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 生命生理は、自律して機能していて、生存の基礎であり、人生の根拠に相当する。
 生きていること自体が絶妙にできていることを直に経験し続ける知能も備わっていて、相応の学習もでき、上達し、基本動作や日常会話などは熟練する。
 約束やルールや信頼や尊重や愛や幸福などの目には見えないことでも理解し合えるようになり、よって協力し合い信頼し合い尊重し合えるようにもなる。
 しかも、理解は、無料で、誰でも可能だ。むしろ、売買すると崩壊する。
 以上の、普遍的なことや誰にでも共通することが、当ブログのテーマです。
 でも、進化・自身が形成された経緯・自身の生命生理などは、通常は知らない。
 直に経験し続ける知能や学習力や理解力をさえ、具体的に理解するとは限らない。
 知らないことだからこそ、想像もする。自分のことでも、勘違いし思い込みもする。
 自分以外のことに目を奪われると、自分を見失う。心まで奪われると、自分の人生も見失う。つまり、そういう状態に陥っていることに気づけなくさえなる。
 普遍的ではなく、共通でもなく、異なることほど、理解し合うことは困難になる。
 私利私欲を貪り、相殺して蝕み合い、競争で優劣を決め、転嫁し暴力で片づける。
 非理解、非協力、非信頼、非尊重、そういう非知的なことは、むしろ避けたい。
 いずれも、マスメディアが発達した現代では歴然としていることなんですから。
はじめに 更新2013/01/21
目次:無知の悟「俺は、異常ではなかったんだ、病気でもない」
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心を開くとは 心眼を開くとは


 自分の、歪んでいた心の整理上で、「いつのまにか閉ざしていた心が開いた」という捉え方も可能になり、「心を閉ざす」「心を開く」という捉え方も可能になった。
 そんな個人的な心の整理上の、個人的な経験を基にした、あくまでも私見です。
 
初投稿:2012/04/24
その後の理解を基に再編集 更新:2018/04/13
※ 投稿済み記事の更新とともに投稿日も更新







心を開くとは 心眼を開くとは


   目 次 (各◆小見出しは当ファイル内の本文リンク)

     目次内の各◆小見出しの下は本文の概要






 私見を述べる前に、Web 検索でヒットする使われ方・日常やテレビで耳にする使われ方、それらから察すると、次のようなことだと考えられる。


 ■「心を閉ざす」 概略

「心を閉ざす」とは、、気持ちや考えや記憶に残っていることなどを、知られまいとしたり、隠したり、偽ったりすること。

 つまり、「心を閉ざす」とは、意思疎通を断つことだと考えられる。


 ■「心を開く」 概略

 心を閉ざしていることが前提になる。
 よって、心を閉ざすことと、反対のことに該当する。

「心を開く」とは、、隠さず、偽らないこと。むしろ、知ってもらおうとか、理解してもらうために、話したり説明したりすることになる。

 つまり、「心を開く」とは、意思疎通を再開することだと考えられる。






 私見としては、次のことが前提になる。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている精神機構(知能)が備わっている。
 よって、経験でき学習でき理解できるようになり、相応の随意なこともできるようになり、相応の結果にもなる。これが、知能の基本的な能力だと考えられるが……。
 表題に関係する面としては、次に述べるような高度な意思疎通もできるようになる。

 思考上では一連のことを理解することもでき、理解できた内容に基づいた識別や思考や可否や是非などの判断も可能になる。
 よって、信頼し合うこともでき、協力し合うこともでき、尊重し合うこともできる。

 つまり、学習や理解上、五感では捉えることができない内面を理解し合うことも可能になるわけであり、極めて高度な意思疎通を行うようになる。






「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことか。相応のことを知っていれば、そうせずに済むし、そうしてしまったとしても気づきやすく回復も容易にできる。
 よって、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、よく知らないうちに、そうしてしまうことが多いと考えられる。
 知らないからこそ、回復が困難になることもしてしまう。
 だからこそ、悪循環の深みに陥ってゆく傾向もある。
 そういうことも未理解だからこそ、前項で述べた「心」の優れた能力を、台無しにしてしまうこともあるのだと考えられる。

 そういう場合は、その解決や回復などを行うためには、事態の把握が必要になり、そのためには「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって、ここで述べた「心を閉ざす」ことに関することを知ることになる。






「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、知らないがゆえに、そうしてしまっている場合。
 それを、回復するためには、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、まず把握する必要がある。
 この段階で、「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって前項で述べたようなことを知ることになる。

 前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたことを前提にした場合は、「心を開く」とは次のようなことになる。
 簡単に言うと、断った意思疎通を、再開することでもある。
 未理解な場合は、前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたようなことを把握し反省して回復することでもある。
「◆そもそも「心」とは(本来は)」項で述べた、「心」の本来の優れた能力を発揮するための努力をすることでもある。
 結果的には、「心」の本来の優れた能力を、理解し合い信頼し合い尊重し合えるようになるように、相応の努力をすることになる。







 Web 検索でヒットする使われ方・テレビや日常で耳にする使われ方、それらでは多様で諸説ある。
 ここでは、私見として、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を、別の観点から捉えてみる。
 よって、同じ記事内に記載する。


「目には見えないことなのに、あたかも見えているかのように捉えることができているからこそ、相応の対処対応ができる」
 そう言うときの、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」その能力のことをここでは「心眼」と仮定する。
 すると、次のようなことが該当する。






 私見としては、次のようなことになる。
「心眼」自体は猫でも発揮しているが、「心眼を開く」ことは誰でもできるわけではない。
 一気に開けることでもない。結果的に「心眼は開いてゆく」。
 また、段階的に開いてゆく。よって、段階的な違いもある。
 こんなことであることも分かるようになりつつ、具体的なことを知るほどに徐々に開かれてゆき顕著になってゆくのが「心眼が開く」特徴でもある。
 そういう性質上、「心眼が開く」とか「心眼は開いてゆく」などと言った方が適切だ。

 つまり、「心眼を開く」とは、私見では次のようなことだと言える。
 自分も、日常的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことを、裏付ける事実を基に具体的な理解し納得すること。






「心眼を閉ざす」という言い方は、あまり耳にしないが……。

 まず、日常的に心眼を発揮するようになる。よって、閉ざされることも無い。

 でも、「心眼を開く」ことが難しくなることはある。
 そもそも、日常的に心眼を発揮するようになり、その後に気づくことになる。
 そういう性質上、気づく以前に、気づき難くなるようなことや理解し難くなるようなことをしてしまったりもするからだ。



~~~:以上は目次 ☆☆☆ 以下は本文:~~~






◆「心を閉ざす」「心を開く」概略



 私見を述べる前に、Web 検索でヒットする使われ方・日常やテレビで耳にする使われ方、それらから察すると、次のようなことだと考えられる。

「心を閉ざす」にしても「心を開く」にしても、心は内面なので、対環境的な五感では捉えることはできない。
 でも、振る舞いや結果は捉えることができたりする。
 その振る舞いや結果などを基に、心の状態を察して言い表している言葉だとも考えられる。


■「心を閉ざす」 概略



「心を閉ざす」とは、、気持ちや考えや記憶に残っていることなどを、知られまいとしたり、隠したり、偽ったりすること。

 つまり、「心を閉ざす」とは、意思疎通を断つことだと考えられる。

 隠し偽るにとどまらず、逃げ隠れしたり、逆上して相手の所為にし口封じをしたりするわけだから、それらも含まれることになる。
 更に、相手の所為にして暴力的に片付けてしまおうとするし、争いにもなる。それも、「心を閉ざす」方法が激化したものであり、その象徴的なことには戦争が該当する。

 いずれも、反省や学習や自浄などに、背くことでもある。
 また、理解し合うことも無く、協力し合うことも無く、信頼し合うことも尊重し合うことも無い。それらに、むしろ反することでもある。


 ■「心を開く」 概略

 心を閉ざしていることが前提になる。
 よって、心を閉ざすことと、反対のことに該当する。

「心を開く」とは、、隠さず、偽らないこと。むしろ、知ってもらおうとか、理解してもらうために、話したり説明したりすることになる。

 つまり、「心を開く」とは、意思疎通を再開することだと考えられる。

 もちろん、逃げ隠れすることや、相手の所為にしたり口封じをすることは、止める必要がある。
 お互いに相手の所為にして戦争したり争ったりすることを止めることは、むしろ必須になる。

 いずれも、反省し学習し自浄能力を発揮することでもある。
 理解し合い、協力し合い、信頼し合い、尊重し合えるようになる努力をすることでもある。




◆そもそも「心」とは(本来は)



 私見としては、次のことが前提になる。

 各感覚器官や意識や記憶力などで構成されている精神機構(知能)が備わっている。
 よって、経験でき学習でき理解できるようになり、相応の随意なこともできるようになり、相応の結果にもなる。これが、知能の基本的な能力だと考えられるが……。
 表題に関係する面としては、次に述べるような高度な意思疎通もできるようになる。


 知能が備わっていて、経験でき学習でき一連のことを理解できるようになり、相応の記憶や気持ちや考えも形成される。
 この気持ちや考えや記憶に残っている内容などは、内面的なことなので、対環境的な器官だと考えられる五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)では捉えることはできない。


 でも、野鳥は、一斉に飛び立ったりする。
 つまり、一羽の反応を基に、その状況を察することはできるし、仲間の心情を共感することもできるからではないかと考えられる。
 他の鳥たちが一斉に飛び立つのも、そういうことなのではないかと考えられる。

 人の群集心理も、似たようなことだと考えられる。
 つまり、具体的な理由は知らなくても、周囲の人の振る舞いを基に、大変な事態になっていることなどの状況は察することができ、悲鳴などからは心情に共感したりすることもできる。
 だからこそ、具体的な理由は知らないまま、逃げ惑ったりする。
 具体的な理由は知らないまま、連鎖的に群衆に広がってしまったりもする。

 赤ん坊の泣き声だけを基に、その状態を察することもできるからこそ、相応の対応をしてあげることもできる。
 それによって、赤ん坊の生存が維持される。

 猫は、誰とでも仲良くするわけではない。仲良くしている相手に対しては、力加減などをしている。
 つまり、言葉で具体的に説明することはできなくても、相手の反応や表情などを基に、その気持ちや考えを察して、相応の加減をしているのではないかと考えられる。
 そういう相手であることをも識別しているから、多少のことは許容し合うし、仲良くできるのだ、と考えられる。

 人の場合は、相手の反応や表情などを、類似した自分の経験や記憶を参考にして捉えることもでき、相応に相手の気持ちや考えを察することもでき、相応の振る舞いもでき、相応の結果にもなる。
 つまり、自分がされて嫌なことは、相手も嫌なんだろうと察することができ、相応のこともできるので、相応の結果にもなる。

 嫌なはずなのに、「嫌だ」と言えないし拒否できないことも、察することができたり、その心情に共感したりもする。
 よって、「嫌だ」と言えず拒否できないことを、隠し偽り嘘を吐く場合でも、察し、抗議したりする。


 人は、身振り手振りでも、伝えようとする。
 ということは、五感では捉えることができない内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、伝え合えることが可能であることを、人は分かっている。
 だからこそ、人は身振り手振りででも伝えようとする。

 気持ちや考えや記憶に残っている内容などは、五感では捉えることができないからこそ、人は図を書いたりもする。
 よって、共通の意味を含んだ信号や標識や記号は社会的に実用されている。

 更に具体的な絵を描いたりもする。


 日常会話ができるようになると、五感では捉えることができない内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、言葉で伝え合えるようになる。
「知らない」とか「記憶に無い」とか「知っている」とか「記憶に残っている」などとも言う。

 いつのまにか文法も憶えて、五感では捉えることができない内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、整理し、文章化して、具体的に説明できるようになる。
 もちろん、内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などは、五感では捉えることができない。けれども、思考上では、内面的な気持ちや考えや記憶に残っている内容などを、整理して、関連することで構成された一連のことでも理解でき、相応の応答もできるようになるからこそである。
 だからこそ、不明な部分を尋ねたり確認したりもする。

 一連のことを理解すると、それが記憶に残り、その内容に基づいた、識別や思考や予想などもでき、相応の行動をすることもできる。
 教えてもらったことが記憶に残り、それを頼りに、初めて行く目的地にでも到達することもできる。
 約束したことが記憶に残り、それに基づいた、行動をすることもでき、相応の結果にすることもできる。
 ルールを理解すると記憶に残り、その記憶に残っているルールに基づいたスポーツなども可能になる。

 思考上では一連のことを理解することもでき、理解できた内容に基づいた識別や思考や可否や是非などの判断も可能になる。
 よって、信頼し合うこともでき、協力し合うこともでき、尊重し合うこともできる。
 相応の優れた能力が備わっていることをも、認め合い理解し合えるからにほかならない。


 つまり、学習や理解上、五感では捉えることができない内面を理解し合うことも可能になるわけであり、極めて高度な意思疎通を行うようになる。
 これらのことは、小学生の頃には誰もが出来るようになり、行うようになることでもある。
 これらのことを可能にしているのが、「心」だと考えられる。
 もちろん、「心」は開いていることが、本来のありかただと考えられる。




◆「心を閉ざす」とは



「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことか。相応のことを知っていれば、そうせずに済むし、そうしてしまったとしても気づきやすく回復も容易にできる。
 よって、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、よく知らないうちに、そうしてしまうことが多いと考えられる。
 知らないからこそ、回復が困難になることもしてしまう。
 だからこそ、悪循環の深みに陥ってゆく傾向もある。
 そういうことも未理解だからこそ、前項で述べた「心」の優れた能力を、台無しにしてしまうこともあるのだと考えられる。


 そういう場合は、その解決や回復などを行うためには、事態の把握が必要になり、そのためには「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって、ここで述べた「心を閉ざす」とはどういうことかや、その弊害などを知ることになる。


 前項の「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べたことを、「心が開いている」状態だからこそ出来ることと仮定し、それを本来の「心」と仮定した場合は、「心を閉ざす」とは次のようなことになる。

 通常、意思疎通を断つことを「心を閉ざす」と言っているのだと考えられる。
 よって、前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、少なくとも発揮しなくなることに該当する。
 よって、困ったり、問題視される。この段階になると、「心」の優れた能力に背いていたりすることになる。
 そこで、解決や改善や回復といったことが必要になり、事態の把握や解明などが必要になる。


 そもそも、気持ちや考えや記憶に残っていることなどは内面的なことなので、その具体的な内容は、本人が話すことによって、他者は知ることができる。
 よって、気持ちや考えや記憶に残っていることなどは内面的なことは、本人が話さないだけで、他者には知られずに済む。
 理由は多種多様だが、意思疎通を断ち、「心を閉ざす」。

 もちろん、前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、少なくとも発揮しなくなる。
 当然に、理解は得られず、協力も得られない。
 よって、理解や協力や保護が必須な子供の頃には、必然的に「心を開く」ことに該当することも行うのだが、自衛上、「心を閉ざす」練習もしているようなものだと言っても過言ではない。

 理由は多種多様でも、話さないことは、相手を、信用できない、信用しない、などということをも意味する。
 そうであることは、察することもできる。
 よって、友達は限られ、親友は更に限られる。
 前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、理解し難くなる。

 相手しだいでは、気持ちや考えや記憶に残っていることなどを、知られまいとするようにもなる。
 前項「◆そもそも「心」とは(本来は)」で述べた「心」の優れた能力を、自他共に未理解だと、改善し難いどころか、むしろ拗れさせもする。

 自衛上、知られると不利だと思うことや不都合だと思うことは、隠すようにもなるし、言い訳もするようになり、事実を偽るようにもなる。
 分かった振りだけをしたり、上辺だけ明るく振る舞ったりする場合も、事実を偽る類であり、認めることや反省を自ら困難にすることでもあり、一層、心を閉ざすことに該当する。
 隠し偽り、言い訳や嘘を重ねるほど、認め難いことを物語っていて、当然に反省し難いことを物語っているが、その深みに陥ってゆくことを自ら行っていることをも物語っている。

 もともと自分が悪いわけではないという理由で、相応のことを認めまいともする。
 認めないことは、事実関係の把握もできない。
 となると、解決を自ら困難にしていることになる。

 自身の内臓は見れないわけだから、何でも憶えられるわけでもなく、何でもできるようになれるわけでもない。が、行動上、しっかりやらないと、大変な事態になることもある。
 そんな場合でも、いい加減だったことを認め難い場合は、本来は優れた知能が備わっていることをも認め難くなる。
 認めないことは、その具体的なことを理解することはできない。

 認めず、反省もせず、相殺してしまう場合もある。
 が、良くないことだと感じていたり、悪いことだと分かっていたり、結果的に大変なことになることを予想できているにもかかわらず、「お互い様だ」と肯定してしまう。
 もちろん、反省を自ら困難にすることに他ならない。

 威嚇的なことをしたり、努力して基準を作ってまで差蔑的なことをすることもある。
 転嫁して、相手の口封じをすることもある。
 相手の所為にしてしまうと、自分の問題点は解決する必要が無くなる。つまり、解決できない。

 逃げ隠れするしかなくなる場合もある。

 相手の所為にして暴力的に片づけてしまおうとすると、争いになり、戦争にもなる。

「心を閉ざす」と、「心」の優れた能力を少なくとも発揮しなくなる。
 更には、「心」の優れた能力に背くことにる。
 よって、人間関係の回復が難しくなってゆく傾向がある。
 その象徴的なこととしては、相手の所為にして暴力的に片付けてしまおうとする争いや戦争などが該当する。
 つまり、理解し合うことには反し、協力し合うことにも反し、信頼し合うことにも反し、尊重し合うことも反することをし合うようになる。

 そういうことだけに、一般的に、多くの人に対して「心を閉ざしている」状態になりがちでもある。
 むしろ、プライバシーもあり責任が伴うこともあるだけに、「心を開く」相手は限られているのが一般的だとも考えられる。
 実は、全く個人的には「心を閉ざす」必要すら無く、経験上の自分のことには精通できる条件も整うわけだが、それにも反していたりする。

 
 
 

◆「心を開く」とは



「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、知らないがゆえに、そうしてしまっている場合。
 それを、回復するためには、「心を閉ざす」と言われていることは、どういうことなのかを、まず把握する必要がある。
 この段階で、「心を開く」ことが必須になり、そうすることによって前項で述べたようなことを知ることになる。

 前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたことを前提にした場合は、「心を開く」とは次のようなことになる。
 簡単に言うと、断った意思疎通を、再開することでもある。
 未理解な場合は、前項の「◆「心を閉ざす」とは」で述べたようなことを把握し反省して回復することでもある。
「◆そもそも「心」とは(本来は)」項で述べた、「心」の本来の優れた能力を発揮するための努力をすることでもある。
 結果的には、「心」の本来の優れた能力を、理解し合い信頼し合い尊重し合えるようになるように、相応の努力をすることになる。


 誕生時には、言葉自体を知らない。
 言葉を知らないうちから、いろんなことを行うようになる。
「心を閉ざす」とはどういうことかや弊害なども知らないうちから、それに該当することも行うようになり、練習しているような状態にさえなったりするわけだが……。

 幼い頃ほど、生存上、保護者の理解や協力が必須だ。
 心を閉ざすと、保護者の理解や協力を得られなくなる。
 そんな性質上、自ら「心を開く」ことに該当することも行う。

 経験し学習し理解する性質上、詳しく知っていることは限られ、知っているが曖昧なことが多く、間違いもあり、勘違いもある。
 でも、悪意だとは限らないし、自覚すらできなかったことだったりもする。
 そういうことを自覚できる内は、自浄能力も発揮するし、反省もするので、自ら心を開きもする。

 見知ることはできない内面の気持ちや考えや記憶にあることを、伝え合い、複数で話し合うことによって、勘違いや考えの無理や矛盾などの修正もできたりもする。
 そうすること自体が、理解し合うことでもあり、協力し合うことでもあり、尊重し合うことにもなり、そういうことが可能であることを確認することもできる。
 必然的に、更に理解しようともするし、重視するようになる。

 そういうことが可能になる相手は、一般的には、かなり限られると言っても過言ではないわけだが……。
 個人的に、経験上の自分のことを理解する場合、相応の条件は、年々、整ってゆくだけに、随時、可能になることでもある。

 そういうことが可能になるように心の整理をすることが「心を開く」ことに該当することになる。
 よって、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を発揮できるようにする努力をすることでもある。


 そういうことを知らないがゆえに、いつのまにか心を閉ざし、その悪循環に陥っている場合は、悪循環に陥っていることなどのことを理解したり反省したり認め難かったことを認めることが必須になるが、それら自体が「心」の優れた能力を発揮できるように努力することにほかならない。

 いずれにしても、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を、理解するだけでも、発揮もしていることにもなる。
「心」の優れた能力を理解し合えば、「心」の優れた能力を信頼し合うことになり、「心」の優れた能力を尊重し合うしかなくなる、
 それが、「心」の優れた能力を発揮でき理解できた証でもあるわけだから。

 
 
 
 

◆「心眼」とは



 Web 検索でヒットする使われ方・テレビや日常で耳にする使われ方、それらでは多様で諸説ある。
 ここでは、私見として、「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力を、別の観点から捉えてみる。
 よって、同じ記事内に記載する。


「目には見えないことなのに、あたかも見えているかのように捉えることができているからこそ、相応の対処対応ができる」
 そう言うときの、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」その能力のことをここでは「心眼」と仮定する。
 すると、次のようなことが該当する。


 猫も、現在地からは見えない遠い所までも行くし、そこから家に帰っても来る。
 つまり、目的地は見えないのに、あたかも見えているかのように行動していることになる。
 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」
 よって、猫も「心眼」を発揮していると考えられる。

 また、猫も、小急ぎに行ったり、近道をしたり、駆け足で行ったりもする。
 このことからは、猫にも、相応の感情や気持ちや考えが有ると考えることもできる。
 となると、猫も「心眼」を発揮していることが、具体的になる。

 いずれも、もちろん目には見えない。
 が、人の側で、自分が感情や気持ちや考えに基づいて行動していることを参考にして、猫もそうしているんだと考えることもできるからにほかならない。
 このような、人が行っていることも、「心眼」だと考えられる。
 自分の内面だが、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」わけであり、相応の能力を発揮できているわけだから。

「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力も、まさに「心眼」を発揮できるからこそできることである。
「◆「心を閉ざす」とは」の項で述べたことでさえ、「心眼」を発揮できるからこそなのだが、残念ながら優れた能力は発揮できていないので、争いになったりするわけであり、勘違いや思い込みなどに基づく知能の誤用や悪用に該当する。

 つまり、猫も人も、「心眼」自体は日常的に発揮している。


 ただし、猫の場合は、「心眼を開いている」とは言わない。
 猫が、現在地からは見えない目的地を目指して「あたかも目に見えているかのように行動している」ことを、人も知らなかったりする。
 自分が、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことをも、知らなかったりする。
「心眼」と言う言葉自体を、知らなかったりもする。
「心眼」と言う言葉に聞き覚えはあっても、その意味を知りたいとは思わなかったりもする。
 このような場合も、「心眼を開いている」とも言わない。

 
 
 

◆「心眼を開く」とは



 私見としては、次のようなことになる。
「心眼」自体は猫でも発揮しているが、「心眼を開く」ことは誰でもできるわけではない。
 一気に開けることでもない。結果的に「心眼は開いてゆく」。
 また、段階的に開いてゆく。よって、段階的な違いもある。
 こんなことであることも分かるようになりつつ、具体的なことを知るほどに徐々に開かれてゆき顕著になってゆくのが「心眼が開く」特徴でもある。
 そういう性質上、「心眼が開く」とか「心眼は開いてゆく」などと言った方が適切だ。


 人は、過ぎ去った過去のことでも話題にすることができ、目の前に居ない人のことでも話題にすることができる。
 つまり、日常的に、目に見えないことでも話題にする。

 いつの時代に、どんな理由で、誰が使い始めた言葉なのかなどいったことは、知らなくても、「心眼」という言葉を耳にしたりする。

 不思議な能力や優れた能力に、興味があると、具体的なことを知ろうともする。

 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」その能力のことだ、ということくらいは、聞いたことがあったり、記憶に残っていたりもする。

 日常的に、そんな記憶を参考にして、識別したり考えたり判断したりしている。
 そうしていること自体も、目には見えない。
 が、識別したり考えたり判断したりしている性質上、そのことをむしろ重視している。「◆そもそも「心」とは(本来は)」の項で述べた「心」の優れた能力も、まさにそうだ。
 よって、目には見えないことにも、気づく。


 猫も、現在地からは見えない遠い所までも行くし、そこから家に帰っても来る。そんなことにも気づく。
 つまり、目的地は見えないのに、あたかも見えているかのように行動していることになる。そんなことにも気づく。
 ということは、猫も「心眼」を発揮しているのではないか。などと思ったりもする。
 この「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことに気づく。このことが、「心眼を開く」最初の段階だと考えられる。
 つまり、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことに気づく。よって、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということを、識別したり自覚したり判断したりすることが容易になる。
 これが、「心眼を開く」最初の段階だと考えられる。



 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということを、識別したり自覚したり判断したりすることができるようになると、気づいた程度では不確かなので、類似したことが気になる。優れた能力でもあり、せっかく気づいたことが間違いないかを確かめたりもする。

 猫も、小急ぎに行ったり、近道をしたり、駆け足で行ったりもする。
 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」。
 やっぱり、猫も「心眼」を発揮している。

 そうだとしても、猫の、記憶も、記憶を参考にしていることも、内面的なことなので、他者は見知ることはできない。
 見知ることができないのに、そう思うのは、自分が記憶に残っていることを参考にして識別や思考や予想などをしていて、それを猫に投影するようにして考えるからだ。

 でも、自分が記憶に残っていることを参考にして識別や思考や予想などをしていることも、見知ることはできない。
 が、人(自分)は、会ったことが無い場合は、相応の記憶も無いからこそ、会ったことが無いと判断する。
 つまり、以前に会った時のことが記憶に有って、それを思い出すことができた場合は、以前に会ったことがあると判断することもできる。
 内面は、五感で捉えることはできない。なのに、「知らない」とか「記憶に無い」とか「知っている」とか「記憶に残っている」などとも言う。
 つまり、記憶内を検索しているようなものだ。

 そんな、自分が、内面に基づいて行動していることを参考にして、猫もそうなんだと考えているのだ。

 むしろ、自分も、日常的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」からだ。
 こうして、自分が心眼を発揮できていることを捉えることができるようになることによって、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということが記憶に残り、何時でも自覚できるようになる。
 ここから、本格的に「心眼が開いてゆく」。

 あくまでも、気づき、具体的なことを知るほどに、その本人の「心眼が開いてゆく」わけだから。

 つまり、気づいた程度では不確かなので、類似したことが気になったり、せっかく気づいたことが間違いないかを確かめたりもする。
 そうするほどに、裏付けになる具体的なことを知ることになり、その具体的な事実に裏付けられて、より具体的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」んだということを、記憶に有ることを参考に何時でも自覚できるようになる。
 よって、更に「心眼が開いてゆく」ことになる。


 内面の気持ちや考えや記憶にあることなども、目で見ることはできない。
 でも、過ぎ去ってしまった過去のことでも、話題にする。
 目の前にはいない人のことでも、話題にする。
 会話中の文法や意味や理由なども、見ることはできない。
 つまり、対環境的な五感では捉えることができないことでも、思考上では記憶を整理して理解することもでき、相応の振る舞いもできる。なので、あたかも見えているかのように、話し合うこともできるし、認否や可否や是非などの判断まで行う。

 まさに、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」からこそできることだ。
 そんな具体的な事実を裏付けや参考にするほど、目には見えないことを識別したり自覚したり判断したりすることができるようになる。
 よって、「心眼が開く」とは、このことだろう。と自分で判断できるようになる。

 つまり、「心眼を開く」とは、私見では次のようなことだと言える。
 自分も、日常的に、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができている」ことを、裏付ける事実を基に具体的な理解し納得すること。


 長々と書いたが、猫でも発揮していて、自分も日常的に発揮していたことを、相応の事実を基に具体的に理解したに過ぎない。
 つまり、「心眼が開く」こと自体は、大したことではない。
 確かにそうなのだが、ここまで「心眼が開く」と、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができる」世界が広がる一方だ。こっちの方こそが重要で、「心眼が開いた」からこそ可能になることであり、「心眼が開いた」証とも言える。
 もちろん、精神面が一転する。
 つまり、いつのまに勘違いや思い込みが多くなったが、やっと本来の精神状態に戻ったのだ。とも言える。

「心眼が開いた」からこそ可能になった……、やっと本来の精神状態に戻ったことによって可能になったことに関しては、他の項や、他の記事に反映されているので省略するが……。

 目に見えることを捉えることよりも、その背景にあって行動や結果を左右している中枢でもある気持ちや考えなどの目に見えないことの方が重要だ。ということも、明確に捉えることができるようになる。

 対環境的な五感で捉えることができることに気を取られがちで、五感で捉えることができないが、思考上では理解できる因果関係や理由や法則などは理解しそびれていた。
 しかも、五感で捉えることができず、思考上で理解するしかないことの方が、生存上でも重要だ。などということも、捉えることが可能になる。

 対環境的な五感では捉えることよりも、思考上で理解することの方が高度な能力を発揮することでもある。などということも、捉えることが可能になる。

 でも、生後に習得したことを以ては、日常生活もままならなかったり、健康管理もままならなかったり、老化は止められるはずもなく、医者でさえ死を余儀なくされる。


 日常的に発揮していた「心眼」に関しても、気づくことさえできなかったんだから。
 でも、目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができる」ことを、相応の裏付けを以て具体的に理解することができた。
 目には見えないことなのに、「あたかも見えているかのように捉えることができる」その性質上でも、そのことを具体的に理解できた性質上でも、それが段階的に顕著になった性質上でも、「心眼が開く」ことに優ることや優る能力などが存在するであろうことは否定できない。
 知らなかったことを憶えることができる性質上でも、自分の未知の領域には、「心眼が開く」ことに優ることも存在するに違いない。

 
 
 

◆「心眼を閉ざす」とは



「心眼を閉ざす」という言い方は、あまり耳にしないが……。

 まず、日常的に心眼を発揮するようになる。よって、閉ざされることも無い。

 でも、「心眼を開く」ことが難しくなることはある。

 そもそも、日常的に心眼を発揮するようになり、その後に気づくことになる。
 そういう性質上、気づく以前に、気づき難くなるようなことや理解し難くなるようなことをしてしまったりもするからだ。

 そもそも、内面的なことだけに、最も具体的に理解できるのは、自分の経験を基にした場合だ。
 そういう性質上、心を閉ざすほど、理解することが困難になる。

 日常的に心眼を発揮しているにもかかわらず、そうであることを未理解なうちに、相応の勘違いや思い込みなどが先行しても、もともと心眼を発揮していることを理解し難くなる。

「心眼が開いた」場合は、次のようなことも見抜けるようになる。
 目に見えることを以て、尤もらしく見せかけ、本当らしく工作し、優れたことであるかのように祭り上げるのは、人が勘違いし思い込む性質を悪用して、私利私欲を貪ることに他ならない。
 ところが、これを見抜けないと、むしろ、そんなものに目を奪われ、勘違いし思い込み、心まで奪われてしまうと翻弄される。つまり、翻弄されていること自体に気づけなくなる。
 気づくことができたとしても、認め難い状態に至っていたりする。
 認め難いことは、具体的なことを理解できるはずもない。
 もちろん、もともと目には見えないことで、思考上で理解するしかないことや、むしろ重要なことを、見失っていることになる。

 

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Author:kisuke(喜助)
 生きていることを尊重し、思考力や理解力を信頼し、それらを理解し合えればいいのだが……
 むしろ、懐疑や不信感に囚われ、不都合なことは避け、言い訳もし、隠し偽りもし、強情を張り、相殺し開き直り、自分でも認め難いことをする。
 尤もらしく見せかけもし、本当らしく工作し、優れたことであるかのように競い争い、私利私欲を貪り砦に籠り、理解し合うことを困難にしている。
 
 投稿は毎月2回(ノルマ)です。

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