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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

人生を甘く観ていた

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございました。
 雪が無くなり次第、相互応援アクセスは断念します。
 なお、当地は、三月下旬になって連続して雪が降り、雪解けはブレーキがかかけられた状態で、平年は四月一日に積雪ゼロになる窓外の畑に、三月三十一日現在まだ雪が有ります。

 雪が無くなり次第、パソコンに向かうことに因る眼精疲労の悪化防止も兼ねて野良仕事優先になります。
 好天時には朝焼けや日の出や夕日や夕焼けの撮影にも出向くので、忙しくなります。
 実は、野良仕事も、山中での写真撮影も、一時的かつ精神的にとはいえ、経済社会から離れることができます。つまり、巧みに目を奪い心まで奪って私利私欲を貪ろうとする経済社会から、一旦、離れることができます。
 よって、五感では捉えることができないが、思考上で整理すると捉えることができることを、優先することができる。つまり、生存上、理解が容易ではないほど優れていて尊いことの把握を優先することができ、相応の自分の精神面を保護することもできる。
 もちろん、夏場は、これらが優先になります。

 
 
 
 人生を、甘く観ていた……

 人生は、五感では捉えることができないことだからでもある。
 経験相応の記憶を、思考上で整理しないと、人生は明らかにならないことだからでもある。

 もちろん、それ以外のことに目を奪われたり心まで奪われたりすると、思考上で記憶を整理することによって明らかになることを未理解なまま見失い、肝心な自分のことを見失ってしまうからでもある。
 肝心な自分のことを見失うからこそ、それ以外のことを大事なことだと勘違いする。
 それが勘違いであることに気づかないと、やがて思い込んでしまう。つまり、肝心なことを見失い、そうであることに気づけなくなる。
 
 
 通常、誰でも、日常会話で思考力や理解力を発揮するようになる。
 その重要性は、五感では捉え難いが、思考上では記憶を参考にして整理できるから、いかに重要であるかを具体的に理解できる。
 理解できたことは、識別や自覚も容易になるので、思考や判断の際に活用することも可能になる。

 もちろん、それ以外のことに目を奪われたり心を奪われたりするほど、その内面的なことの重要性を理解し難くなり、理解しそびれると、その重要性を識別や自覚すらし難くなる。
 内面的なことの重要性を理解しそびれるだけに、内面的なことである勘違いや思い込みが生じる法則的なことに関しても理解しそびれ、勘違いや思い込みに関しても気づき難くなる。
 内面的な行動上の中枢とも言える重要なことを理解しそびれると、精神の安定を保てなくなり、外見を重視しがちになり、外見が重要だと勘違いし、外見が重要なのだと思い込み、よって外見的なことで満足したり優越感を感じたり有頂天になったりもする。
 となると、知られれば不利だと思うことや不都合だと思うことは、見知られまいとし、隠し偽りもする。それは、重要なことを理解し難くすることだけに、自ら悪循環に陥ってゆく。
 気づいても、自分でも認め難かったりさえするわけだから。つまり、後悔したり自責を感じたりしている方こそ理性的なのに、自分の理性を重視できないどころか、認め難いわけだから。
 
 
 そもそも、自身が形成された経緯は、知らない。
 自身の内臓も、いまだに見たことが無い。
 呼吸器系だ、消化器系だ、循環器系だ、等々と言われる自身の生命生理に関しても、ほとんど未理解だ。

 もちろん、具体的な健康管理はできるはずもない。
 むしろ、健康を阻害するようなことをしているのに、気づけなかったりさえする。

 それでも生きていられるのは、生命生理は絶妙な秩序に基づいて自律して機能しているからにほかならない。

 この身体は、決して私物とは言えない。
 
 
 知能も備わっていたものだ。
 だから、経験でき学習でき上達もした。
 言葉も憶え、五感では捉えることができない文法的も憶えたから説明も上達した。
 会話を介して、五感では捉えることができない因果関係や理由などを思考上で理解したり納得したりするようにもなったし、理解したことに基づいた行動もするようになり、相応の結果にすることもできるようになった。
 五感では捉えることができない約束を、相応の時間経過後に果たせるようになった。現在は計画や目的に過ぎないことを、相応の努力などをして、相応の時間経過後に達成できるようにもなった。教えてもらい記憶に残っている道順を基に、目的地に到達することもできる。理解し記憶にあるルールに基づいて、ゲームやスポーツを楽しむこともできる。等々、ほとんど記憶に残っていることを参考に、相応の識別や自覚や思考や予想などができ、相応の行動ができるようになっただけに、それらを条件反射的な速さでできるようになった。
 これらの基本的なことや法則的なことは、当然に繰り返し経験していたことになり、相応の情報も記憶に残ったから相応のことができるようになったことになる。
 もちろん、基本的には、誰もができるようになる。

 なのに、かつては、学習し上達し日常的に発揮するようになったことをすら、未理解だった。
 繰り返し経験していたはずの、その基本的なことや法則的なことをすら、かつては未理解だった。

 いわば、精神面の優れた面を、日常的に発揮するようになった。
 が、そうであることを理解するには至らなかった。
 未理解なことは、識別や自覚はできない。
 だから、精神面の優れた面を活用することはできなかった。

 この知能も、決して私物とは言えない。
 
 
 いわば、精神面の弱点に関しても、かつては未理解だった。

 知能自体や意識や思考などが平常どおりに機能していることをすら自覚できず、むしろ異常ではないかと勘違いし思い込んでいるに過ぎないことにも気づけず、それゆえに苦悩し、三十歳が目前だっただけに困窮した。

 つまり、精神面に関することは、経験や行動上の中枢とはいえ、五感では捉えることができない内面だったこともあって、それ以外の環境上のことに目を奪われがちで心まで奪われがちだった。
 よって、肝心な精神面に関することは、ほとんど未理解だった。そうなんだということを、かつては把握できなかった。

 知らなかったことを憶えたり未理解だったことを理解したりする性質上、どんなに大事なことを未学習だとしても決して不思議なことではなく、どんなに重要なことを未理解だとしても不思議ではない。それゆえの渦中にあったにもかかわらず、そうであることを自覚できなかったわけだから、このことに関しても当時は未理解だった。

 行動や結果を左右している中枢である識別や思考や理解や判断などに関することを未理解だっただけに、想像や勘違いや思い込みや固定概念などに関することも未理解だった。それゆえに痛い思いをしたり損をしたり後悔したりしたにもかかわらず、その要因であることに関することもほとんど未理解だったことになる。

 そんな、経験済みだったり日常的に発揮するようになっていたことなのに、そうであることをすら知らなかったことに、気づき、確かめては知り、更に整理して具体的に理解し、再整理を繰り返すようになった。

 そんな経験上、すでに記憶に溜まっていることを、思考上で整理するだけで、その因果関係や理由や法則などを理解できることにも気づき知り、相応の準備がとっくに整っていたことをも理解でき、おのずから精神面の理解や充実や安定が最優先の生き方になった。

 いずれも、三十歳以降だった。
 よって、それまでは知能を十分に発揮していなかったことも分かり、特に知能の高度な面を発揮できていなかったことも分かり、誤った学習上で知能を誤用するようになったからだったことも分かり、生存上では知能を誤用さえしていたことも分かった。

 やはり、この知能も、決して私物とは言えない。
 
 
 唯一、直に経験し続けている自分自身のことなのに、「生きていることはどういうことか」に関しても、いまだに未整理で未理解だ。

 本人だけが直に知り得る内面的なことなども記憶に残るだけに、自分自身に関する情報が最も具体的に記憶に溜まり最も多く記憶に溜まっているはずなのに、「自分はどういう生き物なのか」に関しても、いまだに未整理で未理解だ。

 つまり、生存上のことに関して判断上では、根拠になることや基準になることを、いまだに未整理で未理解なのだ。

 最期の審判は自ら下すことになっていることは、分かっている。
 最期に臨む際は、心の準備が整っているか否かが重要であることは、かつて思い知らされた。
 それゆえに、生きざるをえなくなったのだから。

 この人生も、決して私物とは言えない。
 
 
 経験上で歴然としていたことだと言っても過言ではないのに、気づけなかったなんて……

「俺が云々」とか「自分が云々」とか「自身が……」などと言うようになっただけに、勝手に私物であるかのように勘違いし、根拠も理由も無いのに疑問を抱かず、よって確認もせず、納得できたわけでもないのに私物であるかのように思い込んでしまったのだろう……

 とても私物とは言えないことは、ほぼ間違いない。
 自分で知る以前から生存しているわけだから。
 自分は未理解でも、生命生理は自律して機能しているわけだから。
 容易には理解できないほど、生命生理は優れていて尊く、人工的には創れないどころか一般的には維持管理もままならないわけだから。
 なのに、まだ半信半疑状態だ。私物であるかのようなイメージが固定概念化してしまっているからなのか……
 それとも、生きていること自体がいかに優れていて尊いかに関して、情報が不十分だということなのだろうか……
 
 
 二十七歳で勘違いや思い込みに気づき、唯一、直に経験し続けているはずの自分のことをいかに知らないかを思い知らされて苦悩し、三年も解決できなかっただけに困窮した。
 その渦中で、その要因だった、想像や勘違いや思い込みや固定概念などを解明し、よって思考の無理や矛盾を解明して解決した。
 自分の経験を基に、いわば精神面の弱点を具体的に理解しはじめただけに、生後に知り得たことの不完全さも、分かっていたつもりだったのに……
 この身体は、決して私物とは言えない。とは、思いもしなかった。

 精神面の弱点を具体的に理解しはじめただけに、当時は、思考の健全性を重視しはじめた。
 やがて、記憶に残っている自分の経験を、変化や因果関係を基に整理したことに因り、知らなかったことを憶え詳しくもなりコツを掴んで上達したり会話では記憶だけを参考に理解できるほど熟練することが解ったことで、知能を構成している各感覚器官や記憶力や意識や感情などの特徴や学習の基本や法則的なことなどを理解できた。
 自分の経験を基に、いわば精神面の長所であり、着実に進歩し上達する能力でもある、学習力や取捨選択などの自浄能力を兼ねている思考力や理解力に関することを理解できた。
 が、知的面の不完全さを明確に捉えることができるレベルにすら達していなかったことになる。
 理解が不十分過ぎたからこそ、この知能も決して私物とは言えない、とも思わなかった。

 当時、おのずから精神面の把握や充実や安定が最優先になった。
 よって、それ以外のことを尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げて、目を奪い心まで奪おうとする行為は、人の精神面の弱点である錯覚や勘違いや思い込みなどを悪用して、もちろん私利私欲を貪っているとしか思えなくなり、おのずから敬遠するようになった。
 しかも、誰もが唯一直に経験し続けている自分自身のことを理解することであり、すでに十分に経験済みで十分に記憶に溜まっている情報を整理するだけで理解できることを未理解だったことも分かり、おのずから衣食住は二の次になっていった。
 が、理解したことは不十分だった、ということなのだ。
 この人生も決して私物とは言えない、と思うには至らなかったわけだから。
 
 
 知らなかったことを憶えたり理解したりするがゆえに、直に経験し続けている自分のことでさえ具体的に理解するとは限らないし、よって誰にも共通することを理解するとも限らず、誰もが同じことを憶えたり理解したりするわけではない。
 むしろ、知らなかったことを憶えたり理解したりするがゆえに、どんなに大事なことを未学習でも不思議なことでもなく、どんなに重要なことを未理解でも不思議なことではない。
 この、知らなかったことを憶えたり理解したりするがゆえの、弱点や不完全さの把握も、不十分なのかもしれない……
 溺れる者が藁を掴んだ程度なのだとも知らず、むしろ分かっているつもりになっていたに過ぎなかったのか……
 いまだに大海で溺れているような状態でしかなかったのか……
 
 
 精神面の把握や充実や安定を最優先して、再整理を数え切れないほど繰り返し、その都度に修正し新たな解明をし理解を深めたてきたわけだが、今回の気づきもその類だったということだ。

 こんな程度だったとなると、今年の夏は忙しくなるぞ。
 
 
 いずれにしても、目を奪われ心まで奪われることは、自分の場合は厳禁だ。

 自分が重視すべきことは、五感では捉えることができないが……
 生存上、優れていて尊いことは、歴然としているどころか、誰もが直に経験し続けている。
 精神面の優れた面も、誰でも発揮するようになる。

 ところが、それ以外のことを、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げることで、私利私欲を貪る。
 つまり、自分に都合が良いイメージを以って、他者の目を奪い勘違いさせ思い込ませて心まで奪って自分に都合が良い行動をさせることで、私利私欲を貪る。
 まさに、精神面の弱点を悪用し、他者を翻弄して、私利私欲を貪る。
 それが、経済社会を成り立たせている、とさえ考えられる。
 生存上、理解が容易ではないほど優れていて尊い面から目を逸らさせ、精神面の優れた面を狂わせている。

 そんなものに、目を奪われたり心まで奪われることは、自分の場合は厳禁だ。
 

 
趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの背景画を……





 

カテゴリ : ◆思考のウォーミングアップ

この脆弱な精神面の最終課題

 

 たくさんの応援アクセス、ありがとうございます。
 雪が有る間は、相互応援アクセス歓迎いたします。

 なお、当地、例年よりもかなり早く雪解けが進み、大地がかなり表れています。

 管理人「kisuke(喜助)」の人生上では、雪で行動が制限される冬場こそが精神面の整理に好都合だったのですが、加齢などもあって、冬場だけでは間に合わなくなってきました。

 
 
 今冬は、環境上のことに、気を取られた。
 よって、五感では捉えることができないが、内面的なことであり、記憶や思考関係に、集中できなかった。つまり、思考上で整理することによって明らかになる精神面に、集中できなかった。
 それどころか、精神制御も精神管理もできていなかった。
 結局、精神面の未熟さ脆弱さが、一層、明らかになった。

 が、そもそも、かつての自分は、自分のことを勘違いし思い込んでいることに、気づくことすらできなかった。
 そうだったことに、やっと気づいた。よって、肝心な自分のことをほとんど知らなかったことが明らかになった。動揺し、当惑し、孤独の世界を彷徨った。つまり、どういうことを知らないのかは捉えようが無かっただけに、自分のことを知らないことがどういうことなのかを思い知らされた。
 その経験上、自分の知識や考えには関係なく、生命生理は自律して機能していることに気づいた。
 次いで、各感覚器官や意識や記憶や識別や思考や判断など自体も平常どおりに機能していることに気づいた。
 よって、実行できないことも考えることができ、嘘も考えることができる、いわば思考には、無理や矛盾もありえることに気づいた。
 結局、解明し解決すべき的も絞られた。
 自分が意識し識別し思考していることの無理や矛盾だけに、本人だけは直に知り得ることであることにも気づき、ついに解明し解決しはじめた。その際に、記憶の頼りなさにも気づき、忘れないためにメモもし始めた。
 また、思考の健全性を重視しはじめた。思考も学習してできるようになったことだと考え、知るべきことは学習の基本や法則であることを知り、理解すべきことを整理しつつ文章化するようになった。そうしたことによって、文章化することでも整理が進み理解が深まることに気づき、積極的に文章化するようになった。
 更に、ブログに書き出した。知られれば不利だと思うことや不都合だと思うことを隠し偽ることは、解明や解決や改善をむしろ困難にすることに他ならず、それこそが精神面の無理や矛盾であることも解明済みだっただけに、あえて人目に晒すことで真摯になれることを活用した。これで、更に整理や浄化が進んだ。

 とはいえ、いまだにその途上にあって、未熟なのだ。
 自分の人生の最終課題だと考えられることも捉えるようになったが、まだ具体性は乏しいわけだから。
 イメージ的には、他界へのルートなり他界への扉なり、相応のことを見出すことだ。いわば、他界に臨む際の心の準備を整えることだ。
 
 
 自分は、かつて、死ねなかったことに因って、死ぬ辛さを知り、生きざるをえなくなり、自分の死を受け入れる心の準備ができていなかったから辛かったんだということをも知り、相応の生き方をしていなかったからだったことなども知ることになったが……
 
 
 そんな、自分の考えの無理や矛盾を解明し解決し始めた頃。

 盆栽などの園芸を始めた。
 植物も生き物であり、その生理には特徴や性質や条件などがあり、その状態の見方や、対応対処などの維持管理方法など、それらを自分が習得しないと順調には維持管理できないことだからでもあった。

 たまたま見かけた野良猫とも仲良くするようになった。
 野生動物もそうだが、野良猫も大自然の中で自立しているからでもあった。
 逆に、指図されたことをして、自由や能力を切り売りしてしか生きられなかった自分は、野良とはいえ自分の考えや判断を基に生きてゆけることに敬意さえ感じたからだった。
 猫は、言葉を話さないだけに、嘘も吐かないし、指図もしないし、命令もしない。また、屈服はするものの、服従はしない。
 なのに、人とでも仲良くなるし、兄弟や親子は仲良くし、子供をまさに命懸けで守る。
 医者を頼らない猫の、生命力の逞しさも、幾度も見せてもらった。

 自分自身の生命生理もそうなのだが、猫の生命生理も、植物の生命生理も、自分が生後に知り得たこととは比較にならないほど高度で絶妙な秩序に基づいて成り立っているんだということを、痛感することが多くなっていった。
 
 
 記憶や思考の無理や矛盾などを解明し解決しはじめただけに、五感では捉えることができない内面的なことや、思考上で整理することしか捉えることができないことを、重視するようにもなった。
 自分の記憶に溜まっていることを、思考上で整理するだけで、人生を左右するほど重要なことを解明でき解決できる。つまり、考えるだけで解明や解決でき条件がすでに整っている。が、知られたくないことや考えたくないこともあって、つい考えなかったばっかりに気づかなかったり知らなかったんだということになる。
 もちろん、目を奪い心まで奪うようなことは、敬遠せざるをえなくなった。
 そんな自分の生存上では重要ではないことを、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げ、つまり他人に勘違いさせたり思い込ませたりして私利私欲を貪ろうとしているとしか思えないことも、もちろん敬遠するようになった。
 
 
 盆栽の管理中、傍を通った人は、自分は初めて見る人だった。が、立ち止まり、「最近、心臓の手術をして、命拾いをした。が、命拾いをしたことよりも、人生観が一変したことに驚いている」と唐突に話してくれた。

 その数年前、自分は、死ねなかった、強引に自分を殺すことはできなかった。
 この経験上、実行できないことでも考えることは可能なんだと気づき、考えには無理や矛盾もあるんだということに気づいた。
 よって、考えの無理や矛盾を解明し、望んだわけでもない意識改革や人生の軌道修正が実現していた。
 このことを話し出したが、その人は自分の経験談ばかり話し、自分は自慢げに話すことでもないので話すのを止めたが……
 
 
 猫が死んでも、哀しく寂しく、生後に知り得たことを以ては死に対しても為す術が無いことを思い知らされ、実は日常の健康管理も思うままにならないことにも気づかされていた。
 家族やペットが死に、自分が死ぬわけではないのに、落胆する人もいるし、憔悴してゆく人もいるし、後を追うように他界する人もいる。

 日常でも、危険や恐怖を感じるのは、痛い思いをする可能性があるからでもあるが、対処対応できずに死ぬかもしれないからこそだ。
 死にたくないからこそ、必死に生きているようなものでもある。
 野生動物たちも、生きていることを必死で守ろうとするし、子供に餌を捕って来て与えるだけではなく、切り刻んで与えたり、半ば消化したものを吐き出して与えたりするし、子供をも必死で守ろうとする。

 でも、祖先や先祖が物語っているように、誰にも殺されなくても、老化や病気などで誰もが死ぬ。
 自分が死ぬ。となると、その辛さや精神状態は、日常的な恐怖体験や想像を超えることであることは間違いない。
 その際の心の準備ができているか否か、それに左右される面が大きいことも間違いない。

 そもそも、生後に知り得ることには限界があることや、生後に知り得ることを以ては為す術が無いことがあることをすら、知らなかったり納得できていなかったりするわけだから。
 むしろ、勘違いしていることや思い込んでいることにも、気づけず知らず自覚できない場合だってありえる。
 つまり、誰も変えようが無い事実や法則と、それとは異なる勘違いや思い込みなどとは、相違が甚だしかったりする。
 これらの相違が甚だしいほど、誰も変えようが無い事実や法則に直面した際に、対処できるはずもないから、動揺したり当惑したりするのだと考えられるわけだから。
 
 
 けれども、猫や犬の死であっても、その死んで逝く精神状態までも思い考える人もいる。
 その結果、こういう死に方はしたくないと思ったとしても、そのためにはどうすればいいのか改善策も考える。
 追悼だとか祈りなどと言う以前に、身近な死を機に死に関する考察をした人は、少なくとも自分の気が楽になる可能性がある。

 自分は、意識改革や人生の軌道修正を余儀なくされた三十歳以降、猫も大自然の中で自立して生きてゆけることを尊重して基本的には野良猫の状態の猫と関わるようになって久しい。
 でも、自分の目の前で死んだ猫も何匹もいた。
 猫も、老化に病気が重なって死んで逝くだけに、苦痛もあるはずだ。生後に知り得たことを以ては対応対処できないどころか、弱肉強食の世界で生きただけに、自由に動けなくなるだけでも不安や恐怖さえ感じるとも考えられる。
 なのに、苦痛を見せないどころか不安さえ見せず、呼びかけても反応しなくなり、手を触っても反応しなくなり、生きている自分がいる世界とはまさに別世界に逝ったかに思わされたものだった。
 言葉による具体的な意思疎通自体ができなかたこともあって、大事なことを理解し合えなかったような気もした。
 他界に臨む際の心の準備を重要視するようになっていただけに、自分も死ぬ際にはこうありたいとも思った。「俺も、そうする」とも言った。そのためには、どうすればいいかも考えた。つまり、やがて自分が他界に臨む際の心の準備をはじめていたようなものだった。

 もちろん、名医といえども死ぬわけだから、生命生理に関しては、理解するだけでも限度がある。よって、生後に知り得たことに因る生命生理に対する対応対処も限られ、それゆえに死を余儀なくされる。生後に習得したことを以ては、死自体はどうにもならない。
 が、相応の考察は可能で、考察を多くした人ほど他界に臨む際の心の準備を整えられる可能性も高い。

 こういうことは考えるだけで分かることなんだということも、考えればこそ分かる。
 つまり、単に考えないだけで、知らないままだったりすることもあるわけだから。
 
 
 いわば逆に、死を忌み嫌い続ける場合もある。
 つまり、考えるだけで分かるこういうことを考えもせず、死んで逝く際の精神状態も思いもしない。
 考えるだけで分かることなんだということをすら、知らないままだったりすることになる。
 となると、最期に臨む心の準備の可能性にも気づかないし、最期に臨む心の準備を重視することも無いし、最期に臨む心の準備は整うはずもないわけだから。

 そもそも、生後に知り得ることは、限られているどころか、生存上は偏りもするし、勘違いや思い込みもあり、よって考えには無理や矛盾も生じる。
 だからこそ、生後に知り得ることを以ては、生活がままならなかったり、健康管理もままならなかったりする。

 それどころか、誰もが直に経験し続けている生存に関することや、記憶に溜まったことを思考上で整理するだけで理解できること、つまり考えるだけで理解できるとは、ほとんど無関係ないことに、目を奪われもするし心まで奪われもする。
 誰もが直に経験し続けている生存とは、ほとんど無関係ないことを、尤もらしく見せかけもするし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げもする。
 見せかけや上辺だけで騙し欺くようなことなのに、そんなことに自己満足もし独り善がりもし優越感を抱きもし有頂天にさえなり、そういうことに夢中になりさえする。

 けれども、猫や犬は死に、先祖や祖先も物語っているように、誰もが死ぬ。
 死を忌み嫌い続けた末に、死ぬ場合は、その忌み嫌い続けたことを余儀なくされることになる。
 歴然としていることだったのに、相応の考察をしなかったことがどういうことかに、その時になって直面することになる。
 それでも正常な精神状態を維持できていれば、むしろ後悔に襲われるだけだ。
 精神面の弱点をすら考慮せず、むしろ無関係なことで優越感を感じたり有頂天になったりしている場合、その最期の心理は、自分の想像力の限界を超ている。

 そんな程度のことでも、考えてみたりしてこそ、そうなることを避けることも可能になり、相応の生き方も可能になるわけだから。

 つまり、最期に臨む際の心の準備を整えることや相応の生き方をすることに関しては可能なのだと、多くのことが物語っているとさえ考えられる。
 
 
 少なくとも、自分は心の浄化も必要としている。
 反省し自分の勘違いや思い込みや固定概念なども解明し改善し、根拠や理由や法則などを理解することに臨むべきだ。
 人生の残りは減少する一方なんだから。
 
 
 
 そう言えば、最近、もう余計なことをしている場合ではないというイメージが、時々、顕著になる。
 が、その具体的な理由までは捉えていない……
 新たな集中すべきこと…… それも定かではない……

 余計なことに気を取られ過ぎていただけだということか……
 
 
 三月に入り、雪に覆われていた大地が現れ始めた。
 つい、屋外に出るようになった。
 それで、気づいた。
 今冬は、降雪量が少なかったので、除排雪作業も少なく、よって運動不足だったのだ。相応の刺激も少なかった。
 そうだったからこそ、雪が少ないにもかかわらず、屋根の雪落としを二度も行った。
 運動不足や刺激不足は、老化にも悪影響を及ぼす。そういうことを、感覚的に感じる歳になったからでもあった。
 それどころか、老化に加速傾向をさえ感じるようになった。
 だから、つい動きたくなるのだろう……
 
 
 今夏も精神面の整理を頑張る。

 

趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの冬季間の背景画を……




 
 
 雪が無くなると、眼精疲労の悪化防止・野良仕事・好天時には日の出や朝焼けや夕焼けや夕日の撮影(実は精神面の解放)などで忙しくなります。

 

応援アクセス、ありがとうございます。
応援アクセスに、とても励まされております。
好みや価値観は百人百様ですが、
それゆえの好刺激も戴いております。
夏場は、相互応援アクセスは中断します。
拍手ボタン等は非表示中です。
プロフィール

kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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