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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
主観的とは 客観的とは  客観的な考え方の特徴は  主観的な考え方の特徴は
「心を開く」とは 「心眼を開く」とは   「悟り」とは 2016/12/27
アルバム「普遍に臨む」  アルバム「趣味の園芸」  アルバム「その他」
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カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

油断大敵だが 急ぐことでもない

 

 たくさんの応援アクセスに、御礼を申し上げます。
「ありがとうございました」

 相互応援アクセスは断念します。

 パソコンも不調で……
 ダウンロードに時間を要するブログの場合、「fc2.comはが応答していません」と表示されたり・「許可されていないコンテンツの使用許可」だったり・ダウンロードの途中でInternetExplorerが動作を停止や自動的な再起動やら・グラフィックが自動的に再起動したこともありました。

 眼精疲労の悪化も避け、緑豊かな夏場は目を養生したいです。

 大自然の中で、自分勝手な想像や根拠も理由も無いがゆえの勘違いや思い込みや固定概念などを、可能な限り捉えては覆します。
 自分が知らないうちに身体が形成されて産まれ、自分が見たことも無い内臓が自分が未理解でも自律して機能していることなど、「生きていることはどういうことなのか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」などの、誰でも直に経験し続けていて誰にでも共通することに関して少しでも理解を深めることに臨みます。



 誰にでも知能も備わっているだけに、誰でも自身のことだけは直に経験し続ける。
 しかも、誰でも日常会話ができるようになり、日常的に学習能力や思考力や理解力を発揮するようになり、目には見えない事実関係や因果関係や理由やルールなども理解できるようになる。
 よって、理解したことや約束やルールなどを基に、相応の行動もできるようになり、相応の結果にすることも可能になる。
 だからこそ、協力し合うことも可能で、信頼し合いもするし尊重し合うこともできる。
 つまり、経験上の「生きていることはどういうことなのか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」などは、独自に精通できるだけの条件も整っている。
 共通なことだけに、世代を超えて理解し合える条件も整っていることになる。

 けれども、自分が、前述したことを理解できたのは三十歳以降だったわけだから、唯一直に経験し続けている自分自身のことでさえ理解するとは限らない。
 特別に医学を学んだ名医といえども死ぬわけであり、そもそも生後に知り得たことを以てできることには限界があることになる。
 よって、死ぬことは、誰も避けることはできない。
 そういう点も、誰にも共通だ。
 共通なことだけに、具体的に理解し合うことも可能だ。

 要は、その最期に臨む際の精神状態だ。
 知能も備わっていて、目には見えないことも理解できるようになるからこそ、死は誰も避けることができないことも早くから知り得る。
 もちろん、相応の生き方をすることも可能だ。しかも、数十年も生きる。
 つまり、最期に臨む際の心の準備をすることは可能だ。

 だからこそ、最期に臨む際の精神状態は、その時のための心の準備ができているか否か、相応の生き方をしたか否か、などに左右される。
 家族が死んでも、自分の心の準備ができていないほど、それを疎かにしてきたことになるから動揺し、やがては自分も余儀なくされることだから落胆もする。
 ペットが死んでも、やがて自分が余儀なくされた際の準備ができていないほど憔悴したりする。
 つまり、最期に臨む際の心の準備をすることは可能なのに、疎かにして生きていた、その結果なのだとも考えられる。
 自分が、最期に臨む際の精神状態は、その時のための心の準備ができているか否か、相応の生き方をしたか否か、などに左右される。

 このことに関しても、誰も避けることができない共通事であり、そういう性質上では世代を超えて精通済みであっても不思議なことではない条件も整っている……

 ただし、最期に臨む際の心の準備が可能か否かを確かめた人は、その可否を知ることもでき、最期に臨む際の心の準備が可能な場合は、その準備を整えることも可能になる。

 そもそも、直に経験し続けている自分自身のこととはいえ、自身が形成された経緯は知らないし、内蔵は見たことも無く、理解すること自体に限界があるわけだから。
 しかも、勘違いや思い込みや固定概念もある。
 よって、好みや価値観は百人百様になる。
 最期に臨む際の心の準備にしても、無関心な人もいるだろうし、否定する人だっているだろう。
 言うまでもなく、直に経験し続けている自分自身のことや誰にも共通することを疎かにしていたどころか、それ以外のことに目を奪われたり心を奪われたり、備わっている知能を非共通なことや競い争うことや私利私欲などにばかり使っているとなると、共通なことから逸脱するどころか常軌を逸していたりする。
 
 
 かつての自分も、共通なことから完全に逸脱し、そうであることに気づくことすらできなかった。
 が、結局、共通な世界に戻らざるをえなくなり、かなり戻ったつもりなのだが……
 それ以外のことで目を奪おうとし、非共通な私利私欲や競い争うことなどを以て心まで奪おうとする、そんな浮世に流されそうになる。
 ただ、そんな目には見えないことも、かなり観えるようになってきていることも事実だ。
 
 
 でも、当カテゴリ「他界に臨む心の準備」は、初投稿にもかかわらず事前に言い訳をしたようなものだった……

 二の足を踏み先送りにするばかりで着手できなかったことだけに、その理由の解明やら解除やら解禁のようなことが必要だ……
 が、それが現状でもある。
 一応、他界に臨む心の準備に移行したわけであり、その有効性や可否や是非や意義などを模索し探求するわけだから……
 冬場に行った思考のウォーミングアップが不完全だったのに、他界に臨む心の準備を夏場に模索し探求することに切り替えたわけだから、何度も仕切り直すだろうし再整理も繰り返すことになるだろう……

 しかも、雪が消えて現れた大地が日に日に緑に変わってゆくこの時期は、むしろ生存を維持するための野良仕事などの行動的なことに移行する。

 というわけで、今回の投稿は休みにしようと思っていた……
 いかん、いかん。それでは、解明や解決とは逆行し矛盾する。
 他界に臨む心の準備に関しては、不完全で、これから模索し探求するしかないわけだから。

 もちろん、十連休や桜祭りなどの浮世とは、とっくに自分は無縁だ。
 衣食住さえ、いつのまにか二の次になっていたんだから。
 
 
 かつては孤独の世界を彷徨ったが、人間関係を断ち、自室にこもったことによって、自分を見詰めることが可能になった。
 生命生理は自律して機能していることに気づいた。
 知能や思考や判断など自体は平常どおりに機能していることにも気づいた。
 出来ないことでも考えることができ、嘘も考えることができる、考えには無理や矛盾もありえることに気づいた。
 よって、自分の勝手な想像や根拠も理由も無いがゆえの勘違いや思い込みや固定概念などを、捉えては覆すこともできた。

 つまり、学習や理解の性質上では、どんな大事なことを未理解でも不思議ではなく、どんな重要なことを未学習でも不思議なことではない。直に経験し続けている自分のことを知らなくても不思議なことではない。
 むしろ、学習や理解の性質上では、とんでもない勘違いや思い込みや固定概念を抱いてしまって相応の生活をしていることさえある。反省したり改善すべき間違いであるがゆえに、否認に固執したり、強情を張ったり、暴力的に服従を強いたり、逆上して暴力的に相手の口封じをしたりする。
 もちろん、本人の頭の中でも理性と虚勢が争っている。
 個人的にも、理性を基に理解し納得できることを頼って生きるか、虚勢を元に上辺や見せかけだけのために競い争うかだ。

 自分は、根拠や理由を模索し、理解でき納得できることを探求し、理性を頼ったから、自分の考えの無理や矛盾を解明でき解決できた。
 そして、余計なことではなく、知らなければ自分が困ることや、個人的に最低限は知るべきことを、模索し探求しはじめていた。
 その本質的なことは共通なだけに、結果的に、誰にでも共通することを模索し探求していた。

 太古から世代交代を重ねて存続されてきたことや継続されてきたことは、その末裔として生まれた者には変えようが無い。
 自分も、自分が知らないうちに身体が形成されて産まれ、自身の内臓も見たことすら無く、自分の生命生理に関しても未理解で、健康管理すら思うままにならないわけだから。
 それ以外のことを、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、自分に都合よく有利なことを競い争ってまで優れているかのように祭り上げるなどして、優越感を感じたり有頂天になったりしたところで、むしろ誰かに刷り込まれたイメージを基に行動し翻弄されているようなものだったり、愚かさを象徴するようなことだったりする。

 そんな浮世も、同類だった自分には、どうすることもできない。

 でも、自分の勘違いや思い込みや固定概念は、すでに変えることができた。
 そして、自分は、自分が知らないうちに身体が形成されて産まれ、自分が見たことも無い内臓が、自分が未理解でも自律して機能していることなどに関心を抱きはじめ、「生きていることはどういうことなのか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」などを念頭に置くようになった。
 もちろん、誰でも直に経験し続けていて誰にも共通することであることも、確信していった。
 
 
 なのに、人生を甘く見ていた……
 
 
 誰にも知能も備わっていて、生きていることがどういうことかは個人毎に直に経験し続ける。
 生後に知り理解することより、それ以前に生存していて生命生理が自律して機能していることの方が優れていることは、歴然としている。
 自身が形成された経緯は知らず、自身の内臓も見たことが無く、自身の生命生理に関しても知らないし、生後に知り理解することは限られている。
 それどころか、勘違いや思い込みなどもあり、生後に知り得たことを以ては、生活がままならなかったり、健康管理がままならなかったり、常軌を逸したことをさえする。
 生後に知り得たことに対して、自律して機能している生きていること自体の方が、絶対的存在であり尊い。
 つまり、生後に知り得ることは限られ勘違いや思い込みもあり、よって名医といえども死ぬ。が、それ以前に生まれる機会に恵まれて生存していられることや、生命生理は絶妙な秩序に基づいて機能していることによって生きていられる。
 などの、経験上のことに関しては、繰り返し直に経験し続けることであり、年々、独自に精通できる条件が整ってゆく。

 しかも、生きていることがどういうことかは、生後に知り得ることを超越していて、誰も変えようが無いことだけに、誰にも共通することであり、先祖や祖先の代から共通なことであり、経験上の共通なことに関しては世代を超えて理解を深め合える条件も整っている。

 生きていることはどういうことかを理解するほど、生後に知り得たことの脆弱さを知り、生理的に生きていること自体を尊ぶしかなくなり、それに基づいた生き方をすることになる。
 よって、先祖や祖先が世代交代を重ねて種族を存続させ進化を継続させてきたように、その世代を超えた尊さも理解し合え、実践できる。
 また、誰でも生後に知り得たことを以てできることには限界があることや、誰でも死ぬんだということをも、納得した生き方をするようになる。

 つまり、相応のことを理解し合えていたりすることによって、おのずから最期に備えた心の準備が整うようなことをも行われるのかもしれない。
 
 
 ところが、知らなかったことを知ったり、未理解だったことを理解する性質上、直に経験し続けていることを知るとは限らず理解するとも限らない。つまり、「生きていることがどういうことか」とか「自分は本来はどんな生き物なのか」とかは知らないままだったりもする。
 それどころか、直に経験し続けていること以外のことに目を奪われもし、それを重視するようになって心まで奪われたりもする。
 非共通なことを競い争って私利私欲を貪り合うわけだから、その先にあるのは独占や独裁や支配であることが露呈したりする。
 もちろん、誰でも死ぬんだという共通なことを想定しない生き方をすることになり、最期に備えた心の準備は論外扱いにする。

 生理面は自律して機能していて、生後に理解することは容易ではなく、よって健康管理は思うままならないし、老化は止められないし、名医といえども死を余儀なくされる。
 つまり、生きていること自体は、生後に知り得たことを以ては変えられない。二度と生まれることもできない。
 むしろ、生後に理解することは限られ、勘違いや思い込みもある。
 
 
 日常的にも、死を忌み嫌い恐れ、、恐怖を象徴することが死であったりする。
 想像や的外れな勘違いや根拠や理由が無い思い込みなどでも、動揺するし当惑もするしパニックにさえなる。
 が、事実が明らかになったり、想像に過ぎなかったとか的外れな勘違いや思い込みに過ぎなかったことなどが明らかになっただけでも、安心する。

 経験を整理して、想像とはどういうことで、勘違いとはどういうことで、思い込みとはどういうことか、
 それらの特徴などを理解した場合は、理解した知識を基に、まだ事実確認ができていないわけだから想像しているに過ぎないことを自覚できるようになる。
 それだけで、まだ想像に過ぎず事実確認ができていないわけだから、想像上のことを事実だと勘違することも無くなるだけに思い込むことも無くなるし、想像に過ぎない段階でパニックに陥ることも無くなる。

 言い換えると、それらに関することを未理解なだけでも、想像を頼りがちになり、しかも想像しているに過ぎないんだということを自覚できない。
 想像しているに過ぎないんだということを自覚できない上に、不安や危機的要素が加わると、まだ想像上のことなのに、事実であるかのように勘違いしはじめる。
 勘違いし始めているに過ぎないことを自覚できない上に、不安や危機的要素が強いほど、自ら不安や危機感を煽るようなことを想像してしまい、そうするほど、想像に過ぎないことを事実であるかのように思い込む。
 思い込むほど、違和感や疑問を抱かなくなる。よって、思い込みに基づいて行動してしまう。
 結局、実際に何かが起きているわけではなく、想像や勘違いや思い込みに基づいてパニックになる。

 まして、いよいよ死ななければならないその時は、実際に訪れる。
 その時の心理を左右するのも、相応の知識があるか否かだ。
 その時の精神状態を、自分で安定させることができるだけの知識があるか否かだ。
 いわば、その時に備えた心の準備ができているか否かだ。
 この有効性や必要性は、ほぼ間違いない。

 この有効性や必要性を、知っているか否かに因っても、相応の模索や探求を始めるか否かが分かれ、その時に備えた心の準備が整うか否も分かれる。

 日常的なことからも分かることであり、むしろ歴然としていると言っても過言ではないが、どう捉えるかは、現にそれぞれの勝手な状態にある。
 母親と言えでも、身勝手で強情を張るばかりで、しかも長生きし続ける。
 その最期の心理は、変えようが無い。
 あくまでも、本人の知識で決まる。よって、本人が、どんな生き方をしたかで決まる。
 
 
 やはり、着手できなかった理由を解明して、解除なり解禁なりして、意向の切り替えなりをしなければ進展しない……
 もちろん、最期は予測できない。
 その時が突然に訪れる確率が、加齢とともに高まっていることも間違いない。

 その時に備えた心の準備ができていないからこそ、死こそが最大の恐怖で、恐怖を象徴することが死であったりする。
 その時に備えた心の準備ができていないからこそ、死を頑なに忌み嫌い恐れたりする。
 その時に備えた心の準備ができていないからこそ、家族が死んでも精神面が一変したり、ペットが死んでも憔悴したりする。
 死にたくないからこそ、他の生き物を殺して食べている。
 銃の所持が認められている国では、殺されるかもしれないと思うあまり、先に相手を撃ち殺してしまったりする。
 自分が死にたくないから、相手を殺してしまう。
 無差別殺人まで行ったりする。
 現代社会はストレスを癒す必要があるのか、現代病を併発するほど偏食や過食しているとも言われ、裏では大量に食べ物が廃棄されているとも聞く。
 いずれも、死を忌み嫌い恐れ、生きることに執着していることを物語っている。

 でも、殺したり殺されたりしなくても、誰もがやがては死を余儀なくされる。
 その時の精神状態は、その時のための心の準備がどれだけ出来ているかとか相応の生き方をしたか否かに左右される。

 日常的にも、知らないことは、模索や探求を始めるしかないだけに、判断に迷いもするし予想は外れていたりする。強行すれば、痛い思いをしたり損をしたりするなどのリスクも伴う。
 が、繰り返し経験したことほど、確かなことや詳しくしいことが記憶に溜まってゆく。それを参考にする識別や思考や判断にも迷いが無くなり、むしろ的確になるだけに好結果に通じる。
 だからこそ、観察し尋ねもし確かめもし調べもするし試しもし繰り返し練習もする。
 それでも足りない場合は、研修所に通ったり学校に通ったりもし、研究所を設けたりさえする。
 だから、高度なことも実現する。

 そういう学習や理解の日常経験上でも、他界に臨む準備ができていないまま死を余儀なくされる精神状態は、判断に迷うばかりであり、動揺するであろうことは否めない。

 諦めて死ぬにしても、そもそも当惑するからこそ諦めざるをえないのだとすると、むしろ諦めることに固執するしかないことになる。

 直に経験し続けている自分のことを知らず、他のことに目を奪われ、尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げていることに心まで奪われ、そんなことに優越感を感じるようになり有頂天になったりさえしている場合、その最期は、絶望を否めないどころか、発狂的だったりしても不思議ではない。
 そんな的外れな勘違いや思い込みに早めに気づくと、常軌を逸した行動に走ったり、無差別殺人などを行うのではないかとも考えられる。
 死は誰でも余儀なくされるわけだから、そんなことをした場合の最期の心理ともなると発狂を超えるのではないだろうか。

 ただ、本人はそのまま死んで逝くだけに、その時に備えた心の準備を整えているか否かに関わらず、最期の精神状態の最終確認は本人のみが知ることになる。

 いずれにしても、最期の精神状態は、相応の心の準備の有無や生き方に左右される。

 ただし、生前に最期に臨む心の準備ができた場合は、生前に相応の根拠や理由などを理解し納得できることになり、準備ができたことも生前に判断できることになる。

 準備には段階があり、段階に応じた精神状態の相違もありえる。
 準備の有効性を信じて少なからず準備に臨んだ場合は、的外れなことに囚われて有頂天になることは無くなり、絶望的な最期や発狂的な最期にはならずに済む。

 むしろ、日常経験上、他界に臨む準備の有効性や必要性に気づかない方が不自然であり、そんなことに気づき知っているのに着手できないことも不自然だ……

 相応の生き方を、したか、否かにも左右されることになるが……
 その点は、自分の場合は手遅れなこともある……

 まだ、自分でも認め難いことや考えたくないことや思い出したくない類のことがあるから、着手できないのだろうか……

 まだ勘違いや思い込みがあって的外れな方に向いているのか……

 気になることは……
 あくまでも、他界に臨む心の準備の完成度とも言うべきことの最終確認に関しては、実際に他界に向かその時に決定的になり、本人のみぞ知ることだということだ……
 でも、生前に、根拠も理由も明確で理解でき納得できれば、準備が整ったことも生前に納得できる……

 違う。
 自分のことをすら満足にできないのに、人助け的なことまで考えるから、空転してしまうのか……
 他界に臨む心の準備の最終的な可否や是非の確認は、実際に他界に向かその時に本人のみぞ知ることである……
 死んで逝くだけに、その心の準備に関しては、それぞれ勝手なことでもある……
 つまり、あくまでも自分のこととして考えるべきなのだ。
 むしろ、生きていることを終わるわけだから、まさに超個人的なことでもある。
 そういうこととして的を絞った方がいいのか……
 しかも、生前に準備を整えることが重要だ、

 そんなことだけでも早めに具体的に把握しなければ……

 あああ、結局、今回は上辺を繕っただけの言い訳でしかない……
 書けば書くほど、上辺を繕う言い訳になるだけだ。

 やはり、今回の投稿は春休みとするか……

 待てよ。最期は医者を頼らないなど、そんな決心をすることも重要なのか……

 

趣味の写真、撮影しはじめたばかりなので……
当ブログの背景画を……





 
カテゴリ : ◆他界に臨む心の準備

他界に臨む心の準備

 

 たくさんの応援アクセスに、御礼を申し上げます。
「ありがとうございました」


 畑の雪が消えてしまい、夏場は生存維持のための野良仕事などを優先しますので、相互応援アクセスは断念します。

 老化に伴う眼精疲労の悪化を防ぐためにも、夏場は緑豊かな大自然に臨むため、パソコンからは離れがちになります。

 誰でも、唯一、直に経験し続けていることである、「生きていることはどういうことなのか」とか、「自分は本来はどんな生き物なのか」などは、生存上の根拠や理由にもなり判断基準にもなり得る。
 なのに、ほとんど未理解だった頃の自分は常軌を逸していた。
 そんな経緯上、その探求や把握や理解は欠かせない。

 直に経験し続けていること以外のことに目を奪われ心まで奪われがちな浮世から、一時的とはいえ離れて、雑然としてはいるが命が繁茂している大自然に足を運ぶことも多くなります。

 指図されなくても、独自に識別し判断して生存を維持している野生です。
 託児所や保育所など他人任せにはせず、親がむしろ命懸けで子供を守ろうとする野生の世界です。
 学ぶことが多くあります。

 野生の知能より、本来は人の知能の方が優れているはずなのにです。現に、言葉を介して、目には見えない理由やルールなども理解し合え、理解したことを基に行動することもできるわけですから。

 早朝と夕暮れの撮影時にも、好天に限らず早めに出かけます。


 当ブログは、管理人の精神面に勘違いや思い込みや固定概念もあり考えに無理や矛盾もあるだけに、その整理に的を絞った記事ばかりになってしまいましたが……
 最期は、予測できないどころか、突然に訪れる確率が加齢とともに高まるようです。
 よって、今夏は、当記事タイトル「他界に臨む心の準備」に関する整理に臨みます。
 当該カテゴリも新設しました。
 ただし、二の足を踏み先送りにするばかりで着手できなかったことだけに、その理由の解明やら解禁のようなことも必要なようです。よって、思考のウォーミングアップの、続きのようなものになりそうです。
 
 
 

たまたま自分は気づいたが……


 
 気づいてからずいぶん経った今、思うに、最期は予測できない。それどころか、突然に訪れる確率が加齢とともに高まる。
 その時に備えた心の準備ができていない場合の辛さも、自分は経験したからこそ気づきもした。

 経験した当時は、生きているということはどういうことなのかも知らず、自分は本来はどんな生き物なのかも知らず、それらは直に経験し続けていることであることをすら知らなかった。
 死ねなかったことによって、やっと気づいた。自分の知識や考えに因らずに、つまり生理面は自律して機能している。しかも、それは直に経験し続けていたことであり歴然としていることだったことにも、やっと気づいた。
 よって、自分の考えなどを把握できていなかったことにも気づいた。いわば、本心に背くことを強行しようとしたことにも気づいた。そんな自分の考えに恐怖を感じた。
 あの日のうちに、気持ちは一転し、死を恐れるようになった。いわば、やっと本心に基づいた生き方が始まったのだった。
 五感では捉え難いことだが、思考上では捉えることができることを、捉えられるようになったからでもあった。
 結局、生きるしかなくなった。

 生きるとなると、それまで直面し続けた目には見えない壁のようなものを解明し解決しなければならなかった。
 でも、すでに気持ちが一転していた。五感では捉え難いことだが、思考上では捉えることができることを、捉えられるようになったからでもあった。
 生理面が自律して機能していることにはすでに気づいたこともあってか、知能や意識や識別や思考や判断なども、それら自体は平常どおりに機能していることに気づいた。
 それは、自覚するだけで確認できることだったことにも、今更のように気づいた。
 むしろ、目にゴミが入ったときなどは直ぐに気付くように、異常があれば直ぐに気付く性質のものだったことにも、今更のように気づいた。

 よって、考えには無理も矛盾もありえることに気づいた。出来ないことでも考えることは可能であり、むしろ嘘でも考えることができるわけだから。

 ようやく、自分が考えていた内容を確認し始めた。
 人間関係を断って自室にこもるようになったのに、傍目を気にし、上辺を繕うことばかり考えていた。
 むしろ、不利なことや不都合なことは、隠し偽ろうとしていた。
 が、それは、解明や解決を困難にすることにほかならない。
 反省でもない。
 肝心な解明や解決は、しようとすらしていなかった。
 そんな考えに捕らわれていたこと自体こそが、矛盾だった。
 ついに、思考の矛盾を具体的に解明できた。

 内向に集中するようにもなった。
 事実確認をしたわけでもないから、想像していたに過ぎなかった。
 根拠や理由を確かめもしなかったがゆえの勘違いや思い込みだったことも分かった。
 根拠も理由も無い勘違いや思い込みが、いつのまにか疑問も抱かない固定概念になっていて、そのイメージを基に想像していたことも分かり、その固定概念を覆すこともできた。

 考えの無理や矛盾だけに、もともと考えている内容を確認するだけで分かることだった。そんなことも今更のように分かった。
 五感では捉えることができないことだが、意識上のことであり識別や思考上のことでもあり、記憶にも残ることだけに、その内容を客観的に捉えることももともと可能なことだっただけに、思考の無理や矛盾は次々と解明でき解決しはじめた。

 つまり、以前は、最期に備えた心の準備ができていない場合の、その時の辛さも、知らなかった。
 それは、考えただけで分かることなのに、考えたことすら無かったからだった。
 だからこそ、相応の生き方もできなかったわけだし、相応の準備もできなかった。
 それゆえの辛さだった、とも考えられた。


 思考力も理解力も、日常会話で発揮していた。なのに、そうであることも未理解だったことに気づいた。
 もちろん、思考力も理解力も十分に発揮していなかった。そんなことも分かった。
 しかも、これも、考えただけで分かることだった。なのに、考えたことすら無かったから未理解だったことも分かった。
 最期に備えた心の準備ができていなかったからだったどころか、死んでしまうには惜しいことばかりだったことも分かってきた。

 未発揮だったことを復活させたり、未理解だったことを理解したりして、それらを活用することが、生きるために必須になった。
 
 

そもそも日常的にも……



 気づいたからこそ確かめ、確かめたからこそ相応のことを知ることもでき、知ったからこそ随意に確かめることが可能になった。

 思えば、死にたくないからこそ、他の生き物を殺して食べて、必死で生きているようなものだ。
 不安や恐怖感にしても、自分では対処できないことだったり、よって死んでしまうかもしれないことが予想されるからだとも考えられる。
 もちろん、最期に備えた心の準備ができていないからでもある。

 そもそも、この身体は自分が知らないうちに形成されたわけだから、自分の意思で生まれてくることはできないわけだから。
 両親の基にのみ、自分が生まれる。しかも、母の数百の排卵は、それぞれが兄弟姉妹に相当し、たまたま受精した卵子だけが誕生する機会に恵まれるが、それが自分だったことになる。これらは、死んだら、二度と生まれてくることは無いことをも物語っている、
 生命生理は自律して機能しているわけであり、生後に知り得たことを以ては健康管理もままならない点でも、人生は一度限りだということが分かる。

 が、植物も世代交代をして、太古から存続されてきた種族が更に存続され、太古から継続されてきた進化も更に未来へと継続されている。

 野生動物は、生存を命懸けで守り、子供をも命懸けで守る。
 よって、太古から存続されてきた種族が更に存続されるわけであり、太古から継続されてきた進化も更に未来へと継続される。

 人も、動物だ。
 太古から祖先や先祖が存続させ継続させてきた、その末裔として産まれるわけであり、祖先や先祖が存続させ継続させてきたことを更に存続させ継続させることで、先祖の仲間入りもでき、先祖と言ってくれる子孫も生き続けることになる。
 最期に臨む心の準備としては、これに優るものは無いだろう。

 なのに、人類は、多くの生物を絶滅させてきたどころか、人種を絶滅させようと戦争さえする。
 子供たちの未来を台無しにするかのように、ゴミになるものを生産し海洋汚染や大気汚染までし、その後始末を政府が行って助長している。しかも、可能だからと、原発や遺伝子操作や宇宙開発なども行うようになり、本人には責任を取りようが無いようないことまで行うようになった。
 尤もらしく見せかけ本当らしく工作し優れたことであるかのように祭り上げて、私利私欲を貪り合っている。それに、目を奪われ心まで奪われた消費者が加担する。
 現在も多くの絶滅危惧種が存在すると言われるが、人は自ら少子化を進行させている。
 それは、計り知れないほどの祖先や先祖が存続させ継続させてきたことを、途絶えさせることでもある。もちろん、祖先や先祖の仲間入りはできない。祖先や先祖と言う子孫もいない。
 そんな自分の場合は、最期に臨む心の準備も、相応に難しさを増すことは明らかだ。

 こんなことも、あの頃は、考えたことすら無く、知らなかったわけだから、最期に備えた心の準備はできていようはずがなかった。
 
 

学習上でも……



 生きるためには、思考の健全性を重視するようになった。
 よって、自分が知らなかったことを憶え上達して記憶を参考に条件反射的な速さでできるようになることを基に、学習の法則や学習の基本的なことも理解できた。
 いずれにしても、確かめてこそ、確かなことを知ることもでき、詳しく知ることもでき、五感では捉えることができない理由や法則なども理解でき、具体的な可否や是非の判断も可能になる。
 最期に臨む心の準備の可否や是非にしても同様だ。

 そもそも、知能も備わっていて、生きていることがどういうことかとか、自分は本来はどんな生き物なのかとかは、直に経験し続ける。
 が、自身の内臓は見たことが無く、自身の生命生理に関しても具体的なことは知らない。
 傷病時も、知らないことには、対処もできないから、判断に迷い、よって不安になり、パニックに陥りもするし、恐怖さえ感じたりする。

 でも、知ったことは、相応の識別や思考や予想なども可能になる。
 医者は他人の傷病を治療できる、などといったことが可能になるように。

 最期に臨む心の準備の可否や是非に関しても、気づけばこそ確かめもし、確かめるからこそ相応のことを知り、知ればこそ相応の考慮も可能になり、必要なら相応の生き方をするようにさえなる。
 
 
 相応の考慮や相応の生き方をすればこそ、更に具体的に理解することも可能になる。

 そもそも、思考力も理解力は、少なくとも日常会話で発揮するようになるわけだから。
 むしろ、日常的に磨かれてさえいると言っても過言ではない。

 唯一、直に経験し続けていることである、生きていることがどういうことかとか、自分は本来はどんな生き物なのかとか、肝心な自分に関することを理解しそびれていたとしても不思議ではないが、そのことに気づいたとしても不思議ではない。

 根拠や理由があって理に適っていると、理解でき納得もでき、可否や銭の判断も可能になり、悪しき結果になることは避けることができ、好結果になることには臨むことができる。
 よって、根拠や理由が不十分だったり無理や矛盾が有ったりすると、理解できないし納得できないし、好結果になる確率は低く、悪しき結果になる確率だけが高く、いわゆる高いリスクが伴う。
 無理や矛盾があっても、冗談は別で、妥協もするが、高いリスクが伴うだけに、必要な場合は事前に尋ねもし確かめもするし、必要なら教習所や学校に通いもするし、研究所を設けさえする。

 つまり、相応のことに臨むことになり、相応のことを念頭に置いた生き方をすることも可能になる。
 
 
 具体的なことを理解するほど、相応の生き方をすることも可能になるからこそ、相応の準備を整えることも可能になる。

 現段階では、最期に臨む心の準備の実際の是非に関しては、実際に他界入りした本人にしかわからない、とも考えられるが……

 これこそが、まさに超個人的なことであることも事実だ。

 でも、まだ予想だが、相応の生き方をして、不安や恐れを解消し、むしろ祖先や先祖の仲間入りなどに期待して臨めるくらいの準備が完了していれば、完璧なのだと考えられる。
 その内容が、遺族の悲しみも払拭するくらい、根拠も理由も具体的で説得力のあれば、完璧であることを裏付けられたくらいの完璧さなのだと考えられる。

 また、通常は、知り、理解し、相応の生き方をするようになってこそ、その結果として相応の準備も整う。
 よって、相応の準備が整っていない段階では、その結果に通じることを、知ることや、理解することや、相応の生き方をするようになることなど、それらこそが重要だということになる。
 むしろ、結果的な準備を整えることよりも、そのための相応の生き方をする(できるようになる)こと自体が、悔いを残さない生き方をすることに通じる。よって、相応の準備が整っていない段階では、少なくとも相応の生き方をする(できるようになる)ことこそが重要なのだと考えられる。それ無しには、結果は成立しないわけだから……
 
 
 いずれにしても、突然、その時が訪れる前に、最期に備えた心の準備に関しては少なくとも迷うことは無いくらい可能な限り明らかにしておきたいものだ。

 

趣味の写真、冬季間は撮影しないので……
当ブログの冬季間の背景画を……





 

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kisuke(喜助)

Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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