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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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お盆・迎え火・送り火

 
 日の出や朝焼けの撮影は、億劫になった。
 が、里が朝霧に包まれると、山頂からは雲海が見れる。そんなときには、出向く。
 そのぶん、夕日や夕焼けは好さそうなだけでも出向いている。
 そんなこともあって、今一ばかりだが……。






 山で夕日&夕焼けの撮影をした後、当集落まで帰る頃にはかなり暗くなる。
 そして、集落を貫いている通りを半分以上は通るのだが……。
 お盆になり、迎え火が目を引いた。
 翌々夕も、その翌夕も通ったが、迎え火を焚いている家は限られていて、通りに面した家々の三分の一位だ。
 集落内には由緒ある古い寺がある。参道とも言える通りに面した家々は、古い家系ばかりだ。が、日中に見ても、迎え火を焚いた痕跡が無い家が多い。
 いつのまにか、こんなに少なくなっていたのだ。

 思えば、迎え火には子供たちの花火が付きものだった……。なのに、子供を見かけなかった。
 世帯数百五十以下の集落なのに、途中だけでも空き家が二軒ある。
 近年、家を解体して空き地になった屋敷だけでも三カ所になった。


 父が他界して、自分も迎え火を焚くようになったわけだが、自分も迎え火を焚くのは消極的だった。


 迎え火とは、お盆に戻ってくる先祖の霊が迷わないように、目印として七月または八月十三日の夕方に焚くのだと聞いていた。
 お盆中に一緒に過ごした先祖の霊を送り出すべく八月十六日の夕方に焚くのを送り火と言うようだが……。
 当地では、二十日まで毎夕焚き、二十日盆は集落ぐるみで賑わす。


 でも、父と、こんな話をしたことがあった。

 生きているうちでさえ自分でどうももできないからこそ、死ぬ。
 死ねば、腐敗が始まる。だから、二十四時間後には焼かれる。そして、葬られる。
 つまり、死ねば、なされるままで、なす術が無いことを如実に物語っている。
 仮に、死んでからも何かができるくらいなら、簡単には死なないはずだし、むしろ生きているうちに相応の証がでるはずだ。
 霊として帰ってこれるんだったら、生きている人が必要とする灯りや火などは要らないはずだし、お盆に限って帰る必要も無い。
 葬式なんだから、派手にやるほど馬鹿げている。むしろ、質素な方がいい。

 根拠や理由があるのに、自分が知らないだけなのなら別だ。
 が、根拠や理由が無いのなら、尤もらしく見せかけているに過ぎず、だからこそ派手にもなる。
 しかも、お金を出して業者にやらせる。
 となると、言い訳や偽装や欺瞞的なことでしかない。
 近年は、僧侶までが「お布施が足りない」と言ったという話を二件も耳にしている。
 宗教によって、やることが違う。他の宗教ではやることを、違う宗教ではやらないわけだが、だからといってどうにかなるわけでもない。むしろ、それをやったからといって、どうにかなるわけでもない。
 言い訳や偽装や欺瞞的なことなら、亡くなった人に失礼であり、無理や矛盾さえあり、むしろ慎みたい。

 夕日や夕焼けの写真を撮りに行っていた日は、こんなことも考え、自分も迎え火は十三日と翌日しか焚かなかった。


 そんなことより、先祖が例外なく他界したということは、生きている自分たちも、やがて逝かなければならないことは間違いないことを物語っている。
 しかも、家族やペットが死んでも落胆する。
 まして、自分が死ぬとなるとそれ以上の苦悩を余儀なくされることも間違いない。
 死ぬことよりも、そういう結果に通じると思うだけで、恐怖を感じ、パニックにもなり、免れようと必死にもなる。

 そもそも、人には、知能も備わっていて、経験でき学習でき上達もし、動作や会話などの日常的に常用される基本的なことは熟練する。
 よって、会話を介して、目には見えないことでも理解し合えるようにもなる。だからこそ、理解したことを基にした行動も可能になり、約束を守ったり、目的地に到達したり、目標を達成したりすることなどもできる。
 もちろん、詳しく知っていることや具体的に理解できていることほど、具体的な根拠や理由を基に認否や可否や是非などの判断もでき、相応の結果予想もできる。
 よって、悪しき結果になることは避けることができ、着実に好結果にすることもできる。

 そうであるがゆえに、知らなければ、困り、迷いもする。
 知らないことの内容しだいでは、当惑もし、パニックにもなる。
 傷病時も例外ではなく、死に関しても例外ではない。

 むしろ、死に関することこそが、理解の必要性や理解内容の重要性を象徴していると言っても過言ではない。


 死にたくないから、生きることに固執しているだけだったりする。自分が逝く際の心の準備を疎かにし、根拠も理由も無い想像や的外れな勘違いや思い込みに囚われて生きても、逝く際に少なくとも迷う。
 死ねば腐敗が始まったりすることもあって、死を忌み嫌ったりさえする。それも、自分の最期の心の準備からは遠退くことになる。忌み嫌っているのなら、お迎えも来ないだろう。
 それでも、例外は無く、いつかは逝くことを余儀なくされる。
 迷っているような生き方をしていたのなら、最期に苦悩を余儀なくされることは間違いない。
 勘違いや思い込みでさえ、そうであることに気づけないと、パニックにもなり、苦悩もする。その苦悩に耐え切れず、強引に自分を殺してしまうことさえある。
 つまり、理解や準備を疎かにして、言い訳や偽装や欺瞞で片づけるとなると、非道でしかない。
 私利私欲や競い争い優越感や地位や名誉などに囚われていても、やがて死を余儀なくされる。いよいよ逝く際に、後悔するようなことにばかり囚われて生きていたことに気づいても、心の準備は間に合わないので、相応の苦悩を余儀なくされる。
 考えの内容しだいや行動しだいでは、人権や人格を理解し合うことすら無いまま、獣同様に鉄格子のある部屋に拘束されることもあり、死刑もある。
 そんなことも、生存中に、垣間見ることもでき、少なからず経験もするので、理解も可能だ。

 しかも、知能も備わっていて、数十年も生きて、自分もやがて他界入りすることは間違いない。それは、自分では変えることができないことなんだから。
 その際の心の準備を、それまでに行ったか否か、それに最期の心理が左右されることは間違いない。
 むしろ、相応の生き方をしたか否かを問われるようなものだ。


 自分は、まだ相応のものを探し求めるしかない状態であることが明らかになった程度だが……。
 生きているうちに理解でき納得でき、死に対する苦悩や不安が不要になる。そんな内容であるべきなのだろうとも考えられる。
 そんな内容なら、遺族も理解でき納得でき哀しみも不要になり、相応の生き方も可能になるわけだから。
 人ほどの理解力は無いペットにも、人の側で相応の最期を確保してあげられることになる。

 そもそも、こういうことは、五感では捉えることができないことであり、思考上で理解することなので、お金では買えない。
 むしろ、五感では捉えることができないが、既に存在する法則的なことなので、思考上で理解するだけだ。なので、誰でも可能だ。

 そうではない、むしろ偽装や欺瞞だから、お金で片づけもし、それゆえに派手にもなるわけだから。
 そんな偽装や欺瞞に惑わされがちだからこそ、五感では捉えることができないことを理解することに集中できない。
 そんな偽装や欺瞞は、慎めるほど、こういうことが見えてくる。






 
カテゴリ : 未分類

十分には考えてみなかった……

 
 自分の人生上でメインとして捉え臨んできたことを、忘れかけていたほど、今春から行動的なことをしがちだった。
 その理由が気になった。
 そんなに大事なことが他にもあるのか……。


 幾度か考えてはみたが、決定的な理由は思い当たらなかった。

 が、見ようとしないことは、見えない。
 聞こうとしないことは、聞き取れない。
 確かめないことは、具体的なことは知らない。
 考えないことは、理解できない。
 習得しようとしないことは、習得できない。

 日常でも、知ろうとし、確かめ、事実関係や因果関係などを整理して考え、事実と一致するか否かや理に適っているか否かなども判断し、情報不足だったり無理や矛盾がある場合は納得できないし、情報が十分で理に適っている場合は理解でき納得することもでき、相応に具体的な可否や是非の判断も可能になる。
 よって、相応の行動もでき、相応の結果になる。

 単に見えている
 見えているのが文字であることを意識できている
 何と書いてあるのかを読もうとしている
 その書いてあることが定かか否かを確認している
 書いてあることに疑問を感じている
 書いてあることを具体的に理解できた
 理解できていることに基づいた相応の行動をしている
 相応の結果が出ている
 これらには相応の相違がある。

 単に聞こえている
 聞こえているのが人の言葉であることを意識できている
 その人が何と言っているのかを聞き取ろうとしている(その人が言っていることを解析している)
 その言っていることが事実か否かや理に適っているかなどを確認している
 その言っていることに疑問を感じている
 言っていることを具体的に理解できている
 理解できていることに基づいた相応の行動をしている
 相応の結果が出ている
 つまり、そうしようとした場合は、相応に進展するし、相応の結果にもなる。

 もちろん、そうしようとしない場合は、そういう進展は無い。

 つまり、思い当たるまで考えなかった。だから、思い当たらなかっただけだ。そうだったとも捉えることができる。
 そのくらい、行動的なことを優先していたからからでもあった。
 要は、その理由だ……。


 環境上の事実に限らず、自分の内面的なことである記憶に残っていることや想起や想像や気持ちや考えなどにも、感情や心理は左右される。
 よって、行動が左右され、相応の結果になる……。

 今年も、朝焼けや日の出や日の入りや夕焼けなどの撮影をする季節にもなり、情報収集もし、夏至の頃には好天になることに期待した。
 気象現象は、自分の思い通りになることではない。
 望ましい気象状態になるか否かは、知識が無かった頃ほど想像するしかなかった。今でも気象情報には疎く、想像を頼るしかない場合が多いだけに、的外れが多い。

 実際の結果は、その時になるまで分からない。
 今年も、可能性に期待して出向いても、五割以上は残念な結果だ。そのくらい、自分の知識や考えが、未熟で間違いが多い。
 でも、自然現象なので、それなりに素晴らしかったりする。
 もちろん、望んでいるような気象現象になることは稀だ。
 今年も、よほどでない限り撮影ポイントへ出向いた。
 相応に気を取られていたことは確かだ。

 最近は、望む気象現象になるか否かの、気象現象に関する知識や考えや判断の確率が向上していることを実感している。
 とは言っても、今日は期待できないという判断と、今日は期待できるという両極端の判断の的中率が高くなった。
 ガソリンの無駄遣いが減少した。そこそこのものばかりだが、画像がハードディスク内に溜まった。


 というより、撮影中は、意外なほど冷静になれる。

 撮影現場は、いわば大自然の中であり、しかも自分独りだけの状態になるからでもあるが……。
 朝夕は、現場で一通り設定すると、画像の使用目的上、インターバルタイマーで(設定時間間隔で自動で)撮影し続ける。
 手が空いた自分は、大自然と向き合う。

 自分の知識や考えなどには、大自然は一切左右されることが無い。
 勘違いや思い込みは、大自然には通用しない。
 大自然の方が言葉で指摘してくれることも無いし説明してくれることも無い。
 自分が臨んでいる大自然に関することは、自分の方が必要に応じたことを理解するしかない。
 ただ、大自然は歴然としている。隠し偽ることも無い。隠蔽することも無いし、偽造や捏造することも無い。
 そんな大自然に臨むからなのか、意外なほど冷静になれる。
 ただ、大自然は、容易には理解できない。
 自分の方に勘違いや思い込みがあるからだったりする。
 その解明もしようと思うと、更に冷静にならざるをえない。


 もちろん、大自然は、「お前は、勘違いしている、間違っている」などと言葉にして言うことも無い。
 大自然は、「おお、よく来てくれた」などと御世辞も言わないし煽てることも無い。
 つまり、この自分に、勘違いさせるようなことはしないし、思い込ませるようなこともしないし、そういうことを助長することも無い。
 それも魅力だ。そう思うのは、自分は褒め殺されがちだからなのだろう。

 そもそも、知能も備わっている。経験でき、学習でき、上達もし、動作や会話などの基本的なことは熟練する。
 が、容易には確かめられないこともあり、知り得ることは限られ、もちろん偏りもする。しかも、錯覚もあり勘違いや思い込みもあり固定概念さえ形成される。
 だからこそ人は、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、競い争って優れたことであるかのように祭り上げる。もちろん、私利私欲を貪るためだ。
 地位だの名誉だのを欲すると、そのためには媚び諂いもする。
 宗教なのに、そういうことをしているとしか思えなかったりする。
 そういう性質上、揉め事になる。

 そういうことは、大自然には必要ないわけだし望んでいないし通用しないわけだから。


 むしろ、人も、大自然の一部だ。
 進化など、人が誕生後に知る以前から存在していることは、むしろ個人的な生存上は絶対的なことだ。
 生存上絶対的なことは、誕生や死が物語っていて歴然としている。
 自身の内臓は見たことすら無く、自身の生命生理に関しては未理解なのに、自身の生命生理は自律して機能しているわけだから、一般的には理解できないほど絶妙な秩序に基づいて自律していることになる。
 自律して機能していることや法則などは、普遍的な存在であり、誰にとっても共通であり、それらが優れていることや尊いことは誰でも直に経験していることになり歴然としている。

 残念ながら、知り得ることは限られ偏りもし、勘違いや思い込みや固定概念さえ形成されるし、精神面には弱点もあり欠陥さえあるだけに、そうであることをすら未理解だったりする。
 かつての自分は、知能が平常どおりに機能しているのに、そうであることをすら自覚できなかった。
 経験上、知能の構成器官に異常があれば直ちに気づくようになる。が、そうであることをすら自分は未理解だった。
「想像」や「勘違い」や「思い込み」は、自分の識別や思考の一環なのに、どのことを指すのかすら知らなかった。想像や勘違いや思い込みなどの特徴も欠陥も、未理解だった。もちろん、自分が想像しているに過ぎないことも自覚できず、自分が勘違いしていることも思い込んでいることも自覚できなかった。
 それでも、生きていられたのは、生命生理は自律して機能していたからに他ならなかった。
 よって、生命生理が自律して機能していることに気づいた。
 知能の構成器官も意識や思考力や判断力も平常どおりに機能していることにも気づいた。

 生後に知り得ることに対しては絶対的な存在であり、誰もが直に経験し続けることでもあり、もともと存在することを捉えるだけなのだが、因果関係や理由や法則などは物体として存在するわけではないので、もともと五感では捉えることができない。
 が、思考上で記憶を参考にして整理することは可能であり、よって理解することもできる。
 そんなことをより具体的に理解しようと思えば、冷静になることは必須だ。
 冷静になるには、独りがいい。
 しかも、普遍的な大自然に臨むのがいい。






 山を信仰する人たちもいる。
 その理由も分かるような気がしてきた。


 反面、人は、原爆を作り、制御できない原子力を使おうとし、膨大なごみを捨て、大気汚染が進んでも排気ガスを出し続け、子供を生むに値しない環境と化しつつある。
 さまざまな種族を絶滅をさせた人類は、自ら少子化を選択しはじめている。
 しかも、人口自体が減少傾向にある。田舎でも、空き家が増える一方だ。
 つまり、人は、住むに値しない環境になりつつあると判断しはじめているのだろう。

 自分にも勘違いや思い込みや邪心まである。
 だから、大自然に臨むと畏怖を感じるのだろう。







 絶対的な存在で普遍的で優れていて尊いものを理解しようと思うと、己の邪念は捨てなければならない。

 人が、尤もらしく見せかけたことや、本当らしく工作したことや、地位だの名誉だのと優れたことであるかのように祭り上げ、そういうことを以て私利私欲を貪ることに、背を向けてこそ、絶対的に優れたことや普遍的に尊いことを捉えることが可能になる。

 かつては、自分が気づく以前から、いろんなことが歴然としていることをさえ、自分は未理解だった。
 未理解だったどころか、人工的に尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げたに過ぎないことを、優れたことだと勘違いし思い込んでいた。
 自分が勘違いし思い込んでいることをすら把握できなかった。
 だからこそ、その勘違いや思い込みゆえの無理や矛盾に苦悩し困窮した。
 でも、そだったからこそ、その無理や矛盾や勘違いや思い込みを解明でき、更に事実関係を具体的に理解できた。
 よって、もともと歴然としている絶対的なことや普遍的なことに関して理解を深め、それを自分の人生上のメインにするようになった。


 朝焼けや日の出や日の入りや夕焼けなども、少なくとも人工的なものではない。
 その撮影も、自分にとっては普遍的なことに臨んでいるようなものなのだ。
 撮影中、大自然に臨みながら、内心ではメインに関する新たな気づきや展開を期待する。


 自分は、わざわざお迎えが来るには値しない。

 むしろ、生命生理は自律して機能していて、知能も備わっている。
 そうであるがゆえに、知らなければ迷いもするし困りさえする。
 知能も備わっていて、知らなかったことを憶えることもでき、憶えたことを参考に相応の識別や思考や予想も可能になり、それを基に相応の振る舞いが可能になるからこそ、より具体的で詳しいことも理解でき、相応の達成や到達などの成果もになる。
 その、知能の構成要素や各性質や特徴、それゆえの学習の法則、熟練するまでの基本までは、ほぼ理解できた。

 しかも、生きていることがどういうことは誰でも直に経験し続け、相応の情報も記憶に溜まってゆく。

 つまり、他界に通じるルートなり他界への扉に類することも、自分で見出さないと最期に自分が困る。
 家族が死んでも、ペットが死んでも、つまり自分の死以外ででさえ落胆し悲嘆するわけだから。
 なのに、その解決策を見出そうとはせず、根拠や理由も無い偽装的な葬儀を行い、それゆえに見た目だけを尤もらしく見せかけ、そんなことを競ったりさえする。

 というわけで、いわば、他界への扉とも言えるような具体的なものは発見できなくても、他界に通じるルートとも言えるようなことに思いを馳せ、相応の気づきや発見に期待したりする。


 以前は、経験上、魂が身体から離れる幽体離脱的なことに関心があった。
 が、根拠や理由が乏しく、錯覚や勘違いの類である確率が高い。
 近年は、むしろ逆だ。
 現に、生命生理が高度な秩序に基づいて自律して機能している。
 知能もすでに備わっていて、学習でき、上達でき、会話を介して記憶にあることを整理して理解できるほど熟練し、その基本的な面は誰でも共通だ。
 ただし、かつての自分は、そうであることを未理解だった。つまり、基本的には共通だが、共通であることをすら理解するとは限らない。学習や上達や熟練の性質上でも、学習内容や上達する内容や熟練する内容は、個人的にも変化するものであり、個人毎には異なる。
 自分の場合は、肝心な自分の精神面に関して未理解だったがゆえに、苦悩を余儀なくされ困窮した。
 が、考えるだけで解明でき解決できることだった。
 しかも、より確かなことをより具体的に理解するほど、より的確な判断や対応や結果予想などが可能になるだけに、精神は安定する。
 もちろん、経験上、すでに備わっている知能に関することや、その機能や能力とも言える自分の精神面に関することを理解しただけ精神面は安定した。
 つまり、理解した内容が、少なくとも既に存在している物事で人工的には創れないどころか理解すら容易ではない絶対的な存在に関することや普遍的なことだと、精神は安定する。
 よって、知能内に理解を深めた内容や完成度しだいでは、相応の機能は始めることもあるのではないか……などと思う。


 実際には撮影をしているのだが、大自然を目に前にして冷静になれた内心ではそんなことに思いを馳せているわけだから、むしろ、その精神環境作りのために撮影をしているようなものかもしれない。
 そんな内面的なことに気を取られて、むしろ撮影が疎かになったこともあったわけだから。

 ただ、気づきや進展だけに、早々にあるわけではない。
 だからこそ、そんな撮影に出向く。


 行動的なことを行うと、こうして座って文章化しながら整理することからは当然に離れてしまう。
 が、自分が目指してきたことに適ったことをしていたわけであり、外れたことをしていたわけじゃない。
 そもそも、行動的なことの情報量に比べると、その記憶を整理して言葉で書き表せることは限られる。こうして文章化しても、上辺を繕っているようなことにしかならない……。


 

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プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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