになる。
 そういう性質上、気づく以前に、気づき難くなるようなことや理解し難くなるようなことをしてしまったりもするからだ。

 そもそも、内面的なことだけに、最も具体的に理解できるのは、自分の経験を基にした場合だ。
 そういう性質上、心を閉ざすほど、理解することが困難になる。

 日常的に心眼を発揮しているにもかかわらず、そうであることを未理解なうちに、相応の勘違いや思い込みなどが先行しても、もともと心眼を発揮していることを理解し難くなる。

「心眼が開いた」場合は、次のようなことも見抜けるようになる。
 目に見えることを以て、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げるのは、人が勘違いし思い込む性質を悪用して、私利私欲を貪ることに他ならない。
 ところが、これを見抜けないと、むしろ、そんなものに目を奪われ、勘違いし思い込み、心まで奪われてしまうと翻弄される。つまり、翻弄されていること自体に気づけなくなる。
 気づくことができたとしても、認め難い状態に至っていたりする。
 認め難いことは、具体的なことを理解できるはずもない。
 もちろん、もともと目には見えないことで、思考上で理解するしかないことや、むしろ重要なことを、見失っていることになる。

 

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kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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